二十四章
ときどき帰ってくる古泉によれば、伯爵と朝比奈さんはアングレーム伯領を訪れているということだ。フランスでもスペイン寄りのアングレームは、イングランドの冬より温かいらしい。領地は意外と小さくて、小さいというかあの一帯はうちの王様の
季節は四月に入り、気温も上がりはじめ腕まくりをしたハルヒは深い
あーだりーとか
「たった今みくるちゃんがアングレーム城でフランス風ニカラグア料理を食べてる気がする!」
「あーそうですか、それはよかったですねー」
どうせシェフはイタリア人とかいうんだろ。
「なによその棒読みは。ほんとだってば」
朝比奈さんの
「あ、たった今みくるちゃんが伯爵とゴニョゴニョ、」
言うな、そこから先は言わんでいい。
ハルヒのガバ起きみくるちゃん予言が何度も続いてオオカミ少年化してきた頃に、ようやく馬の
「予言するわ。たった今みくるちゃんがうちの家の前に到着した」
「見りゃ分かる」
ハルヒは開け放った窓から身を乗り出し、
「みっみっみくるちゃーん、マイスイート・ミクルちゃん、おみやげおみやげはぁ?」
子供かお前は。
「おかえりなさいませ、マイレディとマイロード。おう、古泉お疲れさん」
「ただいまキョンくん。みんな元気かしら?」
古泉を先頭に馬が三頭、今日は馬車ではなくそれぞれに
「先日はいろいろありがとう。ミス・スズミヤ、ミス・ユキリナ、それから修道士殿。
「なんか丸くなったわね伯爵。フランスでおいしいもんばっかり食べてたんじゃないの」
丸くなった、というのはたぶん体形のことだけじゃなくて、なんとなく表情が
「ミス・スズミヤ、今日はちょっと頼みがあってな」
「な、なによ。子供の名付け親になんてならないわよ」
まだ結婚して半年にもならない新婚さんになんてことを言うんだハルヒ。二人とも顔を真っ赤にしてるじゃないか。
「そ、それはまあ、おいおいお願いしたいことでもあったのだが、今日の用向きはそうではない」
俺たち三人は家畜小屋から馬を出し、古泉の後をついていった。家から二時間ほど馬を進め、森のなかに入った。あのときは葉を落としていた木々も今では青々と生い茂り、森のなかの脇道にも草が生えて人が通った跡が消えてゆきつつある。ここに来るのも久しぶりだ。
ハルヒたちがジプシー生活をしていた、明るく開けた場所は一年経つ間に下草がはびこり、竪穴式住居は腐って土に
伯爵はそこで馬を降りた。
「この先です、マイロード」
古泉が示した林の奥の小さな空間。一か所だけ土が盛り上がっているところがある。そこだけ草が生えておらず、たぶんハルヒがたまに手入れに来ているんだと思うが、薄暗い森のなかでぽっかりと日が差し込んでいる。
伯爵はなにも言わず、倒れていた十字架を、だいぶ古くなっているそれをまっすぐに刺し直して胸の前で十字を切った。
「ミス・スズミヤ。よかったらここに小さな礼拝堂を建てたいのだが、許可願えるかな」
「え……、礼拝堂?」
なるほど。朝比奈さんの勧めがあったのかもしれないが、自分でもずっと気になっていたのだろう。ハルヒと伯爵のバトルに
「聞けば、ここに眠っている紳士はブリトン人の騎士の
ハルヒはどう答えるべきか一瞬迷い、キッと眉毛を釣り上げて、
「な、なんで今になってそんなこと言うのよ。だったらもっと早く言いなさいよね!」
お前は
「そ、そう。だったらやんなさい。成仏できなくてグランパがその辺にうろついてるかもしれないけどね」
自分で言ってて今鳥肌みたいなもんが走っただろ。
それから俺は伯爵に頼まれて大工ギルドのところまで出かけてゆき、礼拝堂の設計を依頼した。建材の調達に林業組合を訪ね、石工と
骨を収めるってことはそれが
それから
“イングランド、グロースターの騎士にして、村の良き父親、ここに眠れり。常に村人に
礼拝堂から帰る途中で伯爵がこっそりとこんなことを言った。
「修道士殿。実は城には司祭がいなくて困っているんだが、うちに来てくれないだろうか」
「え、俺がですか」
「修道士殿さえよければ」
「いやー、お誘いは嬉しいですがマイロード、それは難しいんじゃないかと思います。司祭って大聖堂付きの神学校で勉強しないとなれない聖職でしょう。カンタベリーとかグロースターの司教様のお墨付きがないとなれなかった気がします」
「それはまあ、
なるほど、お墨付きを金で買えるわけだ。
「そういうことですか、マイロード。お誘いありがとうございます。でも、そうなると城に住むことになりますか」
「毎朝礼拝をしていただくので、そうなるな」
俺は少しだけ考え、
「残念ながら、俺が城に引っ越してしまうと、当然ユキリナも一緒ですから。ハルヒを残してしまうことになりますね。アレを一人で放置しておくとまた何をしでかすか……」
と、二人はふり返って、馬に揺られているハルヒを見た。ハルヒはなんか文句あんのという視線を返している。
「確かに、ミス・スズミヤには誰か引き止め役がいたほうがいいようだ」
伯爵もハルヒという生き物の行動習性が分かってきたらしく、二人のジョンスミスは顔を見合わせてニヤリと笑った。
それからの俺達はなるべく城には近づかないようにと、仲の良い二人の
それもそのはずで、城の前には新しい奥さんをひと目見ようと住民が押しかけて出待ちをしているとのことだ。領内では領主様の新しい奥さんがかなりのベッピンさんやで、と野郎どもの間でもっぱらの噂になっている。
その朝比奈さんだが、最近領内をあちこち
「おいハルヒ、レディシップから
「誰よそれ」
丁寧に折りたたまれた羊皮紙の手紙には至急お会いしたい
「あー、レディ・ミクル・ド・スマイトからお呼びだ」
「へえ、団員その三の
「お前こないだまで随分と会いたがってたじゃないか」
「フンだ。用があるならそっちから訪ねて来なさいよ」
門前払いされたのがよっぽど気に入らなかったのか、ハルヒはどうしても行かないとゴネた。手紙によるとゴージャスなディナーに三名様ご招待らしい。ハルヒよ、そんなエサであたしが釣られると思ってんのとか、よだれを
「キョンくん、お金がないの」
城に着くなり朝比奈さん、我らが伯爵夫人の開口一句である。
「ええっと、いくらですか」
「百マルクほどなの」
俺は晩飯代を出せと言われているのかと思い、小銭を取り出そうとして胸に下げた
「……四千八百万円」
長門が耳打ちしてくれた。いえまあ、予想はしてましたけどね。俺とハルヒが領地をカタにして作った借金の払いなんでしょう。
「どれくらい厳しいんですか」
「今年の小麦の収穫量がいつもどおりだったとしても、ほとんど借金の返済のために消えてしまって、来年自分たちが食べる分が残りそうもないの。私たちは安いオーツ麦のお
盆と正月どころかブラックマンデーとリーマンショックが同時に来たようなミラクル並みの
「ということは国中が似たような状況でしょうね。皆が一斉に売りに出すでしょうから小麦の値段が暴落するかもしれません」
「そうなの……。陛下と領主様たちはもう税金を上げるしかないんじゃないかって」
流通する金がないのに増税すると消費が減るし、なにより領民の不満が
暴動やら革命やらが頻発する時代にはまだ早いが、中世の兵士は警察も兼ねてるわけだからあいつらを雇えないと領地の安全確保が出来ないわけで、軍備が弱っていると分かるとほかの領主から襲われかねんし、給料が払えないと兵士がクーデター起こすかもしれんし脱走した兵が山賊になりかねんし、というかもうなりふり構っていられん状況だわな。
「増税するにしても、一時しのぎで小銭をかき集めることにしかならないでしょう」
「ええ。それで、経済に詳しいキョンくんと長門さんなら、なにかいい方法を知ってるんじゃないかと思って」
「うーん。考えられる財源はこないだの
蒸気機関の発明からはじまる産業革命はまだ遠い未来の話で、農業だけが頼りのイングランドの地方都市で、財源になる
「長門の錬金術ではだめか? つまり本物のゴールドを作るような」
「……できなくはない。でも推奨はしない。未来の
ああ、前にも似たようなこと聞いたっけな。
「じゃあ、極力この時代に合った、
「……現状でできることは、農作業の効率改善、農業機械の開発、種子を輸入して品種改良し
「それじゃあ結果が出るのに数年はかかりそうだな。なんかこう、この一年を持たせるためのカンフル剤というか、タウリン千ミリグラム配合栄養剤の点滴みたいなのはないだろうか」
「……もともと産業基盤が弱く、生産力に乏しいため
そうなのだ。前にも言ったが地元に金鉱や銀鉱を持ってないから自分でお金を発行できない。モノを売って
「ところで涼宮さんは?」
「ああ、なんか呼びつけられたのが気に入らないみたいでゴネてました」
「涼宮さんならきっとなんとかして、」
なんとかしてくれる、と言いかけて朝比奈さんは口をつぐんだ。アレはコントロール不可能なスペインの牛みたいなものなので安易に頼ろうなどと考えないでくださいね。
「かといって自前で銀行作って銀行券の発行もできないしなあ」
なにげにサラリと既定事項を破るような発言をしているが俺、流通するお金の発行がはじまるのは十六世紀からだからな。
「グロースターで勝手にお金を刷ってもいいのかしら?」
「基本はみんなが信用しているから流通するんで、
取り付け騒ぎというのは、預金者が不安にかられて現金を全部引き出そうとして起きる
だがまあ、中央銀行だけがお金を刷る権利を持ってるわけでもなくてな、意外と知られてないが俺たちの時代のウェールズとスコットランドはそれぞれ独自の
「……金銀がなくても
「そういや日本にそういうのがあったな」
「
期間限定モノだったんで今の若いもんは知らないかもしれん。いや、マイナーすぎて未来人も知らないかもしれんな。
「俺たちの時代で流通した自治体発行の期限付き商品券みたいなもので、国債を
「そんなことをやってたのね。日本も私達並みに困ってたのかしら」
「いちおう消費の底上げは成功したみたいです」あのときは経済より政治的にいろいろな
「でも一ペニー分の商品券を発行してもパブの
「外貨が欲しいなら、庶民の買い物より大きな取引を
「じゃあお金を刷るわけではないのね。グロースター独自の手形発行みたいなものかしら」
「……そう」
いえ、それ立派な銀行券ですから。イングランド銀行が発行したお金はもともと手形だから。
「どれくらい発行できるのかしら、金額にして」
「俺たちの時代だと年度税収の何割までが
「未来ではどれくらいなの?」
「日本の国債ですと、だいたい税収の六割くらい……ですかね」
高度経済成長を
「六割? 六割ならお金増やしても大丈夫なのかしら」
「いえ、この時代だと金融そのものが不完全で、政情も不安定と来てますから
刷るべきか刷らざるべきかそれが問題なのだが、この金額なら大丈夫という具体的な数字はとても俺には出せない。せめて王宮付きの経済学者に
「長門の意見はどうだ?」
「……国債は政府資産の裏打ちがあるので信用がある。今回、流通のための手形であれば領民の生産額から割合を算出しなければならない」
「正直、グロースターの取引額のうち何割が
「……四十パーセントが安全圏」
「もう一声お願い」
「……四十二パーセント。これ以上は
「分かりました。それでやってみましょう」
簡単に言えば、今までグロースター地方自治体が使ってた
さらに具体的に言うとだな、領内にグロースター
最初に使うのは領主で、受け取った人は期日が来たら現金化できる。現金化しなくてもそのまま支払いに使うこともできる。問題は領民が信用して使ってくれるかどうかなのだが、果たしてこんなんでうまくいくのかね。
「いきなり
「そうね。私がマナーハウスとギルドハウスを回って説得します」
「あと、お金の回転を早くするのがミソなので、なるべく早めに公共事業を起こしてください。
「公共事業ってダムとか道路とか?」
「発注先に
「橋……ね」
朝比奈さんはなるほどポンという感じで手の平を打った。橋は通行税で多少の回収はできるしな。
「というところでどうだ、長門?」
「……問題ないと思われる。ただし歴史的に
「困ったときの神、いや紙頼みで戦時債券とか乱発したものな。そのへんは禁則事項ってことで釘を差しておこう」
俺と長門の
というより、朝比奈さんがまともに経済の話をするようになったのが俺には内心驚きで、人の上に立つと変わるものだなあなどと妙に感心している。
朝比奈さんの私室で経済評論をしていると、執事さんが呼びに来てロード・スマイトがお戻りですと伝えに来た。朝比奈さんは正装に着替えるから先に行っててと言い、俺と長門は
「おお、修道士殿、それからミス・ナガティウス。ようこそ」
「マイロード、お幸せそうでなによりです」
「妻が相談に乗ってもらったそうだな。感謝したい」
相談というかまあ俺が自分で
「どこかへお出かけだったんですか」
「所用で王宮まで出かけたのだが、帰りにミス・スズミヤに出くわしてな。一緒に来たはずなのだが、」
俺の肩越しに、部屋のドアを伺う
「こら、邪魔すんな二等兵」
ドアの向こうで衛兵と
「新婚さーん、来てやったわよー、ってあれ、みくるちゃんいないの?」
「ようこそ我が城へ、ミス・スズミヤ」
マナーもリスペクトもないハルヒに笑いながら
「自分で食べる分くらい持ってきたわ」
待てそのイノシシは王領のものでしかも
「あら、涼宮さん来てたのね。いらっしゃい」
「むう! その声は!」
執事がレディシップの登場を報じる暇もなく、ハルヒはドアを開けて現れた朝比奈さんの顔を見るなりツカツカと近寄り、
「な、なにかしら」
嫌がる朝比奈さんのほっぺたを
「ペロリ。この味は……嘘をついている味だぜ。みくるちゃん、あなた、おめでたでしょ」
「ええっ、どうして分かったの!?」
お前の舌は
「ほんとうか!?マイレディ、ほ、ほんとに子供が出来たのか」
「はい。あの……えっと、そう……みたいです」
ハルヒの
「ご
「……おめでとう、お父さん」
どうやら知っていたらしい長門からお父さんと呼ばれて、伯爵も急に実感を得たようにデレた顔になっている。
「ありがとうありがとう。しかし、祝うにはまだ早いからな」
「みくるちゃん、いつ分かったの?」
「えーと月のモノが一ヶ月くらい遅れてて、おかしいな、変だなーって思ってたの」
「ってことは仕込みは二ヶ月前ね。フヒヒ、いい子をお産み」
そんな逆算して
朝比奈さん的にはなるべく誰にも言わないでねと
騎士さんたちも同席した晩飯にはハルヒが差し入れたイノシシの丸焼きがメインディッシュとして登場し、伯爵がナイフを入れるはずのところをハルヒ自ら
翌朝、二日酔いと寝不足で起きてこないハルヒを寝室に放置したまま朝飯を食っていると、玄関から来客の呼び声が聞こえた。
「いよーぅみくる、おめでたなんだって? おっと、これはこれはロード・スマイト、この度はまことにおめでとうにょろ」
どうやら速攻で伝わったらしく、気の早い鶴屋さんが果物の盛りカゴを下げてやってきた。誰が密告したのかしらと朝比奈さんが笑いながらこっちを見たが、俺はブンブンと顔を振って否定した。あなたここは壁に耳あり
「ありがとうシスター、私も今回が初めてなのでな。いろいろと世話になりたい」
「ってまだまだ喜ぶのは早いよっ。子供を産むってのは一世一代の事業だからね」
そりゃまあ二世代に渡って産むのは無理でしょうね、などとどうでもいい突っ込みは置いといて、俺はふとした疑問を朝比奈さんに投げかけた。
「ところで、この頃ってどこで出産するんですか」
「えーっとそうね、やっぱり病院じゃないかしら……?」
朝比奈さんは鶴屋さんに尋ねる視線をやった。
「あれれ、みくるったら、自宅のベットに決まってんじゃないのさ。
そうか、そうですよねあはは。それにまだ産婦人科とかないですもんね。
「農村でも自宅で出産するのかしら?」
「そだよ。でも
ですよねえ。この時代の神父はまだ独身のはずで、いや、そもそも素人の男が代理で
朝比奈さんは手のひらをポンと叩いた。
「ないんだったら、自分で作ればいいわ」
「なにをかい?」
「産院よ産院」
一瞬ハルヒが乗り移ったのかと
「マイロード、産院を作って
「あ、ああ私は構わんが」
伯爵は一瞬だけ目を上に向けてなにかを計算しているようで、ああ、また出費がかさむんだなあなどと俺は
突然モノを
それでも俺は金を集めるために、十字架を
そこでとうとう朝比奈さんを連れてグロースター大聖堂へねじ込み、産院と
薬と栄養剤は長門に頼み、大工ギルドで木製のベットを作ってもらって部屋に敷き詰めた。院長先生は鶴屋さんに頼み、二度返事でオッケイオッケイをもらった。まあ
産院の運営を鶴屋さんに頼んで、ぼちぼち回りだしたのを見届けてから俺達は村に帰った。その翌週から支払いをポンドとシリングの手形で払うというお触れが出て、村民の間ではその話でもちきりだった。マナーハウスではあれやこれやと、まだ見ぬ羊皮紙の切れっ
「なーにニヤニヤしてんのよキョン、気持ち悪いわね」
「い、いやんなんでもないさん」
「みくるちゃんも妙なことをはじめたわね。金に困って
お前もニヤニヤしてるじゃないか。そもそもハルヒが無茶な方法でかき集めた
ニヤニヤ顔が窓の方を向きピタリと止まって真顔に戻った。カポカポと遠くから固い
「ミス・スズミヤ、
「今さら改まってなに言ってんのよ。用があるならさっさと入りなさいよ」
伯爵はやけにしゃっちょこばているが、連れが一人もいないせいだろうか。朝比奈さんも古泉もついてきていない。俺と長門とメイドさんで領主様をお
「あー、オホン。皆、元気そうでなによりだ。今年の麦の育ち具合を
「まだ植えてないわよ」
「そ、そうだな。今年の豚の育ち具合を鑑みるに、」
「今頃ハムだわよ。さっさと本題に入りなさい」
「す、すまない。今日の用向きはだな、」
と一枚の巻物を取り出してテーブルの上に広げた。
「なにこれ。なんなの」
長門が手に取って目で追い、
「……土地の
「なん……ですと」
おいハルヒ、口が耳まで裂けてるぞ。
「受け取っていただけるかな、フフン」
いつもはクールな伯爵様がはじめて見せるドヤ顔である。
「それってあたしたちが暮らしてた王領の森じゃないの。よくそんなものが手に入ったわね」
「リチャード陛下にねじこんだ、いや、交渉したところ
「へー。とかなんとかカッコつけてるけど、みくるちゃんにそそのかされたんじゃないのアンタ」
図星らしく伯爵は急に
「その辺はえーと、きん、禁則事項だ」
なるほどね。朝比奈さんも味なことをするものだ。思えば、爺さんの
「二十ハイドっていうと、えーと九百六十ヘクタールね。これだけあればこの村の
「ミス・スズミヤ、ただし条件が二つあってな」
「なによ、税金なら相場以上は払わないわよ」
「そうではなくて、その土地はまだ森林だからこれから
「なーるほど」
このなるほどは俺が言った。
「どういうことなの」
「知っての通り城では今財政が厳しい。これからグロースターに手形の取引所を作るので、そこで現金化できる手形を支払いに使いたい。もちろんその手形はほかの取引に使ってくれても構わない」
「なるほどぅ、
ハルヒが取り出した赤い腕章には黒々とした文字で“金の亡者”と書き込まれてあった。
「まあ
「へー、
「領内の羊毛をフランスに輸出しようかとな。航路をアングレームまで伸ばして
「なるほどぅ」
このなるほども俺が言った。四月といえばそろそろ羊毛刈りの季節だ。規模はまだそれほどでもないが、
「ふーん。それアンタ一人で考えたんじゃないわよね。誰の入れ知恵か白状しなさい」
ハルヒはテーブルの上にどんと座りニヤニヤしながら伯爵のネクタイ、じゃなくてスカーフを引っ張っている。
「そ、それは禁、」
伯爵は俺と長門に向かって助けてくれという視線を投げている。
「へー、キョンと有希の入れ知恵なんだ。あんたたちよく考えたじゃないの。さすがはうちの団員だわ」
「いやいや、俺はなにも言ってないぞ。日本式に公共事業を勧めただけだ」
俺はブンブンと首を横に振った。おい長門、うなずいてないで一緒に否定してくれ。
「そういうことなので当面の木材の代金と現金を置いていく」
伯爵は羊皮紙の束とペニーとシリング硬貨が入っているらしい布袋をドンと置いた。
「へーえ、前払いとは気前がいいわね。うちは別にお金には困ってないわよ」
「これはあなたへの
伯爵は乱れたシャツのまま出ていこうとしたが、玄関ではたと立ち止まり、
「そうそう、妻から
図星だったらしくハルヒは口を大きく開いたままピシと固まって動かなかった。
よくよく考えれば森林
「関空よ! 関西空港が手に入ったわ!」
などと
脳内麻薬のドーピングと禁断症状で一晩中ハァハァとワナワナを繰り返していたハルヒは、待ちきれずに翌朝から村の
「仕事したくねー、だりー」
「同感です」
「あー、神人が発生しねーかなー」
「まったくですねー」
畑と森の境界線で
「神人が生まれるのは涼宮さんのイライラが頂点に達したときだけで、今のような満面の笑顔の状態で青い巨人を生み出せなどというのは、よほどのアンビバレンツか精神崩壊でも起こさないかぎり無理でしょう」
「まったく、いなくてもいいときに沸いて、来てほしいときにいないもんだな」
「まあまあ、今回は予算がついてるわけですから労働者の皆さんにお任せしましょう。しかし、よくあのようなアイデアが出ましたね。さすがは経済出身です」
経済修士
「俺が教えたのは金を二重に流通させることと、それをバラまくための事業をはじめろってことだけだがな」
「それでもたいしたものだと思います。ご指示通り、来週から市が開催されますよ」
「
「今回はプレオープン的な様子見ですね。まだ売り場面積も狭く小規模なものですから。当面は自由相場で非課税だそうです。もちろん店を出すための場所代は頂きますが」
「日本でも信長が似たようなことやってたよな」
「
「とりあえずは宿屋と酒場が
「それはそうと、ロードシップがあなたを城に
「ああ、こないだ断った礼拝堂の司祭の件か。しかしお前も朝比奈さんもいなくなっちまって、ハルヒを一人で置いておけんしなあ」
「もちろん涼宮さんにも来ていただきたいと」
「アレが伯爵とうまく折り合えると思うか。決闘までした相手だぞ」
「涼宮さんも大人ですし、その辺は割りきっていただけるんじゃないでしょうか」
「まあアレがアレを出したらお前自身が忙しくなるわけだけどな」
「それはまあ、出来る限りのことは僕も
などと言いつつ
「じゃあ長門と相談してみるかな」
「長門さんのことも、城の近くで店を開いたらどうだろうかとおっしゃってました」
そういえばドラッグストアの営業が最近
「……」
家に戻ってみると長門がテーブルに突っ伏していて、なんだかハルヒがなだめたり透かしたりしている。
「どうした長門、なにがあったんだ?」
「……来週のイベントに落ちた」
「落ちたって、
「……」
そんなコミケに落ちた同人作家みたいに
「薬を出す予定にしてたのか」
「……違う。朝比奈ミクルの冒険in中世のラテン語版、手書き
ラテン語ていったい誰が読むねん、などと突っ込もうとするとハルヒが、
「分かってないわね、有希にとってはこれが唯一の生き
そ、そうだったんですか。あの、なんかすいませんでした。
「そういえば朝比奈さんが主催らしいから、頼めばブースひとつくらいなんとかなるんじゃないか」
長門はガバと顔を上げ、
「……それなら、店を引っ越してもいい」
俺と古泉の会話をどこかで聞いてたらしい。突然ペンと羊皮紙を引っ張り出してきて朝比奈さん宛ての手紙を書いている。なんか長門が急にハッスルしてきたぞ。
「ああ、そのことなんだがな、ハルヒよ」
「いいんじゃないの? 二人で引っ越せば?」
即答かよ。そんな捨てられた猫みたいな目で俺を見ないでくれ。
「お前を一人にしとくのは心配だと関係者全員の意見が一致してるのだが」
「あたしを子供扱いすんな」
「嵐の夜にたった一人でこの家に寝てて、カタカタと鳴る窓ガラスに映る自分の姿が怖くて布団をかぶったまま朝まで過ごせるか?」
「そ、それは……ちょっと怖い」
「だからみんなと一緒に城で、」
「それは嫌よ。この土地はグランパから
「今じゃほとんど貸し出してるんだろ。人を雇ってミニ荘園みたいにして任せればいいじゃないか」
「そうだけど、あたしにはまだ面倒を見ないといけない貧乏
だよな。一緒に山賊までやった仲間を見捨てたりはできないよな。
ハルヒが
「じゃあその全員が十分に食える土地保有農になったら行くか?」
ハルヒは腕を組んで考え込んでいる。
「んー、まあ、そんときになったら考えるわ。今はまだ一ハイドも切り倒してないんだし」
まあ確かに、ハルヒが城で上げ
古泉は城勤めの騎士だが、一応は
長門は城の近くに空いていた店舗を借りてドラッグストア・ユキリンを新装開店することになった。大きめの荷馬車を借りて二人でロンドンまで行き、
ロンドンからグロースターに向かう途中でハルヒの家に寄り、長門の手荷物と衣装ケースを荷馬車に載せた。俺自身はというと修道院を出たときと変わらず、
俺はメイドさんとご近所さんにハルヒのことをよろしくと伝えて馬車に乗った。
「ほんとに来ないのか」
「何度も同じこと聞くな。行かないったら行かない」
ハルヒは朝から機嫌が悪く腕組みをしたまま眉毛をピクピクと動かしている。こういうときは逆らわないほうがいい。
「なんか欲しいものがあったら手紙をくれ。ああ、古泉がなるべく帰ってくるようにすると言ってたぞ」
ハルヒは返事をしなかった。長門に向かって、キョンの面倒をちゃんと見てねと言っていた。俺を子供扱いすんなっての。
俺は軽く敬礼をして馬にムチを入れた。荷馬車がゴロゴロと音を立てて門を離れ、長門は何度か小さく手を振った。段々と小さくなっていくハルヒはこっちをにらんだまま最後まで手を振らなかった。
俺が心配しているのは、ハルヒが一人で寂しいだろうとか強盗にでも押しこまれたどうすんだとか、そういうことではないのだ。俺たち五人には大きな課題が残されていて、いざというタイミングでハルヒがいないととっさの行動を起こせないかもしれないということなのだ。そのいざというタイミングは無論、未来への帰還であり、タイムトラベルである。どんな形になるにせよ、俺たちは二十一世紀に帰らなければならない。落雷エネルギーをタイムマシンに使った博士じゃないが、そのチャンスが一度きりしかないのだとしたら、ハルヒだけを置いて帰るという選択を迫られても俺にはできないんじゃないだろうか。
気になって荷台の上から一度だけふり返ると、ハルヒは腰に手を当てたまま、道の真中に陣取ってまだこっちを見ていた。もしかしたら遠い将来に、こいつが俺の手を離れるときはきっとこんな感じなのかもしれないな、などと妙に未来を予感させて引かれる後ろ髪だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます