第20話

「もし、受けるなら。それは普通に公募を通るより、何倍も大変なことになると思っとけ。オマエらのプライバシーはかなりの制限を受けることになるし、これから一年か二年、ろくに遊ぶこともできなくなる。


 特に、ゴッシーちゃんよ。アンタは大変だぜ? 月面基地に行く若くて可愛くて頭のいい女の子。恐らく並のアイドル以上の注目を集めさせられることになる。アンタは、そういうのが好きなタイプじゃないのはわかってる。かなりストレスが溜まるし、苦労することになるだろうな。


 良く考えろ。そして、それでもいいとオマエらが決めたなら、別にオレは止めはしない。月では歓迎パーティーを開いてやるよ」


 克也の言葉を思い出しながら、私は机の上に足を投げ出して煙草をふかしていた。


 この私が、若くて、可愛くて、頭のいい、アイドル研究者だって?


 馬鹿らしい。


 とてもお話にならない。私が何より憎んでいるのは、そういうものを奉信する馬鹿な一般大衆というヤツだ。かわいくて、格好よくて、わかりやすいものしか理解出来ない、愚かな人々。


 とはいえ断れば、最低一年の留年が確定する。まぁ別にそれでもいいか、という気持ちがない訳でもないが、やっぱり可能ならば避けたい選択肢だ。


 まったく、どうしたらいいというのか。


「究極の選択、というヤツだねぇ」


 私は呟きながら煙草をもみ消して、新しい煙草に火を付ける。


「確かな日程はわからんが、ここ二、三日で公団の方針が決まるようだ。乗るも反るも、早いに越したことはない。重要な決断だが、急いで考えを纏めてくれ。その方が意見を反映させやすい」


 そう克也は云っていたが、簡単に決められる問題ではない。


 アイドル研究者か、留年学生か。


 ふと私は鏡を覗き込んで、表情をクルクルと変えてみる。確かに応募書類には各自の写真を貼り付けたが、アレを見て行けると思った公団上層部も、相当老眼が進んでいるとしか思えない。私はため息を吐きながら鏡を投げ捨てて、プカプカと煙草をふかした。


 それに、最低一年、場合によっては二年、浮き世を離れるとなると、とても漫画なんて描いてる場合じゃなくなるだろう。月の低重力でインクがどうなるかなんてわからないし、トーンや紙を定期便で送ってもらうことだって期待できない。新刊だって手に入らないし、週刊誌だってそうだ。


「七対三で、留年が優勢だなぁ」


 それでも決めかねていた。


 なにしろ、月面基地だ!


 憧れるなというのが無理な話だ。あの巨大なJ1ロケットに乗れるだけでも失神ものだというのに、そこからアメリカのスペースカーゴで月まで行き、一泊数十万円の部屋に泊まり放題。電磁カタパルトは菫色の放電をしながら貨物を射出し、地表ではホンダ製ロボットが掘削作業を行っている。更には月面の夜明け、砂の海、低重力、宇宙服!


「あぁ、行きたい! 断然行きたくなってきた!」


 そこでふと、克也の言葉を思い出す。


「低重力なんて一日で飽きるし、三日で慣れる。そして一週間で上手く扱えるようになるんだ」


 それはそうだ。百年前の人にしてみればジェット機なんて夢のまた夢だろうし、それ以前の人にしてみれば車すら憧れだろう。それは行った当初は楽しくて満足するだろうが、一月もすれば苦痛になってくるに違いない。それに私の場合、行くまでが問題だ。数ヶ月のアイドル稼業。


 考えるだけでも寒気がしてくる。


 とりあえず寝て、頭をスッキリさせてからまた悩もう。


 そう布団に潜り込んだが、様々な考えが頭に浮かんで、とても眠れそうになかった。


 宇宙に行くとして、最低一年。準備期間や何やらを含めれば二年近くなる。そうなると私たちの処遇はどうなるのだろう? 卒業させてもらえるのだろうか? 仮に卒業出来たとして、その先は? 大学に編入するにも就職するにも、完全に時機を逸する。そこまで宇宙公団は面倒を見てくれるのだろうか? 単に御輿にしたい馬鹿な高専生相手に、公団の職員の口を用意してくれるとでも?


 私は眠るのを諦めて、散歩がてら食堂の一角にある自動販売機に向かった。ペタペタとサンダルの踵を鳴らしながら男子寮に入り、渡り廊下を抜けていく。


 すると食堂脇に幾つか並んでいる公衆電話で、テツジが渋い顔で話し込んでいた。そういえば彼が携帯電話をいじっている姿を見たことはない。彼は今にも怒り出しそうな様子で、眉間に深い皺を刻みながらイライラと膝を揺らしていた。


 ふと私は、おばちゃんの話していたことを思い出した。テツジは実家から逃げ出したがっているということ。


 私は興味を惹かれて、彼の視界に入らないようにしながら、静かに近寄っていく。次第に彼の苛立った声色は聞こえてきたが、話の内容まではわからなかった。


 彼は大きく何かを吐き捨てて、ガチャンと受話器を叩きつける。そして振り向いた瞬間に、私と目が合ってしまった。


 気まずく頭を下げながら通り過ぎようとする私に、彼は小さく「おう」とだけ声をかけて、彼らの住む部屋へと戻っていった。


 彼ら三人はそれぞれ謎な部分があったが、中でもテツジは、別な意味での疑問が一番大きかった。


 それは人としてどうなんだろうか、というほどだらしのないことも平気でする人だった。起きたままの格好で食堂に行くし、浴場から部屋までバスタオル一枚で歩いていったりする。何しろ、真面目になるということがない。いつもヘラヘラユラユラとしていて、背中は酷い猫背で、渋い顔はしても怒る素振りすら見せたことがない。


 その彼が、破裂寸前になっていた。


 相手は誰だろう。やっぱり家族だろうか。宇宙に行きたいという彼に、強硬に反対でもされたのだろうか。


 どんな些細なネタからでも妄想を膨らませてしまうのは、私の職業病のようなものだろう。気になって仕方がなくなってしまった私は、ジュースを買ってから彼らの部屋に向かう。三回ノックして扉を開くと、中は小さな卓上灯が橙色の明かりを投げかけているだけで、人の気配がまるでしなかった。ベッドの膨らみを見ても、殿下もテツジも寝ている様子はない。ただパーティションに区切られた岡の居住スペースからは、シャカシャカという金属を弾くような音が響いてきていた。


 そっと覗き込む。すると岡がベッドの上に腰掛けて、膝にギターを乗せて一心に指を動かしていた。それはアコースティックギターのような深い響きを発していなかったが、恐らく近所迷惑を考えてのことだろう、ギターから延びたケーブルは大きなアンプに繋がれ、そこから延びた線はヘッドホンに繋がっていた。


 ここしばらくは研究を優先し、封印でもしていたのだろうか。私は彼が演奏するところを見るのは初めてだった。それがどれほど凄いのかはわからなかったが、指は目にも留まらぬ速度でネックの上を滑っていた。片足は一定のリズムを取りながら、時折ペダルを踏んで音色を変えている。


 私は邪魔するのも悪いと思って、そのままこっそりと部屋を出る。


 人はそれぞれ、色々あるものだな。


 そう漠然と思いながら、渡り廊下から外に出て、フラフラと歩きながら夜空を見上げた。薄曇りの空にはまん丸な月が透けていて、そこで餅をつくウサギの姿がぼんやりと浮かび上がっている。


 それにしても。数ヶ月前は見上げるだけだった月について、随分沢山のことを知ったものだ。


 例えばあそこは、光の速さでも一秒かかるほどの遠くにある。もし今の瞬間に月が破裂してしまったとしても、私たちがそれを見ることが出来るのは一秒後にでしかないのだ。


 そう考えると、その場所に行くのがどれだけ重要なことかと思えてくる。それは十年か二十年後には、切符さえ買えば誰でも行けるようになるのかもしれない。けれども時の狭間の彼方にある地は、私たちに未来の姿は見せてくれない。ただ、過去の姿しか見せてくれないのだ。


 十年か、二十年後。


 そんな不確実な未来を信じて、今私に与えられた酷く希有な可能性を捨ててしまっていいのだろうか。


 今の瞬間、私が決断を下したとしても、それが月に届くのは一秒後。その場に私が行くと云うことは、私は月に対して一秒の未来に行くと云うこと。そして地球に対しては、一秒の過去に行くと云うこと。


 そう、月で何かをしたいと思うなら、それは今でなければ駄目なのだ。今の今、決めたとしても、届くのは一秒後なのだ。それに比べれば地球上のことなんて、些細なことでしかない。決断から行動までの時間は、ほんの一瞬で済むのだから。

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