第6話

「あぁ、岡。どうだ、ちゃんと研究してるんだろうねぇ」


 子鹿だ。その独特の少し頭の悪そうな口調を耳にして、私はそっと、ベッドの上に登ってパーティションの隙間から様子を窺った。


「やってますよ、もちろん」


 岡は調子良く云って、それでも身体で扉を塞いで中の様子を見せないようにしている。子鹿は彼の肩越しに中をのぞき込んで、眉間に皺を寄せた。


「なんだ真っ暗だなぁ。何か隠してるんじゃないだろうねぇ」


「まさか。さぁ、どうぞ。お茶でも飲んでいきます? 麦茶しかないですけど」


 身を壁際に寄せて、中を見せる。いつの間にか殿下は鉛筆を手にして、机の上で何か書き物をしているような格好を作り上げていた。


 子鹿は続けて腰に手を当てて牛乳を飲んでいるテツジを一眺めして、僅かに首を傾げた。


「いや、いい。それより、研究は何をするか決めたのか?」


「月面基地におけるサヴァディールについて考察しようかと考えています」


 さらりと云った殿下。子鹿は一瞬眉間に皺を寄せたが、すぐにいつもの人を見下す視線に戻って、小さく頷いた。


「そうか。まぁ頑張れよ。ちゃんと私は見てるからねぇ」


 ポン、と岡の肩を叩く。そして背中を見せた彼に対して岡は中指を突き立てていたが、不意に子鹿は思い出したように振り返った。


「そうだ、岡ねぇ」


「はい!」


 慌てて後ろ手に手を組みながら、岡はひきつった笑みを浮かべる。それを怪訝そうに眺めてから、彼は云った。


「時田先生の研究室なんだけど、片づけておいてくれないかなぁ。必要なものは全部搬出したから、残りの物はキミらが欲しければ持っていっていいし、いらなければ纏めてゴミ置き場に運んでおいてくれ。あと、掃除もな。頼んだぞ」


「了解です!」


 さすがに敬礼まではしなかったが、岡はビシっと背筋を伸ばす。怪訝そうに眺めながらも、子鹿は踵を返して去っていった。


 ペタン、ペタン、とスリッパの音が遠くなっていく。そして階段を上っていく音がすると、ようやく彼らは大きく息を吐いて、天井灯に明かりを灯した。


「クソ子鹿。死ねばいいのに」


 私が思っていたのと同じ事を呟きながら、岡は煙草に火を付ける。私が卓袱台の前に戻ってくると、彼は首を傾げながら殿下に尋ねた。


「そういや、いつの間にオレらの研究って決まったんだ? サヴァディールって何?」


「私も何のことだかわからない」怪訝そうにする三人に、彼は冷静に続けた。「口から出任せだ。プライドの高い子鹿先生のことだ、きっと尋ね返されることはないと考えたのだ。いわゆるイタズラというヤツだ」


 途端に岡とテツジは爆笑して、音を立てて膝を叩いた。


「きっと今頃、必死にサヴァディールって検索してるぜ」


「見つからなくて聞かれたらどうする?」


「『え、先生ご存じないんですか? まさかぁ。サンギッシュのバーベスタントのことですよ』って二段攻撃で」


「そうやって意味不明なのを増やしてくのね。何だよサンギッシュって」


 一通り子鹿への愚痴を云い終わると、岡は大きく息を吐いて立ち上がった。


「まったく。中途半端になっちまったな。どうする? 面倒だから、片づけやっちまうか」


「んだね。明日は明日の風が吹くし」


 聞いたこともない歌を歌いながら、テツジはジャージの上に黒いロングコートを羽織る。酷い格好を平気でする人だ。


 ともかくも寮を出て校舎に向かい、扉の上のプレートに隠してある鍵を取って、時田先生の研究室に入る。子鹿が云ったように、中にある本棚は殆ど空になっていて、机の上には選り分けた後らしい書類が散乱していた。その八畳ほどの荒れた室内を一眺めして、四人は誰となしにため息を吐いた。


 こんな時に号令を発するのは、いつも岡だ。


「よし、テツジ、雑巾持ってこい」


「うい」


「殿下は本纏めて。オレはゴミ袋と箒探してくる。ゴッシーはその辺に散らばってる書類だかパンフレットだか、段ボールに突っ込んで。あ、一応殿下と、使えそうなのは取っておいて。あるとは思えないけど」


「はい」


 とりあえず積み上げられていた空の段ボールを手にとって、文字通り山になっている書類を検めはじめた。その殆どは古い観測機器や測定器のカタログで、そういったものはポイポイと段ボールの中に投げ込んでいく。残りの判別しがたい論文や冊子のようなものは、脇に綺麗に積み上げていった。


 殿下は辺りに散らばっていた本を一カ所に集めるところから始めて、続いて表紙や奥付を丁寧に確かめながら選り分けていく。岡は箒でゴミを集め、テツジが辺りを適当に拭いていく。


「ふと思ったんだけどさ」と、例によって一番早く飽きたらしいテツジがぼやいた。「普通、研究って研究室でするもんじゃん? オレらこれから、どこで研究したらいいんだ?」


「オマエ、ここに来るの何回目だよ」岡は笑いながら、箒でテツジの尻を叩いた。「じゃあ子鹿の部屋でやるか?」


「それもイヤだな」


「とにかく、早く目処を付けないとなぁ。殿下、さっきの水の再利用の話さ。もう少し絞り込むにはどうしたらいい?」


「そうだな」彼は少し手を止めて、眉間に皺を寄せた。「とりあえず各自、月面基地の経済に関する論文に目を通したらどうだろう。そうすれば自ずと、我々が手を出せそうな部分が見えてくるはずだ」


「何本くらいあるの?」


「百本はない。一人頭二十数本というところだな」


「そっか」岡はため息を吐いて、箒の柄に顎を乗せた。「なんかさ、試験みたいに。出る範囲が決まってて、追い込んで勝負! っていうのなら凄く燃えるんだけどな。どうも漠然としすぎてるっていうか。乗らないんだよな



 そうか。岡も私と同じ感覚なのか。


 そう、いついつまでに何をしなければいけない、というのが決まっていれば、為すべきことをするだけだ。頑張ろうという気にもなる。けれども今はまだテーマすら決まっていない。不安に思うのも仕方がないだろう。


「乗る乗らないの問題ではない」と、殿下に限っては当然のことらしい。「そもそも研究というのは、子鹿先生が仰っていたように、誰かに押しつけられて行うものではない。人間社会がぶつかっている壁を見極め、必要とされているであろう問題解決方法について自主的に考えを巡らす。そういったものだ」


「つまり誰かが困ってることを解決するってことね。オレらも困ってるなぁ。〈簡単に卒業研究を捏造する方法〉、でも研究するか」


 私は〈一生楽して暮らしていける方法〉が知りたい。


 ぼんやりと思いながら、書類を選り分けていく。ようやく机の地肌が見えてきた頃、殿下が云った。


「こちらは終わりだ。数冊、使えそうな本は残っていたが。恐らく図書館にあるレベルだろうな」


「じゃ、ゴミ捨て隊第一陣。テツジ、行くぞ」


「うい」


 二人は持ってきた台車に束ねられた本やゴミを積み上げて、ゴロゴロと廊下を押していった。


「そちらの状況は?」


 尋ねる殿下。私は傍らの書類の束を指し示した。


「もう少しです。これ、見てもらえませんか。捨てていいか判断できなくて」


「いいだろう」


 書類は山の下の方に行けば行くほど古びていたが、一番下には数枚の冊子と一緒に、真新しい封筒が下敷きになっていた。怪訝に思って消印を確かめると、ほんの数日前に届いたばかりのものだった。


 きっと時田先生が亡くなってから届いて、配送係が机の上に置いていったものなのだろう。子鹿はそれに気づかず、封筒の上にいらない書類を積み上げていってしまったのだ。


 差出人は、日本宇宙工学会事務局。A4版の大きな封筒だった。


「つかぬことを聞くが」不意に殿下が、書類を選り分けながら尋ねてきた。「キミは今の状況を、どう思っているんだ?」


「どう?」


 彼らしくない言葉に、首を傾げる。ここ数日見た限り、彼は意図的に他人の心情を無視しているような所があった。とても私の気持ちを気にするとは思えない。


 だが殿下は少し戸惑ったように瞳を伏せて、殊更にぶっきらぼうに云った。


「キミは我々三人とは違って、いわば被害者だ。だから我々には、可能な限りキミの被害を少なくする義務がある。そのために、参考として聞いておきたかったのだ」


 なるほどね。


 それも、彼の性格として納得できる。責任感が強いのだ。


 私は封筒の口を千切りながら云った。


「まぁ、そうとも云えなくもないですけど。私も一年、遊んでいたのも事実ですしね。それに私みたいな女は、男子と違ってそれほど学歴をうるさく云われないし。それに正直なところ、機械工学を一生の仕事にする気はないんです。だから今の状況を、それほど苦にはしていません」


 私にしては、珍しく正直な言葉だ。真面目な人には、真面目になってしまう。


「なら、いいのだが」


 殿下は僅かに疑いを残しているようだったが、そのまま作業に戻る。私は何か言葉を付け加えようとしたが、それも上手くいかず、結局手元の封筒に意識を戻した。


 中には学会誌の最新号と、送り状。そして数枚の紙が入っていた。


 中東における事件の概要と、お悔やみについて。


 そう紙には記されていた。


 先日の撃墜事件の概要説明が、丁寧に記される。それに続けて、公式には未だ行方不明扱いの人々の名前が列記されていた。


 紙面の大半を占めているそのリストを見ると、殿下の云う〈日本の宇宙開発の危機〉が、私にも少しだけ理解できた。付記されている役職は、教授、博士、主任研究員と、大層立派なものばかりだったのだ。


「まったく、嫌になるわねぇ」


 ふと、食堂のおばちゃんの言葉を思い出した。あの時はそれほど深刻には考えられなかったが、こうして一人一人が、どこでどんなことをして生きていたのかを突きつけられると、さすがの私も少し暗くなる。


 とはいえ、人生が思い通りにならないのは誰も一緒だ。


 死は誰にでも平等に訪れる。


 単にそれが早いか遅いかの違いがあるだけで、問題はその人生の締め切りが訪れるまでの間に、一体何をしてきたのかということ。


 私は、こんなことをしていていいんだろうか。


 ふと、そんな焦りの気持ちが沸いてくる。こんな当面の逃げ口上を探す無意味なことをしている暇があったら、一本でも多く、漫画を描くべきなんじゃないだろうか。


 駄目だ、頭が暗くなる。


 焦って、落ち込んで、無駄に考えを巡らせているだけじゃぁ、何もいいものは創れない。そう私は経験から知っている。気分が落ち込みそうになる気配を察知して、無理に頭を切り替えようとした。


 ご冥福をお祈りいたします。


 そう締めくくられている紙を折り畳んで封筒に戻そうとしたが、裏面にも続きがあるのに気がついて、再び広げて目を落とす。


 付記、一。それはありきたりな寄付のお願いだった。遺族に対する見舞金、一口二千円。


 研究室で、一人一口くらいは出すべきかな、と流し読む。


 そして付記二。それを見たとき、不意に私の胸は大きく一つ鼓動した。


 


 月面基地かぐやにおける事業機会提供に関わる公募の緊急追加募集について


 航空宇宙公団は、民間企業・大学等による月面基地かぐやでの事業機会提供の公募を行い、選定されたプロジェクトについて、今年度より順次実施する計画でしたが、輸送機撃墜事件のため関係者の多くを失い、選定プロジェクトの事業継続を断念せざるを得ませんでした。


 しかしながら事業実施の場である〈多目的モジュール〉は予定通り今四半期中に完工する見込みであり、その有効利用は亡くなられた関係者一同の悲願でもありました。


 そのためこのような状況下ではありますが、事業の緊急追加募集を行うこととしました。非常に短い期間での募集・選定を予定しておりますが、ふるってご応募ください。


(1) 事業内容および期間、予算


月面基地かぐやにおける独創的かつ収益性のある事業モデルの実施。十二ヶ月程度を想定。予算は宇宙公団が拠出し、最終的な収益に関しては実施者へ還元するが、損益は宇宙公団の瑕疵とする。


(2)応募資格


十八歳以上五十歳未満であり、宇宙公団の定める身体健康要件を満たす者。


(3) 事業実施主体となり得る候補者の選定方法


公募要領に基づき、提出された応募申請書について審査を行い、事業実施主体となり得る者として最大二組を選定。


 以下、公募期間、選定日、各種条件、注意事項等々。その何処にも、私たちの応募を妨げる記載はなかった。


「どうしたゴッシー、顔真っ赤にして。大丈夫か?」


 あまりにも集中しすぎていたせいか、三人の男子が私を取り囲んでいるのに気がつかなかった。喉の変なところから叫び声を上げてしまう。


「うぉ、って。凄い男みたいな声出すな」


 笑う岡に顔を更に赤くしながら、私は手にしていた要項を彼らに突き出した。


「これ。これ、いけますよ、絶対」


 首を傾げながら一枚の紙をのぞき込む三人。最初彼らは眉間に皺を寄せていたが、一人、二人と顔を上げると、互いの顔を見比べ始めた。

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