三十二章

 俺達をハラハラさせた突発性言語野急発達症もようやく落ち着きを見せ、落ち着いたとはいっても名付け親の遺伝子、いや名付け親の意思を受けいで毎日トルネードを発生させているわけだが、三人のベビーシッタープラス乳母うばにがっちりとタッグを組まれ、ハリーも渋々しぶしぶ観念したようだった。


 大晦日おおみそかの晩くらいは寝ずにミサをやってやろう三時間ごとにロウソクをともし、大聖堂の新年のかね煩悩ぼんのうの数をオーバーラップさせ、はるか東の祖国に思いをせた。年は明けて一月。俺はなんとなく礼拝堂の入り口にお手製門松かどまつとしめなわを飾ってみた。古泉と長門が、なかなか風情ふぜいがあってええですなーという具合に感じ入っている。ハルヒはそれをチラ見しながら、俺達がいなくなるとしめなわに向かって柏手かしわでを打っていた。いっそのことハルヒ神社でも建ててやろうか。

 城内は、マナーハウスやギルドハウスから大勢の客がお年賀のあいさつに訪れ、寒いながらもにぎやかだ。俺達も謁見えっけんの間に立ち、深々とお辞儀じぎをした。

「マイロード、マイレディ、明けましておめでとうございます」

「修道士殿。明けましておめでとう。今年もよろしく頼む」

新年のあいさつは洋の東西、時の今昔こんじゃくを問わず共通である。


 粉雪の舞うある晩のこと、その日一日ガタガタと凍りそうになりながらおむつの洗濯を手伝っていた俺は、冷たい石の礼拝堂の隣にある自室のわらベットで、やれやれ忙しい一日がやっと終わった風味の心地よい疲れを味わいつつ、夢の世界へとちていこうとしていた。ドアを開ける音も足音もしないのに入口のほうからサラサラと衣擦きぬずれの音が聞こえ俺はゾクッと逆立った鳥肌とともに目を覚ました。

「ど、ドナタ?」

声変わり前の少年のような裏声で呼びかけると、

「……」

足音の主は、言わずとも分かると思うが長門だった。

「どうしたんだこんな夜中に」

夜中つってもたぶんまだ十一時くらいだと思う。長門はともしたロウソクを揺らめかせながらスルスルと足を動かさずに近づいてきたが、そのかわいらしいネグリジェをまとわれた神々こうごうしいお姿が妙にまぶしくて俺は何度も目蓋まぶたに焼きつけ、い、いやん、目をしばたいた。あ、あのー長門さん、この時代ではそんな悩ましいお姿は健康な男子には見せつけてはいけない決まりなんですよ。とくに誓いを立てた聖職者には。

「……侵入者の気配がある」

吐く息が白く曇っている。あなたが侵入者なのでは、とツッコミを入れるすきもなさそうな長門の深刻しんこくな表情だった。

ぞくか? こんな鉄壁の城に忍び込むなんて命知らずな奴がいるもんだな」

「……鉄じゃない、石」

俺は突っ込まれるすきだらけかい。

 俺は長門の手を引いて裏口から塔に入った。入口に立っていた番兵のひとりに、不審者ふしんしゃまぎれ込んでいるようなので古泉を呼んでくれと頼んだ。俺は壁に掛かっていた槍を一本抜いて杖代わりにした。もしかしたらなにかヤバイ目的で忍び込んでいるかもしれんのでな。


 廊下のカーテンの裏やトイレの中など、誰かが隠れられそうなところを逐一ちくいち確かめていると、廊下が交差しているところで突然槍の先をギュッと握られ、

「おおっと、あなたが武器を持ち出すなどいったいなにごとですか」鯨油げいゆランプをかざしている古泉と遭遇そうぐうした。

「長門が、誰かが忍び込んでる気配がすると言うんだが」

「了解しました」

古泉は即答でうなずいて、連れの番兵に寝ている全員を集めろと指示していた。

 古泉の命令で集められた眠そうな兵士たちには悪いとは思いつつ、それぞれが担当する場所に散っていく皆の背中を俺は頼もしげにながめた。俺は手汗でベッタリと濡れた槍を古泉に渡して、あとのことは任せることにした。まあ餅は餅屋というからな。

 二階の大広間でじっと仁王立におうだちをしている古泉の後ろでじっと待っていると、上の階から叫び声がした。三人は走って階段を登った。別に野次馬をする気はないのだが、もしかしたらものの瞬間を見物できるかなーなんて、不謹慎ふきんしんにも期待をふくらませている俺と長門である。

「サーコイズミ!ぞくです!何を持っているか分かりません。武器に気をつけてください」

どうやら伯爵の寝室に入り込んでいたらしい。部屋の鍵が開いていたので兵士の一人が不審ふしんに思って入り込んでみると覆面ふくめんのやつが襲ってきた。暗い部屋の中で三人がかりで取り押さえると、全身を灰色の衣装に身を包み背中に剣をした明らかにやばい客だったが、二本のつるぎと一本の槍に囲まれると抵抗することはあきらめた。俺たちが部屋の中に入ってみるとすでに後ろ手にしばられて取り押さえられた後だった。チッいいところは見逃したか、などと長門も思っていたに違いない。

「おい、伯爵はどこだ」

「ベットにはいません」

寝ているはずの伯爵がいない。枕を触ってみるが冷たい。

誘拐拉致ゆうかいらちが目的で、実はこいつはおとりだったとかいうんじゃないだろうな」

「全員で探しましょう」

古泉はお手柄の兵士三人の表彰もそこそこに、捕まえた容疑者を地下牢に引いていかせた。

 部屋の窓はきっちり閉まっているし忍び込めるような隙間すきまはないのだが、

「コイズミ殿、いったい何の騒ぎだ」

開いているドアから、眠い目をこすりこすりパジャマ姿の伯爵が現れた。かわいらしいナイトキャップを被っているがもしかしてそれは朝比奈さんのお手製ですか。後ろからその朝比奈さんも乱れた髪を気にしながら伯爵の影に隠れている。

「マイロード、今までどちらに」

「えーと、まあその、なんだ。妻の寝室にいたんだが」

ポッとほほを赤く染めるお二人である。

ぞくが侵入しました。すでに取り押さえて連行しています」

「ほう、ぞくとな。こんな田舎の城を狙う物好きがいるとは」

あなた悠長ゆうちょうに言ってますけどね、将来は一国の王様になろうかって人なのですよ。

「朝比奈さん!ハリーは?ハリーはいったいどうしたんですか!?」

誰も安否あんぴを尋ねないので俺が突然思い出して聞いた。朝比奈さんは考え込むような仕草をして、

「えっと、今日はたしか……」

「ちょっと伯爵!いったい何の騒ぎよ、ハリー坊やがせっかく寝付いたとこなのに!」

ドアを蹴って入ってきたハルヒがハリーを抱いていた。どうやら起こされて機嫌きげんを損ねたらしくわめくように泣いている。

「あら、涼宮さんが面倒を見てくれていたのね」

ハルヒとヘンリーのセットをほほえましくながめている朝比奈さん、あなたもまた悠長ゆうちょうな。

城中しろじゅうが蜂の巣じゃないの」

俺たちは別に速射砲で撃たれたわけじゃないのだが、蜂の巣をつついたような騒ぎと言いたいんだよな。

「もう大丈夫だハルヒ。正体は分からんが盗賊かなにかの一味が侵入したらしい」

「まったく盗人ぬすっとの一人や二人でこんな夜中に大騒ぎして! よーしよし、いい子ね。ハリー、あんたはケツの穴ちっさいこと言っちゃダメよ。盗賊なんてどこにでもいるんだから」

お前がその盗賊のボスだったわけだしな、などという突っ込みが脳裏に浮かんだらしい伯爵と朝比奈さんがしぶい顔をしている。

「どうだろうコイズミ殿、そのぞくとやらも捕まえたことだし、取調べるのは明日にして、今宵こよいはこの辺でお開きとしないか」

「そうですね。もう遅いですし」

やれやれ、一件落着か。なにごともなくてよかった。ハルヒは侵入者などはどうでもいいらしく、

「人騒がせな連中はほっといて寝ましょうねハリーちゃん。今度は演歌を歌ってあげようかしらねぇ」


 伯爵と朝比奈さんは元の寝室に戻るのがおっくうらしく、今晩はこっちの部屋で寝るとのことで、古泉がランプをテーブルの上に置き俺たちは部屋を出て行こうとした。ハルヒに抱っこされていたハリーがふつと泣き止み、天井の一角いっかく凝視ぎょうししている。不意に古泉がふり返り、

「誰かいます!」

と叫ぶのと天井から人影が降ってくるのとが同時だった。

「下がって!」古泉はつるぎの柄に手をかけたまま、抜く暇もなく咄嗟とっさに体当たりをした。降ってきた人影は部屋の端まで転がっていき、スクと立ち上がって自分の背中からなにかを取り出す。その手にはハンガーのような、なんだありゃクロスボウか!?引き金を引いて撃つ小型の弓である。伯爵に向けて照準を合わせた。古泉が気づいて起き上がろうとするが間に合わない。引き金をしぼる指が動き、つるがキリキリと鳴る。

 そのときの伯爵の表情は恐怖でも怒りでもなかった。長い騎士人生のあいだに染み付いたなにかの覚悟を浮かべ、ただし小さな無念さがにじむ。反射的に伯爵は朝比奈さんをかばって前に出た。引き金が引かれる音が壁に反射し、確かに俺の耳に届いた。クロスボウと伯爵の間に動く影があった。次の瞬間、長門が立ちはだかり空中の一点を凝視ぎょうししている。

 起き上がった古泉がつるぎでクロスボウを叩き落した。ぞくはさっき捕らえたやつと同じ服装をしていて、今度は短剣を抜いた。つるぎの長さで有利だった古泉があっさりと壁際に追い詰めた。つるぎの切っ先で腹を刺そうとしたが、考え直したのか首根っこに刃を当てて動きを止めた。

「おい長門!!」

俺は長門に駆け寄った。空中のなにかをにぎめる仕草で固まっていた長門が手を開くと、小さな矢の先を握っていた。やれやれ、いつだったか、あのときもこんな感じで長門に助けられたんだったな。

「大丈夫か」

「……問題ない」

俺のときのように胸に穴が開いたり手のひらが焼け焦げたりはしていなかった。長門が指先でつまんだ矢じりには、なにか黄色い液体のようなものが塗られていた。たぶん毒だろう。

「ミス・ユキリナ、大丈夫か。どこかに矢が刺さったのでは」

「長門さん、怪我けがは?」

「……大丈夫」

「まさか二人目がいたとは。もしかしたら三人目がいるかもしれません。城内をくまなく探させます」

「カ、カッコイイわっ」

一部始終をリアルに間近まじかで見ていたハルヒが目をハート型にしている。

「いえいえ、僕はつとめを果たしただけです」

肝を冷やしたプチバトルシーンにもかかわらず余裕よゆうのスマイルを見せる古泉を押しのけ、ハルヒは壁に押し付けられている侵入者に向かって、

「あんたアサシンよね、すっごいじゃん。どうやって忍び込んだの?壁登ったりできんの?二刀流できる?」

「敵をめてどうすんだヲイ。かっこいいって古泉のことじゃなかったんかヲイ」などと意味もなくダブルツッコミをする俺である。

「うっさいわね、これこそニンジャよニンジャ。忍びの道に生きる者の志は西洋も東洋も同じなのよ」

ハルヒの脳内ではたぶんフードを被ったなんとかローグみたいなキャラを妄想しているのだろうが、忍者がいつでも黒装束くろしょうぞくを着ているというのはファンタジーで、本物の忍者はなるべく市民にまぎれて隠密おんみつ行動を取るわけで、あんな目立つかっこうのやつはいないそうだぞ。

 ヒーローキャラを捕獲ほかくしてすっかり目ん玉キラキラなハルヒだったが、急にあごを突き出してヤンキーの顔になり、ハリーを抱いたまま下からぐいとぞくを見上げ、

「んで、誰に雇われたのあんた、あぁん?」

真顔でペシッとひっぱたいた。子持ちのヤンキーの姉ちゃんみたいになってるぞ。

「おいハルヒ」取調べはお前がやることじゃないだろ、と言おうとしたのだが、

「言わないとネズミの入った樽に頭だけ突っ込んで頭の皮から少しずつ食べさせるわよ」

どこの国の拷問だそれは。妙にビジュアルが浮かんでなんか吐きそうになってきた。

「フィリップ陛下だ」

なんかあっさり吐くなこいつ。耳の中にナメクジを入れるとか針の山を歩かせるとかやんなくていいの? 顔をブンブンと横に振っているが。

「いいこたえだわ。罰をげんじて、ネズミじゃなくてゴキブリにしてあげる」

「フィリップ陛下のご命令だ。成功報酬せいこうほうしゅうは十マルクだった。それで家族が楽に暮らせるはずだった。いちばん下の子はまだ一歳になっていない」

十マルクっていやあ十三シリング、日本円だと四百八十万だぞ。相当な金だぞ。ところがそいつの顔を見ると、自分は何も言っていないという風にブンブンと首を振っている。なんか長門の口元が微妙に動いてるのだが気のせいか。

「あのー、長門さん? あなたはいったい何をとなえてらっしゃるのでしょうか」

「……今のは、腹話術」

いや、こういうところで声が遅れるなんとか堂みたいな技を披露ひろうしなくてもいいから。まあハルヒにバイオレンスなまねをさせたくないのは分かるが。

「ふーん。リチャードが捕まったときもおかしいと思ってたけど、そういうことなの」

「なにがそういうことなんだ?」

「キョン、いくら寝ぼけてるとはいえちょっとは頭使いなさい。古泉君に説明してもらうばっかりじゃ話についていけないわよ」

くっそ古泉に聞こうと思ったら先に釘を差された。伯爵が口を開き、

「まさかフィリップが直接手出ししてくるとはな」

伯爵は、忍び込んだのがただの盗賊ではなかったことを知り、はじめて怒りの色を見せている。フィリップというのはフランスの王様で、十字軍遠征のときにも出てきたが、うちの王様とレオポルトと一緒に戦った盟友である。

「しかしなんであなたが狙われてるんです? 王様ではなくて」

「リチャード陛下が誘拐されたとき、フィリップは陛下を亡き者にしようとしたのだ。イングランドの貴族を分裂させ、何人かを抱き込んで王位継承権おういけいしょうけんを主張するはずだったのだろう。ところがミス・スズミヤと皆さんの力で陛下を助け出すことができた。フィリップは私がそれを命じたと考えているに違いない。この分だと……おそらく陛下も、」

言いよどんで固い表情に変わり、

「コイズミ殿、急ぎウェストミンスターに伝書を出してくれ。それから町の入口に番兵を増やして警備を強化するように。今後もこういう事態が起こるやもしれん」

「かしこまりました」


 伯爵は書斎に入り、残されたメンツはヤバかったけどかっこいいシーンを見たことに満足しつつあくびをしながらそれぞれの寝室に戻っていった。俺たちはこれがもっと大きな何かの前触まえぶれだということに、そのときはまだ気づいてはいなかった。


 アサシンを撃退してからというもの、伯爵の指示により街の警備が格段に厳しくなった。いたるところに兵士が立っているし、見慣れないやつがまぎんでいないか住民の顔をいちいち覚えている感じだった。あれ以来ぞくが押し込む気配はないが、その効果あってか、泥棒もスリも一気に減って治安はよくなったようだ。


 グロースターだけではなくて、ロンドンや周辺の州も兵士の移動も多くなった。武器も兵士の数も増強されていて、庶民の間では、どうやら戦争が近いらしいとのもっぱらの噂だった。

 そんなピリピリした空気が続く、三月のとある日曜日。午前中はずっと城の礼拝堂でミサをやっていて、俺は昼からハリーの昼寝に付き合うことになった。街の中というか城そのものの警備がやたらと厳しく、建物の出入りにまでいちいち門番のチェックが入るようになって顔パスでの素通りがかない。古泉の提案する有事ゆうじにおけるセキュリティレベルとかで、日本語でいうところの厳戒げんかい態勢らしい。そんな殺伐とした空気を読んでか知らずか、ハリーは常時ぐずっており、おっぱいも新品のおむつも機嫌を直してはくれなかった。ハルヒまでもがよろいを着込み意味もなく城内を練り歩いていて、妙に息苦しさを覚えた俺は気分転換に鶴屋さんちまで散歩することにした。


 俺はスペアのおむつセットをカゴに用意し、修道服の上からハリーをおんぶして、ヒモをたすき掛けにしてしばり、爆弾を抱えた聖戦ジハード兵士のようなかっこうで産院まで歩いた。長門も誘おうかと思ったのだが昨晩ハリーの授乳じゅにゅうを完全徹夜で敢行かんこうしていたので、昼寝をしているかわいい寝顔を呼び起こすもなんだしと、そのままにして出てきた。


 乳母うばに朝比奈さん宛の伝言を頼んで城の外に出た。出たとたんハリーは無言の業に入ってしまい、俺はときどき手のひらをなでて把握はあく反射があるか、ちゃんと生きているか反応を確かめなくてはならなかった。

「おーいハリー、誰もいないときはしゃべってもいいんだぞー」

あれだけしゃべるなと釘を刺されたのに今頃なにを言ってんだと、怒ったらしいハリーは大きな音でお尻の穴から返事をした。背中から得も言えぬかぐわしい香りが漂い、またつまらぬことを言って不幸を呼んでしまったなとブツブツ愚痴ぐちをこぼしながら教会の門をくぐった。聖堂教会の助祭じょさいが鼻をつまみながらさっさと行けという仕草をしている。

「ちわっすシスター」

「おおぅ、ブラザージョンにハリーちゃんかい」

産院の部屋に入るといつもの修道女コスプレの鶴屋さんがいた。

「ちょっとハリーが鼻水垂れてるんでてもらっていいですか」

「ふーん、鼻水ねえ。どれどれ」

鶴屋さんはハリーのおむつを替えながら、

「熱もないし、問題ないっさね。そんな気にしなくてもいいと思うよ」

「そんなもんですか」

「赤ちゃんには自浄する本能があっからね。やれ乳吐きだゲップだやれ鼻水だと神経質になるこたあないよ」

「なるほど」

ハリーは鶴屋さんの前では常におとなしい。俺のときは例の新生児スマイルとやらを行使し足をバタバタやってなかなかおむつをさせてくれない。

「もうしばらくここに寝かせといていいですか。今ちょっと帰りづらい雰囲気でして」

「いいよ。ハリーちゃんも少しピリピリしてるみたいだけど、なんかあったのかい?」

赤子をただけで城内の様子が分かるとは、さすがだな。

「ええっと、実は、」と俺は事情を明かしていいものか迷ったが、「ええと実は口止めされてたんですが、少し前にぞくが入りましてね」

「ほーう。ぞくって、ミクルみたいなパラリロパラリロ走ってるやつかい?」

それは族違いでしょう、ってなんでそんなネタ知ってるんですか。

「ノルマンディからわざわざお越しいただいたらしいです」

「そりゃたいへんだ、フィリップ二世の陰謀かね。無事なんだろうねロードシップは」

「ええ。敵は二人いたんですが、古泉と衛兵が捕まえました」

ぞくと聞いてすぐフィリップの名前が口から出てくるとは、さすが情報通だな。

「あたしの知らないところでそんなことがあったなんてねえ、なんだか物騒ぶっそうになっちまって。噂じゃ、また戦争でも起こるんじゃないだろうかって話だよ。あーやだやだ。ミクルは無事だったのかい?」

「ええ、すぐにとっ捕まえたので、誰も傷ついたりはしませんでした」

「こういう時代だし、母子だけでもどこかに安全な場所に避難ひなんするとかできるといいのにねえ」

「どこかって、どこにです?」

「だから、たとえば実家とかさ」

とはいっても、朝比奈さんの実家はずっとずっと未来のどこかで、この国のこの時代にいること自体が旅の途中みたいなもんだからなあ。

「まあ今は里帰りは無理ですかね」

「なんでさ、馬車と従者だけ連れてさくっと帰りゃいいじゃん」

「それがその……レディシップの実家はかなり遠いんです」

「遠いってペルシアあたりかい?」

一瞬だけペルシャ風のコスプレをして半月刀をふり回す朝比奈さんが浮かんだが、

「いえ、もっとその、地理的にではなくて……」

微妙に話題がまずい方向に行きそうなのでモゴモゴとごまかした。

「ブラザージョーン、前から聞いてみたかったんだけどさあ」

「な、なんでしょうか」

俺はビクっと身構えた。こういうモノの尋ねられかたをするときは、たいてい禁則事項に抵触する。

「キミタチ、どっかに行っちゃうのかい?」

「な、なぜまたそんな唐突とうとつな」

「なんていうかさあ、足が地に着いてないっていうか。あたしはここで生まれ育ったから分かるんだけど、五人ともここで暮らしてるのに安心感がないんだよね」

「そうでしょうか。俺的にはわりと閑雅かんがな暮らしぶりな気がしますが」

「地中海から帰ってきたときも、ミクルが結婚して城に入ったときも、ハリーが生まれたときもだけど、なんだかいつも義務感を背負っててさ。自分ちだとそこで守られてる安堵感あんどかんがあるはずなのに、五人ともどこか別のところに家があるって感じがするんだよねえ。ま、あたしの気のせいかね」

なんというか、鶴屋さんはどの時代にいてもするどいお方だ。このお方の立ち位置はなぜかいつもバックヤードというか、縁の下の力持ちというか、それでいて大事なところはおさえていて、フォローの時と場所を心得ている。困ったときはいつも頼った人生の先輩である。

 そんな鶴屋さんに隠し事をする意味もなさそうだし、いずれは朝比奈さんの口から伝わることになるかもしれない。

「シスターには言っといたほうがいいかもしれません。俺たちは、というかミス・スズミヤはある目的でこの国に来たんですが、それにくっついて来たのが俺たちでして」

「ほうほう」

「それもどうやら目的を達したようなので、そのうち元いたところへ帰ることになるかもしれません」

「なーんだ、やっぱりそうなんだ」

「でもレディミクルが結婚して子供まで出来てしまうとは、まったくの想定外でして」

「ハルにゃんが帰るとすると、ミクルも実家に帰るのかい?」

「分かりません。どうやったら帰れるのか、一度帰ったら戻ってこれないような場所なので……」

「ふーむ。そいつは困ったね。ミクルの故郷が海のはるか向こうだったとはね」

「海じゃありません。時の向こうです」

俺は修道服の袖に隠していた腕時計を出してみせた。

「な、なんじゃこりゃあ!ブラザージョーンがまさかのイタリアンだったとは」

突っ込みどころそこですか。

「これは時を計る機械でして、俺たちはずっと未来の、今から数えるとたぶん八百年くらい後に生まれるはずの人間なんです。そこから伯爵を訪ね求めてやってきたわけでして」

「へえー、そんな遠い国からわざわざねえ。ロマンだねえ」

「ロマンというか、こないだハルヒが決闘騒ぎを起こしたでしょう。あれが目的だったらしくて」

「あはははっ、宿命の対決かね。ハルにゃんらしいや。それで、ミクルの実家ってどんな国なんだね?」

「どんなというか、便利にはなりましたね。馬より早く走る車とか、遠くにいても話ができる小さな箱とか、絵も送れます」

「へえええ。時を旅するのもそうなのかい」

「いえ、それはまだまだ先みたいです」

「先って、この小さな機械でいうとどれくらいなんだね?」

「えーっと、どれくらいでしょうね。俺にもよく分かりませんが、その短い針が二百万回くらい回ったくらい、でしょうか」

鶴屋さんはぐるぐると回る時計の秒針を必死に目で追い続け、

「ブラザー、あたしゃなんだか頭痛がしてきたよ。この動いてる針はいったいいつ止まるんだい」

そう、止まってくれればいいんですけどね。

「レディミクルは俺たちよりずっと先の時代の人なんです」

「ほええ。あんな素朴な子がねえ。未来でも人間は変わらないもんなんだね」

「たぶん中身はなにも変わってないと思いますよ。泣いたり笑ったり、怒ったり喜んだりは相変わらずです」

「じゃあ、誰かにれるってのも同じなんだね」

「それがレディミクルには、恋愛しちゃいけないっていうルールがありましてね」

「なんでさ?誰を好きになろうが本人の勝手じゃん」

「この時代は俺たちにとってはすでに過去になっているんです。俺達のうちの誰かが、この時代の誰かと結婚してしまうと、生まれるはずの人が生まれなかったり、いないはずの人が突然現れたりするわけで」

「うーん。難しいことはよく分からんけどさ。ミクルにとってはすでに過去の話かもしれんけど、伯爵にとっては現在進行中なんだよ。少なくとも、ここにあるもんは」

と言いながら、鶴屋さんは左胸をトントンと叩いた。

「ですよね。目の前でレディミクルがすんなり結婚して家庭を持ってしまうと、そういうもんかなーと考えたりもしたんですが。でも未来にも家族を残してきてるはずで、俺たち全員が未来での人生を中断したままだし」

「ふーむ。どっちの人生を取るか。確かにミクルにとっては重い選択だったかもね」

「そしてその選択はまだ決着がついてないんじゃないかと」

「というと?」

「帰るときがきたらどうするつもりなのか、レディミクルからまだ何も聞いてないんです」

「なるほどねえ。五人のなかでブラザージョーンはみんなの世話役なんだね」

「え、まあ。そういうもんかもしれないですね」

尻拭しりぬぐいともいいますがね。

「ブラザー、心配しなくてもいいさ。もしものときはあたしがミクルの面倒をみるっさ。それがあたしの使命みたいな気がするんだよね」

「その言葉、レディミクルが聞いたら泣いて喜びますよ」

「あははは。面と向かってそんなこと言えないさね、二人とも恥ずかしいよ」

鶴屋さんは照れ隠しなのか俺の頭をぺしぺしと叩いた。いやいや、あなたのさりげない優しさには、朝比奈さんはいつも感謝してると思いますよ。

「でも、あんまり幸せそうにしているレディミクルにどうするつもりなのか聞くのも、なかなかタイミングがつかめなくてですね」

「あたしは思うんだけどさ、ミクルが結婚したときにすでに心積もりは決まってるんじゃないのかな」

「心積もりというと?」

「この人となら一緒に死ねる、って覚悟さ」

「覚悟……ですか」

俺の脳裏には、小さくグーを握って宇宙人長門ユキとの最終対決に臨む、未来人ウエイトレスの姿がかすかによぎった。

「覚悟がなきゃ、わざわざ戦場まで会いに行ったりしないって」

「まあ、レディミクルがずっと葛藤かっとうしてたのはなんとなく分かります」

「それによく言うよね、愛があれば時間差なんて」

それは年の差じゃないかと。


 俺と鶴屋さんの、未来や結婚や運命論みたいな込み入った話もハリーには興味ないようで、うつせたままスヤスヤと眠っている。隣の部屋から看護師さんが呼びに来て、鶴屋さんがトコトコと歩いていく足音を聞きながら、なにかヒントをもらったような気がして、俺は鶴屋さんの言ったことを頭の中で反芻はんすうしていた。


 三時のかねが鳴る頃、外から馬のひづめの音がして古泉が駆け込んできた。

「ここにいらっしゃいましたか、今すぐお戻りください」

よほど急いでいたとみえて息も絶え絶えの古泉だった。いつもの華麗かれいな貴公子の服ではなく今日はゴテゴテした甲冑かっちゅうを着て腰につるぎを下げている。

「どうした古泉、なんだその格好は出征しゅっせいでもするのか」

「ことによるとそうなるかもしれません」

「って、まじで始まったのか!?」

「リチャード陛下からの特使で、対岸に軍が結集しているという知らせがありました」

「対岸ってフランス側?」

「その通りです。イギリス海峡を挟んだカレー海岸に軍勢が押し寄せています」

刺客しかくをよこすなんざぁずいぶん物騒ぶっそうな話だとは思ったが、あれはただの外交的あいさつみたいなもんで、まさか本気じゃないだろうとたかをくくっていた俺だった。まじでやる気だったのかフィリップとやらは。

「古泉も前線に出るのか」

「ええ。配下の兵士を連れて行きます」

「そうか。無傷じゃ済まされんな。けど、にらみ合ったまま終わるってこともあるわけだよな」

「どうでしょうか。一度軍を召集したからには、なにがしかの手土産がないと武将たちの気持ちの治まりがつかないものですから」

神の名を借りて遠征の次は貴族同士の小競こぜり合いか。やれやれ。


 俺は鶴屋さんに急用ができたから城に戻ると告げて、ハリーを抱っこして産院を出た。古泉は城には戻らず、ほうぼうの村のマナーハウスを巡回して非常呼集ひじょうこしゅうのお触れを出して回るとのことだ。


 城に戻ると重装備の兵士が忙しく走り回っている。騎兵のほかに槍兵、大勢の弓兵きゅうへい、イングランド独自のロングボウとかいうやつ、それからクロスボウの一隊もいる。俺は通りすがった、新品のよろいを着ている兵士を呼び止めた。

「おいちょっと、そこの新兵くん」

「な、なんでやんしょうブラザーの旦那だんな

「教えてくれ、どこに行くつもりなんだ?」

「ええっと、ドバドバ海峡とかいう海だと聞いておりやんす」

「そうか。勝てそうなのか?」

「まっかせてくだせえ、英国の興廃こうはいこの一戦にあり。荒波をかき分けギッタギタのメッタメタにしてやりまっさあ」

「ほーう。イングランドはいつから軍艦なんか持つようになったんだ?」

「ハウッ、き、去年くらいからじゃないっすか旦那だんな

「近頃じゃ鉄カブトに黄色いリボンを付けるのが流行ってんのか」

「な、なに言ってんで旦那だんなぁこいつぁうちの隊の紋章でさ」

「紋章つったらその、お前が抱えてるサナダムシがのたくったみたいなペナントだろ」

「やだなぁサナダムシだなんてグロい話は。こいつぁグロースターの由緒ゆいしょ正しい騎士のもんでさ」

「あきらめろ。お前を戦場に出すわけにはいかん」

バレてないとでも思ってたのかこいつは。カブトを脱ぐとハラリと髪がこぼれキリリと吊り上がった眉毛が現れた。目ン玉のキラキラ度がクリスタル並だ。

「チッ。団長自らみんなのために戦おうってのにい。ひらの取締役のくせに何の権限でそんなこと言うわけアンタ」

取締役っていうかまあ、俺はお目付け役みたいなもんだしな。これも仕事だ。

「っていうかその鉄カブは朝比奈さんの元カレだろ」

「元カレなんて人聞き悪いわね、身代わりと言いなさいよ」

朝比奈さんが枕にカブトをかぶせて抱いて寝てたのをなぜか俺は知っているのだが。


 グロースターで現役の士官をやっている騎士さん以外に、普段は領内の田舎で荘園管理を任されている退役した騎士さんたちが馬を駆って城に集まってきている。馬を降りて長剣を腰に下げると首を何度か回してポキポキと関節の音を鳴らし、オホンと咳払いをして存在をアピールするや、群れていた若い兵士がささっと道を空けるなど老練の貫禄かんろくを見せている。つかつかと伯爵に近寄ると大声で家内安全お家安泰いえあんたいを述べているが、石で出来てそうなごつい手で握手を求める爺さんどもに伯爵も苦笑しつつ出征しゅっせいを歓迎している。

 積もる話は後で、と爺さん達を客室に追いやり、伯爵はよろいの群れの中で一人だけ違う格好かっこうをした俺の姿に気がついた。俺はハリーを抱っこしたまま鎧装備よろいそうびの伯爵に近づいた。

 伯爵は両手の革のグローブを外して我が子を抱きかかえ、

「修道士殿、聞いたとおりだ。出陣することになった」

「本当にはじまっちゃうんですか」

「私にも分からない。リチャード陛下は極力開戦をけるよう最後まで交渉されるはずだが」

「グロースターの経済はかなり苦しいですから、なるべく……」

俺には外交のことは分からんが、州の財務担当者らしく苦言をていすると、

「まあ、イングランド全土がそういう状況だな。経済が行き詰まるとそれにつけ込んで隣国が攻めてくる。今回のように」

いつものことさ、という具合にハリーのほっぺたをプニプニと指でつついている。

「フィリップさんがうちの王様の身代金みのしろきんを要求したとき、頭のなかにはすでに開戦があったんですかね」

「そう考えていいだろうな」

「でもまさか全軍を投じてまで領地を欲しがるとは、背後から別の国に狙われるリスクを犯すだけの価値があるんでしょうかね」

「それがだな、フィリップだけではなさそうなのだ。十字軍遠征のいさかいの発端になったレオポルト公と、あのときリチャード陛下を監禁したハインリヒ六世も背後にいる疑いがある」

「背後を固めての連合軍ってことですか」

「そのようだな」

この三人は十字軍のときの同盟軍だ。つまり今回の敵はフランスとオーストリア、そして神聖ローマ帝国の連合軍ってことになるのか。これは困った。

 どの国の王様も貴族もだが、どうやって自国の経済をうるおすかばかりを考えていて、チャンスとあらば領地の強奪ごうだつなど日常茶飯事でやっているのである。加えて、褒美ほうびをおねだりする家臣にもたまにはオコボレをやらないと造反ぞうはんして寝首をかかれることになりかねない。さらには、大金を投じて養っている兵隊をたまには使わないと無駄金むだがねを使っていることにもなる。

 なので、これが必ずしも全面戦争になるというわけではなさそうだが、なるべく穏便おんびんに平和的解決をしてもらいたいものだ。

 そこへ古泉が呼びに来た。

「マイロード、会議が始まります」

「分かった、すぐ行く」

俺は伯爵からハリーを受け取り、後ろ姿に向かって小さな右手を振ってみせた。

「どうだハリー、よく見ろ。お前の親父はなかなか頼もしいだろ」

ハリーはなにもこたえず、舌を出してブーブー言っているだけだった。


 ハリーの母親を探しているのだが、出陣の手伝いに奔走ほんそうしていてどうやら子供の世話どころではないらしい。参謀会議さんぼうかいぎに朝比奈さんも出席しているらしく、二階の大広間に歴戦のツワモノ達と席を並べている。俺はハリーを抱いたまま大広間の外で待っていたが、やがてドアが閉じられ、二人は閉め出された。

 もしかしたら出陣前に祈祷きとうを頼まれるかもしれんなと気づき、俺は礼拝堂に戻ろうとした。背後で突然ドアが開いて、

「修道士殿、よろしかったら同席してもらえないだろうか」

「え、俺がですか。戦術とか戦場のことはあんまり、」

職業柄まったく不慣ふなれでしてと頭をいたのだが、開いたドアの奥かられる朝比奈さんの視線と遭遇そうぐうしてしまい、御前ごぜんに参れと手招きする仕草と有無を言わさぬそのするどい目つきにはどうやら逆らえそうもなかった。

 俺は乳母うばにハリーを渡し、昼寝のためにベットに連れて行ってもらった。


 大広間に入るとすでに長門も呼ばれていて、俺は肩に触れてその脇に座った。

「長門、ただいま」

「……おかえり」

非常呼集ひじょうこしゅうとか人生で初めてだぜ。俺軍事関係はぜんぜん素人しろうとなのにな」

「……」

少し微笑ほほえんで見える長門は初めてではなさそうだな。

 会話が聞こえたのかどうか、

「修道士殿、不慣ふなれでも構わない。今回は国難に相当する事態だ、貴重なご意見をたまわりたい」

「会議に参加するのはまったく構わないんですがマイロード、そこにいる古泉と、俺とユキリナが参加してるのに一人だけ呼ばれてないとなると後でごねそうなやつが約一名ほどいまして」

「ああそうか、それもそうだな」

後始末に手を焼く俺の苦労を察してくれたようで、ドアの前にいる衛兵に頼んでハルヒを呼びにやってくれた。どこかその辺で兵士とたわむれているのだろう。

 部屋の真ん中には、いつも皆で飯を食っている長方形のテーブルではなく大きなドーナツ型のテーブルが置かれている。おお、これぞ円卓会議か、などと感慨かんがい深くうなずいている俺と長門である。椅子に座っている騎士さんたちの空気はやけにピリピリしていて、さっさとはじめてくれないかとイライラしているようだ。スイマセンスイマセン俺達黙って聞いてますんで。

 十分ほど待たされた後に、ガシャガシャとよろいを引きずる音と共にドアが開き、

「もうあたし忙しいのになんなのいったい何の呼び出しなの! なんで皆でにらみつけてんの、なななななんで鍵を閉めるのよ!」

階級章やら勲章やら肩章けんしょうやらをゴテゴテと飾り付けた、お前はこれから軍事パレードでもするのかと突っ込まれそうなお祭りコーディネートのハルヒが、及び腰で両の手を口元に当てていつぞや見たようなシーンを再現している。

「お黙りなさい」

朝比奈さんがぴしゃりと一喝いっかつして黙らせた。


 伯爵が手招きして端の椅子を指さすが、そこには座らず、招かれざる客のハルヒは堂々と真ん中の椅子に割り込んだ。俺と長門は壁際の椅子にちじこまるようにして座っている。

 朝比奈さんは上座かみざの、伯爵の隣に座っていた。黒くくすんだ鎖帷子くさりかたびらの群れの中にぽつんと、なんだか物々しい野獣の群れの中の紅一点こういってんな感じである。

「では、先ほどの続きだが、」

この即席会議室にはパネルもホワイトボードもなく、無論プレゼン資料などは配られていない。伝えられたことは各自ですべて記憶しなければならんようだ。

「先ほどの続きだが、敵の船団のほとんどはカリーの港を出たとのことだ」

「こっちの迎撃地点げいげきちてんは?」

「敵の上陸地点がおそらく、ヘイスティングス海岸だろうと見ている。つまりそこになる。過去にあったからな」

「敵の規模は?」

「歩兵にしておよそ八千、多くても一万だろう」

「こっちの戦力は?」

「その半分だ」

黙ってろと目で制するのも効かず、いちいち質問をさしはさんでいたのはすべてハルヒである。

「半分って……ぜんぜん勝ち目ないじゃないの」

「正直に言おう。我々は戦力から言っても最初から不利だ。ノルマンコンクエストの再来になるかもしれない」

絶対数でまったく頼りない戦力の差を知り、騎士全員がため息をついた。ノルマン王朝である現在のイングランドが、大陸のノルマン人から攻められるというのは何の因果だろうか。イングランド貴族はすべて爵位しゃくい剥奪はくだつされるか処刑されるかし、新しいフィリップ王が治めることになるかもしれない。


 長門の解説によると、ノルマンコンクエストのときの地元イングランド軍は七千人くらいいたらしい。あれから二百年って増えて当然だったが、度重なる遠征やら病気やらで人口そのものが伸び悩み、兵隊さんも減ってるようだ。フィリップが早々にエルサレムを撤退てったいしたのは軍を温存してたのかもしれない。

「そこで今回の作戦だが、」

そうそうそれよ、という風にハルヒはつんつんと指さした。

「なにぶん武器も兵士も足りない上に、借金の返済のため糧食りょうしょくさえ心もとないときている。長期戦になれば戦略的劣勢はまぬがれない。なんとしても上陸を阻止そし序盤じょばんで敵の戦意をくじかねばならない」

つまり、歩兵に上陸される前に船をできるだけ沈めてしまえということだ。飛び道具がちゃんと当たればいいんだが、こないだのアッコンの城塞攻めを見る限りあんまり期待できなさそうだな。

「自陣の配置は?」

「ミス・スズミヤ、むかえ撃つ海岸での戦いは横に伸びる隊形になる。殿軍でんぐんを中心に、グロースター軍は右翼を固める。投擲とうてき兵器のたぐいはすでに出発させた。なんとしても二日以内に布陣をいてしまいたい」

それから砂浜での戦い方について粛々しゅくしゅくと説明を始めた。敵の上陸はおそらく風向きが南風に変わるときか、あるいは潮が満ち始めるタイミングである。序盤は投石機や弩砲どほうなど飛び道具での応酬おうしゅうだが向かい風になると不利だ。歩兵は水と砂に足を取られるので弓兵きゅうへいで狙う。騎兵が上陸してきたらこちらも騎兵を出す。

「以上だ。なにか質問は」

騎士さんたちは互いに顔を見合わせたが、聞きたいことはさっきからハルヒが口出ししていたので特に無いようだ。

「あの、マイロード」

ひとつだけ気がかりなことがあったので俺が右手を挙げた。

「修道士殿」

「そもそも戦いをしかけてくる理由は何なんですか」

「それなんだが、」伯爵は胸のポケットから手紙を取り出して、「フィリップからの通告によると、イザベラ・オブ・アングレームじょうを解放しろということらしい」

「解放!?」

そこで一同ははじめてエエェと驚きの声を上げた。なんでまた朝比奈さんなのだ。

「なんでみくるちゃんなのよ」ハルヒが噛みついた。

「レディ・イザベラ・オブ・アングレームについては、もともとフィリップ家臣のユーグ・ド・リュジニャン伯爵が婚約権こんやくけんを所有していた」

全員が朝比奈さんを見た。我らがレディは顔面蒼白がんめんそうはくになり首をブンブンと振って否定している。

「ははぁあん。さては横恋慕よこれんぼね。男の嫉妬しっとは見苦しいわよ」

「それだけではない。彼女はグロースターきょうによって拉致監禁らちかんきんされ、身内を人質に結婚を迫られ否応いやおうなくこれを受け入れた、とある。教会法では本人の同意なしの婚姻こんいんは重罪であり、その婚姻こんいんを認めたリチャード陛下も同罪として神の制裁せいさいを受けるべきである……、とまで言っている」

「なんとまあ、嘘で塗り固めた上に正義の味方気取りかよ」

俺の口からつい出てしまったが、皆がこぶしでテーブルをゴンゴンと叩いて怒りを表している。ご老体ろうたいの騎士さんたちを見ると顔を真赤にしており、頭からいまにも湯気が立ち上る勢いだ。血管が切れないか心配だが、この人達は朝比奈さんのファン、いや親衛隊らしい。

「フィリップとユーグの狙いはアングレーム領だろう。領地からの収入を当てにしていたのが手に入らなくなったために頭にきているようだ」

そんな国レベルでゆすりみたいな、なんで赤の他人のフィリップに因縁いんねんをつけられなきゃならんのだ、と思うだろうが、うちのヘタレは、いやうちのリチャード陛下は実はフランス王国の家臣なので、つまりイングランド貴族はみんなフィリップさんには頭が上がらないのである。

「伯爵、その婚約権こんやくけんってのはほんとなの?」

「陛下の手紙によると、どうやら本当らしい。アングレーム領の司教も認めている」

これはややこしい話だ。忘れ去られてすでに時効になってしまったような昔の契約書を持ち出して権利を主張しているのである。古泉が手を挙げて、

「マイロード、バチカンに取りなしてもらうことはできないのでしょうか」

ああ、そうそう。こういうときにこそ教皇様の御威光ごいこうを借りないとな。

「先日の刺客騒しかくさわぎは、まさにその取りなしの際中の出来事でな。リチャード陛下が不用意にも報復してしまったのだ」

「報復と申されますと?」

「陛下が返礼にと差し向けた刺客しかくが、フィリップの近衛このえ隊長を刺し殺してしまった」

あっちゃー、社交辞令しゃこうじれいでやった陰謀がなまじ成功してしまったわけか。古泉も眉間みけんに手を当ててしぶい顔をしている。

「まさか本当にやってしまうとは、陛下も引くに引けない事情になってしまったわけですね」

「そのとおり。ご本人も茫然自失ぼうぜんじしつなさっている」

真っ青になって口をあんぐり開けている王様を想像したのか、皆笑いをおさえられないでいる。まあ戦争ってそうやって起こるんでしょうけど。


 伯爵は椅子から立ち上がり、

「諸君、聞いたとおりだ。この戦いは我らが命をもって正しきを証明する神判しんぱんである。正義はイングランド軍にあり、神の制裁を受けるのはフランス軍だ。我々は一歩も引かず、不条理ふじょうりな要求は一切受け入れない。神は我らと共にあり。我がイングランド軍の勇姿を見せつけてやろうぞ」

テーブルの上に配膳はいぜんされたさかずきかかげ、騎士さんたちもさかずきを手に取った。

「武運を」

こういうときのために用意しておいたらしい、銀のさかずきを一気に飲み干した。グラスをがしゃーんと割るシーンを思い浮かべたが、後でいちいち掃除するのもたいへんだわな。っていうかハルヒなんでお前までゴクゴクやってんだ、なんでスピリッツなんか飲んでんだ。

「おいハルヒ、まさかとは思うが、」

「プハーッ、なによ」

「お前まで出陣するつもりじゃないだろうな」

「当然でしょ、あたしが出なくてなにがSOS騎士団よ、ヒクッ」

「だからダメだとあれほど言っとるだろうが。そんな危ないものよこせ」

「だ、誰が渡すかヌグググ」

俺がハルヒの腰に下がっているエモノを取り上げようとすると、

「ミス・スズミヤ、あなたには城の守りをお頼みしたい」

伯爵が堂々たる威厳いげんを持って命じてくれた。やれやれ。

「なんで後衛こうえいなのよ、あたしだってピコピコ撃ち合ったりしたいのに」

「こういう事態ではなにかと不心得者ふこころえものが出てくるものだ。城が手隙てすきになるとレディシップをお守りする者がいない。小隊を任せるので守備隊の指揮を頼みたい」

「うーん……しょうがないわね」

騎士叙任きしじょにんすら受けていないはずのハルヒが、兵士約三十名ほどを預かってくれと臨時の辞令じれいを受け渋々しぶしぶ納得した。こんなのに統率とうそつされる兵隊さんもあわれだな。


 城からはだいたい八百人くらいの兵隊さんが、少しずつ列を組んで出陣している。俺は祝福をせがまれたが一人ずつやってる時間がないので、小隊ごとに養鶏場の鶏のごとくずらりと並べて祈祷きとうとなえてやった。

 グロースターの街は嵐の前の前夜祭のような空気に包まれ、はじめて出征しゅっせいする新兵は見送りに来たおっかさんの熱い祝福を受け、新婚さんらしき若い兵士がきれいな奥さんにキスをせがまれていたりしたが、そんなお祭り気分の中で深刻しんこくな顔をしているのは歴戦の騎士達だけだった。


 朝比奈さんは、もう十分に整っているはずの伯爵のよろいの具合を確かめながら、

「マイロード、無事に帰ってきてくださいね」

「もちろん蹴散けちらしてやりますとも。今回の戦いは今までとは違います。あなたという女神めがみがついていてくださいます」

甲冑かっちゅう姿がまぶしい、百戦錬磨ひゃくせんれんまのジョンスミスは今からすでにガッツポーズである。

 それからじっと見詰め合う目と目、伯爵の手が朝比奈さんの肩に乗り、唇と唇が近づいて重なると、ハルヒが胸に手を当ててハァとため息をらした。プライバシーの侵害だぞ、ジロジロ見んなと俺が両手でハルヒに目隠しをすると、長門が俺の目隠しをした。

 古泉が硬いブーツの足音をさせながら呼びに来た。

「マイロード、そろそろ最後尾さいこうびです」

「分かった、行こうか」

名残惜なごりおしむようにして握っていた朝比奈さんの手が離れた。一同を見回してうなずくと門を出ていった。


 街の城門には馬のひづめの音、甲冑かっちゅうの音、鎖帷子くさりかたびらの音、それから荷馬車の音なんかが続いてにぎやかな音が響いていた。最後の補給部隊が出て行くと急に閑散かんさんとして静まり返り、彼氏や旦那だんなや、あるいは兄や弟の無事を願う人たちが街道のはるか遠くをながめていた。

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