三十五章

 それからイングランドは一週間ほど、一戦も交えていないにもかかわらず戦勝ムードに包まれていた。兵士たちは、雷鳴轟らいめいとどろくがごとく現れた我がイングランド軍に敵は恐れをなして逃げていったのだ、とか、女神めがみが舞い降りて黄金の杖をふり下ろし俺達にほほえんだのである、などとありとあらゆる手柄横奪おうだつとゴシップを産み、酒場では吟遊詩人ぎんゆうしじんがさも見てきたかのようなフィクションを歌でつづった。元はといえば俺が小遣こづかい稼ぎに酒場で講談こうだんをしたものに尾ひれがついてしまったのだが。


 俺は日々の聖職にかまけて、またもやモラトリアム人生を謳歌おうかしはじめ、抵抗しつつも流され流され、毎朝眠たい目をこすりながら祭壇さいだんにロウソクをともしては消す生活がはじまっていた。

 ある朝、城内の中庭にポツリと立っている事務所のドアが、やたら汚れているのに気が付き、こいつにもずいぶんと世話をかけたななどとつぶやきながらタワシでゴシゴシと洗ってやった。このタイムトラベルの仕組みもよく分からんのだが、もしかしてここでドアを開いたら時間移動空間が現れるのだろうかとドアノブを回して引いてみた。するとポロリと取れた。

「あらら、ヤベえ」

俺はだいぶ摩耗まもうしたドアノブの部品をまじまじと見つめた。このモノリスも、豚のふんを運ぶのに使われたり、雨をしのぐ屋根代わりにされたり、身をまもる盾にされたり、荷台にされたり、果てはタイムマシンにされたりと、あまりの酷使こくしにどうやら引退の時期をむかえようとしているようだ。

 俺は城の外へ出て長門のドラッグストアまで歩いていった。

「長門、そろそろ未来に帰ろう。ドアが寿命に近づいてる」

ドアノブの金具を見せると長門はコクリとうなずいた。今まで散々しぶって、いや俺は別にしぶっていたわけではないのだが、この時代が気に入っていたのか未来へ帰る理由をこじつけられずにいた。ノブが外れたショックからか、足止めしていたなにかが一気に外れた気がしたのだ。

 それに、今じゃないとハルヒや朝比奈さんがまた旋風せんぷうを巻き起こしてしまい永久に帰るタイミングを失ってしまいそうな気がした。正直、長居しすぎて帰る機会を逃してきたのはSOS団の唯一の良心である俺の責任かもしれない。


「マイロード、そろそろ俺たちの時代に帰ろうかと思います」

唐突とうとつに切り出したが伯爵は、

「そうか、名残惜なごりおしいな。ならば見送ろう」

存外あっさりと了承りょうしょうを得た。この人もそろそろ魔法やら超常現象やらが日常的レベルになってきて少しヤバい気がするな。

「おい古泉、そろそろ帰るから準備しとけ」

「いよいよですか。今となっては住み慣れた我が家なのですが」

白雪姫の一件で左目のふちにできた青あざがなかなか消えずにいる古泉は、城を見上げて別れをしんだ。


 朝比奈さんにはすでに伝えたが、醸造じょうぞう技術を伝授しにスコットランドに出張したりフランスに押しかけてフィリップに殴り込みをかけたりしているハルヒにはなかなか言い出せなかった。まあそのうちに伝えればいいやなどと手ぐすねを引いていたわけではなく、俺は未来への帰還きかんの準備に追われていたのだ。これだけグロースターの行政に関わってしまった手前、サクッとやめて帰るわけにも行かず、後任の執事に仕事の引きぎをしなければならなかった。

「あっそう。じゃあたしもグランパの土地を農奴のうどゆずってくるわ」

こっちもあっさりと承諾しょうだくしやがった。土地の譲渡じょうとは領主の許可がいるのだが、まあ俺が行政書士ぎょうせいしょしねているので書類だけ書いて伯爵にはサインをもらうだけだった。


 二週間後の満月の日の夕暮れどき、俺達はなにも持たず、伯爵自らが騎士団を先導する馬車で城を出た。執事さんやメイドさん達が城門までずらりと並んで見送ってくれた。てっきりまた俺が落ちてきたあの畑に行くのかと思っていたのだが、一行はグロースターの街の東の門から出てロンドン方面の街道を進んだ。途中で北に抜けて森の中の小道に入り、木々の間からときどき放牧地を見ながら進んでいる。


 夕日が西に沈み、森が完全な闇に包まれた頃、ようやく行列が止まった。道の真中にランプを下げた鶴屋さんが立っている。

「いよーう、待ってましたロード・スマイトの御一行様ごいっこうさま、ようやくご到着かい」

「良い晩だなシスター、お勤めに痛み入る」

「いいっていいって。さあさ、あんまり時間もないから降りた降りた」

俺達はそこで馬車を降りて森の中へと案内された。ここ、俺のかんではハルヒ達が暮らしていたグランパの土地に近いのだが。古泉に尋ねると、そうですねオックスフォードとの境目くらいでしょうか、もう少し西に行くとマナーハウスがありますとこたえた。


 その後も森の中を歩き続けてようやく開けた場所にたどりついた。そこには白装束しろしょうぞくで松明をともした人たちが集まっていた。これが二十一世紀なら中世かぶれした宗教法人な人たちだが。

「シスター、この人達はいったいどなたで?」

「うちの修道会のメンツだよ」

よく見ると同じ白装束しろしょうぞくでイカみたいな頭のフードをかぶっている。鶴屋さんはドヤ顔で、これをご覧よと俺達の周りを両手で示した。外側に高さ一メートルほどの直方体の石柱が並んでいた。ランプをかざしてみると輪になって俺達をぐるりと取り囲んでいる。

 長門の耳元に口を寄せ、

「大丈夫か、妙な儀式で生贄いけにえにされたりせんだろうな」

「……ここで時間移動の儀式をはじめる」

「ってこれ? これがタイムマシン?」

「……そう、この時代の流儀りゅうぎで帰る」

この時代の流儀りゅうぎって、ずいぶん古風っていうかアナログっていうか。長門の説明によると、この石柱の輪は万年時計で、うるう年を含む一年を七十七個の石で表現した農耕用のカレンダーなのだそうだ。こんな石のかたまりだけで本当に時間移動ができるのかと首をかしげていると、

「んーっとね、うっとこに伝わる伝承に、八百年ごとにここでトンネルがつながるとかいうのがあるんだよね。今日がその八百年目ってことさ」

「ってことはシスターは八百歳を超えてるんですか」

鶴屋さんはあはははと乾いた笑いをしながら俺のほっぺたをつねり、

「なに言ってんだいブラザー、あたしゃまだ三十路みそじにもなってないんだよ」

笑いながら半分怒ってるみたいな鶴屋さん、イタタタすいませんレディに年を尋ねるなんて失敬ですよね。なんだか時空を超えたような存在なのでつい。


 ストーンサークルは直径でだいたい三十メートルくらいだ。ドルイド修道会、と名乗る見るからに怪しいよそおいをした人達は石の輪の内側に並び、直径三十メートルくらいの輪を作って立っている。鶴屋さんが中心に立ち、魔法を起こせそうなかいな形をした杖を握っていた。


 長門の指示で俺は石と石を結ぶ直線を引き、鶴屋さんが立っている位置を中心にしてペンタグラムを描いた。線を引いているときに、生えている草や石ころなんかに引っかかって形が若干じゃっかんいびつになり、正確な五芒星ごぼうせいにはならなかったが、石柱が起点と終点になっていたので中学校のグラウンドに描くよりは簡単だった。それから長門が指先で石柱をひとつずつなぞってゆき、石の表面にどこかの宇宙語っぽい文字が浮かんだ。たぶんいつものアレだ。“わたしはここにいる”だろう。

 それから、元は我が社のドアだったモノリスを、まるでスクリーンのように鶴屋さんの背後に置いた。今にも取れそうなノブはかろうじて元の位置に収まっている。


 シンと静まり返った濃い闇の中、鶴屋さんが低く響く声で呪文をとなえはじめた。翻訳ナノマシンの誤訳ごやくだったのか、俺にはどう考えても結婚式の高砂たかさごにしか聞こえなかったのだが、ケルト地方の言語らしい。俺達の外側にいたドルイドたちが詠唱えいしょうしながら右回りに円を描くように歩き出した。ぐるぐると回転木馬のように白装束が巡り、だんだんと詠唱えいしょうの声を高めていった。

 真ん中に立っている鶴屋さんが左手を上げ、右手に持った杖でトンと地面を叩くと、鶴屋さんの足元から青い光が立ち上った。俺とハルヒはオオォと声を上げた。青い光は一瞬白く輝き、夜空に伸びる円筒状のサーチライトのようになった。

 鶴屋さんが左手で長門に合図をしている。軽くうなずいた長門が右手を上げて詠唱えいしょうをすると、ストーンサークル全体を取り囲む光の帯が地面から立ち上がった。やがてその帯はぼんやりとした光からピントを合わせるようにアルファベットの形に並び、ラテン語のつづりになっていった。ゆるやかに左回りに回っている。スペクタクル魔法をはじめて見るらしいハルヒが目も口も丸く開けて驚愕きょうがくしているようだが。


 鶴屋さんが杖を降ろし、ひょいと右手を上げて、

「んじゃあユキリナ、あとはあんたにバトンタッチするさ」

「……分かった」

おずおずと右手を上げた長門とハイファイブをぺちっとやった。

 長門がこっちを見つめたまま、ドアノブを示した。ああ、俺に開けろってのか。俺は冷たいそれを握って回した。音もなくゆるやかに開くと、そこにはなにもなく、ただ暗闇の空間だけがあった。

 俺は最後に別れの挨拶あいさつをしようと伯爵に近寄り、

「マイロード、いろいろお世話になりました」

「いやいや修道士殿。こちらこそ多くを勉強させてもらった」

差し出された手をにぎり、三度振った。古泉が一歩前へ出て伯爵の手を握った。

「騎士として生きる道を、一生この胸に抱いてまいります」

伯爵は騎士さん達に向かって、

「サーコイズミに向かって、敬礼」

騎士団がイングランド式の敬礼をし、古泉が返礼をした。

「ちょっと待ちなさい伯爵、あんたも未来に来るんじゃないの?」

「それは……残念ながら無理だな」

「ってことはみくるちゃんは、」

「涼宮さん、ごめんなさい。わたしは帰れないわ」

伯爵の隣に寄りい、ハリーを抱きしめる朝比奈さんをハルヒは呆然とした様子で見つめた。自分のおもちゃが消えて無くなってしまった子供のような、そんな表情だった。

 ハルヒは朝比奈さんの両肩に手をポンとのせ、

「みくるちゃん、分かったわ。だったらあたしも一緒にのこ、」

最後まで言い終わらないうちに、背後から古泉がイライラと眉間みけんにしわを寄せて笑顔を作るという芸当を見せて、ハルヒの首に腕を回し、

「あなたは僕達と一緒に帰るんですよ、涼宮さん」

「だ、だってみくるちゃんはあたしがいないと、ムグググ」

「だめです。社長がいなかったら僕達の会社はどうなりますか。考えてものを言ってくださいね」

古泉の大きな手がハルヒの口をおさえつけている。

「ぷあっ、このこの、古泉!」未だかつてその名を呼び捨てにしたことのないハルヒは一瞬躊躇ちゅうちょして「くん、株式会社SOS団代表取締役の名において、たった今あんたを解任する。これでどうよ!」

ってオイ、こんなときに取締役会を開いてる場合か。

 眉毛をピクピクと動かしていた長門さんのイライラが限界に達したようで、ハルヒの首根っこにちょんと触れようとした。古泉がそれを止めて、

「あの、長門さん」

「……なに」

「一度だけわがままを言ってもいいですか」

「……わがまま、とは」

「それ、僕にやらせていただけませんか。一度だけでいいので」

なにか良からぬことをたくらんでいるのがバレバレで、ハルヒもそれに感づいて、

「あ、あんたたち何の陰謀よそれは!」

古泉と長門のゴニョゴニョ裏取り引きが成立したらしく、古泉が右手を上げラテン語っぽい呪文をとなえた。次の瞬間ハルヒがピキと固まり、ビシ指をしたままの等身大フィギュアが出来上がった。

量子凍結りょうしとうけつしました。これは素晴らしい魔法ですね」

こおっちまったのか。ナウマンゾウといい勝負だな」

「……帰還後きかんごの始末、および説得はお願いする」

ってお前もなあ、面倒なところだけ押し付けるなんて、だんだん誰かに似てきたぞ。


 並んだ騎士さん達の間から走り出てくるやつが一人いた。

「おい修道士、ちょっと待て!」

ふり返ると谷口が叫んでいる。

「なんだ、着いてきてたのかトニー」

「ユキも連れて行っちまうのかよ」

谷口は今にも泣き出しそうな情けない表情をしている。

「……トニー」

涙目の谷口を見て、長門も少しばかり感傷かんしょうするところがあったらしく口ごもっている。谷口の野郎に同情するなんざ生涯しょうがい初めてのことで、たぶんこれっきりだとは思うが、俺は正直あわれむ気持ちになった。自称フィアンセとはいえ、この時代の長門が世話になっていたのは確かだしな。

「おいトニー、俺達は別世界からの旅行者なんだ。どうしても帰らなきゃならん。今を逃したら永久に帰れなくなる」

俺は長らく世話になった腕時計を外して谷口に投げてやった。まあ元はと言えばお前のもんだしな。

「なんだよこれ」

餞別せんべつがわりだ、とっとけ」

谷口は自分の名前が書いてあるイタリア製の時計をまじまじとながめた。

「おいユキ、そいつに飽きたらいつでも帰ってきていいからな。何年でも待ってるからな」

「……待たないでいい。早く自分の幸せを見つけて」

長門にしては珍しく恋のアドバイスっぽいことを言っている。まあ、あれこれ目移めうつりする谷口が長々と待ったりしないことは歴史が証明してるがな。


「じゃあ、鶴、じゃなくてシスタークレイン、いろいろありがとうございました。このお礼は向こうの世界で」

「おやすい御用さ。あっちのあたしにもよろしくねっ」

「朝比奈さんのことをよろしくおねがいします」

「あいよっ、まかせときな」

「キョンくん、長門さん。本当にありがとう」

長門はなにか言いたげに朝比奈さんを見つめていたが、やがてそばに歩み寄り、

「……もしものときはこれを使って」

「これはなに?」

「……緊急治療用」

この先の運命を知っているらしい長門が、小瓶を伯爵に渡そうとしたが、伯爵は笑顔でうなずいてその手を握った。

「ミス・ナガティウス。いろいろと尽くしていただいて、本当に感謝している。その薬も実にありがたいのだが、私は、この時代の流儀りゅうぎで生きようと思う」


── 人には各々、与えられた有限の時間がある。その中でいかに最高の出演者たるかが重要だ。最高のキャストは自分のぎわをわきまえているものだよ。


朝比奈さんにそれでいいのかという視線をやると、朝比奈さんはうなずき、長門は小瓶をポケットに仕舞しまった。


 長門がドアをくぐる前に朝比奈さんは深々とお辞儀じぎをした。お返しに、長門は右手をニギニギした。それを見てハリーがニギニギを返している。


 さて、長い旅路たびじが本当に終わる。俺は先に三人と一体が入った時間移動空間に片足だけ踏み入れてから、一度だけ後ろをふり返った。

「じゃあ、お幸せに」

聞こえたのかどうか、うなずきながら、鶴屋さんはまたも八重歯やえばを見せ、両手で親指を立てた。


 そして静かに、再びドアが閉じた。


 三人は背筋せすじを真っ直ぐに伸ばし、進むべき方向を見つめて歩き始めた。

「いやー、本当に長かったですね」

微妙に聞き覚えのある古泉のセリフに俺達もうなずいた。

「おつかれさん。前にも言ったが、お前ちょっと貫禄かんろくついたぞ」

「心身ともにいいトレーニングになったと思います。あなたもお腹が少し引っ込んだようですね」

ひ、人が気にしていることをズケズケと。

 俺は古泉が抱えている冷凍マグロをながめながら、

「ハルヒだけはぜんぜん変わらんなー。こいつには成長とか進化とかいう言葉が一切似合にあわん」

「不動の涼宮さんと申しますか、微動びどうだにブレない涼宮さんとでも表現しましょうか」

ハルヒには聞こえないことをいいことに二人は大声で笑った。気がつくとハルヒの右手が俺のすそをつかんでいた。偶然だよな。気絶していていも気に食わないらしい。

「……気をつけて。見えているし、聞こえてもいる」

「ええ、エエエェ? こいつ生きて、いや聞こえてんのか」

「……そう。凍っているわけではなく、彼女の時間の流れ方が一定でないだけ」

長門いわく、これはローリングダルマ時間平面飛躍ひやくといって俺達が見ていない瞬間にだけ動くものらしい。コエーよどんなホラーだよ、早く言ってくれよそういうヤバいことは。知らずに秘密をらしたらどうすんだ。

 再度目をやるとハルヒの腕がビシ指ではるか遠方を示している。そっちを見ると、横に伸びる地平線が見えた。

「なんだありゃ」

地平線のように見えたのだが、一本の青い線だった。近くにあるのか遠くにあるのか。俺達のいる地点からどれくらいの距離にあるのか見当がつかない。こういうなにもない空間では目が焦点を合わせられないようだ。

「……事象の地平線」

「なるほど」

なるほどと言ったのは古泉で、なぜかクスリと笑っている。長門にしてはダジャレたつもりなのかもしれんが俺には分からなかった。

 さらに数十分くらい歩いただろうか、青い線は実は青い帯で、上のふちのところどころが黄緑だったり紫だったりしてオーロラのような光を放っている。最初は見えていなかった地平線が徐々に見えたということはだな、俺が考えるに、俺達は非常にゆるやかな球体の床の上を歩いてきたのではないだろうか。

「……正解」

おお、当たってた。光の帯は高さもあり、目見当めけんとうでも五十メートル近くはありそうだ。三人の足はそのオーロラの壁に突き当たった。

「行き止まりなのか?」

「……気をつけて」

「今度は何だ?」

「……ここから先、落下する」

「エエッ!?」

と思う間もなく、オーロラの壁に足を突っ込んだ俺は地面を踏み外し、真っ逆さまに落ちていった。


 青い光の中を重力に引っ張られてどんどんと落ちていく。俺の両手は必死に何かをつかもうとするがなにも触れないし引っかかりもしない。三半規管さんはんきかんがオーバーフローを起こしたような不快感ふかいかんと、胃の中から上がってくるなにものかと戦いながらひたすら落ち続けた。長門と古泉はどこだ、と落ちてきた上の方向を見てみるが人らしき姿はない。なんかすごい勢いで一分の一スケールフィギュアだけが落ちていった。


ECCE HOMO EQUIST HARUHINA CIQUIS AUTEM VESTURMARIENOUS...


 どこか遠くから、宇宙の深淵しんえんから低く響く声がする。なにかの詠唱えいしょうのようだ。そういえば時間移動技術実験のとき長門がとなえてたのはこの文句じゃなかったっけ。と、三年前の記憶をたどっていると、ああ、やっと思い出した。俺は現実空間に出現すると同時に地面に激突げきとつしなければならんのだ。

 無事に等加速度運動とうかそくどうんどうを終えた俺は、どうやら吸い慣れた世界の空気に触れた。あーなんだかなつかしい、適度ににごった空気だぞと感慨かんがいにふける間もなく、次の瞬間、地面とご対面となった。土だ。日本の国土のどこにでもある土だ。俺は気をつけをしたまま顔面の痛みをありがたく受け止めた。

「ハルヒはどこだ?」

という聞きなれない声が聞こえたが、非常によく知ってる人物の声だと思い当たった。外耳がいじを通じて聞こえる自分の声は得てして知らないものだ。

「ハルヒならそこに転がってるだろ」

と言いながら俺は痛む頭をおさえつつ、なにかの前衛芸術ぜんえいげいじゅつでも鑑賞するかのように、自分の顔で型どられた地面の穴をまじまじと観察した。俺って内側から見るとこんな顔だったのか。

 ふり返ると、青い巨人がやる気なさげに両腕をだらりと下げているし、古泉と古泉がなんだか生き別れの双子に遭遇そうぐうしてご対面ですみたいなことをやっているし、長門が、この時代の長門が心配そうに俺を見つめている。ああ、俺は大丈夫だよ。明日からお前たちが旅に出るんだからな、何も教えてやれないが、まあうまくやれよ。

「どうでもいいんだが、長門? っていうかそっちの長門、何があったんだ?」

間抜けな俺(小)がヒントを欲しがっているが、フン、教えてやるものか。苦労したのは俺だもんな。過去は自分のもの当然誰とも取り替えたくないー、っと。

「……それは禁則事項。知らないほうがいいこともある、あなたにとってはそれが不幸を招く」

ほらみろ、俺の長門もそう言ってる。っていうか教えてくれなくても十分不幸に見舞われた気がしますが。


 俺(小)は後ろに立っている神人をなんとかしろと古泉に言っている。

「いえ、ここは僕に任せてください」

キリリとした表情になって、なんだか古泉(大)がやる気満々になってるぞ。俺はもう歩き疲れたのと帰ってきた安堵感あんどかんで早く帰って寝たいところなのだが、ここでまたスペクタクルショーの一幕があんのか。


 古泉(大)は青く光る円柱の外側の境界線をペタペタと手で探り、腕を差し入れるとじわじわと体をもぐり込ませた。足元にはあのとき俺が描いたペンタグラムがあり、古泉はその真中で立ち止まった。なにかを念じるかのように、思わせぶりに息を吸って九度くらい顔を上げてから目を閉じた。古泉が着ているマントがパタパタとはためいている。風は吹いてないはずなのだが。

 右手をにぎりしめて、地面に片膝かたひざをついてこぶしをふり下ろした。ペンタグラムの形の光が大きくれた。古泉はカッと目を見開いて口の端だけでニヤリと笑ってみせた。次の瞬間、古泉の体は強烈な光に包まれた。その光は白から赤へと変わってゆき、幾重いくえもの光の矢が集合してひとつの玉になった。赤い玉は膨張ぼうちょうしはじめ、やがてペンタグラムのふちに沿って上に向かって伸び、青い巨人を円筒状に包み込んだ。

 光が、少しずつ、消えていく。ぼんやりと突っ立ってた青い巨人が少しずつ小さくなり始めている。え、なんでオレ小さくなってるの! 的な感じで左右をキョロキョロと見回している巨人である。巨人というかもう人間サイズだぞ。人サイズからフィギュアサイズへ、さらに球体に変わっていき、最後はビー玉になり、ゆっくりと古泉の手の上に降りた。古泉はその光る青いビー玉をハルヒの頭の上に乗せた。線香花火の最後のような光を放ち、そして消えた。


 まばたきをすると、東中の校庭からペンタグラム、ラテン語の文字、青い円柱、一切が消えていた。

しょぱなから派手すぎんだろ。こういうシーンは最後に取っとくもんだぞ古泉」

「お言葉ですが、今の僕はすでにクライマックスを終えて帰ってきたところなのですよ」

あー、クライマックスどころかこれがエンディングだったらずいぶん楽だったのになと思う、ドッと疲労困憊ひこうこんぱいに襲われている俺である。まあこれから俺(小)が苦労するわけだが。

 古泉(大)がいつもの方法で神人を消滅させなかったので俺(小)が今のはなんだったんだと問い詰めている。もういいよ古泉、そんな丁寧ていねいに説明してやらんでも。

「最近僕は思うんですが、この神人は涼宮さんの分身のような存在なのではと。それをあっさりと消してしまうのは、なんだか涼宮さんの生きる力を否定しているようで忍びないのです」

なにかっこつけんてんだ、今まで消滅しょうめつさせた全神人に謝れ、今すぐ謝罪して供養くようしろ。お前も自画自賛じがじさんするな古泉(小)。


「えーっとだな、お前たちがここにいるってことは、」

ああそうだったな。たしか俺達は一日早く帰りすぎたんだった。

「おい、俺、今何時だ」俺は俺(小)に尋ねた。

「九時半を回ったところだが」

こんな格好じゃ家にも帰れん、会社のビルは閉まってるし、

「長門、すまないんだが、三人を泊めてもらえないか?」

長門は長門(小)をじっと見つめて、

「……未来の情報が漏洩ろうえいする可能性がある。お勧めしない」

いや未来じゃなくて過去だろ、などとどうでもいいツッコミをしそうな俺だが、しょうがない、いつものごとく鶴屋さんに頼もう。

「おい電話貸せ」

俺は強盗に襲われたときになくしたはずのスマホを俺(小)からひったくった。シリコンカバーのなつかしい手触りだ。

「もしもし鶴屋さんでしょうか。夜中にすいません、ちょっと緊急事態につきお願いがありまして」

『イイヨイイヨー、みんなそろってうちにおいでよ。ちょうど一杯やろうかと思ってたところさあ』

鶴屋さん、話早すぎ。

「ありがたい、鶴屋さんが泊めてくれるとさ。返すぜ」

ああそうだった、俺たち足がないんだ。わざわざタクシー呼ぶのもなんだし、たしか俺達って近くの墓地ぼちまで車に乗ってきたんだったよな。

「おい車貸せ」

車のキーをポケットから取り上げた。腹も減ったし鶴屋さんちに手ぶらで行くのもなんだし、

「金よこせ」

さすがにムッとした顔をしていたが、まさか自分から金を巻き上げることになろうとはな。これも因果か。

 降ってきたドアを事務所に運んでおくよう言いつけ、腹が減って気が立っている俺はさっさと二人をせっついてその場を去った。俺は長門と手をつないで校庭を出たが、長門は去り際に俺(小)に向かって手を振っていた。長門(小)だけは一緒に連れて行きたかったな。


「いよーう、待ってましたSOS団御一行様ごいっこうさま、ようやくご到着かい」

ようやくと言っても中学校から鶴屋さんちまでは五分もかからないのだが、数年ぶりに車の運転をする俺が駐車場にバックで乗り入れるのに意外と手間を取った。数年ぶりに面会する二十一世紀バージョン鶴屋さんは鳴り物入りで出迎でむかえてくれた。俺達って、都合が悪くなるといつもこの人に頼ってるよなあ。鶴屋邸に足を向けて寝れないわ。

「鶴屋さん夜分に申し訳ありません、一晩ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします」

機関の職員は鶴屋家とは接触を持ってはならんルールがあるとかで、緊急時に限り禁を犯した古泉が深々と頭を下げている。しゃなりとした部屋着風の和服をされた鶴屋さんは袖に手を引っ込めてパタパタと振っていた。古ぼけた洋風衣装を着ている四人を好奇こうきの目で頭から足までジロジロながめ、

「まさかコスプレイベントの帰りとは知らなかったよ。って、古泉くんが抱えているそのでかいかたまりはなんだい?」

「えーとですね」

どう説明したものかと考えていると、そのでかいかたまりの正体を確かめていた鶴屋さんがギャハハ笑いをし、

「キョンくんったらフィギュアメーカーでもはじめたのかい」

「ええ、今日は一分の一スケールの即売会がありましてね」

「なーるほどぅ、涼宮ハルヒの造形っとな」

誰が買うか知らんが、売れるってんなら量産してもいい。鶴屋さんは笑いをこらえながら、

「玄関先で立ち話もなんだぁ、さあ上がった上がった」

ここって畳敷きの十畳間じゅうじょうまくらいあるけど玄関だったんだよな。俺の部屋より広いわ。


「……蘇生そせい

長門がつんつんと袖を引っ張ってハルヒのフィギュアを指している。

「ああそうだった。鶴屋さん、早速なんですが風呂お借りできないでしょうか」

「いいよ? たんといてるっさ」

前にも来たことがある、例の四人で入っても余裕よゆうあるサイズのヒノキの風呂桶な。

「長門、お湯が入っててもいいのか」

「……いい。このまま運んで」

ハルヒ人形を抱えた古泉を先頭に、三人と一体は長い廊下をぞろぞろと風呂場に向かった。風呂は男女別れてるわけではなく、まさかこのまま混浴ではあるまいな、と思ったのか鶴屋さんは怪訝けげんな顔をしている。服を着たまま風呂場に入り込むのもおかしいが、マネキン人形を抱えて入るのは一体全体洗うのが目的なのだろうか、はたで見ればさぞかし奇妙きみょうな光景に映ったに違いない。この際だし金ダワシでガシガシ洗ったろか。

 古泉が風呂桶に人形を沈めると長門がヒノキ材のふたをした。浴槽よくそうの前に座り込み、

「……マサトマーヤ、サドガマーヤ」

ブツブツと呪文をとなえ始めた。どっかの宗派のマントラだった気がする。俺も十字架をかかげて、どうか心身ともに生まれ変わってまともな人間に、いっそのこと別人に生まれ変わりますようにアーメン、ととなえた。


 数分間じっと待ったがなにも起こらないので長門は首をかしげている。今回のハルヒは肉骨粉にくこっぷんじゃないし、蘇生そせいつったってラーメンにお湯を注ぐのと同じだろ、などとツッコミを入れると長門は少し憤慨ふんがいしたような表情をして、

「……血。血が足りない」

ヨーロッパの城に忍び込んだ盗賊三世みたいなセリフをつぶやく長門だが、俺はまた血を抜かれるのかってイッテテ、指先に針を刺す前に気持ちの整理くらいさせてくれ。血の気が引いてきた、ああ俺もうだめ……死ぬ。


 風呂桶の中からバッタバッタとなにかがもがく音がする。いやぁ無事生き返ってよかったよかった、とニコニコ笑っているのは古泉の方である。このまま凍っていてくれてたほうが俺的にはありがたかったのだが。

 ヒノキのふたを吹き飛ばす勢いで持ち上がり、

「ぷあっ! コ、コココどこなの! ナナナなんであたし服着たままお湯にかってんの!?」

「落ち着け。ここは鶴屋さんちで、俺達は今夜ここでお世話になるんだ。客なんだからおとなしくしてろ」

「キョンくん、すっごいじゃんすごいじゃん、最先端のロボットじゃん、一体いくらなんだい?」

そろそろ察してください鶴屋さん、俺もう疲れました。


 ハルヒが着替えるというので俺と古泉は風呂場の外にり出されて、

「はぁ」

ため息しか出ない俺だ。

「お疲れのようですね」

「ああ俺の人生この上ないお疲れだよ。この後いったいなんと説明すりゃいいんだ」

「涼宮さんですか。あなたの説得のネタもそろそろ限界というところでしょうか」

「そろそろ限界って、俺が無い知恵をしぼり尽くして嘘八百並べてるのにだなぁお前は」

「僕にお任せください。なにも僕は馬鹿正直に生きているわけではありません。うそ方便ほうべん、という言葉があります」

前借りする勢いで方便ほうべんを使い果たしてる俺にはもう通用しないんだよ、そのことわざは。

 風呂場から出てきたハルヒは鶴屋さんの衣装を借りたらしく、同じ感じの和服に身を包んでいた。うーむ、これで少しはヤマトナデシコ風にしゃなりしゃなりと、

「こらキョンなんでみくるちゃん置いて説明してくれるん死刑だから!」

セリフを短縮しすぎてフガフガ俺の鼻の穴から指を離せ。

「僕が説明しましょう。朝比奈さんはハリー様のオムツを忘れたので帰れないのだそうです」

な、なんだその生活感のにじみ出た母親のような言い訳は。もっとこう、にわかには信じがたいSF的タイムトラベルチックにだな、

「ああ、そうなの。じゃあしょうがないわね」

「後日タイムマシンでむかえに来てくれ、とのことでした」

「分かったわ。有希、早速実験を再開してちょうだい。あたしが死ぬまでにみくるちゃんに会いに行くんだからね」

おい古泉、お前のは説得じゃなくて右から左へ横流しで長門に責任を押し付けただけじゃないのか。長門の眉毛がピクピク動いてるぞ。

「あれれ、みくるってスイスに行ってんじゃないのかい?」

「えーとですね」

こっちにも説明が必要な人がいた。いくら物分りのいい鶴屋さんとはいえ俺も疲れ切っていて、あんまり嘘っぽくない適当な嘘がつけるほど頭が回らない。

「みくるちゃんはね……みぐるぢゃんわね……お嫁にいっちゃったのよ鶴ぢゃん」

ハルヒが鶴ぢゃんの両肩に手をおいて涙をボロボロ流しながら鼻水を垂らしている。

「ええっ!?いつだい?」

「八百年前」

「あははは、そいつぁまた……マジなのかいそれ」

急に真顔になる鶴屋さんである。

「あたしさっき戻ってきたんだけど、向こうの鶴屋さんがドア開けて、戦争があって、フィリップが怒って、リチャードが爵位しゃくいと土地くれて、お嫁に行っちゃったのよ貴族んところに、貴族と決闘したらグランパが死んで、エール作ってボロもうけしたけど、あたし頭から土に埋まって、時計が分解して、タイムマシンの実験中だったのよ」

何を言ってるのかさっぱり分からんが、ハルヒの脳内では時系列を逆にたどっているらしい。

「そうかいそうかい、ハルにゃんもいろいろ苦労したんだねえ」

今の説明でいったい何を理解したんですか鶴屋さん。

「あの、鶴屋さん、支離滅裂しりめつれつですけどハルヒはちょっとココロが疲れてて、安定剤かなんか口に放り込んで寝かせたほうがいいと思うんですが」

「あたしを精神病みたいに言うな! ちゃんと証拠だってあるんだからね、見て見て鶴ちゃん、これがみくるちゃんの晴れ姿……え、エエエェ!?」

ドヤ顔でポケットから取り出したはずの馬鹿高いスマートフォンは電源が入らず、ハルヒはグイグイと電源ボタンを押しながら真っ青になった。割れるぞオイ。

「あたしの……あたしの三年間の記録がすべて水の泡に……アワアワ」

アワアワってのは言葉では言い尽くしがたいらしいハルヒの泣き声だ。そりゃまあ、お湯を注いで蘇生そせいしたわけだから水没するわな。っていうか三年間もバッテリーが持ったことのほうが驚きだよ。見かねたのか同情したのかあきれ果てたのか、長門がついと手を出し、

「……貸して」

タオルで丁寧ていねいにお湯をき取っている。俺にはブツブツと呪文をとなえているのが聞こえていたが。

「オーウ! 生き返ったのね!?さっすが有希、我が社がほこ最高技術責任者CTOね。下期しもき役員報酬やくいんほうしゅう上乗せしてあげるわ。いいわよね鶴ちゃん」

こんなところで株主総会を開くな。長門によると、ハルヒは中世で暮らしている間ずっと、バッテリー中のイオンを自ら再生し自家発電していたらしい。オソロシヤヒカリダケ。


「えー、ただいまより鶴屋さん主催による、朝比奈みくる氏の壮行会そうこうかいを開催いたします。司会はわたくし、涼宮がつとめさせていただきます。拍手はくしゅ

俺達は鶴屋さんが用意してくれた、晩飯をねた酒のえんで食堂のテーブルについている。年季の入った黒檀こくたんのテーブルに座った四人はパチパチとお愛想あいそ程度の拍手はくしゅをした。風呂を浴びてさっぱりした長門と俺と古泉もなぜか和服を着せられていて、合宿で旅館に泊まりにきた学生の気分だ。っていうか壮行会そうこうかいって事後の上に本人不在だろ。

「あー、すでにお聞き及びかと存じますがぁ、我が社の非常勤務従業員、コスプレ担当部長イメージガール朝比奈みくる氏が、ついにめでたき門出かどでむかえることとあいなりました……グスッ」

ハルヒがどうでもいい演説を打っている間、鶴屋さんが小声で耳打ちした。

「キョンくんキョンくん、このジャンスマイトって、さぞかしいい男なんだろうね」

テーブルの朝比奈さんが座るべきところには、皿の上にハルヒのスマートフォンが立ててあり、伯爵との結婚式のときの画像が映し出されている。これって人が死んだときにやるやつじゃないのか。ってまあ、死んでるわけだが。

「ええまあ、中世ではイケメンの部類に入るんじゃないでしょうか。ご婦人には引く手数多あまたでしたね」

「へー、イッピンだね。あーあ、あたしもあやかりたいね」

某大手財閥ぼうおおてざいばつの一人娘の鶴屋さんを射止めるには伯爵クラスでも敷居しきいが高いような気もするが。いや、愛があればどんな高いハードルだってな。俺を見よ。

「── ふり返りますれば、朝比奈氏と出会ったのは十六歳の初夏でありました。わたくしは北高の教室にひっそりと、可憐かれんに咲く野のユリのような少女を見かけたのであります」

うそつけ。放課後の教室から拉致らちってきただけだろ。ところで鶴屋さんはそのときいったいなにをしてたのでしょうか。朝比奈さんのボディガード役じゃなかったんですか。

「ああ、あたしもその場にいたっけねえ」

みすみすハルヒに強奪ごうだつされたんかい。

「そうです。先輩鶴屋氏は、朝比奈氏が自分に自信を持てるようになるなら喜んで、と、えて背中を押して送り出してくれたのでありました、だったっけ?」

「そうそう。みくるは一般人にはない高いポテンシャルを持っている、ってあたしが言ったんさ」

だめだ……この二人完全にグルだ。

「あのとき風に吹かれて今にも折れそうだった少女は、熱き思いを胸に、愛する彼氏の腕に飛び込んだのであります。今や一児いちじの母であり……一児いちじの母って言った今?」ハルヒはちょっと思案する顔をして「ちょっと待った! 鶴ちゃんそのタブレット貸して!」

「え、みくるの画像コピーしてもらおうかと思ったんだけど」

「ちっがうの、あたしの見立てだとね、あのみくるちゃんがたった一人の子供で済むはずがないわ」

「どういうことかい?」

「あの体型覚えてるでしょ。安産ボディよ、ダイナマイト級子沢山こだくさんのはずよ!」

「なーるほど」

骨盤こつばんの形のことを言ってるんだと思うが、たぶん医学的な意味で。

「あったわイザベラ・オブ・アングレーム、なんと十四人の子供の母親よ。さっすが愛の力ね」

十四人の母親ですか。いやー産むに産んだって感じだよなあ。

「なんとまあ大家族じゃん。野球どころかサッカーチーム作れるじゃん」

ということはあれからイングランドは無事で、少なくとも伯爵と朝比奈さんは平和に暮らしたってことか。ユーグジュニアとその後どうなったのかは知らんが。

「へー、みくるちゃんの子孫がヨーロッパ中で貴族階級に広まってるじゃない。すっごいわ。王様もいるし」

「そりゃまあ、ジョン王の奥さんなわけだし」

ハルヒは中世生活で伸び放題になった髪をワシワシとかきむしりながら、

「もう、みくるちゃんばっかり。なんであたしには王子様が来ないのかしら」

「涼宮さん、僕はいつでもあなたのナイトですよ」

「ありがとぉぉサーコイズミ。お世辞せじでも嬉しいわ」

などと古泉に平気で抱きついているが、もうから酒が回ってんな。


 俺はハルヒからタブレットをうばい、英国史のウェブサイトをスライドして読んだ。あの戦争のとき、俺達にとってはつい先週の出来事だが、出征しゅっせいしていく兵士さん達に朝比奈さんが一説いっせつ打ったセリフが歴史書に伝えられている。


── 勇敢なるイングランド兵士の皆様。不肖ふしょう、イザベラ・オブ・アングレームが一言ひとこと述べさせていただきます。

 今回のいくさはフィリップ二世に売られた喧嘩けんかです。昔に婚約権こんやくけんを買った人から結婚を迫られています。私はイングランド人で、ロード・ジャン・ド・スマイトの妻です。ほかの誰とも結婚しません。もしこの戦争に負けたら、私は首をはねられるも承知です。

 皆さん、この国にはあなたの力が必要なのです。戦って、生きて、イングランドを勝ち取ってください。子どもたちに豊かな国を残してあげてください。わたしたちがここで人を愛し、子供を産み、泣いたり笑ったり、ときには喧嘩けんかしたりして、この国を愛したことを、この時代に生きていることをどうか忘れないでね。


「ということで、彼女の門出かどでを祝しまして万歳三唱したいと思います。イングランドとぉ、朝比奈みくるの繁栄はんえいを願ってぇ~大英帝国だいえいていこく、バンザーイ!」

そこはふつー乾杯だろ、と突っ込んでみるが酒を干すだけでは満足できないらしい。鶴屋さんと古泉だけは真面目に三回とも諸手もろてを挙げて降参していた。まあ俺と長門は最後の一回だけは付き合ってやった。

「ありがとうございましグスッ」

皆は盛大に拍手はくしゅを送った。

「あー、ハルヒよ。水をすようで悪いんだが、二十年後に伯爵が病死して、朝比奈さんユーグ十世と再婚してるぞ。もとの婚約者の息子とだ」

「な、なんでそうなるのよぉぉ」

「ングググ涙目で首めんな」

どうやら朝比奈さんの思惑おもわく通りに歴史は進んだようだな。この再婚でアングレーム領を取り返したのだろう。領主裁判のときもそうだったが、朝比奈さんって存外政治的駆け引きにけてるところがあるからな。女ってのは分からんものだ。


 俺からタブレットをひったくって英国史を読んでいたハルヒがカタカタと震えだし、

「つつつ続きまして株主総会を開催したいと思います」

「突然なにを言い出すんだ。こっちはやっと二十一世紀の空気に馴染なじんできたばかりだってのに」

「どうなさったんですか社長、顔色が悪いですよ」

「い、いえなんでもないわ。ただの時差ボケよ」

「……議題は」

「ぎ、議題は非常勤従業員、朝比奈みくる氏の未払い給与の件であります。取締役昇格とりしまりやくしょうかくとして相殺そうさいすることにご異議ございませんでしょうか」

なにガクブルしてんだと思ったら、朝比奈さんの給料は月二十五万かけることの十二ヶ月、ボーナスはまあ六十万として、さらにかけることの……えーとまだ退職してないわけだから八百三十年?総額、三十億円……プラス利子……だと。

「賛成」

「賛成です」

「……異議なし」

「しょーがないなあ、賛成にょろ~」

「全会一致で賛成と認め、そのように決しました。本日はこれにて閉廷!」


「おーいハルヒ、そろそろ起きろ。その後の話を少しだけするぞ」

昨夜の壮行会そうこうかい、株主総会、披露宴ひろうえん二次会、出産祝い、ならびに朝比奈みくるの葬儀そうぎでは騒ぐだけ騒いで腰が抜けるまで飲んだハルヒは、夜中の二時頃突然床にぶっ倒れてそのまま寝てしまった。会社の業務に戻らなくてはならんのだが、あのとき俺達がやってた仕事ってなんだったっけね。中世で農業をやってたのがいきなり二十一世紀の会社業務を引きげというのも無茶な話だ。

「ハッ、ねえ今何時!?」

ハルヒがガバと布団から飛び起きた。

「九時回ったところだ。そろそろ顔洗え、鶴屋さん今日仕事らしいから」

長い長いバケーションに出て休みボケしている俺達と違って、鶴屋さんは平常運転なので自分が経営する会社に出なくてはならない。

「それどころじゃないわよ」

ハルヒはスマホを引っつかむとどこかへ電話をかけている。

「あーもしもしSOS団? 外務省からお客様が見えるから、特に開発部とか汚いから片付けといてよね。部長氏いないの? ってあんた誰よ、うちの会社に入り込んでなにしようっての!?もしかしたら今をときめく産業スパイね!」

危機一髪、俺はあわててハルヒの手からスマホを引ったくった。「おわーっキョンなにするやめふじこ!!」やばいやばい、ハルヒとハルヒが電話で会話なんてしたら時間のパラドクスが発生して世界崩壊しかねん。

「なにすんのよバカキョン!!」

「ま、待て待て、こ、これはタイムパラドクスを回避かいひするングググ関節技は、関節技はアカンって」

「キョンくん、遊んでるとこ悪いんだけどさぁ、外務省のなんとかいう部署の人から電話があってSOS団に面会したいって」

遊んでません、死にかけてます。長門、悠長ゆうちょうにカウント取ってんじゃない。

「外務省って、何用ですか」

「古泉という社員はいるかって聞いてたんだけどね、急いでるみたいだし今日でいいかい?」

古泉なら防衛省か警察庁筋じゃないだろうか、って前にも言った気がするな。古泉に尋ねる表情をすると、

「ええ、僕なら構いません。午後三時以降でお願いします」

あの事故が起こったのはたしか昼飯どきだった記憶があるが、まあ三時頃までには誰もいなくなるだろう。それよりハカセくんがあわてて警察を呼んだりしないようにめないとな。

「りょっかい、先様さきさまにはそう伝えとくわ」

「すいません鶴屋さん、お手数なんですがSOS団に電話をかけてそのむね伝えていただけないでしょうか」

「はぁ?」

「ですから、今会社にいるハルヒに、官庁から来客がある、と伝えてほしいんです」

「ふぇ?」

いい加減に察してください。

「えーとですね、今ここにいる俺達は見た目は俺達なんですが本物の俺達じゃないんですよ」

「なになに、今現在、株式会社SOS団の事務所にいるのが本物ってことはだよ、人んちに上がり込んで風呂入って宴会までやったキミたちはいったい誰なのさ」

鶴屋さんは不可解な事件に遭遇そうぐうした探偵のようにあごに手をやって右の眉毛を上げている。なーんか話がややこしくなってきた。ここで俺達四人は円陣を組んだ。果たして鶴屋さんに本当のことを伝えるべきか、はたまた適当な嘘でごまかすか。よし、コレで行こう。

「実は俺達、朝比奈みちるの腹違はらちがいの兄弟でして、おい、自己紹介しろ」

「いつも姉がお世話になっております。朝比奈みちおと申します」

「メンゴメンゴ、朝比奈みちこよ。だますつもりはなかったのよ」

「……朝比奈道真あさひなのみちざねでござる。お初にお目にかかる」

一人だけ学問の神様がいるぞヲイ。

「なーんだみくるの親類だったのかい。最初からそう言えばいいのに」

だからなにを納得したんですかあなたは。

 鶴屋さんは今では珍しい黒電話の受話器を取り上げ、

「あーもしもし、ハルにゃんかい? 株主さんだけど、実はSOS団に興味があるっていう役人がいてさ、急で悪いんだけど今日面会のセッティングしてもいいかなぁ。うん。うん。なんか古泉くんのファンらしくてさあ」

線がつながっていないところを見るとコードレスらしい黒電話の重たい受話器を置いてチンと電話を切った。

「お手数おかけします」

「なんか本物のほうはタイムマシンの実験するとか言ってるんだけど、ほんとなのかい」

「え、さ、さあ偽物の俺達には何の話やらさっぱりで。あははは」

「あたし早めに行って見てみようかなあ」

「だめです! 午後三時きっかりに行ってください。時間厳守です」

「そうかい? つまんないなあ」

あなたまでタイムトラベルしてしまったらややこしい話がさらに輪をかけて複雑になってしまうんですよ。

 鶴屋さんは運転手付きの車を自分で運転して出社し、俺達は適当にファミレスで時間をつぶしているうちにウェイトレスにそろそろお引き取りをとおずおずながら言われて、レストラン荒らしみたいな気分を味わってからようやく店を出た。時計を見ると午後一時である。そろそろ実験室のドアが外れて俺が暗黒世界に落下する頃合いだ。


 俺はなつかしき北口駅前雑居ビルの階段を登り、影に隠れながら誰も居ないことを確かめつつ事務所のドアを開けた。当然ながらあのときのままである。

「うっわなつかしー、会社ってあたしがいなくても回っていくのね」

従業員が苦労して運営している会社を全自動洗濯機みたいに言わないでもらいたい。っていうかさっきまでお前がそこに座ってたんだよ。

「……気をつけて」

事務所を通り抜けて実験室へ行こうとしたところ長門にささやかれた。ああ、分かってるって。時空の狭間はざまに開いた底なしトンネルみたいになってんだろ。

 実験室の部屋の前にハカセくんがいた。ドアと共に俺が落ちていった暗黒の空間が広がっていて、それを凝視ぎょうししているハカセくんが床に尻餅をついて青ざめている。

「おーいハカセくん、大丈夫か」

「で、出たあぁ」

三年ぶりに再開したのに人をモノノケみたいに。

 ハカセくんは俺達の中世コスプレを上から下までジロジロとながめまわしている。一旦家に着替えに帰るべきだったか。

「落ち着け。今帰ってきたところだ」

俺は足元に転がっている、ノスタルジーがいっぱいに詰まったコンビニの袋を感慨深かんがいぶかくも拾い上げた。

「な、なにがあったんですかセンパイ、それから皆さん」

「なんというか、時空のひずみというか次元断層みたいなのが発生して空間ごとワープしてしまってだな。たった今戻ってきた」

適当な用語を並べているだけの俺である。

「よかった、無事だったんですね。あれ、うさぎのお姉さんは一緒じゃないんですか」

「あー、ちょっと野暮用やぼようでな。とつぎ先が大変な事態になったとかで」

「うさぎのお姉さんって独身だったんじゃ!?」

「ワープした瞬間に嫁に行っちまってな、子供まで発生した。正直俺も驚いているところだ」

ハカセくんはガクブルしながら、

「時間移動技術って恐ろしいですね」

「そうだな。実に恐ろしい技術だ。今後しばらく封印したい」

それを恋のために利用しようとした乙女はもっと恐ろしい存在だが。


 とりあえず長門には異空間の後始末を頼んだ。廊下にペタリと座り込んで二人でモソモソと特上トンカツ弁当を食べつつ、俺達がタイムトラベルの前に運んでおいた、いや運ばせておいたドアを元通りにはめ込んでネジ止めし、ようやくすべてが元のさやに収まった。銀河時計はどうなったのかと、抹茶アイスをすくって口に運ぶ長門に尋ねてみたが、苦労して作ったリアルギャラクシークロックはそれ自体が事象の地平線に飲み込まれ、素粒子レベルまで分解してしまい、残念ながら跡形あとかたも残っていないそうだ。まあ設計図は残っているので必要になれば再度作り直してみたいとは言っていたが。一個しかないいちご大福は朝比奈さんの写真にでもお供えするとして、残った皇帝ハバネロアイスは予定どおり古泉に食わせることにするかな。


 時計の針が午後三時を指したとき、ちょうど事務所のドアが開いた。

「キョンくーん、来たよーん。珍しいお客様だ」

「あ、どうも、お待ちしておりました。むさ苦しいところですが、奥へどうぞ」

「お忙しいところ突然お邪魔して恐れ入ります」

深々とお辞儀じぎをして顔を上げてみると、

「あれっ、喜緑さんですか? 外務省にお勤めだったんですか」

「どうも、いつもお世話になっております」

こちらこそ、その節はお世話になりました、って言っていいのだろうか。いったいなぜ俺はあの精霊を喜緑さんだと思ったのか、確かに似ていた気はするのだがどうも印象がさだかではない。長門の様子はいつもと変わりなく、喜緑さんととくに目配めくばせをし合ったり特殊な方法で通信をしている、という感じではなかった。ま、まあここは普通に接客ということで対応しようか。

 パーテーションで部屋を仕切っただけの応接室に喜緑さんを案内しようとすると、ドアの影から三人目の客が現れた。

「ハロー」

「ええっと、ワタ、ワタタ、ワタタタ」

ハルヒは別に綿わたを売りたいわけではないと思うが、突然現れた相手が栗毛色の髪の外人なのでパニクっているのだろう。ハローというからには英語圏の人だな。イギリスであれだけ英語しゃべってたのに一言も出てこないとは。ていうか長門製翻訳ナノマシンがしゃべってただけで俺が理解してたわけじゃないよな。


 ハルヒが営業スマイルのまま固まっているので俺が応接室に案内した。喜緑さんがその外人の女性を紹介し、

「SOS団の皆様、こちら、ミシェールさんです。イギリスからお見えになられました」

ピンと来たぞ。なんと、わざわざ日本のSOS団を尋ねてきたのか。そういえばどことなく面影おもかげがあるような、ないような、肌の色も目の色も違うが雰囲気が似ている気がする。ボリューム豊かな長い髪のウェーブが唯一、ここにいないあの人にそっくりである。

「ハジメ、マシテ」

カタコトの日本語である。

「マイレディ、── 」

どうやらナガティウス錬金商会の秘薬が切れたらしく英語は聞き取れなかったが、事情を察したらしい古泉が騎士コスのまま礼をして女性の前でひざをついた。ミシェールさんとやらははにかんで、古風な儀礼ぎれいをご存知なのですね、みたいに笑っている。

 それからミシェールさんは細長い箱を喜緑さんから受け取り、それを古泉に渡した。古泉はそれが何であるか分かったらしく、ひざをついたままうやうやしく受け取った。古泉は俺達を訪ねてきた経緯けいいうかがっているようだったが、俺にはさっぱり聞き取れなかった。

 彼女は一度だけ日本風にお辞儀じぎをして帰っていった。あ、やべ、お茶出すの忘れてたわ。ハルヒは凍りついた笑顔のままグッバイと手を振っている。

「はー、すっごい緊張したわ。だって外人が訪ねてくるのはじめてなんだもの」

ハルヒのひざがガクガクれている。お前はつい昨日までどこの国で何人なにじんとしゃべってたんだよ。いや、俺もだけど。

「いやー、それにしても驚きですね」

「なにがだ?」

「まさか八百年の時を経て朝比奈さんの遺伝子を受けいだ人が会いにいらっしゃるとは」

「ええっ、エエエェ!?古泉くん、もしかして今の人ってみくるちゃんの子孫だったの? レディ・スマイトだったの?」

いったい誰だと思ってたんだお前は。話の成り行きからしてそれ以外ありえんだろうが。

「たいへんだわ、すぐ追いかけないと。貴族の知り合いなんて滅多めったにいないわよ」

ハルヒはドアをぶっ壊す勢いで事務所から出ていって、どうやら喜緑さんもミシェールさんも見失ってそのまま飛行機でイギリスまで飛んでいったらしく帰ってこなかった。


 ところでレディ・ミシェール・ド・スマイトが残していった箱の中身だが、開けてみると妖刀ようとう朝倉のマサムネがさびひとつ無い状態で包んであった。こんな国宝級の刀をいったいどうしたものか、博物館にでも寄贈きぞうするか、などと考えたが、結局のところ会社の資産として飾られることになり、社長椅子の真後ろの棚の上で、今でも冷たい光を放っている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る