二十四章

 披露宴ひろうえんが終わってからの俺と長門とハルヒは、祭の後の静けさのようになんということもなくただぼんやりと過ごした。朝目が覚めて居間に降りて行くと、そこにいるべき朝比奈さんがいないことに気がつき、無言のまま朝飯を食いながら座り手のいない空いた椅子をじっとながめていたりした。ハルヒはときどき寝室に向かってみくるちゃんと呼びそうになり、あーいないんだっけみたいな表情をすること多々あり、あーあるあるみたいに三人は顔を見合わせてニヤニヤしている。SOS団にとっての朝比奈みくるというその存在の大きさを感じて、かつて朝比奈さんが北高を卒業して舞い散る桜の花びらとともにいなくなったときの、あの頃の初々しい彼女を思い出してもいる今日このごろである。

 ときどき帰ってくる古泉によれば、伯爵と朝比奈さんはアングレーム伯領を訪れているということだ。フランスでもスペイン寄りのアングレームは、イングランドの冬より温かいらしい。領地は意外と小さくて、小さいというかあの一帯はうちの王様の直轄領ちょっかつりょうなのでそれと比べると小さいかもということだが、川沿いに超立派な城が立っている小洒落こじゃれた景観はハネムーンにはうってつけの町だという。


 季節は四月に入り、気温も上がりはじめ腕まくりをしたハルヒは深い溜息ためいきとともに畑をいている。近所のおばちゃんと出来を競い合っていたエールもあまり作らなくなった。今まで散々おもちゃにしてきた朝比奈さんがいなくなったからか、それともホームシックで未来が恋しくなったからか、思い立ったが吉日の奇矯ききょうな行動に走る回数も減った。古泉談によれば、このところ神人も出ていないようだ。


 あーだりーとかつぶやきながら、テーブルの上に寝転んで酸っぱくなったワインを飲んでいるハルヒがガバッと起き上がって、

「たった今みくるちゃんがアングレーム城でフランス風ニカラグア料理を食べてる気がする!」

「あーそうですか、それはよかったですねー」

どうせシェフはイタリア人とかいうんだろ。

「なによその棒読みは。ほんとだってば」

朝比奈さんの占星術ホロスコープのほうがまだ的中率てきちゅうりつ高いだろ。

「あ、たった今みくるちゃんが伯爵とゴニョゴニョ、」

言うな、そこから先は言わんでいい。

 ハルヒのガバ起きみくるちゃん予言が何度も続いてオオカミ少年化してきた頃に、ようやく馬のひずめの音が聞こえて、

「予言するわ。たった今みくるちゃんがうちの家の前に到着した」

「見りゃ分かる」

ハルヒは開け放った窓から身を乗り出し、

「みっみっみくるちゃーん、マイスイート・ミクルちゃん、おみやげおみやげはぁ?」

子供かお前は。

「おかえりなさいませ、マイレディとマイロード。おう、古泉お疲れさん」

「ただいまキョンくん。みんな元気かしら?」

古泉を先頭に馬が三頭、今日は馬車ではなくそれぞれにくらを置いてまたがっている。馬の上でしゃんと背筋を伸ばし、髪をい上げて帽子をかぶり、長いスカートドレスに身を包んだ朝比奈さんはすっかり貴婦人が板についているようだ。俺は馬の手綱たづなを取り、朝比奈さんが馬から降りるのにひざを貸した。

「先日はいろいろありがとう。ミス・スズミヤ、ミス・ユキリナ、それから修道士殿。息災そくさいでなによりだ」

「なんか丸くなったわね伯爵。フランスでおいしいもんばっかり食べてたんじゃないの」

丸くなった、というのはたぶん体形のことだけじゃなくて、なんとなく表情がやわらいだというか。そ、そうかなと言いながら伯爵はおちゃめに腹を引っ込めてみせた。まあ初めて彼女ができた野郎みたいなもんだな。

「ミス・スズミヤ、今日はちょっと頼みがあってな」

「な、なによ。子供の名付け親になんてならないわよ」

まだ結婚して半年にもならない新婚さんになんてことを言うんだハルヒ。二人とも顔を真っ赤にしてるじゃないか。

「そ、それはまあ、おいおいお願いしたいことでもあったのだが、今日の用向きはそうではない」


 俺たち三人は家畜小屋から馬を出し、古泉の後をついていった。家から二時間ほど馬を進め、森のなかに入った。あのときは葉を落としていた木々も今では青々と生い茂り、森のなかの脇道にも草が生えて人が通った跡が消えてゆきつつある。ここに来るのも久しぶりだ。

 ハルヒたちがジプシー生活をしていた、明るく開けた場所は一年経つ間に下草がはびこり、竪穴式住居は腐って土にかえこけとキノコが生え、石で作ったカマドらしきものがかろうじて見て取れるだけだった。そこで暮らしていた生活の雰囲気も痕跡こんせきも消えていた。

 伯爵はそこで馬を降りた。

「この先です、マイロード」

古泉が示した林の奥の小さな空間。一か所だけ土が盛り上がっているところがある。そこだけ草が生えておらず、たぶんハルヒがたまに手入れに来ているんだと思うが、薄暗い森のなかでぽっかりと日が差し込んでいる。

 伯爵はなにも言わず、倒れていた十字架を、だいぶ古くなっているそれをまっすぐに刺し直して胸の前で十字を切った。ふところからなにかを取り出してクロスしているところにかけた。小さなロザリオだった。

「ミス・スズミヤ。よかったらここに小さな礼拝堂を建てたいのだが、許可願えるかな」

「え……、礼拝堂?」


 なるほど。朝比奈さんの勧めがあったのかもしれないが、自分でもずっと気になっていたのだろう。ハルヒと伯爵のバトルにからんで一人だけ不幸な目にあった老人がいた。ハルヒたちがこの地に、この時代に降ってきてからずっと面倒を見てくれていた名も無き御仁ごじんである。俺と長門は結局会うことはなかったが、朝比奈さんと古泉もその御仁ごじんにずっと世話になっていた。

「聞けば、ここに眠っている紳士はブリトン人の騎士の末裔まつえいだと言う。彼の死に、もしかしたら私も関与していたかもしれないと思うとな。手厚くほうむって差し上げたいのだ」

ハルヒはどう答えるべきか一瞬迷い、キッと眉毛を釣り上げて、

「な、なんで今になってそんなこと言うのよ。だったらもっと早く言いなさいよね!」

お前は腐乱ふらん死体が見たいのか。伯爵は爺さんが完全に骨になっちまうまで待ってたんだよ。それまでは掘り返せんだろうが、というふうなことを古泉が耳打ちしたらしく、ハルヒはそれに気づいて顔を赤くした。

「そ、そう。だったらやんなさい。成仏できなくてグランパがその辺にうろついてるかもしれないけどね」

自分で言ってて今鳥肌みたいなもんが走っただろ。


 それから俺は伯爵に頼まれて大工ギルドのところまで出かけてゆき、礼拝堂の設計を依頼した。建材の調達に林業組合を訪ね、石工と人夫にんぷを雇い、木を切って地盤を固める土木工事を頼んだ。石で壁を積み上げ、屋根のはりを木材で組んだ。礼拝堂とはいっても、まあ六畳が二部屋くらいの小さなお堂だ。

 骨を収めるってことはそれが聖遺物せいいぶつという信仰の対象になるので、特別に石でできたひつぎを作ってもらい、遠路はるばるロンドンから荷馬車で運んできた。石棺せっかんふたにはよろいを着た騎士の形をしたレリーフが掘ってあり、ひざのところで足を交差させている。戦士はこうする習わしらしい。

 それから人夫にんぷを雇い、俺がお経を、じゃなくて祈祷きとうとなえながら爺さんを掘り出した。着ていた服もすっかり土に還ってしまってきれいに白骨だけになっている。土を払い頭蓋骨ずがいこつから順番に石棺せっかんに収め、肋骨ろっこつの上にロザリオを置いた。ふたをかぶせて男六人で持ち上げて礼拝堂の部屋の真ん中に置いた。


 献堂式けんどうしきには村中の人が集まり、及ばずながら俺が礼拝をやることになった。伯爵と朝比奈さんも参列し、ハルヒはときどき天井をあおいでは目をぱちぱちしている。全員は部屋の中に入りきれず、外で参列していた人たちもいたが、ミサの途中でどよめきの声が聞こえた。一羽のふくろうが礼拝堂のてっぺんにとまり、祈祷きとうが終わると天高く飛んでいったのだそうだ。

 石棺せっかんには伯爵が書いたラテン語の碑文ひぶんが彫り込まれており、今に至っている。


“イングランド、グロースターの騎士にして、村の良き父親、ここに眠れり。常に村人にしたわれた男、彼は村民を守りぬいた。”


 礼拝堂から帰る途中で伯爵がこっそりとこんなことを言った。

「修道士殿。実は城には司祭がいなくて困っているんだが、うちに来てくれないだろうか」

「え、俺がですか」

「修道士殿さえよければ」

「いやー、お誘いは嬉しいですがマイロード、それは難しいんじゃないかと思います。司祭って大聖堂付きの神学校で勉強しないとなれない聖職でしょう。カンタベリーとかグロースターの司教様のお墨付きがないとなれなかった気がします」

「それはまあ、司教座しきょうざの教区教会の場合はそのとおりだな。だが城付きの礼拝堂は領主が雇うのでな。誰でもいいといえば語弊ごへいがあるかもしれないが、本人が少しばかりの教育を受けて、教会になにがしかの寄付をすれば認めてもらえることになっている」

なるほど、お墨付きを金で買えるわけだ。

「そういうことですか、マイロード。お誘いありがとうございます。でも、そうなると城に住むことになりますか」

「毎朝礼拝をしていただくので、そうなるな」

俺は少しだけ考え、

「残念ながら、俺が城に引っ越してしまうと、当然ユキリナも一緒ですから。ハルヒを残してしまうことになりますね。アレを一人で放置しておくとまた何をしでかすか……」

と、二人はふり返って、馬に揺られているハルヒを見た。ハルヒはなんか文句あんのという視線を返している。

「確かに、ミス・スズミヤには誰か引き止め役がいたほうがいいようだ」

伯爵もハルヒという生き物の行動習性が分かってきたらしく、二人のジョンスミスは顔を見合わせてニヤリと笑った。


 それからの俺達はなるべく城には近づかないようにと、仲の良い二人の蜜月みつげつに水を注すようなマネはしないようにとデリカシーをいかんなく発揮はっきしている。ハルヒには新婚生活を邪魔してはいかんと深く釘を刺しておいたのだが、どうしてもちょっかいを出したいらしくて、なんだかんだ理由をこじつけて城に押しかけるも主人が留守で門前払いされ、なんなのあのバカ兵士どもは邪魔なのよ邪魔、などと俺に八つ当たりする始末だった。

 それもそのはずで、城の前には新しい奥さんをひと目見ようと住民が押しかけて出待ちをしているとのことだ。領内では領主様の新しい奥さんがかなりのベッピンさんやで、と野郎どもの間でもっぱらの噂になっている。

 その朝比奈さんだが、最近領内をあちこちぎまわっているという噂を耳にした。護衛も付けずにほうぼうの村のマナーハウスを馬で訪ね歩いてなにやら調べて回っているというのだ。

「おいハルヒ、レディシップから勅定ちょくじょうが届いてるぞ」

「誰よそれ」

丁寧に折りたたまれた羊皮紙の手紙には至急お会いしたいむねと日本語で書いてある。

「あー、レディ・ミクル・ド・スマイトからお呼びだ」

「へえ、団員その三の分際ぶんざいで団長を呼びつけるたぁ、随分といいご身分になったじゃないの」

「お前こないだまで随分と会いたがってたじゃないか」

「フンだ。用があるならそっちから訪ねて来なさいよ」

門前払いされたのがよっぽど気に入らなかったのか、ハルヒはどうしても行かないとゴネた。手紙によるとゴージャスなディナーに三名様ご招待らしい。ハルヒよ、そんなエサであたしが釣られると思ってんのとか、よだれをきながら言われても説得力がないだろ。


「キョンくん、お金がないの」

城に着くなり朝比奈さん、我らが伯爵夫人の開口一句である。

「ええっと、いくらですか」

「百マルクほどなの」

俺は晩飯代を出せと言われているのかと思い、小銭を取り出そうとして胸に下げた巾着袋きんちゃくぶくろを取り落とした。百マルクってええっと……、

「……四千八百万円」

長門が耳打ちしてくれた。いえまあ、予想はしてましたけどね。俺とハルヒが領地をカタにして作った借金の払いなんでしょう。

「どれくらい厳しいんですか」

「今年の小麦の収穫量がいつもどおりだったとしても、ほとんど借金の返済のために消えてしまって、来年自分たちが食べる分が残りそうもないの。私たちは安いオーツ麦のおかゆでもいいんだけど、来年兵士さんたちに払う給料がなくて、遠征なんてとてもできないし、悪くすると解雇しなくてはならないわ」

盆と正月どころかブラックマンデーとリーマンショックが同時に来たようなミラクル並みの経済破綻けいざいはたんですね。中世はこれに加えて干魃かんばつとか黒死病なんかが通常営業でやってくるからな。

「ということは国中が似たような状況でしょうね。皆が一斉に売りに出すでしょうから小麦の値段が暴落するかもしれません」

「そうなの……。陛下と領主様たちはもう税金を上げるしかないんじゃないかって」

流通する金がないのに増税すると消費が減るし、なにより領民の不満がまるし治安も悪くなるんで、なるべく最後の手段にしたほうがいいのだが。

 暴動やら革命やらが頻発する時代にはまだ早いが、中世の兵士は警察も兼ねてるわけだからあいつらを雇えないと領地の安全確保が出来ないわけで、軍備が弱っていると分かるとほかの領主から襲われかねんし、給料が払えないと兵士がクーデター起こすかもしれんし脱走した兵が山賊になりかねんし、というかもうなりふり構っていられん状況だわな。

「増税するにしても、一時しのぎで小銭をかき集めることにしかならないでしょう」

「ええ。それで、経済に詳しいキョンくんと長門さんなら、なにかいい方法を知ってるんじゃないかと思って」

「うーん。考えられる財源はこないだの金策きんさくで出尽くしましたし」

蒸気機関の発明からはじまる産業革命はまだ遠い未来の話で、農業だけが頼りのイングランドの地方都市で、財源になる地場産業じばさんぎょうもない、自前の銀行もないという事態はいくら永久機関のハルヒを抱えていても手のうちようがない頭を抱える問題である。そんな難題を押し付けられても、俺はただ出身の学科が経済なだけで、別に中世の台所事情に詳しいわけではないのだ。俺は痛む両のこめかみをぐりぐりとマッサージしながら錬金術師の長門のほうを見た。

「長門の錬金術ではだめか? つまり本物のゴールドを作るような」

「……できなくはない。でも推奨はしない。未来のきんの価値が暴落しかねない」

ああ、前にも似たようなこと聞いたっけな。

「じゃあ、極力この時代に合った、つノーマルな魔法で」

「……現状でできることは、農作業の効率改善、農業機械の開発、種子を輸入して品種改良し結実率けつじつりつを上げる、家畜を輸入し交配して病気に強い品種を育てる、程度」

「それじゃあ結果が出るのに数年はかかりそうだな。なんかこう、この一年を持たせるためのカンフル剤というか、タウリン千ミリグラム配合栄養剤の点滴みたいなのはないだろうか」

「……もともと産業基盤が弱く、生産力に乏しいため貨幣かへい流通の活性も期待できない。外貨依存の上に通貨発行権がないのがなにより致命的」

そうなのだ。前にも言ったが地元に金鉱や銀鉱を持ってないから自分でお金を発行できない。モノを売って地金じがねを外から輸入しないといけないという、イングランドはまさに小銭をかき集めるようにして生計を立てている身分なのだ。三人のため息がコーラスのようにハァ、と、ゴージャスな城の装飾とは裏腹になんだか一気にダウナーになりつつある。もういっそのことハルヒをき付けて金鉱探しでもやるか。

「ところで涼宮さんは?」

「ああ、なんか呼びつけられたのが気に入らないみたいでゴネてました」

「涼宮さんならきっとなんとかして、」

なんとかしてくれる、と言いかけて朝比奈さんは口をつぐんだ。アレはコントロール不可能なスペインの牛みたいなものなので安易に頼ろうなどと考えないでくださいね。

「かといって自前で銀行作って銀行券の発行もできないしなあ」

なにげにサラリと既定事項を破るような発言をしているが俺、流通するお金の発行がはじまるのは十六世紀からだからな。

「グロースターで勝手にお金を刷ってもいいのかしら?」

「基本はみんなが信用しているから流通するんで、きんとか銀交換の保証さえあればいけると思います。でも、それすらないので即効で取り付け騒ぎになって紙屑かみくず化しそうですが」

取り付け騒ぎというのは、預金者が不安にかられて現金を全部引き出そうとして起きるまつりのことだ。

 だがまあ、中央銀行だけがお金を刷る権利を持ってるわけでもなくてな、意外と知られてないが俺たちの時代のウェールズとスコットランドはそれぞれ独自の紙幣しへいを刷ってるんだよ。日本もかつては百五十あった国営銀行が各々おのおので銀行券を発行してたというんだから驚く話だ。

「……金銀がなくても紙幣しへいを作ることは可能。地域振興券ちいきしんこうけん

「そういや日本にそういうのがあったな」

地域振興券ちいきしんこうけんってなにかしら?」

期間限定モノだったんで今の若いもんは知らないかもしれん。いや、マイナーすぎて未来人も知らないかもしれんな。

「俺たちの時代で流通した自治体発行の期限付き商品券みたいなもので、国債をかたに発行して、未来に政府系の銀行が買い戻すという、地域通貨みたいなもんです」

「そんなことをやってたのね。日本も私達並みに困ってたのかしら」

「いちおう消費の底上げは成功したみたいです」あのときは経済より政治的にいろいろな思惑おもわくが動いて決まったんだった気がしますがね。

「でも一ペニー分の商品券を発行してもパブの女将おかみさんが受け取ってくれるかしら」

「外貨が欲しいなら、庶民の買い物より大きな取引をうながしたほうがいい気がします。地域振興券ちいきしんこうけんは業者間の取引に限るとして、その分の小銭を庶民の消費に回せば」

「じゃあお金を刷るわけではないのね。グロースター独自の手形発行みたいなものかしら」

「……そう」

いえ、それ立派な銀行券ですから。イングランド銀行が発行したお金はもともと手形だから。

「どれくらい発行できるのかしら、金額にして」

「俺たちの時代だと年度税収の何割までが妥当だとうかという計算になるんですが」

「未来ではどれくらいなの?」

「日本の国債ですと、だいたい税収の六割くらい……ですかね」

高度経済成長をげた二十一世紀の金融大国の国債と、かたや十二世紀イングランドの地方手形を比較する俺もどうかしてる気がしますが。

「六割? 六割ならお金増やしても大丈夫なのかしら」

「いえ、この時代だと金融そのものが不完全で、政情も不安定と来てますから一概いちがいには」

刷るべきか刷らざるべきかそれが問題なのだが、この金額なら大丈夫という具体的な数字はとても俺には出せない。せめて王宮付きの経済学者にるいする誰かにでも相談できればいいのだが、と長門の顔を伺い、

「長門の意見はどうだ?」

「……国債は政府資産の裏打ちがあるので信用がある。今回、流通のための手形であれば領民の生産額から割合を算出しなければならない」

「正直、グロースターの取引額のうち何割が妥当だとうかしら。その、発行額って」

「……四十パーセントが安全圏」

「もう一声お願い」

「……四十二パーセント。これ以上は償還しょうかん不可能」

「分かりました。それでやってみましょう」

簡単に言えば、今までグロースター地方自治体が使ってた地金貨幣じがねかへいのうちだいたい四割近い金が紙幣しへいとして水増しされる、と思えばいい。増えた分の小銭は現場で働いている職人や農民、あるいは兵士たちの給料になる、はずである。

 さらに具体的に言うとだな、領内にグロースター地域振興券ちいきしんこうけんの取引所を何軒か作る。そこで領内の職人、商人の取引に使えるシリング単位の証書を領主直轄領ちょっかつりょうのマナーハウス向けに発行する。期日ありとなしの二種類を発行し、期日ありのほうは半年先くらいの支払いになるが取引所で割安で買うこともできて、少しだけ利子がつく。

 最初に使うのは領主で、受け取った人は期日が来たら現金化できる。現金化しなくてもそのまま支払いに使うこともできる。問題は領民が信用して使ってくれるかどうかなのだが、果たしてこんなんでうまくいくのかね。

「いきなり地域振興券ちいきしんこうけんで払うと受取拒否でもめて江戸時代の藩札はんさつみたいになってしまうので、あらかじめお触れを出したほうがいいかもしれません」

「そうね。私がマナーハウスとギルドハウスを回って説得します」

「あと、お金の回転を早くするのがミソなので、なるべく早めに公共事業を起こしてください。地域振興券ちいきしんこうけんは領主が使わないと流通しませんから」

「公共事業ってダムとか道路とか?」

「発注先に地域振興券ちいきしんこうけんを使えそうなタイプのやつです。まとまった木材とか石材を扱うような、今でいえば橋とか港とか」

「橋……ね」

朝比奈さんはなるほどポンという感じで手の平を打った。橋は通行税で多少の回収はできるしな。

「というところでどうだ、長門?」

「……問題ないと思われる。ただし歴史的にかんがみると通貨発行はインフレにおちいりやすい。財政難におちいった為政者いせいしゃが何度も施行しこうしてしまう。通俗的な用語を使用するなら、味をしめる」

「困ったときの神、いや紙頼みで戦時債券とか乱発したものな。そのへんは禁則事項ってことで釘を差しておこう」

禁則事項Prohibitionという未来人の専売特許を引用されて朝比奈さんは少し赤らんでいる。


 俺と長門の具申ぐしんをメモをしながら朝比奈さんは王様にも協力をあおいでみると言っているが、紙幣しへいの流通自体がまだ四百年も先のことのはずなのに既定事項は大丈夫なのだろうかね。どう転ぶかは分からんが、こういうことは前例がないだけにやってみないことには分からんものだしな。

 というより、朝比奈さんがまともに経済の話をするようになったのが俺には内心驚きで、人の上に立つと変わるものだなあなどと妙に感心している。


 朝比奈さんの私室で経済評論をしていると、執事さんが呼びに来てロード・スマイトがお戻りですと伝えに来た。朝比奈さんは正装に着替えるから先に行っててと言い、俺と長門は謁見えっけんの大広間へ出向いた。

「おお、修道士殿、それからミス・ナガティウス。ようこそ」

「マイロード、お幸せそうでなによりです」

「妻が相談に乗ってもらったそうだな。感謝したい」

相談というかまあ俺が自分でいた種ですからね。

「どこかへお出かけだったんですか」

「所用で王宮まで出かけたのだが、帰りにミス・スズミヤに出くわしてな。一緒に来たはずなのだが、」

俺の肩越しに、部屋のドアを伺う素振そぶりを見せている。伯爵の脇に立っている古泉の方を伺うと、すぐに来ますよという感じにうなずいている。村はロンドン方面の街道沿いにあるが、ハルヒがゴネると分かってたんで伯爵を連れて押しかけたのだろう。

「こら、邪魔すんな二等兵」

ドアの向こうで衛兵とめるハルヒの声が聞こえ、古泉が開けるとズタ袋を肩に乗せた本人が現れた。

「新婚さーん、来てやったわよー、ってあれ、みくるちゃんいないの?」

「ようこそ我が城へ、ミス・スズミヤ」

マナーもリスペクトもないハルヒに笑いながら渋面じゅうめんの伯爵である。ハルヒはほらよ、とズタ袋を投げ出した。

「自分で食べる分くらい持ってきたわ」

待てそのイノシシは王領のものでしかも密猟みつりょうだろ。

「あら、涼宮さん来てたのね。いらっしゃい」

「むう! その声は!」

執事がレディシップの登場を報じる暇もなく、ハルヒはドアを開けて現れた朝比奈さんの顔を見るなりツカツカと近寄り、

「な、なにかしら」

嫌がる朝比奈さんのほっぺたをめ、

「ペロリ。この味は……嘘をついている味だぜ。みくるちゃん、あなた、おめでたでしょ」

「ええっ、どうして分かったの!?」

お前の舌は妊娠検査薬にんしんけんさやくかと突っ込む心理的余裕よゆうなどは一切なく広間がピシと固まった。当事者である伯爵が椅子から立ち上がって固まった空気がピキと割れた。

「ほんとうか!?マイレディ、ほ、ほんとに子供が出来たのか」

「はい。あの……えっと、そう……みたいです」

ハルヒの電撃発言でんげきはつげんで突然公表させられるはめになり、朝比奈さん真っ赤になって顔をおおった。こういう話題に慣れてない俺も赤面してイヤン顔をおおった。こんなことは心得ていますよ的な古泉が紳士的にお祝いを述べ、

「ご懐妊かいにんおめでとうございます。マイレディ」

「……おめでとう、お父さん」

どうやら知っていたらしい長門からお父さんと呼ばれて、伯爵も急に実感を得たようにデレた顔になっている。

「ありがとうありがとう。しかし、祝うにはまだ早いからな」

「みくるちゃん、いつ分かったの?」

「えーと月のモノが一ヶ月くらい遅れてて、おかしいな、変だなーって思ってたの」

「ってことは仕込みは二ヶ月前ね。フヒヒ、いい子をお産み」

そんな逆算して詮索せんさくせんでもいい。

 朝比奈さん的にはなるべく誰にも言わないでねと守秘義務しゅひぎむを負わされたが、こういう祝い事では人の口にせんはできないものだ。あっという間に城から街中に広まり、グロースター大聖堂が鐘を鳴らし、街はお祭り騒ぎとなった。城ではメイドさんと兵士たちに祝いの酒が振る舞われた。


 騎士さんたちも同席した晩飯にはハルヒが差し入れたイノシシの丸焼きがメインディッシュとして登場し、伯爵がナイフを入れるはずのところをハルヒ自ら斬鉄剣ざんてつけん切りでスライスして配膳はいぜんして回った。俺達はその晩客室に泊まり、遅くまで飲んでいたらしいハルヒのがなり声で、めでためーでたーやーと歌謡曲なのか演歌なのか民謡みんようなのかタイトルすら分からん曲が城中にこだまして、メイドさんたちからは大顰蹙だいひんしゅくを買っていた。


 翌朝、二日酔いと寝不足で起きてこないハルヒを寝室に放置したまま朝飯を食っていると、玄関から来客の呼び声が聞こえた。

「いよーぅみくる、おめでたなんだって? おっと、これはこれはロード・スマイト、この度はまことにおめでとうにょろ」

どうやら速攻で伝わったらしく、気の早い鶴屋さんが果物の盛りカゴを下げてやってきた。誰が密告したのかしらと朝比奈さんが笑いながらこっちを見たが、俺はブンブンと顔を振って否定した。あなたここは壁に耳あり障子しょうじにメアリのイギリスですよ。

「ありがとうシスター、私も今回が初めてなのでな。いろいろと世話になりたい」

「ってまだまだ喜ぶのは早いよっ。子供を産むってのは一世一代の事業だからね」

そりゃまあ二世代に渡って産むのは無理でしょうね、などとどうでもいい突っ込みは置いといて、俺はふとした疑問を朝比奈さんに投げかけた。

「ところで、この頃ってどこで出産するんですか」

「えーっとそうね、やっぱり病院じゃないかしら……?」

朝比奈さんは鶴屋さんに尋ねる視線をやった。

「あれれ、みくるったら、自宅のベットに決まってんじゃないのさ。妊娠にんしんは病気じゃないよ」

そうか、そうですよねあはは。それにまだ産婦人科とかないですもんね。

「農村でも自宅で出産するのかしら?」

「そだよ。でも産婆さんばさんが足りなくてさあ。間に合わなくて神父様が呼ばれたりするんだけど、なにせそっちのほうはとんと素人だから、助かるもんも助からなかったりするんだよねえ」

ですよねえ。この時代の神父はまだ独身のはずで、いや、そもそも素人の男が代理で産婆さんばさんをやるのに無理があると思うが。

 朝比奈さんは手のひらをポンと叩いた。

「ないんだったら、自分で作ればいいわ」

「なにをかい?」

「産院よ産院」

一瞬ハルヒが乗り移ったのかと凝視ぎょうししたが、皆は声を合わせてナールホドとうなずいた。突拍子とっぴょうしもない思いつきも朝比奈さんがひらめくとこういう感じになるわけだな。

「マイロード、産院を作って産婆さんばさんを養成してもいいかしら」

「あ、ああ私は構わんが」

伯爵は一瞬だけ目を上に向けてなにかを計算しているようで、ああ、また出費がかさむんだなあなどと俺は心中しんちゅうを察している。


 突然モノをひらめく役が朝比奈さんになったところで結局俺に鉢が回ってくるのは既定事項なようで、産院を作ると簡単にいってもだなあ、いちおう病院だから頑丈がんじょうな石造りでないと困るわけで、こんな財政逼迫ひっぱくした地方自治体、もとい鼻血も出ないような領主のところでゼロから新築するなどというのはとうてい無理な話で、俺が建築にかかる費用をだいたいで伝えるとその数字に朝比奈さんの目ン玉が落ちそうになった。

 それでも俺は金を集めるために、十字架をかかげて裕福ゆうふくそうな修道院を訪ね歩き、子を産むさまよえる子羊のために建設費のご寄付を、とお願いしてまわったのだが、どうも支出より収入を増やすことだけにけているらしくなかなかいい返事はもらえなかった。

 そこでとうとう朝比奈さんを連れてグロースター大聖堂へねじ込み、産院と産婆さんば学校をやりたいので、ついては場所を貸してくれ、家賃はいつか必ず寄付で返すからと強引に頼み込んだ。大聖堂付き教会はもともと貧しい人たちのための施療院せりょういんを経営しているので、間借りでよければということでなんとか場所の確保に成功した。伯爵家は大聖堂の建築にも多額の寄付をしているはずなので、金のためなら蛇だろうが虎だろうがを借る俺である。


 薬と栄養剤は長門に頼み、大工ギルドで木製のベットを作ってもらって部屋に敷き詰めた。院長先生は鶴屋さんに頼み、二度返事でオッケイオッケイをもらった。まあ些細ささいなことだが、地方政治ってのはこういう小さなことから動き出すものだ。これが朝比奈みくるの行政のはじまりである。


 産院の運営を鶴屋さんに頼んで、ぼちぼち回りだしたのを見届けてから俺達は村に帰った。その翌週から支払いをポンドとシリングの手形で払うというお触れが出て、村民の間ではその話でもちきりだった。マナーハウスではあれやこれやと、まだ見ぬ羊皮紙の切れっぱしに憶測が憶測を呼び、紙きれにそんな価値があるのか、だったらワシらも自分で作るべと不満をらす農民の声があちこちでざわめいている。いやまあ、予想はしてたけどな。裏で俺が関わっていることを思うと独りニヤニヤが止まらない。

「なーにニヤニヤしてんのよキョン、気持ち悪いわね」

「い、いやんなんでもないさん」

「みくるちゃんも妙なことをはじめたわね。金に困って紙幣しへい発行までするかねぇ、戦前のドイツマルクみたいになんなきゃいいけどねぇキヒヒ」

お前もニヤニヤしてるじゃないか。そもそもハルヒが無茶な方法でかき集めた身代金みのしろきんのせいでこういう事態になっちまったんだが、その自覚はないらしい。しかも当人の財布からは一ペニーも出してないときている。


 ニヤニヤ顔が窓の方を向きピタリと止まって真顔に戻った。カポカポと遠くから固いひづめの音が響いていたが、家の門の前で停まったのは伯爵だった。

「ミス・スズミヤ、貴殿きでんの領地に入りたいのだが許可願えるかな」

「今さら改まってなに言ってんのよ。用があるならさっさと入りなさいよ」

伯爵はやけにしゃっちょこばているが、連れが一人もいないせいだろうか。朝比奈さんも古泉もついてきていない。俺と長門とメイドさんで領主様をお出迎でむかえし、深々とお辞儀じぎをしたがハルヒだけは居間で椅子に座っていた。伯爵は勧められた暖炉の前の椅子をうろうろと歩きまわり、

「あー、オホン。皆、元気そうでなによりだ。今年の麦の育ち具合をかんがみるに、」

「まだ植えてないわよ」

「そ、そうだな。今年の豚の育ち具合を鑑みるに、」

「今頃ハムだわよ。さっさと本題に入りなさい」

「す、すまない。今日の用向きはだな、」

と一枚の巻物を取り出してテーブルの上に広げた。

「なにこれ。なんなの」

長門が手に取って目で追い、

「……土地の譲渡じょうと契約書。グロースター領東方、オックスフォードとの境界にある山林、二十ハイドをハルヒ・オブ・スズミヤの保有農地とする。王宮執事、伯領主、王領長官、公証人こうしょうにんによる署名しょめい

「なん……ですと」

おいハルヒ、口が耳まで裂けてるぞ。

「受け取っていただけるかな、フフン」

いつもはクールな伯爵様がはじめて見せるドヤ顔である。

「それってあたしたちが暮らしてた王領の森じゃないの。よくそんなものが手に入ったわね」

「リチャード陛下にねじこんだ、いや、交渉したところ身代金みのしろきんのお礼にとたまわったのだ。ミス・スズミヤが集めた十万マルクには程遠いが、陛下からの心づくしだと思って受け取ってくれたまえ」

「へー。とかなんとかカッコつけてるけど、みくるちゃんにそそのかされたんじゃないのアンタ」

図星らしく伯爵は急にき込み、

「その辺はえーと、きん、禁則事項だ」

なるほどね。朝比奈さんも味なことをするものだ。思えば、爺さんの埋葬まいそうも礼拝堂を立てたのも朝比奈さんの勧めなのではないだろうか。ハルヒと伯爵の間にわだかまりがあるとしたら、いちばんの要因は森林伐採ばっさいとそこで死んだ爺さんにあるわけで、それが分かっているのは事態を最初から見ていた朝比奈さんに違いない。今日あえて朝比奈さんが来ていないのは、表向きは伯爵が提案し、それをハルヒが受け入れるという、二人のプライドを立てた上で和解できるようにと取り計らってのことだろう。

「二十ハイドっていうと、えーと九百六十ヘクタールね。これだけあればこの村の農奴のうど全員に行き渡るわ。リチャードもえらく太っ腹になったわね。太いけど」

「ミス・スズミヤ、ただし条件が二つあってな」

「なによ、税金なら相場以上は払わないわよ」

「そうではなくて、その土地はまだ森林だからこれから開墾かいこんしなければならん。そこでだ、切り出した木材を私に売ってくれ。もう一つの条件は、その支払いの四割を手形で頼みたい」

「なーるほど」

このなるほどは俺が言った。

「どういうことなの」

「知っての通り城では今財政が厳しい。これからグロースターに手形の取引所を作るので、そこで現金化できる手形を支払いに使いたい。もちろんその手形はほかの取引に使ってくれても構わない」

「なるほどぅ、紙幣しへい発行ってそういうことなの。木材が高騰こうとうしてると知って荒稼ぎをしようってのね。さっすがみくるちゃん、軽く三階級くらいは特進して財務大臣に任命するわ」

ハルヒが取り出した赤い腕章には黒々とした文字で“金の亡者”と書き込まれてあった。

「まあ高騰こうとうしているのは確かだが、目的は投資ではなくて、木材で船を作らせて輸送をはじめようかと考えている」

「へー、海運業かいうんぎょうやんの? なに運ぶのよ」

「領内の羊毛をフランスに輸出しようかとな。航路をアングレームまで伸ばして交易こうえきをはじめたい。同時にグロースターで市場いちばを開けば輸送業もうるおうだろう」

「なるほどぅ」

このなるほども俺が言った。四月といえばそろそろ羊毛刈りの季節だ。規模はまだそれほどでもないが、かせるイギリスの地場じば産業があったじゃないか。朝比奈さんが相続したアングレーム伯領は今や伯爵の領地でもあるので、船で直接行けば通行税も関税もなしで交易こうえきできるわけだ。なんといっても現金で外貨獲得がいかかくとくできる。

「ふーん。それアンタ一人で考えたんじゃないわよね。誰の入れ知恵か白状しなさい」

ハルヒはテーブルの上にどんと座りニヤニヤしながら伯爵のネクタイ、じゃなくてスカーフを引っ張っている。

「そ、それは禁、」

伯爵は俺と長門に向かって助けてくれという視線を投げている。

「へー、キョンと有希の入れ知恵なんだ。あんたたちよく考えたじゃないの。さすがはうちの団員だわ」

「いやいや、俺はなにも言ってないぞ。日本式に公共事業を勧めただけだ」

俺はブンブンと首を横に振った。おい長門、うなずいてないで一緒に否定してくれ。


「そういうことなので当面の木材の代金と現金を置いていく」

伯爵は羊皮紙の束とペニーとシリング硬貨が入っているらしい布袋をドンと置いた。

「へーえ、前払いとは気前がいいわね。うちは別にお金には困ってないわよ」

「これはあなたへの報酬ほうしゅうではなくて、製材の設備費や人夫にんぷの日当分だ。木材の買い取り総額については後日相談しよう。では、今日はこれにて失礼する。マナーハウスでレディシップが待っているのでな」

伯爵は乱れたシャツのまま出ていこうとしたが、玄関ではたと立ち止まり、

「そうそう、妻から言伝ことづてがひとつあった。間違ってもスズミヤ銀行券の発行などは考えないように、とのことだ」

図星だったらしくハルヒは口を大きく開いたままピシと固まって動かなかった。


 よくよく考えれば森林伐採ばっさいを命じられてその対価に給料をもらっただけなのだが、それでもハルヒは土地ころがしで大儲おおもうけけをした悪徳不動産並みに喜び、

「関空よ! 関西空港が手に入ったわ!」

などと狂喜乱舞きょうきらんぶしているのは、たぶん関空の面積が千ヘクタールくらいだからだと思う。契約書に書かれている二十ハイドという数字を読むたびにメタアンフェタミンが分泌ぶんぴつされるのかハァハァと荒い息をしている。中世フランス語で書かれた契約の内容によると、どうやらうまいこと伯爵に丸め込まれたらしく、開拓した土地の税金を領主に払い続けることはなんら変わっていなかった。まあ土地取引は人類史上ずっと続いている習慣で、いったい誰が決めたのかは知らんが、土地の権利なんてものは絵に描いた餅みたいなもんだからな。


 脳内麻薬のドーピングと禁断症状で一晩中ハァハァとワナワナを繰り返していたハルヒは、待ちきれずに翌朝から村の零細れいさい農民を集めて伐採ばっさいをはじめた。土地が手に入ると知った農奴のうどたちは喝采かっさいしていたが、気づいてないのか記憶が抹消まっしょうされているのか、一度自分たちが伐採ばっさいしたあとハルヒの雪冤宣誓せつえんせんせいで生えた森林を再び伐採ばっさいしているだけである。なんとまあご苦労なこった。

「仕事したくねー、だりー」

「同感です」

「あー、神人が発生しねーかなー」

「まったくですねー」

畑と森の境界線で伐採ばっさい作業の様子を監督している、古泉と俺のやる気のない会話である。ハルヒに能力を与えられている超能力者がそんなこと言っちゃ不謹慎ふきんしんじゃないかという視線を向けてみるが肩をすくめるだけでまったく動じない。

「神人が生まれるのは涼宮さんのイライラが頂点に達したときだけで、今のような満面の笑顔の状態で青い巨人を生み出せなどというのは、よほどのアンビバレンツか精神崩壊でも起こさないかぎり無理でしょう」

「まったく、いなくてもいいときに沸いて、来てほしいときにいないもんだな」

「まあまあ、今回は予算がついてるわけですから労働者の皆さんにお任せしましょう。しかし、よくあのようなアイデアが出ましたね。さすがは経済出身です」

経済修士めんな、と言いたいところだが、長門ファイナンスが太鼓判を押してくれたから実行できてるんだがな。

「俺が教えたのは金を二重に流通させることと、それをバラまくための事業をはじめろってことだけだがな」

「それでもたいしたものだと思います。ご指示通り、来週から市が開催されますよ」

市場いちばは朝比奈さんか伯爵の案だろうな。にしても来週とはまた気が早くないか、まだ航路も通ってないのに」

「今回はプレオープン的な様子見ですね。まだ売り場面積も狭く小規模なものですから。当面は自由相場で非課税だそうです。もちろん店を出すための場所代は頂きますが」

「日本でも信長が似たようなことやってたよな」

楽市楽座らくいちらくざですか。ということは市場いちば開催はレディシップのアイデアでしょう」

「とりあえずは宿屋と酒場がうるおうな。俺も修道士コスで流しやるかな」

「それはそうと、ロードシップがあなたを城にむかえられるよう説得してくれないかとおっしゃっていました」

「ああ、こないだ断った礼拝堂の司祭の件か。しかしお前も朝比奈さんもいなくなっちまって、ハルヒを一人で置いておけんしなあ」

「もちろん涼宮さんにも来ていただきたいと」

「アレが伯爵とうまく折り合えると思うか。決闘までした相手だぞ」

「涼宮さんも大人ですし、その辺は割りきっていただけるんじゃないでしょうか」

「まあアレがアレを出したらお前自身が忙しくなるわけだけどな」

「それはまあ、出来る限りのことは僕も尽力じんりょくしみませんが」

などと言いつつひたいから冷や汗が吹き出てるだろ。

「じゃあ長門と相談してみるかな」

「長門さんのことも、城の近くで店を開いたらどうだろうかとおっしゃってました」

そういえばドラッグストアの営業が最近とどこおってるな。兵士見習いの谷口も今はこっちに来てるわけだし、ロンドンの店番がいないわな。もっと早く気づくべきだった。


「……」

家に戻ってみると長門がテーブルに突っ伏していて、なんだかハルヒがなだめたり透かしたりしている。

「どうした長門、なにがあったんだ?」

「……来週のイベントに落ちた」

「落ちたって、市場いちばの抽選に外れたってことか」

「……」

そんなコミケに落ちた同人作家みたいにへこまなくてもいいのに。

「薬を出す予定にしてたのか」

「……違う。朝比奈ミクルの冒険in中世のラテン語版、手書き写本しゃほんで大量に書きめていた」

ラテン語ていったい誰が読むねん、などと突っ込もうとするとハルヒが、

「分かってないわね、有希にとってはこれが唯一の生き甲斐がいなのに」

そ、そうだったんですか。あの、なんかすいませんでした。

「そういえば朝比奈さんが主催らしいから、頼めばブースひとつくらいなんとかなるんじゃないか」

長門はガバと顔を上げ、

「……それなら、店を引っ越してもいい」

俺と古泉の会話をどこかで聞いてたらしい。突然ペンと羊皮紙を引っ張り出してきて朝比奈さん宛ての手紙を書いている。なんか長門が急にハッスルしてきたぞ。

「ああ、そのことなんだがな、ハルヒよ」

「いいんじゃないの? 二人で引っ越せば?」

即答かよ。そんな捨てられた猫みたいな目で俺を見ないでくれ。

「お前を一人にしとくのは心配だと関係者全員の意見が一致してるのだが」

「あたしを子供扱いすんな」

「嵐の夜にたった一人でこの家に寝てて、カタカタと鳴る窓ガラスに映る自分の姿が怖くて布団をかぶったまま朝まで過ごせるか?」

「そ、それは……ちょっと怖い」

「だからみんなと一緒に城で、」

「それは嫌よ。この土地はグランパからゆずり受けたんだもの。ここを捨てて優雅な城の暮らしなんてできないわ」

「今じゃほとんど貸し出してるんだろ。人を雇ってミニ荘園みたいにして任せればいいじゃないか」

「そうだけど、あたしにはまだ面倒を見ないといけない貧乏農奴のうどのみんながいるし」

だよな。一緒に山賊までやった仲間を見捨てたりはできないよな。

 ハルヒが農奴のうどたちにこだわる理由は、自分のものでない土地のために年がら年中耕し手入れをし刈り取るをやっているという身の上で、何も残らず働くだけで一生を終わってしまうのを不憫ふびんに思っているからだろう。収穫したものはすべて領主や土地の持ち主のものになり、受け取る賃金は微々びびたるものだ。この国では土地を持っているか否かでは雲泥うんでいの差がある。

「じゃあその全員が十分に食える土地保有農になったら行くか?」

ハルヒは腕を組んで考え込んでいる。

「んー、まあ、そんときになったら考えるわ。今はまだ一ハイドも切り倒してないんだし」


 まあ確かに、ハルヒが城で上げぜん下げぜんのお客様のような生活をしている姿は似合わない気もする。あり余るパワーを今でこそ農作業という肉体労働で消費してようやくサイキックパワーのバランスが取れているわけで、これがすべてメイドさんにお任せする毎日になったらまた、退屈で不満たらたらのお嬢様に逆戻りしてしまうかもしれない。という話を古泉にしてみると同意見だった。

 古泉は城勤めの騎士だが、一応は封土ほうどをもらっていて、ここの地主ということになっているので三日に一度くらいはハルヒの様子を見に帰ってくると言っている。まあ雇いの農夫家族も近所に住んでいることだし、メイドさんもいるわけで、なにかあれば呼ぶだろうからしばらくは好きにさせとこうということになった。いくら神レベルのエキセントリックなキャラとはいえ、あんまり過保護なのもよくないしな。


 長門は城の近くに空いていた店舗を借りてドラッグストア・ユキリンを新装開店することになった。大きめの荷馬車を借りて二人でロンドンまで行き、蒸留装置じょうりゅうそうちや保管していた薬草、鉱物なんかを積み込んだ。SOS団社屋のドアはもう使わないだろうと思って捨てようとしたが、これだけは持って行ったほうがいいと長門がいうので地下室から苦労して運びだした。ご禁制のペンタグラムは中身がバレないよう厳重に布で包んで積み込んだ。最後に大家さんに店の鍵を渡すとき、騎士になると言って飛び出していったうちのドラ息子のことをよろしく頼むよと言われていた。谷口は一人っ子らしい。親不孝モンめ。


 ロンドンからグロースターに向かう途中でハルヒの家に寄り、長門の手荷物と衣装ケースを荷馬車に載せた。俺自身はというと修道院を出たときと変わらず、仕込杖しこみづえとリュート、あとは小さなズタ袋を下げているだけの身軽な旅だ。

 俺はメイドさんとご近所さんにハルヒのことをよろしくと伝えて馬車に乗った。手綱たづなを引いて馬を出す前に、

「ほんとに来ないのか」

「何度も同じこと聞くな。行かないったら行かない」

ハルヒは朝から機嫌が悪く腕組みをしたまま眉毛をピクピクと動かしている。こういうときは逆らわないほうがいい。

「なんか欲しいものがあったら手紙をくれ。ああ、古泉がなるべく帰ってくるようにすると言ってたぞ」

ハルヒは返事をしなかった。長門に向かって、キョンの面倒をちゃんと見てねと言っていた。俺を子供扱いすんなっての。

 俺は軽く敬礼をして馬にムチを入れた。荷馬車がゴロゴロと音を立てて門を離れ、長門は何度か小さく手を振った。段々と小さくなっていくハルヒはこっちをにらんだまま最後まで手を振らなかった。

 俺が心配しているのは、ハルヒが一人で寂しいだろうとか強盗にでも押しこまれたどうすんだとか、そういうことではないのだ。俺たち五人には大きな課題が残されていて、いざというタイミングでハルヒがいないととっさの行動を起こせないかもしれないということなのだ。そのいざというタイミングは無論、未来への帰還であり、タイムトラベルである。どんな形になるにせよ、俺たちは二十一世紀に帰らなければならない。落雷エネルギーをタイムマシンに使った博士じゃないが、そのチャンスが一度きりしかないのだとしたら、ハルヒだけを置いて帰るという選択を迫られても俺にはできないんじゃないだろうか。


 気になって荷台の上から一度だけふり返ると、ハルヒは腰に手を当てたまま、道の真中に陣取ってまだこっちを見ていた。もしかしたら遠い将来に、こいつが俺の手を離れるときはきっとこんな感じなのかもしれないな、などと妙に未来を予感させて引かれる後ろ髪だった。

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