二十六章

 季節は六月。つっても日本みたいな蒸し暑い梅雨とは一切無縁で、気温は二十度を超えず比較的過ごしやすい北海の島国である。朝、日の出前にぼんやりとした夢うつつの中でなんだか妙に静かだなと思うこの頃、そろそろ司祭服に着替えて礼拝の用意をしなければならんなーなどと思いつつ、思いつつも俺はわらのベットであと五分、あと五分とわずかな眠りをむさぼっている。このいとおしくなるまでの静けさは、別に嵐が来る予兆よちょうなんかではなくて、台風の目が少なくとも数キロ圏内には存在しないという安堵あんど感と妙な至福しふく感を得て深層心理からにじみ出て来る安らぎのみなもとなのである。おお、暖かいしゅ御手みてに包みたまわ惰眠だみんのなんと安らかなことか、あなたは夜明けの二度寝が人生において意味するところを実によく分かっていらっしゃる。


 五分のつもりで一気に時間跳躍ちょうやくし、助手くんに叩き起こされ、この世界で唯一時計を持っている俺が遅れてどうすると一人ツッコミをしながら礼拝堂に入ると誰も来ていなかった。なーんだ、天にまします我らが父も今日は休みかハッハッハなどと一人ボケを祈祷きとうしていると、メイドさんが一人やってきて伯爵以下、城の住人のほとんどが具合が悪く今日は参列できないと伝えに来た。なんだと、俺に隠れてなんか変なもんでも食ったのか。

 途中でミサを取りやめて助手くんに礼拝の道具を片付けるよう頼み、メイドさんの後についていくと、伯爵の寝室の前で立っているはずの兵士がいない。古泉もどこかの自室でぶっ倒れているらしい。朝比奈さんの寝室に連れて行ってもらいドアをノックすると中からき込む声でどうぞと聞こえた。

「おはようございます。どこか具合悪いんですか」

「ミサに行けなくてごめんなさい。風邪っていうか……今ごろ変だとは思うんだけど、熱もあってのども痛いし」

俺は医者じゃないのだがこの時代は医者まがいのことを修道士がやっていると聞いていたので、少し気取って、

「ちょっとのどを見せてもらえますか。痛くないですからね、はい、あーん」

「あーん」

「おやおや、のど水疱すいほうができてます。なんだかやばい気がしますね」

「ええっ!?どれくらいやばいの?」

「痛みますか」

「水を飲むと痛むの。あと、お腹の具合が悪くて」

「ちょっとドクター長門に相談してきます。城の住民のほとんどが寝込んでるらしいので」

「ええ、お願い」


 長門の私室はメイドさんたちの部屋の並びにあり、ここは男子禁制で領主といえど入ってはいけないことになっている。今日はまあ医療上の都合なのでメイドさんに連れってグロースター城の女子寮にはじめて足を踏み入れた俺である。

「長門、ムグググ」

部屋に入るなり頭から布を被せられた。あの、けしてあやしいもんじゃございません。

「……抗菌フィルター付きマスクを着用のこと」

マスクというかシーツをいてぐるぐる巻きにしてるだけのような気もするが。メイドさんもぐるぐる巻きにされている。っていうか長門、その中世風ドクターウェアは自作なのか。

「ぷはっ。集団感染っぽいもんが流行ってるみたいなんだが、まさかペストとか黒死病じゃないだろな」

「……ペストと黒死病は同義」

そういうツッコミはどうでもええねん。ペストって撲滅ぼくめつされたかと思ってたら俺たちの時代でもほそぼそと続いてるらしいが。

「朝比奈さんののどが油田のボーリングヘッドみたいにブツブツになってた」

「……城内にエンテロウィルス属のエコーウィルスが蔓延まんえんしている」

「どういう病気なんだ?」

「……通俗的な呼称を使用するなら、夏風邪」

「な、夏風邪!?夏で、夏だった、っていうただの夏風邪?」

「そう。この時代には珍しくなく悪化することも多い」

「夏風邪ってどうやって伝染うつるんだっけ」

「……唾液だえきや咳、鼻水など。し尿による感染経路もある」

「ということはそばに寄るだけで伝染うつるってことか」

いやー俺だけ無事だったのは運が良かったというべきか日頃の行いの現れというべきか、なまんだぶなまんだぶ。

「……あなたが感染していないのはナノマシンによる防疫ぼうえきが働いているため」

「ああ、そういうメディカル的な効能もあるのかこれ」

俺は自分の脳内にいるらしい長門製ナノマシンを指した。ありがたやありがたや。

「……ここ二三日は脳内分泌のうないぶんぴつが活性化しているはず。いわゆるハイテンション」

なんか気分がいいと思ってたら軽くラリってたのか俺。

「ありがとよ長門。住民向けに薬を調合してもらえないか。この時代の医学レベルで」

「……了解した。ラボに出かける」


 城門にも番兵はおらず、メイドさんになるべく城から人を出さないようにと言いつけて出ると、どうやら赤ら顔で咳をしている人が町のそこかしこにいる。城内というかこの街全体に広まってるようだ。俺は月光仮面みたいなマスクをして、長門は女医さんみたいな白装束しろしょうぞくで、なるべく人に会わないようにして店に入った。

 長門の店は前と同じ間取りで一階がカウンター、地下が錬金ラボになっている。壁に大きな布の包みが立てかけてあるのはペンタグラムか。

 長門いわく、夏風邪ウィルス用の薬やワクチンというのは俺たちの時代でさえ存在しないらしい。夏風邪の場合ほとんどが解熱剤げねつざい整腸剤せいちょうざい、咳止めなんかの対症療法たいしょうりょうほうしかないということだ。つまり体力を維持しつつ免疫めんえきが勝つのを待つしかないのである。

「案外めんどくさいウィルスだな」

「……そう。自覚症状がないため広まりやすく、進行すると合併症なども起こり得る。妊婦は要注意」

なるほど。妊婦、妊婦ね。そろそろ三ヶ月になる朝比奈さんは気をつけないとな。


 パセリみたいな匂いのする干した薬草とシソみたいな植物系の素材をゴリゴリと乳鉢ですりつぶし、フラスコで煮立てて白い煙をモクモクと出し、ダークネスセンブリ茶みたいな匂いのする液体を素焼きのポットに入れて、

「……できた。召し上がれ」

い、いや俺は問題ないから。

 主に夏バテによる腹下しを滋養じようするという長門メディシンを朝比奈さんのところへ持っていった。

「マイレディ、お薬お持ちしましたよ」

「キョンくん、長門さん。ありがとう」

「先生の診立みたてによると夏風邪だそうです」

「夏風邪だったの? 私はてっきり食中毒かと」

「城の外でも流行ってるみたいなので、なにか対策をしたほうがいいかもしれません」

「どうすればいいのかしら」

「……まず予防は適度な衛生管理。うがい手洗いは基本」

「手洗いね。メイドさんたちには徹底てっていさせてるけど、田舎ではあんまり気にかけていないんじゃないかしら」

「修道士は宗教的な理由でよく手を洗うようにしつけられてますけど、この時代は石鹸とかないんですよね」

「イタリアから輸入すればないこともないんだけど、嗜好品しこうひんなの。代用品があればいいのに」

「……植物油脂とアルカリ性のものであれば一定の効果はある」

「なんとか安く作れないか考えてみましょう」

「……材料を探してみる。夏風邪の薬も多めに用意する」

「ありがとう長門さん。恩に着ます。農奴のうどの治療費は全部うちで持ちますから」

「マイレディ、俺思ったんですが、黒死病の流行にそなえたほうがいいんじゃないかと」

「そうね。わたしも気になっていたわ」

黒死病はネズミについたノミを経由すると言われていて、あるいは感染した患者が肺炎になり咳から空気感染し、発症すると頭痛高熱吐き気などに見舞われ、その名の通り黒いアザができて数日で死に至るという、ゾンビも真っ青になって逃げ出す病気だ。十五世紀には農民の半分が死んで廃村のき目にあったところも多いらしい。

「街の住民に衛生管理させるのはお触れを出せばなんとかなると思いますが、田舎には医者もいないし病院もないんです」

「農村では病人の扱いはどうなってるのかしら」

「……農村に治療施設はほとんどない。主に領主が住む街で施療院せりょういんを経営している。雇われているのは司祭職にある牧師や修道女。人口比率で医者の絶対数が足りない」

今鶴屋さんがいるところだな。

「うーん……どうしたらいいかしらね」

「現状では、施療院せりょういんで養成している助産師に衛生管理を教授する。それを農村で徹底てっていさせるのが暫定策ざんていさく

「そうね。お医者様がいないのなら産婆さんばさんにお願いするしかないわ」

「教区教会から派遣されている牧師にも教育をほどこせる。学力にバラツキはあるが、彼らはフランス語が読める」

「分かりました。それは聖堂教会の司教様にお願いしましょう」

「……河川の衛生対策もしておいたほうがいい」

「それってどういう?」

「……糞便Faecal matterの処理」

「えーっと、つまり」

「……」

長門は適当な語彙ごいが見つからないらしく、俺が割って入り、

「住民がうんことおしっこを川に垂れ流してるってことです」

「なんてまあ! ほんとにそうなの?」

言っちゃなんですが、この城のトイレだって川に垂れ流してるんですよ。朝比奈さんはなんてこったという顔をした。

「……そう。後年に流行するペストの原因のひとつとして挙げられている」

「それは禁止しないといけないわね」

その水を下流の住民が飲んだり洗濯に使ったりしているのである。ありがたいことに、この城では自前の井戸を持っているが、一度流行すると人から人へとまたたに広まってしまいかねない。

「分かりました。ロードシップに頼んで今回の夏風邪の件もお触れを出してもらいましょう」

俺と長門は、なんか事あるごとに着々と行政改革が進んでるなあ、という顔で感心している。既定事項は破ったかもしれないが、朝比奈さんの結婚はグロースターにとってはいいことだったのかもしれん。


 長門は早速買い出しに行くといって立ち上がった。朝比奈さんは部屋を出ていこうとする二人を呼び止め、

「長門さん、ありがとう。本当にいろいろ助かっています」

「……お礼ならいい。今日一日は安静あんせいに」

「はーい先生。そのコスプレ、すごく似合ってますよ」

俺より長門のほうがよっぽど医者っぽいな。


 長門はメイドさんに薬を渡して時間と分量を指示し、なるべく患者に触らないこと、毎回手を洗ってうがいをすることを伝えた。それから馬車を出し、ロンドンまで薬草を仕入れに行くというので俺も付き合うことにした。様子を見ておきたいやつもいたしな。

「外科治療は無理かもしれんが、こういう内科の病気は俺たちも気をつけないとなあ」

「……そう。この時代は病死率が高い。平均寿命は三十五歳」

三十五歳って、俺もう人生のほとんどを無駄に使っちまったな。

 馬車が家の門の前にたどり着くと、その無駄に使っちまった第一要因が庭先に転がっていた。

「ハルヒがぶっ倒れてるぞ!」

ハルヒが感染するウィルスたぁいったいどんな極悪菌ごくあくきんだよ、宇宙伝来か。顔が真っ赤で熱っぽい。どうやらこの村でも発症してるらしいな。

「……薬を少し持ってきている」

「とりあえず家の中に運ぼう。足を持ってくれ」

俺は気を失っているらしいハルヒの脇を抱え、長門がひざの裏を持って玄関の中に引っ張り込んだ。白目しろめをむいてゆるんだ口からヨダレが垂れている。なんて姿だまったく、狂犬病か。家の居間のベンチに寝かせようと運んだところ、テーブルの上にコップと素焼きのポットが目に入り、俺は両手を離した。床とハルヒの頭がゴンと衝突しょうとつする音がして、

「んがっ」

ポットを取り上げるとなにか液体が入っている。見たところ透明なんだが水じゃなさそうだ。不審に思って一口飲んでみるとのどが焼けるほどのアルコールでき込んだ。

「うへー、なんだこりゃ。焼酎しょうちゅうレベルの酒だぞ。こんなものどこで手に入れたんだ」

ハルヒの口元をスンスンとかいでみると強烈に酒臭い。ただの泥酔だと分かって長門も両手を離すと、ハルヒが目を覚ましたようで、

「んがっ、いたーいたたた。頭に床が落ちてきたぁ、ってなんでキョンがいるにょよ。頭ったんじゃなかったにょ」

「おいハルヒ、まさか昨日から外で寝てたんじゃあるまいな」

ハルヒは号泣市議のような仕草で耳をそばだててみせ、

「んーんー? もっかい言って、よく聞こえなかったわ」

「だから、外で寝てたんじゃないかっていってんだよ」

「んがはは、なわっけないでしょっキョン」

へべれけのハルヒはペシッと長門の背中を叩いた。こりゃ前後不覚どころか左右混同天地無用だな。

 台所のドアを開けるとなにやらでっかい銅製のヤカンみたいなものに細い管がつながっていて、その先からポタポタと透明な液体が樽に流れ込んでいる。長門の店にある錬金術の道具に似てなくもないが、これで作ってたのか。それよりその脇でぶっ倒れてるメイドさん達の目がぐるぐる回っていて、匂いをいでみるとやっぱり酒臭い。三人してなにやってんだか。

 ハルヒがテーブルにつかまりながらふらふらと立ち上がり、

「んぐぐ、あー頭が痛い」

こっちのほうが頭痛いわホンマ。

 長門がコップに水をんできてハルヒに渡した。ハルヒはコップと自分の口元の距離が分からないらしく、手に持ったまま顔を右に左に動かし、飲もうとする唇と飲ませようとする手がうまく協力できずにいる。唇にやっとたどり着いたコップを口に含んだところで、こっちにいる俺と目が合った。

「んぐ、ぷっ」

慌てて口をおさえてドアから飛び出していった。人の顔を見るなり失礼なやつだな。

 窓の外からハルヒのオロロロ声が聞こえる。それを見た豚が寄ってきてハルヒがリバースしたものを食っている。うわあグロ映像だ見たくない見たくない。

「ハァハァ、スッキリ爽快。あ、あんたたち来てたんだ。いいところに来たわ、まあ一杯やんなはい」

妙にひと仕事終えた感いっぱいの顔で口元をぬぐいドアから入ってきた。まだ覚めてないみたいだな。

「どうでもいいがこの焼酎しょうちゅうどこから手に入れたんだ」

「しょーちゅじゃないわのよ。ウィスキーよ。試しに作ってみたら最高でもうホロロロ」

ほろ酔いどころじゃないだろそれ。ウイスキーってこの時代にあったっけ。

「いいけどな、あんまり未来の技術を持ち込むなよ」

「未来人が酒飲んじゃいかんとでもおっしゃんすかあ。あんだぁ修道士のくせに知らないにょ? ウィスキーは十二世紀にムショで作ってらのよ」

修道院は刑務所じゃないですから。それにスコットランドの話だし。俺はもう一口飲んでやっぱりき込み、

「これってスピリッツだよな。ウイスキーって何年か寝かせたやつだろ」

ハルヒはテーブルをバンバンと叩いて、

「まぁま、こまけぇこたあいいんだよ。そんな何年も待ってられっかっての。この時代はコレを飲んでたんだがらいいにょよ」

「樽で寝かせればいい味になんのに」

俺はまだ飲もうとしているハルヒからコップをうばって飲み干した。香りもないし、水で割っただけでほとんど渋味もないが、まあふつーに蒸留酒じょうりゅうしゅだな。樽の中で何年も熟成させるとあの琥珀こはく色になるんだそうだが。

「あんだねぇ、このご時世いつまでも待ってれれるほど甘くわないにょよ。有希がいつまれも待ってくれると思ってんのあんだ、あぁん?」

「分かったから、ほら自分の部屋で寝てろ」

俺が肩でかついでハルヒを連れて行こうとすると、

「有希もねぇ、我慢してるだけじゃらめなのにょ。言うときはビシっとバシッとブシっと言うっと。女にはにゃー適齢期てきれいきってもにょがあるにょよ。あんだも分かってんにょ?」

今度は長門にからみ始めたぞヲイ。っていうかなにげにサラリと禁則事項を言ってくれるじゃないか。ズルズルと足を引きずるハルヒを二階の部屋まで連れてゆき、ベットに放り投げた。

「あだしゃーねえ十年も待たされてんっすよ。十年よ十年。あー、あだしなんの話してんら」

ハルヒは天井に向かってビシ指をし滔々とうとうと意味不明な説教っぽいものをたれていたが、やがていびきをかきはじめた。もう話にならんし、きっと明日の朝になったら、あーキョンと有希が夢に出てきた気がするーなどと痛む頭を抱えながら起き上がるだろう。こいつの酒くせの悪さは学生の頃にも一騒動あったが、この先にもひどいトラブルが待ってるような気がするのはなぜだろう、なぜだろう。


 俺は伯爵の様子を見ようと寝室のドアをノックした。中からどうぞと声がしたので開けて覗くとベットで頭にタオルを乗せたまま手招きしている。

「おお、修道士殿か」

「マイロード、お加減はいかがですか」

「だいぶ楽になった。薬の調達に奔走ほんそうしてくれたとのこと、ありがたく思っている」

「礼ならミス・ナガティウスに言ってやってください。あいつが調合したものなんで」

「そうそう。彼女の薬は実によく効く。長年病んでいた水虫がすっかり治って喜んだものだ」

あなたも水虫に侵されていたんですかマイロード。

「ところで、ちょっとこの小瓶を味見してみてください」

俺は自分で先に毒味をしてみせ、伯爵の手の甲の上に数滴落とした。

「新しい薬か。ペロリ……これは、青酸カ、」

と少年探偵のまねをしそうになってゲフンゲフンとき込んだ。

「エールの味ではないしワインの酸味もしないし、これはなんだ?」

「ええと、スコットランドの酒、らしいです」

「ほう、そんなものがよく手に入ったな。なんだか魂を抜かれそうな強さだ」

まあスピリッツというのは元々そういう意味なのかもしれませんが。

「実はミス・スズミヤが作ってるんです。俺は薬用にしようかと思ってたんですがね。これを売ってみませんか」

「なるほど、おもしろいな」

「ミス・スズミヤに委託いたくする形にすれば、あいつも城に来てくれるんじゃないかと」

「そういうことか。いいアイデアだ。修道士殿、よかったら話をつけてもらえないだろうか」

「ええと。マイロード、恐れながら、商取引は直接なさったほうが交渉がスムーズになるかと思います」

「そうだったな。彼女ならきっと、そういうことは面と向かって言いなさいよ、と言うだろな」

さすが分かってらっしゃる。


「そういうことは執事に任せなさいよ」

どっちなんだお前は。

「まあまあハルヒよ、今日は木材の納品のついでに寄ってもらったわけで」

病み上がりの伯爵も謁見えっけんの広間の椅子に座って困った顔をしている。俺と古泉が作り笑いでなだめようとすると、

「ついでに人を呼ぶな!」

伯爵も人がいいからおとがめはしないが、そこに並んでいる家臣は皆冷や汗モノである。もうやだ俺こんな役回り。呼びつければ来ねえし、こっちから行けばツンツンするし、だったら世間話でもするかと木材搬入はんにゅうに来たハルヒを晩飯で釣って呼んだわけなのだが。

「ミス・スズミヤ、あなたが作っているというあの酒は実にうまい。正直やみつきになるくらいのものだ」

「そ、そうなの。まあね、あたしでも意識失うくらいだったけど」

いいぞジョン、そこでおだてて攻略だ。

「グロースターの銘酒めいしゅとして作ってくれないだろうか。最高執行責任者The Presidentとして」

「まだそこまでの量は作れないわよ。台所でちまちまやってんだし」

「場所が必要ならここを使ってくれても構わない。港も近いし輸出するには最適だと思う。あなたが作って私が運ぶ、完璧な組み合わせじゃないだろうか。いかがかな、イングランドを代表する酒造の経営者、ミス・スズミヤ」

ハルヒはまんざらでもないようで、がははと切ったスイカのように大口おおぐちを開けて笑っている。最高とか、完璧とか、おだてるにはこの単語のシソーラスを駆使くしすれば効果抜群である。

「いいけど、一つだけ条件があるわ」

「なんなりと」

「酒の名前はあたしが決めるわ」

「酒に名前を? つけるのか?」

「知らないの?ブランドよブランド。ビールならギネス、赤ワインならボジョレー・ヴィラージュ、テキーラといえばホゼ・クエルボ、ウォッカといえばストリチナヤでしょ」

おい商品名はその辺にしとけ。知らなくて当然の名前が大量に出てきて伯爵が首をかしげているじゃないか。もう禁則事項もお構いなしだな。

「私はまあ、なんでも構わんが。その様子だともう決まっているのか?」

「安心しなさい、名前ならたった今考えたから」

これはやばい、ずいぶん昔にも似たようなシーンに居合わせた気がするぞ。


 皆の衆お知らせしよう。ハルヒがたった今考案したスコッチウイスキーのパクリ銘柄、それは、涼宮ハルヒのおいしい酒。略さなくてもわかると思うが、ってまんまじゃねーかよ。伯爵はそれはラテン語かアラビア語のたぐいなのだろうかという表情で、古泉に向かって解説してくれという視線を向けている。

「英語で伝わってないだろ。もっとマシなの思いつかなかったのかよ」

「うるさいわね、ウイスキーの発祥地はっしょうちも知らなかったくせに。だったらあんたが考えなさいよ」

「えーとだな。じゃあ、世界を創造する涼宮ハルヒのスピリッツSuzumiya's Omnific Spiritusなんかどうだ」

はい決定。語呂感ごろかんもいいし意味的にも日英ハイブリッドで通用する。だがハルヒは笑いながら俺の奥襟おくえりをむんずとつかみ、

「こらキョン、あんたの頭でそんな気の利いた名前が思いつくわけないでしょ。ずっと考えてたわよね、寝ないで考えたわよね、正直に答えなさい」

「とんだ言いがかりだな。昨日寝てたときにご託宣たくせんたまわったんだよ。なんかすっげえ酔っ払った天使が舞い降りてきて、酒瓶抱えててな」

「へーえ」

握りしめたえりを離しながらハルヒは適当なこと言うな坊主という顔をしている。伯爵が割って入り、

「まあ、名前は後で話し合って決めてくれ。ミス・スズミヤ、もし城で寝泊まりするつもりなら、」

「あたしはここに住むつもりはないわよ」

「ああ分かっている。それは分かっているが、もし仕事の合間に昼寝をするようなことがあれば個室を使ってくれて構わない」

「あっそ。まあ、そんとき使うわ」

うんうん。醸造じょうぞうだなんだと入りびたっているうちにきっと居着いつくようになるさ。なだめたり透かしたりエサで釣ったりと、伯爵もだんだんハルヒという生き物の動かし方が分かってきたようだ。


 朝比奈さんの様子を伺いにか、それとも冷やかしにか、翌週くらいからハルヒはちょくちょく城に来るようになった。

「ねえねえ、みくるちゃん、あたしたちのベビーまだぁ?」

どんぶりを叩いて冷やし中華を催促さいそくするやつじゃあるまいし、そんな簡単に生まれるものか。朝比奈さんはまだ通常サイズのおなかをなでなでされて、まあなにごとも待ちきれないでいるハルヒのいつもの催促さいそくなので笑ってみせるだけだった。おいベビー、あと八ヶ月はそこでゆっくりしてるんだぞ。

「あんまりかすなハルヒ。早産になったらどうすんだ」

「あーあやだやだ、冗談のひとつも分からん頭の固い坊主は一人でお経でも読んでりゃいいのよ」

バチ当たりめ、あれはお経じゃなくて祈祷書きとうしょだ。

「っていうか何しに来たんだお前」

「あんたが呼んどいて何しに来たんだたぁ心外しんがいね、酒造作るっていうから工事に立ち会ってんのよ」

ああ、そういやそうだった。どうやら伯爵も本腰を入れてウイスキー密造、じゃなくて醸造じょうぞうをやるつもりらしく、城の中では井戸掘り職人と下水道工事の職人が巨大な炊事場を作る算段をしていた。大きな樽をいくつも置かなくてはならんらしい。

 俺は十字を切り北の方角を向いて手を合わせ、

「本場スコットランドの産業がつぶれないことを祈る……」

「こんなものはやったもん勝ちよ。あたし的には日本酒でもいいんだけどね」

中世のイギリスで日本酒が醸造じょうぞうされてたとかになったらそれこそ歴史崩壊の危機だが。そういや長いこと日本酒飲んでないな。淡麗たんれいが恋しいぞ。

「涼宮さん、日本のお酒作れるの?」

「うーんとね、日本とは気温も湿度も違うし、菌がちゃんと発酵してくれるかどうかねえ。何度か試してみないと分かんないわ」

「ハルヒ、麹菌こうじきんとか手に入るのか」

「簡単よ。米を蒸してその辺にいるカビを呼べばいいんだわ」

「そういうものか。酒って工業製品だと思ってたが」

「あんたねえ、史上初めてビールを作った人間がスーパーでイースト買ってきたとでも思ってんの? 米麹こめこうじわらに、酵母こうぼは果物の皮にくっついてんだから」

長門にそうなのかと尋ねるとウンとうなずいている。簡単にいうとおにぎりをわらで包んで生えてきた菌糸を取り出して培養すればいいらしい。昔の人はそうやって酒を作ったのだと豪語ごうごするハルヒに、俺と朝比奈さんはヘエエーなどと妙に感心している。

「うーん金属メッシュもないし……蒸し器から作んなきゃいけないわね……曲げ物職人もいないし、めんどくさいったらないわ」

酒のことになると頭の回転が超全開になるらしく、ハルヒはぶつぶつ言いながら部屋から出ていった。だがまあ、職人は道具を自分で作るもんだとかいうし、なんだかんだで作ってしまいそうな勢いだ。ハルヒならな。

「わたしも涼宮さんのお手伝いをしようかしら」

「何をです?」

「日本酒作るならお米がたくさんいるわよね」

「ええ、ハルヒも麦畑に陸稲おかぼを植え始めてるみたいですが」

「農家の皆さんにお米の栽培を奨励しょうれいして、うちで買い取って日本酒を売りましょう」

酒と聞いてなんだか元気が出てきたようだが、この人は割といける口なのかもしれないな。

「ちょっと出かけてきますね。今日は騎士さんたちいないから、二人ともお留守番お願い」

「かしこまりましたマイレディ」

「……いってらっしゃい」

朝比奈さんは従者をひとりだけ連れてマナーハウスまでいそいそと出かけていった。朝比奈さんはもともと地主グランパの家で暮らしていたので、この土地の農業の事情はだいたいは知っていると思う。城に移ってからはずっとハルヒに任せきりだったが、今や伯爵夫人自ら農政をやる気になったようだ。


 それからしばらくハルヒは姿を見せず、城にも静かな日々が続き、俺は産院やら定期便やらマナーハウス附属幼稚園やらの経理をデスクワークだけでこなして常にのんびりと過ごしていた。

 週が開けた頃、

「みくるちゃーん、でーきたわよー」

朝っぱらから耳にさわるハルヒの大声が礼拝堂の外から聞こえてきた。なんだか今日はやたら機嫌が良さそうだが、俺達四人ともがいなくなり寂しくなってノコノコと出てきたのか。

 窓から外を覗くと素焼きのポットをささげ持っている。番兵ももう誰何すいかするのをあきらめていて、俺に手を振るだけでヤツが来たので後よろしくと合図していた。

 朝比奈さんは今日は頭痛がするというので朝の礼拝には出てこなかったが、ハルヒの声で目が覚めたようだ。長門と連れ立って朝比奈さんの寝室に行くと、

「もうできたの?」

「試しにこないだもらったインディカ米だけで作ってみたわ」

いや、麹菌こうじきんを培養して米を蒸して発酵させてろ過してをやってたら一週間じゃ無理だろ。

「日本酒なんぞよくできたな」

「んー、日本酒っていうかまあにごりざけね。甘みはあるんだけど重みがないというかねえ。やっぱり酒米さかまいじゃないと無理なのかしら、ニヒヒ」

酒米さかまいってのは未来で俺らが食ってる白米より澱粉でんぷんが多いやつで、なかなか栽培が難しいと聞く。俺はポットを受け取って一口味見してみた。

「ああ、軽い味だな」

トロっとしてるがそれほど度は高くない、甘くない甘酒みたいな。口の中に米の味が残る。朝比奈さんがわたしにもと手を伸ばしたのでポットを渡そうとすると、

「……待って」

長門がつかつかと歩み寄って取り上げた。

「……妊婦は飲酒禁止」

「えー、ちょっとぐらいいいじゃないのー」

朝比奈さんとハルヒが口をとがらせて言うと、長門はグイとポットをあおり、

「ぷはっ。……二人とも、そこに座って」

「さっきから座ってるじゃないの」

「……胎児という存在について説明する。人類は小さな単細胞生物からホモサピエンスに至るまで四十億年という年月をかけて進化をげた。胎児はその過程を十ヶ月と十日で通過してこなければならない。つまり、あなたの血中に二十四時間アルコールが存在したとすると、胎児にとっては千四百万年の間酔っていることになる。これが、妊娠中にんしんちゅうのアルコール摂取が堅く禁じられている理由」

ウヒョーという感じに朝比奈さんとハルヒは目を丸くした。なるほどそういう計算になんのか。朝比奈さんは顔の前でシーツを掴んで、長門がゴクゴクと飲み干すにごり酒をもの欲しそうに目で追った。

「そういう事情ならまあ、出産までは禁酒ということで。そうだな、長門」

「……ヒック。てやんでい」

おーいハルヒ、長門の目が座ってきてるぞ。お前ドブロクにいったい何入れたんだ。

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