第25話

 もう死にそうだった。とにかく部屋に戻って着替えをして、すぐさま風呂に直行、続けてマッサージ椅子に倒れ込む。すぐに睡魔に襲われるが、そう寝てばかりもいられない。僅かに残った気力を振り絞って携帯を取り出し、殿下に連絡を入れる。テツジがちゃんと働いているか心配だったのだ。


 しかし開口一番、殿下は例の冷たい口調で言い放つ。


「余計な心配はしなくていい。それより、ゆっくりと風呂に入って、良くマッサージをしてから寝ることだな」


「そうは云いますけど。心配なのは心配で」そこでふと、首を傾げる。「そういえば殿下もテツジくんも、全然文句云ってませんでしたけど。メニュー違うんですかね?」


「かなり私たちの受けた内容とは違うようだな。だいたい私どころか、テツジすら筋肉痛になるような要素はなかった」


 それはそうだ、もしテツジが同じ授業を受けていたなら、三日目を待たずに逃げ出していたに違いない。


 とりあえずテツジを甘やかすなとキツく釘を刺してから、通話を切ってマッサージ椅子に倒れ込む。すると視界に鳥取の姿が入ってきて、私の心臓は大きく跳ね上がった。


「あの、こんばんは」一昨日ペアを組んでいた彼は、例の常に困惑したような表情を浮かべて立ちすくんでいる。「あ、すいません、びっくりさせて」


 そうしどろもどろになりながら云う彼に、私は少し苛立ちながらも、無理に笑みを浮かべた。


「いえ、別に。使います?」


 私が重い腰を浮かせながら云うと、鳥取青年は大慌てで両手を突き出した。


「いや、ボクはそんなつもりじゃぁ。ただテレビでも観ようかと思って」


 そこまで必死に否定しなくとも。


 半ば呆れながら、椅子に背を戻す。彼は転がっていたリモコンを手にとって、陳腐な連続ドラマにチャンネルを合わせた。


 未だに戦争の特番状態は続いていて、画面の隅には国際情勢が刻々と流れてくる。襲撃、陥落、難民、声明。


「五所川原さん、何がいいです?」


 不意に問われ、自分が爪を噛んでいたことに気づいた。顔を上げると鳥取が自販機の前に立って、飲み物を選んでいる。


「あ、いいですよ別に」


「いえ。一昨日は凄い迷惑かけましたから。お詫びに」


 そう云われると、奢ってもらおうかという気になってくる。鳥取の不器用さというか、どん臭さは、とても高専の男子たちでは考えられないようなものだった。岡や殿下、それにテツジにしたって、留め金の付け方くらいは、形を一目見れば直ぐに理解できる。それが彼の場合、全くといっていいほど出来ないのだ。更にはスパナの使い方も知らないし、たとえば四隅にあるネジは対角線の順に締めていかなければならないといった、工作の基礎すら知らない。


「じゃあ、珈琲を。あ、ブラックで」


 彼は私に紙カップを手渡して、すぐ隣のソファーに座り直した。


「さっき電話してたの、残りのメンバーの方です?」


「あぁ、まぁ、えぇ」


 曖昧に答えると、彼は疲れたように大きくため息を吐いた。


「大変ですよねぇ、お互いに。ボクは学生の頃は、ずっと一人で研究してて。誰かと協力して仕事しなきゃならないようなことなんて、なかったもんだから。未だにどう動いていいか、わからないことばっかりで」


「確かに、グループで作業しなきゃならないと、足を引っ張ったり引っ張られたり」


「えぇ! ボクは昔から運動って苦手で、バスケとか団体競技は嫌いなんです。必ず邪魔になるから。佐治さんもね。あぁいう体育会系の人、あんまり好きになれません。羽場さんは楽しそうでいいですね。佐治さんは何をするにも軍隊式で」


「まぁ、あの人はあの人で問題ありますけどね」


 心の底から云った私に、彼は哄笑して片手をひらひらと振った。


「確かに五月蠅そうだ。でも仕方がないですよね。与えられた場所で、出来ることをやらないと」


 何か、含みのある言葉。私は僅かに思案して、彼に尋ねた。


「嫌々なんですか? この計画」


 彼は少し呆気にとられた風だった。


「いやぁ、嫌々って程でもないですけど。仕方ないですよね。仕事ですよ、仕事。ボクにしても、勝田さんにしてもそう。会社に認めてもらうためには、仕事をしなきゃならない。それがたまたま、これだったというだけです。だってそうでしょう? ボクらが月に監禁されてる間に、地球じゃいろいろな事が勝手に進んでいく。何があるかわからないじゃないですか」


「出世争いから置いていかれるんじゃないか、とか?」


「まぁ、それもありますし。残していくものもありますしね」


「彼女さんとか?」


「まぁ、それもあります。でも、誰だってそうなんじゃないですか? 彼らだって」と、不意に画面の隅に流れ出した戦争のニュースを指し示した。「彼らだって、好きで戦争してる訳じゃないでしょう。色々事情があって、仕方なくやってる。好きなことだけして生きていける訳がないんです。五所川原さんだって、一年も監禁されるのは嫌でしょう? だいたい、未だに信じられませんよ、月面基地に行くだなんて」


 私は椅子から乗り出して、彼のヒョロリとした顔を見つめた。


「こちらも、結構凄い状況ですけど。そちらもそうなんですか?」


「そうですねぇ。ボクはこの四月に入社したばかりの新人なんですけどね。配属日に云われた先に行ってみたら、そんな部署が何処にもなかったんですよ」


「え? どういうことです?」


「急に出来た部署で、机もなかったんです。慌てて人事の人に連絡を取ってみると、向こうも良く知らないらしくて。とにかく上司だっていう勝田さんの携帯番号を教えてもらって、なんとか連絡を取ったんです」そこで彼は身を乗り出して、声を潜めた。「どうやらその、勝田さんは一時部長補佐まで行ったらしいんですけど、そこで何か失敗をやらかしたらしくて」


「失敗?」


「どんな失敗をしたのかは、良くわからないんです。ともかくそれでも、あの通りの人だから。あからさまな降格人事も出来ないらしくて、勝田さんのために窓際の部署が作られたらしいんです。たまたまボクが、そこに入ってしまったという訳で。あ、別にボクの能力が低いとかじゃないですよ? ウチの会社って、最初は殆どアイウエオ順で配属が決まるんで」


「へぇ。それは凄いですね」


 そこで彼は更に顔を近づけ、語気を強くした。


「ここからが、もっと凄いんですよ! そんなボクらが、なんでこんな事になってしまったかというと」


 その時私の視界に、風呂道具を持った勝田さんの姿が入ってきた。トッサに背筋を伸ばして鳥取から離れると、彼女はこちらに気が付いたらしく、小さく頭を下げながら云った。


「鳥取くん、レポートは?」


 途端に彼は立ち上がって、真っ直ぐに背を伸ばす。


「あ、すいません! すぐに」


「お風呂上がるまでに書いておいてね?」


「はいっ!」


 ペタペタとスリッパの音を響かせながら、立ち去っていく勝田さん。鳥取青年は彼女を見送ってから、大げさにため息を吐いた。


「まったく、こんな具合で」


「大変そうですねぇ」


 心から云った私に、苦笑を浮かべる。


「ま、そんな訳で。仕事仕事、っと」


 軽く手を振って、とぼとぼと立ち去る鳥取。私はその疲れきった背中を見送りながら、社会人も大変だな、とため息を吐いた。


 それは、こんな格言もある。


 人は、パンのみに生きるにあらず。


 しかし何かを食べていかなければ、生きていけないのも確かだ。だから「パンのために生きている訳ではない」ではなく、「パンだけのために生きている訳ではない」なのだ。


 とはいえ、鳥取の言葉が彼の本心なのだとしたら、どうしても彼ら総研チームには負けたくない。そんな想いが強まってきていた。


「だって、夢がないじゃん! そう思うだろ?」


「だろ? って云われてもね」


 思わず後藤が出ていた。私ははっとして口を噤むと、苦笑を浮かべている岡に小さく頭を下げた。


「すいません、つい」


 翌日の講習はシミュレータによる体験が中心の、比較的楽なものだった。まるで密閉型のゲーム機のような巨大なシミュレータは、ロケット打ち上げ時の振動や姿勢を仮想的に体験出来る。だが一度に一人ずつしか乗り込めないため、私と岡は隅の方で順番待ちをしていた。


「いや。まぁでも、鳥取さんの気持ちがわからんでもないですけどね、五所川原さん」


「本気ですか?」


 怪訝に顔を覗き込む私に、彼は大げさに頷いてみせた。


「実際、オレらもかなり選択の余地がなかった訳じゃん。それで結果が、たまたまいい方向に転がったってだけで。もしさ、月面基地に行けるけど留年確定、って云われたら、ゴッシーどうする?」


 かなり究極の選択だ。


 私は彼の問いには答えず、別の角度から攻めた。


「でも、私たちは、確かに月に行きたいじゃないですか。だから嫌々ながらも、広報の役割とかも引き受けた訳ですし」


「単に、卒業のためだけじゃなく?」


 どうしても、岡はその点を攻めたいらしい。私が黙り込むと、彼は僅かに苦笑しながら頭を掻いた。


「ひょっとして、別のこと考えてない?」


 鋭い。さすが自然と私たちのリーダーに収まっているだけのことはある。


 そう、私はこの訓練に来てからも、ずっと楓のことを考えていたのだ。だからこうして、鳥取の言葉に過剰に反応してしまう。


 何かを、心の底から、やりたいと思っている人がいる。例えば宇宙に行きたい。月に行きたい。マンガで自分の力を示したい。それを脇から「仕事なんで、ボクもお邪魔しますよ」なんて風に割り込んで来るのは、なんとも不純だし、不愉快だ。同じ船に乗り込むとなったら、仕事とか、付き合いで仕方がなく、なんて考えは捨てるべきだ。そうでなければ、本当に行きたくて仕方がなかった人たち、月面行きを目前として客死してしまった、最初の選考通過グループにも失礼だ。


 鳥取青年の云っていたことは、あまりにも一面的過ぎる。本気で月に行きたいという人は何万人もいるだろうし、好きで戦争をしている人だって、同じくらいいるはずだ。


 そう考えると、ふと、私はこのプロジェクトにどれだけ真面目に取り組んでいるのかと、不安に思えてきた。それは表向きは出来る限りの力を尽くしているし、こんな素人には無茶も甚だしい訓練からも、逃げずに頑張っている。


 けれども裏では、こそこそとマンガを描いたりしている。宇宙に行くのも、漫画のネタになるからだと考えたりもしていた。


 それは、私は理屈抜きで月に行きたいという気持ちはある。けれども岡が指摘したように、留年という一生残るペナルティーを負ってまでとか、帰還後の将来が全く保証されない形でとなると、躊躇してしまう自分がいるのも確かだ。


 私はそこに思い至って、急に全てのことが不安になってきた。


 私は果たして、本当に宇宙に行く資格があるのだろうか。


 一億人以上の国民の中で、全てを投げうってでも月に行ってみたいという人は、おそらく数十万人はいるだろう。そんな人たちを蹴落として、何の実績もない、知力も体力もない私が、運だけでふいと割り込んでしまった。それだけでももの凄い幸運だというのに、未だに彼らにとってはどうでもいいマンガの事でイライラとしていたりする。


 それは、彼らに対して、なんと不誠実なことだろう。


「大丈夫ですか、勝田さん」


 遠くの方で、シミュレータから降りてきた途端にふらつく勝田さんを、鳥取青年が慌てて支えにいっていた。


「かなり具合悪いわ。何これ? 酔うわよ普通」


「そりゃ、それを訓練する機械ですから」


「乗り物酔いって、訓練で直るものなの?」


「それは、知りませんけど」


「単にあなたみたいな、ロボット好きの人が作ってみたかっただけじゃないの? 技術者って、事務方が理解できないことをいいことに、しょっちゅう趣味で無駄な投資するのよ」


「そんな。一緒にしないでくださいよ。ボクもあんまり、ロボットとか好きじゃないんですから」


「あら、珍しい。貴方くらいの男の子は、みんな好きなものだとばかり思ってたけどけど。どうして?」


「そりゃ、だって子供みたいじゃないですか。いつまでたっても、ロボット、ロボットって。ボクは草木や犬猫の方が好きです」


「それで生体分子工学なんかやってるのね。確かに私も、ロボットって嫌い。ロボットそのものより、ロボット好きの人が、かな。いつまでもいい年して、キモいわ」


 岡が急に私の肩を叩いて、彼らを顎で指し示した。


「おい、聞いたかよ今の?」


「えぇ。完璧に」


「テツジが聞いたら、マジで憤死するぜ。どうしてあんなのが月に行くことになったのかねぇ」


 全く、岡の云うとおりだ。


 けれども今の私にとって、彼らは鏡に映した私でしかない。


 そう思うと、なかなか彼らを正面から非難する気には、なかなかなれなかった。

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