三十三章

 知っているかと思うが、俺達がこの国に落ちてくる二百年ほど前、伯爵の先祖であるノルマン人と地元のイングランド人が熾烈しれつな戦いを繰り広げたことがあった。ノルマンフランス軍に侵攻の動きがあると知り、地元イングランドのハロルド王はロンドンにじんを構えていた。

 だが待てど暮らせど対岸のノルマン軍は攻めてこない。とうとうやる気をなくしたのかと思った矢先に北からノルウェー軍が攻めてきて、こんなこともあろうかと待ち構えていたハロルドさんは、わずか四日でヨークシャーに北上し、これを撃破した。

 それを待っていたかのようにノルマン軍が海峡を渡ってきた。ハロルド王はあわただしくもロンドンへ、さらに南のヘイスティングスに取って返すことになった。この距離、道のりにして九百五十キロ。ノルウェー軍と戦った後での強行軍で、当然ながら兵士達はヨレヨレである。

 イングランド軍は七千人、対するノルマンの軍勢六千人、戦力の差はほとんどなかったはずだった。だが退却すると見せかけたノルマン軍の策略さくりゃくに乗り、ハロルドさんは深追いしてしまった。陣形をくずされ、そこで王様自ら戦死、敗北をきっしたイギリスの歴史はそこで変わった。


 そのヘイスティングスで再び戦うことになろうとは、繰り返される歴史とでもいうのだろうか。今回の戦いで、もしイングランドが負けたりすれば王朝の系譜けいふが変わり、ビクトリアとかエリザベスといった有名人が歴史から消えてしまうかもしれない。いくらなんでもそれはないはずだと根拠こんきょもなく俺は思うのだが、そうなってしまってからでは取り返しがつかないだろう。朝比奈さんはどう考えているんだろうか。そして監視役の長門は。


 その日、ハルヒはしゃくしゃくと城の敷地を行進して警備隊ごっこをし、戦隊トマレとススメの運動会みたいなことをやっていた。最前線に出るとごねて暴れないだけまだマシかもな。今日はハリーの子守担当がちょうどハルヒで、鎧姿よろいすがたに赤子を背負ったまま出陣するわけにもいかず、かろうじてあきらめたようだった。篝火かがりびで照らされた中庭からリパブリック讃歌さんかっぽい子守唄こもりうたが聞こえてきたが、まあその程度のことは朝比奈さんもスルーしてくれている。


 その晩のディナーは実に質素だった。暖炉の前のあるじは空席で、古泉もおらず、飯時だけは戻ってくるはずのハルヒは兵隊ごっこにかまけていて、いつも一緒に食っていた騎士さんたちもいない。だだっ広いシンと静まり返った広間に三人の皿の音だけが鳴った。食が進まないらしい朝比奈さんはなにも言わずスープだけ飲んで席を立った。俺と長門だけが黙々もくもくと晩飯を食っていた。

 俺はすくったスプーンを見ながら、

「なあ長門」

「……なに」

「大丈夫なのか」

「……」

なにを心配しているのかなにが不安材料なのか主語のない質問に、長門はすくいかけたスプーンを止めてちょっとだけ首をかしげた。俺達の目前にある課題をいくつか考査こうさしているらしい数秒間の後、

「……分からない」

まあ俺としてはあんまり心配してるわけでもないんだが。やっぱりこの先の運命が気になるんでな。

「そうなる前に先に聞いておきたいんだが、最悪の場合はどうするんだ?」

「……最悪の場合、とは」

「たとえば、イングランドがこの戦争に負けるとかだな」

「……この事象の維持を終えるかもしれない」

「終えるって、閉幕ってことか」

「……そう」

それはもったいないな。今回の騒動は半分は海外旅行みたいなもんで、わりと楽しんできた俺だ。空腹を抱えて暴漢に襲われたり、ラテン語を覚えさせられて頭をられたり、ハルヒが金持ちを襲って鹿を焼いて食ってたり、古泉が騎士コスプレに目覚めたりと、辛いことも楽しいこともてんこ盛りにあったが、未来人としては不謹慎ふきんしんながらこういう生活もありかなと今では思っている。

「なんとかハッピーエンディングにできないのか」

そこで長門はまた考える仕草をして、

「事象の実験においては、要素のパラメータの変更をする以外に意図的な誘導を行ってはならない。それがこの場のルール」

「よく分からんが……朝比奈さんはかなりルールを破ってる気がするし、長門自身も魔法っぽいやつを見せてくれたぞ?」

「……あれは魔法ではなく、この時代の人間の一般常識に準じた似非化学えせばけがく的技術」

エセ化学ばけがくって、それは魔法に属するなにかじゃないだろうか。

「まあ錬金術と科学の区別がないからな。上の連中が納得してるならそれでもいいが」

「……思念体はむしろ時系因果律じけいいんがりつ逸脱いつだつに注視している。通俗的な表現をするなら、ピリピリ」

なるほど。イライラしながら仕事してる銀河系監視員か。俺達が無事に真エンドをむかえるかどうかってことより、歴史改変を元に戻せなくなることのほうが頭痛の種らしい。そもそも今回の課題はタイムマシンがらみだったからな。


 街の門も城の門も閉じたまま、守りはハルヒ小隊の約三十名のみだった。これで寝込みを襲われたら即アウトだろうなあなどと思っていると、深夜、といっても俺の腕時計では午後九時ごろだったが、神頼み的に就寝前の祈祷きとうなんかをめずらしくもよおしているところへガシャガシャとよろいの音がした。もしかして古泉達がもう帰ってきたのかと礼拝堂の外に出てみると、

「キョン、一大事よ!」

「なにがあった」

「昼間ね、暇だったから市内を警邏けいらしてまわってたのよ。いつもはたくさん買い物に来てるウェールズからの客が少なかったから、これは変だと思ってチェプストーまで様子を聞きに行ってみたわけよ」

ロウソクに照らされたハルヒの顔が珍しく眉間みけんにしわを刻んでいる。

「それで?」

「そしたらウェールズの商人が城門から続々と逃げ帰ってるって」

「それってもしかしたらイングランドを背後から襲うつもりなのか」

「分かんないけど、その疑いもあってチェプストーの城門は閉鎖、残った兵士を大至急かき集めてるって」

「それはヤバいな」

ハルヒの言うチェプストーというのは、グロースター城から西に六十キロほどのところにある要衝ようしょうの城だ。そこから先はウェールズの領土になっていて、イングランドとの外交関係は安定していない。領土的にはイングランドのほうが大きいが、ノルマンコンクエスト以降は押したり引いたり配下になったり抵抗したりを繰り返している。襲うならこっちが背中を見せている今がチャンスかもしれない。

 ハルヒは部下を集めて全員分の馬を出せと叫んでいる。

「おい待てどこに行くつもりだ、お前を戦闘に出すわけにはいかんぞ」

「うるさい、いちいち指図さしずするな」

部下を目の前にして修道士に指図さしずをされるなど見せてはいけないんだろうが、俺もついイライラして、

「お前が誰かを殺して、生まれるはずの人間がいなくなったらどうなると思うんだ」

「じゃああんたは、あたしたちのうちの誰かが死んでも問題ないってわけ?」

ううむ、正論で来やがった。俺達は舞台を外から見ているわけじゃない。転べば痛みを感じる怪我けがをすれば出血もする。こたえに詰まった俺は下手したてに出てなだめようと、

「とにかくだな、無駄な殺生せっしょうはなるべく控えて、」

「フン、理想論ばかりとなえてるあんたみたいなのが家族を殺されて最初に暴走するのよ」

俺の家族は未来にいて平和に暮らしてるわけで、たぶん武器を取って守らなければならないなんて事態にはなりそうもない。ハルヒの言う家族とはスマイト家のことを指しているのだろうか、こいつはもしかしたらイングランド人として人生をまっとうするつもりなのだろうかという考えが、ふと頭をよぎった。

「待て待て、俺もついていくから。朝比奈さんと長門に知らせてくるから待ってろ」

古泉がいればストッパー役に付けるところなのだが、しょうがない。城のことは長門に任せて俺が行くか。

 礼拝服を脱ごうとする俺の表情がよほど悲壮ひそうな顔をしていたのだろう、ハルヒの表情が少しやわらぎ、

「心配しなくても血まみれの戦闘なんかにはならないわよ。住民を避難ひなんさせるだけよ」

「まあ、それなら安心なんだが」

この先どうなるかを案じている俺は上の空というかほとんど棒読みでこたえた。安心なんて、ハルヒがからむとそんな安請やすうけけ合いできる保証はどこにもないのだがな。


 俺はハルヒに伯爵宛ての手紙を書かせ、ヘイスティングス本陣まで伝令を出させた。それからメイドさんに頼んで自室にいる長門を呼び出してもらった。

「長門、どうやらウェールズに不穏ふおんな動きがあるらしい。ハルヒが心配なんで見張り役に行ってくるわ」

「……そう。気をつけて」

「朝比奈さんとハリーのことを頼む。いざとなったら魔法でも量子飛躍りょうしひやくでもなんでも使って逃げてくれ」

「分かった」

情報統合思念体も朝比奈さんを守るためならゆるしてくれるだろう、などと安易あんいに考えてはいるが、ハルヒにはルールを守れと説教しながら長門にはルール無視しろだと、都合が良すぎないか俺。

 その長門を連れて朝比奈さんの寝室に行くと、正装のまま、背筋を伸ばしハリーを抱いて椅子に座っていた。

「朝比奈さん、隣の国の動きが怪しいんで住民をロンドン方面に避難ひなんさせてもらえますか」

「そうなの? 隣っていうと、」

「西のウェールズです。イングランドとは前から小競こぜり合いが続いてるらしくて」

「分かりました。城の関係者全員を通達に出しましょう。シスターにもお願いしてきます」

「俺とハルヒは国境に近い、セバーン川の向こう側の住民を避難ひなんさせます。警備の兵隊さんを全員連れていきますので、あとの安全は長門に任せます」

「ありがとう。長門さん、よろしくお願いしますね」

「……うけたまわった」

見送ろうとする長門をそのまま部屋に残し、階段を駆け下りた。案の定ハルヒは待ちきれずに出払ってしまっていて、俺はあわてて鉄のカブトを被り、武器を取って修道服の上に赤十字のチョッキを着込んだ。なんで騎士修道会のコスプレなんだと一人ツッコミをする余裕よゆうもなかった。


 国境のチェプストー城からグロースター城まではゆっくり歩いても一日、ここが陥落かんらくしたら翌々日にはグロースターも焦土しょうどと化しているという目と鼻の先である。俺はともかくセバーン川の向こう側の集落に避難ひなんを呼びかけようと馬を駆って橋を渡った。

 暗闇の中で獣脂じゅうしランプだけを頼りに馬を走らせたが、はじめての土地でどこにマナーハウスがあるのか皆目かいもく見当がつかない。遠くで馬のいななきが聞こえたのでそっちに歩を進めていくと、

「こらキョン遅い!」

槍と長剣、そして鎖帷子くさりかたびらフル装備のハルヒが馬上からにらんでいた。

「朝比奈さんに城の住民を避難ひなんさせてもらってたんだよ」

「だったら、その辺でまだ明かりがついてる家から住民を連れ出しなさい」

「どこに向かわせればいいんだ?」

「とりあえずディーンの森に逃げ込むように伝えて、イノシシとか鹿を食べてもいいから」

「よし、分かった」

伯領の森林資源を勝手に食ってもいいとか、通常ならありえんのだが緊急事態につきそこはえて突っ込まなかった。

 俺は今にも壊れそうな小作農の家のドアをノックし、うやうやしく十字架をかかげて、伯爵付きの修道騎士である、敵軍が迫っているので急ぎ脱出されよ、と伝えた。それからマナーハウスの場所を聞き出し、荘園差配人さはいにんに住民全員で逃げるよう伝えてもらった。

 それから周辺の村の位置を尋ね、一旦ハルヒのもとに戻り、連れてきた兵士で手分けしてそれぞれの村に知らせてもらうことにした。ハルヒは兵士達が戻るまでここで待機、俺はこの村の住民が無事避難ひなんできるところまで付きうことにしたが、なんせ街灯も月明かりもない田舎道いなかみちだ。遠くにうっすらと見える黒い森の影らしきものを確かめつつ、ありがたいことに馬の目は人よりも夜目が効くらしいのでそれだけを頼りに先頭を歩いた。


 村のメンツは子供を入れてだいたい五十人くらいだろうか。家財道具を乗せた荷車をガラガラと引き、あるいは馬に引かせ、ときどき泣き声が聞こえるが、乳飲ちのもいるようだ。ディーンの森とやらはけっこう距離があるらしくなかなかたどり着かない。このまま歩き続けるとしても、こいつらの朝飯をどうやって確保しようかと思案していると、路々みちみちの途中で長い石垣と十字架らしき影を見かけた。もしかしたらと思い門を叩いてみると修道士が出てきた。ロウソクの明かりに浮かんだ俺の姿を見るやあわてて修道会のあいさつを述べようとしたが、いやそれどころじゃないんで、ウェールズ軍が押し寄せてくるかもしれないから村の住民をかくまってもらえないかせめて子供だけでも、と頼むと奥から院長らしきご老体ろうたいが出てきた。

 俺はまずご老体ろうたいの前にひざまずいて指輪にキスをし、真夜中の来訪をび、敵兵が迫っているので神のみ名のもとに保護をお願いしたい、と静かにゆっくりと話した。修道士に頼み事をするときは丁寧ていねいに時間をかけて交渉しなければならない。ところがご老体ろうたいは表情をゆるませて、ホッホッホ知っておるよブラザージョーン、と笑っている。どうやらこの辺の修道士の間で俺のことがゴシップネタになっているらしい。ありがたや神のお導きです。ホッホッホでは一日あたり三シリングでよろしいかな。ちゃっかりしとるわジジイ。


 修道院の聖堂に全員を入れてもらった。そこで静かに礼拝をやってもらうと怖がっていた子供もだいぶ落ち着いて静かになったようだ。荘園差配人さはいにんには安全が確認されるまで村には絶対に戻らないようにと釘を刺し、院長には後日金を届けることを約束して修道院を後にした。やれやれ、住民の避難ひなん場所は平時から確保しとかないとな。


 村へ戻ると、腕組みをしたままのハルヒがさっきと同じ場所にいた。

「おい、そっちはどうだ」

部下の歩兵を全員馬に乗せるなどという無謀むぼうな命令を出したと見えて、なかには荷馬にばがまじっていておびえた鳴き声を出している。

「全員戻ったわ。いちおう川からこっち方面の村には全部伝えたし、助かるかどうかは神のみぞ知るね」

ハルヒはチェプストー城へ兵士を二人つかわしてその後の様子をうかがいにやらせた。

「戦闘が始まってたら、あいつら戻ってこれんかもしれんな」

「それも神のみぞ知るところよ。さあ、あたしたちはグロースターに戻って住民を避難ひなんさせるわよ」

その神とやらは、すべてはハルヒ次第だと思っているようだがな。

 俺達は馬をもと来た道へ向け、拍車はくしゃをかけた。


 帰りはセバーン川に沿った道を何の明かりもなく、ひたすら馬の目だけを頼りに進んだ。途中、道が川の土手の上に出てハルヒがはたと止まった。

「なんだ?」

「いや、なんでもない」

なんでもないと言ったがハルヒは馬を進めようとはせず、じっと川の音がする方を見ている。

「どうした」

「シッ、聞こえない?」

「なにが」

耳を澄ましてみるが草木が風にざわめく音しか聞こえない。

「遠くからなにかが近づいてくる音がする」

「風の音じゃないか?」

この辺の川岸には湿地が広がっているはずだが、当然真っ暗で対岸も水面も見えない。ハルヒはかたわらにいた兵士に左手を差し出し、

火矢Flaming arrow

布にロウをひたして矢じりに巻きつけたものである。夜戦でよく使うが遠くまでは飛ばないらしい。獣脂じゅうしランプで矢じりに火を移し、弓に構えてキリキリとしぼった。少しだけ角度をつけてから放つとピュウという乾いた音がして、赤く燃える流れ星のような火が飛んでいった。

 ハルヒの目に一体何が見えていたのか、俺達は火矢の先になにがあるのか目をらした。対岸へ向かって飛んでいく小さな光でかろうじて見えたのは白い波だった。

「見えた? こんなところまで波が押し寄せるなんてありえないでしょ」

「そういや海岸はだいぶ西の方のはずだな」

セバーン川のグロースター付近から河口まで五十キロくらいはあるはずである。ハルヒは何度か火矢を放ち、そのたびに高波が押し寄せているのが見えて川の様子がおかしいことに気づいた。兵士の一人が、あれは登り潮Tidal boreではないかと言うのと、ハルヒが叫び声を上げるのが同時だった。

「あいつらそういう魂胆こんたんか!」

「なんだ、どうしたんだ」

「見えたでしょ今一瞬! 船よ船、満潮みちしおに乗って敵の船が」

たしかにキラリとなにかが光ったのは見えた気もするが、本当に敵兵が乗った船だったのだろうか。ただの輸送船じゃないのか。

「こんな夜中に荷船にぶねが来るわけないでしょ!襲歩Gallop!」言うが早いかハルヒは馬を蹴って走り出した。

 兵士が言うことにゃ、登り潮というのは満ち潮が高波になって川をさかのぼっていくやつで、新月とか満月の日にはよく起こるものらしい。それに乗れば帆を貼らなくても楽に川を登ることができる。

 置いていかれた二十八人の兵士と俺は馬にありったけのムチをくれてハルヒに追いつき、グロースターの街へ戻った。橋を渡って街の中に入ると、避難ひなんしようとする住民でごったがえしていた。荷車やら馬車やらで運び出される家財に混じって子供が乗っている。朝比奈さんのお触れに従ってくれているようだ。

「キョン、城に行って、まだ残ってる男手おとこでを借り出してきて」

男手おとこでって肉体労働か」

俺は城門まで行って、人を集めてくれるよう、なるべく力のあるやつを頼むと注文をつけて執事に伝えてもらった。門の前でしばし待つこと十分、執事が連れてきた二十人くらいの野郎どもはご老体ろうたいから少年までサイズも体格もチグハグだったが、果たしてこんなので役に立つのだろうか。力のありそうなおばちゃんが何人か混じっているのでこっちのほうに期待したい。

 歩いて橋のところまで戻ったがハルヒはおらず、走り回っている兵士を捕まえて場所を尋ねると川の船着き場に行ったと言う。

「おいハルヒ、二十人で足りるか」

「よーし、キョンにしては上出来じょうでき……誰がおばちゃんを連れてこいと言ったのよ」

「いやまあ、その辺の男どもよりは頼りになりそうだから……」

また怒られて俺は上目遣うわめづかいに言い訳を申し立てると、

「まあいいわ。少なくともあんたよりは腕っ節が強そうじゃないの」

眉毛を寄せながらだが、今日初めて笑うハルヒである。

 そのかき集められた二十人とハルヒ小隊の兵士二十八人に課せられたのは、船着き場に積まれてある丸太をかたっぱしから運んで橋の上から投げ捨てるという重労働だった。丸太だけではない。製材された木材をかたっぱしから投げ捨て、なるべく固めて捨てるようにという命令に、この労働にいったいなんの意味があるのかと皆が首をかしげているが、下流に敵兵が乗った船が押し寄せていると教えてやるとなるほどと納得していた。こんなので敵を防げるのかどうかは分からんがな。


 あらかたの丸太を投げ入れるとゆるやかなセバーン川の流れに島のように浮かび、なんとなくだが船足ふなあしを止めるくらいにはなるんじゃないだろうかと思われる、動く防壁のように見えなくもなかった。

「さあて、どう出るかしらね」

ハルヒは橋の欄干らんかんの上に立って、見えない敵をすがめるように川下をにらんでいる。

「キョン、どう見る?」

「どうって」

「船が丸太に邪魔されて進めなくなったら、どの辺で上陸するかしら」

「うーん。流れがゆるい、砂地の岸辺とか湿地とかじゃないか」

「あの登り潮、見た目はそんなに早くなかったわ。時速でいうと二十から三十キロってとこかしら。セバーン川はかなり蛇行だこうしてるからグロースターの街までは届くのは一時間かそこら……、か」

「防御の固い街に真正面から乗り込むほどバカじゃないだろ」

「じゃあ途中で上陸して歩くとして、田舎道いなかみちを進んで五キロなら一時間、十キロなら二時間」

「敵将が歩兵をそれだけ歩かせるつもりがあるかどうか、ってところじゃないか。俺なら、なるべく行けるところまでは船で行くかもな」

ハルヒは腕組みをしたまま黙っていたが、やがて、

「よし、あんたのかんけてみるわ」

「オイ待て待て、俺はズブの素人しろうとだぞ」

ハルヒは自分の頭をツンツンと指さし「こういうときは直感ってやつがくのよ」

「待て待て、俺達は城を守るよう言われてるだろ」

今さらなにを言っても無駄で、ハルヒは小隊の兵士全員を集め、疲れた馬に鞭打むちうち、グロースターから南へ伸びる道を下った。今度は行軍なので先頭にSOS団のペナントを立てている。俺もうなだれながら後をついていった。

 二人を斥候せっこうとして先行させ、流れる丸太を追って川沿いを走らせた。俺達は放牧地と畑の間の田舎道いなかみちを通って南西へと馬を進める。道なりに行けば二時間くらいでセバーン川の湿地帯に出るはずである。

 道の途中で、曲がりくねった川が道のそばを流れているところで斥候せっこうの一人と接触し、まだ見つかっていないと報告に来た。

 それから暗闇の中を小一時間ばかし馬を進めたが何も現れず、もしかしたらすべてはハルヒの思い過ごしだったのかもしれんなあ、などと思い始めた頃、川の方からザバザバと波の音が聞こえてきた。蛇行だこうする川が再び道に接しているようだ。物音を立てないようにそっと土手の上から水面を覗くと、小舟が見えた。暗くてよくは見えないが、確かに小舟の群れがかいいで押し寄せている。

「静かに……静かによ」

実に運の悪いことに俺の馬が大きくいなないた。静かにつっただろと全員がこっちをにらみ、俺はスンマヘンスンマヘンと頭を下げたが時すでに遅しである。小舟に乗っていた連中が一斉いっせいに大声を上げ、やみくもに矢を放ち始めた。ハルヒがせろと命じ、小隊の兵士は獣脂じゅうしランプから矢尻に火を移している。敵の矢が途切れた瞬間にこっちも一斉いっせいに火矢を撃ち始めた。

 土手の上からの射的でこちらには有利だった。全く予期していなかったらしい遭遇戦そうぐうせんに敵兵はあわてて船を岸に近づけ上陸しはじめた。ハルヒはニヤリと笑い馬のくらから長剣を抜いた。

全軍突撃Follow me!」

兵士たちはハルヒに続いて土手を駆け下りた。船に火がついて敵兵が飛び込んでいる。川の流れに沿って飛んだ火矢の下にぼんやりと浮かび上がったのは、長く続く小舟の船隊だった。だいたい二十そうくらいだろうか。一艘いっそうに四人か五人が乗っている。おいおい百人対三十人だぞ、勝つ気でいるのか。っていうかめろよ俺。

 敵兵が舟から飛び降り、岸に生えている草をかき分けながら登ってくる。土手の上から矢を射るが暗くて標的が見えずほとんど当たらない。どちらも槍を構え腰から剣を抜き、ランプを持っている相手を目標に突進した。槍を払う音と剣同士がぶつかる音に火花が散り、真っ暗闇の中でどれだけの敵が押し寄せているのかも分からなかった。ランプが割れて燃え移ったのか誰かが火をつけたのか、枯れ草が燃え始めて戦闘の有様ありさまを照らし出した。

 俺の頭の中は完全に真っ白になりナノマシンもパニクってるようで言葉が出てこない。長門、助けてくれ。古泉、戻ってきてくれ。神様仏様アラー様、情報統合思念体の皆様この場を切り抜けさせてください、などと十字架をにぎりしめているヘタレである。飛んできた矢が馬の背に刺さってふり落とされ、俺はやっと正気を取り戻した。

 俺は槍をにぎりしめ、

「おい待てったら!」やっとそれだけ声をしぼり出したが、

「邪魔すんな!」

ハルヒが目の前の敵兵におおきくふりかぶってつるぎを叩き込もうとした。

「殺すなハルヒ!」

俺は後ろから槍ので敵兵の胸を突いて押し倒した。

「邪魔すんなっつってんでしょうが、戦闘中に何考えてんの!バカなの死にたいの!?」

「俺はどうあってもお前に人殺しはさせられんのだ。せめて川に放り込むだけにしろ」

「死ぬかもしれない瞬間にそんな器用なマネできるかぁ」

ともかく敵兵を追い払おうと俺は槍を棒術のようにふり回し、足払いをかけてり倒し、川に突き落とした。

「ぶん殴っても構わん!ただし殺すな!」

「殴って死んでもいいのか!」

「こまけーこたぁいいんだよ!」

それから俺はなるべくハルヒの脇を離れないように、ハルヒに切りつけられないように注意しつつ、敵兵のつるぎをかわし、よろい隙間すきまのノド元や股間こかんを突いて片っ端から川に放り込んだ。敵味方てきみかた入り乱れ、互いにいちいち顔を確かめながらの乱戦である。まさかこんな展開になろうとは、俺も考えが甘かった。

 ハルヒは眉間みけんにシワを寄せながら、切ったらいかんというならぶん殴るまでよと、つるぎを横にして敵兵のカブトをガンガン殴っている。鎖帷子くさりかたびらつるぎの刃を通さないのだが、それでもまともに突きを食らってあちこちに傷を負わされているようだ。


 俺は腰のつるぎは抜かなかった。打撲だぼくはまあ回復できる。しかしつるぎの傷は致命傷になる。修道士として、SOS団団員そのいちとして、俺の自己満足ルールだがそれだけは守っているつもりだった。

 そうしているうちに敵兵が続々と岸に上がってきている。俺も一人ずつ相手をして水の中に放り込むのだが、そいつらが泳いでまたもや陸に上がっている。

「やばいぞハルヒ包囲されないうちに逃げたほうが」

「ここまで来て撤退てったいできるか!」

にか、にしたいのかハルヒは。こいつらがグロースターの街を襲ったら大勢の住民が犠牲になる。だったら一人でも多く殺して一人でも助かる道を選ぶべきではないだろうか、などという思いがふと頭をよぎる。住民は無事避難ひなんできただろうか、いやあれだけの人数を街から出すのは数日かかるだろう。朝比奈さんは無事逃げただろうか、長門ならきっと助けてくれているに違いない。

 転がり突き倒され踏み荒らした足元の草の匂い、兵士たちの汗の匂い、そして血の匂いをぎながら俺は、ここで死んでも朝比奈さんだけは長門が未来に連れて帰ってくれることを祈り、そして覚悟を決めた。

 槍が折れた。俺はつるぎを抜いた。俺が誰を刺そうが誰に刺されようが、ここでの戦闘はたぶん歴史には残るまい。イングランド片隅かたすみの、茶色くにごった川のそばで小さな小競こぜり合いがあったとグロースター史に刻まれるだけだろう。すまねえ長門、先にくぜ。つるぎを低く腰に構え、敵兵の一人に狙いをつけて突進しようとしたそのとき、

「古泉くん!」

俺は一瞬ハルヒを見た。断末魔だんまつまなのか、辞世じせいのセリフがそれなのか。それならそれで構わないさ。死に際に脳裏をよぎった男の顔が古泉だとしてもまあ許す。これは嫉妬しっとでもなんでもないぞ。俺だってさっきから長門の顔がチラチラとまぶたの裏にくっついて離れないんだからな。

 ハルヒの視線を追うとそこにいたのは、

「危ない!」

突然俺の真後ろにいた敵兵を槍で突き刺した、馬上の古泉の姿だった。俺はとっさに身をせた。


「帰ってきたのか古泉」

「ここは僕に任せてください」

「了解、おいハルヒ!引け引け、撤収てっしゅうするぞ」

突如とつじょ現れた援軍に感動したのか、ハルヒはひたいから汗と血が混じり合ったなにかを流しながらニヤニヤ笑いをこらえきれないようで、たぶん過剰かじょうに放出されたアドレナリンがドーパミンのように作用しているのだろう。

「いーいところに現れたじゃないの古泉くん。でも敵はたったの一個中隊よ。別働隊べつどうたいね」

「なるほど、裏から街を襲っての陽動ですか」

「木材流しといたから川からの奇襲はもう無理ね」

古泉は一瞬だけ唖然あぜんとし、

「さずがは涼宮さんですね、報奨ほうしょうものです」

ハルヒはフフンと笑い、汚れた手で鼻の下をこすった。黒髭くろひげになってるぞ。

「おい古泉、伯爵はどうした」

「チェプストーから伝令が来まして、援軍に行ってます。ここが片付いたら僕も駆けつけます」

「そうか。よし古泉、後は頼んだ。俺達は城に戻るぞ」

「おまかせを」

グロースター正規軍は圧倒的な戦力で敵を叩きのめした。川に放り投げ、武器を取り上げて捕虜ほりょにした。戦闘中に敵も味方も死んだ。ハルヒにはあまり見せたくなかったので、まだ戦うとごねているところを無理矢理に引っ張ってその場を離脱した。


 ハルヒと生き残った部下、数えて二十四人を城に連れて帰ると、街の外に出ようとする住民の行列が道をふさいでいた。大聖堂が大きく鐘を鳴らしている。

 俺達はなんとか城門を開けてもらって中に入った。ハルヒと兵士どもは腹が減っているらしく城の台所に転がり込んだ。俺は酷使こくしして汗びっしょりの馬を厩舎きゅうしゃで休めてもらい、塔の中に駆け込んだ。

「長門、戻ったぞ!」

「……おかえりなさい」

長門が水の入ったおけを持ってきてくれたのでそれを抱えてゴクゴクと飲んだが、俺の顔にこびりついた血と泥をぬぐうつもりだったようだ。

避難ひなんの進み具合はどうだ」

「……城の西側は退避たいひ完了した。あと二十四時間程度は必要」

「よし分かった。城の使用人は家族の元に帰らせて、残りは俺達がやろう」

「……わたしも手伝う」

長門がベーコンサンドを用意してくれていたが、食ってる時間がしくてそのまま持ち出した。

 俺達は城から歩いて施療院せりょういんに行き、鶴屋さんの執務室しつむしつを訪ねた。テーブルの上に地図を広げてあり、ときどき指揮下の人間が出入りしている。

「あれれブラザージョーンかい、ずっと探してたのに今までどこ行ってたのさ」

「すいませんハルヒにくっついて敵兵の侵入を防いでたもので」

「エッ、もう敵さん来てんの?」

「伯爵が伝令を受け取ったらしいので、たぶんチェプストー付近まで来てると思います」

「そいつぁたいへんだ、急がなくちゃ」

「後からハルヒも手伝いに来ると思います。兵士が二十人ばかしいるんで使ってください」

「あいよ! それよりちょっと困ったことになってんだけどさ」

鶴屋さんは隣の部屋でちじこまっている子どもたちを示した。

「孤児ですか?」

「いやいや、この騒動で親とはぐれた迷子達まいごたちだよ」

こいつらの親を一人ずつ探して歩くのはちょっと至難しなんわざだな。安全が確保できるまでどこか町外れの修道院あたりで預かってもらうしかないか。俺は今にも泣き出しそうな子供達を見て、ふところからパンを取り出しナイフで切り分けて食わせた。

 俺は長門の表情を伺いながら、

「緊急事態だ、なんとか頼めないか」

「……了解した」

長門は一人ずつ子供にボソボソと話しかけて名前を聞き出し、頭をなでながら呪文をとなえた。たぶん量子飛躍りょうしひやく中世版だと思うが、一瞬の後に一人ずつ消えていった。鶴屋さんが目を大きく丸くして、

「エエッ、どこいっちゃったのあの子達」

「えーと、たった今、親元に帰りました」

「ユキリナすっごいね! それって錬金術の一種かい? あたしも弟子入りしたいにょろ」

眼の前に突然降っていた我が子に、復活のラザロを凌駕りょうがする勢いのミラクルを叫ぶ両親の姿が想像にかたくなかったが、まあこういう騒動の最中だしゴシップにまぎれてくれるだろう。

 俺は今後も現れそうな迷子の担当を長門に頼み、施療院せりょういんの玄関に迷子預かり所LOST CHILDRENの看板をかけた。それから鶴屋さんの指示をもらい、街の通りに建っている家のドアを端からノックして避難ひなんを呼びかけた。

 街道をロンドン方面へ逃げるように、朝まで近場ちかばの森で過ごし、夜が明けたら森伝もりづたいに街から離れるように、子供を見失わないようにと伝えた。携帯電話やスマホの警報のない時代だが、略奪りゃくだつの恐ろしさは知っているようで存外素直に従っている。馬やロバも財産なので当然連れてゆくし、俺達は住民が荷造りするのを辛抱強しんぼうづよく待った。街の門までは俺が先導し、そこから先は武器を持つ住民を先頭に歩かせ、なるべく町内がまとまって移動するようにと指示した。


 グロースターの街の門から外側にもいくつか農村の集落が点在していて、その辺はハルヒの部下が馬で走り回っているようだ。俺が通りに並ぶ家の住民を無事送り出した頃、ランプを下げた馬が駆けてきた。

「やっと見つけました!」

「古泉か」

「長門さんを連れて戻ってください、ロードシップが重体です」

「重体って、」

古泉は俺をさえぎり、

「チェプストーの城壁が破られました。我軍は撤退てったい中です。街の門を閉じるので、とにかく城に戻ってください」

それだけ言うと馬を駆ってどこかへ消えていった。ヤバい事態だ、俺達は領主を失う。グロースターが敵の手に落ちればロンドンも危ない。

 考えている暇はない。俺は息も絶え絶えになりながら駆け足で施療院せりょういんに戻り、長門に伝えた。

「長門、伯爵が大怪我けがしたそうだ。城に戻ろう」

「……分かった」

「シスタークレインはどこだ?」

「……避難路ひなんろの確保を依頼した」

修道女たちはすでにいなくなっており、俺は鶴屋さんに、行き先を書いた置き手紙をした。

 兵士たちが戻ってきている最中で城門は開いていたが、血にまみれた仲間に肩を貸している者、地面に置かれた戸板といたの上で横になっている負傷兵、刺さった矢もそのままに怪我けがをした軍馬などが城内にあふれかえっていた。避難ひなんしていたと思っていた施療院せりょういんの修道女達が手当てあてに走り回っている。

 俺は長門の手を引いて、兵士たちをかき分けて塔に入った。塔の中の通路にも大勢の負傷兵が寝ていて熱っぽい血の匂いが漂っている。階段を上がるとところどころに黒い血のかたまりが垂れていて、伯爵の部屋まで続いているのに気づいた。ドアの前に立っている番兵は俺達の顔を見て早く早くとうながしている。


 中に入ると寝室のドアは大きく開けられていた。ドアの脇にハルヒが立っていて俺を見ると口に人差し指をあてている。ドアの向こうには、自身も傷を負い包帯を巻いた騎士たちがカブトを脇に抱え、ベットの横に並んでいるのが見えた。皆に囲まれたベットの上には、髪が乱れ青ざめた表情の伯爵が目を閉じて横たわり、その右に手を握った朝比奈さんが座っていた。朝比奈さんの後ろには、血と油と泥にまみれた古泉が唇を噛みめて立っている。

 俺は一歩進んで中に入った。

「朝比奈さん……」

「キョンくん、長門さん!」

朝比奈さんはすがるような目で長門を見た。

容態ようだいはどうなんですか」

「運びこまれてきたときから意識がないの」

古泉が動かない伯爵を見つめたまま、

「チェプストーの城門が破られたとき、槍で脇腹わきばらを」

それを聞いて俺は痛くもない自分の脇腹わきばらを押さえた。ジョンスミスの因果か。

「傷は深いのか」

「分かりません。ただ、傷を負った後もずいぶん長い時間戦っていましたから」

ハルヒが壁にかけてあった戦闘斧をやおら取り上げ、

「もう我慢ならないわ、こうなったらあたしが指揮をる!」

撤退てったいしてんだぞ、今さらどうしようってんだ」

「船でウェールズに奇襲をかけるわ。この手で敵将の首を取ってみせる」

「待て……」

後ろで声がして俺達はふり返った。

「ジャン、気づいたのね!?」朝比奈さんが叫んだ。

「ミス・スズミヤ、皆を……連れて、あなたの時代に帰ってくれ」

伯爵は痛みに耐えるように、かすれた声でひと言ひと言をしぼり出した。最後になにかを言おうとしてき込み、口の端から血が垂れた。腹に巻いた包帯がみるみる赤く染まりシーツへ伝わっていく。

「長門さん治療をお願い、血が止まらないわ……」

「だめだ」

伯爵が朝比奈さんの手を止めた。

「ジャン、このままだと出血多量で、」

ゆるしてくれ……レディミクル、私が死ねば部下は降伏こうふくできる。それで領民を救える」

「何を言い出すの、あなたが死んだらわたしはどうなるの!?」

「私は、この時代の流儀りゅうぎで幕を閉じたい。これ以上私のために禁を犯さないでくれ」

「ジャンお願い、わたしを置いていかないで」

「約束を……果たしてく……」

伯爵は宙を見つめたまま、握っていた手の力を抜いた。朝比奈さんはその手をにぎりしめ、涙ながらに長門に向かって叫んだ。

「長門さんお願い、このままかせないで」

長門は一瞬だけ躊躇ちゅうちょし、ベットへ一歩踏み出した。


 朝比奈さんはかつて伯爵と約束をしていた。伯爵は結婚を申し込んだとき、自分と領民のために尽くしてほしいと言った。そしてハリーが生まれたとき、城と領地を失うようなことがあっても、必ず生き延びてハリーを守ってくれと頼んだ。約束を果たしてくれ、とはたぶんそのことだ。


 伯爵はかつて騎士叙任きしじょにんのとき、血の誓いを立てた。勇気を持って正義をつらぬけ、自らが仕える領主と領民のために強きをくじき弱きを助けよ。悪をただす血筋であることをほこりとせよ。身分の差はあっても、宣誓した者は皆これに従い、戦い、死の床に至るまで守り通した。伯爵はその血に、正義をまっとうする誇りを受けいできた。


 領主の第一の使命は領民の明日を守り、生命いのちを次の世代へとつないでいくことだ。それを本人の延命と引き換えてもいいのだろうか。ここで生き延びればもしかしたらリベンジできるかもしれない。領地を取り返して再び平和な伯領の生活が戻ってくるかもしれない。だがそれには大勢の領民が犠牲になるだろう。

 そしてたぶん、ここで延命しても、伯爵は自ら敵に拘束こうそくされ、領民の安全と引き換えに処刑されることを望むのではないだろうか。


 俺達が未来から持ち込んだ倫理観りんりかんで、血の誓いを否定してしまってもいいのだろうか。


「待て、長門」

俺が長門の右肩に手を乗せるのと、

僭越せんえつながら、騎士のちかいを尊重するべきだと思います」

古泉の低い声が響くのが同時だった。


 長門は動かなかった。俺も動かなかった。息を止めた数秒間の後、朝比奈さんは真っ青になって伯爵にすがりついた。すがりついてむせび泣いた。何度も何度も名前を呼んで肩を震わせた。

 俺の後ろに立っているハルヒはひと言も発せず、鼻をすする音すらせず、ただ俺の背中を押して、

「やることあるでしょ。最後を取りなさい」

耳元でボソリと言うのが聞こえた。

 そうだったな。俺は伯爵のかたわらに座り、ひたいに手を当てた。七つの質問をラテン語で問いかけ、こたえを聞いたかのようにうなずいた。十字を切り、伯爵の、ジョンスミスの冷たくなった目蓋まぶたに触れてそれを閉じた。


 敬礼をしたままじっと立ち尽くしていた騎士たちは、汚れた顔に大粒の涙の跡を流した。騎士団長が、これから降伏こうふくの交渉に行くのでレディシップを連れて脱出してくれと言い、古泉がうなずいている。

 ハルヒが騎士達に向かって、

「たった今から傭兵ようへいつのるわ。やる気のあるやつはあたしについてきなさい」

「おいハルヒ聞いてなったのか。交戦は終わりだ、降伏こうふくして休戦だ」

「まだ終わっちゃいないわよ。降伏こうふく?フン、したけりゃ勝手にすればいいじゃない。あいつらが戦勝に酔ってる寝込みを襲って一泡ひとあわ吹かせてやるわ。あたしは、あたしの戦いをするだけよ!」

ハルヒは持っていた斧をブンブンふり回しながら部屋から出ていこうとした。

 俺が古泉の目を見ると軽くうなずいたので、

「長門、頼む」

「……了解した」

「ちょ、有希、なにする、」

長門がハルヒの首根っこに触れるとぐったりともたれかかり、俺は古泉にこれの面倒を頼むと指さした。少し強引だったがこういう事態だ、仕方あるまい。


 ハルヒがやけに静かだとは思っていたが、自分だけリベンジを目論もくろんでいたとは。伯爵が重体だと聞いたときに俺の脳裏をよぎったのは、ハルヒはきっと暴れだすに違いないという危機感だった。かつて朝倉が言っていたように、ジョンスミスが死んだら巨大なエネルギーが放出されるだろうと予想していた。ところがハルヒは、無茶なことをのたまってはいても、伯爵のざまを不思議なほどすんなりと受け入れている。誰かのために生命いのちをかけて戦うという誓いを立てた者の、その死が意味するところを、こいつなりに受け止めているのだろうか。すくなくともそれは意味のある死だった、と。

 だが朝比奈さんにとっては、その誓いが誰のためであれ、とても受け入れられるものではなかった。俺はベットに突っ伏したまま動かない朝比奈さんの肩に触れた。

「朝比奈さん、時間がありません。敵兵がやってくる前に城を脱出しないと」

朝比奈さんは顔をせたまま、

「わたしはここに残ります」

旦那だんなさんとの約束を守りましょう。ハリーを連れて逃げないと」

朝比奈さんは顔を上げ、しばらく伯爵のほほをなで、ゆっくりと立ち上がった。

「そうね。残された者の義務……よね」


 朝比奈さんは騎士団長に、一旦ロンドンへ避難ひなんすることを伝え、無駄死むだじにはしないように、降伏こうふくの交渉と城の明け渡し一切を一任いちにんすると述べ、街の門の鍵を渡した。騎士たちはそれぞれの最後の勤めを果たすために出ていった。朝比奈さんは最後に一度だけ伯爵の手をにぎり、寝室を出た。


 朝比奈さんはそのままの服装で、ハリーだけを抱いて自室のドアから出てきた。俺達もなにも持たずに、とりあえず身柄みがらのみで出発することにした。気絶したハルヒを脇に抱えた古泉を先頭に、朝比奈さん、長門、殿しんがりは俺である。城を出ようとしたが城門はまだ閉じられたまま、城内は撤退てったいしてきた兵士でごったがえしていてとても通り抜けられそうにはなかった。

「……こっち」

長門が指さした方向についていった。台所を通り抜け、地下にある穀物倉庫こくもつそうこまで来ると壁を指さした。どこかの石をぐいと押すと小さな空洞が開いた。脱出用の隠し通路らしい。人ひとりがやっと通れるくらいの幅の階段が下に伸びていて、暗闇の底から冷たい風が登ってくる。俺は壁にかけてある松明たいまつを取ったが、風にあおられて今にも消えそうだった。


 そこからは松明たいまつかかげた俺が先頭になり、不揃ふぞろいの石でできたデコボコの階段を踏み外しそうになりながら一歩ずつ降りていく。階段の最下層にたどり着くと、サンダルの底でピチャピチャと水に濡れた。壁は手掘りのようで荒く削られた跡が影になって見える。明かりもなくドアも分かれ道もない。長い長い坑道のような通路を俺達は黙々と歩き続けた。後ろにいるはずのハリーは眠っているのか、泣きもせずじっと母親に抱かれているようだ。

 突然壁に突き当たった。通路が行き止まりになっている。かざしている松明たいまつの炎がれているが、通風があるということはどこかに通じているはずなのだが。

「おい古泉、行き止まりだぞ」

「上です、上に抜けられるはずです」

長いロープが壁に結び付けられており、見上げると高い天井から縄梯子なわばしごがぶら下がっていた。ロープをいて縄梯子なわばしごを降ろし、俺が先に登って様子を見た。梯子はしごが終わっているところに出口があり、板でできたふたがかぶせてある。ふたをゆっくりと持ち上げ、耳を澄まし、隙間すきまから様子をうかがった。十秒数えてから俺はふたを開けて上に出た。出口のまわりには干し草がいてあり、そこは木造の建物でどうやら農家の納屋なやのようだ。

 俺は松明たいまつをかざして建物の外の様子を見た。街の外らしく、あたりは真っ暗で静かだった。納屋なやの裏から馬の鼻息が聞こえて一瞬腰のつるぎに手をやったが、誰も乗っていない空荷からにの馬車のようだ。誰かがあらかじめ用意してくれていたのか。

 俺は縄梯子なわばしごまで戻り、登ってくるように手招きした。古泉がハリーを抱いて登ってきて、それからまた降り、朝比奈さん、次に長門が登ってきた。俺は手で馬の手綱たづなの仕草をしてみせ、外にある馬車に乗るようにうながした。最後にハルヒを肩に抱えた古泉が、必死の形相ぎょうそう縄梯子なわばしごにしがみつきながら登ってくる。出口を登り切るところでずっしりと重いハルヒの体を受け取ったが、二十キロはある鎖帷子くさりかたびらを着込んでいて、俺は抱えたまま一歩も動けなかった。


 馬車は四輪の二頭立てで見覚えがあるものだった。二頭なら休ませなくても遠乗りができる。長門が避難路ひなんろの確保を頼んだと言っていたが、もしかしたら鶴屋さんの馬車なのかもしれない。

 古泉は被っていたカブトを納屋の中に捨てて馬車に乗り込んだ。古泉の隣に朝比奈さんが座った。ぐったりと力の抜けたハルヒをシートに寝かせ、その隣に長門が座った。馬のくらにランプを吊るして俺が御者ぎょしゃ席に座り、なるべく静かにムチの音を立てた。


 三人とも黙したまま、なにもしゃべらなかった。俺は背中に重たい空気を感じてときどきふり返り、三人の表情をうかがったが、君主をなくした家臣と最愛の夫をなくした人でいったい何をしゃべれというのだろう。

「涼宮さん、よほど腹にえかねたんでしょうか……」

空気をなごませたかったのか沈黙ちんもくに耐えられなかったのか、古泉が独り言のように口を切った。

「これはすべてすでに起こったことで、僕たちは過去の歴史を見ているに過ぎないのに」

事実を口に出すことでなぐさめを得られることもある、とでも思っているのだろうか。口に出すことで痛みを深追いして気まずい空気を作ってしまっている古泉に、俺には黙っていろとは言い出せなかった。

「……厳密には、そうではない」

長門がつぶやくのが聞こえた。

「どういうことでしょうか」

「……無関係な周辺二国が同時刻に侵攻してくる確率は低い」

長門は冷静に情勢分析を展開しようとしているのか。それならそれでいい。この重たい雰囲気は俺にはどうしようもない。

「長門さん、やはりフランスとウェールズの間で裏取引があったと見るべきですか」

「アングレーム領およびリチャード一世のノルマン領地にも侵攻している」

「そのような全面攻撃になってしまっては打つ手がありませんね」

「……そう。この国には二面で戦うほどの兵力はない」

「これからどうなりますか」

「この国の王政が失われる可能性が高い」

「イングランドがなくなってしまうということですか。そのような歴史は聞いたことがありません……」

イングランドが消滅してしまう。俺は朝比奈さんの顔を見た。朝比奈さんは会話を聞いているのかどうか、無表情のままはるか遠くを見つめていて顔色ひとつ変えていない。

 長門は一息の間をおいて、

「……事象が既定事項から大きく乖離かいりしている」

乖離かいりということは、どこか特定の時点から別の流れに変わったのですか?」

「そう」

「その時点とはいったいどのあたりですか」

「……」

「わたしです」

黙っていた朝比奈さんが割り込んだ。「ごめんなさい、みんなわたしのせいです。気づいてたと思うけど、わたしはずっとTPDDなしでイングランドの歴史に介入する方法を考えていたの。いいえ、ジャンの生きている時間線を操作して自分をまぎれ込ませようとしていた」

朝比奈さんは二人とは目を合わさず、視線を遠くに向けたまま誰にともなくつぶやいた。なんとこたえればいいのか。その結果がどうなったかを考えれば、果たして同情するべきなのか迷ってしまう。

うかがってもいいでしょうか、マイレディ。フィリップ陛下がこのような動きに出たのは、それが関係しているのですか」

古泉にとっては今でも主君の妻なのだろうか、マイレディと呼ばれた朝比奈さんは黙ったままで、しばらく待っても答えなかった。代わりに長門が言葉をいだ。

「……歴史改変は手法を間違えると、対象そのものを破壊してしまう恐れがある」

「以前、長門さんは元の流れに戻そうとしていた、とおっしゃっていましたよね」

「そう」

そうだった。朝比奈ミクルの冒険in中世はそのために書かれたはずだ。

「その試みは失敗だったのですか」

「成功したとはいいがたい。歴史調整の結果はすぐに現れるものではないが、今回は別の要因だといえる」

「もしかして涼宮さんの能力が原因でしょうか。彼女も元の流れに戻すように動いているという話だった記憶があるのですが」

「……涼宮ハルヒの意図は元に戻すことでなく、ジョンスミスを消すことだった。でも結果的には改変を元に戻す力として作用した。それ自体は小さな変化だった」

「ちょっと待ってください、そうすると朝比奈さんと涼宮さん、そして長門さんがそれぞれ歴史に関与していたということになりますが」

「……そう。三相さんそう波源はげんがあり、それらが合波ごうはして一見しただけは分からない大きな波を構成していた。それが既定事項を大きく外れ、加えて、元に戻ろうとする大きな力が働いた。それが、今回の事象を引き起こしている」

俺は会話には加わらなかった。だが事の起こりから知っている俺は、長門が言っていることは理解できた。つまり、ジャン・ド・スマイトを手に入れるためになりふり構わず奔走ほんそうしていた朝比奈さんと、ジョンスミスを始末しようとしていたハルヒと、それらを元に戻そうと調整を図っていた長門。この三人の起こした改変がより大きなり戻しの波を引き起こしてしまった、ということだ。

「その、大きなり戻しの波というものの実態は何ですか」

「大きさも発生過程も不明。曖昧模糊あいまいもこなもので量子化できない。強いて言えば、その時代を支配する人間たちの思惑おもわく、支配される側の人間の欲求、偶然と必然による事象の連鎖れんさ、そしてそれらを入れ子とした波の集合」

いみじくも、俺は夜戦のセバーン川でハルヒが照らし出した、闇の向こうからせまり来る登り潮Tidal boreの姿を思い起こした。

「まさかそのような事態になっていたとは」古泉はため息をついた。

「……わたしたちは既定の流れに戻そうとする力をあなどっていた」

「長門さんには修復できないのですか」

「……すでに最終局面に達している」

「最終局面とはいったい」

「……イングランドは、消滅する」

長門はそれを朝比奈さんが原因だとはひと言も言わなかった。だが朝比奈さんの表情は固かった。会話はふり出しに戻り、それから三人は黙りこくったままひと言も発しようとはしなかった。


 馬車はあてもなく闇の中を走り続けた。小さな村を通り過ぎたあたりで長門が俺の脇に触れ、左の方をを指さした。そこは畑と畑の間にある細い畦道あぜみちになっていて、四輪馬車が通るのは無理があるように感じたが、俺は強引に馬をそっちに進めた。ゆるやかな坂を上り詰めたところに一枚の白いドアが立っていた。その脇で一人の女性がこっちを見てランプを照らしている。俺がゆっくりと馬車を止めると朝比奈さんはその女性にけ寄った。

「シスター……」

鶴屋さんは朝比奈さんとハリーを両腕で包むように抱きしめた。鶴屋さんの肩に持たれて朝比奈さんは肩を震わせて嗚咽おえつした。

「ミクル、つらかったんだね。あんたはなんにも悪いことはしちゃいないよ」

俺はくらからランプを外して辺りを照らしてみた。その場所にはなんとなく見覚えがあった。俺がこの世界に落ちてきたとき、たしかこの辺だった。そしてあのときもこんな風にドアがそびえ立っていた。

「シスター、このドアってたしか、」

俺が質問しようとすると、長門が俺の手を引っ張って、ドアノブに当ててぐいと引いた。そこには地面らしきものがなく確かに異空間だった。

「ブラザージョーン、説明してる暇がないんだ。早くそのドアをくぐって自分の国にお帰り」

「ここから、この地点から帰れるんですか」

まさか鶴屋さんが俺達の帰還手段きかんしゅだんを提供してくれるキーパーソンだとは思わなかったが、いや、もしかしたら長門が用意したのか。考え込んでいる暇はなく、鶴屋さんは朝比奈さんの背中を押してドアをくぐらせた。長門が鶴屋さんに一礼して中に入り、古泉がハルヒを抱えたままドアをくぐった。俺は右足を一歩踏み入れてふり返り、

「本当に、これで終わっていいんだろか……」

独り言が聞こえたのかどうか、鶴屋さんはいつもの八重歯やえばをちらりと見せ、親指を立てた。


── アスタラビスタ。


 そして静かにドアが閉じた。

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