三十五章
それからイングランドは一週間ほど、一戦も交えていないにもかかわらず戦勝ムードに包まれていた。兵士たちは、
俺は日々の聖職にかまけて、またもやモラトリアム人生を
ある朝、城内の中庭にポツリと立っている事務所のドアが、やたら汚れているのに気が付き、こいつにもずいぶんと世話をかけたななどと
「あらら、ヤベえ」
俺はだいぶ
俺は城の外へ出て長門のドラッグストアまで歩いていった。
「長門、そろそろ未来に帰ろう。ドアが寿命に近づいてる」
ドアノブの金具を見せると長門はコクリとうなずいた。今まで散々
それに、今じゃないとハルヒや朝比奈さんがまた
「マイロード、そろそろ俺たちの時代に帰ろうかと思います」
「そうか、
存外あっさりと
「おい古泉、そろそろ帰るから準備しとけ」
「いよいよですか。今となっては住み慣れた我が家なのですが」
白雪姫の一件で左目の
朝比奈さんにはすでに伝えたが、
「あっそう。じゃあたしもグランパの土地を
こっちもあっさりと
二週間後の満月の日の夕暮れどき、俺達はなにも持たず、伯爵自らが騎士団を先導する馬車で城を出た。執事さんやメイドさん達が城門までずらりと並んで見送ってくれた。てっきりまた俺が落ちてきたあの畑に行くのかと思っていたのだが、一行はグロースターの街の東の門から出てロンドン方面の街道を進んだ。途中で北に抜けて森の中の小道に入り、木々の間からときどき放牧地を見ながら進んでいる。
夕日が西に沈み、森が完全な闇に包まれた頃、ようやく行列が止まった。道の真中にランプを下げた鶴屋さんが立っている。
「いよーう、待ってましたロード・スマイトの
「良い晩だなシスター、お勤めに痛み入る」
「いいっていいって。さあさ、あんまり時間もないから降りた降りた」
俺達はそこで馬車を降りて森の中へと案内された。ここ、俺の
その後も森の中を歩き続けてようやく開けた場所にたどりついた。そこには
「シスター、この人達はいったいどなたで?」
「うちの修道会のメンツだよ」
よく見ると同じ
長門の耳元に口を寄せ、
「大丈夫か、妙な儀式で
「……ここで時間移動の儀式をはじめる」
「ってこれ? これがタイムマシン?」
「……そう、この時代の
この時代の
「んーっとね、うっとこに伝わる伝承に、八百年ごとにここでトンネルが
「ってことはシスターは八百歳を超えてるんですか」
鶴屋さんはあはははと乾いた笑いをしながら俺のほっぺたをつねり、
「なに言ってんだいブラザー、あたしゃまだ
笑いながら半分怒ってるみたいな鶴屋さん、イタタタすいませんレディに年を尋ねるなんて失敬ですよね。なんだか時空を超えたような存在なのでつい。
ストーンサークルは直径でだいたい三十メートルくらいだ。ドルイド修道会、と名乗る見るからに怪しい
長門の指示で俺は石と石を結ぶ直線を引き、鶴屋さんが立っている位置を中心にしてペンタグラムを描いた。線を引いているときに、生えている草や石ころなんかに引っかかって形が
それから、元は我が社のドアだったモノリスを、まるでスクリーンのように鶴屋さんの背後に置いた。今にも取れそうなノブはかろうじて元の位置に収まっている。
シンと静まり返った濃い闇の中、鶴屋さんが低く響く声で呪文を
真ん中に立っている鶴屋さんが左手を上げ、右手に持った杖でトンと地面を叩くと、鶴屋さんの足元から青い光が立ち上った。俺とハルヒはオオォと声を上げた。青い光は一瞬白く輝き、夜空に伸びる円筒状のサーチライトのようになった。
鶴屋さんが左手で長門に合図をしている。軽くうなずいた長門が右手を上げて
鶴屋さんが杖を降ろし、ひょいと右手を上げて、
「んじゃあユキリナ、あとはあんたにバトンタッチするさ」
「……分かった」
おずおずと右手を上げた長門とハイファイブをぺちっとやった。
長門がこっちを見つめたまま、ドアノブを示した。ああ、俺に開けろってのか。俺は冷たいそれを握って回した。音もなく
俺は最後に別れの
「マイロード、いろいろお世話になりました」
「いやいや修道士殿。こちらこそ多くを勉強させてもらった」
差し出された手を
「騎士として生きる道を、一生この胸に抱いてまいります」
伯爵は騎士さん達に向かって、
「サーコイズミに向かって、敬礼」
騎士団がイングランド式の敬礼をし、古泉が返礼をした。
「ちょっと待ちなさい伯爵、あんたも未来に来るんじゃないの?」
「それは……残念ながら無理だな」
「ってことはみくるちゃんは、」
「涼宮さん、ごめんなさい。わたしは帰れないわ」
伯爵の隣に寄り
ハルヒは朝比奈さんの両肩に手をポンとのせ、
「みくるちゃん、分かったわ。だったらあたしも一緒にのこ、」
最後まで言い終わらないうちに、背後から古泉がイライラと
「あなたは僕達と一緒に帰るんですよ、涼宮さん」
「だ、だってみくるちゃんはあたしがいないと、ムグググ」
「だめです。社長がいなかったら僕達の会社はどうなりますか。考えてものを言ってくださいね」
古泉の大きな手がハルヒの口をおさえつけている。
「ぷあっ、このこの、古泉!」未だかつてその名を呼び捨てにしたことのないハルヒは一瞬
ってオイ、こんなときに取締役会を開いてる場合か。
眉毛をピクピクと動かしていた長門さんのイライラが限界に達したようで、ハルヒの首根っこにちょんと触れようとした。古泉がそれを止めて、
「あの、長門さん」
「……なに」
「一度だけわがままを言ってもいいですか」
「……わがまま、とは」
「それ、僕にやらせていただけませんか。一度だけでいいので」
なにか良からぬことを
「あ、あんたたち何の陰謀よそれは!」
古泉と長門のゴニョゴニョ裏取り引きが成立したらしく、古泉が右手を上げラテン語っぽい呪文を
「
「
「……
ってお前もなあ、面倒なところだけ押し付けるなんて、だんだん誰かに似てきたぞ。
並んだ騎士さん達の間から走り出てくるやつが一人いた。
「おい修道士、ちょっと待て!」
ふり返ると谷口が叫んでいる。
「なんだ、着いてきてたのかトニー」
「ユキも連れて行っちまうのかよ」
谷口は今にも泣き出しそうな情けない表情をしている。
「……トニー」
涙目の谷口を見て、長門も少しばかり
「おいトニー、俺達は別世界からの旅行者なんだ。どうしても帰らなきゃならん。今を逃したら永久に帰れなくなる」
俺は長らく世話になった腕時計を外して谷口に投げてやった。まあ元はと言えばお前のもんだしな。
「なんだよこれ」
「
谷口は自分の名前が書いてあるイタリア製の時計をまじまじと
「おいユキ、そいつに飽きたらいつでも帰ってきていいからな。何年でも待ってるからな」
「……待たないでいい。早く自分の幸せを見つけて」
長門にしては珍しく恋のアドバイスっぽいことを言っている。まあ、あれこれ
「じゃあ、鶴、じゃなくてシスタークレイン、いろいろありがとうございました。このお礼は向こうの世界で」
「お
「朝比奈さんのことをよろしくおねがいします」
「あいよっ、まかせときな」
「キョンくん、長門さん。本当にありがとう」
長門はなにか言いたげに朝比奈さんを見つめていたが、やがてそばに歩み寄り、
「……もしものときはこれを使って」
「これはなに?」
「……緊急治療用」
この先の運命を知っているらしい長門が、小瓶を伯爵に渡そうとしたが、伯爵は笑顔でうなずいてその手を握った。
「ミス・ナガティウス。いろいろと尽くしていただいて、本当に感謝している。その薬も実にありがたいのだが、私は、この時代の
── 人には各々、与えられた有限の時間がある。その中でいかに最高の出演者たるかが重要だ。最高のキャストは自分の
朝比奈さんにそれでいいのかという視線をやると、朝比奈さんはうなずき、長門は小瓶をポケットに
長門がドアをくぐる前に朝比奈さんは深々とお
さて、長い
「じゃあ、お幸せに」
聞こえたのかどうか、うなずきながら、鶴屋さんはまたも
そして静かに、再びドアが閉じた。
三人は
「いやー、本当に長かったですね」
微妙に聞き覚えのある古泉のセリフに俺達もうなずいた。
「おつかれさん。前にも言ったが、お前ちょっと
「心身ともにいいトレーニングになったと思います。あなたもお腹が少し引っ込んだようですね」
ひ、人が気にしていることをズケズケと。
俺は古泉が抱えている冷凍マグロを
「ハルヒだけはぜんぜん変わらんなー。こいつには成長とか進化とかいう言葉が一切
「不動の涼宮さんと申しますか、
ハルヒには聞こえないことをいいことに二人は大声で笑った。気がつくとハルヒの右手が俺の
「……気をつけて。見えているし、聞こえてもいる」
「ええ、エエエェ? こいつ生きて、いや聞こえてんのか」
「……そう。凍っているわけではなく、彼女の時間の流れ方が一定でないだけ」
長門
再度目をやるとハルヒの腕がビシ指ではるか遠方を示している。そっちを見ると、横に伸びる地平線が見えた。
「なんだありゃ」
地平線のように見えたのだが、一本の青い線だった。近くにあるのか遠くにあるのか。俺達のいる地点からどれくらいの距離にあるのか見当がつかない。こういうなにもない空間では目が焦点を合わせられないようだ。
「……事象の地平線」
「なるほど」
なるほどと言ったのは古泉で、なぜかクスリと笑っている。長門にしてはダジャレたつもりなのかもしれんが俺には分からなかった。
さらに数十分くらい歩いただろうか、青い線は実は青い帯で、上の
「……正解」
おお、当たってた。光の帯は高さもあり、
「行き止まりなのか?」
「……気をつけて」
「今度は何だ?」
「……ここから先、落下する」
「エエッ!?」
と思う間もなく、オーロラの壁に足を突っ込んだ俺は地面を踏み外し、真っ逆さまに落ちていった。
青い光の中を重力に引っ張られてどんどんと落ちていく。俺の両手は必死に何かをつかもうとするがなにも触れないし引っかかりもしない。
ECCE HOMO EQUIST HARUHINA CIQUIS AUTEM VESTURMARIENOUS...
どこか遠くから、宇宙の
無事に
「ハルヒはどこだ?」
という聞きなれない声が聞こえたが、非常によく知ってる人物の声だと思い当たった。
「ハルヒならそこに転がってるだろ」
と言いながら俺は痛む頭をおさえつつ、なにかの
ふり返ると、青い巨人がやる気なさげに両腕をだらりと下げているし、古泉と古泉がなんだか生き別れの双子に
「どうでもいいんだが、長門? っていうかそっちの長門、何があったんだ?」
間抜けな俺(小)がヒントを欲しがっているが、フン、教えてやるものか。苦労したのは俺だもんな。過去は自分のもの当然誰とも取り替えたくないー、っと。
「……それは禁則事項。知らないほうがいいこともある、あなたにとってはそれが不幸を招く」
ほらみろ、俺の長門もそう言ってる。っていうか教えてくれなくても十分不幸に見舞われた気がしますが。
俺(小)は後ろに立っている神人をなんとかしろと古泉に言っている。
「いえ、ここは僕に任せてください」
キリリとした表情になって、なんだか古泉(大)がやる気満々になってるぞ。俺はもう歩き疲れたのと帰ってきた
古泉(大)は青く光る円柱の外側の境界線をペタペタと手で探り、腕を差し入れるとじわじわと体を
右手を
光が、少しずつ、消えていく。ぼんやりと突っ立ってた青い巨人が少しずつ小さくなり始めている。え、なんでオレ小さくなってるの! 的な感じで左右をキョロキョロと見回している巨人である。巨人というかもう人間サイズだぞ。人サイズからフィギュアサイズへ、さらに球体に変わっていき、最後はビー玉になり、ゆっくりと古泉の手の上に降りた。古泉はその光る青いビー玉をハルヒの頭の上に乗せた。線香花火の最後のような光を放ち、そして消えた。
まばたきをすると、東中の校庭からペンタグラム、ラテン語の文字、青い円柱、一切が消えていた。
「
「お言葉ですが、今の僕はすでにクライマックスを終えて帰ってきたところなのですよ」
あー、クライマックスどころかこれがエンディングだったらずいぶん楽だったのになと思う、ドッと
古泉(大)がいつもの方法で神人を消滅させなかったので俺(小)が今のはなんだったんだと問い詰めている。もういいよ古泉、そんな
「最近僕は思うんですが、この神人は涼宮さんの分身のような存在なのではと。それをあっさりと消してしまうのは、なんだか涼宮さんの生きる力を否定しているようで忍びないのです」
なにかっこつけんてんだ、今まで
「えーっとだな、お前たちがここにいるってことは、」
ああそうだったな。たしか俺達は一日早く帰りすぎたんだった。
「おい、俺、今何時だ」俺は俺(小)に尋ねた。
「九時半を回ったところだが」
こんな格好じゃ家にも帰れん、会社のビルは閉まってるし、
「長門、すまないんだが、三人を泊めてもらえないか?」
長門は長門(小)をじっと見つめて、
「……未来の情報が
いや未来じゃなくて過去だろ、などとどうでもいいツッコミをしそうな俺だが、しょうがない、いつものごとく鶴屋さんに頼もう。
「おい電話貸せ」
俺は強盗に襲われたときになくしたはずのスマホを俺(小)からひったくった。シリコンカバーのなつかしい手触りだ。
「もしもし鶴屋さんでしょうか。夜中にすいません、ちょっと緊急事態につきお願いがありまして」
『イイヨイイヨー、みんなそろってうちにおいでよ。ちょうど一杯やろうかと思ってたところさあ』
鶴屋さん、話早すぎ。
「ありがたい、鶴屋さんが泊めてくれるとさ。返すぜ」
ああそうだった、俺たち足がないんだ。わざわざタクシー呼ぶのもなんだし、たしか俺達って近くの
「おい車貸せ」
車のキーをポケットから取り上げた。腹も減ったし鶴屋さんちに手ぶらで行くのもなんだし、
「金よこせ」
さすがにムッとした顔をしていたが、まさか自分から金を巻き上げることになろうとはな。これも因果か。
降ってきたドアを事務所に運んでおくよう言いつけ、腹が減って気が立っている俺はさっさと二人をせっついてその場を去った。俺は長門と手を
「いよーう、待ってましたSOS団
ようやくと言っても中学校から鶴屋さんちまでは五分もかからないのだが、数年ぶりに車の運転をする俺が駐車場にバックで乗り入れるのに意外と手間を取った。数年ぶりに面会する二十一世紀バージョン鶴屋さんは鳴り物入りで
「鶴屋さん夜分に申し訳ありません、一晩ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします」
機関の職員は鶴屋家とは接触を持ってはならんルールがあるとかで、緊急時に限り禁を犯した古泉が深々と頭を下げている。しゃなりとした部屋着風の和服を
「まさかコスプレイベントの帰りとは知らなかったよ。って、古泉くんが抱えているそのでかいかたまりはなんだい?」
「えーとですね」
どう説明したものかと考えていると、そのでかいかたまりの正体を確かめていた鶴屋さんがギャハハ笑いをし、
「キョンくんったらフィギュアメーカーでもはじめたのかい」
「ええ、今日は一分の一スケールの即売会がありましてね」
「なーるほどぅ、涼宮ハルヒの造形っとな」
誰が買うか知らんが、売れるってんなら量産してもいい。鶴屋さんは笑いをこらえながら、
「玄関先で立ち話もなんだぁ、さあ上がった上がった」
ここって畳敷きの
「……
長門がつんつんと袖を引っ張ってハルヒのフィギュアを指している。
「ああそうだった。鶴屋さん、早速なんですが風呂お借りできないでしょうか」
「いいよ? たんと
前にも来たことがある、例の四人で入っても
「長門、お湯が入っててもいいのか」
「……いい。このまま運んで」
ハルヒ人形を抱えた古泉を先頭に、三人と一体は長い廊下をぞろぞろと風呂場に向かった。風呂は男女別れてるわけではなく、まさかこのまま混浴ではあるまいな、と思ったのか鶴屋さんは
古泉が風呂桶に人形を沈めると長門がヒノキ材の
「……マサトマーヤ、サドガマーヤ」
ブツブツと呪文を
数分間じっと待ったがなにも起こらないので長門は首を
「……血。血が足りない」
ヨーロッパの城に忍び込んだ盗賊三世みたいなセリフをつぶやく長門だが、俺はまた血を抜かれるのかってイッテテ、指先に針を刺す前に気持ちの整理くらいさせてくれ。血の気が引いてきた、ああ俺もうだめ……死ぬ。
風呂桶の中からバッタバッタとなにかがもがく音がする。いやぁ無事生き返ってよかったよかった、とニコニコ笑っているのは古泉の方である。このまま凍っていてくれてたほうが俺的にはありがたかったのだが。
ヒノキの
「ぷあっ! コ、コココどこなの! ナナナなんであたし服着たままお湯に
「落ち着け。ここは鶴屋さんちで、俺達は今夜ここでお世話になるんだ。客なんだからおとなしくしてろ」
「キョンくん、すっごいじゃんすごいじゃん、最先端のロボットじゃん、一体いくらなんだい?」
そろそろ察してください鶴屋さん、俺もう疲れました。
ハルヒが着替えるというので俺と古泉は風呂場の外に
「はぁ」
ため息しか出ない俺だ。
「お疲れのようですね」
「ああ俺の人生この上ないお疲れだよ。この後いったいなんと説明すりゃいいんだ」
「涼宮さんですか。あなたの説得のネタもそろそろ限界というところでしょうか」
「そろそろ限界って、俺が無い知恵を
「僕にお任せください。なにも僕は馬鹿正直に生きているわけではありません。
前借りする勢いで
風呂場から出てきたハルヒは鶴屋さんの衣装を借りたらしく、同じ感じの和服に身を包んでいた。うーむ、これで少しはヤマトナデシコ風にしゃなりしゃなりと、
「こらキョンなんでみくるちゃん置いて説明してくれるん死刑だから!」
セリフを短縮しすぎてフガフガ俺の鼻の穴から指を離せ。
「僕が説明しましょう。朝比奈さんはハリー様のオムツを忘れたので帰れないのだそうです」
な、なんだその生活感の
「ああ、そうなの。じゃあしょうがないわね」
「後日タイムマシンで
「分かったわ。有希、早速実験を再開してちょうだい。あたしが死ぬまでにみくるちゃんに会いに行くんだからね」
おい古泉、お前のは説得じゃなくて右から左へ横流しで長門に責任を押し付けただけじゃないのか。長門の眉毛がピクピク動いてるぞ。
「あれれ、みくるってスイスに行ってんじゃないのかい?」
「えーとですね」
こっちにも説明が必要な人がいた。いくら物分りのいい鶴屋さんとはいえ俺も疲れ切っていて、あんまり嘘っぽくない適当な嘘がつけるほど頭が回らない。
「みくるちゃんはね……みぐるぢゃんわね……お嫁にいっちゃったのよ鶴ぢゃん」
ハルヒが鶴ぢゃんの両肩に手をおいて涙をボロボロ流しながら鼻水を垂らしている。
「ええっ!?いつだい?」
「八百年前」
「あははは、そいつぁまた……マジなのかいそれ」
急に真顔になる鶴屋さんである。
「あたしさっき戻ってきたんだけど、向こうの鶴屋さんがドア開けて、戦争があって、フィリップが怒って、リチャードが
何を言ってるのかさっぱり分からんが、ハルヒの脳内では時系列を逆にたどっているらしい。
「そうかいそうかい、ハルにゃんもいろいろ苦労したんだねえ」
今の説明でいったい何を理解したんですか鶴屋さん。
「あの、鶴屋さん、
「あたしを精神病みたいに言うな! ちゃんと証拠だってあるんだからね、見て見て鶴ちゃん、これがみくるちゃんの晴れ姿……え、エエエェ!?」
ドヤ顔でポケットから取り出したはずの馬鹿高いスマートフォンは電源が入らず、ハルヒはグイグイと電源ボタンを押しながら真っ青になった。割れるぞオイ。
「あたしの……あたしの三年間の記録がすべて水の泡に……アワアワ」
アワアワってのは言葉では言い尽くしがたいらしいハルヒの泣き声だ。そりゃまあ、お湯を注いで
「……貸して」
タオルで
「オーウ! 生き返ったのね!?さっすが有希、我が社が
こんなところで株主総会を開くな。長門によると、ハルヒは中世で暮らしている間ずっと、バッテリー中のイオンを自ら再生し自家発電していたらしい。オソロシヤヒカリダケ。
「えー、ただいまより鶴屋さん主催による、朝比奈みくる氏の
俺達は鶴屋さんが用意してくれた、晩飯を
「あー、すでにお聞き及びかと存じますがぁ、我が社の非常勤務従業員、コスプレ担当部長イメージガール朝比奈みくる氏が、ついにめでたき
ハルヒがどうでもいい演説を打っている間、鶴屋さんが小声で耳打ちした。
「キョンくんキョンくん、このジャンスマイトって、さぞかしいい男なんだろうね」
テーブルの朝比奈さんが座るべきところには、皿の上にハルヒのスマートフォンが立ててあり、伯爵との結婚式のときの画像が映し出されている。これって人が死んだときにやるやつじゃないのか。ってまあ、死んでるわけだが。
「ええまあ、中世ではイケメンの部類に入るんじゃないでしょうか。ご婦人には引く手
「へー、イッピンだね。あーあ、あたしもあやかりたいね」
「── ふり返りますれば、朝比奈氏と出会ったのは十六歳の初夏でありました。
うそつけ。放課後の教室から
「ああ、あたしもその場にいたっけねえ」
みすみすハルヒに
「そうです。先輩鶴屋氏は、朝比奈氏が自分に自信を持てるようになるなら喜んで、と、
「そうそう。みくるは一般人にはない高いポテンシャルを持っている、ってあたしが言ったんさ」
だめだ……この二人完全にグルだ。
「あのとき風に吹かれて今にも折れそうだった少女は、熱き思いを胸に、愛する彼氏の腕に飛び込んだのであります。今や
「え、みくるの画像コピーしてもらおうかと思ったんだけど」
「ちっがうの、あたしの見立てだとね、あのみくるちゃんがたった一人の子供で済むはずがないわ」
「どういうことかい?」
「あの体型覚えてるでしょ。安産ボディよ、ダイナマイト級
「なーるほど」
「あったわイザベラ・オブ・アングレーム、なんと十四人の子供の母親よ。さっすが愛の力ね」
十四人の母親ですか。いやー産むに産んだって感じだよなあ。
「なんとまあ大家族じゃん。野球どころかサッカーチーム作れるじゃん」
ということはあれからイングランドは無事で、少なくとも伯爵と朝比奈さんは平和に暮らしたってことか。ユーグジュニアとその後どうなったのかは知らんが。
「へー、みくるちゃんの子孫がヨーロッパ中で貴族階級に広まってるじゃない。すっごいわ。王様もいるし」
「そりゃまあ、ジョン王の奥さんなわけだし」
ハルヒは中世生活で伸び放題になった髪をワシワシとかきむしりながら、
「もう、みくるちゃんばっかり。なんであたしには王子様が来ないのかしら」
「涼宮さん、僕はいつでもあなたのナイトですよ」
「ありがとぉぉサーコイズミ。お
などと古泉に平気で抱きついているが、もうから酒が回ってんな。
俺はハルヒからタブレットを
── 勇敢なるイングランド兵士の皆様。
今回の
皆さん、この国にはあなたの力が必要なのです。戦って、生きて、イングランドを勝ち取ってください。子どもたちに豊かな国を残してあげてください。わたしたちがここで人を愛し、子供を産み、泣いたり笑ったり、ときには
「ということで、彼女の
そこはふつー乾杯だろ、と突っ込んでみるが酒を干すだけでは満足できないらしい。鶴屋さんと古泉だけは真面目に三回とも
「ありがとうございましグスッ」
皆は盛大に
「あー、ハルヒよ。水を
「な、なんでそうなるのよぉぉ」
「ングググ涙目で首
どうやら朝比奈さんの
俺からタブレットをひったくって英国史を読んでいたハルヒがカタカタと震えだし、
「つつつ続きまして株主総会を開催したいと思います」
「突然なにを言い出すんだ。こっちはやっと二十一世紀の空気に
「どうなさったんですか社長、顔色が悪いですよ」
「い、いえなんでもないわ。ただの時差ボケよ」
「……議題は」
「ぎ、議題は非常勤従業員、朝比奈みくる氏の未払い給与の件であります。
なにガクブルしてんだと思ったら、朝比奈さんの給料は月二十五万かけることの十二ヶ月、ボーナスはまあ六十万として、さらにかけることの……えーとまだ退職してないわけだから八百三十年?総額、三十億円……プラス利子……だと。
「賛成」
「賛成です」
「……異議なし」
「しょーがないなあ、賛成にょろ~」
「全会一致で賛成と認め、そのように決しました。本日はこれにて閉廷!」
「おーいハルヒ、そろそろ起きろ。その後の話を少しだけするぞ」
昨夜の
「ハッ、ねえ今何時!?」
ハルヒがガバと布団から飛び起きた。
「九時回ったところだ。そろそろ顔洗え、鶴屋さん今日仕事らしいから」
長い長いバケーションに出て休みボケしている俺達と違って、鶴屋さんは平常運転なので自分が経営する会社に出なくてはならない。
「それどころじゃないわよ」
ハルヒはスマホを引っつかむとどこかへ電話をかけている。
「あーもしもしSOS団? 外務省からお客様が見えるから、特に開発部とか汚いから片付けといてよね。部長氏いないの? ってあんた誰よ、うちの会社に入り込んでなにしようっての!?もしかしたら今をときめく産業スパイね!」
危機一髪、俺は
「なにすんのよバカキョン!!」
「ま、待て待て、こ、これはタイムパラドクスを
「キョンくん、遊んでるとこ悪いんだけどさぁ、外務省のなんとかいう部署の人から電話があってSOS団に面会したいって」
遊んでません、死にかけてます。長門、
「外務省って、何用ですか」
「古泉という社員はいるかって聞いてたんだけどね、急いでるみたいだし今日でいいかい?」
古泉なら防衛省か警察庁筋じゃないだろうか、って前にも言った気がするな。古泉に尋ねる表情をすると、
「ええ、僕なら構いません。午後三時以降でお願いします」
あの事故が起こったのはたしか昼飯どきだった記憶があるが、まあ三時頃までには誰もいなくなるだろう。それよりハカセくんが
「りょっかい、
「すいません鶴屋さん、お手数なんですがSOS団に電話をかけてその
「はぁ?」
「ですから、今会社にいるハルヒに、官庁から来客がある、と伝えてほしいんです」
「ふぇ?」
いい加減に察してください。
「えーとですね、今ここにいる俺達は見た目は俺達なんですが本物の俺達じゃないんですよ」
「なになに、今現在、株式会社SOS団の事務所にいるのが本物ってことはだよ、人んちに上がり込んで風呂入って宴会までやったキミたちはいったい誰なのさ」
鶴屋さんは不可解な事件に
「実は俺達、朝比奈みちるの
「いつも姉がお世話になっております。朝比奈みちおと申します」
「メンゴメンゴ、朝比奈みちこよ。
「……
一人だけ学問の神様がいるぞヲイ。
「なーんだみくるの親類だったのかい。最初からそう言えばいいのに」
だからなにを納得したんですかあなたは。
鶴屋さんは今では珍しい黒電話の受話器を取り上げ、
「あーもしもし、ハルにゃんかい? 株主さんだけど、実はSOS団に興味があるっていう役人がいてさ、急で悪いんだけど今日面会のセッティングしてもいいかなぁ。うん。うん。なんか古泉くんのファンらしくてさあ」
線がつながっていないところを見るとコードレスらしい黒電話の重たい受話器を置いてチンと電話を切った。
「お手数おかけします」
「なんか本物のほうはタイムマシンの実験するとか言ってるんだけど、ほんとなのかい」
「え、さ、さあ偽物の俺達には何の話やらさっぱりで。あははは」
「あたし早めに行って見てみようかなあ」
「だめです! 午後三時きっかりに行ってください。時間厳守です」
「そうかい? つまんないなあ」
あなたまでタイムトラベルしてしまったらややこしい話がさらに輪をかけて複雑になってしまうんですよ。
鶴屋さんは運転手付きの車を自分で運転して出社し、俺達は適当にファミレスで時間を
俺は
「うっわなつかしー、会社ってあたしがいなくても回っていくのね」
従業員が苦労して運営している会社を全自動洗濯機みたいに言わないでもらいたい。っていうかさっきまでお前がそこに座ってたんだよ。
「……気をつけて」
事務所を通り抜けて実験室へ行こうとしたところ長門に
実験室の部屋の前にハカセくんがいた。ドアと共に俺が落ちていった暗黒の空間が広がっていて、それを
「おーいハカセくん、大丈夫か」
「で、出たあぁ」
三年ぶりに再開したのに人をモノノケみたいに。
ハカセくんは俺達の中世コスプレを上から下までジロジロと
「落ち着け。今帰ってきたところだ」
俺は足元に転がっている、ノスタルジーがいっぱいに詰まったコンビニの袋を
「な、なにがあったんですかセンパイ、それから皆さん」
「なんというか、時空の
適当な用語を並べているだけの俺である。
「よかった、無事だったんですね。あれ、うさぎのお姉さんは一緒じゃないんですか」
「あー、ちょっと
「うさぎのお姉さんって独身だったんじゃ!?」
「ワープした瞬間に嫁に行っちまってな、子供まで発生した。正直俺も驚いているところだ」
ハカセくんはガクブルしながら、
「時間移動技術って恐ろしいですね」
「そうだな。実に恐ろしい技術だ。今後しばらく封印したい」
それを恋のために利用しようとした乙女はもっと恐ろしい存在だが。
とりあえず長門には異空間の後始末を頼んだ。廊下にペタリと座り込んで二人でモソモソと特上トンカツ弁当を食べつつ、俺達がタイムトラベルの前に運んでおいた、いや運ばせておいたドアを元通りにはめ込んでネジ止めし、ようやくすべてが元の
時計の針が午後三時を指したとき、ちょうど事務所のドアが開いた。
「キョンくーん、来たよーん。珍しいお客様だ」
「あ、どうも、お待ちしておりました。むさ苦しいところですが、奥へどうぞ」
「お忙しいところ突然お邪魔して恐れ入ります」
深々とお
「あれっ、喜緑さんですか? 外務省にお勤めだったんですか」
「どうも、いつもお世話になっております」
こちらこそ、その節はお世話になりました、って言っていいのだろうか。いったいなぜ俺はあの精霊を喜緑さんだと思ったのか、確かに似ていた気はするのだがどうも印象が
パーテーションで部屋を仕切っただけの応接室に喜緑さんを案内しようとすると、ドアの影から三人目の客が現れた。
「ハロー」
「ええっと、ワタ、ワタタ、ワタタタ」
ハルヒは別に
ハルヒが営業スマイルのまま固まっているので俺が応接室に案内した。喜緑さんがその外人の女性を紹介し、
「SOS団の皆様、こちら、ミシェールさんです。イギリスからお見えになられました」
ピンと来たぞ。なんと、わざわざ日本のSOS団を尋ねてきたのか。そういえばどことなく
「ハジメ、マシテ」
カタコトの日本語である。
「マイレディ、── 」
どうやらナガティウス錬金商会の秘薬が切れたらしく英語は聞き取れなかったが、事情を察したらしい古泉が騎士コスのまま礼をして女性の前で
それからミシェールさんは細長い箱を喜緑さんから受け取り、それを古泉に渡した。古泉はそれが何であるか分かったらしく、
彼女は一度だけ日本風にお
「はー、すっごい緊張したわ。だって外人が訪ねてくるのはじめてなんだもの」
ハルヒの
「いやー、それにしても驚きですね」
「なにがだ?」
「まさか八百年の時を経て朝比奈さんの遺伝子を受け
「ええっ、エエエェ!?古泉くん、もしかして今の人ってみくるちゃんの子孫だったの? レディ・スマイトだったの?」
いったい誰だと思ってたんだお前は。話の成り行きからしてそれ以外ありえんだろうが。
「たいへんだわ、すぐ追いかけないと。貴族の知り合いなんて
ハルヒはドアをぶっ壊す勢いで事務所から出ていって、どうやら喜緑さんもミシェールさんも見失ってそのまま飛行機でイギリスまで飛んでいったらしく帰ってこなかった。
ところでレディ・ミシェール・ド・スマイトが残していった箱の中身だが、開けてみると
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