第32話

 カーゴ船は減速を続け、月の周回軌道上に入った。


 各国合わせて千人近い人口を有するようになったとはいえ、月面の殆どは未だ未開の荒野だった。高度数万メートル上空を飛んでいても人工物はまるで見あたらず、ただただ灰色の砂と岩、それに〈海〉と呼ばれる玄武岩が広がっている地帯があるだけだった。


 各国の基地は、全て北極近くにある。その一帯は地軸の傾きの影響で一年中日が落ちず、太陽光発電が主なエネルギー源である基地にとって都合がいいのだ。また逆に付近のクレーターの底は常に日が当たらないため、水が氷の形で蒸発せずに残っている。


 太陽光と水。これは基地にとって欠かすことの出来ない重要な資源だ。この二つが比較的容易に得られる北極付近が月面開発の中心地となったのは、必然のことである。


 私たちは着席の指示を受けていたが、しばらくしてパイロットの一人が振り返り、皆に正面を指さして見せた。


「見えてきました。あれがかぐや基地です」


 私たちは一様に首を伸ばしたが、目前には灰色の平原が何処までも続き、建築物のようなものは何処にも見あたらない。だが間もなく小高い丘が見えてきたかと思うと、その付近は綺麗に整地されていて、離陸用のカタパルトとおぼしきもの、通信用のアンテナらしきものが見え始めた。


 基地の大部分は地下に造られるか、あるいは構造物の上に土が厚く積まれていた。地球上ではオゾンホールなどで問題になっている宇宙線。大気のない月では地球上の何十倍もの宇宙線が降り注いでいるため、それを少しでも和らげるため、土を緩衝材として用いているのだ。


 カキン、カキンという音が船外から響き、ランチボックスはアメリカのカーゴ船から切り離される。慌ただしくパイロットの二人が英語で何かの通信を行い終えると、ランチボックスはゆっくりと降下を始める。頭上をカーゴ船は飛び去っていき、かぐや基地にほど近いアームストロング基地に向かっていった。それを見送ってから、断続的なアクチュエーターの噴射を行い、整地された月面へと静かに着地する。途端に体に重さが戻っているのがわかる。それでも地球上の、僅か六分の一。パチンパチンとパイロットが幾つかのスイッチを入れている間に、かぐや基地の大きなシャッターが開き、牽引用の車両が姿を現した。


 ひょっとして克也だろうか、とも思ったりもしたが、鏡面加工された宇宙服の外からでは、車両を操る人物の顔は伺えない。そのまま待機すること十分ほど後、ランチボックスはゆっくりと格納庫らしきシャッターの奥へと引っ張り込まれていった。


 二重の隔壁が閉じる。間もなく加圧が完了すると、正面の扉が重い音を立てて開いた。次々と現れる技師らしい人々。彼らはすぐさまランチボックスに取り付いて、機体の確認や荷卸しを始めた。


 パイロットに促され、私たちも機体から降りた。六分の一とはいえ重力は確かに存在していて、少しでも力を入れると宙に浮かび上がる。


 技師たちの陰に隠れるようにして、数人の人物が私たちを待ち受けていた。一番に目に付いたのは、一足先にやってきていたテツジだった。彼は相変わらずの無精髭に、手垢の付きまくった眼鏡をしている。だがそれ以外は比較的元気なようで、私たちに向かって軽く手を挙げて見せた。


「おう。お疲れ」


「おう」岡も素っ気ない挨拶をして、辺りを見渡す。「克也さんは?」


「仕事してるわ。とりあえず部屋に行くべ」と、顔を荷卸しをしている技師たちに向ける。「やっさん! ウチの荷物とかウサギとか、多目的モジュールAに頼んますわ!」


「なに? 自分らで運べって!」


「頼んますわ! 昨日そっち手伝ったでしょ!」


 彼は随分基地に馴染んでいるらしく、そう技師たちにウサギたちの移送を頼んでから、先に立って隔壁の奥に向かう。途中で所長に挨拶に行くという羽場と別れ、私たちはロッカーで宇宙服から作業着に着替えてから居住区画に向かった。


「ここ、オレらの部屋な。ゴッシーは少し離れたとこだわ」


 そう通された部屋は、想像していた以上に悪くなかった。広さは四畳半ほど、ベッドの他に机があり、以上で足の踏み場がなくなる。それでも普段暮らしている高専寮と大差ない大きさなのだから、つくづく苦労はしておく物だと思う。


「でもよ、ずりーよな、女子だけ個室なんて」


 テツジが中を覗き込みながら、口を尖らせる。


「あれ、皆さんは?」


「オレら三人は、相変わらずタコ部屋。とりあえず軽く一服してよ、三十分くらいしたらオレらの部屋に来てくれや。色々説明しなきゃなんねぇことあるし」


 ガチャン、と与圧機能のある重い扉は閉じる。独りになった私は、とりあえず鞄を机の上に置き、ベッドや机の備品を確かめ、金属が剥き出しの壁を叩いてみる。かなりの厚みがあるらしく、ペチンという堅い音しかしない。続けて潜水艦に付いているような円い窓に手をかけたが、テツジの言葉を思い出し、下手に開けるのは止めておいた。以前にも克也が開いて見せたことがあったが、宇宙線対策で何か決まり事があるようなことを云っていた。仕方がなく、ベッドに仰向けに倒れ込む。いや、倒れ込む、というのは、ここじゃあ使えない表現だな、と思いながら。


 確かに倒れ込むのには違いない。だが自分の体が妙に軽く、なんだか落ち着かないのだ。そこで訓練の内容を思い出して、再びベッドの備品を探る。身体を固定するための伸縮バンドだ。布団はビニールのような肌触りで、まるで寝心地は良くなさそうだった。それでも身体を潜り込ませてバンドで止めると、一度に睡魔が襲ってくる。打ち上げ時の負荷はだいぶ身体を疲労させていたようで、私はあっという間に眠りに落ちていた。

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