三十四章
時間移動空間、と勝手に俺が名付けた異空間は
「……これ、運んで」
長門を照らすと俺の後ろにあったドアを指さしている。荷物運び担当は古泉だけかと思っていたら俺もらしい。俺は言われるままに、八十センチ×二百センチの白いモノリスを背負って歩いた。
方角が分かるような目印は一切なく、自分が進んでいる方向が前でその反対側が後ろだと認識するしかなかった。つまり足元が下で頭のある方向が上なだけだ。
俺達は長門を先頭にして歩いた。しばらくして闇に目がなれてくると、足元の
思えば、長い
だがこの結末は俺達にとっていちばん似つかわしくないエンディングを
あの二人にとっては、それなりに
考えてみればこれは元祖ジョンスミスを作った朝比奈さんが
よもや忘れたわけではあるまい。
── 白雪姫って知ってますか?
俺が自分一人だけではどうしようもない事態に直面したとき、朝比奈さんは許す限りのヒントをくれたではないか。
── だって、そっちのほうが断然面白いじゃないの!
長門が作った世界を元に戻すために、自ら鍵の役を
じゃあ俺はいったいなにをするべきだったのか。俺達五人は互いに干渉しあい、人生観に少なからぬ影響を与えあい、平行線だったはずの時間の糸が
行き先も出口も分からず長い長いトンネルを歩きながら、俺はいくつかの後悔と、
俺は右手が
未来の日本に、俺達の生活がある二十一世紀に帰るということは嬉しいはずなのに、トボトボとうなだれつつ歩く足取りは重かった。左胸あたりに
「朝比奈さん、どうしました?」
俺達と朝比奈さんの間には五十メートルくらいの闇が広がっている。
「わたし……やっぱり帰れないわ」
俺は背負っていたドアを置いて朝比奈さんのところまで歩み寄った。
「俺だって残念でなりません。でも、落ち着いたらまた戻ってくればいいじゃないですか、TPDDが復活したら、」
「それはもう無理なの」
「なぜです?」
「ルールを破った私はもう時間移動要員に戻れないからよ」
確かに、そうだろう。戻ったとしても、よくて解雇、悪くすると時間移動関係の裁判みたいなものが待っているのかもしれない。
「じゃあ、どうするんですか」
「
「でも、それじゃまた既定事項が、」
朝比奈さんは立ち上がって、
「
真っ赤に泣きはらした目で俺を
「キョンくんお願い……ジャンがいないとわたし……生きていけない」
俺は今まで、朝比奈さんになにか命令したことはないし、裁定を下すようなマネはしたことがない。なのに、朝比奈さんは
「……彼を困らせるのはやめて」
話を聞いていた長門が割って入った。長門が言いたいのはたぶん、朝比奈さんには甘い俺に泣きつけば長門を動かせるとかハルヒをコントロールできるとか、そういう
「長門さん、困らせてるのは分かっているの。わたしの独断でキョンくんをふり回していたことも分かっています。でももう一度だけチャンスが欲しいんです」
「……すでにあなたの手に負えない事態になっている」
「これはわたしがはじめたことです。最後まで自分で責任を取ります!」
「TPDDを失ったあなたには、すでに事象を修復する
「長門さんも自分で言ったはずです。現時点の自分が行ったことの未来は、自分が責任を取る、と」
過去の
「……わたしは、全員をもれなく
長門は
長門と朝比奈さんが
そして、俺は、俺の右手は長門の左手を握った。
「長門……、だめだ」
俺の脳裏には、遠い未来で伯爵の古びた
「……分かった」
長門は手を下ろし、朝比奈さんは顔を上げた。
「……ただし、時間平面における
「四時間では間に合いません、せめて六時間ください」
「六時間では断層が発生してしまう」
「じゃあ、四時間と空間でお願い」
「……
このとき長門と朝比奈さんの間で、世界を再び作り変えるようななんかとてつもない交渉があったらしいのだが、俺には意味が分かりかねた。
長門は白いモノリスの前に立ち、俺に運ぶように指示した。俺達のやり取りを見ていた古泉に、イングランドに戻るぞと伝えると、
俺達は、たぶんさっき歩いてきた方角だと思うが、百メートルほど戻ってドアを立てた。長門が、覚悟はいいか、という風に俺達を見つめた。朝比奈さんがうなずくと俺はドアノブを回した。
ドアの前に広がっていたのは戦場だった。
サンダルの裏に感じた柔らかい感覚は濡れた砂だった。見上げると砂浜にはいくつもの
「あれは対岸の明かりか」
「いえ、フランス軍だと思います」
ドアの後ろをふり返ると
「ここはいったいどこなんだ?」
「この状況を
古泉が長門の顔を
「ということは俺達は過去に時間移動したわけか」
「……時間移動はしていない。事象を巻き戻しただけ」
「えーと、つまり?」
長門は指先でうずまきを描き、それを両手で回す仕草をした。俺達がタイムトラベルしたわけではなくて世界の方を巻き戻した、ってことなのか。俺が知る限りそれができるのは長門のパトロンしかいないが、なんという
「ところで長門さん、今現在の日付を教えてください」
古泉の質問に、長門が答えるより先に朝比奈さんが口を開いた。
「フランスとイングランドの開戦の直前よ。わたしたちがグロースターでドアをくぐったときより数時間前になるわ」
俺達が鶴屋さんに
朝比奈さんが四時間と空間をくれと言っていたのは、四時間
黒い海の向こうに広がる敵の船団を数えていると、
「……上陸開始まで時間がない」
長門が
「長門さん、付き
「……」
長門は俺の目を見てから黙ってうなずいた。
俺は言われるままに朝比奈さんの後ろをついていった。丘を登ると兵士たちがジロジロと俺を見ていたが、俺が着ている赤い十字の入ったチョッキを見ると軽く頭を下げた。丘の向こう側には高く
朝比奈さんは馬に乗った騎士に話しかけ、グロースター
「どうしましょう、ジャンはまだ着いてないみたい」
「たしか、ヘイスティングスまでは二日はかかる距離だった気がします」
「二日では間に合わないわ……」
朝比奈さんは呆然とつぶやいた。
俺は辺りを見回し、見覚えのある紋章に目を留めた。
「王様のテントがありますよ。話してみてはどうですか」
「そうね、無礼かもしれないけどそうしましょう」
「あれれ、レディ・アングレームじゃないか。こんなところでなにしてるの? しかもハリーちゃんを連れて」
いっぱしの
「陛下。緊急の
「ああ、フィリップが付けてきた
「
「しばらく交渉はしてたんだけどねえ。まあ、向こう次第だね。こっちの戦力が足りなくて足元見られてるし」
朝比奈さんはスゥと息を吸って、
「陛下、わたしに和平交渉の全権をいただけないでしょうか」
リチャードさんはあんぐりと口を開けた。
「イザベラに星が読めるってのは聞いてたけど、今さら無理じゃないかなあ」
「はからずも
「しかしなあ……キミ一人を敵陣にやるわけにも」
「開戦して兵士を大勢失えば国が
「
朝比奈さんの顔が少しだけほころんだ。
王様は、間違いがあってはいけないので
長門と古泉の元に戻り、
「長門さん、どういう結果になっても後悔はしないわ。後のことをお願いします」
朝比奈さんはハリーを長門に預け、もしものときは修道院に
「……分かった」
長門はゆっくりとうなずいた。古泉が口を挟み、
「朝、いえマイレディ、どうなさるおつもりですか」
「陛下に
「まさか……大丈夫なのですか」
「こうするしかないわ。これが最後の、唯一の切り札だから」
「そうですか……。
「古泉、そういうことだ。ここで失敗すれば戦闘が始まる。そのときは
「いえ、僕はこれからグロースターに戻るつもりです。チェプストーの防御を固めなければなりません」
「そうだったな。ここで和平が成立してもまだ背後がヤバいんだった。長門も一緒に戻るか?」
「……わたしは、ここであなたの帰りを待つ」
「よし。たぶん
「……分かった」
今まで、こういうシリアスな状況ではなにかと助け合ってきた俺達だったが、ここから先はそれぞれが自分に与えられた役を
「ところで、涼宮さんを預かっていただいていいでしょうか」
古泉は背中におぶっている、気絶したままのハルヒを示した。なんか静かだと思ってたら、すっかり忘れてた。長門はハリーを抱いているし、朝比奈さんと俺はこれから交渉の任務がある。
「グロースターを守るのはハルヒの役回りだ、連れてけばいいだろ」
「それは構わないんですが、どうやって起こせばいいんでしょうか」
ほっぺたをひっぱたくとか頭から水を被せるとかすればいいだろ、と言いかけて俺は、
「なあ古泉。お前、白雪姫って知ってるか」
朝比奈さんはペナントの
小舟の後ろ側に座っている朝比奈さんの表情は、いくぶん落ち着いていた。時間移動空間を歩いているときにはもう絶望のどん底で、この世の終わりを体現するような顔をしていた。まあ愛する人を失ったのだから当然そうなのだろうが。今の表情はというと、恐怖でもなく、これから起こることへの不安でもなく、未来への期待でもなく、一切を後にしてなにか
「キョンくん……、いろいろ無理言ってごめんね」
「いいんですよ。俺達長い付き合いじゃないですか」
「そのSOS団も、わたしは抜けないといけないかもしれないの」
「どういうことですか?」
「わたしはもう……戻りません」
戻らない、とはどういう意味なのだろうか。これから敵との交渉へ行き、そのまま人質としてフランスへ渡るということなのだろうか。それとも、もはや未来へは帰らないという意味なのだろうか。
「えっと、それはどっちの意味でですか」
「両方の意味で、よ」
朝比奈さんはこの時代に骨を
「もしかして人質になるつもりですか、無茶ですよ。どこか田舎の城で一生
「イングランドが助かるなら、わたし一人くらい安いものよ」
そうだ。朝比奈さんは単に
「そうすると俺達自身の歴史が変わってしまいませんか。若い頃のあなたを指導していたのは、あなた自身でしょう。その事実が消えてしまうとここに存在することすら、」
「いえ、わたしは、今ここにいるわたしはすでに自分の教習を終えた立場なの」
つまり、朝比奈さん(大)の最終形態である。俺は
「朝比奈さん、もう
「それはできないわ。ジャンもハリーもイングランドの時間線を
俺は黙っていた。あと何時間あるのか分からないが、もしかしたらこれが朝比奈さんと会える最後の時間になる。それなのに俺には発する言葉すらなかった。
「ごめんね」
もう一度言った。
「謝らないでください朝比奈さん、俺達SOS団じゃないですか、時空を超えた仲じゃないですか」
壊れそうななにかに
古びた部室に咲く
俺はオールを
小舟は船団に近づいた。いちばん大きな
甲板に足を踏み入れると朝比奈さんは服装を正し、背筋を伸ばして、イングランド王国の全権大使であると言った。
「これはこれは、レディ・イザベラ・オブ・アングレーム。お初にお目にかかる。よもやそちが直接交渉に来るとは、ようこそ我軍へ」
うやうやしくお
「リチャード国王陛下に代わり、この度の戦争を
「ここでは寒い。中で話そう」
俺が朝比奈さんの後をついていこうとすると槍を持った兵士に取り囲まれた。朝比奈さんがこっちをふり返り、
「その者は修道士で、わたしの秘書である」
敵兵と言えど貴族には敬意を持っているようで、兵士たちは一歩下がった。俺は槍の
「陛下、時間がありませんので
「そう願いたいものだ」
「わたしは、あなたとは、結婚しません!!」
部屋の中に入るなり朝比奈さんが怒鳴りつけた。王様は一瞬ビクッと青ざめて、
「ま、待てレディ・アングレームよ、
「では改めて。わたしにはすでに夫がおります。仮に独身だったとしても、結婚を
ヘタレと指さしで言われてユーグさんも
「あ、あの私は何度も手紙を差し上げてまして。マイレディ、あなたからの返事がないので陛下にご相談申し上げたわけでして」
「そうなのだ。レディ・アングレーム、ワシはそなたをフランス王家の家族としてお
いやあれは俺が知恵を出して、長門が助けてくれて、そもそもハルヒが強引にはじめちまって、などと思ったが秘書らしく口には出さなかった。
朝比奈さんはまたもや手を口に当ててアラヤダをやっている。なにか思い当たる節でもあるのだろうか。
「あなたの手紙だったんですか。わたしったら、ごめんなさいごめんなさい、ちゃんとお返事をするべきでした。ただのファンレターかと思っちゃって」
ああ、そういえば郵便事業のときそんな手紙が何通も来てたっけな。俺は、ファンというのは熱狂のあまりストーカーに化けることがあるから個人で返事を書くのはやめときなさいと言ったんだった。リュジニャンさんは頭をかきながら、
「あー、そうじゃないかとは思いました」
「ではロード・リュジニャン、今ここで
リュジニャンさんがフィリップさんの顔を
「そうは
「お金なら利子を付けてお支払いします。でもわたしはフランスの所有物ではありません」
「そこをなんとか曲げてくれ。ワシはそなたの力が欲しい」
「できません」
「今ここで、そちを人質にしてもよいのだぞ」
「わたしが人質になれば、夫がリチャード陛下を説得し、全軍を率いてたった一人の人質を
フィリップさんは黙り込んだ。この人にも敵が多いのかもしれん。しばらく考え込んでいるようだったが、リュジニャンさんに向かってつぶやいた。
「残念だが、交渉は
フィリップさんは船室のドアを開けて、さっさと帰れという仕草をした。リュジニャンさんはもう少しなんとかなりませんか、と交互に二人を見つめている。朝比奈さんは椅子に座ったまま、ときどき目をパチパチして、なにか
「仕方ありません、わたしがここに、」
今にもこっちの最後のカードを切ろうかとする瞬間、開いたドアの向こうから声がした。
「あ、あの、マイレディ」
四人が目をやると突然
「そんなところでなにをしている、接客中だぞ」
王様が怒って追い払おうとした。年の頃は中学生くらいだろうか、少年はうやうやしくお
「陛下、父上、少しだけレディシップと話をさせてくださいませんか」
「だめだ。今は重要な交渉の最中なのだ」
「待って、どうしたの? わたしを知っているのかしら」
「存じ上げています! 僕、フランスで見たんです。この本に
少年が大事そうに抱えている本は、よく見れば長門
「あら、ファンの子なのね」
朝比奈さんはなにか書くものはと周りを見回して、少年が差し出した
「あなたのお名前は?」
「ユーグ・ド・リュジニャンです」
「え、あなたがロード・リュジニャンなの?」
「息子です」
「お母様はお元気かしら」
「母は三年前に亡くなりました」
「あら……そうだったの。ごめんなさい、つらいことを思い出せて」
「いいんです。でも、マイレディのような方が母になってくれたら、と思っていました」
朝比奈さんはユーグジュニアの顔をまじまじと見つめた。
「あなた、歳はおいくつかしら」
「十四歳です」
「そうなの……」
それからまた少年の幼い顔を
朝比奈さんは壁に張り付いたままのリュジニャン
「この子となら考えてもいいわ」
「そ、そいつはまだ十四歳ですよ。まだ恋の味すら知らない子供ですよ」
「あら、こういう子は成長すると化けるのよ」
お前らいったい何の話をしとるんだ。いやしくもあなた人妻でしょうが。フィリップさんがニヤニヤしながら、
「ほう、息子のほうが気に入ったか」
「ただし離婚はできませんから、今の夫が亡くなったらという条件で」
「うーむ、それはいったいいつになるのだ」
「分かりませんが、なんの希望もないよりはマシでしょう」
「ワシはそれでも構わんのだが……、口約束だけではうちの家臣たちを黙らせられんのだ」
「では
フィリップさんは家臣の数を指を折って数えているようだ。
「それだけでは足りんようだな。リチャードの領地ももらっていいかの」
「リチャード陛下の資産についてはわたくしの
王様はリュジニャン
朝比奈さんは例の、見るものすべてを恋に
「ロード・リュジニャン・ジュニア、あなたがわたしに忠誠を誓い、
「ええッ喜んで!!」
「じゃ、今日のところはこれだけね」
と朝比奈さんは少年の耳元に唇を寄せ、まだ産毛が生えたままの
俺達二人は、取り囲む兵士たちを押しのけつつ小舟に乗り込んだ。見上げると船の
海の潮が満ち始めていた。朝比奈さんの表情は晴れ晴れとしており、帰りの小舟は波に任せてスイスイと進んだ。砂浜に乗り上げると兵士たちが引き上げてくれた。ハリーを抱っこした長門が笑い出しそうな、それでいて眉毛ピクピクの微妙な表情をしている。
「ただいま。なんとか戦争にはならずに済んだよ」
「……おかえり。お疲れさま」
長門、これは
三人は王様に報告するためにテントまで戻った。
「おかえりアングレーム、どうだったの?」
「陛下、いいニュースと悪いニュースがございます」
「じゃ、じゃあ悪いニュースから教えて」
「陛下、フランス国土におけるあなたの領地はすべて失われました」
「エエッ。で、いいニュースは?」
「借金がすべて
そうだ、確かそうだった。この先数十年間は支払わなければならない王様の
王様は間の抜けた笑顔のまま固まってしまい、喜んでいいのか悪いのか迷っているようだ。そこへ突然テントの幕が開けられて伯爵が飛び込んできた。
「マイレディ!!どうしてここにいらっしゃるんですか、城にいたはずなのに!」
朝比奈さんは口をパクパクしたままなにかを言いたげな、でも言葉にならない感情の
「ジャン、よかった……また会えて。もう二度とこっちに戻ってこれないかと」
いったい何があったんだという顔を俺と長門と王様に向けているが、三人とも首を振って肩をすくめるばかりである。まあ、その辺の
テントを背にしてじっと突っ立っていると、王様がぼそりと
「修道士殿……」
「なんでしょう陛下」
「恋する乙女に
「
潮の流れが変わり、一国の運命を
最後の一隻が消えたその日の昼まで待ち、俺達はヘイスティングスを後にした。砂浜の上に立っていたドアをどうしても持って帰るようにと長門に言われ、俺はまたグロースターまで背負っていくのかと青ざめたものだが、伯爵が空いている荷馬車に積んでくれたので重労働を課されずに済んだ。兵士たちの後を歩いて一度ロンドンに立ち寄り、ゆるゆると歩きながらイングランドの美しい景色を
フィリップさんとの密約は朝比奈さんの
古泉達がその後どうなったかだが、ヘイスティングスから飛んで戻る途中で伯爵の本隊に会ったらしい。グロースター防衛のために二百名ほどの兵士の指揮を任され、古泉は城へ戻った。
朝比奈さんの陰謀、いや
「、なにするやめふじこォ!!」
次の瞬間、古泉は点滅する星が回るのが見えたらしい。ハルヒの
「ってあれ? ここどこなの」
「グッ、グロースター城の
「え、さっきまで伯爵の部屋にいた気がするんだけど。戦死したんじゃなかったっけ」
「そんなことはありません、涼宮さん。先ほどまで出陣の前祝いがありまして、あなたは酔って悪い夢を見ていらしたんです」
「ああ、そうだっけ。そんならいいんだけど」
「それより時間がありません。ウェールズ軍が侵攻してくる気配があります」
「エエッ、それさっき夢で見たわよ。川を
「それは勝利の
まあ試験前に問題を知ってるのと同じで、これから起こることを経験済みなわけだからな。
「それにしちゃリアルすぎるんだけど……」
ハルヒはどうも
「その
「え、あたし丸太とか言ったっけ」
「ハッ、言いました。言いましたよたった今」
「あそう。でもちょーっと待ちなさい。夢をなぞるだけなら面白くないわ、こっちはその上を行きましょう」
いや、お前が自分で作戦を立てたんだから、なぞるだけで十分なんだがな。
ハルヒは数時間前の自分の戦術を出し抜くつもりらしく、ニヤリと薄ら笑いを浮かべつつ一個小隊を貸しなさいと命令した。部下を連れて城の倉庫へ降りていくと、ウイスキーの
「涼宮さん、どうするんですかその
「丸太って川を流れていくと根っこの方が下になってしまうのよ。それよりこの
「なるほど」
古泉は手のひらをポンと叩いた。城からありったけの荷馬車を出し、住民からも
現地につくとまだ満ち潮ではないらしく川の水は穏やかで波も立っていない。ハルヒはまず
こうすれば後から回収も可能なわけで、使い捨ての丸太や木材を流すよりローコストだし、一度経験しただけで格段にスマートな戦術になったものだ、と古泉はウンウンうなずいた。
「さあ古泉くん移動するわよ。ここからが本番よ」
「ここで敵を待ち
「チッチッチ、ウェールズの本命はチェプストーよ。そっちで待ち構えるわ」
「しかし、僕が預かっているのはせいぜい二個中隊です。
「それはまあ、まともに戦うならその覚悟は必要かもね」
「覚悟はあります」古泉は鼻を鳴らした。
「そんな家族持ちの兵士に
あたしを誰だと思ってんの、百戦百勝の涼宮隊長よ、と言いたそうだったが、歴史上はまだ一戦もしていないのである。
ペナント型のSOS団団旗を
「ちょっと、これ重たいから、荷馬車には四個ずつ、積んで」
そりゃ重かろう、中身の入った
「なるほど、これを火器にするんですね」
「そうそう。ギリシャ火薬って見たことあるわよね?」
いや、未だかつて現物を見た現代人はいないと思う。まあ化学の実験でエチルアルコールが燃えるのは見たことあるが。武器にするならせめてメチルとかベンゼンだろう、と古泉は思ったが、ハルヒの立案に水を
中隊はゆるゆると進んでチェプストーにたどり着き、自分たちが酒を運ばされていると知り兵士たちにもあんまり緊張感がなかった。戦闘が終わったらたぶんこれを飲めるんだろう、くらいの期待感はあるようでまったく
チェプストーの城に着くと、古泉は守備隊の隊長に話をつけに門を入り、ハルヒは城門の向こう側に
「
古泉は、果たしてどれくらいの効果があるのか着火のテストをしてみるべきだった、と後になって語っている。なんだかずいぶんと
「涼宮さん、僕はこれから周辺の領地をまわって援軍を要請してきます」
「今から援軍って間に合うの?」
「出兵はしてくれなくても、兵力を分散させるための陽動くらいはやってくれるのではないかと」
「あっそう。あたしも考えてたんだけど、こないだホラ、なんつったっけあの子。メイドさんのパンツを隠し持ってて妹ちゃんを
ハルヒの人の覚え方もイチイチ
「ああ、僕と
古泉、お前も細かいぞ。
「あの子、
「あの
スコットランドの南端からウェールズの北端までは道のりにして二百キロメートルはある。
「海路を行けばなんとかなんない?」
「そうですね……」
古泉は考えた。スコットランドのダンフリーズあたりから船団を出して、うまく北風に乗れば、あるいは。戦闘はしなくてもウェールズの北の海岸に
「連絡は付けてみますが、
古泉は忘れていた。その程度の幸運とやらはハルヒの
前回、ウェールズの
ウェールズに国境を接しているイングランド側の城を訪ね、
イングランドとフランスが戦争になるかもしれないという噂はスコットランドの王子様の耳にも入っていたらしく、妹男爵の身の上を案じてくれていた。自分にはスコットランド王軍を動かすことはできないが、できるだけの支援はしてくれると心強いお言葉をいただいたそうだ。
「ああそうそう、ミス・スズミヤから伝言が。もし軍を出してくれたらとびきりうまい酒の製法を伝授しようということです」
これが後のスコッチウイスキーである。
数時間後、古泉はチェプストーに戻り、長いことなにも食ってない気がして守備隊からパンを分けてもらい、見張り台の上に登っていった。ハルヒは長剣に寄りかかってうたた寝をしている。そろそろ夜明けだ。遠くを
住民はイングランドとウェールズの緊張関係には敏感らしく、三日前に
城壁の石がパラパラと落ち、古泉は目を上げ、ハルヒが目を覚ました。東の空が明るんでくるのと同時に
「来ましたか……来るべきものが」
ここで古泉がウェールズ軍を目にするのは二度目である。城壁に寄りかかっているハルヒに目を降ろすと、古泉がかじりかけていたパンをじっと
「ング、あいつらどれくらいいんの?」
「今回は五千人くらいです」
ご、五千人対二百数十人だぞオイ。二十倍近い戦力差だぞ。
「へえ。それで、この城はどれくらい持ちこたえられるの?」
「二百人分の
ちなみにグロースター城の場合、常勤の兵士が
前回、半年持つはずだった城が
だんだんと振動が大きくなってきた。ウェールズ軍の軍歌らしきものが聞こえる。古泉が部下に向かって叫んだ。
「
小隊長が壁の下に向かって合図の旗を振った。射手が並んで壁を登ってきたが、
城の南側の街道にずらりと並び、
「
次々と矢じりに火が
「目標
ヒュンヒュンと音がして煙を残しながら火矢が飛んでいく。
予想していたかのようにウェールズ兵は盾を構えた。すで明るいのに火矢を使うとは、どこかに油でも
「なんで!?なんで火ぃすぐ消えてしまうん?」
ハルヒが
「アチャー、大失敗だわ」
あの重たい
古泉が次の策を考えていると、ウェールズ兵が
「コラぁ!お前らあたしの酒を勝手に飲むなあ!」
ハルヒが見張り台の上から叫んでいるが英語なので分からないようだ。
それがだんだんとまわりの兵士にも伝わったらしく、
ウェールズ人は酒に強いと聞くが、ハルヒのスピリッツはよほど度数が高かったのだろう。小一時間もすると五千人の兵士全員がゴロ寝状態で、これこそ
「チッ、こんなことなら酒の中に砂糖を混ぜとくんだったわ。三日は体ボロボロにできたのにぃ」
なにを恐ろしいこと
グロースターの兵士は自分達が飲めると思っていた酒が敵によって消費されるのを指を
それからウェールズ兵は昼寝をしては酒を飲み、立ちションをしては飲み、寝ていた誰かが起き上がっては酒を飲むを繰り返して、すべての
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