第30話

 私たちが宇宙服を身につける間、羽場はずっとカメラを回していた。


「何か一言! ない?」


 一足早く身につけた岡から、順にカメラが寄っていく。


「これは小さな一歩だが、高専生にとっては大きな一歩になるだろう」


 ピースサインを残して離れる彼に続いて、殿下。


「特にない」


 レンズを向けられた私は、落ち着きの悪いヘルメットに四苦八苦しながら云った。


「行ってきます」


 最後に羽場は、自分自身にカメラを向けた。


「月面。それは最後のフロンティア。これは月面基地〈かぐや〉の滞在員たちが、十三匹の月面ウサギと共に、21世紀において任務を続行し、未知の世界を探索して 新しい生命と文明を求め、人類未到の月面を勇敢に開拓した物語である。以上、プロローグ終了!」


 私たちの旅立ちは、事実だけを見れば、それほど大ニュースという訳ではなかった。増築された月面基地には、既に六十名近い人員が送り込まれている。残り四十名は墜落事故の影響で人員の選抜に時間がかかっていたが、それも程なく終了し、当面は打ち上げラッシュが続くこととなっている。


 それでも、羽場の果敢な広報活動に乗せられた複数のマスコミが取材にやってきていて、私たちはフラッシュの列に見送られながら、打ち上げ台へ向かうシャトルバスに乗り込んだ。


 この地方は本土に先駆けて梅雨が明けていて、既に天気の心配はなくなっていた。バスから降りると強い日差しが襲ってきて、すぐに密閉された宇宙服の中が蒸れてくる。振り返ると並のビルよりも巨大なロケットが、高台の草原の真ん中にそびえ立っていた。


「いやぁ、やっぱりでかいなぁ」


 続いてバスから降りたった総研チームの鳥取が、例のぼんやりした調子で云う。勝田さんはいつもの厳しい表情のまま、彼の脇をつついて打ち上げ台へ促した。


 私たち高専チーム四人と同行するのは、総研チームの勝田、鳥取。彼らの世話役の佐治。そして正副二名のパイロット、計九名だった。基本的に打ち上げに関わる操縦の全てはパイロットの仕事で、私たちも一通りの手続きを叩き込まれたとはいえ、実際にすることといえば椅子に静かに座っていることくらいだ。


 発射台に備え付けられたエレベータで頂上付近まで登り、そこからランチボックスの納められたコーン部分に乗り込む。垂直に設置された椅子に梯子を伝って座ると、先に乗り込んでいたパイロットがやってきて、ベルトの調子などを確かめていく。それらの手続きは既に何度も繰り返されているらしく、二人のパイロットに緊張はまるで見られなかった。


 彼らは佐治の脇は重々しく頭を下げて通り過ぎ、続いて羽場の前では驚きに目を見張った。


「あれ? 羽場?」


 羽場は途端に厭そうな表情を浮かべ、虫でも追い払うように手を振る。


「いいじゃないか、ボクが月に行ったって」


 パイロットはニヤニヤと笑みを浮かべながら、彼の肩を叩く。


「自分の設計した次世代ランチボックスで行くんだ、って息巻いてたのに」


「仕方がないだろ? 予算が下りなかったんだからさ!」


「予算だけの問題かねぇ」


 嘲りに似た言葉を残して、先端のコックピットに向かっていく。羽場は珍しく憮然とした表情で、顔面部分のバイザーを閉じてしまった。


 それきり、客室側は静まりかえった。窓のようなものは何処にもなく、船内の明かりは薄い蛍光灯、そして忙しなく瞬く幾つもの小さなダイオードだけ。


 遙か遠くからは、様々な機械が動く低い振動音が響いてくる。時折コックピット側からは、管制室との会話が聞こえてきた。


「ご搭乗の皆さん」と、パイロットの一人が肩越しに振り向いた。「打ち上げに向けたカウントダウンは、正常に続行中です。あと一時間ほど、ですね。退屈でしょうが、機内サービス等は行っていませんので」


 笑いを狙ったらしいが、僅かに鳥取が鼻で笑っただけだった。彼は気まずそうに咳払いして、正面のパネルに向き直った。


「指示があるまで、ご歓談はご自由に。それでは」


 普段ならば、こういう時に真っ先に声を上げるのは羽場だったろう。だが彼はまるで眠っているかのように身動き一つせず、鏡面加工されたバイザーのおかげで表情も読みとれない。私は居心地の悪さに小さく咳払いして、隣に座る殿下に話しかけた。


「ウサギたち、大丈夫でしょうか」


 彼は閉じかけていた瞳を薄く開く。眼鏡のない彼は少し新鮮だったが、視界の悪さの所為か、眉間の皺がいつも以上に深くなっていた。


「まぁ、心配したところで仕方がない。十三匹のうち、つがいの一組でも残れば、何とかなる計算ではあるからな」


「そういえば、何故十三匹なんです? 一匹余るでしょう?」


 尋ねたのは、殿下の更に隣に座る鳥取だった。殿下は警戒心からか、仏頂面をして答えない。仕方がなく、私が身を乗り出した。


「六匹は一才で。繁殖用なんですが。六匹は生後半年で。一匹は一才半で。調査用で」


「調査用?」


「低重力下で、この種のウサギが、どれくらい大きく育つのかわからないんです。生後半年から一年が成長期なので」


「そう、それはこちらも気にはなってるんですよね。低重力下では、重力の束縛がない分、成長が促進し、老化が遅くなるという研究結果もありますし」


 そこで彼の後ろに座る勝田さんが、大きく咳払いした。途端に鳥取は硬直し、気まずそうに笑みを浮かべ、視線を膝の上に落としてしまった。


 私は誰かと暇つぶしをするという努力は諦めて、仕方なく自分自身と向き合った。それでもここのところ、考え事をするとろくな考えが浮かんでこない。総研チームの露骨な秘密主義のこと。毒ガス戦争の先行きのこと。そして、楓と、桜庭と、新人賞のこと。


 結局桜庭が送ったであろう作品が、どの程度の評価を得たのか私は知らない。彼のペンネームは知らないし、そもそも楓の名前を探しただけで、それ以上細かい部分までは調べていない。あれから編集部からは羽場を介して何度か接触があったが、私はことごとく無視を決め込んでいた。結局私の名前を冠していない投稿作品は一顧だにされなかったのだから、彼らにとっての私の価値は、ただ知名度のみだったということなのだから。


 そういった作品内容よりも話題性重視な彼らのやり方が気に入らなかったが、それより何より、たった一つの問いが、ずっと私の頭を悩まし続けていた。


 一体、あの原稿の、何処がいけなかったのだろう、と。


 それは確かに、最初に送った原稿と違い、楓の名前で送った原稿は桜庭の意見を広く取り入れていたし、彼の手も少し入っている。それでも基本的に私の作風から大きく離れている訳ではないし、急いで仕上げたからと云って品質が劣っていた訳ではない。


 一体、あれの何処が。


 それを考え始めると、すぐに頭が混乱してくる。


「五分前です。皆さん、宇宙服の生命維持機能をオンにして、バイザーを閉じてください」


 ほら、これだ。ほんの五分くらいのつもりだったのに、新人賞のことを考えていると、すぐに頭が駆け足になる。


 私はパイロットに指示されたように、バイザーを閉じて胸の位置にあるスイッチを入れる。そして訓練で教わったようにベルトの状態を確認してから、シートの脇から突き出ている姿勢維持用のハンドグリップを堅く握る。


 頭の中で、三百からのカウントダウン。


「内部電源への切り替え完了」


「第一段燃料系、準備完了」


「第二段酸素、水素燃料系、準備完了」


 それが百になった時、パイロットが「一分前。トーチ点火、ウォーターウォール展開」と声を上げた。


 数字を六十にリセット。宇宙服のヘルメットで完全に密閉された今、聞こえてくるのは無線機からの無機質な声だけになっていた。若い女の声が、黙々とカウントダウンを続ける。管制室から手順通りの短い指示が幾つか飛び、答えるパイロットの声も、抑揚がなくなっていた。


「10」


「全システム正常、準備完了」


 私は声には出さず、唇だけでカウントダウンを追っていく。数字が一桁になると急に心臓が激しく高鳴り始め、私はレバーをきつく握りなおした。


「5」


「メインエンジンスタート」


 途端に激しい震動が襲ってきて、身体が投げ出されそうになる。轟音はシートを伝ってヘルメットの中を揺さぶり、イヤホンからの声は掻き消えそうになっていた。


「1」


「0」


「ロケットブースター点火、リフトオフ」


「1、2、3、4、5」


「エンジン正常に燃焼中」


「6、7、8、9」


「補助ロケット第一ペア点火」


 まるで宙を浮いているという実感はなかった。それはそうだ、周囲は薄暗いままで、まるで風景に変化はない。ただただ、激しい振動、それに身体が物凄い力でシートに押さえつけられ、まるで息が出来なかった。次第に腕が痺れてきて、グリップから手をベルトに移す。


「19、20」


「補助ロケット第二ペア点火」


 胸を押す圧力は弱まるどころか、強くなる一方だった。訓練であった回転マシーンなど比較にならない。とても周囲を観察している余裕などなく、吐き気を堪えながら瞼をきつく閉じる。そして一刻でも早くこの苦痛が過ぎ去るよう、頭の中で数字を唱え続けた。それが九十に達する頃、不意に身体が軽くなり、がくんと圧力が弱まった。


「ロケットブースター分離」


 それでも、苦しいのには変わりがなかった。一番推力のある第一段エンジンは五分間燃焼を続ける。五分といえば丁度煙草一本分程度の時間だが、それが今では永遠とも思えるほどの長さに感じる。


 まったく、どうして私は、こんなところで、こんな苦しい目に遭ってるんだろう。


 でも、これでは得意のため息を吐くことも出来ないし、癇癪を起こして叫んだって、誰の気分を害することも出来ない。いわば私は運命の囚われ人で、このまま転がる石のように、意志を持たず、転がされていくしかないのか。


 いや、でも。私って元々、こんな人間だったろうか?


 不意に私は我に返った気がして、ぱっと瞳を見開いた。


 そうだ。ここのところ、する事為す事、まるで現実感がなかった。私は単なる漫画を描くのが好きな女子高生だった。ほんの、二、三年前までだ。それがふとしたことで高専のパンフを見てしまい、他の大多数の人とは異なった方向に進んでしまった。同人誌活動が好調になり、普通なら誰でもするようなバイトやコンパも、まるで経験していない。そして更に偶然が重なり、卒業が危うくなり、宇宙開発に関わるようになってしまい、一端の知識人まがいの講演やインタビューをさせられ。仲間と云えば、ロッカー、謎の王子、町工場の跡を継ぐのが厭で、月面まで逃げるような男。彼らより大切だったはずの親友には男が出来て、私は訳の分からない焦燥感に包まれて。


 でもそれは、全部自分の一部なのには違いないのだ。


 高専を選んだのも自分だし、公募への、新人賞への応募を言い出したのも自分。出版社から逃げ出すことを選んだのも自分だし、こうして今、ここにいるのは、自分の選択の結果。


 私は今、どうしてこんなところで、こんなことをしているんだろう。


 そう、答えは簡単。


 私は、私の運命を受け入れる心構えが出来ていなかったのだ。


 その場の発想で、思いつきだけで行動する。その時は最善の策とは思いながらも、どこか甘えがあった。だから後悔したり、ため息を吐いたり、癇癪を起こしたりする。私が信頼していたのは私が勝手に自分の中に作り上げていた楓であって、彼女自身ではなかった。結局昨日の昨日まで煙草を止められなかったのは、思い通りにならない世の中を全部他人の所為にして、自分の選択の誤りを認める気になれなかったから。


 そう、私は私自身が、どれほど受容性に欠けていたか、まるでわかっていなかった。ちょっと同人誌が売れたからといって天狗になり、私が絶対無二の正しい判断の出来る人間だと思いこんでいた。


 そんな訳、ないじゃないか。


 不意に何もかも馬鹿らしくなって、強烈な加速度に顔を歪ませながらも、笑い声をこぼす。


 その時急に加速が止まり、完全な静寂が訪れた。


 背中の方から一瞬だけ小さな振動が響いてきて、耳鳴りが頭の中で木霊し始める。


「第二段分離。フェアリング分離」


 ぱっ、と目の前が開ける。


 その瞬間、身体中に鳥肌が立った。


 これほどの満天の星空は、プラネタリウムでも見たことがない。


 コックピットの向こうは、それこそ数えることの出来ないほどの星々が、暗闇の中で瞬いていた。

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