第21話
一晩明けての会議では、多少の紛糾があるものと思っていた。
しかし蓋を開けてみれば、全会一致。
そして表向きは何も変わっていないような日々が再開した。提出済みの論文の何処が悪かったのかを検討しようと云う案もあったが、それは後から公団の指摘があるだろうから、今考えるのは無駄だという結論に達した。結局克也に私たち四人の意志を伝えてからは、例のごとく南寮110室で麻雀をしたり、月に想いを馳せてみたり。
そして私たちは、すっかり忘れてしまっていた。
子鹿教授が、名目上は私たちの指導教官だということを。
「五年、機械工学科、オカ」
食堂で遅い昼食後のコーヒーを飲んでいた私たちは、天井スピーカから響いた声に、ふと顔を上げた。しかし呼び出しの声はそこで途切れ、なんだか遠くで激しく咳込むような音が響いてくる。
「呼ばれた? オレ」
そう自分を指しながら、岡が首を傾げる。
「そう、聞こえましたけど」
私が云った途端、今度はスピーカから苛立ったような声が響いてきた。
「五年、機械工学科、岡! テツジ! 佐藤! 五所川原! すぐに子鹿研究室まで来なさい!」
私たちは互いに顔を見合わせて、誰とはなしに首を傾げる。
「誰?」と、テツジ。
「オレたち?」と、岡。
「どうやら、そのようだな」
殿下がため息を吐きつつ立ち上がる。仕方がなく、私たちもダラダラと席を立った。寮を出て校舎に向かいながら、岡は、ぶつくさと文句を云う。
「子鹿の野郎、呼び捨てかよ。偉くなりやがって」
「しかもオレだけ、名字じゃなく名前だし」
妙な所に不平を云うテツジに、岡は大笑いする。
「そりゃ、テツジ、完全に舐められてるわ」
「だろ? そう思うよな? クソ子鹿。食道ガンで死ね。大腸ガンで死ね」
「ま、子鹿以外からもそう呼ばれているのだから、諦めるのだな」
冷静に云う殿下に、岡は再び大笑いする。
季節は春を過ぎて、もう夏になろうとしていた。道端に見かけられたハコベの白い花は生い茂る雑草の中に消え、実習工場の脇にあるアジサイの花が大きく開き、暑かったり寒かったり雷が鳴ったりと、不安定な天気が続いていた。
どうせ研究の進捗がどうのと文句を云われるのだろうな、と、私たちは浮かない足取りでノロノロと階段を上がっていく。そして子鹿研究室の前にたどり着くと、例によって岡が先頭に立ってノックをした。
「岡、他三名ですー。来ましたー」
やる気のない声を上げながら、扉を押し開く。
一瞬、彼の肩越しに二人の人物が見えた。一人は子鹿。トレードマークの白衣を身につけ、ウェーブのかかった白髪頭を撫で上げている。
そしてもう一人、応接用のソファーで子鹿と向き合う、見慣れない男。彼は髪の毛をツンツンに立たせた若い小柄な青年で、まるでおろしたてのようなパリッとしたスーツを身にまとっていた。
誰だろう、と私たちは狭い扉から一斉にのぞき込む。しかし子鹿は私たちを見ると慌てて立ち上がって、相手の青年に薄ら笑いを浮かべながら、私たちを廊下に押し出してしまった。
なんだなんだ、と怪訝に後退る私たちの前で、子鹿は後ろ手に扉を閉じる。そして彼の皺の一本一本までがはっきり見えてしまうほどに顔を近づけると、酷く押し殺した、それでいて怒気の含まれている声で云った。
「キミたちねぇ、身に覚えはあるんだろうねぇ?」
はぁ、と首を傾げる岡に向かって、彼は大げさに頭を振った。
「もう、どうして先生に黙って、そういう勝手なことをするんだろうねぇ。事務方から私たちまで、大混乱だよ」
「あれ。まさかあの人って、宇宙公団の人ですか?」
ようやくそこに考えが至った私に、子鹿は例の哀れみとも侮蔑ともつかない悲しげな顔を向けた。
「やっぱり、わかってるんじゃないか。どうしてそう勝手なことを」
「それで、何て?」
説教モードに入りそうになる所を寸前で岡が遮ると、彼はメガネの位置を直しながらため息を吐いた。
「彼は先生に、どういう状況になっているのか説明をしに来たんだよ。ともかく最初は何のことだかさっぱりわからなくて、誤魔化すのに凄い苦労したんだよ? その、何だ、キミらの送った論文? キミらは宇宙公団に、何を送ったんだ?」
「月でウサギを飼う方法でーす」
子鹿と目を合わせないよう天井に視線を向けながら、岡はやる気なく答える。
「月で? 何だって?」
「宇宙公団は、月面基地で実施する事業のテーマを募集していたのです」と、殿下も天井を見上げながら云った。「それに我々は、ウサギの飼育による食料と資材の提供を企画立案し、提出したのです」
ウサギ、と、呆然としたように子鹿は呟く。そして重大なことに気が付いたというように、岡の肩を掴みながら大声を上げた。
「まさか、それは、キミらが月面基地に行くということじゃないだろうねぇ?」
「ま、採用されたなら、そうなりますかねぇ? ひょっとして、採用されたというお知らせに来られたのでしょーか」
子鹿は完全に、岡の言葉が耳に入っていないようだった。ただ、月面基地、月面基地、と呟くばかりで、まるで泣きそうなほどに表情を歪めている。
堪えきれなくなった私とテツジが、殿下の大きな背に隠れてニヤニヤと笑っていた時だった。不意に子鹿が背にしていた扉が薄く開いて、ひょっこりと件の青年の顔が覗いた。彼は確かめるように、私たちの顔を覗き込む。慌てて押し留めようとする子鹿の脇を「失礼」とすり抜け、彼は私と同じくらいの高さしかない顔に、満面の笑みを浮かべた。
「キミたち、応募した人たち?」
「あ、えぇ、そうっす」
応じる岡の手を握って、大きく上下に揺さぶりながら、彼は口を開いた。
「やぁ。ボクは羽場。羽場順平だ。宇宙公団で技官をやってる。まぁ技官って云っても色々でね、まぁ、ボクは下っ端かな。でも下っ端って云ってもさ、勤続年数とか色々あるじゃない? 年の行った連中は腰が重いし、キミらのような若い連中とは話しも合わない。それにボクは機転は利く方だから、こうしてキミらの顔合わせに派遣されたってワケ。ただの使いっ走りじゃないのはわかるだろ? あぁ、まぁこれから長い付き合いになると思うけどね、よろしく、よろしく」
まるでマシンガンのように、彼は一方的に喋り尽くす。そしてポカンとする私たちの手を取って、順に握手をしていった。一巡りすると、彼はふと何かを思い出したというように宙を見上げ、ポケットから一枚の紙を取り出す。そして仰々しく咳払いすると、私たちの前で読み上げた。
「あー、諸君から応募があった事業案について、宇宙公団で慎重に協議を行った結果、非常に優秀かつユニークなものであると認められた。そのため本事業案を宇宙公団多目的モジュール活用計画の一つとして正式に採用し、諸君らには事業の実施を委託するものとする」彼は紙を閉じると、グッ、と親指を突き立ててウィンクした。「おめでとう! キミらはその若さで、宇宙飛行士、月面基地の隊員となるんだ! 学校だけじゃない、地域の、日本の英雄ってワケだ。ワオ! こりゃすげぇ!」
奇声を上げて、大笑いしながら岡の肩を何度も叩く。
「どうやら宇宙公団側も、墜落事故の影響が大きいようだな」
ボソリ、と呟いた殿下の台詞が耳に入って、私は途端に笑いを堪えるので必死になってしまった。
「なんだ、あんまし喜ばないのねぇ? 嬉しくないの?」
子鹿が邪魔だというのは、口には出せないが両者の一致した思惑だったらしい。羽場は場所を移そうと提案し、それならと私たちは彼を南寮110室に案内していた。
「実は、知ってたんす」そう苦笑しながら、岡は残念がる羽場に椅子を勧めた。「月面基地の隊員で、上井克也さんって、ご存じですか。その方は知り合いで、色々とアドバイスを戴いたりもして」
「上井? あぁ、あのハゲのオッサン?」だらしなく椅子に座りながら、嫌そうな声を上げた。「あいつ、ボクのこと背が低いからって子供扱いするんだよね。嫌になっちゃうよマッタク。じゃあさ、キミらはどうして選ばれたのか、事情は知ってるのね?」
「えぇ。一通りは」
「じゃあ、納得してるのね? 少し特別な立場になるというのは」
「はい。具体的にどうなるかは、まるで知りませんけど」
「そう。手間が省けて良かった。オーケー。じゃあ説明しよう」
羽場はピョコンと背筋を伸ばして、鞄の中から薄いファイルを取り出した。
「まだ正式に決まった訳じゃないけど、キミらが基地に出発するのは二ヶ月から三ヶ月後になるはず。それまでにキミらがやらなければならないことは、三つあるんだ。
一つ、事業計画の再検討。キミらの送ってきた計画は、正直イケてないんだなこれが。月面基地のことがまるでわかってない。まずソレ。これは公団でタスクチームを編成するから、その助言に従ってもらって計画の変更をミッチリ行う。ワオ、超大変そう。
二つ目、宇宙公団での訓練。まぁキミたちは基本的に与圧区画(気圧の保たれた密閉区画)から出ることはないだろうけど、一通り宇宙服の操作方法や低重力下の身のこなしかたに慣れておかないとね。何かあったときにヤバいから。ま、面白いよこれは。ボクも行ったことあるけどね。
そして三つ目。超楽しそう! 何と公団の宇宙計画のPR活動だ! NHKのドキュメンタリーを皮切りに、各種雑誌や新聞のインタビュー、公団主催のイベントへの強制参加!
そしてキミらのマネージメントをするのが、このボク、羽場順平ってワケ。スケジュールの管理や学校との調整は、ボクがやるから心配しなくていいよ。そしてまだ決まってないけど、多分月面基地へも一緒に行くことになると思うんだ。ま、楽しい頼れるお兄さん、ってワケだ。何か質問は? ない? そう?」
慌てて私が手を挙げると、彼はニヤリと笑って指さした。
「はい、五所川原さんね? 長いからゴッシーって呼んでいい?」
途端に爆笑する岡とテツジ。
「あの、えぇ、実は今でもそう呼ばれてて。それで、学校のことなんですけど。二ヶ月後から一年となると、私たちってどうなるのかな、と思って」
「あぁ、それね。心配しないで。ちゃーんと調べてあるんだから。
まず知ってると思うけど、この高専には五年間の準学士課程の後に、二年間の学士課程に進むことが出来る。高校三年プラス短大二年ってのに、更に二年加えて、大学卒業と同じ資格を与えちゃおうっていうんだね。まずコレに進むっていう手が一つ。
次はもっと別な手。高専は全国に二つある国立技術科学大学と特別な関係にあって、高専の卒業生向けに優先の編入枠が設けてある。そこに滑り込ませてもらおうって手。
この二つに関しては、宇宙公団で便宜を図って、推薦枠で入学させてもらうことが出来る。ただまぁ、それでも正規の連中より一年遅れて入学なり編入なりすることになっちゃう訳だから、月面基地で特別な通信教育を受けてもらう必要があるね。
そしてもう一つ。学校はまぁ、月面基地での成果を適当に論文に仕立てて卒業させてもらって、そのまま宇宙公団に入っちゃう」
「そんなこと、出来るんですか?」
驚いて尋ねる私に、羽場はニヤリと笑いながら両腕を開いた。
「もちろん! 公団には、キミたちの将来に責任があるからね。ただね、ぶっちゃけ高専卒程度の学力じゃぁやっていけないのね。出来るのは、まぁせいぜい事務職くらいかなぁ。落ちこぼれちゃうのがオチだと思うよ?
だからね、これは個人的な見解だけどさ、やっぱ大学に進むのが一番いいと思うのねボク。特に技科大には、運良く生き残った有名な宇宙工学の先生もいるしね。そうそう肝心なことを云い忘れてた。もし大学に進むとしたら、キミたちには公団の奨学生になる権利が与えられる。つまりタダで勉強出来るってワケ。何てラッキー! 親御さんも超大喜び! そしてそのまま優秀な成績で修士まで修了出来たなら、宇宙公団に入れちゃうって寸法。もちろん、そうなった場合でも、キミらには拒否権はあるけどね」
悪くない。
どころか、これ以上望むべきもない、完璧な待遇だ。
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