三十三章
知っているかと思うが、俺達がこの国に落ちてくる二百年ほど前、伯爵の先祖であるノルマン人と地元のイングランド人が
だが待てど暮らせど対岸のノルマン軍は攻めてこない。とうとうやる気をなくしたのかと思った矢先に北からノルウェー軍が攻めてきて、こんなこともあろうかと待ち構えていたハロルドさんは、わずか四日でヨークシャーに北上し、これを撃破した。
それを待っていたかのようにノルマン軍が海峡を渡ってきた。ハロルド王は
イングランド軍は七千人、対するノルマンの軍勢六千人、戦力の差はほとんどなかったはずだった。だが退却すると見せかけたノルマン軍の
そのヘイスティングスで再び戦うことになろうとは、繰り返される歴史とでもいうのだろうか。今回の戦いで、もしイングランドが負けたりすれば王朝の
その日、ハルヒはしゃくしゃくと城の敷地を行進して警備隊ごっこをし、戦隊トマレとススメの運動会みたいなことをやっていた。最前線に出るとごねて暴れないだけまだマシかもな。今日はハリーの子守担当がちょうどハルヒで、
その晩のディナーは実に質素だった。暖炉の前の
俺はすくったスプーンを見ながら、
「なあ長門」
「……なに」
「大丈夫なのか」
「……」
なにを心配しているのかなにが不安材料なのか主語のない質問に、長門はすくいかけたスプーンを止めてちょっとだけ首を
「……分からない」
まあ俺としてはあんまり心配してるわけでもないんだが。やっぱりこの先の運命が気になるんでな。
「そうなる前に先に聞いておきたいんだが、最悪の場合はどうするんだ?」
「……最悪の場合、とは」
「たとえば、イングランドがこの戦争に負けるとかだな」
「……この事象の維持を終えるかもしれない」
「終えるって、閉幕ってことか」
「……そう」
それはもったいないな。今回の騒動は半分は海外旅行みたいなもんで、わりと楽しんできた俺だ。空腹を抱えて暴漢に襲われたり、ラテン語を覚えさせられて頭を
「なんとかハッピーエンディングにできないのか」
そこで長門はまた考える仕草をして、
「事象の実験においては、要素のパラメータの変更をする以外に意図的な誘導を行ってはならない。それがこの場のルール」
「よく分からんが……朝比奈さんはかなりルールを破ってる気がするし、長門自身も魔法っぽいやつを見せてくれたぞ?」
「……あれは魔法ではなく、この時代の人間の一般常識に準じた
エセ
「まあ錬金術と科学の区別がないからな。上の連中が納得してるならそれでもいいが」
「……思念体はむしろ
なるほど。イライラしながら仕事してる銀河系監視員か。俺達が無事に真エンドを
街の門も城の門も閉じたまま、守りはハルヒ小隊の約三十名のみだった。これで寝込みを襲われたら即アウトだろうなあなどと思っていると、深夜、といっても俺の腕時計では午後九時ごろだったが、神頼み的に就寝前の
「キョン、一大事よ!」
「なにがあった」
「昼間ね、暇だったから市内を
ロウソクに照らされたハルヒの顔が珍しく
「それで?」
「そしたらウェールズの商人が城門から続々と逃げ帰ってるって」
「それってもしかしたらイングランドを背後から襲うつもりなのか」
「分かんないけど、その疑いもあってチェプストーの城門は閉鎖、残った兵士を大至急かき集めてるって」
「それはヤバいな」
ハルヒの言うチェプストーというのは、グロースター城から西に六十キロほどのところにある
ハルヒは部下を集めて全員分の馬を出せと叫んでいる。
「おい待てどこに行くつもりだ、お前を戦闘に出すわけにはいかんぞ」
「うるさい、いちいち
部下を目の前にして修道士に
「お前が誰かを殺して、生まれるはずの人間がいなくなったらどうなると思うんだ」
「じゃああんたは、あたしたちのうちの誰かが死んでも問題ないってわけ?」
ううむ、正論で来やがった。俺達は舞台を外から見ているわけじゃない。転べば痛みを感じる
「とにかくだな、無駄な
「フン、理想論ばかり
俺の家族は未来にいて平和に暮らしてるわけで、たぶん武器を取って守らなければならないなんて事態にはなりそうもない。ハルヒの言う家族とはスマイト家のことを指しているのだろうか、こいつはもしかしたらイングランド人として人生を
「待て待て、俺もついていくから。朝比奈さんと長門に知らせてくるから待ってろ」
古泉がいればストッパー役に付けるところなのだが、しょうがない。城のことは長門に任せて俺が行くか。
礼拝服を脱ごうとする俺の表情がよほど
「心配しなくても血まみれの戦闘なんかにはならないわよ。住民を
「まあ、それなら安心なんだが」
この先どうなるかを案じている俺は上の空というかほとんど棒読みで
俺はハルヒに伯爵宛ての手紙を書かせ、ヘイスティングス本陣まで伝令を出させた。それからメイドさんに頼んで自室にいる長門を呼び出してもらった。
「長門、どうやらウェールズに
「……そう。気をつけて」
「朝比奈さんとハリーのことを頼む。いざとなったら魔法でも
「分かった」
情報統合思念体も朝比奈さんを守るためなら
その長門を連れて朝比奈さんの寝室に行くと、正装のまま、背筋を伸ばしハリーを抱いて椅子に座っていた。
「朝比奈さん、隣の国の動きが怪しいんで住民をロンドン方面に
「そうなの? 隣っていうと、」
「西のウェールズです。イングランドとは前から
「分かりました。城の関係者全員を通達に出しましょう。シスターにもお願いしてきます」
「俺とハルヒは国境に近い、セバーン川の向こう側の住民を
「ありがとう。長門さん、よろしくお願いしますね」
「……
見送ろうとする長門をそのまま部屋に残し、階段を駆け下りた。案の定ハルヒは待ちきれずに出払ってしまっていて、俺は
国境のチェプストー城からグロースター城まではゆっくり歩いても一日、ここが
暗闇の中で
「こらキョン遅い!」
槍と長剣、そして
「朝比奈さんに城の住民を
「だったら、その辺でまだ明かりがついてる家から住民を連れ出しなさい」
「どこに向かわせればいいんだ?」
「とりあえずディーンの森に逃げ込むように伝えて、イノシシとか鹿を食べてもいいから」
「よし、分かった」
伯領の森林資源を勝手に食ってもいいとか、通常ならありえんのだが緊急事態につきそこは
俺は今にも壊れそうな小作農の家のドアをノックし、うやうやしく十字架を
それから周辺の村の位置を尋ね、一旦ハルヒのもとに戻り、連れてきた兵士で手分けしてそれぞれの村に知らせてもらうことにした。ハルヒは兵士達が戻るまでここで待機、俺はこの村の住民が無事
村のメンツは子供を入れてだいたい五十人くらいだろうか。家財道具を乗せた荷車をガラガラと引き、あるいは馬に引かせ、ときどき泣き声が聞こえるが、
俺はまずご
修道院の聖堂に全員を入れてもらった。そこで静かに礼拝をやってもらうと怖がっていた子供もだいぶ落ち着いて静かになったようだ。荘園
村へ戻ると、腕組みをしたままのハルヒがさっきと同じ場所にいた。
「おい、そっちはどうだ」
部下の歩兵を全員馬に乗せるなどという
「全員戻ったわ。いちおう川からこっち方面の村には全部伝えたし、助かるかどうかは神のみぞ知るね」
ハルヒはチェプストー城へ兵士を二人
「戦闘が始まってたら、あいつら戻ってこれんかもしれんな」
「それも神のみぞ知るところよ。さあ、あたしたちはグロースターに戻って住民を
その神とやらは、すべてはハルヒ次第だと思っているようだがな。
俺達は馬をもと来た道へ向け、
帰りはセバーン川に沿った道を何の明かりもなく、ひたすら馬の目だけを頼りに進んだ。途中、道が川の土手の上に出てハルヒがはたと止まった。
「なんだ?」
「いや、なんでもない」
なんでもないと言ったがハルヒは馬を進めようとはせず、じっと川の音がする方を見ている。
「どうした」
「シッ、聞こえない?」
「なにが」
耳を澄ましてみるが草木が風にざわめく音しか聞こえない。
「遠くからなにかが近づいてくる音がする」
「風の音じゃないか?」
この辺の川岸には湿地が広がっているはずだが、当然真っ暗で対岸も水面も見えない。ハルヒは
「
布にロウを
ハルヒの目に一体何が見えていたのか、俺達は火矢の先になにがあるのか目を
「見えた? こんなところまで波が押し寄せるなんてありえないでしょ」
「そういや海岸はだいぶ西の方のはずだな」
セバーン川のグロースター付近から河口まで五十キロくらいはあるはずである。ハルヒは何度か火矢を放ち、そのたびに高波が押し寄せているのが見えて川の様子がおかしいことに気づいた。兵士の一人が、あれは
「あいつらそういう
「なんだ、どうしたんだ」
「見えたでしょ今一瞬! 船よ船、
たしかにキラリとなにかが光ったのは見えた気もするが、本当に敵兵が乗った船だったのだろうか。ただの輸送船じゃないのか。
「こんな夜中に
兵士が言うことにゃ、登り潮というのは満ち潮が高波になって川を
置いていかれた二十八人の兵士と俺は馬にありったけのムチをくれてハルヒに追いつき、グロースターの街へ戻った。橋を渡って街の中に入ると、
「キョン、城に行って、まだ残ってる
「
俺は城門まで行って、人を集めてくれるよう、なるべく力のあるやつを頼むと注文をつけて執事に伝えてもらった。門の前でしばし待つこと十分、執事が連れてきた二十人くらいの野郎どもはご
歩いて橋のところまで戻ったがハルヒはおらず、走り回っている兵士を捕まえて場所を尋ねると川の船着き場に行ったと言う。
「おいハルヒ、二十人で足りるか」
「よーし、キョンにしては
「いやまあ、その辺の男どもよりは頼りになりそうだから……」
また怒られて俺は
「まあいいわ。少なくともあんたよりは腕っ節が強そうじゃないの」
眉毛を寄せながらだが、今日初めて笑うハルヒである。
そのかき集められた二十人とハルヒ小隊の兵士二十八人に課せられたのは、船着き場に積まれてある丸太をかたっぱしから運んで橋の上から投げ捨てるという重労働だった。丸太だけではない。製材された木材をかたっぱしから投げ捨て、なるべく固めて捨てるようにという命令に、この労働にいったいなんの意味があるのかと皆が首を
あらかたの丸太を投げ入れると
「さあて、どう出るかしらね」
ハルヒは橋の
「キョン、どう見る?」
「どうって」
「船が丸太に邪魔されて進めなくなったら、どの辺で上陸するかしら」
「うーん。流れが
「あの登り潮、見た目はそんなに早くなかったわ。時速でいうと二十から三十キロってとこかしら。セバーン川はかなり
「防御の固い街に真正面から乗り込むほどバカじゃないだろ」
「じゃあ途中で上陸して歩くとして、
「敵将が歩兵をそれだけ歩かせるつもりがあるかどうか、ってところじゃないか。俺なら、なるべく行けるところまでは船で行くかもな」
ハルヒは腕組みをしたまま黙っていたが、やがて、
「よし、あんたの
「オイ待て待て、俺はズブの
ハルヒは自分の頭をツンツンと指さし「こういうときは直感ってやつが
「待て待て、俺達は城を守るよう言われてるだろ」
今さらなにを言っても無駄で、ハルヒは小隊の兵士全員を集め、疲れた馬に
二人を
道の途中で、曲がりくねった川が道のそばを流れているところで
それから暗闇の中を小一時間ばかし馬を進めたが何も現れず、もしかしたらすべてはハルヒの思い過ごしだったのかもしれんなあ、などと思い始めた頃、川の方からザバザバと波の音が聞こえてきた。
「静かに……静かによ」
実に運の悪いことに俺の馬が大きくいなないた。静かにつっただろと全員がこっちを
土手の上からの射的でこちらには有利だった。全く予期していなかったらしい
「
兵士たちはハルヒに続いて土手を駆け下りた。船に火がついて敵兵が飛び込んでいる。川の流れに沿って飛んだ火矢の下にぼんやりと浮かび上がったのは、長く続く小舟の船隊だった。だいたい二十
敵兵が舟から飛び降り、岸に生えている草をかき分けながら登ってくる。土手の上から矢を射るが暗くて標的が見えずほとんど当たらない。どちらも槍を構え腰から剣を抜き、ランプを持っている相手を目標に突進した。槍を払う音と剣同士がぶつかる音に火花が散り、真っ暗闇の中でどれだけの敵が押し寄せているのかも分からなかった。ランプが割れて燃え移ったのか誰かが火をつけたのか、枯れ草が燃え始めて戦闘の
俺の頭の中は完全に真っ白になりナノマシンもパニクってるようで言葉が出てこない。長門、助けてくれ。古泉、戻ってきてくれ。神様仏様アラー様、情報統合思念体の皆様この場を切り抜けさせてください、などと十字架を
俺は槍を
「おい待てったら!」やっとそれだけ声を
「邪魔すんな!」
ハルヒが目の前の敵兵におおきくふりかぶって
「殺すなハルヒ!」
俺は後ろから槍の
「邪魔すんなっつってんでしょうが、戦闘中に何考えてんの!バカなの死にたいの!?」
「俺はどうあってもお前に人殺しはさせられんのだ。せめて川に放り込むだけにしろ」
「死ぬかもしれない瞬間にそんな器用なマネできるかぁ」
ともかく敵兵を追い払おうと俺は槍を棒術のようにふり回し、足払いをかけて
「ぶん殴っても構わん!ただし殺すな!」
「殴って死んでもいいのか!」
「こまけーこたぁいいんだよ!」
それから俺はなるべくハルヒの脇を離れないように、ハルヒに切りつけられないように注意しつつ、敵兵の
ハルヒは
俺は腰の
そうしているうちに敵兵が続々と岸に上がってきている。俺も一人ずつ相手をして水の中に放り込むのだが、そいつらが泳いでまたもや陸に上がっている。
「やばいぞハルヒ包囲されないうちに逃げたほうが」
「ここまで来て
転がり突き倒され踏み荒らした足元の草の匂い、兵士たちの汗の匂い、そして血の匂いを
槍が折れた。俺は
「古泉くん!」
俺は一瞬ハルヒを見た。
ハルヒの視線を追うとそこにいたのは、
「危ない!」
突然俺の真後ろにいた敵兵を槍で突き刺した、馬上の古泉の姿だった。俺はとっさに身を
「帰ってきたのか古泉」
「ここは僕に任せてください」
「了解、おいハルヒ!引け引け、
「いーいところに現れたじゃないの古泉くん。でも敵はたったの一個中隊よ。
「なるほど、裏から街を襲っての陽動ですか」
「木材流しといたから川からの奇襲はもう無理ね」
古泉は一瞬だけ
「さずがは涼宮さんですね、
ハルヒはフフンと笑い、汚れた手で鼻の下をこすった。
「おい古泉、伯爵はどうした」
「チェプストーから伝令が来まして、援軍に行ってます。ここが片付いたら僕も駆けつけます」
「そうか。よし古泉、後は頼んだ。俺達は城に戻るぞ」
「おまかせを」
グロースター正規軍は圧倒的な戦力で敵を叩きのめした。川に放り投げ、武器を取り上げて
ハルヒと生き残った部下、数えて二十四人を城に連れて帰ると、街の外に出ようとする住民の行列が道を
俺達はなんとか城門を開けてもらって中に入った。ハルヒと兵士どもは腹が減っているらしく城の台所に転がり込んだ。俺は
「長門、戻ったぞ!」
「……おかえりなさい」
長門が水の入った
「
「……城の西側は
「よし分かった。城の使用人は家族の元に帰らせて、残りは俺達がやろう」
「……わたしも手伝う」
長門がベーコンサンドを用意してくれていたが、食ってる時間が
俺達は城から歩いて
「あれれブラザージョーンかい、ずっと探してたのに今までどこ行ってたのさ」
「すいませんハルヒにくっついて敵兵の侵入を防いでたもので」
「エッ、もう敵さん来てんの?」
「伯爵が伝令を受け取ったらしいので、たぶんチェプストー付近まで来てると思います」
「そいつぁたいへんだ、急がなくちゃ」
「後からハルヒも手伝いに来ると思います。兵士が二十人ばかしいるんで使ってください」
「あいよ! それよりちょっと困ったことになってんだけどさ」
鶴屋さんは隣の部屋で
「孤児ですか?」
「いやいや、この騒動で親とはぐれた
こいつらの親を一人ずつ探して歩くのはちょっと
俺は長門の表情を伺いながら、
「緊急事態だ、なんとか頼めないか」
「……了解した」
長門は一人ずつ子供にボソボソと話しかけて名前を聞き出し、頭をなでながら呪文を
「エエッ、どこいっちゃったのあの子達」
「えーと、たった今、親元に帰りました」
「ユキリナすっごいね! それって錬金術の一種かい? あたしも弟子入りしたいにょろ」
眼の前に突然降って
俺は今後も現れそうな迷子の担当を長門に頼み、
街道をロンドン方面へ逃げるように、朝まで
グロースターの街の門から外側にもいくつか農村の集落が点在していて、その辺はハルヒの部下が馬で走り回っているようだ。俺が通りに並ぶ家の住民を無事送り出した頃、ランプを下げた馬が駆けてきた。
「やっと見つけました!」
「古泉か」
「長門さんを連れて戻ってください、ロードシップが重体です」
「重体って、」
古泉は俺を
「チェプストーの城壁が破られました。我軍は
それだけ言うと馬を駆ってどこかへ消えていった。ヤバい事態だ、俺達は領主を失う。グロースターが敵の手に落ちればロンドンも危ない。
考えている暇はない。俺は息も絶え絶えになりながら駆け足で
「長門、伯爵が大
「……分かった」
「シスタークレインはどこだ?」
「……
修道女たちはすでにいなくなっており、俺は鶴屋さんに、行き先を書いた置き手紙をした。
兵士たちが戻ってきている最中で城門は開いていたが、血にまみれた仲間に肩を貸している者、地面に置かれた
俺は長門の手を引いて、兵士たちをかき分けて塔に入った。塔の中の通路にも大勢の負傷兵が寝ていて熱っぽい血の匂いが漂っている。階段を上がるとところどころに黒い血のかたまりが垂れていて、伯爵の部屋まで続いているのに気づいた。ドアの前に立っている番兵は俺達の顔を見て早く早くと
中に入ると寝室のドアは大きく開けられていた。ドアの脇にハルヒが立っていて俺を見ると口に人差し指をあてている。ドアの向こうには、自身も傷を負い包帯を巻いた騎士たちがカブトを脇に抱え、ベットの横に並んでいるのが見えた。皆に囲まれたベットの上には、髪が乱れ青ざめた表情の伯爵が目を閉じて横たわり、その右に手を握った朝比奈さんが座っていた。朝比奈さんの後ろには、血と油と泥にまみれた古泉が唇を噛み
俺は一歩進んで中に入った。
「朝比奈さん……」
「キョンくん、長門さん!」
朝比奈さんはすがるような目で長門を見た。
「
「運びこまれてきたときから意識がないの」
古泉が動かない伯爵を見つめたまま、
「チェプストーの城門が破られたとき、槍で
それを聞いて俺は痛くもない自分の
「傷は深いのか」
「分かりません。ただ、傷を負った後もずいぶん長い時間戦っていましたから」
ハルヒが壁にかけてあった戦闘斧をやおら取り上げ、
「もう我慢ならないわ、こうなったらあたしが指揮を
「
「船でウェールズに奇襲をかけるわ。この手で敵将の首を取ってみせる」
「待て……」
後ろで声がして俺達はふり返った。
「ジャン、気づいたのね!?」朝比奈さんが叫んだ。
「ミス・スズミヤ、皆を……連れて、あなたの時代に帰ってくれ」
伯爵は痛みに耐えるように、かすれた声でひと言ひと言を
「長門さん治療をお願い、血が止まらないわ……」
「だめだ」
伯爵が朝比奈さんの手を止めた。
「ジャン、このままだと出血多量で、」
「
「何を言い出すの、あなたが死んだらわたしはどうなるの!?」
「私は、この時代の
「ジャンお願い、わたしを置いていかないで」
「約束を……果たしてく……」
伯爵は宙を見つめたまま、握っていた手の力を抜いた。朝比奈さんはその手を
「長門さんお願い、このまま
長門は一瞬だけ
朝比奈さんはかつて伯爵と約束をしていた。伯爵は結婚を申し込んだとき、自分と領民のために尽くしてほしいと言った。そしてハリーが生まれたとき、城と領地を失うようなことがあっても、必ず生き延びてハリーを守ってくれと頼んだ。約束を果たしてくれ、とはたぶんそのことだ。
伯爵はかつて
領主の第一の使命は領民の明日を守り、
そしてたぶん、ここで延命しても、伯爵は自ら敵に
俺達が未来から持ち込んだ
「待て、長門」
俺が長門の右肩に手を乗せるのと、
「
古泉の低い声が響くのが同時だった。
長門は動かなかった。俺も動かなかった。息を止めた数秒間の後、朝比奈さんは真っ青になって伯爵にすがりついた。すがりついてむせび泣いた。何度も何度も名前を呼んで肩を震わせた。
俺の後ろに立っているハルヒはひと言も発せず、鼻をすする音すらせず、ただ俺の背中を押して、
「やることあるでしょ。最後を
耳元でボソリと言うのが聞こえた。
そうだったな。俺は伯爵の
敬礼をしたままじっと立ち尽くしていた騎士たちは、汚れた顔に大粒の涙の跡を流した。騎士団長が、これから
ハルヒが騎士達に向かって、
「たった今から
「おいハルヒ聞いてなったのか。交戦は終わりだ、
「まだ終わっちゃいないわよ。
ハルヒは持っていた斧をブンブンふり回しながら部屋から出ていこうとした。
俺が古泉の目を見ると軽くうなずいたので、
「長門、頼む」
「……了解した」
「ちょ、有希、なにする、」
長門がハルヒの首根っこに触れるとぐったりともたれかかり、俺は古泉にこれの面倒を頼むと指さした。少し強引だったがこういう事態だ、仕方あるまい。
ハルヒがやけに静かだとは思っていたが、自分だけリベンジを
だが朝比奈さんにとっては、その誓いが誰のためであれ、とても受け入れられるものではなかった。俺はベットに突っ伏したまま動かない朝比奈さんの肩に触れた。
「朝比奈さん、時間がありません。敵兵がやってくる前に城を脱出しないと」
朝比奈さんは顔を
「わたしはここに残ります」
「
朝比奈さんは顔を上げ、しばらく伯爵の
「そうね。残された者の義務……よね」
朝比奈さんは騎士団長に、一旦ロンドンへ
朝比奈さんはそのままの服装で、ハリーだけを抱いて自室のドアから出てきた。俺達もなにも持たずに、とりあえず
「……こっち」
長門が指さした方向についていった。台所を通り抜け、地下にある
そこからは
突然壁に突き当たった。通路が行き止まりになっている。かざしている
「おい古泉、行き止まりだぞ」
「上です、上に抜けられるはずです」
長いロープが壁に結び付けられており、見上げると高い天井から
俺は
俺は
馬車は四輪の二頭立てで見覚えがあるものだった。二頭なら休ませなくても遠乗りができる。長門が
古泉は被っていたカブトを納屋の中に捨てて馬車に乗り込んだ。古泉の隣に朝比奈さんが座った。ぐったりと力の抜けたハルヒをシートに寝かせ、その隣に長門が座った。馬の
三人とも黙したまま、なにもしゃべらなかった。俺は背中に重たい空気を感じてときどきふり返り、三人の表情をうかがったが、君主をなくした家臣と最愛の夫をなくした人でいったい何をしゃべれというのだろう。
「涼宮さん、よほど腹に
空気を
「これはすべてすでに起こったことで、僕たちは過去の歴史を見ているに過ぎないのに」
事実を口に出すことで
「……厳密には、そうではない」
長門がつぶやくのが聞こえた。
「どういうことでしょうか」
「……無関係な周辺二国が同時刻に侵攻してくる確率は低い」
長門は冷静に情勢分析を展開しようとしているのか。それならそれでいい。この重たい雰囲気は俺にはどうしようもない。
「長門さん、やはりフランスとウェールズの間で裏取引があったと見るべきですか」
「アングレーム領およびリチャード一世のノルマン領地にも侵攻している」
「そのような全面攻撃になってしまっては打つ手がありませんね」
「……そう。この国には二面で戦うほどの兵力はない」
「これからどうなりますか」
「この国の王政が失われる可能性が高い」
「イングランドがなくなってしまうということですか。そのような歴史は聞いたことがありません……」
イングランドが消滅してしまう。俺は朝比奈さんの顔を見た。朝比奈さんは会話を聞いているのかどうか、無表情のまま
長門は一息の間をおいて、
「……事象が既定事項から大きく
「
「そう」
「その時点とはいったいどのあたりですか」
「……」
「わたしです」
黙っていた朝比奈さんが割り込んだ。「ごめんなさい、みんなわたしのせいです。気づいてたと思うけど、わたしはずっとTPDDなしでイングランドの歴史に介入する方法を考えていたの。いいえ、ジャンの生きている時間線を操作して自分を
朝比奈さんは二人とは目を合わさず、視線を遠くに向けたまま誰にともなくつぶやいた。なんと
「
古泉にとっては今でも主君の妻なのだろうか、マイレディと呼ばれた朝比奈さんは黙ったままで、しばらく待っても答えなかった。代わりに長門が言葉を
「……歴史改変は手法を間違えると、対象そのものを破壊してしまう恐れがある」
「以前、長門さんは元の流れに戻そうとしていた、とおっしゃっていましたよね」
「そう」
そうだった。朝比奈ミクルの冒険in中世はそのために書かれたはずだ。
「その試みは失敗だったのですか」
「成功したとはいい
「もしかして涼宮さんの能力が原因でしょうか。彼女も元の流れに戻すように動いているという話だった記憶があるのですが」
「……涼宮ハルヒの意図は元に戻すことでなく、ジョンスミスを消すことだった。でも結果的には改変を元に戻す力として作用した。それ自体は小さな変化だった」
「ちょっと待ってください、そうすると朝比奈さんと涼宮さん、そして長門さんがそれぞれ歴史に関与していたということになりますが」
「……そう。
俺は会話には加わらなかった。だが事の起こりから知っている俺は、長門が言っていることは理解できた。つまり、ジャン・ド・スマイトを手に入れるためになりふり構わず
「その、大きな
「大きさも発生過程も不明。
いみじくも、俺は夜戦のセバーン川でハルヒが照らし出した、闇の向こうから
「まさかそのような事態になっていたとは」古泉はため息をついた。
「……わたしたちは既定の流れに戻そうとする力を
「長門さんには修復できないのですか」
「……すでに最終局面に達している」
「最終局面とはいったい」
「……イングランドは、消滅する」
長門はそれを朝比奈さんが原因だとはひと言も言わなかった。だが朝比奈さんの表情は固かった。会話はふり出しに戻り、それから三人は黙りこくったままひと言も発しようとはしなかった。
馬車は
「シスター……」
鶴屋さんは朝比奈さんとハリーを両腕で包むように抱きしめた。鶴屋さんの肩に持たれて朝比奈さんは肩を震わせて
「ミクル、つらかったんだね。あんたはなんにも悪いことはしちゃいないよ」
俺は
「シスター、このドアってたしか、」
俺が質問しようとすると、長門が俺の手を引っ張って、ドアノブに当ててぐいと引いた。そこには地面らしきものがなく確かに異空間だった。
「ブラザージョーン、説明してる暇がないんだ。早くそのドアをくぐって自分の国にお帰り」
「ここから、この地点から帰れるんですか」
まさか鶴屋さんが俺達の
「本当に、これで終わっていいんだろか……」
独り言が聞こえたのかどうか、鶴屋さんはいつもの
── アスタラビスタ。
そして静かにドアが閉じた。
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