第五部 朝比奈みくるの逆説

三十一章

 ようやく寝室の中に入る許可が降りて、煌々こうこうと朝日が差し込む寝室には、完全徹夜の十五ラウンドを戦ってヘロヘロになっているハルヒと、寝不足と心労からか目の下にクマを作っている長門と、あいかわらずテンションが高いシスタークレインが朝比奈さんの周りに控えている。

「おめでとうございます、マイレディ」

「ありがとうキョンくん」

ボリュームのある髪が汗にまみれほっそりして見えるお母さんに抱っこされ、シーツでぐるぐる巻きにされた赤ん坊が顔をクシャクシャにしながらほぎゃーほぎゃーと泣き叫んでいる。

「おめでとうございます。元気な子に育ちますように。付きいの皆さんもお疲れさまでした」

さりげにカッコつけて気遣きづかってみせる古泉である。

「いやぁ、一時はどうなることかと思ったけどね」

たしかに長丁場ながちょうばで、朝比奈さんの体力が持つかどうか心配だった。伯爵はしみじみと赤子の頭をなでながら、

「よくやった。本当によくやったマイレディ。そして支援してくれた皆のおかげだ。本当にありがとう」

「あー、お祝いはいいんだけどアンタ達、肝心なこと忘れてるわよ」

「なんだ肝心なことって」

「この子の名前はいったいなんなの」

いやぁ、すっかり忘れていたアハハハ、と伯爵一同は自分の頭をペンっと叩いた。

「そうだな。思ったんだが、いろいろ世話になったことだし、ミス・スズミヤの名前をもらって、男性風にハリーというのはどうだろうか」

その場の空気が、というか俺と長門と古泉の三人がスマイルのままビシと固まった。ちょっと待ってください突然何を言い出すんですかあなた、よりにもよってハルヒの名前を付けるとか、イングランド転覆てんぷくさせたいんですか。

 朝比奈さんの表情をうかがってみると、大反対するかと思いきや、

「いい名前だわ。ハリーにしましょう。涼宮さん、どうかしら」

「べ、別にいいけど」

ほっぺたが少し赤いが、お前それデレてるのか。だったらもっと素直に喜べ。

「マイレディ、ほんとにそれでいいんですか」

「ええ、涼宮さんみたいな力強さが宿ってくれれば嬉しいわ」

力が強すぎてなにもかもぶっ壊しそうな名前なんですが。いや待てよ……たしかこの名前には聞き覚えがある。長門がこっそり俺に耳打ちしたところによれば、

「……ハリーの正式なつづりはヘンリーHenry。既定事項」

なーるほど、この子がヘンリー三世か。俺と古泉はグーで手のひらをポンと叩いた。安易あんい承諾しょうだくした朝比奈さんはその本名をご存じないらしく、ニコニコマザースマイルで、

「ハリー、あなたのママよ」

などと呑気のんきなご様子である。全力で泣き叫ぶ赤子の口元に胸を寄せ、パジャマの前をはだけて一回り大きく育ったおっぱいをむんずと取り出した。俺と古泉は、おお、と妙な感動の声をらした。

「はー、重たいわ。やっとコレが役に立つ日が来たのね」

肩の荷が降りた的なため息をらした。ええ、それはそのためのものです。ハルヒが頬杖ほおづえをつきながらイライラと人差し指を振って向こうをむけという仕草をしている。野郎三人はあわてて窓の方に体を向けたが、伯爵、あなたまで赤面するこたぁないのでは。

「変ね。シスター、おっぱいが出ないわ」

「母乳かい? 三日くらいはいくら吸っても出ないよ」

「え、そうなの?」

そういうもんなの? という顔を全員が向けると、

「お産で体力使い果たしてるのに、いきなり母乳出せってのも無理な話さ。それに、初めての赤ちゃんのときはなかなか出ないっていうね」

なるほどね。長門メディカルの解説によると、妊娠中にんしんちゅうと出産後では分泌ぶんぴつされるホルモンが違って、胎盤たいばんが出てからようやく母乳が出るようになっている、んだとか。

「じゃあ赤ちゃんは三日間なにも栄養が取れないの?」

「心配ご無用、こんなこともあろうかと、」

みんなは一瞬シスターが授乳じゅにゅうをするのかと思ったようだが、

「アハハッあたしが母乳出るわけないじゃん。ちゃんと乳母うばを呼んであるさ」

ですよね。修道女ですもんね。


「ところで修道士殿、この子の洗礼をお願いしたいのだが」

「ええっと、洗礼、洗礼ね。やりましょう」

「マイレディ、ちょっと失礼して私はハリーを連れて礼拝堂へ行ってくるのでな」

「ええ、お願いね」

ところがハルヒは伯爵の耳をひっぱってヒソヒソと、

「あんたはダメよ伯爵、みくるちゃんのそばにいなさい」

「しかし、」

「出産から二時間はいっしょにいなきゃだめなの。体の具合が急変するかもしれないから」

「そうなのか……」

小声の会話が丸聞こえなのは突っ込まないとして、十分にビビらせておいて二人きりにさせてやろうというハルヒの魂胆こんたんなのかと思ったが、これが存外まじめな問題で、出産後に突然悪化するということは多いらしい。

「ではコイズミ殿、代理父だいりふをお願いできないだろうか」

つつしんでうけたまわります」

「よろしく頼む。代理母だいりぼは……」

伯爵は部屋の中を見回し、長門とハルヒのどっちに頼もうか、天の神さまの言うとおりIni mini mani moをやっていたが、

「マイロード、この際だから二人に頼みましょう」

俺が提案すると伯爵もうなずいた。

「そうだな。じゃ、よろしく頼む」

あたしがやりたかったのにとハルヒがごねたりするのも面倒だしな。


 朝比奈さんと伯爵と鶴屋さんを寝室に残し、ハルヒがハリーを抱っこして先頭を行き、俺達はぞろぞろと後をついて階段を降りた。廊下ではメイドさんと兵士さんたちに囲まれ、十字を切って祝福をしてくれた。玄関を出るとそこには待っていたとばかりに領民がワッとき上がり、ああ、忘れてた、朝比奈さんを気遣きづかって見舞いに来てくれてたんだったな。ハルヒが赤子をかかげてみせると歓声がいた。


 洗礼の用意をなにもしていなかったことに気が付き、俺はメイドさんにぬるま湯の入ったおけを祭壇の前に置いてくれと頼んだ。ああ、あと小皿に塩をひと盛りお願いします。あわてて司祭服に着替え、おけの用意ができるまでを持たせるために、礼拝堂の入り口のところでうやうやしく十字架をかかげた。

「あー、おほん。子羊らよ、主の聖なる教会にて神聖なる水の清めのほどこしをうはそちらか」

「なんで平安調なのよ、安倍晴明あべのせいめいかお前は」

イテテ、こ、これ心もとなきわずかな髪、引っ張るでない。

 台所から小分けにしてもらった塩をひとつまみ取り、赤子の口に入れると、なんつー不味まずいもんを食わせるんやというしぶい顔で口をモグモグした。

「して、子の名はなんと申すか」

「ハリーだっつってんでしょ、下手な古英語しゃべってないでさっさとやんなさい」

あー、混乱しかねんので翻訳ナノマシンに任せているが、ここでハルヒがしゃべっているのは日本語である。

「ハリー。うむ、今にも驚天動地きょうてんどうちせんがごとき良き名じゃ。子の正当なる父、またはその代理はおるか」

「ここにおります、神父様ファーザー

「よかろう。正当なる母、あるいはその代理は、」

「ここに二人もおるわ! だから、さっさと水浴びさせろ、っつー、の」

おお子羊よ、いくら力があり余ってるからって司祭にバックドロップはいかんですよ。

「よろしい。では、祭壇へ」

 果たしてメイドさんが速攻でお湯を沸かし、もうもうと湯気の立つ風呂を祭壇の前に用意してくれていた。このまま俺がかりたい気分だ。

「父と子と聖霊の名において、なんじに洗礼をほどこす。アーメン」

そこにいる全員でアーメンととなえた。まだ首が座ってないからちゃんと腕で支えろとハルヒに厳しく教えられ、赤子を腕に受け取り、お湯にぴちゃぴちゃとひたした。ユダヤ教だと男子諸君が股間をおさえたくなるような儀式をやるらしいんだが、赤子よ、キリスト教にはそんな血の気が引くような外科手術がなくてよかったな。

 温泉好きなら物足りないかもしれない湯浴ゆあみは終わりで、俺は赤子をおけから持ち上げて、布を広げて待っていたハルヒに預けた。

「油、油を忘れたぞ。メイドさん、その辺にメイドさんはおらぬか」

「……こんなこともあろうかと」

長門が微妙なドヤ顔で取り出したのは秘伝の薬、じゃなくてオリーブ油の小瓶である。ありがとよ。俺は祭壇に小瓶を置いてムニャムニャとインスタントの祈祷きとうで聖化して、手のひらに数滴落としてそれをハリーの頭に塗った。父と子と聖霊の名において、この子が一生髪の毛に困ることがありませんように、と。

「えーとだな、ここで誰かに誓いの言葉ってやつをやってもらいたいんだが。この子が元気に育つように全力で尽くします、みたいな感じで」

「あ、思いついた。それあたしがやる!」

ハルヒが手を上げて叫んだが、一瞬遅れて古泉が、

「よろしければその役は僕に!」

「……私がやりたい」

長門まで。なんだ、お前らいったいなにをたくらんで……、いや待て、ピンと来たぞ。たくらむというか、なにかを阻止そししたがっているようだな。ハルヒなんかにトンデモ宣誓せんせいなんかやらせた日にゃあ、国がひっくり返るかもしれんしな。

「んじゃあ、と、ここは公明正大こうめいせいだいにくじ引きで決めよう」

あいにくと爪楊枝なんて便利なものはこの時代にはないので、ほうきの先っを三本抜いて差し出した。

「えーと、じゃあ古泉から引け」

「はい、赤ですね」

「当たり! しょぱなからの大当たりです! おめでとう古泉くん」

「ありがとうございます神父様Father、神のお導きに違いありません」

「じゃ次に長門引け」

「……赤」

「当たり! 連発しての特等、大当たりでございます! おめでとう長門くん」

「……ありがとう神父殿、日頃の行いにちがいない」

「では、聖なるくじ引きの神様に向かって誓いの言葉をどうぞ」

「主よ、下僕しもべイツキ・オブ・コイズミは、赤子ハリーが、健康で凛々りりしく、また慈悲の心を持ち、主の御心みこころかなう立派な人物になるよう誠心誠意を持って育てることを誓います。アーメン」

「……赤子ハリーが歴史に準じつつ、一般的な人間としてまっとうな人生を過ごせるよう尽力じんりょくする。ユキリナ・ド・ナガティウスここに誓う。アーメン」

「アーメン」

ハルヒは同意をとなえながらなんだかに落ちないという表情をしていたが、俺は十字を切ると全員をとっとと礼拝堂から追い出し、赤子の両親の待つ寝室へと戻らせた。ただいまのくじ引きは別に長門の力を借りたわけではなくて全部に色を塗っておいただけだ。ハルヒがどんな願い事をたくらんでいたのか、もとい、宣誓せんせいをしたかったのかは神のみぞ知るところである。


 赤ちゃんはどこから来るのと子供に尋ねられて、そりゃあお前、フリーダイヤルで神様に注文するとコウノトリさんがデリバリーしてくれるんだよともっともらしく説教しているところへコウノトリさんが飛んできて、俺の頭にレンガを落としていったところで目が覚めた。時計を見るとまだ四時だった。

 なんで目が覚めたかというと理由その一、ベットから落ちてゆか石畳いしだたみとご対面した。その二、塔のほうから叫び声が聞こえた。まあ、察してると思うがハルヒの絶叫ぜっきょうだ。

「こんな朝っぱらからなにをやっとるんだあいつは」

パジャマのまま十一月の早朝の寒さに身震いしながら礼拝堂付属の居室きょしつからのそのそと抜け出て、塔の衛兵になにがあったんだと聞いてみるが、どうも中から事情が伝わってきていないらしく心配そうに二階の窓を見上げている。ちょっと見てくるから開けてくれと言い、ドアを通してもらうとおけのひっくり返る音とハルヒの狂気の雄叫びが聞こえてきた。

 声のもとは朝比奈さんの寝室の隣で、俺はノックして中に入った。一時的にここが乳母うばと子供の部屋になっている。

「おーいなにやっとるんだ。城中に聞こえてるぞ」

食事中の諸君にはビジュアル的ですまないが、クリーム系の黄色まみれになったハルヒが涙目になりながら赤子ハリー様のおむつを替えようとしているその真っ最中であった。床一面に氾濫はんらんした白い布とハリーのかわいらしいお尻がお出しになったおうんこ。

「キョ……いいところに参った。おぬしに稚児ちご介護かいごを授けてやろう、ちこう寄れ」

「お断り申す。っていうか今何時だと思ってんだハルヒ」

「あんたねえ、乳幼児は時間の概念があたしたちと違うの」

まあ未来人の子供だからそうかもしれんな、などというどうでもいいボケは置いといて。見ると、長門と乳母うばのおばちゃんがベットにぶっ倒れてて、昨日から一時間ごとに授乳じゅにゅうとおむつ交換、寝かしつけて授乳じゅにゅうとおむつ交換、寝かせて授乳じゅにゅうおむつ交換を延々繰り返しているのだそうだ。乳母うばのおばちゃんは自分の子供の授乳じゅにゅうもしなければならんので、じっと体力の回復を待ちながら母乳をリチャージしているらしい。

「朝比奈さんはどうしてんだ?」

「みくるちゃんはお産で疲れてるから、あたしがありがたくサポートしてるのに決まってんでしょ」

ああそうですか。それはたいへんですねー(棒)。

「しょうがねえな。俺が抱っこしててやるから、ちょっと休んでろ」

包帯みたいな布でぐるぐる巻になったハリーを受け取り、首が座ってないからねとと再度念を押された。

「さぁハリーちゃん、ヒステリックなおねーたんは放っといて、おにーたんが遊んであげまちゅからねー」

などと自分で言ってて微妙にイライラする赤ちゃん言葉であやしたりしている。言い返す気力もないわという風にハルヒはベットにぶっ倒れていきなりいびきをかき始めた。品がないぞ。ハリー様はお前みたいなのとは育ちが違うんだよ、なあ未来の王子様。おとなしいじゃないか、じいやと呼んでくれていいのだよ。


 こんなめ切った部屋にこもってるからいかんのだ、とハリーを抱いたまま俺は、スンスンとケルト民謡みんようを鼻歌で歌って聞かせながら廊下を歩いた。一・五メートルくらいの、小さなハンモックみたいな布の内側にハリーを抱え、

「どうだ、ここがお前の城だぞ。将来は城主だぞ」

廊下に立ててあるよろいたて物々ものものしいので、もしかすると泣くかなと思ったが何の反応もなかった。俺はそのまま台所へ降りてゆき、一日の飯の支度を始めているメイドさん達にハリーを見せるとキャーキャーいって喜ばれた。ハリーは一人づつに抱っこされメイドさんに自己紹介されている。この子が大人になる頃にはあたしがあねさんよフフッ、とでも目論もくろんでいるらしかった。

 ひととおり顔合わせが終わり、俺がハリーを抱えて、おねーたんバイバイをやってみせるとメイドさん達の母性を超くすぐったらしく超ウケていた。

 また元の階段を登り、壁にかかっているかつての領主の肖像画をひとつずつ見ていくと、父親の絵の前でハリーが突然泣き始めた。

「なんだなんだ、親父が嫌いなのか」

おむつに手を当てるとジトっと湿っている。俺は階段をいそいそと小走りに登り、子供部屋に戻った。

 ハルヒは白目しろめをむいて意識がなく、長門もぶっ倒れたまま、乳母うばは眠っている。しょうがない、いっちょ俺がありがたくおむつ交換のを執り計らうとするか。えーとおむつおむつ、と。たしか二枚使うんだよな。横に一枚、縦に一枚、だったか? いや、ふんどしみたいに横は半分に折って帯状にするんだったか、分からん。ああ、現状どうなってるか見りゃいいんだわ。

 テーブルの上に寝かせて、ミイラ式にぐるぐる巻にされた布をいていくと、徐々にハリー様の本体が現れ、って赤子ってキョーツケ状態だったのか。そこからおむつをいて、三角形の布を両側にいて真ん中に当て布か。なるほど分かった。なーんだ越中えっちゅうふんどしと同じじゃん。

 えーとおむつ、おむつ、と、替えのやつを取ろうとした瞬間、ぶびびっとリアルな音。リアルな色と粘度。リアルなかぐわしい香り。しかも二発目には俺の服にど真ん中ストライクしやがった。俺は胃がこみ上げそうになるのを必死でこらえつつ、眉間みけんにシワを寄せながらおけひたした布でハリーのお尻を丁寧ていねいぬぐった。あー、俺のパジャマ丸ごと洗わないとダメだなこりゃ。

 新しいおむつを一枚、三角形に折って……ええっとどうやって包むんだ、忘れた。まずお尻の穴からチムチムにかけて真っ直ぐにおおってだな、三角形の両端を畳んで……違うな、モロに抜け落ちた。やり直しだ。暗いロウソクの明かりだけで畳んだり広げたりを繰り返していると、ハリー様のチムチムから放水されストレートをくらった。ううっ。

「ハリーお前もしかしてわざとやってんのか」

と怒ってみせるとハリーは喜んでいるようで、歯のない口を開けてベイビースマイルをみせた。ハァもう俺なんでも許しちゃう的な。

「もうキョンちがうー、そうじゃない。あたしに貸しなさい」

白目しろめで気絶していたはずのハルヒがむくりと起き上がり、チムチムを中心に長方形で一枚、三角形の下を持ち上げ、両端を中心に向けて折り、足が出ているすその部分を上に折り上げる。なるほど。この時代おむつカバーというものはないらしいので、これに上から包帯をぐるぐるに巻く。

「このぐるぐる巻のミイラって、漫画じゃよく見るけど血行悪くならないのか」

「あたしもそう思うんだけど、皮膚が弱いし関節が固まってないからこうやってるらしいわ。もう少ししたら産着うぶぎを着せるわよ」

おっぱいをチャージしていた乳母うばのおばちゃんが起き上がって、そろそろ授乳じゅにゅうの時間だと言った。朝比奈さんを凌駕りょうがするサイズのものをむんずと取り出しハリーを抱っこして口元に持っていった。俺があわてて後ろを向こうとするとおばちゃんは、キリストさんも吸いなはったんやからそないに照れんでもええで、と笑うので俺はエヘヘとそのままながめていた。ほんまおかあはんと子の美しい風景やなあ。乳母うばだけど。

 十分くらいするとチューチュー吸う音が終わって、ハリーは途中で眠り込んだようだ。おばちゃんは唇に指を当ててシーシー静かにと言い、なるべくそっと地雷を起動させないようにとベットに寝かせた。俺は抜き足差し足で部屋から出て、ドアを閉めて速攻で逃げ出した。いやー、あれを何ヶ月もやれと言われたら俺未来に帰るわ。


 その後俺は二度と子供部屋には近づかず、遠くから女どもが右往左往する様子を微笑ほほえみながらながめるという安らかな日々を過ごした。まあ朝比奈さんの母乳が出るようになったので部屋に入りづらかったのもある。

 ハルヒと長門と朝比奈さん、そして乳母うばのおばちゃんは六時間ずつの四交代で育児に専従せんじゅうし、そんな状態が一ヶ月も続くと、かっぷくのいいおばちゃんはともかくハルヒと長門と朝比奈さんの三人はみるみるせていった。四交代というか常に二人で待機しているため、朝比奈さん以外はほとんど寝てないらしい。

 鶴屋さんがときどきハリーと朝比奈さんの診断に来ているが、精気せいきを失ったベビーシッター二人と母親一人のほうが心配なようで、

「三人とも、ちょいと休んだほうがいいかもだねえ」

「だ、大丈夫よシスター。我が子のためですから……」

「ハァ……なんのなんの、あたしたちがやんないとハリーはちゃんと育たないわよ、ねえ有希……」

「……奮励ふんれい努力する」

「みんな気を張り詰めすぎだよ。適当に手抜きもしなきゃ、完璧にやろうとすると壊れちゃうよ」

笑いながら心配する鶴屋さんの声が聞こえているのかどうか、目の下にたるんだ涙袋なみだぶくろみたいなクマを作り、三姉妹はぼんやりと空中に視線を漂わせている。

「顔色悪いぞ長門、少し休め。休暇にでも行ってきたらどうだ」

「そうだな、しばらく温泉にでも行ってきたらいかがかな」

伯爵が心配して子供部屋を覗きに来ている。

「マイロード、イングランドに温泉があるんですか?」

「あるとも。ローマ時代からやっているよ」

ほーほー、そんなゴーシャスな休養施設があったとは。

「どこにあるんです?」

「隣のサマセットシャーだな。今は修道院が経営している。ここから馬で半日くらいだ」

おお、近いじゃん。その名のとおり、バースという町にあるらしい。

 いいのよあたしたちは死んでもハリーの面倒を見るんだから、と青白い顔でゴネるハルヒを箱馬車に押し込み、まあ後のことは俺たちに任せてゆっくり湯にでもかってきなさいと長門と朝比奈さんを乗せた。三人は座席に座るなり寄りってグウグウと眠りこけている。


 馬車を見送った後、俺達はさっそく腕まくりをし戦闘を開始した。

「マイロード! まだです! 先にお湯でいて」

「修道士殿、どの辺をけばいいのだ」

「チムチムが城、その周りが領地です」

「ぐぬぬぬ、おむつが結べぬ。おむつが、おむつが謀反むほんを起こしておる!」

「内側から外側に攻めるんです、ひっくり返すんですよ」

「ぬおおおぉうんこの待ちせ攻撃を食らった、私はもうだめだコイズミ殿、後の指揮を頼む」

「了解しました、全軍前進」

「あて布がまだだぞ古泉、それだとチムチムが丸出しだ」

「これはとんだ失敬を、おおっと! これは見事なおしっこ砲の集中砲火です。完成度たけーなおい!」

おむつ一枚交換するのにこれだけの大騒ぎなわけで、俺達スリーセニョールがどんな育児スキルを持っているかは想像するにやすいだろう。困ったときの鶴屋軍曹ぐんそうは産院の分娩ぶんべんが混んでて忙しいし、メイドさん小隊は当然未経験なので助けてはもらえない。いや俺達も未経験の新兵ですが。

 朝比奈さん達が出かけてから数時間後、伯爵が駆け込んできた。

「修道士殿! 修道士殿はおらぬか! 一大事だ」

「どうしましたマイロード」

乳母うばが、乳母うばがおたふく風邪にかかってしまったのだ」

「ありゃりゃ、そりゃ困りましたね。ハリー様のお乳が、」

「どうすればいいのだ。このままだとハリーがえ死にしてしまうぞ」

「シスターに応援を頼みましょう」

よしっ、と伯爵自ら助産院まで駆け出していって主治医兼保健婦さんを連れてきた。

「呼ばれて飛び出てジャジャジャーン。呼んだかいブラザー?」

乳母うばさんがおたふく風邪にかかってしまったらしいんです。感染とかしませんかね」

「その辺はまだ大丈夫だよ、赤ちゃんには免疫めんえきがあっからね。それよりお乳をなんとかしないとねえ」

「大至急、二人目の乳母うばを呼んでもらえませんか」

「困ったね。もう夜だし、今から呼んで来てもらうのも間に合わないねえ」

「そのへんを一軒ずつまわって母乳を恵んでもらいましょうか」

「それもありだけどブラザー、ヤギ! ヤギだよヤギ」

「メエエェ」

「誰がモノマネしろと言ったにょろ! マイロード、城でヤギを飼ってるよね」

「あ、ああ。チーズを作っている」

「ヤギの乳は母乳に近いんだよ。大至急乳をしぼって温めてもらっとくれ」

「イェスマム!」

伯爵と共にイギリス式の敬礼をして台所に駆け下り、俺がヤギ小屋に走り、寝ていたヤギを叩き起こしメェメェ嫌がるところを無理やりしぼり上げた。メイドさんに頼んで小鍋にヤギの乳をかしてもらった。ところでこの時代にはまだ哺乳瓶ほにゅうびんというものが開発されていないはずだが、どうやって飲ませるんだろうと思っていると、素焼きの哺乳瓶Baby bottleだという、これまた年季の入った小瓶をシスターがたずさえてきた。

「それが哺乳瓶ほにゅうびんなんですか」

「そだよ。吸口すいくちにガーゼを巻いて吸わせるのさ」

なるほど。これがなんとローマ帝国時代からあるんだそうだ。見た目がなんとなく日本の常滑焼とこなめやき急須きゅうすに似ていて、俺と古泉はノスタルジーにひたっている。

 人肌並みの温度を確かめ、寝ているハリーの口元に持っていくと器用にチューチューと吸い始めた。その様子を見て俺と伯爵はハーと長い溜息ためいきをつきながらベットに倒れ込んだ。二人は天井をあおぎながら、

「修道士殿……」

「なんでしょうか」

「結婚なんてするもんじゃないな」

同感ですアーメン


 そこからは寝かせる、おむつ、ヤギ、授乳じゅにゅう、寝かせる、おむつヤギ授乳じゅにゅう就寝の無限地獄の始まりであった。乳母うばさんがいないので、外のヤギ小屋と台所と子供部屋を往復しなくてはならない。一時間ごとにしぼられて寝る暇のないヤギもさぞかし大変だったにちがいない。鶴屋さんは次の分娩ぶんべんがあるからと産院に戻っていった。向こうは向こうで大忙しだな。

「あの、僕はこれから夜警につかないといけないのですが……」

「だめだ古泉、お前はハリー様の警護けいごだろ」

古泉がなんだかんだ理由をつけて逃げ出そうとするのを必死で阻止そしした。

「あの、修道士殿、私は明日朝早くに鹿狩りの約束をしているので寝てもいいだろうか……」

「だめですマイロード、狩りの道中どうちゅうにでも昼寝なさってください」

だめですよ伯爵、あなたもこじつけて逃げようとしてますよね。


 果てしなく続く無限ループの中、そのまま夜が明けて、ぐったりとした伯爵が眠い目をしながら知り合いの貴族と城を出ていった。俺と古泉は朝飯を食いながら授乳じゅにゅうとおむつをこなし、その後の寝かせるルーチンの直後に、十分くらいうとうとしただろうか、ほぎゃーほぎゃーと泣きわめくハリーの声で目が覚めた。時計は七時である。

「どうしたんだハリー」

「おむつは濡れていないし、さっきミルクを飲ませたばかりだし、どうしたんでしょうね」

「退屈してるのかもしれん。ちょっとあやしてみろ」

「え、僕がですか。じゃ、ハリー様ハリー様、お察しの通り超能力者の古泉ですよー、いないないばーPeek a booいないいないばーPeek a boo

二十四歳騎士コスプレのイケメン野郎がいないないばーもなかなかおもむきがあっていいんだが、

「生後一ヶ月はほとんど見えてないらしいぞ」

「先に言ってくださいよ」

それから俺が抱っこして部屋中を散歩してみたり、美人のメイドさんなら機嫌きげんが治るかと思って抱っこさせてみたり、いろいろ試してみたが治らない。そのうちにおむつを濡らし、新しいやつと交換してもいっこうに泣き止まない。

「きっとお母さんがいないので泣いているのでしょう」

「まあ、赤ん坊ってのは泣くもんだ」

しかし泣き止まないのは気になる。というか耳がキンキンしてもう俺一日でノイローゼになりそうな、おむつを替えなくて済むなら俺一生礼拝やっててもいい、みたいな。あ、そうだ。

「よし、風呂に入れてみよう」

沐浴もくよくですか」

「赤ちゃんはよく汗をかくらしいから、もしかしたら肌がベトベトして気持ち悪いのかもしれん」

俺は幼児洗礼のときに使ったおけを台所で借り、暖炉の前に置いてぬるめのお湯を注いでもらった。今朝はヤギにかまけていてミサを忘れていたので、俺はここで十字を切り、

「あー、父と子と聖霊の名においてお前を風呂に入れる。頼むから機嫌きげん直してくれ」

メイドさん達もアーメンをとなえている。右腕に抱えて、足からそっとお湯にひたしていく。

「どうだハリー、お前にも半分くらいは日本人の血が流れてるだろ。だったら風呂の気持ちよさは分かるよな」

薄い布で顔をいてやり、薄っすらと生えている髪の毛にお湯をかけてやると、ようやくハリーは真顔に戻った。ほほゆるんでいるところをみるとどうやら喜んでいるようである。やれやれ。尿道筋にょうどうきんゆるんでいるのは見なかったことにしよう。

 しばらくプカプカ浮かんで機嫌きげんが良くなったようなので、テーブルの上に広げた布で丁寧ていねいき取り、次のうんちを出される前にさくっとおむつで股を封印した。よーしよし、乳幼児トリマーがひとつレベルアップした気分だ。


「あははっ、そりゃー運動がしたかったのかもよ」

昼頃、ハリーとスリーセニョールの様子を見に来た鶴屋さんが笑いながら言った。

「赤ちゃんが運動不足になるんですか?」

「考えてもごらんよ。布でぐるぐる巻きにされてて、一日中おっかさんに抱かれて、飲んでるか寝てるか出してるか、ほかにやることがなかったら、そりゃー飽きるってもんだよ」

「そうですよね。飲ませて出させて寝かせてた俺達もいい加減飽きましたもん」

「そんなズボラなキミたちのために、いいことを教えてあげよう。見ててごらん」

俺達三人が興味津々しんしん見ていると、鶴屋さんはベットの上でハリーをうつせにした。ハリーはひじひざを曲げて丸くなっている。鶴屋さんがハリーの右足の裏をでると後ろに蹴った。逆の足の裏をでると、またもや蹴った。これを交互に繰り返すと、なんとストレッチ体操のようである。

 古泉が新たな発見に深く驚嘆きょうたんした感じで、

「赤ちゃんってこんなことできるんですか」

「まだハイハイできなくても蹴ることはできるんさ。足踏あしぶみ反射っつーんだけどね。赤ちゃんがムズムズ動くようなときにやるといいよ」

鶴屋さんに変わって古泉がやってみるが、同じようにキックしてみせる。そいやキックするのはお腹の中にいた頃にもあったな。

「面白い反応だな」

「これを繰り返すといい運動になりそうですね。体力を使い果たせばそのうち眠るでしょう」

「赤ちゃんも毎日栄養をってるわけだし、筋肉がメキメキ成長してて力が余ってるからね。つまり、暇なときは泣いて余分な体力を発散してるのさ」

「なるほど。どうやらハリー様を退屈させていてはだめなようですね」

似たようなセリフをずいぶん昔に聞いたような覚えがあるな。

 それからおむつ、ヤギ、授乳じゅにゅう、寝かせるループに風呂とキック運動が入り、結局仕事が増えただけだったが、理由もなく泣いて困らせることがなくなったんで精神的には楽になったかもしれない。


 鹿狩りに来ていた近隣の貴族たちがお祝いの面会に来て、さすがは伯爵の血筋で端正たんせいなお顔立ちをしていなさる、などなどお世辞せじを並べ立てると、我らがお父さんは初の我が子をデレデレと自慢していた。客のレディはあたくし子供の扱いには慣れていますのよ的に抱っこしてみせ、いないいないばーをやってあやしている。ああ、これから祝いの客が増えるんだろうなあ。ハリーが客の前で粗相そそうしなきゃいいが、などと乳母うばのように心配している俺だった。


 さて朝比奈さん達スリーセニョリータはおよそ一週間後に帰ってきた。朝比奈さんだけは我が子のことが心配で心配で、一足先に帰ろうと思っていたらしいのだが、たまには男どもにも苦労させなさいとダメよハルヒが言うので黙って湯にかっていたそうな。温泉の効能か、長門の表情も顔色も疲れが取れたようで、普通に戻っていてなによりだ。それより帰ってきたときのハルヒのツヤツヤドヤ顔ときたらもう。

「どうよ、あたしたちの苦労が少しは分かったかしらねえ」

「まあな。だいぶ感覚が麻痺まひしてきたことだけは確かだ」

かつてはオウフとこみ上げるものがあったが、ハリーの高貴なる尻がお出しになったリアルにこうばしい香りに、もういい加減に嗅覚きゅうかくも視神経も麻痺まひしていて、もう何を見ても動じなくなってきた。

 そしてまたもや授乳じゅにゅうと寝かしつけのループの毎日が戻ってきたわけだが、朝比奈さん復帰にともなってヤギは引退し、おたふく風邪から脱却だっきゃくできた乳母うばのおばちゃんも復帰してきた。女四人に俺達スリーセニョールを加えての七人体制でシフトを組み、なるべく女子共の負担を軽くするべく夜中のおむつと授乳じゅにゅうは男が担当することになった。

 ハルヒは木製の洗濯バサミで鼻をつまんでからオムツ替えをすることを覚え、

「あー、ハリーったらいつまでオムツしてんの。早く大人にならないかしらね。そしたら二十一世紀の知識をゴマンとめ込んで時代の寵児ちょうじにしてあげられるのに」

などと鼻声でのたまっている。

「やめとけハルヒ。そんなことしたら世界史がひっくり返っちまうぞ」

「いいじゃない別に。産業革命が十二世紀でも十九世紀でもたいして違わないわよ」

お前、長門が作った麦刈取かりとり機をいきなり産業革命の到来だとかクレーム付けてたじゃないか。

 まあいくらハルヒとはいえ、そんな一晩でセンセーショナルな進化をげるような願望をリアルに実現したりはせんだろう、子供じみた戯言たわごとだと思って俺達は相手にしなかったのだが。


「あーところで諸君、その宇宙人魔法使いと未来人メイドの対決は、その後決着はついたのかね?」

朗々ろうろうたるバリトンの肉声が響き、俺はそれを発している主を探して周りを見回した。この場にいる誰の声でもない。

「今の誰だ?」

「わたしだ、ハリーだ。目の前にいるではないか」

「え、ええぇェ!?」

確かに眼の前にいるのは長門に抱っこされたハリーのみである。長門が声帯模写せいたいもしゃでやっているのでなければ、というかそんな小技こわざやっても誰のマネなのか分からん声だし、抱っこされた小さな肉塊にくかいの小さな双眸そうぼうが俺の顔を珍獣かなにかのように凝視ぎょうししている。

「長門、マジか、これってマジなのか」

長門に向かって尋ねるが、眼下がんかのハリーを見つめたまま目を丸くしている。

「……まじ」

「わたしはこの世にせいを受けてまだ一月ひとつきあまりなのでな。マジかという質問にいったいどう答えればいいのかボキャブラリーが不足しているが、こうして声を発しているのが本物のわたしかと問いたいのであれば、答えはイエスだ」

うわーやっちまったのかハルヒ。酒造と育児にかまけて最近大人しくしてると思ってたら唐突とうとつにこれか。

 朝比奈さんはまるで自分の子供にエイリアンが卵を産み付けたかのように目ん玉を大きく見開いて歯をカチカチ言わせている。

「おいハリー、一ヶ月そこらでってのがそもそも無理があるだろ。人のボキャブラリーってのは親から教わってはじめて使えるようになるもんなんだよ」

「キミは私の月齢をまだ一ヶ月ととらえているようだが、そこが落とし穴だ。よく考えてみたまえ。八ヶ月強もの間、わたしはキミタチの会話を聞かされていたのだよ」

な、なんだってー!?

「朝比奈さんのおなかの中で俺達の秘密全部聞いてたのかお前」

「別に聞き耳を立てていたわけではないのだが、ゆるしてくれたまえ。キミタチを取り巻く非常識かつ非科学的な事情とやらが実に愉快ゆかい極まりないものでな」

ハリーはのどの奥からこみ上げるような声で、んふふっと笑った。

 いろいろと突っ込みどころを間違っているのは重々承知だが、なんつーこった。こんな中世の果てまで来て非常識な存在が一人増えやがった。朝比奈さんから生まれたというからにはなにかあるだろうとは思っていたが、まさかこんなスーパーナチュラルベイビーになってしまうとはなあ。

 っていうか随分前にも同じようなことがあったような気がする。その張本人ちょうほんにんは今頃俺の家で猫缶を食って寝てるはずだが。

「あのなハリー、別にお前をめてるわけではないんだが、」

まあここはあのときと同じように説得しよう、と試みるも、いきなりドアが開いて、

「おはようマイレディ、修道士殿、皆おそろいで」

やっべえ、父親が入ってきた。父親だけじゃない、祝いの客人も何人か入ってきたぞ。ハリーはまだ座っていないはずの首を九十度回し、

「なんだ父上か。あいかわらず寝ぼけた顔をしているな。こんな男からよくわたしのような者が生まれたものだな」

父親以下、客一同の足がピタと止まり部屋が凍りついた。今のはいったい誰の声だと伯爵が朝比奈さんの顔を見ている。朝比奈さんは口をパクパクしてなにをどう釈明しゃくめいするべきか、というかすでにパニクっててアウトオブワールドになっちまっている。俺はハリーの耳元でささやき、

「おいハリー黙ってろ、お前がしゃべるとややこしいことになるんだよ」

「よいではないか。キミも言っていたとおり、わたしは将来この領地をぐ立場だ。父上や招待客を前にして寡黙かもくでいることもなかろう、ムググ」

長門がハリーの口をおさえ、

「……今のは、腹話術」

何のことか分からなかったようで、一瞬の後に伯爵と客人がドッと笑った。

「実に面白い。ミス・ユキリナは器用な芸当をなさる」

笑いながらハリーの頭をなでた。ハリーは憤懣ふんまんやるかたないといった感じで口をヘの字に曲げ、いい加減その手をどけないと泣き出してやると言わんばかりの顔だ。


 伯爵は客の一人ひとりにハリーを抱かせて、銘々めいめいがお祝いの言葉を述べた。母上は寝不足のご様子である、と長門が声真似こえまね披露ひろうしつつハリーの手を振ってみせると伯爵と客人は笑いながら早々に退室した。ベットの上で凍りついたまま右手をにぎにぎしている朝比奈さん、危機は脱しましたからそろそろ落ち着いてください。

「ハリー、気をつけたほうがいい。この時代じゃ人間以外のもんがしゃべったりすると大変なことになるんだぞ」

「なに、するとわたしは人以外の存在なのか」

「い、いやそういう意味じゃなくてだなあ」

俺は頭痛に見舞われそうになって眉間みけんに手をやった。中世じゃカラスとか猫とか使い魔みたいなやつがしゃべったりするとアウトなんだよ。そもそもは聖書の第一話で人間を罪におとしいれたのはしゃべるヘビだったからな、という逸話いつわを話してやるとハリーも納得したのか、

「なるほど、それでだったのか」

「なにかあったのか」

「今朝、わたしがおむつのくるみ方について先史せんし時代からの由来ゆらいと発展について論じようとしたところ、乳母うばが恐怖のあまりわたしを産着うぶぎごと暖炉に放り投げそうになった」

「おいおいおい」

やべー、そういうのはすぐに城中に広まるぞ。

「危うく火あぶりの刑に処されるところだった。ご忠告に感謝するキョン殿」

まあいくら早熟の子供でも三歳くらいまでは大人しくしといたほうがいいだろう。っていうかハリー、お前もその名で俺を呼ぶのか。

「ハリー、ハリー、あなた本当にわたしの言ってることが分かってるの?」

やっと正気に戻ったらしい朝比奈さんが青筋を立てながらハリーのほっぺたをプニプニとつねっている。

「ハワワワ気をつけてくれないか母上、わたしはまだ首の関節が定まっていないのだ。そう、確かにわたしは人の言葉に聞こえるかのような音を出しているかもしれん。だがしかし、オウムや九官鳥などの鳥類ちょうるいでもそれくらいのことはできる。何をもってすれば母上は、わたしが言葉通りの意味を込めた音声を発していると確信できるのだろうか、それが知りたい」

どっかで聞いたようなセリフだな。っていうか十分ヤバイほど言葉を発してるだろ。

「ま、まさかほんとに。涼宮さんたらなんてこと」

自分がお腹を痛めて生んだ子をチャイルドプレイみたいに、などとうらみめいた表情をする朝比奈さんである。それは怖すぎるからせめてベイビートークくらいにしといてください。

「それほど驚くようなことではあるまい。わたしの発している空気の波が偶然にも母上の質問に対する応答に合致がっちしているだけなのかもしれない」

「ハリー、わたしの言うことが分かるなら赤ん坊らしくオギャアと泣いてるだけにしてもらいたいの」

「それは無理な相談だ。オギャアというのは感情を発しているだけで語彙ごいそのものではないし、意図しているわけではないのだ」

「泣かないとおっぱい抜きです」

「オギャー」

分かりやすすぎるぞ。


「しっかし困ったぞ。シャミセンのときは強引にフィクションにしちまったが、今度はなまじリアルだぞ。どうするんだこいつ」

「こいつ呼ばわりとは失敬な。わたしはキミがかつて恋いしたった朝比奈みくるの赤ん坊だぞ」

「黙れ新生児」

古泉が笑いながら間に入り、

「ひとつだけ、以前とは違うことがありますよ」

「なんだ」

「あと数年もすればハリー様が普通に会話してもなんの違和感もなくなる、つまり時間が解決するということです」

「母親に衒学げんがく的な説教を垂れる子供は違和感ありすぎだろ」

「中世には数多くの天才が生まれました。ハリー様がそのうちの一人として存在しても、何の不都合がありましょうか」

座っていないはずの首でハリーは深くうなずき、

「コイズミ殿、キミはなかなかにモノの分かる男だな」

敬福至極けいふくしごくにございます」

なんだあ、古泉はさっそく次期領主のご機嫌きげんを取ろうとしてんのか。じいやか、イツキじいやの称号を狙ってんのか。

「天才っていうかだなあ……。今回は猫じゃないってのがいちばんの頭痛の種だと思うんだが」

「どういうことでしょうか」

「よくは説明できんが、ハリーがこういう非常識な状態になっちまったのはいいとしても、俺達はそれを一度聞いちまったんで、今さら言語能力を取り上げるのは倫理りんり的な問題がある。人格って相手に与える記憶とか印象とか、相対的なもんだろう」

「あなたにしては随分と哲学的なとらえ方をしますね。言語能力の発達がどうあれ、ハリー様はハリー様だと思いますよ」

「俺が言ってるのはだな、いくらハルヒがやっちまったことでも、元に戻せない、不可逆的なもんがあるってことだよ」

俺は思いついたことがつい口をついて出てしまい、母親の気持ちを聞いてないことに気がつき、はたと朝比奈さんを見た。

「ハリーの声を聞いたら、なんだかずっと前からこうだった気がしてきたわ」

あなたまでなにを言ってるんですかマイレディ。

「朝比奈さん、いいんですかこのままで」

「しょうがないわ。涼宮さんが望んだことだもの。ただしね、ハリー」

「わたしの存在はただし書き付きかね。なんだね母上」

母上My dear motherじゃなくてママMomとお呼びなさい」

「いいとも、いい響きだ。ママ、そろそろおっぱいを吸わせていただけないだろうか。わたしの胃袋は小さいので栄養をストックできないのだ」

「あ、はいはい。どうぞ」

「では、遠慮なくいただくよ。んっんっんっ、今日のおっぱいはまた格別の味わいだな」

人を人たらしめている言語機能についての会話の直後に突如とつじょとして始まった朝比奈さんの授乳じゅにゅうを、そのギャップを消化できず呆然ぼうぜんながめていた俺と古泉は、ハッと我に返りあわてて後ろを向いた。

「おいハリー、今はいいけどな、ところ構わずしゃべるのはやめとけよ。とくにハルヒの前ではな」

「分かっているとも。わたしとて名付け親の秘密を暴露ばくろするようなマネはしない」

「後のフォローが大変なんだから、気をつけてくれよな」

まったくハルヒのやつ、後始末する人間の身にもなってみろってんだ。おむつの交換のほうがまだマシだ。

「ところで少年、さっきの質問だが」

俺が少年呼ばわりされたらお前はいったい何なんだよ。

「なんだ? 禁則事項なら言わんぞ」

「宇宙人魔法使いと未来人メイドの決着について知りたいのだが」

俺はチラと朝比奈さんと長門を見て、

「それはもう終わった、というかエンディングをむかえたな」

仄聞そくぶんしたところ、宇宙人の勝利という理解でいいのだな?」

「長門ユキの逆襲Episode_00ではそういう展開だったかな」

「そうではない、現実の話をしているのだ」

「あれは映画の話だろ、何の現実だ」

ハリーは薄く毛の生えた右のまゆを思わせぶりに上げ、長門に向かって、

「ミス・ナガティウス、キョン殿は虚構きょこうが現実を反映するということを知らないのだろうか」

「……コメントできない」

「どうやらあなたも苦労なさっているようだな」

「……」

長門が少しだけはにかんでいる。俺にだけ分からん会話してからに。


 さて城ではそろそろクリスマスだ。吐く息は白く、暖炉の前からはなるべく離れがたい冬の一日である。大聖堂でのクリスマスイベントもさながら、伯爵はほうぼうへの贈り物や執事さんとメイドさんたちへのボーナスの準備に大忙しである。ハルヒ的には、キリスト教の慣わしに参加したいのはやまやまだが、やっぱり素直になれなくて十二月生まれのお誕生会開催を主張した。偶然にもメイドさんの一人が十二月生まれだとかでバースデーパーティをやることになり、ハルヒ自ら手編みの手袋をプレゼントとして贈っている。もともとはハリー用の小さなミトンを作るはずがサイズを間違えて大人用になってしまったのらしいが。

「ところで修道士殿」

「なんだハリー、その呼び方は伯爵とかぶってるから、もうキョン殿でいいぞ」

ハリーは小さな毛糸の靴下をかされ、パタパタと足を動かしながら、

「もうキョン殿、このクリスマスというもよおしについて疑問をていしたいのだが」

「なんだ。プレゼントが気に入らんのか」

「そうではない、起源についてだ。イスラエルという土地だが、冬は大変に冷え込むと聞いている。ヨセフとマリアは本当に寒風かんぷう吹きすさぶ中を旅に出たのだろうか。しかも身重みおもの女性を連れてだ。いくら医学が未熟とはいえ、不用意に妊婦の体を冷やせば流産という事態を招きかねないことくらい知っていたであろうにと。おけにそれほど保温性があるとも思えぬ。幼子おさなごイエスは肺炎になっていたかもしれんのだ。そんな季節にわざわざ訪ね歩いたという東方の三人の賢者も、実は愚者ぐしゃなのではないだろうか」

いつもならこんなどうでもいい質問は適当に受け流す俺も、今日は暇を持て余していて、というかハルヒが作った発泡酒が回っていたので舌の方も回り、

「そりゃーあれだ、十二月ってことにしといたほうが都合がいい業界の事情ってやつだよ。教会は寄付でうるおう、酒場と酒造はもうかる、肉屋も八百屋も、ロウソク屋も仕立て屋も書き入れ時だ。職人も農民も長期の休みがもらえて、いろんな職業のいろんな団体の利権がからんでるわけだから、今さら訂正しまーすなんてこたぁ口がけてもいえねーのさ。俺達の時代にゃ商業界の傀儡かいらいで想像上の赤服あかふく爺さんまで発生してんだぞ」

「ふーむ。正論だけでは解決できない大人の事情というものか」

ハリーはサンタコスでダンスを踊るハルヒをながめつつ、眉間みけんにシワを寄せ考え深かげに親指を吸っている。

「お前にはまだ分からんかもしれんが、大人には理不尽な苦労があんの」

「それで母上が泣いてたのか……」

「なに、今、なんと言った」

俺の耳がピクと動いた。

「母上がお悩みのご様子でな」

「なにがあったんだ? もしかして旦那だんな喧嘩けんかでもしたのか」

夫婦の間のことに口をはさむつもりはないが、いちおう相談役として知っておいたほうがいいかもしれん。というか非常に猛烈もうれつに興味がある。

「本当は一晩ほどの長い時間をかけて二人が話し合っていたのだがな。キミのために結論だけを説明すると、もし父上とわたしのどちらかを選択しなければならないような事態になった場合、迷わずわたしのほうを取れというのだ」

「どゆことですか新生児殿」

「理解のない男だな。父上は、城の存続があやぶまれるような事態になったら、わたしを連れて逃げろ、と言っているのだよ」

なるほど。俺はそれがどういう状況か想像しての後、

「そりゃまあ、伯爵としてはそうだろうな」

「母上は三人で逃げようと泣いて抗議こうぎした。しかし父上は部下と領民を見捨てることはできぬ。それが貴族としての父の義務であり、母は生き延びて血筋を守るのが義務だとさとされた。母上はジレンマのすえにしぶしぶ約束したのだ」

「上に立つものの苦労だな。立派な気構きがまえじゃないか」

はからずもハリーを介して貴族夫婦の密談を知り、もしそういう事態になったら、俺は伯爵ではなく朝比奈さんのほうを優先して守らなければならない立場にいるのだということに気付かされた。

「まったくそのとおりだね、修道士殿」

横からボソリと呼びかけられてふり向くと、パーティ客に混じってモソモソとテーブルの上の肉を食っていると思っていた修道服のおっさんが、フードをチラと持ち上げてこっちを見た。お、オォォ王様? あんたこんなとこでなにやってんですかまたお忍びですか。俺があわててひざまずこうとすると、

「待って待って、それやめて。今ここで正体がバレたら大騒ぎになるからね、シーッ」

ハリーは目をまんまるに開いて、

「これはこれはリチャード陛下、家臣ジョンが嫡男ちゃくなんハリーにございます。お目にかかれて光栄至極しごくであります」

「ああそうだ、ハリーちゃんにお祝いを言いに来たんだったよ。この度は無事この世にせいを受けられたそうで、生誕せいたんおめでとう。父上に似て端正たんせいな顔立ちだね」

「ありがとうございます陛下。お言葉ながら、わたしは母親似だとよく言われるのです」

「違いない」

なごやかにハッハッハと笑い合っている。こいつらふつーに会話してんだけど大丈夫なのか。

「キミが生まれたということは、グロースターもこれで安泰あんたいだね」

「陛下の治世ちせいの平安のもと、精進しょうじんいたします」

「うんうん。伝えられたものを守り、後世に引きぐ。それが僕らの義務だからね。がんばるんだよ」

王様はヘタレな割にけっこうまともなことも言うんだな。それともアレはただの演技だったのか。

 部屋の向こう側で見ていた朝比奈さんがいったい誰と話してるんだろうという視線を向け、それに気づいた王様はあわててフードを深く被ってコソコソと逃げ出した。朝比奈さんはそれが誰かを察したらしく驚愕きょうがくの表情をしてアナタアナタたった今たいへんなお客様が! と旦那だんなの肩をつかんでカタカタと揺すっている。んー? どこだマイレディ、誰もおらんではないか。あそこ、あそこよハリーの隣に! たった今いらしたんだから! と声は聞こえないが口パクでセリフを脳内再生している俺である。

 王様はその後、王宮に帰ってしまったかあるいは別のコスプレに着替えて変装したかで、ついに姿を見かけることはなかった。


 夜もけてそろそろパーティもお開きになる頃合い、ハルヒは自作の発泡酒でぶっ倒れて泡を吹き、俺はそろそろおむつ交換のり行うために、ハリーを抱いたまま子供部屋に向かった。今夜の子守担当は古泉だったか。ドアを開けるなり朝比奈さんが待ち構えていて、

「キョンくん、陛下がお見えになってたんでしょう? 知らせてくれればよかったのに」

「え、いやー、最初は知り合いの修道士とばかり思ってたんですけど、今考えたらたしかに王様でしたねえエヘヘ」

などと無理にごまかすしかなかった。

「いいではないか母上。彼には王冠という理不尽な拘束具こうそくぐから解き放たれたいという願望があるのだろう」

まあクリスマスだからいいのだ。朝比奈さんは困った顔をして、いつか陛下を晩餐ばんさんかい会にお招きしなくてはと言っている。あのお方は公式にではなくこそこそと隠れて食うのが趣味のようですよ。

 新しいおむつを用意してスタンバってたらしい長門が手招きしている。ハリーを受け取り、ベットの上に毛布を広げて仰向あおむけに寝かせた。

「ミス・ナガティウス。気づいているかな」

「……なに」

「そなたは美しい。先約がいなければ妻にむかえたいところだ」

「……ありがとう。待遇たいぐうによっては検討したい」

「残念ながらわたしにあるのは愛だけだ。時の流れの前にあっては、爵位しゃくいや領地など風前の灯火ともしびに等しい。それでも連れっていただけるなら、」

「待てい新生児、今のは聞きてならんぞ。その歳でもう色気づいてんのか」

手袋はどこだ今すぐ決闘だ決闘パーティだハァハァと鼻息も荒い俺をニヤニヤ視しながら、ハリーと長門はのどの奥でくっくっくと笑い、

「キョン殿、今のは腹話術だ」

って今の全部ハリーの一人芝居? 長門の腹話術の声真似こえまねをするハリーの腹話術? ややこしいことすんな。朝比奈さんと古泉が下を向いてプルプルと笑っている。俺も聖職者という立場でありながら、あーもうイライラする。天よ父よ我の血圧を下げてココロの平安を与えたまえ、十字を切り深呼吸して動悸どうきを落ち着かせ、それでも足りないようなので両手を合わせてアベマリアをブツブツととなえた。

「……落ち着いて」

「ハイ落ち着いた」


「……新生児殿、折り入って意見を聞きたい」

懸念事項けねんじこうがあるといつもは俺に意見をうかがう長門が、珍しく相談ごとを持ちかけている。

「わたしに答えられる内容であれば、なんなりと」

「朝比奈ミクルの冒険in中世の劇中、錬金術師は目的を果たすことが困難になった」

「そうだったな。あの譲歩じょうほは不本意だったに違いない」

「……ミクルがイツキとげる決心をし国体の一部となってしまったため、全員を国に帰還きかんさせられない事態となった」

「錬金術師はどう処するべきか、ということかな」

「……そう」

「残念ながらミス・ナガティウス、問題が大きすぎてわたしには明確な答えが出せない。なので参考程度にしかならないかもしれない」

「……構わない」

「思うに、この脚本には原案があったのだろう。もともとミクルとイツキが結ばれる話ではなかった。それをイギリス大衆文芸としてまとめたのが今回のシナリオ、ということではないかな」

「……正しい」

「ということは、あなたも含めて、ハッピーエンディングが大衆の総意だったということになる。大衆の総意はつまり既定の流れを作る。彼女はイツキの人生の一部となってしまったがゆえに守るべきものが生じた。それが例外的事項Exceptional matterだったとしても、元に戻せるものではないだろう」

「……そう」

「ならば結ばれた二人の人生を、遠く離れたところから見守るしかないのではないだろうか。馬を連れてな」

「……わたしも一旦はそう結論付けた。でも迷っている」

「錬金術師が言ったとおり、一方を取れば他方を失う、これが自らのジレンマとなって返ってきたわけだな」

「……そうかもしれない」

「どちらを選んだにせよ欠けるものがある。ならば、あらかじめ答えを持っている誰かに選んでもらってはどうだろうか」

「……誰か……」

正答せいとうには程遠ほどとおい答えで申し訳ない。悩める心中しんちゅうをお察ししたい」

「……いい。助言に感謝する」

「ところで……当の人物はこのことに気づいているのだろうか?」

ハリーと長門が首をめぐらせてこっちを見た。俺が、お前らいったい何の話をしているのだ、という目を向けると、

「鍵というものは罪深きものだな」

「……自らの役割を自覚できない。それが鍵の役割」

長門は微妙に微笑ほほえんで俺の目を見た。

自己回帰的じこかいきてきな自己否定で実におもしろい。鍵が自らの価値に気づいて行動することには問題がある。そのためにせられているのだな。重要なのは鍵そのものではなく扉の方である、と」

聞き耳を立てている古泉が笑ってうなずいていた。まーた俺にだけ分からん会話か。

「……そう。わたしが監視しているのはむしろ扉」

「思うのだが、閉じ込められているのは、実は扉のこちら側なのではないだろうか」

「……」

おむつ交換の手を止め、ホウという感じに長門が右の眉毛を上げた。

「自律進化とは時間軸に支配されている。だがすべての要素は最初からそろっており、すべてが計算済みだ。失礼ながら、あなた方の世界では生命起源のような偶然は起こらない」

「……それは的を射た指摘。扉のこちら側ではさらに上を目指すか、新たな概念を生み出し続けるしかない。さもなくば同じことを繰り返すしかない、と」

「新たな概念をいくら生み出しても元が同じ要素であるゆえに、無限にノイズも増え続け、飽和ほうわして崩壊してしまうだろう。そこで選択肢は二つだ」

「拝聴する」

「ひとつめは、崩壊する前に意図的に諸要素に戻してしまう。同じ時系列でインフレとクランチを繰り返すのだ。ふたつめは、時間構造そのものをやめてしまう」

「……進化しなければならない理由はない、と」

「無論これは扉が扉のまま終わるという前提に基づいたものだが」

「……わたしたちは自らを時間でしばったまま、扉が開くことですべてを解決してくれることを夢見ているのかもしれない」

「解決できるのだとすれば、扉の向こう側では時間の概念そのものが異なっているのだろう。たぶんそれを作っているのが鍵ということにちがいない」

「……理解した。時間を支配するものが進化を制する」

衒学げんがくどころかトンデモ宇宙論っぽい匂いがする二人の会話に、古泉のひとみ驚喜きょうきにキラキラと輝いている。自分も参加したそうだが黙って聞いているようだ。そこから先の話は俺には到底とうてい理解不能な内容で覚えていない。


「ミス・ナガティウス、実に有意義な会話ができて楽しかった」

「……わたしも礼を言いたい。千載一遇せんざいいちぐうかもしれない」

宇宙開闢かいびゃくからおむつ開脚かいきゃくまでの会話がようやく終わり、長門は一瞬だけなにかのヒントを得たような表情をしたが、それがなんなのか俺には皆目かいもく見当がつかない。ハリーは充実した議論と新しいおむつのサラサラ感にたいへん満足のご様子だ。

「さて母上。わたしの持ち時間はそろそろ終わりのようだ。キミたちとの会話もこれが最後だな」

「ええっハリー、終わりって、元に戻っちゃうの?」

「そのようだ。わたしの言語能力は期間限定だった。それがミス・スズミヤの常識的な能力の行使だったのだろう」

さっきの会話に入りたそうにしていた古泉はあわてて、

「ハリー様、ご自分の能力は涼宮さんに与えられたものだとご存知だったのですか」

「もちろんだ。このような非常識な言語能力は自然発生するものではない。ではいったいどこから来たのか。生物学的な能力だとすれば、コイズミ殿と同じものに違いない。そうだろう。同時に、非常識ではありながらもありがたいと思っている。幼少期における自我じがの目覚めも、思春期における世界の広がりも、すべてはボキャブラリに基づいているのだ」

「通常の言語能力はおありなのですね。つまりあと数年もすれば、」

「おそらくそうなるだろうう。およそ三年後には年齢相応ねんれそうおうのボキャブラリを獲得かくとくできるに違いない。それまで、しばしの間、待っていてくれたまえ」

朝比奈さんはまるで母を残して行ってしまう子供にすがるように、

「ま、待ってちょうだいハリー。わたしは……わたしはこれからどうしたらいいの」

これからとはいったいなにを指しての質問だろうか。

帰るべきか残るべきかTo be back, or not、それが質問なのだな」

朝比奈さんはうなずいた。ハリーは俺の顔を一瞥いちべつして、それから母親と目を合わせた。

「これはシスタークレインの受け売りだが。そなえあればうれいなしと考えあれこれ模索もさくするのもよいが、起きたことを受けとめどうやって解決するかを考えるほうが大事である、と。母上。あなたの中ではもう答えは出ているのではないだろうか。それに従えばよい」

朝比奈さんは少しだけ目をうるませて、それからうなずいた。

「ありがとう、ハリー」

「うむ。それでは諸君、また……再会の日に」

ハリーは小さな口であくびをし、目を閉じ、やがて生まれてきたときと同じようにほぎゃーほぎゃーと泣き出した。顔をクシャクシャにしたその泣きつらに、一同はなつかしさを感じたのか微笑ほほえんでながめていた。

「── ホギャーホギャー、こういうふうに泣けばいいのだな?」

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