第31話
私たちのランチボックスは、衛星軌道上でアメリカのカーゴ船にドッキングした。それは足の沢山付いた蟹のような形状をしていて、その長い足で長方形のランチボックスを固定する。間もなくカーゴ船のエンジンが点火され、スイングバイ(地球の重力を利用した加速)を行いながら、次第に月に向けて進路を向けた。
船内はカーゴ船から僅かに振動音が伝わってくるだけで、殆ど無音だった。私は最初、もっと外の様子を眺めようと首を伸ばしていたが、すぐにここから月まで一日近くかかることを思い出して、早々にシートに腰を落ち着け、瞳を閉じた。アポロ時代よりは軽くなっているとはいえ、やはりろくに運動していない身には大気圏脱出の疲労は大きかった。すぐに身体中が怠くなってきて、意識を失った。
どれくらい眠っていたのだろうか、目を覚ますと、私の目の前に食事のパックが浮かんでいた。既に規制は解除されているらしく、脇の通路を鳥取が漂っていく。私は慌ててヘルメットのロックを外し、ガチガチに固定されていたベルトを緩めていった。
「お、起きた。ちょ、ゴッシー、見て見て」
ぼそぼそと小声で殿下と話していた岡が顔を上げ、四肢を縮めて狭いキャビンの中で一回転してみせる。殿下は例によってため息を吐いて、片眉を釣り上げながら云う。
「器用なのはわかるが、子供じゃないんだ。大人しくしていろ」
私も急に無重力が体感出来た。ベルトを外した勢いで身体が宙に浮き、低い天井に頭をぶつけてしまう。急いで殿下は私の腕を取って、通路側に引っ張り出した。
「あ、どうも。すいません」
「すぐに慣れる」
それでも自分の体重がないというのは、なんとも奇妙な感覚だった。どうにも落ち着かなくて、すぐに椅子の背に身を寄せる。
「ウサギたちは?」
「さっき確認してきたが。行くか?」
頷くと、彼は軽く弾みを付けて、後部にある貨物室の扉に向かって漂っていく。私も同じように椅子の背を引いて身体を前に押し出したが、微妙に回転がついてしまい、再び天井に頭をぶつけた。
「何をしてる。意外と鈍いんだな」
またしても殿下に腕を引っ張られ、姿勢を直す。
「運動が得意だなんて、一度も云ったことないですよ」
「そうは見えなかったがな」
「良く、云われます」
篭は全て固定された位置から動いていなかった。出発前に全ての篭にはクッションが詰められ、五キロ前後の体重のウサギたちは半ば埋もれるようにしていたが、今ではその大半が取り除かれていた。
「あれ? 殿下と岡さんが?」頷く殿下。私は今度は気を付けて篭に向かって漂いながら云った。「声をかけてくれればよかったのに」
「良く寝ていたからな」
「何時間くらい?」
「そうだな。かれこれ五時間ほどだ」
寝すぎだ。
それでも私はため息を吐くのを寸前で思いとどまって、篭の一つを覗き込む。運搬用の篭は大部分が塞がれていて、小さな覗き窓しか付いていない。
それは一番年長者であるドナドナの篭だった。彼女の六キロ超の大きな体は、まるで今までに見たことのないような姿勢で宙を漂っている。四肢を縮め、頭を丸め、まるで真っ白なマリモが湖面に浮いているようだった。
「殿下。大丈夫です? 生きてます?」
「あぁ、特に異常は見られない。先ほどまでは餌を食べようと四苦八苦していたようだが、今は大半が寝ている」
「意外と、順応性があるんですね」
「でなければ、生命は生き残れないからな」
「なんか、深い台詞ですね」
「そうか?」
私たちがキャビンに戻ろうと漂っていくと、不意に扉が開いて頭をぶつけそうになった。現れたのは岡と羽場で、両手に食事のパックを抱えている。彼らは厭そうな表情で背後を指し示し、大きく頭を振って、私と殿下を貨物室に押し戻した。
「どうしたんです?」
尋ねると、二人そろって大きくため息を吐く。
「なんか息苦しいんだよ、あっち」と、岡。
「そうそう。総研チームはムスっとしてるしさ、なんかウチらが邪魔みたいな感じでヒソヒソ話してるし。こっちに居よ」
羽場は云いながら壁を伝って、積み荷の一つに足を絡ませてパックにストローを突き刺した。
無重力空間というのは、食事をするに全然落ち着かなかった。床に広げる訳にもいかないし、円座を組むことすら出来ない。ともかく各自好きなように落ち着く場所に陣取って、無重力の感想や総研チームの悪口などを話し続ける。そのうち岡と羽場がクルクルと回って遊び始めたが、私はどうにも気だるさが抜けず、すぐに再び眠りに落ちていた。
次に目を覚ましたのは、身体が何かに押しつけられているのを感じてからだった。辺りを見渡すと、三人はそれぞれ好きな格好で眠りについている。私は僅かに重力が戻っているのを感じて、それでもすぐに浮きそうになる身体に気を付けながらキャビンに向かった。
総研チームも全員眠っているようで、室内はほぼ無音だった。私は椅子の背で弾みを付けながら最前列に向かい、続きになっているコックピットを覗き込む。
「あれ、地球に?」
思わず、声に出して尋ねた。正面のガラスには、月ではなく地球が映し出されているのだ。
パイロットの一人が顔を上げて、笑みを浮かべる。
「減速体勢に入ってるんだよ。つまり今は後ろ向きに飛んでる」
へぇ、と声を上げて、本物の宇宙船の操作卓をしげしげと覗き込む。彼は少し苦笑して、私が見やすいように身を寄せてくれた。
「あ、すいません」
「いえいえ」そして私の顔を珍しそうに眺めた。「あの、この計画って、ホントに皆さんが考えたんで?」どういう意味だろう、と首を傾げる私に、彼は気まずそうに頭を掻いた。「あ、別に疑ってる訳じゃないんですけど。実際、どうなのかな、って。ほら、月面基地の滞在員に選ばれるのは、今でも狭き門だし」
私はようやく彼の云わんとしていることに気が付いて、内心ムッとした。
「それは、公団の皆さんに沢山お手伝いいただきましたけど。基本的には、私たちの発案です」
「へぇ。本当に?」顔を上げたもう一人のパイロットと、皮肉な笑みを交わした。「でも確か、キミらの指導教官、あの時田先生なんでしょう? あの先生は公団と親密だから、キミらは予め、上の方から提案を依頼されたのかなって。先生の遺志を継いだキミたちが月に行くとなったら、公団の宣伝効果も抜群だし」
「それで?」
無表情に問い返した私。彼らは戸惑ったように、曖昧な笑みを浮かべるだけだった。
私が貨物室に戻ると、入り口のすぐ脇に羽場が待ち受けていた。彼は私の肩を押さえると、未だ眠り込んでる岡と殿下に聞こえないよう、小声で云った。
「彼らに関わっちゃ駄目だ」
「聞いてたんですか?」
「あぁ」そう、彼は小さく舌を打つ。「学歴とか、派閥とかに囚われてる連中さ。気にすることはないよ」
「基地にも、あぁいうタイプの人が多いんですか?」
「さぁ、どうだろう。でもキミらの選出を快く思ってない連中がいるのは確かさ。でも、大丈夫。キミらはちゃんと義務を果たしてるし、ボクがキミらを守るからね。心配しなくていいよ」
それはあまり期待できないな、と思いながらも、私は思わず吐きそうになったため息を無理に飲み込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます