第8話

 授業のない日は、昼過ぎまで寝て過ごすのが常だ。カーテンから差し込んでくる眩しい日の光に叩き起こされると、もぞもぞと着替えて寝癖がついたまま食堂に向かう。バイキングでパンとコーヒーを取って、窓際の席で半分寝ながら、黙々と口を動かす。


「よっ、ゴッシー。今起きたのか?」


 と、例の三人組が私を取り囲むように座るのも、すっかり日常のことになってしまった。


 おはようございます、と、口をモゴモゴと動かして云うと、岡は苦笑しながらラーメンに大量のラー油を注ぎ込んだ。


「なんだ、せっかく研究の目処がついたってのに。疲れてるなぁ」


「寝起き、弱いんです。岡さんは強そうですね」


 色黒の人は、寝起きに強い。というか寝なくてもいい。


 私の勝手な思いこみだが、彼は完全にそのタイプだった。


「おう。朝はキッチリしないとねぇ」


「血圧高そうですもんね。辛いのヤバいんじゃないですか」


 ぼんやりして云った私に、テツジ、そして珍しく殿下まで苦笑した。岡はキツネにつままれたような顔をして、それでも強気の表情で真っ赤になったラーメンを啜った。


「結構云うねぇ、ゴッシーも。実は毒舌?」


 しまった。後藤が出ていた。


 私は慌てて布団に潜り込んでいる五所川原を叩き起こして、後藤を鍵付きの部屋に閉じこめた。


「あ、いえ。すいません。ごめんなさい。ホントに、寝起きが弱くて」


「別にいいけど」


 皮肉に笑う岡に、例によって殿下が冷静に口を挟む。


「それより、キミたちは例の募集要項に、多少は目を通したんだろうな?」


 頷いたのは、私と岡。テツジは殊更に視線を逸らして、晴れた窓の外を見つめた。


「あ、春だねぇ。ハコベが生えてるわ。アレ、鳥の餌にいいんだよ。人も食えるし」


 まるで見当違いなことを云う。殿下は大きく咳払いして、ポケットから綺麗に畳んだ紙を取り出した。


「この公募の大きな特徴は、募集している事業が採算性を重視していることだ。恐らく、かぐや基地の効率を少しでも高めようという、実験的なプロジェクトなのだろうな。我々が事業を行えるのは、基地内にある多目的モジュールと呼ばれる部屋だ。大きさは百平米。およそこの食堂程度の大きさだな」


「問題は、それを使うのにも家賃がかかるってことだね。それも予算に組み入れなきゃならない」と、岡も懐から紙を取り出して、テーブルの上に広げた。「ざっと拾い上げてみた限り、こんなのを予算に入れなきゃならない。月額固定費として、部屋の借り代、環境制御代、オレらが住む部屋代」


「幾ら?」


 尋ねるテツジに、岡はニヤリと笑った。


「月々一億円ちょい」


「マジっすか」


「他にも、必要な物資を基地まで送る費用、もし製品を製造して地球に輸出するなら、その費用。あと、これ凄いぜ。水を使うなら、一リットル十万円」呆れて大きく開け放ったテツジの口に、岡はシナチクを突っ込んだ。「電気はわりと安いな。あとセラミックのような硅素化合物は、基地が生産してるから安く手に入る。でも地球で買うのに比べたら、何十倍も高いのには変わりない」


「そんなんで、黒字の事業なんて出来るのか?」


「だから宇宙公団も、民間の知恵に頼ろうとしているのだ」


 と、殿下。テツジは岡の手元にある紙をのぞき込んで、大きくため息を吐いた。


「ふむふむ。ロケット打ち上げに五十億かかって、三トンの物が送れる訳か? 水を三トン送ったとして、一リットルで」


 彼はポケットから電卓を取り出して、ポチポチと叩き始めた。


 どうしてそんな物を持ち歩いているんだろう。


 そう首を傾げる私の前で、彼は妙に綺麗な髪をバリバリと掻いた。


「なるほど、水が一リットル十万もする訳だ。ホントは十六万かかるわ。多少は補助金でも出てるのかね?」


「それはないな。私もその部分は詳しく読んでみたが、要件に記されている各種必要経費は、純然とかかる費用がそのまま請求されることになるようだ。恐らく水はかぐや基地でも生産しているから、多少は安くなるのだろう。月面下には、少量ながら氷が存在している」


「へぇ。月原産の美味しい水、一リットル十万円。そのまま地球に持って帰っても売れるんじゃね? そんくらいする酒なんて、幾らでも売れてるんだし」


「それは宇宙公団が許さないだろう。月面での水資源は貴重だ。金に換えられるものではない」


「逆に云えば、一キロあたり十六万円以上で売れるようなものじゃないと、かぐや基地で作っても意味がないってことか?」


 ぼんやりと呟いた岡に、殿下は小さく頭を振った。


「少し違うな。何も難しく考える必要はない。月面基地を、一つの島だと思えばいいのだ。その島への輸送料は、キロあたり十六万円かかる。送り出す際も同じ値段がかかるとするなら、往復で三十二万円だ。原材料費がゼロ円だとするならば、加工して輸出する際には、キロ当たり三十二万円以上で売れなければならない」そこで殿下は、少し首を傾げた。「そういえばキロあたり三十二万円というと、銀の価格に近いな。今までは水の話をしていたが、単なる石に話を置き換えよう。つまり何の変哲もない石を輸入し、輸出する際には銀になっていなければ元が取れないということだ」


「ん。おお。だいぶイメージが掴めてきたねぇ」


 テツジが喜々として云う。一方の岡は、悩ましげに息を吐き出した。


「でも、今のは輸送費だけの話だろ? 更に場所代が月に一億かかる。錬金術でも使わなきゃ無理だわ」


「地球上の話なら、な。月と地球の一番の違いは、重力が六分の一であること、そして大気が存在しない真空空間が、壁一枚隔てた外にあるという点だ。この特長を生かして加工を行ったならば、地球上では貴重な物質が、簡単に作れるかもしれない」


「なるほど。まずは、それを調べてみるかねぇ。化学科の連中に聞けば、何かわかるかも」ふと、岡はテツジに顔を向けた。「オマエの同じ中学から来たヤツ、化学だろ? 聞いてみてよ」


「うい」


「あとは。そうだな。そもそもなんだけどさ、原料を輸入して加工して輸出する、ってのの他に、何かないかなと考えてさ」


「例えば?」


 首を傾げる殿下に、岡は指を一本突き立てた。


「例えば、だけどさ。月面基地テーマパークとか。民間人の滞在用ホテルのようなのを作って、基地を案内して終わり。一泊一千万でも、来る奴はいるぜ」異議を挟もうとする殿下を遮って続ける。「例えばの話だよ。そんな感じで、サービス業のようなものでもいいんじゃない?」


「悪くはないが、公募の選定上有利に運ぶとは思えないな」


「なんで?」


「キミはどうやら、儲けることばかり考えているようだが。かぐや基地はそもそも、科学技術向上のために設置されたものなのだから、何らかの形で日本の科学技術の向上に貢献しなければならないのが、暗黙の了解だろうな」


「そうかなぁ。研究するにしても何にするにしても、金がなきゃどうにもならないだろ? 儲かれば儲かっただけ、収益を研究に回せるんだから。別にいいと思うけどな」


 たちまち、岡と殿下の間で激しい討論がまき起こった。収益を上げるにしても、それは科学技術の向上に貢献する形でなければならないとする殿下。儲かれば何をやってもいいという岡。


 その議論を混ぜ返したのは、いつも急に訳の分からないことを云い出すテツジだ。


「でもさ、面白いことやるのが一番なんじゃね? なんか低重力で何か合成するとか、観光業やるとか、面白いか? やっぱさ、ロボット作ろうぜロボット。んで月面探検ツアーとか。組み合わせれば面白いぜ」


 三者、三様。誰も間違ったことは云っていないが、とても方向性が統一されることはなかった。


 殿下の案の弱点。科学技術の向上を目指せば、それだけ提案が高度にならざるを得ない。それを高専生である私たちに出来るのか。


 岡の案の弱点。殿下が云うように、単なるサービス業では、公募の趣旨に反する恐れがある。


 テツジの案の弱点。私たちにとって面白いことは、大抵儲からないことだ。楽しい仕事は対価が低いと、相場は決まっている。


 だが、それぞれに利点があるのも確かだった。殿下案は公募に通る可能性が高くなるし、卒業研究としても十分だろう。岡案は、確かに金儲けには理想だ何だは邪魔になるだけだ。テツジ案は云うまでもなく、どうせやるなら楽しいことをしたいというのは、誰もが考えることだ。


 それにしても、彼らはいいトリオだな、と思う。それぞれの特質が、上手い具合に引き合い、かつ反発しあい、常識と非常識の間で上手くバランスが取れている。


 そうぼんやりと考えていると、不意に三人の視線が向けられているのに気がついて、思わず珈琲を取り落としそうになった。


「あ。え。何か?」


「ゴッシー、時々飛ぶよな」そう、面白そうに岡は云った。「いや、いっつもオレらだけで話してて、ゴッシー黙ってるからさ。何か云いたいことないかと思って」


「私ですか? 私は、そうですね」


 ふと、妙なデジャヴュを感じる。


 何だったろう。最近、これと凄く似た話をしたような気がする。


 そこで急に桜庭の声を思い出して、思わず私は苦笑してしまった。


「何? どうかしたの」


 怪訝そうに笑う岡に、私は珈琲を小さく啜ってから答えた。


「いえ。一般受けが重要だとかいう話を、最近してて」


「一般受け?」


「需要、ですよね。需要があるものが売れる。ですよね」


「だろ? やっぱゴッシーも、そう思うよな」


 私の一票を手に攻勢をかけようとする岡を、片手を挙げて遮った。


「別に岡さんの案の話じゃないんです。殿下も、テツジさんも、実は誰かの需要を満たしているんですよ。岡さんの想像している需要って、実は地球上の、ほんの一握りのお金持ちの需要なんです。殿下のは、宇宙公団の需要。テツジさんのは、子供たちの夢への需要」


 彼らは感心したように、小さく唸った。


「だから。誰の需要を満たすのが、一番いいのか。その顧客層の購買力がどれくらいあるのか。そういう視点で考えれば、もう少し折り合いがつくと思うんです。お金持ちを相手にすれば、それは一回あたりの収入は大きいですけど、人数が少ないから安定した売り上げは期待できません。一般大衆を相手にすれば、一回あたりの収入は少ないですが、安定した売り上げが期待できます。こういうのを分析するのを、市場調査とかって云うんですけど」


「へぇ。ゴッシー、なんでそんなこと詳しいの?」


 まさか同人誌を作って客商売しているからとも云えない。私はただ小さく笑って、珈琲を口に含んだ。


 早速、岡とテツジで、金を持っているのは誰だという話になる。だが殿下はそれに加わらず、じっと何事かを考えていたかと思うと、不意に辺りを見回して軽く手を挙げた。


 なんだろう、と彼の視線の先に目をやる。そこにはドリンクバーの飲み物を補充していた、栄養士のおばちゃんがいた。彼女は殿下に軽く微笑むと、トレードマークのパリッとした白衣に両手を突っ込んで近づいてきた。


「こんにちは殿下。ご機嫌麗しゅう」


 と、冗談交じりでお辞儀をする。彼はまるでそれが当然のことのように小さく頷くと、椅子の一つを指し示した。端から見ていると酷く傲慢な仕草だったが、彼女は気にもせず、微笑みながら腰掛けた。


 彼女の登場に、岡とテツジは口を噤む。そして何事だろうと殿下を見つめると、彼は真剣な面もちでおばちゃんと向き合った。


「上井さん、ちょっとお伺いしたいことがあるんですが」


「はい。何か?」


「貴方のご子息、かぐや基地にいらっしゃると、先日話されていましたよね」


「えぇ。その通り」


「ご子息とは、比較的簡単に連絡を取ることは出来るんでしょうか」


 なんのことだろう、と首を傾げるおばちゃん。


「まぁ、それはね。電話かけるのと同じようにして、パソコン通信で話せるけど。それがどうかした?」


「実は、問題がなければ、ご子息のお力を借りられないかと思って。ご承知のように、我々四人は卒業研究のテーマを探していまして」


 殿下は、簡単にではあるが、完全に要点を押さえた説明をした。そして話が月面基地での事業募集に及ぶと、おばちゃんは薄く皺の浮かんだ顔を綻ばせて、殿下の示した募集要項を手にした。


「あら。とても面白そうなことやってるのね。でも私の息子は、別に科学者でも何でもないのよ。大学なんか出てないし、単に沢山、建築重機の免許を持ってるだけで。話を聞いても、たいした参考には」


「そうではないんです。先ほど、我々四人でどのような提案がいいか話し合っていたんですが。そこで五所川原さんが興味深いことを」


 と、私の台詞を繰り返す。そうね、その通りね、と中年の女性特有の合いの手を入れるおばちゃんに、殿下は簡潔に付け加えた。


「そこでふと、私は思ったんですが。月面基地において、一番身近な需要は、それ自身に他なりません。つまり、月面基地で不足しているものを、宇宙公社が入手するよりも安価で提供できるならば、彼らに買い取ってもらえるのではないだろうかと」


「つまり、地球から運べば十六万、基地で生産すれば十万の水を、それ以下の値段で提供すれば、公社が買い取ってくれるんじゃないかって?」


 口を挟んだ岡に、殿下は小さく頷いた。


「例えばの話、そういうことだ。であるならば、実際に基地で働いている人に、不足しているのは何なのか尋ねるのが、一番手っとり早い。水か。鉄か。それとも珈琲やチョコレートといった嗜好品なのか。それに一番詳しいのは、研究に没頭している科学者などではなく、実際に月面基地の日常運営に関わっている人物。そう考えたのだ」


「なるほどね。そういうことなら、息子でも役に立てるかもしれない」そうおばちゃんは頷いて、腕時計に目を走らせた。「そうね、あなたたち、夜に時間ある? 九時過ぎくらいなら、仕事も終わってるでしょうから」


「いいな?」殿下は一同に目を走らせた。「では、また夜に」

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