二十五章

 今回は客としてではなく雇われの身分なので使用人の勝手口から入った。塔の前にメイドさん一同が並んで歓待かんたいされるということもなく、執事にこの度お世話になる坊主でありますと挨拶あいさつを述べると書斎に通された。伯爵と朝比奈さんが正装で椅子に座っている。その脇に古泉が営業スマイルで立っていた。

「修道士殿、ミス・ナガティウス、ようこそ我が城へ」

何度もスカウトした挙句やっと来てくれたというので二人とも笑顔だ。こないだまで客としてもてなされていたのでどうも感じが違う。

「はあ、マイロード、しばらくご厄介やっかいになります」

「……参上した」

「キョンくんと長門さん、やっと来てくれたのね。お待ちしていました」

「マイレディ、お世話になります。客人ではなくて使用人としてこき使ってやってください」

朝比奈さんは笑って、

「キョンくん、あなたは司祭様なのだから、部下の仕事を取り上げないようにしてくださいね」

部下というのはつまり、伯爵の取り計らいで付けてくれた若い助手のことだ。たしか古泉の叙任じょにんのとき一度会ったことがある。いままで随分こき使われてきた俺の感覚からするとあんまり人に命令するのは気が引けるのだが、彼らにするとそれが仕事なので、与えられた仕事はプライドをけてこなしているわけで、どんな小さな仕事でも任せて顔を立ててやってくれとのことだ。仕事を与えてうまくいったら、たいへんよくできましたとめる。それで主従関係はうまくいく、らしい。なるほどね。


 ドラッグストア・ユキリナは地下室のある店舗物件を城のそばの一等地に借り、長門は朝比奈さんの勧めで城の中に居室をあてがわれた。俺の居場所はというと、城壁にくっついている畳十枚ほどの小さな礼拝堂があり、その隣にある個室で寝泊まりすることになった。毎朝早起きで祭壇にロウソクをともしてミサをはじめる清く正しい修道士の生活だ。昼まで寝てても誰にも文句を言われなかった生ぬるさが恋しい。

 修道院では常にロウソクの火を絶やさず三時間ごとに礼拝をやっていたものだが、世俗せぞく教会の一般ピープルはそんなに暇じゃねーんで、朝昼晩もしくは省略して朝六時と夕方六時、もっと不信心な者は日曜の昼だけ参列とかいう具合である。俺自身もエセ聖職者なわけで、信者のケツをひっぱたいてまで参列させるようなことはせず、助手くんにも人が来なけりゃ寝てていいぞなどと伊達参だてまいりぶりを悪びれもせずにいる。


 城の住人になって翌日の早朝まだ夜が明けきらぬ五時、目をこすりこすり俺はやーれやれ面倒な仕事を背負い込んだもんだなどとブツブツつぶやきながら祭壇のロウソクに火をつけようとすると、城の住民全員が直立不動で並んでいた。

「な、な、マイロードに騎士さんたち、皆さんおそろいでどうしたんですか」

「おはよう修道士殿。どうって、ミサがはじまるのを待っているのだよ」

伯爵は寝癖の付いたひげで付けながら、キリッとした正装で、アスコットタイみたいな白いスカーフを首に巻いている。朝比奈さんと長門はゴシックスタイルみたいなロリータエプロンで、頭にはならわしに従ってレースのスカーフをかぶっている。

「お、お集まりの皆様、ただいま開催いたしますのでしばしお待ちください」

クソっなかなか火がつかねえなどと言い訳がましく湿気しけったロウソクに毒づいていると、助手くんが咳払いをしながら、ブラザーそれ……それ、と俺の服を指さしている。どうせ誰もいねーだろうとパジャマのままミサをやろうとしていたのがバレて、メイドさんたちからクスクス笑いがれていた。


 俺は慌てて自室に戻り、パジャマの上からゴージャスなシルクの司祭服を被って何食わぬ顔で説教台に立った。皆を見下ろし、仰々ぎょうぎょうしくも十字を切っておもむろに聖書を開き、一節を読み上げる。

「あー、オホン。なんじ芥子からし一粒ほどにも信仰あらば、この山に命じてここより彼方かなたに移れと言ふとも移らん。かくなんじあたはぬこと無かるべし。マタイ伝福音書、十七章二十節」

俺の司祭コスプレがそんなに似合わないのか、朝比奈さんと長門が下を向いて震えているのが見える。俺は続けた。


── 信仰があれば山をも動かせる。キリストさんがこのセリフを言ったのは、だいたい千二百年ほど前、弟子たちが病人のやしをやっていたときのことであります。エルサレムの村に住むおっかさんがですね、引きつけを起こして苦しんでいる子供を治してやってくれと頼んだのですが、弟子にはどうしても治療ができませんでした。なぜでしょうか。医者の免許がなかったからでしょうか。それともジェネリック薬が効かなかったのでしょうか。いいえ、信仰が足りなかったからです。


── カラシの種粒たねつぶは、暇なオッサンが昼下がりに鼻クソをほじって丸めたくらいの大きさですが、植えてみるとなんと三メートルの高さにもなります。キリストさんが布教をはじめたときにはたった一つの小さな種粒でしたが、ちまちまと信者を増やし続け今では万人ばんにんあがめられる存在となりました。その種には世界を変えるほどの大きな強い意志が詰まっていたわけです。すべての夢がかなうわけではありませんが、念じて行動すればなにかが起こる、キリストさんはそう言いたかったのに違いありません。


「んでは、次に使徒信条しとしんじょう祈祷きとうをば。オホン」


 まあミサと説教をあわせてもだいたい三十分くらいだが、退屈しないで聞いてもらえるのはこの辺が限度だろう。世話になった修道院で聞いた説話せつわを少しアレンジしただけなのだが、騎士さんたちはいたく気に入ったようで朝っぱらから顔を紅潮させている。朝比奈さんと長門さん、すげーキョンくんがいっちょ前にお説教かよ見直したぜーみたいな顔はやめてくださいね。


 さて、俺はのんびりする暇もなく、さっそく市場いちば開催の準備を手伝わされている。礼拝堂の司祭というのは表向きの役割で、多少なり流通と経済が分かると見込んだ朝比奈さんからの推挙すいきょがあり財務担当執事みたいなことをやらされている。もちろん俺も最初からそのつもりでここに来たのだ。

 市場いちばの監督官は二人いて、一人は貴族から、もう一人は一般市民から選び出すようになっているが、伯爵に頼まれて古泉と俺が担当することになった。もちろん日当分の特別手当をもらえる。さらに納税免除までおまけがついてくるらしいが、俺は財産を持たない聖職者なのであんまりメリットはなさそうだ。部下には副官、書記官、運搬係、伝令、公証人こうしょうにん、それから警備なんかがいて、だいたい百名のスタッフを采配さいはいしなくてはならない。俺は出店業者への宣伝営業なんかを担当し、警備のほうは古泉に任せることにした。


 市場いちばといっても売るためだけではなくて買取の業者も来るので、俺は家畜の業者のために柵と飼い葉かいばを用意したり、羊毛取引のために大きなテーブルや発送用の荷馬車なんかを手配したりしている。

 伯爵は今回場所を提供するだけで、古泉も言っていたとおりすべての取引が非課税である。売買代金や手形のチェックなどは一切しなくていいのはこっちも楽だ。だが美味しいものにはハエもたかるというし、詐欺さぎや法外な買い占め転売などには目を光らせている。あとスリとか、商人を狙った待ち伏せ強盗なんかも現れるらしいが、その辺は古泉配下の警備チームがちゃんと仕事をしてくれること願おう。

「無理を言ってすまなかったな、修道士殿」

執事さんや騎士さんたちと運営の打ち合わせをした後、伯爵に話しかけられた。

「いえいえ、いいんですよマイロード。こういうお祭は個人的にも好きですから」

「修道士殿は大臣並みの学業を積んでおられるとのことで、妻と、それからコイズミ殿からの強い勧めがあってな」

「大臣だなんてとんでもないです。あはは」

いやあこれでも単位を取るだけで精一杯で、俺が大臣なんかになったら王宮がミジンコ並みに閣僚かくりょうになっちまう。もっと勉強しとくべきだったな。

「ミス・スズミヤが来てくれなかったのは残念だった。修道士殿を説得すれば彼女も来てくれるはずだと思っていたのだが」

俺の立ち位置を知ってのお誘いだったんですが。微妙にするどいですね。

「いつ気付きました?」

「いつ、というと?」

「俺がハルヒを動かせる立場にある、と」

「最初に法廷で見たときに誰が彼女の手綱たづなを引いているのか気になっていたのだが、長官ではなさそうだし、君たちのうちの誰かだろう、と。その後コイズミ殿の叙任じょにんをミス・スズミヤが反対し、あなたがしてくれたと聞いて、そう思ったのだ」

なるほど。人間関係における洞察力どうさつりょくは確かだ、さすがはジョンスミスだけある。中世版のほうはなぜかハルヒと相性あいしょうが悪いようだが。


 出店しゅってんの申し込み状況を聞きに商工ギルドに行くと、ギルドハウスの前に荷馬車が列をなしていて街の門まで違法駐車が並んでいる。聞いてみると国中から大陸から、さらに遠くは中東から業者が押しかけてきているというのである。つい先週お触れを出したばかりなのにどこで聞いてきたのか、古泉は小規模にプレオープンだと言っていたはずだがそれどころじゃないぞ。

 ここまで人が集まると街が混乱しかねん。さらに当日には買い物客が押し寄せるというのに、宿も飯屋も足りてないだろう。うまやも大幅に拡張せねば収容できまい。俺は古泉に知らせるべく城へ戻ろうとしたが、すでに城門が閉じられていた。こういう街の外から大勢がやってくるような状況では、門に格子こうし状の仕切りが降ろされるようになっている。顔パスではだめだと言われて衛兵に監督官の任命状を見せて中に入れてもらった。

「おーい古泉、業者がぎょうさん……、」

古泉の後ろ姿が見えて呼びかけようとすると、城内の広場でチェーンメタル完全フル装備の警備兵たちが一糸いっし乱れぬ隊列を組んでいる。古泉が片手剣を持ち上げて声を張り上げ、

「諸君! グロケットを守り抜くぞ!」

兵士達も槍を持ち上げ「オウッ」

「お客様はルール厳守! 徹夜は禁止!」

「オウッ!」

「荷馬車の放置は禁止!」

「オウッ!」

「ひったくりは犯罪!」

「イェア!」

痴漢ちかんしばり首!」

「オウイェア!」

「代金の踏み倒しは指名手配!」

「ヘルイェア!」

初イベントで張り切ってんのはいいんだが古泉、その辺にしとけよ。ソーシャル回覧板に載っちまうぞ。

「グロースタン! 諸君の職業はなんだWhat is your profession!」

「アウッアウッアウッ!」

お前らはオットセイか。


 イベントで超テンションが上がっている古泉を尻目に、塔の階段を駆け上がり、朝比奈さんに満員大入り状態なので日程を数日伸ばすかどうしようかと相談したが、街の食料備蓄が持たないので日程を伸ばすのは無理だろうということになった。とにかくすべての業者の分だけブースの数を増やすしかない。俺はそのままギルドハウスへ取って返し、街の地図を広げて予定していた広場から大幅に会場を拡大することになった。それから職人ギルドや羊毛組合なんかにも出かけてゆき、出店場所の変更を頼みに日が暮れるまで駆け回った。まあこれで外貨が落ちればグロースターはウハウハだがな。


 当日の朝、俺は参加者がぐっと減った礼拝堂でミサをり行い、そのまま朝飯も食わず城の外に出た。早朝の冷たさのなかに、文化祭にも似た懐かしい祭の朝の空気を感じる。まだ街の門は閉じられていて買い物客は入ってきていないが、街のいたるところで出店業者がひしめいていた。たまに采配さいはいミスで場所の取り合いなんかもあったが、まあまあと俺がなだめつつ、早朝から営業している酒場で朝飯を食わせて仲裁ちゅうさいする始末である。こういうとき聖職者のコスプレをしているとたいていおとなしく言うことを聞くのは、やっぱバチカンの威光いこうなのだなあ。


 とりあえず万事順調を確認して一仕事終えたので、あとのことは副官に任せ、俺は長門がブースを出す予定の場所に来てみた。布で仕切られた区画の小さなテーブルに羊皮紙の本を積み上げて、その横にちょこんと座っていた。

「……おはよう」

「おう、おはよう。まだすこし早くないか」

「……」

寝不足らしく目が赤い長門は、なんだか遠足の前日の待ちきれなかった感が満載なのだが、こうやって商品を前にしてブースにじっと座っている姿は前にも見たような気がしなくもないな。俺は隣に座り、

「見せてもらってもいいか」

「……どうぞ」

表紙には大きく朝比奈ミクルの冒険〈MIRIFICUS MIKURU ASAHINA〉と丁寧な手書き文字で書いてある。一冊として同じ色で仕上がっていないというか、なかなかに渋い装丁そうていですね。手にとってみると三十ページくらいの、こ、これは確かに薄い本だけど。本文にはびっしりと舞台脚本をノベライズしたらしい小説が一片の挿絵もなく書かれていた。うーん、長門有希による直筆じきひつの、しかも中世のインクと羊皮紙で書いたという、ターゲットとする読者層はいったい誰なのか、果たして採算は取れるのか、どこから突っ込んでいいのか分からないところも含めてレアな本だな。

「俺一冊買うわ。いくら?」

「……いい。見本紙をあげる」

テーブルの値札には四分の一ペニーと書いてあるが、手書きとはいえ一冊あたりのコストはかなりかかっているだろう。誰かが本を書きたくなったら羊が一頭天に召されるわけで、この時代の羊皮紙は結構高いんだよな。


 俺は朝飯を食っていなかったので、混み合った酒場にもぐり込んでエールと鮭の燻製くんせいのサンドイッチを買い、長門と二人でモソモソと食った。そろそろ朝日も高く昇り、この頃にはもうほとんどの店の準備ができている。城の前の広場にステージがえ付けてあり、朝比奈さんが家臣を数名連れてやってきて、壇上に登った。

「ただいまより、グロースターシャー・マーケットを開催いたします。ご来場の皆様、お買い物を存分にお楽しみください」

ブースの商人達の間から拍手がいた。マーケット開始の合図らしい大聖堂の鐘がガランガランと鳴り響き、街の門が開いた。開いた門からいっせいに買い物客がなだれ込み、古泉たち警備チームが押さないでください走らないでくださいと叫んでいるが、その声はむなしくかき消され、押し寄せる客の大波に飲まれて会場へと流されていった。アディオース古泉。


 領内からの買い物客はほとんどが農民で、街の住民は客が落ち着くまで家の中に引っ込んでいるようだ。俺と長門は小さなブースにじっと縮こまって待っているが誰も立ち止まらず、気がついた客もテーブルの前に垂れている看板をチラと見ただけでそそくさと離れていくし、二人はなにもやることはなくただただ時間をつぶしていた。ときどき長門の小さなため息が聞こえる。俺は硬い椅子に座り続けて尻が痛くなったのと手持ち無沙汰ぶさたで、焼き鳥を買いに出かけた。誰かサクラ役でも呼ぼうかと思ったのだが、古泉はパトロールで忙しいし朝比奈さんは招待客の貴族のおもてなしでフランス語の会話に苦戦しているし、誰も買いに来てくれそうなやつはいなかった。この際谷口でもいいやと思ったのだが、あいつもロンドンからやってくる商人の護衛に出払っているらしい。結局、俺と長門は一心不乱いっしんふらんに焼き鳥を食い、流れていく客がその様子をながめているだけである。


 昼の鐘が鳴り、食い過ぎて眠くなってきた頃合いだったが客足が一向に減らない。減らないどころか更に増えている感がある。どうも国中から馬車で乗り付けて買い出し客が押し寄せているらしい。

「お二人さん、どうですか売れ行きは」

昼休みに入ったらしい古泉がパンと肉の差し入れを持ってきたが、もはや腹がふくれて食えない俺達である。売れ行きを聞かれて長門はブンブンと首を横に振った。

「急に客が増えたみたいだが、なにかあったのか」

急遽きゅうきょ橋の通行税を撤廃てっぱいしたのを聞きつけて、遠方からも来ているみたいですね」

撤廃てっぱいって、永久にやめたのか」

「そのようです。レディシップの秘策でしょうか」

通行税というのは別に庶民から金を巻き上げているわけではなくて、領主が大金を投じて橋を建設し、その後に利用者から少しずつ回収する仕組みで、言ってみれば高速道路の通行料みたいなものだ。しかし橋はいくつもあるし、徴収ちょうしゅうできなくなるといよいよ財源が減るだろうに。

「あと、今回新しい試みをされているとかで、その話を聞きつけてスペインやアラビア地方の商人が来ているようですが」

「ああ為替かわせの件か」

「ロードシップがいたく感心なさってましたよ」

「前に知り合った銀行屋に話を持ちかけただけだよ」

為替かわせといっても別に難しい話ではなくて、外国の現地通貨で伯爵御用達ごようたしの銀行屋に入金してもらい、一定のレートに従って地域振興券ちいきしんこうけんで支払う、というものだ。商人にとっては現金を持ち歩く危険がないし、俺らは外貨が手に入る。元々は運送の積み荷証書で買い物の代金を支払うという慣わしにヒントを得たものだが。

 古泉は長門の薄い本を手に取り、

「一冊いただけますか」

「……まいど。一ファーシング」

「では四冊で」

「……お買い上げありがとう」

一ペニーを置いてまた仕事に戻っていった。よかったな、はじめての売上げだ。


 客の中に修道士の群れがいた。キリストの道に生きるりんとした眼差まなざし、荒布あらぬの一枚に身を包み、清貧せいひんの生活で引き締まった肉体、それでいて背中に寂寥感せきりょうかんを漂わせている。俺は同業者の姿を見てなんだか切ないような懐かしい気持ちになった。彼らはゴロゴロと羊毛を積んだ荷車を手で引いていた。仲買人なかがいにんに売りに来たようだ。

 その中の、たぶん見習いの修道士だと思うが、十四か十五歳くらいの若いブラザーが群れからはぐれてチラチラとこっちを見ている。店の前を通りすぎてまた戻ってきて、なにかを言おうとしてまた通り過ぎた。知り合いではないし俺に用があるわけでもなさそうだ。

「コホン。あー、おい、そこの若いの。ちょっと来なさい」

「は、はい」

三度目に通りすぎようとしたところを呼び止めて、俺は長門の薄い本を差し出した。

「たった今、天使の姿が頭にひらめいて天啓てんけいがあった。この聖なる薄い本を求めて子羊がさまよっているというのだ」

「あなたはブラザーですか」

「いかにも。フランシスコ会のジョーンだ」

「ブラザージョーン、これは神のお導きにちがいありません。今朝、枕元に眉毛が濃くて髪の長い天使が現れて、ここで薄い本を買うようにとお告げがあったのです」

どんな急進派の天使だよそれは。

「それはな……きっとこの本を読んで神の奥義おうぎを習熟しなさいというお告げなのだよ」

「ありがたや、お告げは正しかった。おいくらですか」

「ブラザーのよしみで四分の一ペニーだ」

「ありがとうございます」

「兄弟よ、安らかに行きなさい。父と子と聖霊の名において」

丁寧にひざをついて薄い本を受け取る少年におごそかに十字を切り、ありがたく売ってやる俺である。なんだか怪しげな新興しんこう宗教の勧誘をしてる気分だぞ。


「ようよう、お二人さん。仲のいいとこ見せつけてくれんじゃん」

ボサボサの髭面ひげづらで目も半分眉毛でおおわれていて表情もよくわからない、ボロっちい帽子を被りみすぼらしい格好をしたおっさんが通りがかった。なんだ冷やかしか?

「誰だよお前。神の名において鼻の穴に十字架突っ込むぞ」

「あたしよあたし、上司の顔を忘れたんかい」

いや最初から分かってたけどな。お前がこういうお祭りに出てこないわけがない。なんで変装しているのかはあえて聞かないことにしといてやる。

「飯でも食いに来たのか」

「手ぶらで来るわけないでしょ。酒場にエールを納品に来たのよ」

親指でクイと後ろを示す先には、ごった返す客にはた迷惑な視線を投げられている荷馬車が止まっている。樽が山積みされてるが積載オーバーだろこれ。

「って樽の数多すぎだろ、エールって仕込みに一週間くらいかかるんじゃなかったか」

「頭悪いわね。村中のおばちゃんからかき集めたに決まってんじゃない」

おけ買いかよ。酒造でもはじめるつもりか。

「そういやハルヒ。せっかくのお祭りだ、バンド演奏とかやんないのか。哀愁あいしゅうただようケルト調God Knowsとか」

「やんないわよそんなのいったい誰が聞くのよ」

びしくていいだろ、あーいわなーふぉろーゆーわっとえばー」

「あんたこそソロライブでもやればいいじゃないの、ヘッタくそなリュートでね」

つい先日しんみりした別れのシーンがあったことなどすっかり忘れて、俺達はツッコミと皮肉の応酬おうしゅうである。

「まあ芝居をやるんだったら付き合ってやってもよかったんだが」

「告知から四日しかないのにやれるかっての」

「ああそうだ芝居といえば、一冊買ってけよ」

「有希、あんまり売れてなさそうね」

「……読者層を見誤ったかもしれない」

「あたしが行商ぎょうしょうしてきてあげるわ。それ全部貸しなさい」

「……だめ。店以外で売るのは禁止されている」

「そうなんだ。それならしょうがないわね。一冊ちょうだい」

まあ、時代が早すぎたかもしれん。イギリスに大衆文芸の文化が芽生えるのはもっと後世での話だからな。

「ハルヒ、打ち上げやるらしいから終わったら城に寄っていけよ」

「招かれてもいないのに行かないわよ」

そう言うと荷馬車に乗ってさっさと帰っちまった。なんかもう他所よそんちの人みたいになっちまったな。ねえ。


 ぞろぞろと道行く人や売られていく家畜の匂い、藁屑わらくずやほこりなんかがゆるやかに流れる風に混じり、かすんだ春の陽も傾いてきた頃に六時の鐘がなった。そろそろ市場いちばもお開きである。今夜は気も財布のひもゆるんだ商人の打ち上げで酒場が盛り上がるに違いない。

 朝比奈さんが広場で閉場のあいさつをした後、ブースに立ち寄ってくれた。

「キョンくんご協力ありがとう。忙しくて一度も来れなくてごめんね」

「おつかれさまでした、マイレディ。なかなかの盛況でしたね」

「ええ。思ったよりたくさん来てくれてよかったわ」

朝比奈さんはテーブルに積まれた本を見て、

「長門さん、出品のほうはどうだった?」

「……五冊、売れた」

「そう。残念だったわ」

「……いい。あまり期待はしていなかった」

「次は古書専門のエリアを作りましょうか」

「というより、中世イギリスはあんまり識字率しきじりつ高くないですからね」

「そうなの?」

「農村じゃ字が書けて計算ができるのは牧師か修道士くらいなもんですから」

「……そう。確かにマーケットのパイが狭い」

十八世紀のイギリスでも三割強だし、江戸みたいに七割を超えるのは珍しいんだよな。

「じゃあ私にも二冊ください」

「……まいど」

朝比奈さんは長門から薄い本を受け取って戻っていった。入れ違いに、遠くからガニ股でずかずかと修道士がやってきた。角ばった顔に暮れゆく夕日を受けて、眉間みけんに深いしわを刻みなんだか気難しそうな爺さんだ。もしかしてさっきの若造が買ったのがバレたのか。修道会は会派によっては一切の娯楽を禁止してるからな。

「ごきげんよう、ブラザー」

「ど、どうも、ファーザー。神の平安がありますように」

この年配の修道士はどうやら偉い人らしく、宝石のついた修道院院長の指輪をしている。俺はひざをついて指輪に唇をつけた。

「先ほどうちの若いしゅうが買った薄い本じゃがな」

「あ、あの、なにかお気に召しませんでしたかね」

「まだ在庫はあるかな。わしゃこの目で見たんじゃよ」

いい歳こいてあなたもお告げを信じてる口ですか。

「ええ、このとおり在庫はあります。ちょうど店を閉めるところでして」

「フランスで見たんじゃ、山上の垂訓すいくんにも匹敵するこの芝居が演じられるところをこの目でしっかと見たんじゃよ。まるで聖母が降臨したようで、あの感動は鳥肌モンじゃったなあ」

目には涙さえ浮かべ、まるで聖ヨハネの手にキスをせんばかりにして俺の手を握った。山上の垂訓すいくんてのはキリストさんが生前にやった講義みたいなもんで教理になっているものだが、あんな恥ずかしい芝居を見られてたとはこっちが恐縮きょうしょくだわ。

 ファーザーは残ったやつを全部買い取ると言い張って聞かず、持って帰って皆で朗読するのだと頑固がんこに主張した。まあ買っていただけるのならこっちとしては嬉しい限りです。帰り際に院長は左目にVサインを作り、

「それでは、み、み、ミクルコマンタレブー!」

「……ミクルボンソワ」

ノリがいいのか悪いのか、爺さんは自分の罪深さに苦しんでいるとでもいうような眉間みけんに深いしわを刻ませてミクルビームを発射し、ぴかぴかのシリング硬貨を一枚残して去っていった。こんなのが院長をやってて大丈夫なのかと少し心配だ。

 営業時間はとっくに終わっていたが、俺は完売しましたSOLD OUTの札を出し、

「よかったな長門、完売おめでとう」

「……ありがとう」

思わぬところにラテン語が読めるレアな読者がいて、人生初のマーケット出店の最後を飾った。この朝比奈ミクルの薄い本は、ヨーロッパの修道会の間で写本しゃほんが広まり、院長が買って帰った原本のほうはどこかの大修道院の聖遺物せいいぶつとして大切に保管されているとのことだ。


 初のイベントが終わってからも俺の仕事はまだ残っていた。あの後、俺は地元の商人や店主を訪ねて売上を聞いてまわっていた。これを集計すれば今回の市場いちばでどれくらいの金が領内に落ちたかが分かる。さらに今回強引に発行した紙切れ、いや地域振興ちいきしんこう券がどれくらい使われたかが分かる。償還しょうかんにはポンドとシリングで払うようになっているので、結局ここで買い物をして商品を持ち帰るしかないわけだ。あまりにマイナーな手形なので受け取らないやつもいたそうだが、ロンドン債と為替かわせのやり方を教えてやるからと強引に王様に持ちかけ、ロンドンの銀行屋でも割引して現金化してもらえるようになった。

 俺は西洋式ソロバンを弾きながら、

「うーん。まあぼちぼちってとこかな」

市場いちばの売上ですか」

ギルドハウスの聞き取り調査には古泉にも手伝ってもらっている。

「ああ。利益率で言えばかなりもうかってるな。ただ領地の生産が少ないから金額もそれなりってことだ」

「開催の回数を増やしたらどうでしょう」

「地元で消費するものを売りつくしてしまうと食べるに困るだろうし、まあ月一つきいちくらいが妥当だとうだろう。ある領地では毎週開こうとしたが出品がそろわなくて実現しなかったと聞いた」

「生産を増強しないといけませんね」

「生産技術を進歩させるのは現場に任せないと、いきなりは無理だろうな」

「キョンくん古泉くん、おふぁよう。打ち合わせかしら?」

眠い顔をしたご夫人が現れた。朝比奈さんは昨日遅くまで来賓らいひんのおもてなしをしていたらしく、今朝はミサに起きてこなかった。というか俺が苦労してお説教ネタをひねり出しているにもかかわらず日に日に参加者が減っているのはどういうわけだろう。

「おはようございますマイレディ。市場いちば開催の経済効果はなかなかのもんですよ。この分だと予定通り手形を流通させても問題ない額だと思います」

「そう、それは嬉しいニュースね。もうひとつお願いがあるんだけど」

「なんなりと」

「学校を作りたいの」

朝一番で眠気もとれぬうちに、これまたサラリと難題を。昨日識字率しきじりつがどうとか言った覚えがあるが、あの会話が前フリだったんだとしたら俺は墓穴を掘ってしまったわけか。

 しかしそれだけの金が確保できるものか、と俺が考え込んでいると古泉が割って入り、

「学校経営は設備も人件費もかかりますし、もう少し予算が確保できてからにしたほうがよくありませんか」

この時代の学校といえば大聖堂が経営する神学校で、神学を中心に語学や数学なんかを教えているのだが、生徒はエリート、貴族の子弟とか金持ちの子供と相場が決まっている。もっと上に行けばローマやフランスに医学校があるが、そこに行けるのはほんの一握りの金持ちだけだ。

「そこをなんとか、私のお財布でまかなえるくらいでやれないかしら。子供向けに読み書きだけでいいの」

お願い、という感じで朝比奈さんはウインクして両手を合わせた。かもし出す貴婦人オーラにほほゆるんでしまって、いやー、もうなんでもやっちゃいますよ的な俺達である。

「古来日本では寺子屋というものがありましてね」

「江戸時代に識字率アップに寄与きよしたのは寺子屋の存在だという説がありますね」

などと八重歯をキラリンと輝かせながらどうでもいい知識を披露ひろうする始末だ。

「ロードシップはそれについてなにか言ってました?」

「修道士や執事の仕事がなくなるんじゃないかって心配してたけど、教えるのは読み書きだけで、それから新しく事業をはじめたいって言ったら納得してくれたわ」

「なんですかその事業って」

「郵便なの」

なーるほど。教育制度と抱き合わせ商法ですか。


 俺達が日頃受け取っている手紙を誰が届けてくれているのか今まで説明してなかったと思うが、貴族の家には伝令職の人が雇われていて割と高い給料を払っている。常任の伝令を抱えていない家では騎士や兵士がパシリをやることもある。人口の多い街ではギルドハウスが配達人を雇うこともあるが、一般庶民レベルでは、行商ぎょうしょうに来る肉屋が手紙の配達を兼業している。といっても、いつでもどこでもやっているわけではない。

「読み書きを教えて手紙を書かせようというわけですね」

「ただの思いつきなんだけど、どうかしら」

需要じゅようを生むにはいい案だと思います。馬車で定期便を出すようにすればコストも下げられそうですね」

「ただ、今から学校を建てるわけにはいかないし、誰か場所を貸してくれる人がいればいいんだけど」

「既存の教会とかマナーハウスでやればいいんですよ」

「じゃあ、お二人にお願いしていいかしら」

「もちろんですとも」

そんなわけで、朝比奈さんのポケットマネーだけで学校設立をやれという、まともに考えればかなり無茶な注文だと分かるのだが、俺と古泉は首根っこをつかまれた子猫のように簡単に手懐てなづけられてしまいウンウンと二度返事で承諾してしまった。二人とも、長門に相談すればいいやと高をくくっていたのである。

「……あなた達は安易すぎる」

長門がひたいに手を当てて頭痛に悩む仕草をしている。

「そんなに難しい話か?」

「……まず、英語は大きく分けて古英語、中英語、近代英語、現代英語がある。十二世紀の時間平面では主に中英語が話されているが、地方によって語彙ごいも発音もまちまちで統一されていない。さらにイングランド公用語として制定されたのは一三六二年になってからであり、それまで貴族階級のフランス語と庶民の中英語が混在していた。わたしたちの時間平面では古英語はほとんど残っていない」

「英語が国語になるのはまだ百年も先の話か」

というかいつになく饒舌じょうぜつだな。

「……つまり、グロースターで標準英語の教師を一ダースそろえるより、子供を一ダース産むほうが容易たやすい」

出た、イギリス風の皮肉。長門が言うにはだな、方言のなまりがきつい上に標準のつづりが決められていないので、それをどうやって標準化するかというのがまずもっての大きな問題だという。今まで翻訳ナノマシンに頼りすぎてて考えてもみなかった、明治維新の教育ってこんなだったんだろなーなどと現実逃避の妄想にふけっている俺である。

「じゃあ、将来公用語になる英語ってどの辺で使われてるんだ?」

「……ロンドン付近の方言と言われている」

「うーん。ロンドンから教師を呼ぶと、給料のほかに馬車代と飯代で人件費がかかりすぎるな」

「そうですね」

朝比奈さんのスマイルにそそのかされて安請やすうけ合いをした古泉も冷や汗を垂らしながら笑っている。

「かといってラテン語とかフランス語を教えても使い道ないしなあ」

「小学生に微分積分びぶんせきぶんを教えるようなものですね」

微積びせきはまあ大人になっても使わんけどな。


 という話を聞きつけたらしいハルヒが、

「バッカじゃないの。もっと原点に帰りなさい」

「なにしに来たんだ」

「あんたがそうやって机上で空輸くうゆをブン回してるところに労働者がありがたく木材を運んできてやったのよ。なんか文句ある?」

机上で空論くうろんって言いたいんだよな、たぶん。

「俺も人材確保のためにあちこち打診してんだぞ。ロンドンの家庭教師の日当はバカ高いんだからな」

「だからアンタはダメなのよ。机に向かいっぱなしで頭が官僚化かんりょうかしてんじゃないの」

「じゃあどうすりゃいいんだよ」

「郵便事業をやりたいなら、利用者がどんなものを送るかは関係ないでしょ。伝えたい気持ちがあるから手紙を出すんじゃないの」

「だからちゃんとした英語を教えてだな」

「違うでしょ、おばあちゃんが受け取って喜ぶのは孫の規則正しい文法なんかじゃないでしょ」

ズバリ言われてグウの音も出ない。

「それもそうだな。ハガキにおばあたん大好きI love grannyだけでもいいもんな」

「別にズーズー弁でも関西なまりの英語でもいいのよ。アルファベットさえ教えれば、あとは自然に相手に通じる英語を覚えるわよ」


「あははは、ハルにゃんもなかなか言うねぇ」

ハルヒに正論をまくしたてられて、というか、どうやら経済修道士の頭ではなかなか融通ゆうずう性のある知恵が分泌ぶんぴつされないので鶴屋さんに相談に来たところである。大聖堂に間借りした新居の助産院はわりと小奇麗こぎれいな造りになっていた。隣の部屋から元気な赤ん坊の鳴き声が聞こえてくる。

 俺はトントンと胸を叩く打診法だしんほうで診断されながら、

「インテリな人たちが書く手紙ってフランス語なんですよね」

「ほい吸って~、吐いて。まあねえ、英語がアルファベットになったのは最近で、もともとルーン文字だったからねえ」

ルーン文字は錬金術とか魔法なんかでも使っているが、もともとはゲルマン民族の文字らしい。今のアルファベットは古代ローマ発祥はっしょうのラテン文字な。

「シスターの知り合いにタダで国語の先生をやってくれそうな人いませんか」

「先生ねえ……んじゃあ、あたしが教えるっさ」

「え、でも助産婦の仕事が忙しいでしょう」

「一日中ゴロゴロ生まれるわけじゃないっから、合間にやってあげるよ」

「そうですか、助かります。じゃあ司教様には話をつけておきますから」

「よーし、だいぶせてるけど健康そのもの。ブラザーにもいい子が生まれるよ」

は、はい、妊娠にんしんしたらそのときはよろしくお願いします、などと慣れないネタに赤面しつつ、俺は一度城へ戻り、朝比奈さんに一筆書いてもらってまた聖堂教会へと出向いた。またお前かという顔をする司教様にひざまずき、朝比奈さんと同じ香水の匂いがする羊皮紙を差し出すとうっとりとした顔つきで文面を読み、俺と目が合うと急にキリッとした表情で、ワシにお任せあれとのたまわれた。

 とりあえずグロースター大聖堂付き神学校、その付属幼稚園みたいな学習塾をはじめられることになった。住民の富裕ふゆう層は自前で学校にやれるからいいとして、俺はなるべく低所得者が多い職人ギルドに行き、将来仕事で役に立つから読み書きを習いたい子供はいないかと打診して回った。インタビューした感じでは応募が多く、あと数軒は作らねばなるまい。


 問題は田園地帯の農民のほうなのだが、なかなか先生のなり手がいない。結局マナーハウスの荘園差配人さはいにんや教区教会のスタッフで英単語が読み書きできる程度のボランティアを探し、地元の発音で文法を教えてもらい、主な単語はこっちで教材を用意してロンドン方言のつづりで教えてもらうようにした。たまに発音とつづりが一致しないものもあるが、まあグロースターとロンドンの方言に厳密な境界線があるわけではないのでなんとかなるだろう。農家の子供に作文なんか教えてなんになるんだという頭の固い村の連中には、朝比奈さんに出向いてもらい、目をパチパチしてもらって説得していただいた。


 そんなこんなで試験的に一日一回、グロースターに点在するマナーハウスや教会、修道院などを馬車で回る定期便を出すことにした。もともとは行商ぎょうしょうの肉屋がけ負っていたのだが、肉屋ギルドと提携して専用の便を出してもらうことにした。小口こぐちの荷物、少額の支払い証書、これにあわせて手紙を運ぶことにしたが、存外好評で、だいたい荷台面積の八割くらいは配達の依頼があった。現金も運ぶように手配し、かつてのSOS山賊団のような不心得者ふこころえものがいるかもしれないので兵士を一人乗せてもらうようにした。

 商売の取り引きはそれほどでもなかったが、個人から個人への贈り物や、手紙のたぐいが増えているらしい。城からハルヒへの手紙も定期便で出すことにし多少は経済的になった。城からマナーハウスへの連絡事項は、以前はいちいち執事が出向いていって口頭で伝えていたものだったが、今ではなるべく書面だけで済ませるようにしようという運びになっている。朝比奈さんの提案で、子供が書いた手紙は当面の間無料で配達することにしたところ、遠方に住むおじいちゃんやおばあちゃんに大変喜ばれたとのことである。


 ある日、朝比奈さんの部屋を訪れると手紙の山のなかでうたた寝をしていた。

「朝比奈さん」

「はぅ、ジュル。あ、キョンくんおはよう」

「その手紙、全部朝比奈さん宛ですか」

「そうなの。領地の皆さんから、なんていうかその……」

「ファンレターですか」

「え、ええ。結婚おめでとうの手紙が、挙式からは半年もってるけどこんなに」

そりゃー美人の奥さんと結婚なされたわけですから、国中からファンレターが来てもいいくらいでしょう。

「十二世紀ですから、みんなのんびりしてるんですよきっと。出し忘れた年賀状なんかも半年くらいは大丈夫じゃないですかね」

朝比奈さんはあははと笑った。

「それから、結婚してくれという人もときどきいるのだけど」

なぬ、そりゃ聞きてならんです。新妻にいづまかどわかそうとか、白馬に乗せてランナウェイとか、そういう魂胆こんたんですか。

「もしかして城のメイドさんを紹介してくれとか、そういう依頼?」

「いえ、名指しでわたし宛なの。もしかして、教会で貼り出された婚約のお触れを旦那さん募集とでも勘違かんちがいしたのかしら」

掲示板で旦那を募集するとかあんまり聞いたこともないですが、そういう習慣があるんですかね。

「返事を出したりしちゃだめですよ。ストーカーみたいなのがいるかもしれませんから」

「それもそうね」

俺はそのファンレターならぬラブレターを一通受け取って読んでみたが、難解な古ドイツ語のようで理解不能だった。誰なんだろうね、この勘違かんちがい野郎はいったい。

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