第17話

 ふと目が覚めると、私は自分のベッドにいるのに気が付いて、途端に首を傾げた。


 まるで自分の部屋に戻った記憶がない。


 時計を見上げて更に驚いた。午後の六時過ぎ。どう考えても十二時間以上寝ていたことになる。


 私は慌てて身支度を調えて、新☆宇宙工学研究室に向かう。


 どうなってるんだろう。こんな時間まで顔を出さないなら、内線電話で起こしてくれてもいいのに。


 そう心の中で文句を云いながら扉を開き、ともかくも弁解する。


「すいません、すっかり爆睡しちゃって」


 と云ったところで、馬鹿なことをしたと気づく。部屋の中はカーテンが閉じたままで、人の気配がまるでなかった。


 小さく息を吐いて、仕方がなくドナドナの籠を覗き込む。真っ白な毛玉のような彼女は、眠っているのか、それとも無視しているのか、こちらにお尻を向けたまま身動き一つしなかった。


 三人で図書館にでも行っているのだろうか。


 ふと空腹を感じて、床に転がっていた煎餅を勝手に開けてバリバリと口にする。


「参ったな。とりあえず晩飯? 朝飯? でも食べに行くかねぇ。おい、無視すんなよコラ」


 そうドナドナに話しかけていると、扉が開いて三人がワラワラと部屋に入ってきた。テツジと岡が何か大きな機械を一緒に運び、殿下の机の脇にどすんと置いた。


「おう、ゴッシー。良く寝たか?」


 そう何事もないかのように云う岡に、少し不審に思いながら答える。


「え。えぇ。すいません、すっかり爆睡しちゃって。それ、何です?」


「あぁ、コレ? プリンターだよ。図面とかA2版のデカイヤツあるからさ、学校のゴミ捨て場からパクってきた」


 殿下は売店から買ってきたバインダーを机の上に重ねて、早速プリンターとパソコンの接続に取りかかる。私は狼狽えながらカレンダーを見上げ、今日の日付を確かめた。


「もう、印刷するんですか? まだ五日もあるのに」


「いや、昨日の試算で〆ることにした」


 そんな、と異議の声を上げようとする私を、殿下がため息を吐きながら遮った。


「キミが就寝してから試算を整理したが、キロ単価十八万円を達成している。年で僅か二十四万円の赤字だ」


「でも、赤字には違いありませんよ!」


「そうは思わないね。正直、この試算には不確定要素が非常に多く含まれている。確かに五所川原さんは様々な手数料や税金を想定してくれているが、実際にどの程度の追加費用が発生するかは、やってみないとわからない。二十四万円程度は軽く賄えるかもしれないし、逆に百万程度の追加費用が発生する可能性も十分にあり得る。これ以上、試算の精度を高めるのは、今の段階では時期尚早、即ち無駄であり無意味だろうな」


「そんな。それなら尚更、もっと頭をひねって収支を改善するべきじゃないですか!」


「でもさ、そろそろ論文や試算のミスチェックもしなきゃならないし」岡はテツジのベッドに座り込んで、煙草に火を付けた。「別に殿下やゴッシーを疑ってる訳じゃないけどさ。誤字脱字とか、文章や図の見栄えは直さないと。それに克也さんにも一度目を通してもらいたいし、宇宙公団の事務局に送るのだって、少し余裕を見ておきたいしね。ここまでやって、締め切りに間に合わなかったんじゃ、馬鹿みたいだろ」


「でも、最終的に赤字になります、っていう提案じゃ」


 三人の男子は一斉に息を吐いて、私に目を向けた。


「ゴッシーさ。気持ちはわかるけどさ」岡は煙を吐き出しながら云った。「本当の目的、忘れてない? オレたちは月で事業をするのが目的じゃなく、公募に応募して卒業するためにやってるんじゃん? だったら細かい収支よりも、ちゃんと期限までに、読みやすくてわかりやすい資料を提出することを優先しないと。これ以上は、オレたちの頭の中じゃどうにもならないよ」


「けど、あともう少しなにの」


「何か新しい手でも、思いついた?」


「いえ。それはないですけど。でもあと少しみんなで知恵を合わせれば」


「だからさ、殿下の云ったように、もし実はロケットの打ち上げ費用は、五十億じゃなくて六十億です、なんてなってみなよ。それこそ単価は一万か二万は軽く上がるだろ?」


 そうだろうか?


 頭の中で、軽くそろばんを弾いてみる。現状の試算では、実際に持っていく資材は数百キロしかない。仮に五十億が六十億になったところで、そうマイナスにはならないはず。


 だがそこまで考えて、私はふと面倒になって頭の中から数式を追い出してしまった。


 彼らがいいなら、それでいいじゃないか。


 そう五所川原が云っていた。


 一人でムキになったところで、彼らが方針を翻すとも思えない。私はやれることをやったんだし、彼らの云うように、私たちには知りようもない致命的なミスが潜んでいないとも限らない。


 いや、そうじゃない。


 後藤が五所川原を押し退けて、私に囁いた。


 そう、私は彼らの態度が気に入らなくて、文句を付けたがっているのだ。


 月面基地にいる克也たちは、私たちを〈よい隣人〉になるだろうと云ってくれた。


 よい隣人。


 それは彼らの都合もあるだろう。飢えた彼らはとにかく肉と名の付くものであれば、ウサギどころか蛇でも食べたがるだろう。それに克也が口走っていた、前回の事業候補者との確執。それがどんなものかわからないが、少なくとも彼らは私たちと話し、〈良い隣人〉になるだろうと思ってくれている。


 そう、それは別に押しつけられた話じゃない。私たちが勝手に公募に応募することにして、彼らに期待を持たせてしまったのだ。


 だとするなら、私たちは〈楽して卒業する方法〉なんて不純な動機は忘れて、〈月でウサギを飼う方法〉を、もっと真剣に考えるべきなのだ。それが月面基地のためであり、私たちのためでもあり、ひいては人類全体のためでもあるのだ。


 ま、そんなこと、この三人組に云うだけ無駄か。


 後藤の悪い癖は、唐突に達観してしまうことだ。彼女は大きくため息を吐いて、私にこう囁く。


 わかる人が、わかってくれればいいじゃん? 馬鹿を説得するだけ時間の無駄無駄。自分らでいいと思ってんだから、後は任せちゃえばいいじゃん。そもそも私は、楓以外とのチームプレーで、上手くいった試しなんてないじゃんか。何期待してるんだ? 馬鹿かオマエは?


 後藤と五所川原、二人の動機は一致しないとはいえ、これ以上彼らに反論するのは、二対ゼロで否決された。私は大きくため息を吐いて、頭を掻きながら卓袱台の前に座り込んだ。


「じゃ、どうします? 私。試算は殆ど殿下が巻き取ってるみたいだし。ラベルでも作りましょうか?」


 後藤とも五所川原ともつかない投げやりな台詞に、岡は苦笑しながら煙を吐き出した。


「いいって別に。とりあえず今日中に一通り印刷してみるから、後でチェックしてくれればいいよ」


「そ。じゃ、私は今日は飯でも食って寝ます。何かあったら内線で電話してください」


 お疲れさんでした、と私は言い残して、そそくさと彼らの部屋を後にした。


 まったく、この私の二ヶ月は何だったんだろう。馬鹿みたいだ。


 そう胸の中で文句を云いながら、食堂に向かってバイキングの皿を眺める。何でもいい、何か肉が食べたかった。ところが時機を逸したせいか、肉っぽい何かが乗っていたであろう皿は全て空になっていて、私はトレイを持ったままウロウロと歩き回る羽目になってしまった。


「あら、どうしたの? 食べたいのない?」


 ふと背後から栄養士のおばちゃんが近寄ってきた。


 面倒だな、と思いながらも、適当に話を合わせる。


「何か肉ってないんですかね」


「お肉?」彼女は首を傾げて、そして急に笑みを浮かべた。「そうそう、今日ね、終わってからウサギ料理にチャレンジしてみようと思ってたんだけど。それまで待てる?」


「え、マジっすか?」


 急に表情を強ばらせたおばちゃんに気が付いて、私は慌てて後藤を頭の隅に蹴り飛ばした。


「あ、すいません。呆けてました。是非是非」


「そう。じゃあ八時過ぎに、また来てくれる?」


「あ、でも。それなら三人も呼んだ方がいいですね」


 慌てて彼女は辺りを見渡し、彼らの姿がないのを確認してから私に耳打ちした。


「いえ。駄目よ。実は初挑戦なのよ。ウサギ料理。だからあんまり自信がなくて」


「え? 別にいいじゃないですか。毒味なら彼らは得意ですよ。いつも賞味期限切れてるのとか、平気で食べてるし」


 おばちゃんはひとしきり笑ってから、大きく手を振った。


「いえ、でもね。それほど量もないし、あれほどウサギについて講釈垂れてた割に、ウサギ料理を作ったことがなかった、なんて。悪いでしょう? それにやっぱり、男の人に変なのを食べさせるのはねぇ。恥ずかしいじゃない」


 女ならいいのかよ。


 そう云いそうになった後藤を再び殴り付けて、私は曖昧な笑みを浮かべた。


「はぁ。じゃあ、また来ます」


 私は部屋に戻って、煙草に火を付ける。どうにも治まらない苛立ちを楓にぶつけようと携帯に電話してみたが、呼び出し音が何度鳴っても出る気配がない。終話ボタンを押して無為に電話帳を眺めていたが、不意に桜庭の名前を見つけて、そういえばヤツはどうなったんだろうと思ってそのまま通話ボタンを押した。


 呼び出し音が、二度、三度。そして小さなノイズが挟まったかと思うと、急にもの凄い音の洪水が襲ってきて、私は思わず受話器を耳から遠ざけた。


「もしもし? 後藤さん?」


 宴会会場にでもいるのだろうか。彼は周囲の声に負けないように声を張り上げる。


「あぁ、桜庭氏かい? 何? 何か遊んでんの?」


「遊んでるっていうか。サークルの新人歓迎飲み会なんすよ」


「あら、そう。楓もいるの?」


「え。えぇ。代わります?」


「いや、いいよ。なんか立て込んでるみたいだから、またかけるわ」


「別に今でもいいっすけど? 何かありました?」


 私は少し躊躇して、それでも頭を振りながら云った。


「いや。別にたいしたことじゃないから。じゃあ、またな」


「はぁ。了解っす」


 そのまま通話を切断して、私はベッドに横になる。


 まったく、楓のヤツ。


 高校の頃は、私以上に根暗だったクセに。楽しそうにやってるっぽいじゃないか。


 私がこんな、訳の分からないことで苦労してるってのに。


 楓に愚痴るというオプションを取り上げられて、残る逃げ道は一つだけ。私は煙草を手にとって、煙を思い切り吸い込む。


 空腹が重なったせいか、途端に酷い眩暈がする。私は急に何だか何もかもがバカバカしく思えてきて、急に涙腺が緩んでくるのを感じた。

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