第16話

 隣人、か。


 私は続々と集められてくる各種資料を眺めながら、ふとため息を吐いた。


 不思議がる理由は何処にもない。克也、それに農家の戸部と木村は、月面基地で仕事をしているだけじゃなく、〈住んで〉いるのだ。そして私たちが運良く公募に採用されたならば、彼らは単なる仕事仲間というだけではなく、同じ共同体の隣人になる。


 そう考えると、私たちの『楽して卒業研究を終わらせるため』という動機は、酷く不純なものとして感じられてくる。私たちは確かに、月面基地へは行ってみたい。けれどもそこで本当に一年も暮らさなければならないとなったら、確実に躊躇するだろう。


 肉も食えない。気軽に買い物にも行けない。部屋は狭いし、着るものも決まっている。洗濯が高く付くから、克也がいつも着ている作業服に統一されているのだ。


「濡らしたタオルで拭くんだよ。原始的だろ?」


 風呂はどうしているのか、という岡の素朴な疑問に、克也はそうおかしそうに云っていた。


「じゃあ、風呂とかシャワーは?」


「シャワーは週に一度だな。当然再生水だから飲んだりは出来ない。さらに一人で使える水の量は限られてるから、身体を洗い終える前に止まったりする」ひえぇ、と嫌そうな声を上げる岡に、克也は苦笑した。「とはいえ、月面基地のような閉鎖された空間じゃ、衛生も重要な要素の一つだからな。水を使わない光触媒洗浄はこまめにやってる」


 聞けば聞くほど、月面で人類が生活するのは、並大抵なことではないのがわかる。それでも月面には既にアメリカ、ヨーロッパ、インド、日本と四つの基地が出来ている。互いに離ればなれではあるが、それでも政府や軍隊の目を盗んで、ある程度自由に行き来して資源を融通しあっているという。


「条約だ何だ、そんなものを結ぼうとしたら何ヶ月もかかっちまうからな。確かに各国は莫大な予算をつぎ込んでいるから、自分たちの状況は秘密にしておきたいだろうが。現場はそうはいかないからな。結構、仲良くやってるよ。地球上じゃ信じられないくらい」


 アメリカは、例の毒ガス戦争に政治的介入をしようとし始めていた。同調を促すアメリカに、ヨーロッパは完全に無視を決め込んでいる。日本は環太平洋同盟の枠組みでアメリカを支持してはいたが、関わり合いにはなりたくない、というのが正直なところだろう。


 そしてインドは、地理的関係から、戦争に巻き込まれる寸前の所まで行っていた。


「インドの連中は、いいヤツらだよ。何度かチャイをご馳走になった」そう、克也は不安げに呟いた。「まったく、今時全面戦争だなんてね。月じゃ仲良くやってるのにな。イスラムの連中も、一度来てみればいいんだ。神様の為に殺し合うのが、どんなに馬鹿げてるか。ここで暮らす大変さを知れば、わかるってもんだろうに」


 だが私たち先進国は、戦争を繰り広げている彼らの犠牲の上に成長してきたのだ。政治家たちはそれを絶対に認めようとしなかったが、事実、次世代エネルギーの実用化と月面開発が始まった途端に、戦争が起きたのだ。それは決して偶然のことではない。先進国にとって、化石燃料産出国の安定が不要になった。援助も行われなくなった。だから彼らは、互いに殺し合ってでも、自国を守り、国民を食わせていかなければならなくなったのだ。


 後藤はそう克也を罵倒するよう進言したが、五所川原はいつものように傍観を選んだ。目立って得をすることなんて何もないし、それに苦しんでいる世界のために、自分の満ち足りた物質生活を捨てる気にもならない。せっかく私たちはこの平和な国に生まれたのだから、それを十二分に活用して悪い理由など、どこにもない。


 だが、克也、そして岡たち三人組にしても、私ほど世界を知っているとは云いがたい。その上で戦争の当事者たちを一方的に非難し、馬鹿だと罵倒している。それは酷く醜い所行だ。


 そんな苛立ちが鬱積して、私のシナリオは吐き出されてくる。けれども今の状況は、私にガス抜きをさせてくれるほどの余裕はない。ここ一週間は集まってくるデータや資料を基に計算を繰り返し、僅かな無駄でも全て切り捨て、とにかく事業の収支を好転させることだけに全てを捧げていた。


 だが、溜まり続けるガスを放置しておけば、必ずいつか爆発する。私の不機嫌は日増しに悪化していき、後藤を抑えるのが難しくなってきていた。


 とはいえ、様々な工夫のおかげで、収支は確実に良くなってきていた。


 全ての問題は、地球からの輸送費にあることが明確になったからだ。


「基地での月々の維持費用が、約一億円。これは全体から見ればゴミでしかないんです。問題は地球から基地へ初期設備を送る時に必要な、ロケットの打ち上げ費用五十億円。これがゼロに近づけば近づくほど、支出が大きく減るんです」


 私の説明に、徹夜続きの三人組は疲れた表情で頷く。


「でも、考えられることは全部やってるぜ? 餌も減らせるだけ減らしたし、設備も基地で作れそうなものは削ったし。今の所、四トンくらい? あと一トン削ればいいんだろ? そこまでは何とかなりそうだけど」


 そう云う岡に、私は頭を振った。


「五十億円で三トンの物資が移送出来る。私たちはそう考えて、送る資材を三トンに納めようとしていましたけど。それは間違いだったんです」


「間違い? 何でさ」


「ロケットを、全部、私たちで使わなければならない理由が、どこにあります?」


 私の一言で、殿下は全てを理解したようだった。小さくうなり声を上げて、眉間に皺を寄せる。


「確かに。それは盲点だったな。我々が二トンしか使わなければ、残りは宇宙公団が資材を運ぶのに利用しないはずがない」


「ですよね。だとするなら、輸送費は〈五十億円で三トン以内〉ではなく、〈十六万円で一キログラム〉と考えるべきなんです。そこで試算したんですが、仮に地球から運ぶのをウサギのツガイ一組だけにして、餌は全て基地の廃棄物に頼るとしたら。こうなります」


 ウサギの重量


   六キログラム x 二 = 十二キロ


 移送費


   十二 x 十六万 = 百九十二万円


   (全体から見れば限りなくゼロ)


 月に五羽生まれるとして、一年での総数


   五 x 十二 = 六十羽


 肉の収穫量


 一年後に生後半年までを捌くとして、


   (6x11/12 + 6x10/12 + 6x9/12 + 6x8/12 + 6x7/12 + 6x6/12)x5


      =5.5+5+4.5+4+3.5+3x5=127.5kg


 総経費


   一億円 x 十二ヶ月 + 百九十二万円 = 約十二億円


 キログラム単価


   十二億円 ÷ 127.5キロ=六十七万円


「目標価格、キログラム単価十六万円まではまだまだ届きませんが、今までの試算の中で、一番希望の持てる数字です。もちろん、ウサギ用の籠といった設備は全部無視していますけど」


 三人は息を飲んで、互いに顔を見合わせた。


「しかもこれは、毛や糞を計算に含んでいない。場合によっては、これだけで五十万を切るかもしれないな」殿下は計算の子細を検算しながら呟いた。「餌はどれくらいになるんだ?」


「体重の五パーセントを毎日食べるとしても、一年で一トンにもなりません。量的には基地の廃棄物で足りますが、質的には問題があります。繊維質が絶対的に足りないので」


「それは持っていくなり、栽培するなりするとして。何とかなりそうだな」岡は呟いて、例の雑草煙草をパイプに詰め始めたテツジを向いた。「おい、施設の設計やり直しだ。現地調達して作るのを前提にして、地球から運ぶのは限りなくゼロに」


 全体設計のやり直しは何度目だろう。さすがの工作大好きテツジもうんざりしたらしく、うなだれながら煙を吐いた。


「ういうい。ちょっくら克也さんと相談してみるわ」


 提出期限まで、あと二週間。ここのところ私たちは〈新☆宇宙工学研究室〉に籠もりきりだった。昼過ぎに私が向かったところで全員が起き、食堂で遅い朝食をとりながらおばちゃんを交えて状況報告をし、そこから無期限で作業が始まる。そして疲れた者からベッドに倒れ込んでいき、私も何度か空いているベッドで仮眠した。


 テツジは少しでも容積利用率のいい設備を作ろうと図面を何度も書き直し、殿下は論文を埋めていく。そして岡は皆の雑用と進捗の管理をしている。


「どうしていつの間にか、初期設備が増えてるんです? 確か一トンまで落としましたよね?」


 テツジが持ってきた資材リストに驚いて云うと、彼は決まり悪そうに顎髭を掻きながら云った。


「ちょっと容積率の計算が間違っててな。悪いけど頼むわ」


「無理ですよ! せっかくいい所まで行ってるのに!」


「どうせキロあたり一万か二万安くなるだけだろ?」


「その一万か二万のために、こっちがどれだけ必死になってると思うんです! せっかくキロあたり三十万まで落としてるんですよ?」


「まぁまぁ、ゴッシー」


 そう岡に仲裁に入られて、私はため息を吐きながらもテツジの手からリストを引ったくり、ペンの先で頭を掻きつつ試算をやり直しはじめた。


「そう、岡さん。低重力下での生物の成長度合いに関するデータって、手に入りました?」


 ついでに尋ねると、彼も具合が悪そうに両手を擦り合わせた。


「あぁ、それだけどね。どうも英語の論文しかなさげで」


「訳せばいいじゃないですか。早くしてください」


 面倒くさくなって言い放つと、彼は困惑したように表情を歪め、それでも何も云わずに作業に戻った。


 そんな日々が一週間も続くと、とても試算以外のことは何も考えられなくなってくる。疲れはててベッドに倒れ込んでも、頭の中には様々な数値や式が去来する。そんな時にふと単価を引き下げる方法を思いついたりするから、全く無駄な不安という訳ではないのが困り物だ。


「どう? 殿下。論文は何とかなりそう?」


 私がパーティションで区切られた岡の居住スペースで半分寝ていると、そんな声が殿下とテツジの居住スペースから聞こえてくる。


「まぁ、一通りの理論立ては済んでいる。あとは試算だが、これは式と数値を埋めればいい所まで終わっている」


「そうか。あとはゴッシー待ちか」眠そうに欠伸をした。「ちょっと彼女に押しつけ過ぎたかなぁ。彼女、何とかなりそう?」


「何とも云えんな。元々無茶な事業計画だ。二月前の我々には、時間も知識もまるでなかった。それにしては、良くここまでこれたと思うがね」


「最新の試算は?」


「余剰物を等価で基地に提供するとして、肉は年に三百キロ産出できて、キログラムあたり二十万円だな。一年で二億円弱の赤字だ」


「もってくウサギの量とか、栽培する牧草の量を最適化しても、そこまでか」


 ため息を吐く岡に、殿下は小さく咳払いした。


「当初はキログラム単価が数千万円だった。それに比べれば、すばらしい成果だと思うがね」


「それはそうだけど。もうちょっとじゃん」


「これ以上、今の手法で続けていったとしても、それほど成果があるとは思えないな。更に単価を引き下げるには、今のような小手先の最適化では無理だ。何かしら、しっかりとした生物化学の理論を用いて、新たな手法を編み出さなければ」


「ろくに生物化学も宇宙工学も知らない高専生のオレたちには、これが限界だ、ってこと?」


「そうは云わないが、彼女だけではなく、我々も精神的にも体力的にも限界が近いのは確かだろうな。我々に必要なのは、諦めるときには諦めるという決断だ。何も公募に漏れたからといって、留年が決まる訳でもない。卒業研究の発表まで、あと十ヶ月もある。それだけあれば、今の成果を更に精査し、十分な物に仕上げることも不可能ではない」


「でも、それで子鹿が納得するかどうか」


「さぁな。しかしリーダーのキミとしては、そろそろ決断するべき時だと思うがね。これ以上試算を続けても、公募期限に資料が間に合わなくなる可能性がある」


「そうねぇ。全てはゴッシー次第、かなぁ」


 本当にそんな会話が行われたのかどうか、わからない。あるいは私の夢だったのかもしれないが、精神的にも肉体的にも限界が近いのは確かだった。


 イライラしてくると、後藤がすぐに顔を出してくる。


 テツジの雑草煙草だ。


 普通の煙草と違う、青臭いというか、焦げ臭いというか。ともかく妙な臭い。そう、臭いもそうだが、雑草を吸うという貧乏くささが、その時の私には我慢ならなくなってきた。


「ちょっと、止めてくれます? それ!」


 思わず電卓を卓袱台に叩きつけながら言い放ってしまうと、急に部屋の中の空気が凍り付いた。


 何のことかわからない、というように固まるテツジ。私はその鈍感さが無性に腹立たしくなってきて、ポケットから自分の煙草を取り出し、彼の机の上に投げつけた。


「吸うなら、これ吸ってください! メンソールですけど!」


 そのまま私は踵を返し、卓袱台の前に戻る。そしてどんどん複雑になっていく試算を何度か検算してみたが、最終的に桁が一つ間違っているのに気が付くと、とても我慢がならなくなって用紙を無茶苦茶に破り、思い切り頭上に放り投げた。


「あー、クソ、駄目だ。キロ十九万。十八万。今は多分それくらい。ちょっと寝るわ。後はよろしくな」


 後藤は五所川原を押し退けてそう言い放つと、よろよろと立ち上がってパーティションの奥に向かう。そして岡のベッドに倒れ込むと、あっという間に眠り込んでしまった。

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