第五部 朝比奈みくるの逆説
三十一章
ようやく寝室の中に入る許可が降りて、
「おめでとうございます、マイレディ」
「ありがとうキョンくん」
ボリュームのある髪が汗にまみれほっそりして見えるお母さんに抱っこされ、シーツでぐるぐる巻きにされた赤ん坊が顔をクシャクシャにしながらほぎゃーほぎゃーと泣き叫んでいる。
「おめでとうございます。元気な子に育ちますように。付き
さりげにカッコつけて
「いやぁ、一時はどうなることかと思ったけどね」
たしかに
「よくやった。本当によくやったマイレディ。そして支援してくれた皆のおかげだ。本当にありがとう」
「あー、お祝いはいいんだけどアンタ達、肝心なこと忘れてるわよ」
「なんだ肝心なことって」
「この子の名前はいったいなんなの」
いやぁ、すっかり忘れていたアハハハ、と伯爵一同は自分の頭をペンっと叩いた。
「そうだな。思ったんだが、いろいろ世話になったことだし、ミス・スズミヤの名前をもらって、男性風にハリーというのはどうだろうか」
その場の空気が、というか俺と長門と古泉の三人がスマイルのままビシと固まった。ちょっと待ってください突然何を言い出すんですかあなた、よりにもよってハルヒの名前を付けるとか、イングランド
朝比奈さんの表情をうかがってみると、大反対するかと思いきや、
「いい名前だわ。ハリーにしましょう。涼宮さん、どうかしら」
「べ、別にいいけど」
ほっぺたが少し赤いが、お前それデレてるのか。だったらもっと素直に喜べ。
「マイレディ、ほんとにそれでいいんですか」
「ええ、涼宮さんみたいな力強さが宿ってくれれば嬉しいわ」
力が強すぎてなにもかもぶっ壊しそうな名前なんですが。いや待てよ……たしかこの名前には聞き覚えがある。長門がこっそり俺に耳打ちしたところによれば、
「……ハリーの正式な
なーるほど、この子がヘンリー三世か。俺と古泉はグーで手のひらをポンと叩いた。
「ハリー、あなたのママよ」
などと
「はー、重たいわ。やっとコレが役に立つ日が来たのね」
肩の荷が降りた的なため息を
「変ね。シスター、おっぱいが出ないわ」
「母乳かい? 三日くらいはいくら吸っても出ないよ」
「え、そうなの?」
そういうもんなの? という顔を全員が向けると、
「お産で体力使い果たしてるのに、いきなり母乳出せってのも無理な話さ。それに、初めての赤ちゃんのときはなかなか出ないっていうね」
なるほどね。長門メディカルの解説によると、
「じゃあ赤ちゃんは三日間なにも栄養が取れないの?」
「心配ご無用、こんなこともあろうかと、」
みんなは一瞬シスターが
「アハハッあたしが母乳出るわけないじゃん。ちゃんと
ですよね。修道女ですもんね。
「ところで修道士殿、この子の洗礼をお願いしたいのだが」
「ええっと、洗礼、洗礼ね。やりましょう」
「マイレディ、ちょっと失礼して私はハリーを連れて礼拝堂へ行ってくるのでな」
「ええ、お願いね」
ところがハルヒは伯爵の耳をひっぱってヒソヒソと、
「あんたはダメよ伯爵、みくるちゃんのそばにいなさい」
「しかし、」
「出産から二時間はいっしょにいなきゃだめなの。体の具合が急変するかもしれないから」
「そうなのか……」
小声の会話が丸聞こえなのは突っ込まないとして、十分にビビらせておいて二人きりにさせてやろうというハルヒの
「ではコイズミ殿、
「
「よろしく頼む。
伯爵は部屋の中を見回し、長門とハルヒのどっちに頼もうか、
「マイロード、この際だから二人に頼みましょう」
俺が提案すると伯爵もうなずいた。
「そうだな。じゃ、よろしく頼む」
あたしがやりたかったのにとハルヒがごねたりするのも面倒だしな。
朝比奈さんと伯爵と鶴屋さんを寝室に残し、ハルヒがハリーを抱っこして先頭を行き、俺達はぞろぞろと後をついて階段を降りた。廊下ではメイドさんと兵士さんたちに囲まれ、十字を切って祝福をしてくれた。玄関を出るとそこには待っていたとばかりに領民がワッと
洗礼の用意をなにもしていなかったことに気が付き、俺はメイドさんにぬるま湯の入った
「あー、おほん。子羊らよ、主の聖なる教会にて神聖なる水の清めの
「なんで平安調なのよ、
イテテ、こ、これ心もとなき
台所から小分けにしてもらった塩をひとつまみ取り、赤子の口に入れると、なんつー
「して、子の名はなんと申すか」
「ハリーだっつってんでしょ、下手な古英語しゃべってないでさっさとやんなさい」
あー、混乱しかねんので翻訳ナノマシンに任せているが、ここでハルヒがしゃべっているのは日本語である。
「ハリー。うむ、今にも
「ここにおります、
「よかろう。正当なる母、あるいはその代理は、」
「ここに二人もおるわ! だから、さっさと水浴びさせろ、っつー、の」
おお子羊よ、いくら力があり余ってるからって司祭にバックドロップはいかんですよ。
「よろしい。では、祭壇へ」
果たしてメイドさんが速攻でお湯を沸かし、もうもうと湯気の立つ風呂を祭壇の前に用意してくれていた。このまま俺が
「父と子と聖霊の名において、
そこにいる全員でアーメンと
温泉好きなら物足りないかもしれない
「油、油を忘れたぞ。メイドさん、その辺にメイドさんはおらぬか」
「……こんなこともあろうかと」
長門が微妙なドヤ顔で取り出したのは秘伝の薬、じゃなくてオリーブ油の小瓶である。ありがとよ。俺は祭壇に小瓶を置いてムニャムニャとインスタントの
「えーとだな、ここで誰かに誓いの言葉ってやつをやってもらいたいんだが。この子が元気に育つように全力で尽くします、みたいな感じで」
「あ、思いついた。それあたしがやる!」
ハルヒが手を上げて叫んだが、一瞬遅れて古泉が、
「よろしければその役は僕に!」
「……私がやりたい」
長門まで。なんだ、お前らいったいなにを
「んじゃあ、と、ここは
あいにくと爪楊枝なんて便利なものはこの時代にはないので、
「えーと、じゃあ古泉から引け」
「はい、赤ですね」
「当たり!
「ありがとうございます
「じゃ次に長門引け」
「……赤」
「当たり! 連発しての特等、大当たりでございます! おめでとう長門くん」
「……ありがとう神父殿、日頃の行いにちがいない」
「では、聖なるくじ引きの神様に向かって誓いの言葉をどうぞ」
「主よ、
「……赤子ハリーが歴史に準じつつ、一般的な人間としてまっとうな人生を過ごせるよう
「アーメン」
ハルヒは同意を
赤ちゃんはどこから来るのと子供に尋ねられて、そりゃあお前、フリーダイヤルで神様に注文するとコウノトリさんがデリバリーしてくれるんだよともっともらしく説教しているところへコウノトリさんが飛んできて、俺の頭にレンガを落としていったところで目が覚めた。時計を見るとまだ四時だった。
なんで目が覚めたかというと理由その一、ベットから落ちて
「こんな朝っぱらからなにをやっとるんだあいつは」
パジャマのまま十一月の早朝の寒さに身震いしながら礼拝堂付属の
声のもとは朝比奈さんの寝室の隣で、俺はノックして中に入った。一時的にここが
「おーいなにやっとるんだ。城中に聞こえてるぞ」
食事中の諸君にはビジュアル的ですまないが、クリーム系の黄色まみれになったハルヒが涙目になりながら赤子ハリー様のおむつを替えようとしているその真っ最中であった。床一面に
「キョ……いいところに参った。おぬしに
「お断り申す。っていうか今何時だと思ってんだハルヒ」
「あんたねえ、乳幼児は時間の概念があたしたちと違うの」
まあ未来人の子供だからそうかもしれんな、などというどうでもいいボケは置いといて。見ると、長門と
「朝比奈さんはどうしてんだ?」
「みくるちゃんはお産で疲れてるから、あたしがありがたくサポートしてるのに決まってんでしょ」
ああそうですか。それはたいへんですねー(棒)。
「しょうがねえな。俺が抱っこしててやるから、ちょっと休んでろ」
包帯みたいな布でぐるぐる巻になったハリーを受け取り、首が座ってないからねとと再度念を押された。
「さぁハリーちゃん、ヒステリックなおねーたんは放っといて、おにーたんが遊んであげまちゅからねー」
などと自分で言ってて微妙にイライラする赤ちゃん言葉であやしたりしている。言い返す気力もないわという風にハルヒはベットにぶっ倒れていきなりいびきをかき始めた。品がないぞ。ハリー様はお前みたいなのとは育ちが違うんだよ、なあ未来の王子様。おとなしいじゃないか、じいやと呼んでくれていいのだよ。
こんな
「どうだ、ここがお前の城だぞ。将来は城主だぞ」
廊下に立ててある
ひととおり顔合わせが終わり、俺がハリーを抱えて、おねーたんバイバイをやってみせるとメイドさん達の母性を超くすぐったらしく超ウケていた。
また元の階段を登り、壁にかかっているかつての領主の肖像画をひとつずつ見ていくと、父親の絵の前でハリーが突然泣き始めた。
「なんだなんだ、親父が嫌いなのか」
おむつに手を当てるとジトっと湿っている。俺は階段をいそいそと小走りに登り、子供部屋に戻った。
ハルヒは
テーブルの上に寝かせて、ミイラ式にぐるぐる巻にされた布を
えーとおむつ、おむつ、と、替えのやつを取ろうとした瞬間、ぶびびっとリアルな音。リアルな色と粘度。リアルなかぐわしい香り。しかも二発目には俺の服にど真ん中ストライクしやがった。俺は胃がこみ上げそうになるのを必死でこらえつつ、
新しいおむつを一枚、三角形に折って……ええっとどうやって包むんだ、忘れた。まずお尻の穴からチムチムにかけて真っ直ぐに
「ハリーお前もしかしてわざとやってんのか」
と怒ってみせるとハリーは喜んでいるようで、歯のない口を開けてベイビースマイルをみせた。ハァもう俺なんでも許しちゃう的な。
「もうキョンちがうー、そうじゃない。あたしに貸しなさい」
「このぐるぐる巻のミイラって、漫画じゃよく見るけど血行悪くならないのか」
「あたしもそう思うんだけど、皮膚が弱いし関節が固まってないからこうやってるらしいわ。もう少ししたら
おっぱいをチャージしていた
十分くらいするとチューチュー吸う音が終わって、ハリーは途中で眠り込んだようだ。おばちゃんは唇に指を当ててシーシー静かにと言い、なるべくそっと地雷を起動させないようにとベットに寝かせた。俺は抜き足差し足で部屋から出て、ドアを閉めて速攻で逃げ出した。いやー、あれを何ヶ月もやれと言われたら俺未来に帰るわ。
その後俺は二度と子供部屋には近づかず、遠くから女どもが右往左往する様子を
ハルヒと長門と朝比奈さん、そして
鶴屋さんがときどきハリーと朝比奈さんの診断に来ているが、
「三人とも、ちょいと休んだほうがいいかもだねえ」
「だ、大丈夫よシスター。我が子のためですから……」
「ハァ……なんのなんの、あたしたちがやんないとハリーはちゃんと育たないわよ、ねえ有希……」
「……
「みんな気を張り詰めすぎだよ。適当に手抜きもしなきゃ、完璧にやろうとすると壊れちゃうよ」
笑いながら心配する鶴屋さんの声が聞こえているのかどうか、目の下にたるんだ
「顔色悪いぞ長門、少し休め。休暇にでも行ってきたらどうだ」
「そうだな、しばらく温泉にでも行ってきたらいかがかな」
伯爵が心配して子供部屋を覗きに来ている。
「マイロード、イングランドに温泉があるんですか?」
「あるとも。ローマ時代からやっているよ」
ほーほー、そんなゴーシャスな休養施設があったとは。
「どこにあるんです?」
「隣のサマセットシャーだな。今は修道院が経営している。ここから馬で半日くらいだ」
おお、近いじゃん。その名のとおり、バースという町にあるらしい。
いいのよあたしたちは死んでもハリーの面倒を見るんだから、と青白い顔でゴネるハルヒを箱馬車に押し込み、まあ後のことは俺たちに任せてゆっくり湯にでも
馬車を見送った後、俺達はさっそく腕まくりをし戦闘を開始した。
「マイロード! まだです! 先にお湯で
「修道士殿、どの辺を
「チムチムが城、その周りが領地です」
「ぐぬぬぬ、おむつが結べぬ。おむつが、おむつが
「内側から外側に攻めるんです、ひっくり返すんですよ」
「ぬおおおぉうんこの待ち
「了解しました、全軍前進」
「あて布がまだだぞ古泉、それだとチムチムが丸出しだ」
「これはとんだ失敬を、おおっと! これは見事なおしっこ砲の集中砲火です。完成度たけーなおい!」
おむつ一枚交換するのにこれだけの大騒ぎなわけで、俺達スリーセニョールがどんな育児スキルを持っているかは想像するに
朝比奈さん達が出かけてから数時間後、伯爵が駆け込んできた。
「修道士殿! 修道士殿はおらぬか! 一大事だ」
「どうしましたマイロード」
「
「ありゃりゃ、そりゃ困りましたね。ハリー様のお乳が、」
「どうすればいいのだ。このままだとハリーが
「シスターに応援を頼みましょう」
よしっ、と伯爵自ら助産院まで駆け出していって主治医兼保健婦さんを連れてきた。
「呼ばれて飛び出てジャジャジャーン。呼んだかいブラザー?」
「
「その辺はまだ大丈夫だよ、赤ちゃんには
「大至急、二人目の
「困ったね。もう夜だし、今から呼んで来てもらうのも間に合わないねえ」
「そのへんを一軒ずつまわって母乳を恵んでもらいましょうか」
「それもありだけどブラザー、ヤギ! ヤギだよヤギ」
「メエエェ」
「誰がモノマネしろと言ったにょろ! マイロード、城でヤギを飼ってるよね」
「あ、ああ。チーズを作っている」
「ヤギの乳は母乳に近いんだよ。大至急乳を
「イェスマム!」
伯爵と共にイギリス式の敬礼をして台所に駆け下り、俺がヤギ小屋に走り、寝ていたヤギを叩き起こしメェメェ嫌がるところを無理やり
「それが
「そだよ。
なるほど。これがなんとローマ帝国時代からあるんだそうだ。見た目がなんとなく日本の
人肌並みの温度を確かめ、寝ているハリーの口元に持っていくと器用にチューチューと吸い始めた。その様子を見て俺と伯爵はハーと長い
「修道士殿……」
「なんでしょうか」
「結婚なんてするもんじゃないな」
「
そこからは寝かせる、おむつ、ヤギ、
「あの、僕はこれから夜警につかないといけないのですが……」
「だめだ古泉、お前はハリー様の
古泉がなんだかんだ理由をつけて逃げ出そうとするのを必死で
「あの、修道士殿、私は明日朝早くに鹿狩りの約束をしているので寝てもいいだろうか……」
「だめですマイロード、狩りの
だめですよ伯爵、あなたもこじつけて逃げようとしてますよね。
果てしなく続く無限ループの中、そのまま夜が明けて、ぐったりとした伯爵が眠い目をしながら知り合いの貴族と城を出ていった。俺と古泉は朝飯を食いながら
「どうしたんだハリー」
「おむつは濡れていないし、さっきミルクを飲ませたばかりだし、どうしたんでしょうね」
「退屈してるのかもしれん。ちょっとあやしてみろ」
「え、僕がですか。じゃ、ハリー様ハリー様、お察しの通り超能力者の古泉ですよー、
二十四歳騎士コスプレのイケメン野郎がいないないばーもなかなか
「生後一ヶ月はほとんど見えてないらしいぞ」
「先に言ってくださいよ」
それから俺が抱っこして部屋中を散歩してみたり、美人のメイドさんなら
「きっとお母さんがいないので泣いているのでしょう」
「まあ、赤ん坊ってのは泣くもんだ」
しかし泣き止まないのは気になる。というか耳がキンキンしてもう俺一日でノイローゼになりそうな、おむつを替えなくて済むなら俺一生礼拝やっててもいい、みたいな。あ、そうだ。
「よし、風呂に入れてみよう」
「
「赤ちゃんはよく汗をかくらしいから、もしかしたら肌がベトベトして気持ち悪いのかもしれん」
俺は幼児洗礼のときに使った
「あー、父と子と聖霊の名においてお前を風呂に入れる。頼むから
メイドさん達もアーメンを
「どうだハリー、お前にも半分くらいは日本人の血が流れてるだろ。だったら風呂の気持ちよさは分かるよな」
薄い布で顔を
しばらくプカプカ浮かんで
「あははっ、そりゃー運動がしたかったのかもよ」
昼頃、ハリーとスリーセニョールの様子を見に来た鶴屋さんが笑いながら言った。
「赤ちゃんが運動不足になるんですか?」
「考えてもごらんよ。布でぐるぐる巻きにされてて、一日中おっかさんに抱かれて、飲んでるか寝てるか出してるか、ほかにやることがなかったら、そりゃー飽きるってもんだよ」
「そうですよね。飲ませて出させて寝かせてた俺達もいい加減飽きましたもん」
「そんなズボラなキミたちのために、いいことを教えてあげよう。見ててごらん」
俺達三人が興味
古泉が新たな発見に深く
「赤ちゃんってこんなことできるんですか」
「まだハイハイできなくても蹴ることはできるんさ。
鶴屋さんに変わって古泉がやってみるが、同じようにキックしてみせる。そいやキックするのはお腹の中にいた頃にもあったな。
「面白い反応だな」
「これを繰り返すといい運動になりそうですね。体力を使い果たせばそのうち眠るでしょう」
「赤ちゃんも毎日栄養を
「なるほど。どうやらハリー様を退屈させていてはだめなようですね」
似たようなセリフをずいぶん昔に聞いたような覚えがあるな。
それからおむつ、ヤギ、
鹿狩りに来ていた近隣の貴族たちがお祝いの面会に来て、さすがは伯爵の血筋で
さて朝比奈さん達スリーセニョリータはおよそ一週間後に帰ってきた。朝比奈さんだけは我が子のことが心配で心配で、一足先に帰ろうと思っていたらしいのだが、たまには男どもにも苦労させなさいとダメよハルヒが言うので黙って湯に
「どうよ、あたしたちの苦労が少しは分かったかしらねえ」
「まあな。だいぶ感覚が
かつてはオウフとこみ上げるものがあったが、ハリーの高貴なる尻がお出しになったリアルに
そしてまたもや
ハルヒは木製の洗濯バサミで鼻を
「あー、ハリーったらいつまでオムツしてんの。早く大人にならないかしらね。そしたら二十一世紀の知識をゴマンと
などと鼻声でのたまっている。
「やめとけハルヒ。そんなことしたら世界史がひっくり返っちまうぞ」
「いいじゃない別に。産業革命が十二世紀でも十九世紀でもたいして違わないわよ」
お前、長門が作った麦
まあいくらハルヒとはいえ、そんな一晩でセンセーショナルな進化を
「あーところで諸君、その宇宙人魔法使いと未来人メイドの対決は、その後決着はついたのかね?」
「今の誰だ?」
「わたしだ、ハリーだ。目の前にいるではないか」
「え、ええぇェ!?」
確かに眼の前にいるのは長門に抱っこされたハリーのみである。長門が
「長門、マジか、これってマジなのか」
長門に向かって尋ねるが、
「……まじ」
「わたしはこの世に
うわーやっちまったのかハルヒ。酒造と育児にかまけて最近大人しくしてると思ってたら
朝比奈さんはまるで自分の子供にエイリアンが卵を産み付けたかのように目ん玉を大きく見開いて歯をカチカチ言わせている。
「おいハリー、一ヶ月そこらでってのがそもそも無理があるだろ。人のボキャブラリーってのは親から教わってはじめて使えるようになるもんなんだよ」
「キミは私の月齢をまだ一ヶ月と
な、なんだってー!?
「朝比奈さんのお
「別に聞き耳を立てていたわけではないのだが、
ハリーは
いろいろと突っ込みどころを間違っているのは重々承知だが、なんつーこった。こんな中世の果てまで来て非常識な存在が一人増えやがった。朝比奈さんから生まれたというからにはなにかあるだろうとは思っていたが、まさかこんなスーパーナチュラルベイビーになってしまうとはなあ。
っていうか随分前にも同じようなことがあったような気がする。その
「あのなハリー、別にお前を
まあここはあのときと同じように説得しよう、と試みるも、いきなりドアが開いて、
「おはようマイレディ、修道士殿、皆おそろいで」
やっべえ、父親が入ってきた。父親だけじゃない、祝いの客人も何人か入ってきたぞ。ハリーはまだ座っていないはずの首を九十度回し、
「なんだ父上か。あいかわらず寝ぼけた顔をしているな。こんな男からよくわたしのような者が生まれたものだな」
父親以下、客一同の足がピタと止まり部屋が凍りついた。今のはいったい誰の声だと伯爵が朝比奈さんの顔を見ている。朝比奈さんは口をパクパクしてなにをどう
「おいハリー黙ってろ、お前がしゃべるとややこしいことになるんだよ」
「よいではないか。キミも言っていたとおり、わたしは将来この領地を
長門がハリーの口をおさえ、
「……今のは、腹話術」
何のことか分からなかったようで、一瞬の後に伯爵と客人がドッと笑った。
「実に面白い。ミス・ユキリナは器用な芸当をなさる」
笑いながらハリーの頭をなでた。ハリーは
伯爵は客の一人ひとりにハリーを抱かせて、
「ハリー、気をつけたほうがいい。この時代じゃ人間以外のもんがしゃべったりすると大変なことになるんだぞ」
「なに、するとわたしは人以外の存在なのか」
「い、いやそういう意味じゃなくてだなあ」
俺は頭痛に見舞われそうになって
「なるほど、それでだったのか」
「なにかあったのか」
「今朝、わたしがおむつのくるみ方について
「おいおいおい」
やべー、そういうのはすぐに城中に広まるぞ。
「危うく火あぶりの刑に処されるところだった。ご忠告に感謝するキョン殿」
まあいくら早熟の子供でも三歳くらいまでは大人しくしといたほうがいいだろう。っていうかハリー、お前もその名で俺を呼ぶのか。
「ハリー、ハリー、あなた本当にわたしの言ってることが分かってるの?」
やっと正気に戻ったらしい朝比奈さんが青筋を立てながらハリーのほっぺたをプニプニとつねっている。
「ハワワワ気をつけてくれないか母上、わたしはまだ首の関節が定まっていないのだ。そう、確かにわたしは人の言葉に聞こえるかのような音を出しているかもしれん。だがしかし、オウムや九官鳥などの
どっかで聞いたようなセリフだな。っていうか十分ヤバイほど言葉を発してるだろ。
「ま、まさかほんとに。涼宮さんたらなんてこと」
自分がお腹を痛めて生んだ子をチャイルドプレイみたいに、などと
「それほど驚くようなことではあるまい。わたしの発している空気の波が偶然にも母上の質問に対する応答に
「ハリー、わたしの言うことが分かるなら赤ん坊らしくオギャアと泣いてるだけにしてもらいたいの」
「それは無理な相談だ。オギャアというのは感情を発しているだけで
「泣かないとおっぱい抜きです」
「オギャー」
分かりやすすぎるぞ。
「しっかし困ったぞ。シャミセンのときは強引にフィクションにしちまったが、今度はなまじリアルだぞ。どうするんだこいつ」
「こいつ呼ばわりとは失敬な。わたしはキミがかつて恋い
「黙れ新生児」
古泉が笑いながら間に入り、
「ひとつだけ、以前とは違うことがありますよ」
「なんだ」
「あと数年もすればハリー様が普通に会話してもなんの違和感もなくなる、つまり時間が解決するということです」
「母親に
「中世には数多くの天才が生まれました。ハリー様がそのうちの一人として存在しても、何の不都合がありましょうか」
座っていないはずの首でハリーは深くうなずき、
「コイズミ殿、キミはなかなかにモノの分かる男だな」
「
なんだあ、古泉はさっそく次期領主のご
「天才っていうかだなあ……。今回は猫じゃないってのがいちばんの頭痛の種だと思うんだが」
「どういうことでしょうか」
「よくは説明できんが、ハリーがこういう非常識な状態になっちまったのはいいとしても、俺達はそれを一度聞いちまったんで、今さら言語能力を取り上げるのは
「あなたにしては随分と哲学的な
「俺が言ってるのはだな、いくらハルヒがやっちまったことでも、元に戻せない、不可逆的なもんがあるってことだよ」
俺は思いついたことがつい口をついて出てしまい、母親の気持ちを聞いてないことに気がつき、はたと朝比奈さんを見た。
「ハリーの声を聞いたら、なんだかずっと前からこうだった気がしてきたわ」
あなたまでなにを言ってるんですかマイレディ。
「朝比奈さん、いいんですかこのままで」
「しょうがないわ。涼宮さんが望んだことだもの。ただしね、ハリー」
「わたしの存在は
「
「いいとも、いい響きだ。ママ、そろそろおっぱいを吸わせていただけないだろうか。わたしの胃袋は小さいので栄養をストックできないのだ」
「あ、はいはい。どうぞ」
「では、遠慮なくいただくよ。んっんっんっ、今日のおっぱいはまた格別の味わいだな」
人を人たらしめている言語機能についての会話の直後に
「おいハリー、今はいいけどな、ところ構わずしゃべるのはやめとけよ。とくにハルヒの前ではな」
「分かっているとも。わたしとて名付け親の秘密を
「後のフォローが大変なんだから、気をつけてくれよな」
まったくハルヒのやつ、後始末する人間の身にもなってみろってんだ。おむつの交換のほうがまだマシだ。
「ところで少年、さっきの質問だが」
俺が少年呼ばわりされたらお前はいったい何なんだよ。
「なんだ? 禁則事項なら言わんぞ」
「宇宙人魔法使いと未来人メイドの決着について知りたいのだが」
俺はチラと朝比奈さんと長門を見て、
「それはもう終わった、というかエンディングを
「
「長門ユキの逆襲Episode_00ではそういう展開だったかな」
「そうではない、現実の話をしているのだ」
「あれは映画の話だろ、何の現実だ」
ハリーは薄く毛の生えた右の
「ミス・ナガティウス、キョン殿は
「……コメントできない」
「どうやらあなたも苦労なさっているようだな」
「……」
長門が少しだけはにかんでいる。俺にだけ分からん会話してからに。
さて城ではそろそろクリスマスだ。吐く息は白く、暖炉の前からはなるべく離れがたい冬の一日である。大聖堂でのクリスマスイベントもさながら、伯爵はほうぼうへの贈り物や執事さんとメイドさんたちへのボーナスの準備に大忙しである。ハルヒ的には、キリスト教の慣わしに参加したいのはやまやまだが、やっぱり素直になれなくて十二月生まれのお誕生会開催を主張した。偶然にもメイドさんの一人が十二月生まれだとかでバースデーパーティをやることになり、ハルヒ自ら手編みの手袋をプレゼントとして贈っている。もともとはハリー用の小さなミトンを作るはずがサイズを間違えて大人用になってしまったのらしいが。
「ところで修道士殿」
「なんだハリー、その呼び方は伯爵と
ハリーは小さな毛糸の靴下を
「もうキョン殿、このクリスマスという
「なんだ。プレゼントが気に入らんのか」
「そうではない、起源についてだ。イスラエルという土地だが、冬は大変に冷え込むと聞いている。ヨセフとマリアは本当に
いつもならこんなどうでもいい質問は適当に受け流す俺も、今日は暇を持て余していて、というかハルヒが作った発泡酒が回っていたので舌の方も回り、
「そりゃーあれだ、十二月ってことにしといたほうが都合がいい業界の事情ってやつだよ。教会は寄付で
「ふーむ。正論だけでは解決できない大人の事情というものか」
ハリーはサンタコスでダンスを踊るハルヒを
「お前にはまだ分からんかもしれんが、大人には理不尽な苦労があんの」
「それで母上が泣いてたのか……」
「なに、今、なんと言った」
俺の耳がピクと動いた。
「母上がお悩みのご様子でな」
「なにがあったんだ? もしかして
夫婦の間のことに口を
「本当は一晩ほどの長い時間をかけて二人が話し合っていたのだがな。キミのために結論だけを説明すると、もし父上とわたしのどちらかを選択しなければならないような事態になった場合、迷わずわたしのほうを取れというのだ」
「どゆことですか新生児殿」
「理解のない男だな。父上は、城の存続が
なるほど。俺はそれがどういう状況か想像しての後、
「そりゃまあ、伯爵としてはそうだろうな」
「母上は三人で逃げようと泣いて
「上に立つものの苦労だな。立派な
はからずもハリーを介して貴族夫婦の密談を知り、もしそういう事態になったら、俺は伯爵ではなく朝比奈さんのほうを優先して守らなければならない立場にいるのだということに気付かされた。
「まったくそのとおりだね、修道士殿」
横からボソリと呼びかけられてふり向くと、パーティ客に混じってモソモソとテーブルの上の肉を食っていると思っていた修道服のおっさんが、フードをチラと持ち上げてこっちを見た。お、オォォ王様? あんたこんなとこでなにやってんですかまたお忍びですか。俺が
「待って待って、それやめて。今ここで正体がバレたら大騒ぎになるからね、シーッ」
ハリーは目をまんまるに開いて、
「これはこれはリチャード陛下、家臣ジョンが
「ああそうだ、ハリーちゃんにお祝いを言いに来たんだったよ。この度は無事この世に
「ありがとうございます陛下。お言葉ながら、わたしは母親似だとよく言われるのです」
「違いない」
「キミが生まれたということは、グロースターもこれで
「陛下の
「うんうん。伝えられたものを守り、後世に引き
王様はヘタレな割にけっこうまともなことも言うんだな。それともアレはただの演技だったのか。
部屋の向こう側で見ていた朝比奈さんがいったい誰と話してるんだろうという視線を向け、それに気づいた王様は
王様はその後、王宮に帰ってしまったかあるいは別のコスプレに着替えて変装したかで、ついに姿を見かけることはなかった。
夜も
「キョンくん、陛下がお見えになってたんでしょう? 知らせてくれればよかったのに」
「え、いやー、最初は知り合いの修道士とばかり思ってたんですけど、今考えたらたしかに王様でしたねえエヘヘ」
などと無理にごまかすしかなかった。
「いいではないか母上。彼には王冠という理不尽な
まあクリスマスだからいいのだ。朝比奈さんは困った顔をして、いつか陛下を
新しいおむつを用意してスタンバってたらしい長門が手招きしている。ハリーを受け取り、ベットの上に毛布を広げて
「ミス・ナガティウス。気づいているかな」
「……なに」
「そなたは美しい。先約がいなければ妻に
「……ありがとう。
「残念ながらわたしにあるのは愛だけだ。時の流れの前にあっては、
「待てい新生児、今のは聞き
手袋はどこだ今すぐ決闘だ決闘パーティだハァハァと鼻息も荒い俺をニヤニヤ視しながら、ハリーと長門は
「キョン殿、今のは腹話術だ」
って今の全部ハリーの一人芝居? 長門の腹話術の
「……落ち着いて」
「ハイ落ち着いた」
「……新生児殿、折り入って意見を聞きたい」
「わたしに答えられる内容であれば、なんなりと」
「朝比奈ミクルの冒険in中世の劇中、錬金術師は目的を果たすことが困難になった」
「そうだったな。あの
「……ミクルがイツキと
「錬金術師はどう処するべきか、ということかな」
「……そう」
「残念ながらミス・ナガティウス、問題が大きすぎてわたしには明確な答えが出せない。なので参考程度にしかならないかもしれない」
「……構わない」
「思うに、この脚本には原案があったのだろう。もともとミクルとイツキが結ばれる話ではなかった。それをイギリス大衆文芸としてまとめたのが今回のシナリオ、ということではないかな」
「……正しい」
「ということは、あなたも含めて、ハッピーエンディングが大衆の総意だったということになる。大衆の総意はつまり既定の流れを作る。彼女はイツキの人生の一部となってしまったがゆえに守るべきものが生じた。それが
「……そう」
「ならば結ばれた二人の人生を、遠く離れたところから見守るしかないのではないだろうか。馬を連れてな」
「……わたしも一旦はそう結論付けた。でも迷っている」
「錬金術師が言ったとおり、一方を取れば他方を失う、これが自らのジレンマとなって返ってきたわけだな」
「……そうかもしれない」
「どちらを選んだにせよ欠けるものがある。ならば、あらかじめ答えを持っている誰かに選んでもらってはどうだろうか」
「……誰か……」
「
「……いい。助言に感謝する」
「ところで……当の人物はこのことに気づいているのだろうか?」
ハリーと長門が首を
「鍵というものは罪深きものだな」
「……自らの役割を自覚できない。それが鍵の役割」
長門は微妙に
「
聞き耳を立てている古泉が笑ってうなずいていた。まーた俺にだけ分からん会話か。
「……そう。わたしが監視しているのはむしろ扉」
「思うのだが、閉じ込められているのは、実は扉のこちら側なのではないだろうか」
「……」
おむつ交換の手を止め、ホウという感じに長門が右の眉毛を上げた。
「自律進化とは時間軸に支配されている。だがすべての要素は最初から
「……それは的を射た指摘。扉のこちら側ではさらに上を目指すか、新たな概念を生み出し続けるしかない。さもなくば同じことを繰り返すしかない、と」
「新たな概念をいくら生み出しても元が同じ要素であるゆえに、無限にノイズも増え続け、
「拝聴する」
「ひとつめは、崩壊する前に意図的に諸要素に戻してしまう。同じ時系列でインフレとクランチを繰り返すのだ。ふたつめは、時間構造そのものをやめてしまう」
「……進化しなければならない理由はない、と」
「無論これは扉が扉のまま終わるという前提に基づいたものだが」
「……わたしたちは自らを時間で
「解決できるのだとすれば、扉の向こう側では時間の概念そのものが異なっているのだろう。たぶんそれを作っているのが鍵ということにちがいない」
「……理解した。時間を支配するものが進化を制する」
「ミス・ナガティウス、実に有意義な会話ができて楽しかった」
「……わたしも礼を言いたい。
宇宙
「さて母上。わたしの持ち時間はそろそろ終わりのようだ。キミたちとの会話もこれが最後だな」
「ええっハリー、終わりって、元に戻っちゃうの?」
「そのようだ。わたしの言語能力は期間限定だった。それがミス・スズミヤの常識的な能力の行使だったのだろう」
さっきの会話に入りたそうにしていた古泉は
「ハリー様、ご自分の能力は涼宮さんに与えられたものだとご存知だったのですか」
「もちろんだ。このような非常識な言語能力は自然発生するものではない。ではいったいどこから来たのか。生物学的な能力だとすれば、コイズミ殿と同じものに違いない。そうだろう。同時に、非常識ではありながらもありがたいと思っている。幼少期における
「通常の言語能力はおありなのですね。つまりあと数年もすれば、」
「おそらくそうなるだろうう。およそ三年後には
朝比奈さんはまるで母を残して行ってしまう子供にすがるように、
「ま、待ってちょうだいハリー。わたしは……わたしはこれからどうしたらいいの」
これからとはいったいなにを指しての質問だろうか。
「
朝比奈さんはうなずいた。ハリーは俺の顔を
「これはシスタークレインの受け売りだが。
朝比奈さんは少しだけ目をうるませて、それからうなずいた。
「ありがとう、ハリー」
「うむ。それでは諸君、また……再会の日に」
ハリーは小さな口であくびをし、目を閉じ、やがて生まれてきたときと同じようにほぎゃーほぎゃーと泣き出した。顔をクシャクシャにしたその泣き
「── ホギャーホギャー、こういうふうに泣けばいいのだな?」
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