二十九章

 妹男爵の婿むこ探しの一騒動が落ち着いて、ようやく静かな城の生活が戻ってきた頃合。朝比奈さんはあいかわらずつわりの症状が続いているようで、少しやつれているようだ。果物以外食べられるものがないという朝比奈さんのために長門が白米を炊いて持ってきた。ベットからガバと飛び起きるなり、

「そ、それ……長門さん、それっ、その匂いは白米よね!」

「……そう」

差し出すが早いかうばい取るようにしてバクバクと噛み付いた。前にも炊いてもらったことのある、粒が長くてややモサモサ感のあるインディカ米のおにぎりである。塩はふつうの岩塩がんえん、ノリはブリストル海峡まで採りに行った。梅干しはスモモの代用品でいまいち酸味が出ず、駄菓子のスモモ漬けみたいな味になったらしいが、朝比奈さんはホームシックにかかったジョン万次郎のごとく涙を浮かべてスッパ口をしてみせた。

「おいしい……お米がおいしいわ」

「……それはよかった」

その様子をじっと見ている俺と長門の口も梅干しである。まあこないだハルヒのにごり酒を取り上げた埋め合わせなのだろう。……梅だけに、うまい。

「ここでも作れたらいいのに。日本の梅と紫シソが手に入らないかしら」

それは難しいんじゃないだろうか。イングランド王宮と鎌倉幕府は付き合いがないですから。

「……スモモを品種改良すれば似た味は出せるかもしれない」

「えっホントウ!?」

「……でも交配を繰り返すのに十年は必要」

梅干しを食うために十年は待てないだろう。いっそのことシルクロードをつたって日本まで旅に出るか。

「味噌汁……ネギのたっぷり入った味噌汁が飲みたい」

体育座りのひざの上で顔を伏せて、ため息まじりにつぶやく朝比奈さんもワガママを言うようになったなあ。次は漬物が食いたいとか言い出すんじゃ。俺味噌の仕込み方とか知らないですよ。まあ大豆は手に入るし、ハルヒいわ麹菌こうじきんはその辺に寝てるんで起こして培養すればいいし、あとは気温と湿度だろうか。

「ハルヒに聞いてみますよ。あいつなら酒どころか味噌でも醤油しょうゆでも自力で分泌ぶんぴつしそうですし」

俺達の中で地味に農業を続けてるのはあいつだけだしな。古泉は騎士装備で馬を乗り回してるし、長門はドラッグストアの経営者だし、俺は十字架をかかげてお布施ふせもらって宗教ビジネスだし。

「人をバイキンマンみたいに言うなあ!」

噂をすればだ。バイキンってお前、世界中の麹菌こうじきんに謝れ。

「何の用だ?」

「用がなきゃ来たらいけないの」

「昼飯なら今日はサーモンのムニエルだぞ」

「そっ、それはおいしそうね……じゃない、キョンちょっとそこに座りなさい」

レディの前では立ってるのがマナーだろ。ハルヒはポケットからくしゃくしゃになった羊皮紙をいくつも取り出して、

「紙くずよ、全部紙くず。今の金融政策やったのキョンでしょ。この、ド素人めが」

「そうだが。財政再建するために必死で発行した金券だぞ。おかげで流通する貨幣かへいが増えただろ」

「流通だあ? バッカじゃないの。あんたイングランド中がインフレになってんの知らないの? お金があってもモノがない、うなぎの滝登りで物価倍増中よ」

「ま、まあ予想はしてたけどな。うへへ」

強引にグローバル化経済をやって景気を低迷させた経済学者のように冷や汗タラタラである。

「涼宮さん、わたしがキョンくんに財源確保を頼んだの」

っていうか、なにがなんでも金を作れとせっついたのはもともとハルヒじゃなかったですっけ。

「あのねえ。農林水産が未熟な国にいきなり債券経済を導入すればどういうことが起こるか、分かってたはずでしょ」

貨幣かへい経済はローマ時代からあっただろ」

「チガウチガウちがーう、キョンちょっとそこに座れっちゅーの!」

「だから座れねえっちゅーの!」

「もともと農村は自分で作って自分で食べる地産地消ちさんちしょうなのよ。その周りに、大工とか鍛冶屋が未熟ながら工業として群がってるわけよ。それもそれぞれが作った分を売って稼いだお金を消費するだけ。ここまではまだいい。大量にお金を入れれば大量に買い付けて大量に売るやつが出てくるわけでしょうが。まさにテンバイヤーの巣窟そうくつよ」

「まあそういうことになるわな。それのどこが問題だ」

「あんたには二十世紀型経済の頭しか無いんかい」

「すまんが、お前の頭は十二世紀でも俺の頭は二十一世紀のままなんでな」イッテテ耳ひっぱんな。

「利益が一部に集中する、売るものがある金持ちはどんどん金持ちになっていく、生産力のない小作人はどんどん貧乏になっていく。この単純な連鎖れんさが分からんのかこのアンポンタン」

「あー、つまりなんだ、産業革命以降じゃないと一か所に大金が集まるような仕組みはだめだってのか」

「あったりまえよこのハゲ」

いやこれでもだいぶ髪伸びてきたんですがね。


 ハルヒが言いたいのはだな、債券でお金を多重化するのは、ロンドンみたいな金とモノが集まる都会に住んでる商人にとっては都合のいい方法だったかもしれないが、ほそぼそと自分で植えたものを売って小銭を稼いでるだけの農夫にとっては、返って生活が厳しくなる、ということだ。日用品を買うためには小麦を金の代わりにするわけだからな。マージンを取る小麦の買い付け業者はもうかるが、物価が上がって農家の持ちがねはどんどん目減めべりしていく。ロンドンと周辺の農村では見えない貧富ひんぷの差がどんどん開いていくわけだ。

 ハルヒは、やっと理解したかこの石頭、とペシッと頭を叩いた。

「待って涼宮さん。もう走り出しちゃったんだし、元には戻せないわ」

そうそう。世の中には元には戻せないこともある。

「む~、どうすんのよ。フランスとスペインの貴族が安い債券を大量に買い付けて、償還しょうかん期限が来たらイングランドは乗っ取られるわよ。まだ英仏戦争も英西戦争もやんなきゃならないのに」

「その債権を買い戻すためにまた債券を発行すりゃいいんじゃね」

「日本式か! まあそれも悪くはないけど」

いやいや、生産力も未熟できんの裏打ちがない債券なんて無理。円建えんだて錬金術を編み出した日本は例外だ。

「もう、最後の手段で増税するしかないか」

「口を開けば増税増税と、あんたは財務省か」

いやまだ一度しか言ってないけどな俺。それ以外に解決策があるんだったら教えてくれ。

「農家の生産を増やすわ」

「え」

三人がそろって朝比奈さんを見た。

「わたしが生産性を上げるように奨励しょうれいします」

「それは散々やった気もしますが……」

「まだまだ土地を開拓できると思うの。この際だから森林が丸ハゲになってもかまわないわ」

ハゲという言葉に耳ピクする俺である。まあ数年後には森林保護法みたいなのが施行せこうされるんですけどね。もしかしたらあれは朝比奈さんが自分でやった政策のフォローが既定事項になったのかもしれん。

 ハルヒは腕組みをして、

「いいわ。品種改良、土壌どじょう改良、作付さくづけの改良、休耕地で畜産、なんでもやんなさい。第一次産業がつぶれたら国が滅びるわよ」

「そのための債券を発行しないとな」

「またそれなの……」

ハルヒは魔導まどう書かなにかと勘違かんちがいしてんじゃないの、と突っ込みたがっているようだが、ええ、錬金術の一種ですがなにか。まあ城の財務状況は分かってるし、少しくらいの運転資金はあるだろう。


 ハルヒがズカズカと出ていって部屋の中は妙にしんと静まり返った。

「だいたいストッパー役の俺がハルヒにクレームを入れるのが普通なのに、立場逆じゃん」

「それもそうね」

朝比奈さんが笑っている。

「……ある意味警報かもしれない」

なに、錬金術殿、今ヤバいこと言いましたか。

「……あなたの指摘どおり、これまで涼宮ハルヒの行動の後処理はわたしたちがやっていた。それが今回涼宮ハルヒ自身による修正、保守が二度続いている」

「あれかな、嫁さんの世話を焼いてみたい暇なおしゅうとめさんみたいな」

「……自らの行動に飽きて他人のフォローにまわるのは一理ある。でも今後の経済と産業に与える影響を懸念けねんしたためとも考えられる。通俗的に表現するなら、しょうがないなあキョンくんは、的な」

通俗的って、お前が俺のあだ名を口にするのはあんまり通俗的でない気もするが。

「まあアレが怒鳴り込んできたからには、なにか危機感みたいなもんがあったのかもしれんな」

「そういえば妹ちゃんのときもそんな感じだったわ。既定の縁談が破談になった途端とたんに涼宮さんが現れて、自分が仕切るって言い出したもの」

たしかにあのときのハルヒはおしゅうとめさんっぽかったです。

 凡人には理解できないだけで、一見しただけでは支離滅裂しりめつれつなハルヒの行動にもそれなりの筋が通っていることもある。それなりというかあいつの中で勝手に納得しているだけの筋だが。ハルヒが意味もなく俺達の行動を阻止そしに来るとは考えがたい。

「ここは俺達でもフォローしといたほうがいいでしょうね」

「そうね。施行後せこうごの調査も必要かしら」

「長門、ちょっとケミカル学の知恵を貸してくれ。この際だしありえない錬金術でもいい」

「……了解した」

 長門には本物の錬金術の知識を応用してもらい、超強力バクテリアで堆肥たいひの作り方とか、土壌改良のために窒素やミネラルなんかの超合成方法を教えてもらった。麦と麦の間に豆類を植えるとか、土地の栄養を使いすぎないように三つに分割して三年周期で使う、とか、休ませている土地で羊を飼う、とか古典的な方法もな。まあ学生時代にもうすこし勉強しとけば苦労せずに済んだのだろうが。

 長門の試算では、気候がいつも通りで雨の具合も変わらなければ、来年の収穫は二割増し程度にはなりそうだということだ。


 季節は夏。日照時間が伸びているこの頃では夜明けも早く、あくびとともに早朝のミサをしながら、天にまします我らが父よ、日本じゃそろそろ夏休みですなあなどとノスタルジーにひたっていると、六時半ごろから流れる子供の頃に聞き慣れた曲が礼拝堂の外から流れてきた。やっべ俺出席カード持ってねえわとパブロフ的反射を想起そうきさせるメロディに耳をそばだてていると、どうもピアノではなく弦楽器げんがっきの音なのである。

「おい古泉、朝っぱらからなにやっとるんだ」

「ラジオ体操らしいです」

古泉が古風なバイオリンをケルト調の物悲しい湿った音程でかなでているが、ずらりと並んだ参加者にはご婦人しかいない。今日はラジオ体操レディースデイでしたっけ、とボケてみたいところだが、広場の正面に立っているハルヒの甲高い声が耳にビンビン響いてきた。

「新しい朝がキタワァァ。グロースターの皆さん、おはようございます。天気明朗めいろうにして雲高し、本日は快晴に恵まれ、働けど働けど我らが暮らし一向に楽にならない一日の始まりであります。泣き叫ぶ子供とグウタラ亭主の面倒を見るために今日も元気に体操から始めたいと思います。それでは足を肩の幅に開いて括約筋かつやくきんの運動から~、はいっいっちにっさんしぃごぉろくしちはち~」

ラジオ体操参加者はフンフンッと鼻息も荒く空手の構えのように腰のところで手を握り、全員が一心に宙を見つめたままじっと動かない。

「古泉、もう一度聞くけど朝っぱらからなにやっとるんだ?」

「ええと、僕の口から申し上げるのははばかられるのですが……」

しょうがなく付き合ってます的な古泉がバイオリンの弓をリズミカルに弾きながらのたまうには、涼宮ハルヒの肛門引きめ体操だそうである。みなさんお通じが悪いのか。

「なんで女しかいないんだ?」

「皆さん妊婦さんですよ。シスターのご指導です」

そういえばそろそろ六ヶ月をむかえる朝比奈さんのお腹ポッコリ体型が分かるようになってきたな。鶴屋さんも一緒になって体操、いや動かずにじっとしている。っていうか長門、なんでお前まで付き合ってんだ。

「ブラザージョーン、あんまジロジロ見ないでおくれよ~。あたしたち恥ずかしいにょろ」

「あっすいませんシスター。なんかずいぶんと風変わりな体操だなと思ったもので」

ほほをポッと紅く染めた鶴屋さん解説によると、妊婦の方々は来るべき戦闘せんとうそなえて下半身の筋肉をきたえ上げておかねばならんのだそうだ。街中の妊婦さんが一同に会してフンと踏ん張っている様子は壮観で、来年あたりの人口増加予想をの当たりにできて喜ばしい限りであります。実にけっこうけっこう。

 朝比奈さんはどうやら体型が気になるらしく、ゆったりしたワンピースを着てなるべくお腹の部分が丸く見えないようにと、ウエスト周りを真っ直ぐに伸ばし伸ばしに苦労している。

「みくるちゃん、あなたはもっと自分の体に自信を持ちなさい」

「は、はいっ」

最近ではハルヒがマタニティドレスをあれこれ仕立てて、朝比奈さんを着せ替え人形にしているようだ。なるほど今日はギリシャ風編み込みアップヘアにアテネ女神めがみコスか。朝比奈さんの着せ替えコスプレには旦那様も目を輝かせてお喜びになり、マイレディらしいを連呼している。だがポニテにはまだ目覚めていないようだな。


 その日の夕方、執事さんがやってきてディナーに呼ばれると、伯爵が朝比奈さんの手を取りエスコートしている。朝比奈さんは大丈夫歩けますからと何度も言うのだが、転んではいかんのでと握った手を離さなかった。

「マイレディ、そろそろご自分の部屋で安静あんせいにしたほうがいいのではないだろうか」

今回が初めての伯爵はハラハラドキドキで、大きなお腹をえっこらさと運んでいる朝比奈さんに、ささっと寝椅子を持ってきたり枕を用意したり、夏なのに寒くないかと肩掛けを持ってきたりと心配のし通しである。

「こら伯爵、あんまり過保護にしちゃだめよ。妊婦はできるだけ動いて回ったほうがお腹の子のためにいいんだから」

ハルヒは酒蔵で仕込みをはじめたようで着ている服から酒臭い匂いをプンプンさせている。

「しかしだなあミス・スズミヤ、彼女にもしものことがあったらと心配で心配で……」

「あと三ヶ月もあんのにそんなオロオロしてて、臨月りんげつになったらどうすんのよアンタ」

「普通は家でじっとしているものだと聞いているのだが……」

この時代の妊婦はまるで今にもヒビが入って割れんばかりのハンプティダンプティを上回る扱いで、部屋の外に出ることも許されないらしい。まあ流行性の病気が多いし、流産とか出産時の死亡率が高いので納得できなくもないが。当の朝比奈さんはあんまり気にしてもないようで普通に領内を走り回っていて、今のところはまだ馬にも乗っている。

 出産が近づいたらもっとしんどいことになるだろうに、夜も眠れないらしい伯爵は少し衰弱すいじゃく気味である。他人の腹を借りてるだけで自分はまったく痛まないにもかかわらず少し心配性が過ぎる気もするのだが、旦那というものは、存外そういうものなのかもしれん。


「あれれ、乳製品は大丈夫なんですか」

テーブルの上には珍しくシチューと温めたミルクが並んでいた。

「レディシップが問題ないとおっしゃったのでな、メニューを戻してもらったのだ」

なるほど、いつの間にかつわりがエンディングをむかえていたらしい。

 大広間のテーブルで俺が祝祷しゅくとうとなえると、伯爵が長いナイフで七面鳥を切り分けている。テーブルの上に並んだ皿を一巡いちじゅんすると、なぜか一人だけ皿が特盛りっ、で、その前には朝比奈さんが座っていて、盛られた肉をじっと見つめてツバを飲み込んでいる。

 この山のような盛り具合はお腹の子のためにもっと食えという伯爵のゼスチャーなのかと思ったが、そうではなく、焼いた七面鳥、野うさぎのシチュー、巨大なベーコンのかたまり、鮭のムニエルなどなど、腹にもう一人いるとはいえ朝比奈さんの食べっぷりのすごさがどういうものかは、あの長門ですら唖然あぜんとしていると言えば分かっていただけるだろうか。

「執事さん、お肉! もっとお肉ください!」

「恐れながらマイレディ、今晩ご用意できるものはそれだけでございます」

朝比奈さんはテーブルをドンと叩いて、

「もう、ぜんぜん食べ足りないのに」

「申し訳ありません。明日のメニューには牛を一頭ご用意いたします」

執事さんの口から皮肉が飛び出すほどがっついている朝比奈さんに、俺達はおずおずと自分のデザートの皿を差し出して、上目遣うわめづかいに顔色をうかがう。

「ど、どうぞ」

「あら、わたしはそんなつもりじゃ……」

「いえいえ、いいんですよ。僕達の胃よりレディシップのお体のほうが大事ですから」

などと古泉がご機嫌を取っている。たぶんここで貢物みつぎものを差し出しておかないと産後には俺達の立場がやばくなりそうだとか、食い物のうらみで謀反むほんの濡れ衣を着せられそうだとか、そういう感じの有無を言わさぬ空気である。

催促さいそくしたみたいでなんだか悪いわ」

などと建前上のマナーを取りつくろっている朝比奈さんだが、

「みくるちゃん食べないの? だったらあたしが、」

「わだすがいただきまス」

なんでなまっているのか分からんが、皿に向かって伸ばそうとしたハルヒの触手にすきを突き刺さん勢いですかさずうばい取り、一瞬だけガラスのような冷たい光を放ったひとみを俺は見逃さなかった。ビクッと手を引っ込めて冷や汗をたらしているハルヒの表情には、二ミリグラムくらいの恐怖が混じっていた。


 晩飯が終わると鶴屋さんが検診にやってきた。ハルヒは居間のソファに座った朝比奈さんのお腹をほおずりしながらなでなでしている。

「赤ちゃんまだかしらねぇ、早いとこ出てくればいいのに」

「あはは、まーだ四ヶ月も先だよハルにゃん」

朝比奈さんも笑いながら、まさかとは思うけど的な冷や汗が一粒浮いている。

「きっとみくるちゃんみたいな男をメロメロにさせるダイナマイトボディな子が生まれてくるわよ。待ちきれないわ~」

男かもしれんだろ。長門に聞けば性別くらい分かるだろう、と尋ねる視線を投げてみるが、首を横に振って拒否された。禁則事項らしい。

「ハルにゃん、そんなに待ちきれないなら歌でも歌ってやんなよ」

「へ?」

「赤ちゃんはそろそろ外の音が聞こえてるはずだから」

「へーそうなんだ。じゃあたしが一曲。オホン」

ハルヒは朝比奈さんのお腹を両手で抱えて、イギリスの民謡みんようだとかいう、キミのひとみよ我に酔いしれよ、みたいな歌詞をスローテンポで歌い始めた。俺達は、まあ演歌とかポップスよりはマシなんでないの、と情緒じょうちょあふれる節回しに聴きしれていた。聞いていた朝比奈さんのほうはアワワどうしましょという感じに慌てふためいて、どうやら十八世紀の歌らしい。

 一曲といいつつもハルヒが続けてカブトムシみたいな名前の五人組が歌う、赤子よそれはお前だを歌おうとしたので慌てて俺が止めに入り、

「待て待て、ここはひとつ俺にも歌わせてくれ」

「なによ今宵こよいはあたしのソロライブよ」

「よろしければ僕にも歌わせてください」

これ以上の情報漏えいはやめさせるべきだと思ったのか、古泉が参加を申請したのでハルヒもマイクをゆずり、野郎二人して船乗りの歌を朗々ろうろうたるデュエットで歌った。肩を組んで腕をふりふり、朝比奈さんと伯爵を前に直立しての大熱唱である。ウンウンとうなずきながら聞きれている伯爵に向かって、どうだこれぞイングランドのおとこの歌だろ、とドヤ顔で歌ってみせたのだが、眉間みけんに手を当てている長門に聞いたところでは十九世紀のイギリス海軍の歌なのだそうだ。そんなカラオケのカテゴリで十二世紀以前を選曲しろつっても俺達にゃ無理だって。

「動いたわ!」

お腹に耳を当てながら軽いヘドバンで節を取っていたハルヒが突然叫んだ。

「なにがだ?」

「赤ちゃんが動いたわ、たった今! そうよねみくるちゃん」

「ええ、初めてだわ。今の赤ちゃんですよね」

鶴屋さんに尋ねるとうんうんとうなずいている。マイレディそれはマジかと伯爵は朝比奈さんのそばに寄り、

「ちょっと触ってもいいかな」

「どうぞどうぞ」

おずおずと手を触れようとすると朝比奈さんが手をむずとつかみ、丸っこいお腹にペタとつけた。

「いや……なにも感じないが」

「確かに今動いたのよ。ちょっとキョン、さっきのやつ歌ってみなさい」

「えーアンコールやんのかよ」

「いいから早くぅ」

しょうがないので、今度は小さめの声で語りかけるように、水夫が酔っ払って仕事しねーけどどうすりゃいいんだという歌詞を歌ってみせた。

「動いた! 今の分かったわよね」

伯爵の顔がぱっと明るくなった。「ああ確かに。ずいぶん元気な子だな」

歌がうるさくて眠れんと怒ってるんじゃなかろうか。

「ちょっとキョンも古泉くんも、有希もここに来なさい。キョン歌って」

アンコールも三度目となると歌詞を覚えてしまい、今度は伯爵も加わってのトリオ合唱となった。

「……動いた」

「でしょでしょ」

「もしかして歌に合わせて腕を振ってんのか」

「ここは足よ。赤ちゃんは上下逆になってんのよ」

ああ、足が上に向いてんのな、って蹴り上げてんのかよ。ハルヒがお腹に向かって話しかけるとピョコとなにかが動き、俺達はそのたびに笑い声がいた。俺が話しかけてもなんともいわないのだがハルヒの声にだけ反応するとか、この赤子は一体どんな子に生まれてくるのだろうかと一抹いちまつの不安がよぎった。しかしまあ元気なのはいいことだ。


 さて麦畑が黄金色に輝くイングランドの夏となり、そろそろ収穫の季節である。伯爵の直営地では、朝比奈さんの命令、いや提案により、今年からは執事さんをはじめ騎士さんや兵隊さんなどの城の住人が総出そうでで麦刈りを手伝わされることになった。身重みおもにもかかわらず朝比奈さんは自らも刈り入れに出ると言い出し、伯爵がハラハラしつつ侍女じじょを何人もお供させようとしたが本人が怖い顔をして断り、主治医の鶴屋さんだけが心配して畑についていった。ハルヒのほうは自分の農地の刈り入れに里帰りしている。


 夜明け前のまだ暗いうちからマナーハウスの前で机を並べ、日雇い労働者をつのった。俺がここに落ちてきた頃に修道院の領地でもやってたやつな。今回の俺は監督する側で、キミなかなか肉付きがいいね経験者かいとか、なにか問題があったら私に相談したまえ、などと、なけなしの権力をふるう小役人のようにフフンと鼻を鳴らしながら受付に座っていた。アウトローっぽいやつも何人かいたが、今日は伯爵夫人の護衛が来てるから、くれぐれも粗相そそうのないようになと釘を刺しておいた。


 やがて教会の六時の鐘が鳴り、俺は農夫連中にまじってかまを握って刈り取りに参加した。俺が刈り取っている後ろで、朝比奈さんがヨタヨタと地面のデコボコに足を取られながら刈穂かりほたばねていた。

「朝比奈さん、大丈夫ですか。あんまり無理しないほうが」

「だ、大丈夫だけど、ちょっと体のバランスが……」

といいつつガニ股で一歩ずつよっこらせという感じに歩いている。

「俺やりますんで、休んでていいですよ」

「い、いえ大丈夫。お腹の赤ちゃんが大きくなってきて、重心が移動するからよろけちゃって」

照れ笑いをしながら、ときどき手を休めて腰を伸ばしながらやっている。

 太陽が昇り九時の鐘が鳴ると、休憩となり揚げパンのおやつが配られた。朝比奈さんは数人前をムシャムシャとほおばりながらミルクをピッチャごと飲み干している。

 休憩が終わって作業が再開したとき、朝比奈さんが急にお腹をおさえて座り込んだ。

「し、シスターちょっと……」

「どうしたんだいミクル、ひょっとして産気さんけづいたのかい?」

近くで刈り取りを手伝っていた鶴屋さんがかまを放り出して走り寄ってきた。

「ち、違うのシスター」

手招きする朝比奈さんは頭を寄せる鶴屋さんの耳元でゴニョゴニョとナイショ話をし、鶴屋さんはガッテンと大きくうなずいて麦の束をかき集めはじめた。

 たしかまだ六ヶ月くらいだと言っていたが、ちょっと早すぎじゃないだろうか。鶴屋さんは朝比奈さんの周りに、三匹の子豚の小屋みたいな吹けば飛びそうな麦わらの垣根かきねを作った。ドクター長門は大工ギルドに用があって今日は一緒に来ていない。俺が近くの民家を借りましょうかと言おうとすると、

「しーしー。いいんだよブラザー、ミクルのことはいいから作業に戻っとくれ」

しーしーって、ああなるほど。おしっこか。赤ちゃんが膀胱ぼうこうを圧迫するので妊婦さんはおしっこが近くなるらしい。しかも一日に二リットルを超える水分をってるわけだからな。

 鶴屋さんの建築したわら小屋はレディシップ専用トイレとなり、畑で作業する朝比奈さんにくっついて移動した。


 日も高くなり、三時の鐘が聞こえてくると、あちこちでハァーヤレヤレと大きなため息が聞こえてきた。肩を叩いて首を回す姿があちこちに見える。そこからは待ちに待った昼飯である。城の台所で用意した飯を運んできた荷馬車にメイドさんが待機しており、畑にテーブルを広げると早速さっそく待ち行列ができた。パンは大きな丸いやつの半切れが一個だが肉と魚は食べ放題、エールはおかわり自由である。労働の後にはなにを食ってもうまい。あのときがっついて食ってた自分が懐かしい。朝比奈さん、あなたがっつき過ぎです。

 俺は労働者一人ずつに今日の分の日当を払って回った。日雇い人夫にんぷ農奴のうどはペコペコと頭を下げた。一般的には男は2ペンス、女は一ペニーだったが朝比奈さんの男女雇用均等政策だんじょこようきんとうせいさくとやらで同じ賃金となり、おばちゃん達にはえらく感謝された。城から駆り出されたメイドさんも兵隊さんも同じ賃金である。俺は役員なので無論タダ働きだ。

 一日の労働を終えたほろ酔いの農夫たちは畑の真ん中でごろ寝したり、馬蹄ばていを使った輪投げみたいなゲームにきょうじたりしていた。そろそろ食べ飽きたらしいテーブルの上の残り物をボソボソと食っていると、城に続く農道の方角から長門と荷馬車がやってきた。

「おう、おつかれさん」

「……おつかれさま。頼まれていたものができた」

「おおそうかご苦労」

長門に頼んでいたのは馬に引かせる刈取機かりとりきである。だいぶ前に西洋史かなにかの図鑑で見た、車輪の回転を動力に使ってかまを回し、刈り取った株をまとめて後ろに投げ捨てる簡単な刈取機だが、なんせエンジンも精密な金属加工もない時代だ。馬が引く力と刈り取れる束の量を俺の頭で計算しようとして途中で挫折ざせつし、長門に頼んで設計してもらったものだ。未来の技術も特別な魔法も使っておらず、この時代にはもともと馬に引かせる車輪付きのすきがあったので、それをベースに作ったらしい。今回の作業に間に合うようにと大工さんに頼み込み、試作初号機が完成したようだ。

 馬につないで実際に動かしてみると、刈り取り方法は麦が生えている列の左端のうねから、縦方向にがしていく感じである。すきの刃が株をかき寄せ、回転する刃がザックリと株を切り取り、大きな縦方向の輪に乗って後ろに放り投げられる。俺たちの時代の農機にくらべれば実にのんびりした動きで、人手で刈り取るよりは少しだけ早いような、まあその程度のものだ。

 次々にできる麦わらの山を見ながら、

「さすがだな長門、よく出来てんな」

「……この時代で知られている機械工学のみを使った。摩耗まもうに対する強度は保証できない」

「まあ木製だしな。大工さんにメンテを頼んでおけばいいだろう」

一緒についてきていた大工ギルドの親方は新しい工業製品を作れるようになったので感謝感激しており、盛んに長門さんブラボーを叫んでいる。俺は朝比奈さんを呼んで、農業生産力の向上になるかもしれない新しい機械を見せた。

「木材だけで設計するなんて、長門さんすごいわね! この時代は手作業でやるしかないかと思ってたわ」

「……可動部分の劣化れっかが激しく寿命が短いのがなん

「これでだいぶ楽にはなるだろ。機織はたおり機なんかも木製だしな」

朝比奈さんは旦那だんなさんに大量生産を頼んでみると言っていた。


 俺達はしばらく試作機のテストを続けた。引く馬がまっすぐに進んでくれなかったり、いきなり麦ワラを食べ始めたり、うねから外れたりして刈り取れないこともあり、その度に改良を加えるべきところを大工さんに説明している。

 昼寝をしていた農夫がなにをやっているのだろうかと興味津々しんしんに俺達の周りに集まってきた。ぐるぐると回るカラクリを見て、きっと悪魔が乗っているに違いないと十字を切るおばあちゃんもいたし、これでわしらの仕事がなくなるかもなあとなげいているオッサンもいた。俺はおばあちゃんに十字を切ってこれは聖なる神のカラクリなので心配めさるなアーメンと説教し、オッサンには馬一頭で一人分の刈り取りしかできないから大丈夫だとなだめておいた。長門がいうには、数パーセントほど落ちが残っているが、子供と寡婦かふの収入をうばわないようにと、えてそういう仕様にしているそうだ。


 それから数日間は収穫作業が続き、俺命名による馬引うまびき刈り取りマシーン初号機も大いに活躍した。伯爵もそれを見に来ていて、いたく感心したようだった。リチャード陛下に献上けんじょうしてみてはどうだろうかと長門に勧めている。


 刈り取りが終わるとマナーハウスの倉庫で脱穀だっこくの作業が始まった。畑で乾燥させた麦の束を荷馬車に山積みして運び、からを木の竿で叩いて実の部分だけを落とし、晴れた日に風にさらして殻を吹き飛ばす。たまに実の入った部分まで飛んでいってしまうという、結構アバウトなのがこの時代の脱穀だっこくだ。

 今回俺は、学生の時分に日本史で習ったわずかな知識を駆使くしし、麦の穂から実の部分だけを抜き取る鉄のくしのようなものと、風力を利用して殻を吹き飛ばすものを鍛冶屋と大工さんに苦労しながら説明して作ってもらった。くしのほうは存外効果があったようで、いちいち手作業で抜き取るよりは格段に早くなった。風を送って脱穀だっこくするやつは、小麦の粒だけをうまく下に落とすという風量がなかなか決まらず、残ったものを手作業でり分けなくてはならないことが多かった。たぶん麦の乾燥の度合いにバラつきがあったのだろう。要改良だな。

 俺がその辺のことを朝比奈さんの部屋で報告していると、またもやドタ足の音が聞こえてきてやつが怒鳴り込んできた。

「こらキョン、脱穀だっこくの機械作ったのあんたよね」

「まーたいちゃもんかよ。どんなおしゅうとめだまったく」

「誰がしゅうとめよ! いきなり二十一世紀の工業技術を持ち込んだりして、どういう神経なのあんたは」

千歯せんば唐箕とうみは江戸初期からあるだろうが」

「んじゃ聞くけど、手作業で脱穀だっこくしてるおばちゃん達がいくらもらってるか知ってる? 四ブッシェルの麦をこそぎ落とすのにたったの一ペニー、三十二ブッシェルをからからり分けるのにたったの一ペニーよ。あんたの浅はかな脳みそはいったい何ブッシェルあるのかしらねえ」

一ブッシェルはだいたい三十六リットルなので、ハルヒが言っているのはそれぞれ百四十リットルと千百リットル。小麦の重さにするとだいたい百十二キロと八百八十キロである。

「作業が短時間で済んで楽になっただろ、何が問題なんだ」

ハルヒは大きくため息をついてみせ、

「あんたんとこの農奴のうどはだいたい二百人、うちの村は五十人よ五十人。作業が終わったあんたんとこから労働力があふれ出してうちにまで来てんのよ。おかげで一日一ペニーももらえないのよ!」

するとなにか、うちだけがさくっと脱穀だっこくを終わらせちまったもんで農奴のうどが仕事を求めて出稼ぎに行っちまったのか。

「まーだあんのよキョン。あんたの刈取機かりとりきは雇用破壊してるわ。一週間かかってた刈り取り作業がたった三日で終わったら農民一揆いっきが起こるわよ」

「お前、長門の前ではそんなこと言うなよな。あいつに設計してもらったんだから」

「だったらあんたがなんとかしなさいよ。イングランド中のマナーハウスがあれを導入したらどういうことになるか分かってんの? 人を一切いっさい雇わなくなるわよ」

一切いっさいは言いすぎだ。作付さくづけ面積当たりの台数を調整すればいいだけだろ。増えすぎるようなら許可制にして、刈取機かりとりき税を取ればいい」

「あーっもうこの官僚かんりょう頭! なんでもかんでも簡単に管理できると思うな! あんたみたいなのが粉挽こなひき禁止令を出したりすんのよ」

実はこの時代、水車小屋は領主の収入源で、これ以外の方法で粉をくと罰金になる。石臼いしうすみたいなポータブル粉挽こなひきを個人で持つのは禁止されているのである。

 たぶん村のおばちゃん達から愚痴ぐちを聞かされて来たのだろう。髪の毛をカキカキ怒るハルヒを見て、朝比奈さんがわたしに任せてというふうにうなずいた。

「涼宮さん、わたしが農業の生産を増やすために頼んだの」

「石器時代が終わったらいきなり産業革命みたいじゃないの、いったいどうすんのよ」

「今はできることはなんでもやらないとお金が回らないの。農家の皆さんには必ず埋め合わせします」

「まーたキョンの一つ覚えで債券発行に頼るつもりなんでしょ。先送りの雪ダルマだわよ」

「来年の収穫までに新しい農機が均等に行き渡るようにします。陛下にもお願いするわ。来年もし作業が減って支払い額が変わるようなら、その分の仕事を用意します。涼宮さん、これでどうかしら」

ハルヒは口をとがらせて、

「むぅ……。ご主人様がそう言うなら、まあいいけど」

「これからは領内の経済だけじゃなくて国外ともきそわなくてはならないの。そのために少しくらいひずみは出るかもしれないけど、分かってちょうだい」

プスプスとくすぶっているハルヒはまだ不満があるという風に口をとがらせたままで、でも伯爵夫人という権力には従うつもりらしく不本意っぽくうなずいて見せてはいるが、

「しょうがないわね分かったわよ。みくるちゃん、あんた最近キョンに似てきたわよ」

このひと言で朝比奈さんの中のなにかがプチンと切れた。笑顔のままピクリとほほゆがませて、

「涼宮さん、あなたいつからキョンくんのお母さんになったのかしら」

うわー言っちゃったよこの人、笑顔で堂々と言っちゃったよ。いくら貴族の奥さんでもそれを言ったらあかんですよ。顔は笑っているけど目はまったく笑っていないハルヒのひたいにピクピクと青筋が走っている。ハルヒはズイと顔を近づけ、

「ちょっと、そりゃどういう意味よ。上等じゃないの、喧嘩けんか売ってんだったら買うわよ」

喧嘩けんか慣れしていないらしい朝比奈さんはたちまち狼狽ろうばいして顔をおおい、

「ごご、ごめんなさい今のは忘れて。最近なんだかイライラしてて」

両手で顔を押さえたまま長い髪をフリフリしている。

「イライラしてんだったら気持ちを吐き出しなさいよ。め込むとお腹の子にも悪いわよ」

「いえ、なんでもないの。たぶんホルモンのバランスが、」

「ホルモンなら一気に発散してしまいなさいよね」

なおもハルヒがにじり寄ると、朝比奈さんは突然お腹を抱え込むようにして、

「ううっ生まれるっ」

「ええっ大丈夫なの? 大丈夫なの? 救急車、キョン救急車!」

あのー朝比奈さん、なんか都合が悪くなったら生まれるを叫んでいませんか。

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