三十章

 時は秋、窓から入ってくる夜風もそろそろ冷たくなってきた、ある晴れた晩。見舞いと称して朝比奈さんの寝室にたむろする俺達は、ハルヒがぽっこりお腹にほおずりするのをほのぼのとながめている。

「さーて、今日はなんの話をしてあげようかしらねぇ」

お前の話はいつもとりとめがなくて、カタストロフィなしの叙事詩じょじしみたいなもんだからな。

 このところハルヒの日課は、そろそろ八ヶ月になる胎児に天才教育をほどこすことだった。最初はご存知の通りハルヒのソロライブだったが、レパートリーがそれほどないのと、カブトムシ五人組でも飛行船作った伯爵でも未来の歌は絶対アカンと阻止そししたのがこうそうしたのか途中で熱が冷めて下火になり終演となった。

 歌の次は朗読会である。朝比奈ミクルの冒険シリーズでノベライズされたのは長門作のin中世一冊だけなので、これを英訳してボソボソと読み聞かせていた。思いのほか反響が良かったらしく、赤ちゃんはお腹の中からポコポコと盛んに壁を蹴とばしている。

 この時代で子供に聞かせられるようなお話はそれほど多くなく、じゃあ俺が創世記をファンタジー風にかいつまんで語ってやろうというと、ハルヒはアラビアンナイトにするべきだわと言い張った。まあ今後も十字軍遠征が続くわけでこの子も将来は遠征するだろうから、多少はアラビアの文化を知っといてもいいだろうと、役をゆずってやった。

「ハルヒ、なんでもいいが短めで頼むわ」

長編はいろいろと疲れるからな。

「あたしだってそんなに持ちネタないわよ。むかーしむかしあるところに、帝国の下っ貴族と、労働組合のボスがいました。ボスにはあたしみたいなきれいな秘書官のお姉ちゃんがいてね」

それ長いやつ、超長い大作だから。

 朝比奈さんがSFの超大作なんかどうでもいいわ風にあくびをしながら、

「最近赤ちゃん動かないんだけど、大丈夫かしら」

「それはあれじゃない? 大きくなったから動くスペースがなくなったからでしょ。だんだん骨盤の中に入ってくるっていうし」

「そうなのかしら」

と大きくなったお腹をなでている。長門がそそっと近寄り俺の耳元で、

「……今夜あたり」

「え、今日生まれるのか。まだ八ヶ月だろ」

「……既定に従えば」

ナイショ話が聞こえたらしい朝比奈さんがガバと身を起こし、

「そうなの? 長門さん」

「……そう」

長門はチラとハルヒを見た。俺と朝比奈さんと古泉はなーるほど、そういうことか、という表情でアイコンタクトによる会話をした。ちゃんと九ヶ月は腹の中にいろと言ったのに本当にスケジュール前倒しになったのか。既定路線によると、つまり歴史上では本日、いや今からだと明日かもしれん、グロースター伯のお世継よつぎが生まれることになっているらしい。そんな西洋の地方貴族の子供の誕生日なんてチェックしてないって俺。

「── というわけで、組合長と秘書はついに上司と部下の禁断の愛で結ばれたんだけど、続きはあんたが出てきてから話してあげるからね」

ハルヒの忙しい人のための宇宙帝国らしい話が終わると見るや、

「んーっ、なんだか急に痛みが来たわ、続きが待ちきれないのかしら」

朝比奈さんが腰をおさえて、笑いながらしかめ面をしている。ここ二週間ほど何度も産む産む詐欺さぎをやったせいで、ハルヒはフーンまた前駆陣痛ぜんくじんつうなの、またまたぁもうあわてないわよというようにクールに構えている。

 朝比奈さんがパジャマの中に手をやり、

「破水したみたい!」

「ええっマジなの? マジなの? キョン救急車、救急車呼んで今すぐ!」

お前そろそろここが何世紀か覚えろ。

「えーっと産婆さんばさんの電話番号は……っと」

などと俺がボケをかましていると、朝比奈さんの震える左手が伸びてきてむんずと俺のえりぐりをつかみ、

「ギョ、ギョぐん……づるやざんを……呼んで」

歯を食いしばりながら血走った目で低音ボイスを響かせる。

「ハ、ハイ、イマスグー」完全にヨロレイヒ声になっている俺である。


 古泉に、本物の陣痛がはじまりそうだから伯爵を呼んでくれと頼み、聖堂教会助産院に馬車を出してもらって鶴屋さんをむかえに行ってもらった。なぜか鎖帷子くさりかたびらを着た伯爵が階段を駆け上がってきて、

「しゅ、しゅ、修道士殿、いよいよか、いよいよなのか、少し早すぎないだろうか」

「落ち着きなさい伯爵、あんたが堂々と構えてないと勝てるもんも勝てないわよ」

「しかしだなミス・スズミヤ、私にも戦闘の準備というものがハワワワ」

「おいハルヒ、お前がいちばん騒がしいんだよ。将軍は後ろで控えてろ」

「うっさいわね、あたしだってピコピコ産んだりしたいの!」

「皆さんまず落ち着かれてはいかがでしょうか。それから赤子の迎撃げいげきを」

「……問題ない。そちらにオギャーする」

メイドさんに執事さん、夜番やばんの兵士さんまでが寝室に押しかけた。これから子供が生まれるとはとても思えない混沌こんとんとした朝比奈さんの部屋に颯爽さっそうと現れたのは、白衣の天使シスタークレインである。

「さあさあ鶴、じゃなかったシスタークレインのお出ましだよ。野郎どもはとっとと部屋から出ていきな。ここからはレディスタイムだからね」

焼肉屋のレディスデイに迷い込んだあわれな男子高校生のように俺達は隣の部屋に追い立てられ、ドアの前に置かれたベンチに小さくなって座っている。

 鶴屋さんが朝比奈さんのひたいの汗をぬぐうと、その手を握り、

「鶴……さんじゃなくてシスター、来てくれたのね。ありがとう」

「礼を言うにはまだ早いさあ。みくるにゃ頑張ってもらわないといけないからね」

まあレディの寝室は元々男子禁制だったが、無体むたいにもドアを固く閉ざされ、俺達は中から聞こえてくるかしましい、い、いやなまめかしい女どもの声に耳をそばだてるしかなかった。部屋の中から声が聞こえるたびにハラハラしつつため息をついている。というわけで、ここからはだいぶ後になって、現場にいた長門に補足してもらった話になる。

「ふーむ。ほんとに破水してるね。ミクル、痛むかい?」

「ええ、今までのとは全然違うしぼるような感じ。んーっ」

「そいつあ本物だね。今までのは予行演習だ、ここからは本番で行くよ」

「よろしくお願いします」

「任せときな」

鶴屋さんは腕まくりをして、自分の胸をドンと叩いた。

「シスター、何時間くらいかかるのかしら」

分娩ぶんべんかい? まあ人によりけりだね」

「いつ来るか分からないって不安だわ」

「心配ご無用、お産のことは月に任せとけばいいんさ。んーっとね、今日の満潮まんちょうは真夜中つってたから、そのあたりで生まれるんでないかい?」

満潮まんちょうってあの、海のことかしら」

「そだよ。人間ってのはだいたいしおが満ちるときに生まれて、引くときに死ぬんだよ」

へえええ知らんかった、廊下で聞き耳を立てていた野郎全員が声をそろえた。


 ハルヒがドアから出てきて、また戻ってきてなにやら手桶ておけっぽいものを抱えたまま俺達の前を通り過ぎ、

「ちょーっと待ったシスター、お取り込み中悪いんだけど先におまじないさせて」

「おまじない? これはなんだい、エメラルドかい?」

「ちっちっち、そんな高いものじゃないわ。ペルシア舶来の碧玉へきぎょくよ」

あー、なんか見覚えがあるぞ。龍とか玉とか、雑貨の中古品屋にいくと必ずあるわ。縁起えんぎ物で買ってはみたものの処分に困って売られた感が見え見えのやつな。

「ほうほう、どうやって使うんだね」

「んー、使い方までは聞かなかったわね。安産の縁起担えんぎかつぎよ、まあその辺に飾っといて」

「なーるほど。このおけに入った水もかい?」

「それは殺人犯が手を洗った水らしいんだけど」

「ひえぇ、ハルにゃんもまた随分と変わったおまじないを知ってんだね」

「メイドさんに聞いたのよ。これで足を洗うとスムーズに生まれるんだとか言ってたわ」

「へえー」

まさにへーである。

「あと鶴の右足とかあればいいんだけどねえ。猟師に探してもらったんだけど、さすがに手に入んなかったわ」

鶴屋さんはスカートからチラと生足なまあしを出して見せ、

「ひっひっひ、あたしの右足でよければ貸すよ」

「キシシ、たしかに鶴のお御足みあしだわね」

ダジャレか、ダジャレが言いたかっただけか。本人そっちのけでなにやっとるんですかあんたたちは。それを見ていた長門も思うところあるらしく、

「……わたしも安産のまじないをしたい」

「おおぅ、ミス・ユキリナも錬金術で安産祈願かい。やるねぇ」

「……ハジメチョロチョロ……」

長門が両手を合わせて、どうみても白ご飯が生まれてきそうな呪文をブツブツととなえようとすると、朝比奈さんが手招きして、

「あの、な、長門さん、ちょっとお願いが」

「……なに」

「今回はなにがあっても手を出さないでほしいの」

「……つまり」

「どんなことがあっても、たとえ命にかかわるようなことがあっても、この時代の流儀りゅうぎでいきたいの」

「……」

「約束してちょうだい」

長門は朝比奈さんの手を握り、

「……分かった、約束する」

つまり朝比奈さんは、長門の宇宙人的魔法は一切使うな、死ぬかもしれない事態になっても助けないでくれ、と言っているのである。中世ではお産は生死を分ける重大なイベントで、医療機器もなく自分の体力と自然から与えられた力だけで生み出さなくてはならない、産婆さんばさんの経験のみが頼りの試練なのだ。


「中でいったい何が起きてるんだ」

め出されたドアにすがりつくように男三人は耳をペタと貼り付けた。もうマナーもプライバシーもへったくれもあるか。こっちは朝比奈さんが心配なんだ。

禁則事項Classfied infomation!」

アレレ朝比奈さんの禁則って自らぶっ壊したんじゃなかったですっけ。聞き耳を立てなくても十分に聞こえる叫び声に、伯爵はいったいアレは何を言ってるんだと指差している。俺と古泉は困った笑いを雁首揃がんくびそろえて、

「さ、さあ、なんなんでしょうねえ。たぶんここ一番というときにはアレをとなえて気合を入れてるんだと思います」

 部屋の中では鶴屋さんのフレーフレー音頭がはじまっている。

「はいはいみくるー、次の収縮しゅうしゅくがはじまったよ。呼吸を整えて、まだイキんじゃだめだよ。それ、ふっふっはー」

「ふっふっはー」

「ふっふっ、はー」

「……ふっふっはぁ」

ハルヒも長門も付き合いがいいな。俺達も一緒にふっふっはーを繰り返していると、


── おぎゃーおぎゃー、おぎゃーおぎゃー


「生まれたのか!」

俺と古泉は伯爵の手を握りしめた。

「おめでとうございますマイロード」

「これでお家安泰いえあんたいですね」

「ありがとう、ありがとう」

目をキラキラと輝かせる伯爵に握手を求められ、俺もなんだかほこらしい気分で目に涙を浮かべていると、ドアがバンと開いて生まれたばかりのハルヒが、

「おぎゃーおぎゃー、なわけないでしょ。男ども静かにしなさいよね!」

バタンと閉められ無言になる三人である。お前ねえ、赤ん坊の声帯模写せいたいもしゃとか人が悪すぎるでしょ。


禁則事項Unauthorized禁則事項Unapprovedぉ! 禁則事項Forbiddenです!」

いくつかのバリエーションをともなった朝比奈さんのうなり声ともうめき声ともつかぬ禁則事項が聞こえ始めて、かれこれ二時間ほどになる。解除したはずなのに、ありゃー完全に口癖くちぐせになってんな。暗い廊下をうろうろ歩き回るのも疲れたとみえて、伯爵は椅子にへたり込んでいた。

「難産だそうよ」

後ろ手にドアを閉めたハルヒがぼそりと言った。

「ミス・スズミヤ、もしかして逆子さかごという状態なのか」

逆子さかごじゃないんだけど、シスターの話だと赤ちゃんが出てきたがらないんだって。どうしてかしらね」

あー、もしかして、じっくり時間をかけて育ってから出てこいとか、俺が念じたから躊躇ちゅうちょしてんのかもな。ハルヒがお腹に向かって早く出てくるようにとなえてみたらどうだろう、などと考えていると、古泉がそれはやめたほうが……、という具合に首を横にふっている。

「ミス・スズミヤ、レディシップの具合はどうだ」

「みくるちゃんは元気そのものよ、十五ラウンド三連戦でも戦えそうだわ。でも長丁場ながちょうばになりそうだから、あんたたちも少し休んでおきなさい」

「そうだな。少しのどうるおしてくるとしよう」

伯爵はずっとグーを握りしめていて緊張でり固まった体の節々ふしぶしをコキコキと鳴らしながら階段を降りていった。古泉も背伸びをしながらどこかへ消えていった。朝比奈さんのそばには鶴屋さんもいるし、もしものときは長門がなんとかしてくれるだろう。俺も夜風に当たって、疲れた頭をほぐそうと屋上に出た。今宵こよいの空は雨こそ降っていないものの、どんよりと曇っており星ひとつ見えない。


 俺はなにをするでもなく、ときどきあくびをしながら屋上のベンチに座っていた。丸テーブルの上にはゲーム途中で放棄されたらしいチェス盤が置いてあり、俺は白のクィーンの頭を指で弾いた。駒は倒れてコロコロと転がってゆき、どこか暗がりに消えた。人の気配を感じて横を見ると古泉が駒を拾ってこっちに向かってくる。目を合わさず、手の中の駒をじっと見つめたまま、

「このままでいいんですか?」

「なにがだ」

「今夜、イングランドの歴史が大きく揺らぎます」

古泉がクイーンをチェス盤の上に置いた。いきなりのチェックメイトか。

「朝比奈さんのことか」

「明らかに歴史改竄かいざんされていますが、これでいいんですか」

「もういいとか悪いとかいう次元の話じゃないだろう」

「ええ。回り出してしまった時間はもう誰にも止められませんね、今となっては」

この問いをしたのは俺が最初のはずだった。あれは朝比奈さんのプロポーズの晩だ。古泉も止めなかったじゃないか、などと今ごろ言ってもしょうがあるまい。

「人と人が出逢であえば人が生まれる。この世界はそれで成り立ってるわけだし、神さんにもそれを止める権利はないだろ」

俺のキングは自軍の駒をバタバタとなぎ倒してコーナーに逃げた。

「神様を持ち出すとは、あなたも聖職者らしくないお言葉ですね」

「これはただのコスプレだっつーの」

「たしかに、この世界をドライブしているのはなにも神様だけではないのかもしれません。そこに生きている人間にも選択の自由があります。でも僕たちは、少なくともこの五人の立場は違うのではないでしょうか」

古泉のナイトが駒を飛び越えて追ってくる。

「なにが言いたい」

「僕たちはこの時代の住人ではなく、未来から来た傍観者ぼうかんしゃにすぎません。タイムトラベルを生業なりわいとしている人ならなおのことです」

「暗に朝比奈さんを責めてるのか」

俺がクイーンを逃がしてナイトのすじを外すと、古泉はベンチに座って足を組み、

「別に責めてなどいません。それについてあなたのお考えを聞きたいと思っているだけで」

「朝比奈さんはなるべく実際の歴史に沿うように努力してる気がするが」

「干渉しない、のと、なるべくつとめる、とでは異なります。都合の良い解釈に過ぎません」

まあ、そうだな。TPDDを失ったとはいえ歴史改変のセオリーは知っているわけだし、複雑にからみ合った縦糸たていと手繰たぐり寄せ、自分の横糸で都合のいい模様にペナントをり上げようとしている。しかしそれだって、考えたとおりの旗に仕上がるわけではあるまい。

「じゃあこれから生まれてくる子供はどうなんだ。いわば未来人と過去人の遺伝子Geneを持つハイブリッドだ。未来のアイデンテティを持ちながら同時に中世に生きる存在を否定するのか」

古泉は、ハイブリットってそんな車じゃあるまいし、という顔をしている。

問題は遺伝子Genetic issueというより……持っている知識ですね。時間移動はテクノロジーですから、その子供は……やはり一定のルールにしばられるべきだと僕は考えます。一般とは異なる時間の概念を受け継いでいるわけですから」

こいつはなんというか、理屈がいつも官僚かんりょうじみてるというか、機関の人間は皆こんな考え方なのだろうか。

「改変するのが人間なら、そのルールを作ってるのもやっぱり人間自身じゃないのか。それとも誰かが実際に世界崩壊を見てきたとでもいうのか。われ恐れる、故にわれ規制する、だろ」

古泉の奥底でギク、という音が聞こえた。俺が刺したナイトの背後には古泉のキングがいる。どうだ動けまい。

 俺は古泉が主張する、ハルヒが作る異空間について一応の納得はしているものの、誰かが実際に世界崩壊させるところを見てきたわけではないし、その証拠を見せられたわけでもない。

「まさかここで人間原理を反論に用いられるとは。おっしゃるとおりですよね。実証の裏打ちがなければ、自主規制のいきを出ませんね」

「キリストさんをほうじてる俺が言うのもなんだが、規制なんてものは、なんとなく火傷をしそうだから自分から手を触れないようにしてる、それだけのことじゃないか」

俺達が万世不朽ばんせいふきゅうのルールだと信じているものは実際は自分たちで勝手に作り上げたもので、とくに倫理りんりとか道徳とかいう分野はわりと曖昧あいまいなもんだ。

 考え込んでいた古泉はふと思いついたように端のポーンを進める。

「つまり朝比奈さんがそのルールを破りたがっている、と?」

俺の関節のどこかでギクリと音がした。なんでそっちに話が行く。

「確証はないが、俺の印象ではな」

「でも、未来人組織のルールから抜け出したいがためにあのような暴挙ぼうきょ、失礼、あのような行動に打って出たりするでしょうか」

「朝比奈さんには、なんというか、北高で会ったときから大きな重圧というか、厳格な戒律かいりつしばられてるような気がしてたんだが」

「ああ、それは僕も感じてました」

「その重圧が積もり積もって今回の暴走に至ったんだとしたら、それはそれで筋が通っている気はする」

ポーンの先にルークの筋を通すと、古泉はクスと笑い、

「彼女の矛盾むじゅんだらけの言動げんどうで、筋が通っている、ですか」

理路整然りろせいぜんとした思考で暴挙ぼうきょに走るなんてほうが無理だろうよ」

「未来人組織の行動規範こうどうきはんはかなり厳しいとは聞いていますが、それにしても無謀むぼうではないでしょうか」

「そこはまあ、恋する乙女のパワーというか。いろいろとあいまってだな」

古泉はうなずきながら、「鬱積うっせきした朝比奈さんのなにかが開放されたのは、なんとなく分かります」

「逆に聞くが、お前は自分をしばっているものから解放されたいとは思わんのか?」

俺のビショップが引いて射つ。

「僕をしばっているというのは、涼宮さんのことですか?」

「違う、機関のことだ。本当に欲しいものが手に届くところにあるのに、見えないルールにしばられてるだろ。お前自身はそれでもいいのか」

本当に欲しいもの、という単語で古泉のキングが一歩引いた。

「僕が本当に欲しいものとはなんですか」

「その質問だけ聞くとなにかの歌詞に聞こえるな」

団員の精神衛生には常に注意を払っているという団長ほどではないが、SOS団団員そのいちもその最初からメンバーを観察し続けていた。最初に禁を破ったのは長門だった。そんな状態になるまで放置していた俺のせいもあるが、自らを作った思念体を消し去り世界を改変するまでに至った。

 そして今回の朝比奈さんである。無論、朝比奈さんは長門の禁則破りの経緯けいいも知っていた。どうやってやったかも知っていた。長門を動かしたパワーのみなもとがなにかも、たぶん知っていただろう。それが自分にも可能かどうか考えてみることくらい、当然の帰結きけつではないか。

 果たして古泉はどうだ。

「知ってらしたんですか」

知っていたというか、お前の願望はお前自身でそう言ったんだがな。篝火かがりびの光を受けて影を作り、そこで少しだけ赤くなっている古泉の横顔である。

「まあな」

「この能力が与えられている以上は、」と古泉は右手の上に小さな炎を立ちのぼらせ「安易に行動することはできませんね。人と違った力には、なにかと制限が課せられるものです」

それはつまり、能力を失ってしまえばどうとでもなる、ということなのか。その気になれば、今の立場と持てる力すべてを引き換えにして願望をかなえられるのではないだろうか。とすれば根本的には長門と同じではないのか。背後に銀河系を支配する生命集団を持つという強力な立場を捨ててあの世界を作り出した長門。さらには、時間移動技術を失い未来に帰るすべをなくした、現在進行中の朝比奈さんとも同じではないのか。古泉は、自分が細心の注意を払ってルールを守っているのに、朝比奈さんが現地時間で恋に走っているのを横目で見て嫉妬しっとしているんじゃないだろうか。

 だが俺はそれ以上突っ込んでは聞かなかった。古泉のプライベートではあるし、なにより、古泉がすべてを捨てて暴挙ぼうきょに出るところを見てみたいという一種のワクテカ感が俺の口を閉ざした。


 それから二人の間に約三秒間ほど会話の空白が生まれ、もう三秒ほど待った後、この会話はそろそろお開きだなと、俺はそろそろ朝比奈さんの様子を見に戻ろうかと立ち上がりかけた。

諸君Gentlemen、立ち聞きするつもりはなかったのだが」

古泉と俺のキングがパタと倒れると同時に、ココロの関節がギクとステレオで鳴った。話は聞かせてもらった朝比奈さんよりも登場の仕方があまりに唐突とうとつで、二人とも顔が固まっている。

 ふり返るとワイングラスを三つ抱えた伯爵が立っていた。俺達もベンチから立ち上がると、

「マイロード」

「二人とも座ってくれ。よかったら聞かせてもらえないか。私が常々つねづね不思議に思っていることを」

「えーっと、どの辺から耳に入りました?」

「未来人と過去人の上流階級Gentleの、混血児Hybridがどうとか」

二人のときは日本語でしゃべれよ古泉、あたしゃ知りません顔で翻訳してんじゃねえナノマシン。

 古泉も俺もこの場をどう切り抜けるか、どう話を持っていけばごまかせるかを必死で考えている。伯爵は俺と古泉の顔をかわるがわるながめていた。俺は軽くため息まじりに、

「驚かないで聞いてください。朝比奈さんは、レディシップはこの時代の人ではないんです」

「つまり?」

「いいんですかそんなことおっしゃって」

「いいんだ。俺はもう釈明しゃくめいする言葉を思いつかん。それにだ、ここで明かさなくてもいつか朝比奈さん自身の口かられることになるだろ」

「そうかもしれませんが……」

古泉はあきらめにも似た、ああやっぱりそういう流れになるのか、今まで努力してきた秘密保持はいったいなんだったんだ、という表情をしていて、伯爵のほうは、お前らいったい何の話をしてるんだという顔をしている。

「この時代というと、今私達が生きているこのリチャード陛下統治とうちのことか」

「はい。今からだいたい八百年くらい未来の人といえば分かっていただけますか」

「どうもよく分からないのだが」

俺はチェス盤の上にキングを一つ置き、少し離してクィーンを置いた。

「ええと、俺達がいるリチャード陛下時代がこの端のマスだとしますね、こっちの端がレディシップの時代。この間に八百年が流れました」

二つの駒の間にバタバタとポーンが倒れている。

「つまり私が死んで八百年ってレディシップが生まれることになるのか」

「そういうことです」

実際には千年くらい先らしいんだが、この際二百年くらいは誤差の範囲ってことでおさめてもらおう。伯爵はフンフンとうなずきながら聞いていたが、

「修道士殿、それは修道会で流行っている高度な冗談だよな」

俺はブンブンと顔を横に振った。これが冗談だったらどんなに楽でしょうか。

 伯爵は腕を組んだまま一分ほど黙り込んだ後、

「コイズミ殿、これはアラビア科学の冗談だよな?」

古泉も顔ブンブン。強いて言えば朝比奈さんの占星術は、あれは冗談の極みです。

「ということは、私がアッコンで助けられたのもそのためで、これから起こることも彼女はすべて知っているわけか」

「すべて知ってるわけではないと思いますが、最近のイングランド史については詳しいですね」

そこで伯爵は天啓てんけいを受けた預言者のような恍惚こうこつとした表情をし、

「なんと……レディシップは神にも等しい存在ではないか」

あー、前にもそう呼ばれたやつがおったな約一名。なあ古泉くん。

「あんまり完璧な神ではなくて、適度にドジっ子女神めがみなところがまあ、親しみやすさのみなもとでしょうか」

伯爵は妙に納得した具合にウンウンとうなずき、

「ということはレディシップ以下五名は同じ立場なのか、修道士殿も?」

「俺はイングランドの歴史はよく知りませんが、生まれるのは八百年後ですね」

「コイズミ殿は?」

「僕も八百年後に生まれただけで、それ以外はここの人たちと変わりありません。マイロード」

マイロード、なんと古泉殿サー・コイズミは火の玉が出せるんですよ。とでも明かしてやりたかったが古泉にファイアーボールを浴びせられてはかなわんのでやめといた。

「ひとつだけ聞いていいだろうか」

「何でしょうマイロード」

「私は何歳まで生きられる?」

「それはええっと……、禁則事項です」

小指立てんな俺、気持ち悪い。

「その、禁則事項とはいったいなんだろうか?レディシップに会ってからというもの何度も言われ続けてきた謎のキーワードだ」

あの人のことだから都合が悪くなると連発したんだろうなあ。

「ええっとですね、レディシップは特別な誓約The outhに従っていまして、未来に起こることを安易に教えてはいけない、というルールがあるんです。それが戦争を有利に進めるとか、誰かの命を助けるとかいう場合は特に」

「それはなぜだ」

なぜかと聞かれて、ここで最初の疑問に巻き戻ることになった。我々はなぜ歴史改変をしてはいけないのか。俺が答えに口ごもっていると古泉が助け舟を出し、

「時代というのはそこに生きている全員が共有しているもの、だからです」

「だがレディシップは私の命を救い、イングランド軍を勝利へ導いた。彼女はわれわれ全員にとって勝利の女神めがみだ」

「ええ。レディシップは自らの誓いThe outhを破りました」

「イングランドのために尽くしてなにがいけないのだ」

「マイロード、」古泉は言いよどみ、「彼女が禁を犯したのはイングランドのためではなく、あなたのためです」

伯爵はしばし無言になり、なにかを思い返すように、

「そうか……。私のために宣誓The outhを破ったのか」

「彼女には守るべき秘密と、かたや守るべき人がいて、どちらを選ぶかでジレンマにれているのだと思います」

「知らなかった。私に話してくれたらよかったのだが」

「マイロード、僭越せんえつながら、レディシップが打ち明けなかったのは、あなたの未来にもかかわることだからでしょう。愛する人に自分の胸の内を伝えられないというのは、実に孤独なものだと思います。どうか、彼女の葛藤かっとうをご理解ください」

古泉が珍しく朝比奈さんの肩を持っているな。少年エスパー戦隊は、どちらかといえば、時をかける少女とは利害を相反あいはんするところがあり、お互いに手を出さないという暗黙の了解はあっても、協力し合うことはないというポリシーだった気がする。朝比奈さんが俺を取り込もうとするのを、古泉はイライラしながら見ていた。それが今は朝比奈さんを助けてやってくれと言っている。ここに来て古泉自身も、自分が属する組織同士の対立はもはやどうでもよくなってきているのかもしれない。

「ああ、コイズミ殿のいうとおりだ。しかし……八百年か……長いな」

想像に難いらしく、伯爵はその年月を幾度もつぶやいている。


 城壁の外で人の話し声が聞こえた。俺は席を立って、テラスのへりから下を覗き込んだ。

「マイロード、あれを」

城門の外に住民が押しかけているようだ。一人ずつロウソクを手にしており、ぼんやりと赤くそれぞれの顔を照らしている。古泉と伯爵が身を乗り出した。

「こんな夜中になんでしょうか」

「なにか聞こえないか」

軽いハミングのような、かすかにつぶやくような声だったが、聞き覚えがあった。賛美歌のようだ。

 大聖堂で鐘が鳴り俺は顔を上げた。腕時計を確かめ、こんな夜中に鳴るはずはないんだが、と外の様子をうかがっていると門番の兵士がやってきて伯爵になにかを耳打ちしている。

「なにごとですか」

「領民が大勢押し寄せているらしい」

俺達は屋上から降りて城門に向かった。夜の間は降りている格子状こうしじょうの城門の向こうに、短いロウソクを持った住民が賛美歌を口ずさんでいた。伯爵が門を開けるようにと番兵に指示をすると、城の中は住民でみるみる一杯になった。

「古泉、どうやら朝比奈さんは孤独ではなさそうだぞ」

「皆、安産を祈ってくれていますね」

俺達もその中に混じってスンスンとハミングに合わせた。見上げると、雲は流れ、塔の向こうの夜空はすっかり晴れ渡っていて、大きな丸い月がぽっかりと浮かんでいる。聞こえていますか朝比奈さん、あなたはもうグロースターに欠かせない存在になってしまったようです。


 賛美歌の余韻よいんがまだ残っている間に、俺達三人は朝比奈さんの寝室の前に戻った。ドアの前にはメイドさんが陣取っていて入れてはもらえないが、相変わらず朝比奈さんと鶴屋さんの叫び声が聞こえる。

「ハルにゃん、ちょっとおっぱいんでみなよ、後ろから」

「こ、こう?」

「はわわわ涼宮さんダメエェ」

「そうそう。乳首を刺激すると子宮の動きがよくなるにょろ」

「みっくるちゃん、ちょっと触んないうちにますますダイナマイトねぇ。きっと爆弾並みに元気な子が生まれてくるに違いないわ」

「す、涼宮さん、ダ、も……もっとぉぉ!」

嫌がっているのか分からん朝比奈さんのアハン声が廊下に響いてきて、俺達男子は耳をふさげばいいのかそれとも平然と聞いていればいいのか、どう反応すればいいのか分からず困惑している。住民が安否あんぴ気遣きづかってるってのになにをやっとるんだこいつらは。

「あーだるい、大きすぎてむのも一苦労ね。なんか肩ってきたわ。有希、ちょっとあたしもんでくれないかしら」

「……了解した」

それから一時間くらいハルヒが朝比奈さんをみしだいて、長門がハルヒをみしだいていた。さっきのアハン声にいったいどんな効果があったのか小一時間問い詰めたいところなのだが、朝比奈さんが気持ちよくなっているだけで肝心の分娩ぶんべんは一向に進んでない気がする。

「あんまり長時間になると母体も疲れるし、なにより赤ちゃんのほうが疲れ切ってしまうのが心配なんだよねえ」

「鶴、じゃなくてシスター、なんとか引っ張り出せないの? ほら、ユンケル、じゃなかった、なんとかいう、切って取り出すやつ」

「お腹切って取り出すのかい!?あははは、おっそろしいこと言うねハルにゃんは」

そこで長門がマジ突っ込みをして、

「……この時代の衛生状態では無理」

どう考えても外科手術は無理だろ。

「どうも赤ちゃんが骨盤に引っかかってるっぽいねえ」

朝比奈さんの骨盤には立入禁止テープでも貼ってあるんだろうか。

「ええっ、じゃあ出てこれないの?」

鶴屋さんは朝比奈さんの腰骨の出っ張りを探りながら、

「意外と骨盤がちっさいんだね。ちょいと仕切り直しといこうかね。みくる、逆立ちしてみな」

エエエェ、鶴屋さんいくらなんでも無茶振りしすぎでしょ。

「ど、どうやって……」

「あ、逆立ちじゃなかったわ。うつ伏せになって、お尻を突き上げてごらん。そうそう」

マタニティで新体操の荒技あらわざをやれというのかと思いましたよ。十五分くらいその姿勢でいると、

「シスター、なんだか元の位置に戻ってきた気がするわ」

「だろ? 知ってるかい。お産ってのは月と地球の重力でやるもんなんだよ」

へええぇ~はじめて知ったわ、とハルヒが目を丸くして感心している。いえ、シスターあなたは十二世紀の科学知識を完全に凌駕りょうがしてます。


 胎児が元のさやに戻ったはいいがそれっきり陣痛が来ず、だいたい十分間隔でやってくるはずなんだよねーと鶴屋さんも首をかしげながらため息をついている。当の本人は小休止で眠っているらしく、低いいびきが聞こえてくる。何を思ったか長門がドアを開け、チラと俺達三人の情けない表情をした顔を見て、階下に降りていった。

 やがて戻ってきて朝比奈さんを起こし、

「……飲んで」

「ぶっ、おえええ、長門さんこれいったいナニ!?」

「……生卵。飲んで、吐いて」

「どうして卵なん……むぐ、オロロロ」

「……中世にそういう風習がある」

溶き卵が入った木のうつわを口に押し付けられて、無理やり飲まされた朝比奈さんのうなり声がはじまり、

「んーんぐぐぐ、キターッ!!本当に陣痛が来たわ!」

「……卵黄のタンパク質に拒否反応が出て引き金になる」

なるほど、胎児も元は卵なわけだからな。アレルギー反応みたいなものか。

「よっしゃー、みくる、ここからが本番だよ」

何度も本番を宣言していると本番のありがたみがなくなりますよね。

「ひっひっふー、はい皆で一緒に」

「ひっひっふー」

ハッなに俺達まで一緒になってやってるんだ、などと正気に戻ることはもうあきらめている。野郎三人そろって深呼吸を繰り返しているところに、ドアを警護けいごしているメイドさんのニヤニヤ視線が刺さるのが痛い。

「はーい、もういいよ。次のが来るまで休憩」

うんうん唸っているのは一分弱くらいで、最後にハー、と長く吐く朝比奈さんの吐息が聞こえた。汗だくになっている鶴屋さんが一息入れるべく水をごくごくと飲んでいると、

「シスター、きっ、きっ、きん!」

「もう来たのかい? 今度は早いね!」

どうやら卵が効いたらしく次の陣痛は即効でやってきた。即効と感じるのは今までが暇すぎたせいで、まあ五分くらいはってるんだろうけどな。

「ひっひっ、きん!」

「みくる、痛み始めたらゆっくり数を数えるんだよ。だいたい三十くらいで消えるから」

「そ、そうなの、ひっひっふー」

「まだまだー、イキんじゃだめだよ」

「ひっひっ、まだ出てこないの?」

「まだまだだよー。頭すら見えてないからね。さあさあ、ひっひっふー」

「ひっひっふー、もう、いつまで待たせてんの! 早く出てきてよね!」

まぎらわしいので解説すると今のは朝比奈さん本人である。ハルヒ自身は自らが産み出しそうな勢いで両手のグーを握り、ひっひっふーを繰り返している。ちなみにこのひっひっふー、は、イキまないための呼吸法らしい。よくは知らんが、出口がちゃんと開いてないのにいきんでしまうと、無理に押し出そうとしてへそのからんだり、大量出血したりしてヤバいことになるんだそうな。

「ハルにゃん、ちょっとお尻を押してやってよ」

「お尻? ここ?」

「いや、そっちじゃなくて赤ちゃんが出てくるところ」

「ああこれ。押していいの? 赤ちゃん出てこれないんじゃないの?」

「ちゃんと開くまで待ったほうがいいんだよ。ゲンコツで、ぐっとやっとくれ」

「おっけー、おりゃああ」

おりゃああって。表現が生々しい。朝比奈さんのハーという長い溜息ためいきと共に陣痛が引っ込んだようだ。なるほど押せばいいんですね、と古泉がうんうんとうなずいている。今から予習か、嫁さんを探すほうが先じゃないのか。

「じゃあこの間にマッサージでもしようかね」

それはさっき散々やった気もするが、

「あの長門さん、よかったら背中をお願い。ずっと腰が痛いの」

「……了解した」

ハルヒと長門が、鶴屋さんの指図さしずで朝比奈さんの広背筋こうはいきんとか大殿筋だいでんきんとか、たぶんそのへんの筋肉をほぐしている。お産は全身運動みたいなもんだからな。あーきもちイイワーとまな板の上のたいになっていた朝比奈さんが急にエビりになり、

「きっ、きっ、きん~」

呼吸法が完全に禁則事項になっちまってるな。

「だんだん早くなってるね。赤ちゃんとご対面できるのもすぐだよ」

そういえばさっきより間隔が短いな。俺が腕時計に気を取られていると、隣に座っている古泉が、

「時間計ってます?」

「ああ、四分くらいだな」

伯爵がそれを覗き込み、

「修道士殿、それはいったいなんだ?」

「えーっと、俺が未来から持ち込んだ、時間を計る機械です。まあ、それは後にしましょう」

「ああ、そうだな」

伯爵は俺の腕の上でチクチクと回る機械じかけのなにかを興味津々きょうみしんしんに見つめている。


「シスターまだぁ?」

「だいぶ開いてきたね。卵一個分ってところかな。みくるお腹すいたかい?」

「え、ええ」

「メイドさんに出前頼もうかね。なにか食べたいものあるかい?」

「お寿司が食べたい! 甘エビのやつ! コ、コ、コハダ! あと、スルメイカお願い! うなぎのお吸い物付きがいいわ!」

朝比奈さんもここぞとばかり無茶言いよるなあ。

「オスシ? それは食べ物かい?」

イエース、ジャパニーズ、トラディッショナル、フードです。まだこの時代には生まれてないはずですが。

 ドアが開いて長門が顔を覗かせ、微妙に眉毛を寄せて難しい顔をして出ていった。すまんなあ寿司屋の出前みたいなマネをさせちまって。ご相伴しょうばんに預かりたい俺と古泉は無責任にも期待感満載である。長門の魔法が電子レンジがわりになっちまってすまねえ、などと合掌がっしょうしつつ二人ののどがゴクリと鳴った。

 しばらくしてドスドスと階段を上がってくるのが長門の足音だとすると、かなり機嫌が悪いのだろうということは察したが、大きな皿を抱えたまま俺達の座っているベンチは素通りして、そのまま寝室に入った。え、俺達の分はないの?

「キャー本物のお寿司だわ長門さんありがとおぉ」

長門が苦手なはずの朝比奈さんが、ホルモン過剰の影響かあるいは分娩中はなにをやっても許されるという安心感があるからか、長門に抱きついてほっぺたにキスをするなどという前代未聞の行動に出て、長門も不明のエラーに襲われて十ミリ秒程度固まってしまったらしい。

「すっごいじゃん有希、どうやって日本ワサビ手に入れたの?醤油しょうゆ作る錬金術ってあるんだ?」

いやー、たぶん未来から出前で取り寄せたとか、分子情報操作で情報統合思念体に握らせたんだと思います。

「……おいしい?」

「んーっキターッ、有希、これよこれ! カプサイシンには真似まねできない日本の味覚っ、はぐはぐ」

キターッのところはわさびが鼻にツンと来てハルヒが涙を浮かべているところである。モクモクと食い続ける音だけを頼りに、生唾なまつばを飲み込みながらドアに耳を当てて聞いている俺と古泉は、もうかすかに消えつつある記憶からにぎり寿司の映像を奮起ふんきするほかなかった。

「きん! きん! シスター、きんっ!」

「あれ、もうかい? まだオスシ残ってるのに。しょうがないなぁ」

あなた食い気のほうが優先ですか。

「古泉、もう我慢ならん。俺が突入する」

「落ち着いてください」

リアル寿司を前にしてこれが黙っておれるか、ええい引き止めるな。すがりつく古泉の腕をふり払おうとしたところ、

「だいぶ開いてきたね、おおっ頭が見えてきたよみくる」

「ええっ、ほんと?」

「次の陣痛でイキんでいいよ。ここからはあっという間さ」

「やっとイキめるのね」

それから一分後に朝比奈さんの狼ともホエホエちょうともつかぬ雄叫びが響き渡り、

「よーしここからは全身全霊を込めて、息を吸って~、ハイ押し出せ~」

長門とハルヒはそれぞれ朝比奈さんの右手と左手を握り、ひたいに汗を浮かばせながら固唾かたずを飲んで見守っている。

「んぐぐはぁはぁ、んぐぐぐーはあはあ、まだか……し……らあ!」

腹の底に響くうなり声と荒い呼吸が交互に来て、

「赤ちゃんの頭が下を向いたね。もう少しさ! ほれがんばれ!」

「きぃぃん~そおぉぉぉくぅぅう、じこーう」

そこからカメハメ波でも出したいのか、いったい何を叫びたいのかすでに意味不明である。

「首まで出たよ! もう力を抜いてもおっけーおっけー」

「はぁはぁ、そうなの? もう終わりなの?」

「あとはスルッとヌルっとサラッと出てくっからね」

ハルヒが指差して、

「鶴、シスター! なんか頭の形がつぶれれてるみたいだけど、大丈夫なのかしら」

「大丈夫大丈夫、赤ちゃんの頭は折りたたみ式なんだよ。外に出たら元の大きさに戻るにょろ」

なるほど、ハルヒの頭もつぶれて生まれてきたのか。どうりで。イテテなんでお前が耳引っ張るんだよ古泉。

 解説によると、そこから赤ちゃんの頭が横を向いて、左の肩が出て、右の肩が出る。骨盤にもぐるとき回転しながら出て来るんだそうだ。体のほうは頭の直径より小さいんで、とりあえず頭さえ出てしまえばあとは勝手に出てくるらしい。

「ということだそうです」

なんで産婦人科に詳しいんだよ古泉。

 朝比奈さんの禁則事項が聞こえてこなくなったのでドアにかじりついて聞き耳を立てていると、ジョボジョボとなにかが流れ出る音がして、第一声が響き渡った。


── ほぎゃーほぎゃー


ドアが開いて、なんでお前が疲れ切った顔をしてんだよと突っ込みたくなりそうな表情のハルヒが出てきた。

「喜びなさい、男の子よ」

「こ、今度は本物か。本物の赤ん坊の声か」

俺達は力の入っていた肩を、大きなため息とともにだらりと垂らした。


 薬も使わず、現代医学の医者にも頼らず、産婦人科の設備も、何のセーフティネットもなく、レディ・ミクル・オブ・アサヒナはこの時代の流儀りゅうぎに乗っ取り、無事男子を出産なされた。自分の未来も過去も、既定のイングランド史もかなぐり捨てて新しい一人の人をこの世に産み落とした。十月十日とつきとおか、いや八ヶ月だったが、命の危険もあった大きなけだったにちがいない。

 後になって思う。朝比奈さんが言ったこの時代の流儀りゅうぎで産むというのは、この時代に生きるための洗礼のようなものではなかっただろうか。これを通過できなければそこで生きる資格はない、享受きょうじゅしなければ歴史改変をする資格はない、のだと。


 伯爵がドアを開けて中に入ろうとするとハルヒが待てと言い、

「まだ見ないほうがいいわ、もう少ししたら胎盤たいばんが出てくるから。アンタたち血まみれのかたまりを見たりしたら卒倒するでしょ」

「そうか、やったのか……とうとうやった……やった」

伯爵は固く目をつむり、四十五度上方をすがめるようにして、胸の前で腕を叩くという中世式のガッツポーズを何度もやってみせている。

「ご生誕おめでとうございます」

「おめでとうございますマイロード、お父上ですね」

バックグラウンドに甲高かんだかい新生児の泣き声を聞きながら、三人の野郎どもはヒシと固く抱き合い、プルプル震えながら男泣きに泣いた。

「グスッ、なんでお前まで泣いてんだ古泉」

「おや、あなたこそ涙腺るいせんから大量の水が吹き出していますよ」

いや古泉くん、これはココロの汗だ。

「ありがとう、ありがとう。君たちのおかげだ、愛してる」

毛虫を見るようなハルヒの目つきと、BLを見るような長門の視線に刺されながら固く結ばれあう三人だった。気がつけば、城の外は白々しらじらと夜が明けつつある。抱き合う三人の向こうから神々こうごうしいまでの朝日が差し込み、祝福するかのようにステージライトが俺達を照らし出していた。おお、見よ、イングランドの夜明けだ。

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