三十四章

 時間移動空間、と勝手に俺が名付けた異空間は漆黒しっこくの闇の世界で本当になにもなく、足元には俺が持っているランプの光を反射する床すらもない。

「……これ、運んで」

長門を照らすと俺の後ろにあったドアを指さしている。荷物運び担当は古泉だけかと思っていたら俺もらしい。俺は言われるままに、八十センチ×二百センチの白いモノリスを背負って歩いた。

 方角が分かるような目印は一切なく、自分が進んでいる方向が前でその反対側が後ろだと認識するしかなかった。つまり足元が下で頭のある方向が上なだけだ。

 俺達は長門を先頭にして歩いた。しばらくして闇に目がなれてくると、足元のはるか下の方に、うっすらと光を放つ綿毛わたげのようなものが伸びているのが見えた。星雲のようにも見えるが、もしかして天の川なのだろうか。俺はこの事件の最初に登場したアナログ式銀河時計を思い出した。


 思えば、長い隠遁いんとん生活だった。あれから三年も経つのか。俺はいったいなにしにイギリスへ行ったのだろう。苦労のすえに長門を探し当てただけで俺は満足し、モラトリアムにひたりきった生活を満喫まんきつしていた。腹が減ったら飯が食えて、日が暮れたら屋根のあるところで眠れる。それだけで十分だと思っていた。ハルヒのジョンスミス闘争や、朝比奈さんのドタバタラブストーリーなんて、実はどうでもよかったのだ。俺は残りの人生を、長門と一緒に悠々自適ゆうゆうじてきに過ごしたかっただけなのだろう。

 だがこの結末は俺達にとっていちばん似つかわしくないエンディングをむかえようとしていて、グランドフィナーレとはほど遠いもんになっちまった。もしかしたら俺はなにか大事なものを見過ごしていたのではないか。俺の目の前で展開されたこの物語の伏線ふくせんを、どこかで見落としていたのではないだろうか。ハルヒと朝比奈さんが、汗を流してたがやし、血を流して戦い、涙を流してまで愛したこの時代を。


 あの二人にとっては、それなりに深刻しんこくで真剣なストーリーだったのは分かる。ハルヒにとってジョンスミスが何なのか俺には分からんが、どうやら積年のうらみめいたタダゴトではない何かを抱えているらしい。朝比奈さんに至っては運命を共にしても構わないほどの、まるで女子学生の初恋の相手のようだった。

 考えてみればこれは元祖ジョンスミスを作った朝比奈さんがいた種なのではないか、という批判めいたことを言う俺がいる。かたや、ハルヒも朝比奈さんも一人前の大人で俺が干渉することじゃないし自分で解決するべき問題だろう、という正論好きな俺がいる。そしてその二人を見下ろしている判事の俺がいて、偉そうに木槌きづちをふりおろして裁定を下そうとしている。だが傍聴席ぼうちょうせきから俺が叫ぶ。お前ら全員、それは薄情はくじょうなのではないか、と。


 よもや忘れたわけではあるまい。

── 白雪姫って知ってますか?

俺が自分一人だけではどうしようもない事態に直面したとき、朝比奈さんは許す限りのヒントをくれたではないか。

── だって、そっちのほうが断然面白いじゃないの!

長門が作った世界を元に戻すために、自ら鍵の役をになったのは実はハルヒだったではないか。


 じゃあ俺はいったいなにをするべきだったのか。俺達五人は互いに干渉しあい、人生観に少なからぬ影響を与えあい、平行線だったはずの時間の糸がからみ合ってもはや離れては生きていけない。それぞれの人生にそれぞれの生き方がある、なんていうトートロジーはもう通用しない。俺達は互いの人生に責任を持たされる、切っても切れぬ関係になっちまった。こいつらの未来はどうなるんだろう、こいつらはいったいどこに行くんだろう、そして俺はSOS団をどこへ連れて行こうとしているんだろう。


 行き先も出口も分からず長い長いトンネルを歩きながら、俺はいくつかの後悔と、惜別せきべつの想いと、無念の感情を繰り返した。SOS団団員そのいちは、本当にやるべきことを果たしたのだろうか、と。

 俺は右手がさびしくなり、ふと長門の手を握った。ふり返った長門の手は暖かかった。……あなたはよくやっている。そう言ってくれているように感じた。


 未来の日本に、俺達の生活がある二十一世紀に帰るということは嬉しいはずなのに、トボトボとうなだれつつ歩く足取りは重かった。左胸あたりにただようなんだか分からないもやもやしたもの、もっと言えば後ろ髪を引かれる思いだろうか。もしかしたら学校を卒業して未来に帰るときの朝比奈さん(小)もこんな気持だったんだろうか。その朝比奈さん(大)は、とふり返ると、はるか後ろの方でハリーを抱きしめたまま座り込んでいた。

「朝比奈さん、どうしました?」

俺達と朝比奈さんの間には五十メートルくらいの闇が広がっている。

「わたし……やっぱり帰れないわ」

俺は背負っていたドアを置いて朝比奈さんのところまで歩み寄った。

「俺だって残念でなりません。でも、落ち着いたらまた戻ってくればいいじゃないですか、TPDDが復活したら、」

「それはもう無理なの」

「なぜです?」

「ルールを破った私はもう時間移動要員に戻れないからよ」

確かに、そうだろう。戻ったとしても、よくて解雇、悪くすると時間移動関係の裁判みたいなものが待っているのかもしれない。

「じゃあ、どうするんですか」

つぐないたいの、私がしでかしたことを。あの国を立て直して……」

「でも、それじゃまた既定事項が、」

朝比奈さんは立ち上がって、

既定事項などクソくらえですScrewed the established matter!!」

真っ赤に泣きはらした目で俺をにらんだ。眼前がんぜんで怒鳴りつけられるのははじめてのことで、俺は顔がこわばった。朝比奈さんはびる表情になり、

「キョンくんお願い……ジャンがいないとわたし……生きていけない」

俺は今まで、朝比奈さんになにか命令したことはないし、裁定を下すようなマネはしたことがない。なのに、朝比奈さんはあらがえない運命への怒りと、自分が引き起こしたことへの後悔と、それらをおおい尽くす強い贖罪しょくざいみたいななにかにさいなまれて前に進めず、そして後ろにも戻れないでいる。まるで時間移動する者の抱えるジレンマにめ立てられるかのように。


「……彼を困らせるのはやめて」

話を聞いていた長門が割って入った。長門が言いたいのはたぶん、朝比奈さんには甘い俺に泣きつけば長門を動かせるとかハルヒをコントロールできるとか、そういう魂胆こんたんが見えいていて気に入らないのだろう。まあ俺も自分が甘いのは分かってるんだけどな。

「長門さん、困らせてるのは分かっているの。わたしの独断でキョンくんをふり回していたことも分かっています。でももう一度だけチャンスが欲しいんです」

「……すでにあなたの手に負えない事態になっている」

「これはわたしがはじめたことです。最後まで自分で責任を取ります!」

「TPDDを失ったあなたには、すでに事象を修復するすべはない。歴史の知識だけでは解決不可能」

「長門さんも自分で言ったはずです。現時点の自分が行ったことの未来は、自分が責任を取る、と」

過去の失態しったいを持ち出されてグウの音も出ない長門、だと思われたが、

「……わたしは、全員をもれなく帰還きかんさせるべく命令を受けている」

長門はゆずらなかった。たぶん朝比奈さんの起こした改変が情報統合思念体の酌量しゃくりょうの余地を超えているからだろう。


 長門と朝比奈さんがにらみ合っている。やがて黙していた長門が左手を上げた。朝比奈さんは覚悟を決めたかのように両目を閉じ、ハリーを抱きしめ、透明な熱いものがあふれた。全身全霊ぜんしんぜんれいをもって自分の人生をけて手に入れたものを失うという覚悟、朝比奈さんのほほを伝わって流れたものはそういう思いだったに違いない。

 そして、俺は、俺の右手は長門の左手を握った。

「長門……、だめだ」

俺の脳裏には、遠い未来で伯爵の古びたひつぎにすがりついて涙を流す朝比奈さんの背中が浮かんだ。そんな姿は見たくなかった。ここで朝比奈さんの意思に反して連れ帰っても、それにどんな大義名分たいぎめいぶんがあったとしても、長門は後悔するに違いない。そして俺も。

「……分かった」

長門は手を下ろし、朝比奈さんは顔を上げた。

「……ただし、時間平面における量子揺りょうしゆらぎの許容範囲は四時間」

「四時間では間に合いません、せめて六時間ください」

「六時間では断層が発生してしまう」

「じゃあ、四時間と空間でお願い」

「……妥結Deal

このとき長門と朝比奈さんの間で、世界を再び作り変えるようななんかとてつもない交渉があったらしいのだが、俺には意味が分かりかねた。

 長門は白いモノリスの前に立ち、俺に運ぶように指示した。俺達のやり取りを見ていた古泉に、イングランドに戻るぞと伝えると、深刻しんこくな表情をしていたのがなにかまた期待するような顔つきになった。

 俺達は、たぶんさっき歩いてきた方角だと思うが、百メートルほど戻ってドアを立てた。長門が、覚悟はいいか、という風に俺達を見つめた。朝比奈さんがうなずくと俺はドアノブを回した。

 ドアの前に広がっていたのは戦場だった。


 サンダルの裏に感じた柔らかい感覚は濡れた砂だった。見上げると砂浜にはいくつもの篝火かがりびが立っていて、その向こうには干上がった砂浜、小さく打ち寄せる白い波、見えない水平線には真っ暗な海が広がっている。水平線のかなたに、赤くともる火がずらりと並んでいた。

「あれは対岸の明かりか」

「いえ、フランス軍だと思います」

ともる火に目をらしているとかすかに上下にれている。

 ドアの後ろをふり返るとゆるやかな丘の上にいくつもの篝火かがりびかれていた。風にたなびいているペナントの紋章には見覚えがあった。そこにはイングランドの全軍が控えていた。

「ここはいったいどこなんだ?」

「この状況をかんがみるに、ヘイスティングス海岸だと思われます。違いますか」

古泉が長門の顔をうかがうとうなずいている。

「ということは俺達は過去に時間移動したわけか」

「……時間移動はしていない。事象を巻き戻しただけ」

「えーと、つまり?」

長門は指先でうずまきを描き、それを両手で回す仕草をした。俺達がタイムトラベルしたわけではなくて世界の方を巻き戻した、ってことなのか。俺が知る限りそれができるのは長門のパトロンしかいないが、なんという豪気ごうきな。

「ところで長門さん、今現在の日付を教えてください」

古泉の質問に、長門が答えるより先に朝比奈さんが口を開いた。

「フランスとイングランドの開戦の直前よ。わたしたちがグロースターでドアをくぐったときより数時間前になるわ」

俺達が鶴屋さんにうながされて時間移動空間に入ったときにはすでに開戦していて、おおよその勝敗はついていたということになる。今まさに俺たちが立っているこの場所で戦闘していた。そこから時間をさかのぼると、城を脱出し、伯爵が重体になり、ハルヒがウェールズの奇襲を阻止そしし、住民の避難ひなんをはじめ、グロースター軍の遠征がはじまり、城で円卓会議をしていた、俺達の自時間から見て約四時間前のことだ。

 朝比奈さんが四時間と空間をくれと言っていたのは、四時間ぶんを巻き戻し、直接目的地に空間移動することで時間を稼いだ、ということなのだろう。


 黒い海の向こうに広がる敵の船団を数えていると、

「……上陸開始まで時間がない」

長門がつぶやいて皆はハッと我に返った。聞けば、沖合に並んでいるフランス軍の船団は潮が満ち始めるのを待っているらしい。寄せてくる波はまだ小さい。

「長門さん、付きいにキョンくんをお借りしていいかしら」

「……」

長門は俺の目を見てから黙ってうなずいた。

 俺は言われるままに朝比奈さんの後ろをついていった。丘を登ると兵士たちがジロジロと俺を見ていたが、俺が着ている赤い十字の入ったチョッキを見ると軽く頭を下げた。丘の向こう側には高くかかげられた騎士のペナントが乱立しており、明かりのついたテントがいくつも浮かび上がった。パチパチと炎を上げてぜる篝火かがりびの熱を顔に感じながら、厳しい表情をした兵士たちの間を通り抜けていく。

 朝比奈さんは馬に乗った騎士に話しかけ、グロースターきょうを見かけなかったかと尋ねた。騎士は朝比奈さんを知っているらしく一礼して、まだ到着していないとこたえた。

「どうしましょう、ジャンはまだ着いてないみたい」

「たしか、ヘイスティングスまでは二日はかかる距離だった気がします」

「二日では間に合わないわ……」

朝比奈さんは呆然とつぶやいた。

 俺は辺りを見回し、見覚えのある紋章に目を留めた。

「王様のテントがありますよ。話してみてはどうですか」

「そうね、無礼かもしれないけどそうしましょう」

側近そっきんを通さずに王様に近づくのはなかなか難しく、朝比奈さんは馬避うまよけのさくの前に立っている護衛ごえいの兵士に話をし、その奥のテントを取り巻いている近衛兵このえへいにも指輪を見せて自己紹介をしなければならなかった。

「あれれ、レディ・アングレームじゃないか。こんなところでなにしてるの? しかもハリーちゃんを連れて」

いっぱしの板金いたがねよろいを着込んだ王様がテントから顔をのぞかせた。手招きして中に入れと言っている。朝比奈さんはお辞儀じぎもそこそこに、

「陛下。緊急の訴願そがんにつき突然お邪魔させていただきました。ご無礼の段をおゆるしください。この度の宣戦布告について聞き及び、参上いたしました」

「ああ、フィリップが付けてきた因縁いんねんのことかい?気にしないでいいよ、あいつの宮廷じゃそろそろ武将たちに仕事をさせないといけないみたいな、不穏ふおんな空気になってるらしいから」

僭越せんえつながら、和平の道は開かれていないのでしょうか」

「しばらく交渉はしてたんだけどねえ。まあ、向こう次第だね。こっちの戦力が足りなくて足元見られてるし」

朝比奈さんはスゥと息を吸って、

「陛下、わたしに和平交渉の全権をいただけないでしょうか」

リチャードさんはあんぐりと口を開けた。

「イザベラに星が読めるってのは聞いてたけど、今さら無理じゃないかなあ」

「はからずも反故ほごになった、わたしの婚約権こんやくけんたんを発しているとうかがっておりますし」

「しかしなあ……キミ一人を敵陣にやるわけにも」

「開戦して兵士を大勢失えば国が疲弊ひへいします。そうなると次なる敵が攻めてくるでしょう。今ここで和議わぎが成立すれば、」

けてみる価値はある……かな。よし、分かったよ。行っておいで」

朝比奈さんの顔が少しだけほころんだ。


 王様は、間違いがあってはいけないので付添つきそいに自分の近衛兵このえへいをついて行かせると言い張ったが、朝比奈さんは丁寧ていねいに辞退して俺だけを連れていくと言った。

 長門と古泉の元に戻り、

「長門さん、どういう結果になっても後悔はしないわ。後のことをお願いします」

朝比奈さんはハリーを長門に預け、もしものときは修道院にたくしてくれるようにと頼んだ。

「……分かった」

長門はゆっくりとうなずいた。古泉が口を挟み、

「朝、いえマイレディ、どうなさるおつもりですか」

「陛下に先様さきさまと交渉する権限を頂いたわ」

「まさか……大丈夫なのですか」

「こうするしかないわ。これが最後の、唯一の切り札だから」

「そうですか……。吉報きっぽうをお待ちしております」

「古泉、そういうことだ。ここで失敗すれば戦闘が始まる。そのときは躊躇ちゅうちょせず長門と逃げてくれ」

「いえ、僕はこれからグロースターに戻るつもりです。チェプストーの防御を固めなければなりません」

「そうだったな。ここで和平が成立してもまだ背後がヤバいんだった。長門も一緒に戻るか?」

「……わたしは、ここであなたの帰りを待つ」

「よし。たぶん人質ひとじちに取られるようなことはないと思うが、もしものときは助け出してくれ」

「……分かった」

今まで、こういうシリアスな状況ではなにかと助け合ってきた俺達だったが、ここから先はそれぞれが自分に与えられた役をまっとうしなければならないようだ。

「ところで、涼宮さんを預かっていただいていいでしょうか」

古泉は背中におぶっている、気絶したままのハルヒを示した。なんか静かだと思ってたら、すっかり忘れてた。長門はハリーを抱いているし、朝比奈さんと俺はこれから交渉の任務がある。

「グロースターを守るのはハルヒの役回りだ、連れてけばいいだろ」

「それは構わないんですが、どうやって起こせばいいんでしょうか」

ほっぺたをひっぱたくとか頭から水を被せるとかすればいいだろ、と言いかけて俺は、

「なあ古泉。お前、白雪姫って知ってるか」


 朝比奈さんはペナントの竿さおに取り付けた白旗をかかげた。従者じゅうしゃは俺一人、大海たいかいの波にれる木の葉のように小舟をぎ出した。砂浜をふり返ると長門が一度だけ手を振った。古泉はハルヒを背負ったままの姿でこっちを見ていたが、やがて玉になって飛んでいった。


 小舟の後ろ側に座っている朝比奈さんの表情は、いくぶん落ち着いていた。時間移動空間を歩いているときにはもう絶望のどん底で、この世の終わりを体現するような顔をしていた。まあ愛する人を失ったのだから当然そうなのだろうが。今の表情はというと、恐怖でもなく、これから起こることへの不安でもなく、未来への期待でもなく、一切を後にしてなにか達観たっかんげたような、人事を尽くして天命を待つGod helps those who help themselves、という言葉がふさわしいにちがいない。

「キョンくん……、いろいろ無理言ってごめんね」

「いいんですよ。俺達長い付き合いじゃないですか」

いでもいでもなかなか進んでくれない小舟に奮闘ふんとうしながら俺はこたえた。

「そのSOS団も、わたしは抜けないといけないかもしれないの」

「どういうことですか?」

「わたしはもう……戻りません」

戻らない、とはどういう意味なのだろうか。これから敵との交渉へ行き、そのまま人質としてフランスへ渡るということなのだろうか。それとも、もはや未来へは帰らないという意味なのだろうか。

「えっと、それはどっちの意味でですか」

「両方の意味で、よ」

朝比奈さんはこの時代に骨をうずめると言っているのだ。

「もしかして人質になるつもりですか、無茶ですよ。どこか田舎の城で一生幽閉ゆうへいされますよ」

「イングランドが助かるなら、わたし一人くらい安いものよ」

そうだ。朝比奈さんは単に旦那だんなを失いたくないという理由で戻ってきたわけではない。鶴屋さん、メイドさん、執事さん、騎士さん達、グロースターの人たち、農村の人たち、そして国そのものの存亡がかかっている。今まで出会った人たち、そしてこれから生まれてくる子供たちを守るために戻ってきたのだ。でも朝比奈さん、あなたという存在は、伯爵にとっては世界を天秤てんびんかけても得難えがたい女性のはずです。

「そうすると俺達自身の歴史が変わってしまいませんか。若い頃のあなたを指導していたのは、あなた自身でしょう。その事実が消えてしまうとここに存在することすら、」

「いえ、わたしは、今ここにいるわたしはすでに自分の教習を終えた立場なの」

つまり、朝比奈さん(大)の最終形態である。俺はいでいたオールの手を止めた。

「朝比奈さん、もう旦那だんなさんと息子さんを未来に連れて帰ったらどうですか」

「それはできないわ。ジャンもハリーもイングランドの時間線をになう重要な人物だから」


 俺は黙っていた。あと何時間あるのか分からないが、もしかしたらこれが朝比奈さんと会える最後の時間になる。それなのに俺には発する言葉すらなかった。

「ごめんね」

もう一度言った。

「謝らないでください朝比奈さん、俺達SOS団じゃないですか、時空を超えた仲じゃないですか」

壊れそうななにかにあらがうように俺は精一杯の笑顔を作り、そうは言ってみたが、朝比奈さんの姿がにじんだ。なぜだかボロボロとほほを伝ってこぼれる熱いものを、タワシのような修道服の袖でゴシゴシとこすった。

 古びた部室に咲く可憐かれんな一輪の百合、恥も外聞がいぶんもかなぐり捨ててさびれた商店街を駆け抜けるバニーガール、かわいいフリルのミニスカで殺人光線を放ちまくるウェイトレス。北高で最初に会ったときからどこか頼りなさげで、どこか抜けていて、一生懸命なのにどこか空回りしていた小さな姿が目蓋まぶたの裏に浮かんでは消え、浮かんでは消えた。


 俺はオールをにぎり直し、力を込めて小舟を進めた。脳裏で再生される数々の思い出を超え、時空の波を超えて。


 小舟は船団に近づいた。いちばん大きな旗艦はたぶねらしい帆船に向けていだが、波が荒くてなかなか近づけることができなかった。高波がいくぶん弱まる船尾せんびに回り、白旗を見た兵士が梯子はしごを降ろしてきた。甲板に向かってロープを投げ、小舟がひっくり返らないようにタイミングを見計らって梯子はしごに飛び移り、それから朝比奈さんに手を差し出した。朝比奈さんの体を引き寄せて腰に手を回した。そのまま梯子はしごごと上に引き上げてもらった。

 甲板に足を踏み入れると朝比奈さんは服装を正し、背筋を伸ばして、イングランド王国の全権大使であると言った。

「これはこれは、レディ・イザベラ・オブ・アングレーム。お初にお目にかかる。よもやそちが直接交渉に来るとは、ようこそ我軍へ」

うやうやしくお辞儀じぎをして現れたのは恰幅かっぷくのいい初老のおっさんだった。かんむりをかぶっているところをみると、この人が噂のフィリップ二世のようだ。

「リチャード国王陛下に代わり、この度の戦争を回避かいひするために参りました」

「ここでは寒い。中で話そう」

俺が朝比奈さんの後をついていこうとすると槍を持った兵士に取り囲まれた。朝比奈さんがこっちをふり返り、

「その者は修道士で、わたしの秘書である」

敵兵と言えど貴族には敬意を持っているようで、兵士たちは一歩下がった。俺は槍の穂先ほさきけて朝比奈さんの後ろを走ってついていった。十字軍のコスプレなんかするから護衛ごえい兵だと思われたんだな。


「陛下、時間がありませんので手短てみじかに」

「そう願いたいものだ」

「わたしは、あなたとは、結婚しません!!」

部屋の中に入るなり朝比奈さんが怒鳴りつけた。王様は一瞬ビクッと青ざめて、

「ま、待てレディ・アングレームよ、婚約権こんやくけんを持っているのはワシではなくて、そこにいるユーグ・ド・リュジニャンのほうだ」

六畳一間ろくじょうひとまくらいの小さな部屋の壁に張り付くようにして立っている太ったおっさんがいた。フィリップさんの側近かと思っていたらこっちがこの騒ぎの張本人ちょうほんにんである。朝比奈さんはアラヤダごめんなさいという感じに自分に頭コツンをやってみせ、俺はしぶい顔をした。ああ、どうやら朝比奈さんのいつものペースに戻ってきたようだな。

「では改めて。わたしにはすでに夫がおります。仮に独身だったとしても、結婚をせまるために王様に泣きつくような、虎の威を借るヘタレRob Peter to pay Paulは絶対にお断りです」

ヘタレと指さしで言われてユーグさんもしぶい顔をし、

「あ、あの私は何度も手紙を差し上げてまして。マイレディ、あなたからの返事がないので陛下にご相談申し上げたわけでして」

「そうなのだ。レディ・アングレーム、ワシはそなたをフランス王家の家族としておむかえしたい。正直、リチャードを助け出した外交手腕にれたのだよ」

いやあれは俺が知恵を出して、長門が助けてくれて、そもそもハルヒが強引にはじめちまって、などと思ったが秘書らしく口には出さなかった。

 朝比奈さんはまたもや手を口に当ててアラヤダをやっている。なにか思い当たる節でもあるのだろうか。

「あなたの手紙だったんですか。わたしったら、ごめんなさいごめんなさい、ちゃんとお返事をするべきでした。ただのファンレターかと思っちゃって」

ああ、そういえば郵便事業のときそんな手紙が何通も来てたっけな。俺は、ファンというのは熱狂のあまりストーカーに化けることがあるから個人で返事を書くのはやめときなさいと言ったんだった。リュジニャンさんは頭をかきながら、

「あー、そうじゃないかとは思いました」

「ではロード・リュジニャン、今ここで婚約権こんやくけんを買い戻させてくださいますか」

リュジニャンさんがフィリップさんの顔をうかがうと、

「そうはまいらん。そなたには星を読む特別な力がある。それはフランスにとっては脅威きょういなのだ」

「お金なら利子を付けてお支払いします。でもわたしはフランスの所有物ではありません」

「そこをなんとか曲げてくれ。ワシはそなたの力が欲しい」

「できません」

「今ここで、そちを人質にしてもよいのだぞ」

「わたしが人質になれば、夫がリチャード陛下を説得し、全軍を率いてたった一人の人質を奪還だっかんに来るでしょう。イングランドとはそういう国です。士気にき上がったイングランド軍を前にしてあなたがたは大きな打撃を受け、そうすれば背後から誰かが襲うかもしれませんが、それでもよろしいか」

フィリップさんは黙り込んだ。この人にも敵が多いのかもしれん。しばらく考え込んでいるようだったが、リュジニャンさんに向かってつぶやいた。

「残念だが、交渉は決裂けつれつだ」

フィリップさんは船室のドアを開けて、さっさと帰れという仕草をした。リュジニャンさんはもう少しなんとかなりませんか、と交互に二人を見つめている。朝比奈さんは椅子に座ったまま、ときどき目をパチパチして、なにか妥協だきょうできる案はないものかと考えているようだったが、やがてあきらめたようにため息をついて立ち上がった。

「仕方ありません、わたしがここに、」

今にもこっちの最後のカードを切ろうかとする瞬間、開いたドアの向こうから声がした。

「あ、あの、マイレディ」

四人が目をやると突然年端としはもいかない少年が現れた。兵士ではなさそうで、貴族の衣装を着ている。

「そんなところでなにをしている、接客中だぞ」

王様が怒って追い払おうとした。年の頃は中学生くらいだろうか、少年はうやうやしくお辞儀じぎをし、

「陛下、父上、少しだけレディシップと話をさせてくださいませんか」

「だめだ。今は重要な交渉の最中なのだ」

「待って、どうしたの? わたしを知っているのかしら」

「存じ上げています! 僕、フランスで見たんです。この本にサインAutographをいただけないでしょうか」

少年が大事そうに抱えている本は、よく見れば長門直筆じきひつの“朝比奈ミクルの冒険in中世”である。よくそんなレアなものが手に入ったな。

「あら、ファンの子なのね」

朝比奈さんはなにか書くものはと周りを見回して、少年が差し出したペンを取り、

「あなたのお名前は?」

「ユーグ・ド・リュジニャンです」

「え、あなたがロード・リュジニャンなの?」

「息子です」

とらを借りたヘタレの息子か。朝比奈さんが一瞬眉毛を持ち上げて父親の方に目をやった。リュジニャンさんすでに奥さんも子供もいるじゃないか、と俺も思った。

「お母様はお元気かしら」

「母は三年前に亡くなりました」

「あら……そうだったの。ごめんなさい、つらいことを思い出せて」

「いいんです。でも、マイレディのような方が母になってくれたら、と思っていました」

朝比奈さんはユーグジュニアの顔をまじまじと見つめた。

「あなた、歳はおいくつかしら」

「十四歳です」

「そうなの……」

それからまた少年の幼い顔をながめ、なかなか美形ねとつぶやくのが聞こえた。俺の耳には確かに聞こえたぞ。

 朝比奈さんは壁に張り付いたままのリュジニャン親父シニアに向かって、

「この子となら考えてもいいわ」

「そ、そいつはまだ十四歳ですよ。まだ恋の味すら知らない子供ですよ」

「あら、こういう子は成長すると化けるのよ」

お前らいったい何の話をしとるんだ。いやしくもあなた人妻でしょうが。フィリップさんがニヤニヤしながら、

「ほう、息子のほうが気に入ったか」

「ただし離婚はできませんから、今の夫が亡くなったらという条件で」

「うーむ、それはいったいいつになるのだ」

「分かりませんが、なんの希望もないよりはマシでしょう」

「ワシはそれでも構わんのだが……、口約束だけではうちの家臣たちを黙らせられんのだ」

「では担保たんぽとしてアングレーム領をお預けいたします。再婚のおりにお返しください」

フィリップさんは家臣の数を指を折って数えているようだ。

「それだけでは足りんようだな。リチャードの領地ももらっていいかの」

「リチャード陛下の資産についてはわたくしの関知かんちするところではありません。ご随意ずいいにどうぞ」

王様はリュジニャン親父シニアをふり返って、それでもいいかといた。はい! はい! 家族としておむかえできるならいつまでも待ちます、と即答した。どうやらリュジニャン親子はそろって朝比奈さんにれているようだ。

 朝比奈さんは例の、見るものすべてを恋におとしめてしまいそうなキラキラのスマイルを見せつつ、少年のほほをなでながら、

「ロード・リュジニャン・ジュニア、あなたがわたしに忠誠を誓い、貞節ていせつを守り通すなら、いつかきっとあなたの妻になりましょう。どうかしら」

「ええッ喜んで!!」

「じゃ、今日のところはこれだけね」

と朝比奈さんは少年の耳元に唇を寄せ、まだ産毛が生えたままのほほに軽くキスをした。ユーグ少年はほほを真っ赤に染めて恍惚こうこつとした表情のまま固まっている。おい少年、お前はだまされている。見るものすべてを恋におとしめてしまう笑顔にだまされてるんだぞ。


 俺達二人は、取り囲む兵士たちを押しのけつつ小舟に乗り込んだ。見上げると船のへりからフィリップさんが軽くうなずいていた。喜んでいいことなのか、どうやら開戦だけはまぬがれたようだ。朝比奈さんは、今回の密約は他言無用たごんむようよ、と緊張関係にある二国会談の内容を図らずも知ってしまった秘書官に釘を差した。言われなくても分かってますとも。ああ忌々いまいましい忌々いまいましい。


 海の潮が満ち始めていた。朝比奈さんの表情は晴れ晴れとしており、帰りの小舟は波に任せてスイスイと進んだ。砂浜に乗り上げると兵士たちが引き上げてくれた。ハリーを抱っこした長門が笑い出しそうな、それでいて眉毛ピクピクの微妙な表情をしている。

「ただいま。なんとか戦争にはならずに済んだよ」

「……おかえり。お疲れさま」

長門、これは嫉妬しっとじゃないからな、あんな毛も生えてないような子供に絶対嫉妬しっとなんかしてないからな。


 三人は王様に報告するためにテントまで戻った。

「おかえりアングレーム、どうだったの?」

「陛下、いいニュースと悪いニュースがございます」

「じゃ、じゃあ悪いニュースから教えて」

「陛下、フランス国土におけるあなたの領地はすべて失われました」

「エエッ。で、いいニュースは?」

「借金がすべて帳消ちょうけしになりました」

そうだ、確かそうだった。この先数十年間は支払わなければならない王様の身代金みのしろきんは、すべて債権でまかなわれていて、領地そのものに支払い義務があるということになっている。金策きんさくに駆けずり回った挙げ句のハルヒの入れ知恵である。

 王様は間の抜けた笑顔のまま固まってしまい、喜んでいいのか悪いのか迷っているようだ。そこへ突然テントの幕が開けられて伯爵が飛び込んできた。

「マイレディ!!どうしてここにいらっしゃるんですか、城にいたはずなのに!」

朝比奈さんは口をパクパクしたままなにかを言いたげな、でも言葉にならない感情の奔流ほんりゅうを噛みめながら伯爵の首に抱きついた。

「ジャン、よかった……また会えて。もう二度とこっちに戻ってこれないかと」

いったい何があったんだという顔を俺と長門と王様に向けているが、三人とも首を振って肩をすくめるばかりである。まあ、その辺の辻褄合つじつまあわせは自ら解決すると宣言した朝比奈さんが自分で捏造ねつぞう、いや説明するだろう。それより衆人環視しゅうじんかんしの中で朝比奈さんが伯爵にキスをせがみ、やがて濃厚な大人のキスシーンがはじまってしまい、俺達はジロジロと鑑賞かんしょうするわけにもいかず大人のデリカシーを発揮はっきしてテントから追い出されるはめになった。

 テントを背にしてじっと突っ立っていると、王様がぼそりとつぶやいた。

「修道士殿……」

「なんでしょう陛下」

「恋する乙女に国運こくうんたくすもんじゃないね……」

同感ですアーメン


 潮の流れが変わり、一国の運命をけたドーバー海峡の夜が白々しらじらと明けてゆく。俺達はフランス軍の船団が少しずつ大陸に帰っていくのを見守った。

 最後の一隻が消えたその日の昼まで待ち、俺達はヘイスティングスを後にした。砂浜の上に立っていたドアをどうしても持って帰るようにと長門に言われ、俺はまたグロースターまで背負っていくのかと青ざめたものだが、伯爵が空いている荷馬車に積んでくれたので重労働を課されずに済んだ。兵士たちの後を歩いて一度ロンドンに立ち寄り、ゆるゆると歩きながらイングランドの美しい景色を満喫まんきつした。


 フィリップさんとの密約は朝比奈さんの具申ぐしんにより国家の最高機密扱さいこうきみつあつかいになり、伯爵でさえその内容を知らされることはなかった。なので西洋史上、王様のノルマン地方の領地は一方的に没収されたということになっている。やれやれ、イングランドは朝比奈さんという女神めがみを手に入れたためにやたら大きな代償を払ったものだな。


 古泉達がその後どうなったかだが、ヘイスティングスから飛んで戻る途中で伯爵の本隊に会ったらしい。グロースター防衛のために二百名ほどの兵士の指揮を任され、古泉は城へ戻った。

 朝比奈さんの陰謀、いや犠牲ぎせいによりイングランドが無事救われたという雰囲気に酔うあまりグロースターがどうなったのかすっかり忘れていたが、俺のいない間にハルヒがここぞとばかりにハリケーンをブン回したため大騒動だったらしい。というわけで、ここからは後になって古泉に聞いた話である。


「、なにするやめふじこォ!!」

次の瞬間、古泉は点滅する星が回るのが見えたらしい。ハルヒの自時間じじかん時系列的には、この直前に長門によって気絶させられていたはずである。

「ってあれ? ここどこなの」

「グッ、グロースター城の兵舎へいしゃです」

「え、さっきまで伯爵の部屋にいた気がするんだけど。戦死したんじゃなかったっけ」

「そんなことはありません、涼宮さん。先ほどまで出陣の前祝いがありまして、あなたは酔って悪い夢を見ていらしたんです」

「ああ、そうだっけ。そんならいいんだけど」

「それより時間がありません。ウェールズ軍が侵攻してくる気配があります」

「エエッ、それさっき夢で見たわよ。川をさかのぼって来るんでしょ、まさかの正夢まさゆめってやつかしら!?」

「それは勝利の女神めがみのお告げに違いありません」

まあ試験前に問題を知ってるのと同じで、これから起こることを経験済みなわけだからな。

「それにしちゃリアルすぎるんだけど……」

ハルヒはどうも合点がてんがいかないという感じに首をかしげていた。あんまり深く考えるな、よくあることだ。

「その正夢まさゆめどおりに侵攻を阻止そししましょう。僕が丸太を手配しますので、同時に住民の避難ひなん誘導を」

「え、あたし丸太とか言ったっけ」

「ハッ、言いました。言いましたよたった今」

「あそう。でもちょーっと待ちなさい。夢をなぞるだけなら面白くないわ、こっちはその上を行きましょう」

いや、お前が自分で作戦を立てたんだから、なぞるだけで十分なんだがな。


 ハルヒは数時間前の自分の戦術を出し抜くつもりらしく、ニヤリと薄ら笑いを浮かべつつ一個小隊を貸しなさいと命令した。部下を連れて城の倉庫へ降りていくと、ウイスキーの醸造じょうぞうをしている酒蔵さかぐらの扉を開け、たるを転がしはじめた。

「涼宮さん、どうするんですかそのたる

「丸太って川を流れていくと根っこの方が下になってしまうのよ。それよりこのたるをロープでつないで、岸から岸に渡しとけば簡単でしょ」

「なるほど」

古泉は手のひらをポンと叩いた。城からありったけの荷馬車を出し、住民からも徴用ちょうようした。時系列でいうとまだ住民の避難ひなんは始まっていない。古泉は馬の数だけ兵士を用意し、荷馬車に空のたるを山積みにしてセバーン川沿いの道をガラガラと引いていった。

 現地につくとまだ満ち潮ではないらしく川の水は穏やかで波も立っていない。ハルヒはまずたるを横に並べて金具でつなぎ、ロープが見えないように重りをつけて水面下に垂らし、岸から岸に渡して水上の防壁とした。グロースターの石橋までの間に分けて設置したので、一か所でロープを切られたとしても時間稼ぎにはなる。

 こうすれば後から回収も可能なわけで、使い捨ての丸太や木材を流すよりローコストだし、一度経験しただけで格段にスマートな戦術になったものだ、と古泉はウンウンうなずいた。

「さあ古泉くん移動するわよ。ここからが本番よ」

「ここで敵を待ちせするんじゃないんですか?」

「チッチッチ、ウェールズの本命はチェプストーよ。そっちで待ち構えるわ」

「しかし、僕が預かっているのはせいぜい二個中隊です。ち死にになってしまいますが」

「それはまあ、まともに戦うならその覚悟は必要かもね」

「覚悟はあります」古泉は鼻を鳴らした。

「そんな家族持ちの兵士に犬死いぬじになんかさせないわよ」

あたしを誰だと思ってんの、百戦百勝の涼宮隊長よ、と言いたそうだったが、歴史上はまだ一戦もしていないのである。


 ペナント型のSOS団団旗を旗頭はたがしらに、古泉はハルヒの後ろを速歩はやあしでついていき、再び城に戻った。またもや酒蔵さかぐらに入り、今度もたるを転がしている。

「ちょっと、これ重たいから、荷馬車には四個ずつ、積んで」

そりゃ重かろう、中身の入った酒樽さかだるである。古泉はまたも手のひらをポンと叩き、

「なるほど、これを火器にするんですね」

「そうそう。ギリシャ火薬って見たことあるわよね?」

いや、未だかつて現物を見た現代人はいないと思う。まあ化学の実験でエチルアルコールが燃えるのは見たことあるが。武器にするならせめてメチルとかベンゼンだろう、と古泉は思ったが、ハルヒの立案に水をすのもなんだしえて口には出さなかった。しかし火炎放射器で兵士を丸コゲの刑に処してしまうのもなんだと思うぞ、修道士の俺的にはだな。


 酒樽さかだるを積んだ荷馬車の行列が深夜のグロースターを行軍し、住民はいったいなにごとかと遠巻きにしてながめている。こんな悠長ゆうちょうな作戦を展開している暇があったらさっさと避難ひなんを開始するべきなのだが。

 中隊はゆるゆると進んでチェプストーにたどり着き、自分たちが酒を運ばされていると知り兵士たちにもあんまり緊張感がなかった。戦闘が終わったらたぶんこれを飲めるんだろう、くらいの期待感はあるようでまったくゆるんでいる。

 チェプストーの城に着くと、古泉は守備隊の隊長に話をつけに門を入り、ハルヒは城門の向こう側にたるを運ばせ、街道の両側に置いてなるべく目立たないように木の枝や草を被せた。いや目立たないようにって、こんなこんもりと盛り上がった草の山が並んでいたら伏兵ふくへいがいますと言っているようなもんだろうが。

たるの口から導火線を引っ張っといたわ。あとは敵が通りがかったら火矢を撃って、もろとも爆発炎上って算段よ」

古泉は、果たしてどれくらいの効果があるのか着火のテストをしてみるべきだった、と後になって語っている。なんだかずいぶんと素人しろうとじみた作戦に一抹いちまつの不安を覚え、やはり二百人と守備隊数十名だけでは心もとない、保険をかけておく必要があると考えた。

「涼宮さん、僕はこれから周辺の領地をまわって援軍を要請してきます」

「今から援軍って間に合うの?」

「出兵はしてくれなくても、兵力を分散させるための陽動くらいはやってくれるのではないかと」

「あっそう。あたしも考えてたんだけど、こないだホラ、なんつったっけあの子。メイドさんのパンツを隠し持ってて妹ちゃんをのがした人」

ハルヒの人の覚え方もイチイチ嫌味いやみったらしくてむしろ忘れてほしいところばかりを突いてくるな。

「ああ、僕と台昇降だいしょうこうの勝負をして倒れた人ですね」

古泉、お前も細かいぞ。

「あの子、すえっ子の王子様だったわよね。支援を頼んでみたらどうかしら」

「あの御仁ごじんの領地はたしかスコットランドでしたか。陽動を頼むにしてもウェールズからは遠すぎる気がしますが、どうでしょうか」

スコットランドの南端からウェールズの北端までは道のりにして二百キロメートルはある。

「海路を行けばなんとかなんない?」

「そうですね……」

古泉は考えた。スコットランドのダンフリーズあたりから船団を出して、うまく北風に乗れば、あるいは。戦闘はしなくてもウェールズの北の海岸に逗留とうりゅうしてにらみを利かせるくらいならなんとかなる、かもしれない。

「連絡は付けてみますが、御仁ごじんが乗り気で、南端の港に船を持っていて、かつ北風が吹くという幸運でもなければ。あまり期待はしないでください」

古泉は忘れていた。その程度の幸運とやらはハルヒのまばたき一つでどうにでもなるということを。


 前回、ウェールズの奇襲戦隊きしゅうせんたいを撃破してから本隊が進軍してくるまでの間に半日のタイムラグがあった。チェプストーの防備としては前回とさして変わらない気もするが、果たして天は味方をするだろうか。思案をしながら古泉はそのまま目の前で玉になって飛んでいったが、ハルヒは手を振って見送り、すでに魔法に対して麻痺まひしているのか驚きも叫びもしなかった。もうでたらめだなあエスパー戦隊も。


 ウェールズに国境を接しているイングランド側の城を訪ね、拙者せっしゃグロースターの騎士でコイズミと申す、此度こたび事案じあん、ウェールズおよびフランスの軍事同盟のはかりごとありとみとむ。ついては援護えんごもしくは国境付近にて陽動の展開をい願いたくそうろう。取り急ぎお伝えののみにて御免仕ごめんつかまつりたくそうろう。という感じの書面を手渡すだけ渡して三つほどの州をまわった。

 イングランドとフランスが戦争になるかもしれないという噂はスコットランドの王子様の耳にも入っていたらしく、妹男爵の身の上を案じてくれていた。自分にはスコットランド王軍を動かすことはできないが、できるだけの支援はしてくれると心強いお言葉をいただいたそうだ。

「ああそうそう、ミス・スズミヤから伝言が。もし軍を出してくれたらとびきりうまい酒の製法を伝授しようということです」

これが後のスコッチウイスキーである。


 数時間後、古泉はチェプストーに戻り、長いことなにも食ってない気がして守備隊からパンを分けてもらい、見張り台の上に登っていった。ハルヒは長剣に寄りかかってうたた寝をしている。そろそろ夜明けだ。遠くをすがめると南に海が見える。チェプストー城はセバーン川と同じ湾に流れ込むワイ川のほとりにある。ここにも登り潮がやってきている。

 住民はイングランドとウェールズの緊張関係には敏感らしく、三日前に避難ひなんしていて人っ子一人いない。置いていかれて迷子になったニワトリが守備隊の食材になっていた。

 城壁の石がパラパラと落ち、古泉は目を上げ、ハルヒが目を覚ました。東の空が明るんでくるのと同時に地響じひびきが伝わってきて、陽が昇るのに合わせたのか、遠くから歓声が聞こえた。

「来ましたか……来るべきものが」

ここで古泉がウェールズ軍を目にするのは二度目である。城壁に寄りかかっているハルヒに目を降ろすと、古泉がかじりかけていたパンをじっと凝視ぎょうしつばを飲み込んでいた。すでに自分が口にしたものだし、どうしたものか一瞬考えたが二人の仲は今さら他人行儀たにんぎょうぎにするほどのものでもないし、それよりハルヒの食欲にとってはそんなエチケットなどどうでもよさそうだった。最高のスマイルを見せてそのままパンを渡すとハルヒはかじりつきながら、

「ング、あいつらどれくらいいんの?」

「今回は五千人くらいです」

ご、五千人対二百数十人だぞオイ。二十倍近い戦力差だぞ。

「へえ。それで、この城はどれくらい持ちこたえられるの?」

「二百人分の兵糧ひょうろうはありますから、このまま小競こぜり合いをするだけなら、少なくとも半年は持つと思います」

ちなみにグロースター城の場合、常勤の兵士が籠城ろうじょうするための備蓄であれば二年分くらいあると言っていた。チェプストー城は北側を川が流れていて、そっちからの攻撃はないとみていい。正面を通る街道だけを見張っていればよく、攻城兵器こうじょうへいきに取り囲まれる心配はない立地になっている。

 前回、半年持つはずだった城が陥落かんらくした理由は、気づかないうちに城壁の下にトンネルを掘られて土台もろともくずれ落ちたからだった。トンネルの場所も覚えているし、掘るのにかかった時間も覚えている。今回はなんとしてもそれを阻止そししなくてはならない。

 だんだんと振動が大きくなってきた。ウェールズ軍の軍歌らしきものが聞こえる。古泉が部下に向かって叫んだ。

射手しゃしゅを配置に」

小隊長が壁の下に向かって合図の旗を振った。射手が並んで壁を登ってきたが、つ直前まで姿を見せないことになっている。ハルヒは、まだ、まだよと自分に言い聞かせるようにつぶやいていた。五千人が一斉いっせいにこぶしで盾を叩きながら行進してくる様は壮観そうかんだった。城門を壊すための攻城兵器こうじょうへいきが何台かゴロゴロと運ばれてきていた。ラムというやつな。

 城の南側の街道にずらりと並び、つるぎをふり上げ足を踏み鳴らし勇ましくウェールズ語で歌を歌っている。ハルヒはリアルで中世の戦いを見るのが初めてらしく、スゲースゲーまじかよスゲーを連呼していた。

射手しゃしゅ構え、火矢」

次々と矢じりに火がともされる。古泉がハルヒに向かってうなずいた。ハルヒが叫ぶ。

「目標たる放て!Away

ヒュンヒュンと音がして煙を残しながら火矢が飛んでいく。

 予想していたかのようにウェールズ兵は盾を構えた。すで明るいのに火矢を使うとは、どこかに油でもいているのだろうか、と足元を見ているがそんなものはない。たるおおっている草に、針山のように火矢が刺さった。導火線に火がついた。一つでも火が付けばそこから連鎖れんさして次々と誘爆ゆうばく……するはずだったのだ。

「なんで!?なんで火ぃすぐ消えてしまうん?」

ハルヒが唖然あぜんとして塀から身を乗り出した。確かに導火線には火がつくのだが肝心のスピリッツはうんともすんとも一歩たりとも動かない。古泉は呆然とした。それもそのはずである。エチルアルコールの沸点ふってんはわりと高く、暖めなければ十分に気化しない。今は気温も低く、そんな常温で引火するようなシロモノならハルヒが醸造じょうぞうしている城の倉庫は何度も大爆発しているはずである。それよりウェールズ兵がたるに被せられたカモフラージュを掘り返してて完全にバレてるぞ。

「アチャー、大失敗だわ」

あの重たいたるを運んだ行軍はいったいなんだったんだ、と古泉はしぶい顔をした。ハルヒの大作戦も能力も歳とともに衰えを見せ始めているのかもしれない、などと思ったが、ここで悲観ひかんしてもしょうがない。イングランド軍の本隊がかけつけてくれるまで、持久戦でいくしかなさそうだ。古泉は方止かたやめを命じた。


 古泉が次の策を考えていると、ウェールズ兵がたるふたを斧で割って中身を確かめている。どうやら酒だと気づいたらしく、草むらに座り込んでチビチビやりはじめた。

「コラぁ!お前らあたしの酒を勝手に飲むなあ!」

ハルヒが見張り台の上から叫んでいるが英語なので分からないようだ。

 それがだんだんとまわりの兵士にも伝わったらしく、たるふたを一個ずつ開け、盾の影に隠れて酒盛さかもりの開始である。最初は手ですくって、あるいは直接口をつけて飲んでいたが、カブトを脱いでさかずきがわりにして飲み始めた。きっとこうばしい香りが効いているにちがいない。


 ウェールズ人は酒に強いと聞くが、ハルヒのスピリッツはよほど度数が高かったのだろう。小一時間もすると五千人の兵士全員がゴロ寝状態で、これこそ壮観そうかんである。指揮官が怒って部下を飛ばしているが、あきらめて自分も飲み始めた。

「チッ、こんなことなら酒の中に砂糖を混ぜとくんだったわ。三日は体ボロボロにできたのにぃ」

なにを恐ろしいことつぶやいてんだ。

 グロースターの兵士は自分達が飲めると思っていた酒が敵によって消費されるのを指をくわえながらながめていた。古泉隊長に、もう戦いにならないし俺らも酒盛さかもり始めませんかと何度もお伺いに来たが、まだ戦闘中だとたしなめられて禁酒を厳命げんめいされた。

 それからウェールズ兵は昼寝をしては酒を飲み、立ちションをしては飲み、寝ていた誰かが起き上がっては酒を飲むを繰り返して、すべてのたるをほぼ空にしていた。西の方から伝令の乗った馬が二頭走ってきて、これはいったいなにごとかと叫んでいるようだった。指揮官がようやく起き上がって頭を抱えつつまわりの兵士の頭を小突こづき始め、どうやらノロノロと撤収てっしゅうを始めたようだった。後で知ったのだが、スコットランド軍が背後から襲いかかり、それどころではなくなったのだという。ありがとうパンツ王子、この恩は一生忘れない。

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