第9話
私は部屋に戻ると、机の上に広げてあった募集要項を脇に寄せて、ボロボロのノートを広げた。
ネタ帳だ。不意に頭に浮かんだシーン、印象的な夢、会話などを書き貯めていて、時には新しいシナリオを作るために、思い浮かぶことを無作為に書き連ねていたりする、私の重要な仕事道具だ。
春休みを丸々費やして描いた投稿用作品は、もう殆ど仕上がっている。あとは楓に送って、ペンを入れさせるだけだ。問題は桜庭と約束した、もう一つの投稿作品。元々気乗りのしない話だ、私は一から新しく話を作るつもりは毛頭なくて、昔のネタを改変することに決めていた。それが一番、労力が省ける。
ノートの中から、幾つか使えそうな話を拾い上げる。そして私の得意とする破滅的な結末をバッサリ削って、登場人物たちの性格を僅かずつ変更し、ハッピーエンドまでとはいかなくても、それなりの大団円に向かうように操作していった。
それなりのプロットが、それなりの時間で出来上がる。私はそれを読み返してみたが、途端に何とも云えない嫌悪感を感じて、眉間に皺を寄せながら煙草に火を付けた。
まったく、なんて気持ちの悪いシナリオだろう。
妙に型にはまっているし、感動を起こさせようと云う意図がミエミエだ。
まぁいい、とりあえずこれで、適当にネームを作っていく。時間はあっと云う間に過ぎていき、外が暗くなった頃に一通りの結末まで描き上がった。私はそれをパソコンに取り込んで、メールで桜庭宛に送信した。
『何か文句があるなら、今のうち。』
そうメッセージを付け加える。こんなくだらない仕事に、後からあれやこれやと文句を付けられてはたまらない。
私は煙草を一服してから、食堂に向かう。例の三人、そしておばちゃんの姿は見えなかった。
少し遅かっただろうか。
そう思ってそそくさと生姜焼き定食を食べ、風呂を済ませ、南寮110室に向かう。すると扉の前には見慣れない黒いプレートが張り付けられていて、私は少し首を傾げた。
宇宙工学研究室。
時田研究室に掲げられていたプレートだ。ただその頭には白い紙が貼り付けられていて、『新☆宇宙工学研究室』になっている。
こんな暇なことをするのは岡だろうな、と思いながら三回ノックすると、中では例によって卓袱台の上に麻雀セットが広げられ、こともあろうか栄養士のおばちゃんが面子に加わっていた。
「おう。遅いぞゴッシー。もうおばちゃん入っちゃったから、今日は見学な」
残念だったな、とでもいうように岡が云う。
別に残念でも何でもないけど。そう後藤が心の中で呟く傍ら、おばちゃんが妙に楽しそうに牌を積み上げていた。
「麻雀なんて何年ぶりかしら。私も昔、こうして研究室の仲間たちとやったものだわ。懐かしい」
「あれ、おばちゃん、修士か何か?」
尋ねる岡に、少し気後れした様子で応じる。
「これでも農学博士なのよ。今じゃ、農学部なんてどこの大学にも残ってないけどね。バイオとか何とか、そういうのに名前が変わっちゃって」
へぇ、と感心した声を上げる私たち。
「けど、どうして博士号持ってるのに、こんな高専なんかの食堂で栄養士やってる訳?」
「テツジ、オマエなぁ」
無神経なことを尋ねるテツジを、すかさず岡が咎めた。しかし彼女は何でもないというように笑って、サイコロを振る。
「いいのよ。学生結婚しちゃってね。息子を産んで育てて、ってやってると、いつの間にか年を取っちゃって。なかなか研究職はね、そういう状況だと落ち着けなくて。それにあぁいう仕事の人たちって、難しい人が多いでしょう? 私のような研究室で麻雀とかやってた友人は、もっと実利的な仕事に就いたのが殆どだし。だから私は、高専とかのが性に合ってるのよ」
「けど、戦時中に、良く麻雀牌なんて手に入ったね」
しつこく同じネタを繰り返すテツジに、おばちゃんは鋭く人差し指を突きつけた。
「覚えてなさい。これでも『鳴きの純』って呼ばれてたんだから」
「あ、その麻雀漫画読んだことある。GHQに発禁処分されたのよね?」
挑発を繰り返すテツジは、それ相応の罰を受けることになった。おばちゃんは『鳴きの純』の名の通り、ポン、チー、カンを繰り返して、場を混乱させる。どうやらそれは自分が上がるためというよりは他人を上がらせないようにするための戦術らしく、テツジのリーチを何度も潰し、最後の最後でパタンと自牌を倒した。
「ロン。トイトイ、ドラ六。悪いわねテツジくん」
彼は真っ青な顔を驚きに歪め、口を大きく開け放った。
「まったく、ゴッシーといいおばちゃんといい。なんで強いのが次々と出てくるかな」と、岡もぼやきながら点棒を転がす。
「あら。五所川原さん強いの? 今度やりましょ?」
楽しそうに云う彼女に、曖昧に微笑む。その時廊下から九時のイエスタデイが流れはじめ、一同はふと宙を見上げた。
「そろそろ、帰ってるかしらね」
呟いたおばちゃん。殿下は卓袱台から立ち上がって、引き出しの中からノートパソコンを引っ張り出した。
「これで大丈夫ですか?」
おばちゃんは幾つかキーを叩いてから頷いた。間もなく画面は大きく開いて、赤と黒のツナギを着た髭面の男が映し出された。おばちゃんとよく似た角張った輪郭に、鋭い瞳が輝いている。
「おう」
そう、彼は少し鼻にかかったような声で云った。
「どう? 元気にしてる?」
尋ねるおばちゃんに、彼は薄くなりかけている頭を撫で上げた。
「まぁな。ぼちぼち。で、メール読んだけどさ。その後ろにいる連中が、オレの後輩たちって訳か?」
後輩?
そう首を傾げる私たちに、おばちゃんは微笑んだ。
「あら、云ってなかったかしら。この子、この高専の卒業生なのよ。同じ機械科で」
「子鹿研だ。まだアイツ生きてんのか?」
彼は威勢のいい青年で、途端に私たち、特に体育系の気質が強い岡とテツジは、あっという間に打ち解けてしまった。
彼の名は上井克也。高専の機械科卒業後、大手建設会社に入社。建築監督の業務を行いつつも、給料が上がるからと各種資格の取得に没頭。
「一級建築士、木造建築士、建築機械施工技士、建築用リフト運転士、建築施工管理技士。まぁ殆どの国家資格は取っちまったな。これが旨いんだ。だいたい一つ取ると給料が五千円アップとかでな、今は資格奨励金だけで月に十万は行ってる。オマエらも暇だったら、学生の内に情報二種とかでもいいから取っといた方がいいぞ? 小遣い代わりにはなる」
「へぇ、いいッスね、それ」
楽しそうに相づちを打つ岡。しかし青年はそこでため息を吐いて、大きくうな垂れた。
「とはいえ、それが仇になった訳だけどな。必要な資格を持ってるからって、急にこんな狭苦しくて男臭い基地に島流しだ。ま、手当は出るからいいようなものの、最初は借金のカタにマグロ漁船に放り込まれた気分だったよ」
「そういや、そこって本当にかぐや基地なんですよね? なんか、あんまりそんな感じしませんけど」
確かに、私も少し不思議に思っていた。彼の背後に写っているのは、狭いとはいえ普通の居室で、ベッドと、クローゼット、そして何枚かのポスターが貼ってあった。
彼は部屋の中を見回して、そしてふと気づいたようにカメラを取り上げると、壁際にある小さな扉に近寄った。
その重そうな扉をゆっくりとスライドさせる。途端に画面一杯に、焦げ茶色の荒れた大地、そして暗闇に浮かぶ星々がはっきりと映し出された。
私たちは一様に、声にならない声を上げる。それはテレビで何度も中継された、見慣れた月面の風景には違いなかった。しかしこうして誰かの生活の中に取り込まれている様を見せられると、まるでそこは手の届かない夢の中の世界ではなく、確かに自分たちでも行ける別世界なのだという気分になってくる。
問題は、その地に足を踏み入れるのが、いつになるのかというだけ。
「おぉ、マジで凄くねテツジ?」
興奮する岡に、テツジは例の目を見開いた奇妙な表情で頷く。克也は小さく笑い声を上げて、カメラを再び元の位置に戻した。
「悪いな、宇宙線が入ってくるから、あんま開けてられないんだ」
「いやいや、十分感動ものでしたよ」岡は饒舌に云う。「でも、あんまりフワフワしてる感じはないですけど。重力は六分の一なんですよね」
「あぁ、まぁな」
両手で床を押す。すると彼の身体は座ったまま宙に浮かび、まるで鳥の羽のようにゆっくりと舞い降りた。
「おぉ、マジで凄いっすね!」
「まぁな。でも、感動するのも最初だけだ。うっかりすると天井に頭をぶつけるし、何しろ小便がもの凄い勢いで飛び散る。重力ってのは偉大だぜ?」
彼、そして岡とテツジは爆笑したが、残る三人は怪訝そうに顔を見合わせていた。母親の咎めるような視線を受けて、克也は慌てたように話を戻した。
「ま、でもな。ヒトの適応能力ってのは凄いもんでさ。低重力なんて一日で飽きるし、三日で慣れる。そして一週間で上手く扱えるようになるんだ。何しろ、色々な物が軽い。いや、正確に云うと軽い訳じゃないんだが。まぁドカタのオレにとってみれば、腕の見せ所って訳でね」彼は一息吐いて、パックに入った飲み物をストローで啜った。「で、何だっけ? 公募だったよな。まったく、マジで例の事件の影響はもの凄くてな」
「具体的には、どんな問題が?」
尋ねる殿下に、彼は生真面目に頷いた。
「まずな、研究の殆どがストップしてる。なにしろ主役の先生方は年寄りばかりだ、実際に基地に来るのは難しい。だから研究は、先生方の云われたとおりのデータを若いのが取って、地球に送って解析を行うって感じでやられてるのさ。けど受け取って調べる連中がいないんじゃ、どうしようもない。今は何とか立て直そうとしてるみたいだけどな、連中は結構暇そうにしてる。
それで公募の対象になってた多目的モジュール。オレは最近、その仕上げをやってた所だったんだけどな。そっちも選ばれたチームが全滅って訳だ。設備を仕上げようにも、プロジェクトが再選考されるまで何も出来ねぇ。おかげで帰還が何ヶ月延びるやら、ってな」
思っていたよりも事態が深刻なのを知って、私たちは互いに暗い表情を交わしていた。それを見て取ったおばちゃんが、不意に明るい声を発した。
「じゃあ、この子たちが応募しても、選ばれる可能性は高いってことね?」
「ま、内容次第だけどな」克也は現実的な台詞を吐いて、難しそうな顔で顎髭を撫でた。「応募数が少ないだろうってことは、学者連中も想像してたぜ。でもま、多目的モジュールの活用はかぐや基地の目玉だったからな。多少レベルは落ちても、やらないよりはマシだって思ってるぜ。だから可能性はあるかもな。それでオレの可愛い後輩たちは、一体全体何をやろうとしてるんだ?」
私たち四人は顔を見合わせる。そして代表して口を開いたのは、いつも通り岡だった。
「それで、なんですけどね。基地で足りないものって何ですか?」
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