第四部 朝比奈みくるの覚醒
二十二章
「ミス・アサヒナ」
伯爵はハッと我に返り朝比奈さんを離した。
「はい」
「言っておくべきだった。私にはすでに妻がいる」
ええっ、まさかそんな。
「申し訳ない。お気持ちは嬉しい。だがそれには
朝比奈さんは顔を真っ赤に染め両手で
「ご、ごめんなさいマイロード、やだやだ……とんでもない
突然ハルヒが部屋のカーテンを引きちぎる勢いのドタドタ足で走りだす。俺たち隠れてたのになにやってんだよオイ。
「ちょっとあんた、なんで今になってそういうこと言うのよ!!」
「え……ミス・スズミヤ? なぜここに? 皆さんも?」
窓枠の影からエライスンマヘン、ずっと見てましたぁという感じで三人ともテヘヘ笑いをしながら顔を出した。
朝比奈さんは顔を
「ヒドイわよ!!
などと泣き叫びながら朝比奈さんの後を追いかけていった。お前まで泣くこたぁないだろ。
伯爵は、いったいなんだったんだアレは、という顔を俺たちに向けた。さあなんなんでしょうねぇという感じに肩をすくめてブンブンと首を振るばかりの三人である。
白い月がぽっかりと浮かぶ涼しげなイングランドの晩、どこか遠くから、朝比奈さんとハルヒが一緒になってワンワン泣いている声が雄叫びのように響いていた。
俺たちは客室で、事後の相談というか、あの完全に二人だけの世界に入ってしまっている朝比奈さんとハルヒをどうやって片付けるかみたいな話し合いをしている。
「嘘をついていたわけではなくて、妻は別の城に住んでいる」
いやー、ほんとに
「マイロード、別居中って、家庭内離婚ですか」
家庭内離婚を英語でどう言えばいいのか分からんが。
「離婚というかなんというかまあ……」
歯切れの悪い伯爵が言うには、たまたま爵位を
「妻とは修道士殿も一度会ったことがあると思うのだが」
「そうでしたっけ?」
「舞踏会のときに、私と踊っていたところを見かけなかっただろうか」
舞踏会? そんな
「私と妻は形式上では結婚していることにはなっているが、子供を作ることはできないのだ」
「そうなると、跡取りはどうなさるんです?」
「まあそれもおいおい考えないといけないのだが、養子を取るとか、身近な親類に爵位を
伯爵は
朝比奈さんとハルヒは泣きわめきながら馬とともにさっさと帰ってしまったらしい。あの二人のことはまあ俺達がなんとかしますから、と心配する伯爵をなだめてお
翌朝、朝飯の時間になっても朝比奈さんは降りてこず、ハルヒは赤く腫れ上がった
古泉が薄いエールを
「まあ実際は、ロードシップが独身だったとしても結婚は難しいでしょうね」
「なんでだ。まさか朝比奈さんが伯爵の
「血縁の問題ではなくて、貴族の結婚というのは王様に決定権があるのですよ」
「自由恋愛じゃないのか」
「貴族同士の結婚は家と家の同盟を意味しますから、王様としては富と権力と兵力を一箇所に集中させたくないわけです。家としては相続によって財産が
そういえば日本にも身分がすべての時代があった。
晩飯になってようやく朝比奈さんが狼みたいになった髪の毛で起きてきた。顔はむくみ、
「皆さん、今回のことはごめんなさい。すべてわたしが悪いのです。奥さんのいる男性を誘惑しようなどと考えたので神様から罰をいただいたんだと思うの。散々ふり回して、遠いところまで連れ回して、迷惑をかけてごめんなさい。でも……本当に、本当に好きだったの……キョンくん、わたしの
最後のはもう涙声で聞き取れなかった。朝比奈さん、あなたは十分に
ハルヒは泣き
「よしよしいい子ね。みくるちゃん、あなたが悪いんじゃないわ。すべては伯爵が悪いのよ。こんな純粋な乙女に天罰を下したりしたらあたしが許さないからねキョン!」
俺に言うなよ。
いちおう、伯爵の身の上についてハルヒに説明してやったんだが、形式婚がなんだってのよ、だったら事実婚でもしなさいよと噛みつかれてしまった。
古泉は八つ当たりされないようにとっとと逃げ出して、ひさびさの休暇にもかかわらず馬でハルヒの土地を検分してまわった。ずっと俺が代理執事をやっていたので気にはなっていたのだろう。
翌日古泉宛に手紙が届いた。伯爵からだった。古泉が封を切り自分で読んでいる。
「朝比奈さんのことを心配なさっています。誤解を招くようなことをして申し訳ないと謝られています。それから……、これは一大事です。リチャード国王陛下が
俺はガバと飛び起きた。
「うちの王様が
「いえ、帰国途中でオーストリアのレオポルト公に身柄を
「レオポルトってたしか十字軍のときの友軍だろ。味方なのになんでだ?」
「詳しいことは分かりません。ことによるとイングランドは王様不在になってしまいます」
二階からハルヒがドアを
「古泉くん、これは事件だわあぁイタタ」
満面の笑みで人の不幸がメシウマな悪魔である。上で聞き耳立ててたのかよ。
「でも、陛下を
「これを
「また行くのかよ、こないだ騒ぎを起こしたばっかりだろが。少しほとぼりが冷めるのを待てって」
もう家畜小屋から馬を引っ張りだしてて、聞いちゃいねえし。パッパカパッパカと
「しょうがありませんね、僕が行ってきますよ。休暇の延長を申請してきます」
「ああ。なんだか知らんがよろしく頼む」
晩飯前には戻ってくるだろうと思っていたが、待てど暮らせど帰ってこない。それから数日、最近なんだか家の中が静かだなーと思いつつ、いったいなにが起こっているのか古泉が手紙で知らせてきたのが七日後、二人が帰ってきたのが二週間後のことだった。
なので、ここからは帰ってきた古泉に聞いた話である。
「ミス・スズミヤ、誤解があったことは確かだ。正直なところ私の気持ちも
なんだか伯爵も妙に
「そんなこたぁどうでもいいのよ」
「ミス・アサヒナの件で抗議に来たのではないのか」
「そんな
「ああ、そのことか。実はだな、あー、言いにくいんだが」
「なんなの、はっきり言いなさいよ」
「レオポルト公がかなりご立腹でいらしてな。ミス・スズミヤ、あなたにも関係しているらしい」
なんですと。ハルヒがまたなにかやらかしましたか。
忘れることがあろうか、ハルヒがイングランド軍をアッコンの要塞に引き入れた大手柄を。あのとき必死で旗を振っていたハルヒの後ろで俺が護衛をやっていたわけだが、伯爵が伝え聞いたところでは、ハルヒが地中海に蹴落とした兵士、つまり一人だけ味方の旗を持った兵士がいたのだが、あれが実はレオポルト公の騎士だったのだそうだ。それをうちらの王様が命じてやらせたのだと
あっちゃー。ハルヒも口あんぐりである。古泉も笑うに笑えず、
「マイロード、レオポルト閣下がアッコンから
「どうやらそうらしい」
「なんであたしのせいにしてんのよ。レオポルトは子供か!」
「まあ、戦場では
なんと、ハルヒが十字軍の連帯を引き
ハルヒは急に真顔になり、
「ところで、伯爵。ここだけの話だけど」
「なにかな」
ハルヒはもったいぶってオホンと咳払いをした。下から覗き込むようにキラキラ目のニヤニヤ顔を見せ、
「これをチャンスにする気はない?」
「チャンスと申されると?」
「チャンスといったらチャンスだわよ。王様不在なんでしょ、あんたの
「言葉に気をつけたまえ! それは
ハルヒはフフーンと
「誰も王様を無き者にしようなんて言ってないじゃないの。ただ利害の一致する貴族の誰かとつるんで、」
「それ以上言ってはならぬ。あなたを逮捕しなければならない」
伯爵は眉毛をキリリと上げてハルヒを
「なーんだ、存外お固いのね」
いや、固いとか
伯爵は腕を組んでハルヒを
「そういう
「まあ、そうかもねえ。もしかするとあたしが仕組んだ罠かもしれないしねフヒヒ」
意外にも伯爵に
「さて、すまないが私はこれから
「まあ待ちなさいよ。もうひとつ聞きたいことがあるのよ。あんた、今の奥さんと別れてみくるちゃんと結婚する気あんの?」
「たしかに妻とは政治的な理由で夫婦になっているが、ミス・スズミヤ。結婚の誓いで、死が二人を分かつまで、と言っている通りクリスチャンは離婚を認められていないんだよ」
「だから神さんが許してくれて、もしもできたら、って聞いてんのよ」
「まあ万に一つもそういうことが可能なら、ミス・アサヒナにプロポーズしていただろう」
ハルヒはこくりとうなずいて、
「よーし、分かった。その言葉を聞きたかったのよ。あたしに任せなさい」
「任せなさいって、いったいなにをだ?」
ハルヒはその質問には答えず、次に吐いたセリフは正直、心に
「ただし、みくるちゃんを泣かせたりしたらあたしが承知しないからね」
いったい何を
「コイズミ殿、ミス・スズミヤのあのパワーはいったいどこから来ているのだ」
「さあ、僕にもよくわからないところが多いのです。ミステリアスですよ、まったく」
ミステリアスだかヒステリアスだか知らんが、伯爵はハルヒがなにをしでかすか測りかねて不安にかられたらしく、古泉を監視役として追いかけさせた。
軍馬で城を飛び出したハルヒの足跡をたどって古泉が見つけ出したのは翌日、ドーバー海峡に面した港町でだった。
「涼宮さん、どこへ行かれるのですか」
「そうね、まずは
「陛下の
「まあまだ、どういう作戦でいくか分かんないから
ハルヒにお子様の
ハルヒと古泉は軍馬を連れたままフランスに渡り、ドイツから山を越え谷を超えてオーストリアに潜入した。これがまた天然の要塞というか、やつはとんでもないものを盗んでいきました的な山岳風景にある領地で、今みたいな
「情報を集めようにも中世ドイツ語が分かりませんが、どうしましょうか」
「せめてキョンを連れてくれば修道院に押し込んで修道士に
修道士を下っ端の工作員みたいに言うな。
首都ウィーンの修道院でフランス語が分かる修道士を雇い、町の酒場や宿屋で聞き込み調査をはじめた。王様が
宿屋を拠点にしてあちこちさぐってみるのだがいっこうにネタが上がってこない。
「おっかしいわね。イングランドの王様よ? 十字軍の英雄なのよ? それなのにリチャードの足の裏の匂いすらしてこないのはなぜなのよ」
「もしかしたらここにはいないのかもしれません」
警察犬並みの
「
「もしかしたら、自分が捕まえた人物にバチカンの後ろ盾があると知って怖くなったのかもしれませんよ」
ニヒルに笑ってみせる古泉である。まあレオポルト公は神聖ローマの関係者つっても地方の殿様だからな。
ある晩に宿屋の寝床で、そろそろ
「古泉くん、逃げるわよ!」
「なにごとですか」
階下でなにやら騒がしく話し声が聞こえる。階段の影からこっそり覗いてみると兵士が十名ほど宿屋の主人と言い争っているようだ。追手を察した古泉は窓を開け、先にハルヒを屋根へと登らせた。持つものも持たず屋根から屋根へと伝い、二人は闇夜に姿をくらました。どうやら宮殿の周辺をこそこそと
古泉は騎士の衣装を捨て、農民が着るようなシャツ一枚とズボン、そして
修道院へ行くとお役人が来ていろいろ取り調べを受けてえらいことになったと言われ、通訳の協力は
宿屋に馬を置いてきてしまったので移動手段がなくなってしまい、しょうがないレオポルト公に払ってもらうか、と、城の兵士がよく出入りしている酒場に軍馬が
それはいいとして、このあたりはハンガリーとの国境になっていて、守りの
ウィーンの宮殿から二日かけて、ドナウ川を左手に見つつ
「なんかボロっちい城ねえ。ただの見張り塔じゃん。あんなんだったら一個小隊
「ですね。パスしますか」
「わざと無防備を
農民のふりをして林道を歩き城の周りをぐるりと回ってみた。真ん中に塔があり、てっぺんに見張りらしき兵士が立っている。まわりの城壁は結構な高さだ。
「いるかどうか呼んでみるわ。リチャームググ! いるんだったらムググ!」
古泉が慌ててハルヒの口をふさいだ。
「ここではだめですよ。番兵が見てますって」
さっきまでは眠そうだった二人の門番が急にシャキッと立ち上がり、じろりと
「あたしがちょっとイギリスの歌を歌ってみるわ」
「歌うって、ここでですか?」
「一二の三はい、まぁるかいてちくび~まぁるかいてちくび~」
ハルヒは世界が知っているイギリスの
「ほらほら、当たりじゃん」
ニヤニヤ顔のハルヒである。まじっすか、まじで一発で当たったんですか。いやはや、ハルヒと出会って早十年だが、ここまで自分に都合のいい展開を
二人はここで一旦山を降り、馬でウィーンまで駆け戻った。そこで潜入七つ道具を調達してまた戻ってくる。やれやれご苦労なこった。
ニンジャ並みの
塔のドアは夜になると錠がかかるらしく固くて開かず、裏に勝手口がないかと探してみたがそれも閉まっていた。出窓にカギロープを引っ掛けて壁をよじ登り、中の様子をうかがった。誰もいない。この城にはメイドさんくらいしかいないのではなかろうか。部屋の中に入り込み、廊下のロウソクを消しながら階段を登る。階段のてっぺんからこっそり頭を覗かせると、廊下で二人の衛兵が椅子に座っており、
「あれ、かしらね」
「鍵がかかっていますね」
「ピッキングするにしてもあいつらが邪魔ね。陽動するか、眠らせるか、どうする?」
「別のルートを探しましょう。ここで騒ぎを起こすと陛下をどこかへ移動させてしまうかもしれません」
二人は階段を降りてひとつずつ部屋を見ていった。さっきの鍵のかかった部屋の下あたりに見当をつけて窓から顔を出してみた。首を回して見ると上に小窓が空いており、伝って登ればなんとか届きそうである。古泉が窓を狙ってロープを投げようとすると、
「キ、キミたちは誰なの、もしかしてアサシン?」
背後から突然声をかけられて心臓が飛び出るほど驚いた二人である。古泉が腰から短剣を抜いた。ハルヒが吹き矢を取り出した。そんな装備持ってきてたんだ。
「静かにしなさい! 声を立てたら命ないわよ!」
「ま、待ってよ、ボクはここに幽閉されている身の上なんだ」
「え、あんたがリチャードなの?」
「そうだけどなにか?っていうかここはボクの寝室だからね。暗殺じゃないなら出てってくれない? 今から眠るから」
一人称がボクなのは会話を聞いて超イライラしている俺の勝手な妄想だが、けして少年を想像してはいけない。
見回してみると
「あんた
「ああ、そうだよ。このとおり
監禁って鉄格子のはまった石壁の小部屋に閉じ込められてる状態を言うのではないだろうか。
「なーんだ、案外元気じゃないの。
おいおい中世ホラーみたいなシーンを妄想させるな。
古泉は床に
「非礼をお
などと
「うわあああジャンが差し向けたアサシンだったのか」
「落ち着きなさいよ、あんたの味方よ」
「ああそうなの。こないだ城の外で歌ってたのはキミタチか。
ハルヒの名声、いや
「そうよ。わざわざ会いに来てやったんだから感謝しなさいよね」
「キミのせいだよ、レオポルトがあんなに怒ったのは」
「情けないわね、戦場にまで
「まあ、それはしょうがないけどね。キミのおかげでアッコンを落とせたんだからチャラってことで」
「フンフンそうでしょうそうでしょう、国を代表しての勲章モノよ。なんなら今ここで
「それより裁判の件はひどかったなあ」
さすが王様、勲章の話は完全にスルーである。
「な、なんのことかしらねぇ」
「うちの長官をそそのかして国王裁判を起こしたうえ、農民の身分でジャンに決闘を申し込んだというじゃないか。森林の所有権がボクのものになるかと思いきや、結局なんの得にもならなかったし」
「訴訟費用と取り下げの罰金を払ったんだから問題ないでしょ。あんたは眉毛一つ動かさずに
はい、それは伯爵が払った。
「ところで、スズミヤと、そっちは誰だっけ」
「イツキ・オブ・コイズミと申します。陛下」
「スズミヤとコイズミね、分かったよ。どうでもいいけどスズミヤって発音しづらいんだよね。スーザンでいいよね」
「勝手にあだ名で呼ぶな! だいたいスーザンって名前でしょうが、スズミヤはファミリーネームだわよ」
リチャード陛下、ハルヒにあだ名をつけたのは人類史上あなたくらいなものです。
「それでスーザンにコイズミ、何の用でここに?」
「あんたをイングランドに連れて帰るためよリッチー」
初対面で王様を短縮して呼んだお前もたぶん英国史上初だと思うよ。
「それはありがたいんだけどね、ボクはここから出ることはできないと思うよスーザン」
「なんでよ、城の警護ガラ空きじゃんリッチー」
「いや、ボクの
なるほど、そういうわけでこんなゆるい状態で監禁されてるわけか。
「じゃあどうすんのよ、こんなワンルームでずっと暮らすつもりなの」
「伝統に従って
「
「十五万マルク」
ええっと、それっていくらだっけ、と古泉に尋ねてみると、
「一マルクは百六十ペンス、十三シリング四ペンス、日本円で約四十八万円です。
「ふっかけすぎでしょ! いったいあんたのどこにそんな値打ちがあるってのよ」
「ボクもそう言ったんだけどさあ。
我らが王様は太いゲジゲジ眉毛をハの字にして困ったなぁ困ったなぁ、と、あんまり困ってなさそうにつぶやいた。
ハルヒは当の目的を思い出したらしく、腕組みをしてフフンと笑い、
「じゃああたしがその金払ってやるわ」
「ほんとかい? キミどこの国の女王様なの」
「金を持ってるのが貴族だけだと思ったら大間違いよ、リッチー」
「そう。ありがとう、スー。恩に着るよ」
とうとうスーにまでされちまったぞハルヒ。
「どういたしましてリー」
「…………」
「……なんとか言いなさいよ」
「いや、だからありがとうって。恩に着るって」
「チッガーウ、違うでしょ。こういうときは、フッフッフお
王様は急に泣きそうな表情になり、
「ええっ、ふっかける気でしょ? 十字軍で使っちゃってボクもう一ペニーも持ってないったら」
「簡単なことよ。ミクル・オブ・アサヒナに
突然なにを言い出すんですか涼宮さんと古泉が制止しようとしたのだが、すでに遅く、
「あー、なんだそんなことか。たしかフランスの伯領の
「は、伯爵の権利をくれるの!?すっごいじゃん二階級特進どころじゃないわそれ」
い、いや男爵が昇進しても伯爵になるわけじゃないからなハルヒよ。
「まあ周りの貴族たちには金をやって黙らせればなんとかなると思うよ。その金はもちろんキミタチが出すんだけどね。あ、それから相続税も」
「そう、まあそれでいいわ」
王様はたるんだパジャマを引き上げながらベットに
「じゃあこれで、おやすみ。朗報を待ってるよ」
「待ちなさいよ、それだけじゃないわよ」
「まだあるの? キミも欲張りだねえ」
「あったりまえでしょ、簡単に十五万マルクが出せると持ってんの?」
「それでなんなの」
「ジャンの離婚を認めなさい」
「あははは、そりゃーボクには無理だよ。神様でもないと」
「じゃあ神様に掛けあってみなさいよ」
「ローマ教皇に頼めっていうの?」
「あんたの株はバチカンじゃけっこうな高値なんでしょ、知ってんだから」
「うん。まあ今回、十字軍勝利の足がかりを作ったのはボクだからね。今なら何でもおねだりできると思うけど」
「それと、伯爵とミクル・オブ・アサヒナの
「分かったよ、勝手に結婚でもなんでもすればあ。じゃね、ボクは寝付きが悪いんだから、邪魔しないでくれる?」
ハルヒは細い眉毛をピクピクと動かし、
「あーもうイライラするわこのヘタレたオッサン。ちゃんと最後まで聞きなさいよ、サラハディーンとはまめに交渉してたくせにぃ」
「ギク。どうして知ってるのそれ……。で、なにがほしいの?」
「最後の一つ、伯爵を次の王様に指名しなさい」
何を言ってるんだこいつは、
当の王様はハルヒの狙いが分かっていないらしく、
「エエェ、それはすごく嫌なんだけど。だってジャンのやつボクの命を狙ってるって噂じゃん」
「それはフィリップが仕組んだ陰謀に決まってんでしょうが。あんたも頭を働かせないさいよね、そんなことも読めないんじゃ臣下が逃げ出すわよ」
いえ、どう見ても涼宮ハルヒの陰謀です。はい。
「分かったよ。ボクが
「いいわ。あ、ちょっと記念にツーショット一枚撮らせなさい」
王様はすでに寝息を立てていて、そのあまりの無防備さに、こいつはほんとにイングランドの国王なのだろうか、もしかしたら
まあとりあえず目的は達したので部屋を出ようとすると、
「ああ、そうだスー」
「なによ、眠ってたんじゃないの」
「これを持っていきなよ」
王様はムクリと起き上がり、枕の下から金色に輝く一本の短剣を取り出した。浮き彫りが
「陛下、それは王家に伝わる財宝の一つでは」
「王領の森でこれを見つけたのはキミタチだったよね。長官が
「よろしいのですか」
「これを持ってボクのママのところへ行けばいいよ。お金をかき集めるの手伝ってくれると思うんだ」
武器があるんだったらこんなところさっさと脱出しろよと言いたいところだが、古泉はうやうやしく
「陛下、貴重なお品をお預かりいたします」
「リッチー、これだけ持っていっても盗んだと思われるわ。あんたのママ宛に一筆書きなさい」
ママってね。リッチーのおっかさんはアリエノール・ダキテーヌといってそりゃもう
「あそう、じゃあなにか書くもの……その辺に書くものない?」
ハルヒがポケットからペンとくしゃくしゃになったハンカチみたいなメモ羊皮紙を取り出した。王様はボールペンをランプの光に照らしてまじまじと
「これはなに?」
「なにってただのボールペンよ」
「どういう仕組でインクが無限に出てくるのこれ。魔法なの?」
「魔法なわけないでしょ。中に妖精さんが住んでて墨を溶いてるに決まってんでしょうが」
いえ、それこそ魔法というやつです。
王様はフランス語でしたためた母上への手紙をハルヒに
「それよりコイズミ、キミはなかなかのイケメンだね。どうかな、ボクの家臣にならない? 男爵にしてあげられるよ」
「ちょっとぉ、だめよあたしの古泉くんを勝手に
古泉は、ありがたきお言葉まことに
まあ無事だと分かったのでそのままイングランドへと取って返すことにした。
「あんなのに十五万マルクも出すなんて、ほんとに意味あんのかしら」
「まあ、あんなのでも英雄ですからね」
国王に向かってあんなのとはなんだ古泉、誰かに聞かれてたら
「リチャードの母ちゃんって金持ちなの?」
「領地はかなりお持ちのようですが、現金となるとどうでしょうね。リチャード陛下は軍資金を集めるためにありとあらゆる不動産と爵位を売り、さらに借金までしたという話ですから。
「困ったわね。土地とか権利とかならまだしも現金よ現金。レオポルトもハインリヒもいったい何考えてんのかしら」
だいたいイギリスが金持ち国家になったのって大航海時代以降の話で、世界中に植民地ができてからなんだよな。
「というわけであんたたち、金を集めなさい」
なにがというわけなのだ。俺たちはマフィアか、ヤーさんの組織かなにかか。まったく
「つーか、七百二十億円もの金が現実に、つまり物理的に存在するのか?」
「ないんだったら、自分で作ればいいのよ」
錬金術か、錬金術をやれというのかお前は。そうなると長門の出番だな。俺がチラと長門に視線をやると、
「……推奨はしない。ヨーロッパ全体でインフレを起こす可能性が高い」
まあ、そうだよな。マルクってのはいわば国際通貨みたいなもんで、領主とか国同士の取引でも使われてるからな。
「この国にだって通貨発行権はあるでしょ。金鉱持ってないんだっけ?」
「……イギリスが金の産地を所有するのは、十九世紀のトランスヴァール鉱山、オーストラリアのヴィクトリア鉱山」
やっぱ植民地か。そういやボーア戦争って金鉱の取り合いが
「銀山はないのか?」
「……ない。オーストリアにならクッテンベルク鉱山がある」
あいつら金の成る木を持ってんのにまだ欲しがってんのかよ。
「どうすんだハルヒ、王様は十字軍で金使い果たしてるっていうし」
「どっか掘ってみたら金鉱が出てこないかしらね……」
そんな簡単に見つかるんだったらどこでもゴールドラッシュに
「おい待て、イングランドにはたしか炭鉱があるよな」
「石炭で十五万マルク分掘れってか。いったい何十年かかるのよ」
「イングランドの炭鉱ってやつは寿命が長くて、俺たちの時代まで続いてるはずだ。少なくとも俺が子供の頃に労働争議のニュースがあったのを覚えてる」
「だからなんなの」
「それを
国が発行する債権ってのは便利なもんで、国が存続するという保証だけで金を集めることができるんだなあこれが。あの日露戦争のときの借金だって、最近になるまで日本政府が払い続けてたんだぜ。
全員がなるほど、という顔をした。
「そんなんでホントに十五万マルク集まんの?」
「全額は無理かもしれんが、半分でも集まれば交渉できるだろ」
「なーるほど」
「まあどう転ぶかはやってみないと分からんけどな」
「それはいいんだけど、なーんか引っかかるのよね」
「引っかかるってなにがだ」
「なんていうか、あたしの左脳と右脳が意見の一致をみないというか」
ハルヒは両手の人差し指で自分の頭をグリグリと突いている。あー、お前が人の意見を聞かない原因がやっと分かった。脳みそがそれぞれ違うこと言ってるから俺の話なんか聞いてられんってわけだ。
「それよりだなあ、ちゃんとウエストミンスター宮殿にコンセンサスを通して、」
「分かったわキョン! その契約の
また良からぬことを考えてるだろその目は。
「どういうこった」
「なんらかの事情で領主が変わっても領地がその
「ポイズンピルか。ヌシも悪よのう」
「いえいえお代官様ほどではグヘヘ、ジュル」
ヨダレ垂れてっぞ。
ポイズンピルってのは、会社が買収されたときに不利になるように仕込んでおく罠みたいなルールなんだが、要するに領地を攻め取るんだったら借金の払いまで一緒にお願いね、というヘビに
言い出しっぺの法則で俺がやることになったわけだが、さてこのなんの
ハルヒは金の
まあこれが要因で、なんでもかんでも債券にして金融にべったり依存する国になっちまうわけだが。今の金融の始まりはもともと
俺と長門はロンドンの王室
その後、銀行家が王室に出向いて直接契約を交わし、それでなんとか十万マルク強の金を用意することができたわけだが、残りは代わりの人質を貴族の中から差し出すからということで折り合いがついたようだ。アキテーヌ
銀の
「なーんだ、やればできるじゃないの」
いや、俺が借りたんじゃなくてイングランド王室の信用で銀行屋が貸してくれたんだよ。国民はこの先
それからしばらくして王宮から朝比奈さん宛に手紙が届いた。てっきりズルズルと引き伸ばされるかと思っていたが存外早かったな。
「ええぇ!?わたしがですか? 貴族になるんですか? わたしが?」
中世フランス語の、しかも法廷用語で書いてある難解な文面を何度も目で追いつつ、羊皮紙を握りしめ、髪の毛が逆立つほど驚いたらしい朝比奈さんだったが、
「おいハルヒ、言ってなかったのかよ」
「あら、あたしとしたことが忘れてたわキシシ」
わざとだな。わざとサプライズしただろ。
「えーと、つまりですね朝比奈さん。王様と交渉したところ、フランスに
朝比奈さんの口が半月の形に広がり目が点になった。
「喜びなさいみくるちゃん、あなたはいよいよカウンテスよカウンテス」
「ということはわたしが伯爵夫人?」
「ちがうのよ、あなたが伯爵なの。女の継承者なの」
ほーう、なるほどそういうことか。しかしよく認めたもんだな王様も。女性の爵位継承は少ないが、ままいるらしい。
朝比奈さんはまだ信じられないといった風で、
「その領地の収入はわたしのものなの?」
「そうですよ朝比奈さん。でも王様を
「そっかぁ。がんばんなくちゃ」
両手でグーを握ってちいさくガッツポーズを決める朝比奈さんだ。あー、でも十八世紀にはフランスの爵位はなくなっちゃうんですよねー。処刑されないように気をつけてくださいね。
知り合いが
「さあさあ、こっちは金を出したんだから、約束を果たしなさいよね」
あのなハルヒ、王様の前ではしゃべれと言われてからはじめてしゃべるもんなんだよ。
王様は気にした様子もなく、
「やあやあ、ご苦労。この度はいろいろと世話になったね。うちのママも礼を言っていたよ。執事にも言われたんだけど、今回の
「なによ、今になって
王様の
「そうじゃなくて、伯領を
「へえ、なんで?」
「いきなり王室の血縁ですなんてこと言ったら周りの貴族に疑われるに決まってるから、既成事実になって誰からも文句つけられなくなるまで、なるべく目立たないようにしてくれってことなの。領地の管理はうちの執事を行かせとくから」
「なるほどね。まあ、しゃあないわ。歴史の教科書に載るまでは黙っといてあげるわ。ところで、神様の方はどうなの?」
「ああ、なんとかなるんじゃないかな。血縁にこじつけて
やれやれ、
朝比奈さんが一歩前に出てスカートをちまっと握ってお
「や、やあ。キミがアサヒナかい。噂には聞いてるよ、ジャンが見初めたのも分かるねえ。男でも女でもボクは美しいものが好きだな」
「ニヤニヤした目で見てんじゃないの、この変態オヤジが」
「
「じゃあ、キミの名前は今日からレディ・イザベル・オブ・アングレームだからね」
朝比奈さんは王様の前で
「
「おめでとう、レディ・アングレーム」
ささやかだったが部屋の中にいる従者たちから拍手が
それからしばらくしたある日の午後、天高く秋空の雲が薄く流れる頃。俺が自宅の執事室で今年の収穫量を計算していると、家の前をカポカポと馬が通りすぎ、また戻ってきて通り過ぎ、さらに戻ってきて、どうやら誰かがうろうろと往復しているなと気がついて机の上に
「ミス・スズミヤとその家族の皆さん。よい午後で」
伯爵が古泉を連れてやってきた。
「伯爵じゃないの、わざわざ出向くなんて珍しいわね」
「リチャード陛下の件ではいろいろと手を尽くしていただいたとのこと、お礼を申し上げたい」
「ああ、いいのよそんなこと」
いいのよと言いつつニヤニヤで顔が
「しかしよく十五万マルクもの大金を集めたものだな。炭鉱収益を
ハルヒは自分のこめかみをツンツンと突きながら、
「ちょっと小知恵を働かせただけよ、ニヒヒ」
それは俺がやりました。
「今後なにか事業をやるときはミス・スズミヤにお願いしたいものだ」
「まあね、銀行にちょっと営業をかけただけよ。起業家は自分の
はい、それも俺がやった。
「ところで、ミス・アサヒナは今日はいらっしゃらないのか。あれ以来お会いしていないのでごあいさつ申し上げたかったのだが」
「裏庭で家畜の番でもしてるんじゃない?」
伯爵は玄関を出て裏に回ろうとした。ここで
「涼宮さん、だめですよ」
ドアの前に古泉が首を横にふりふり陣取っている。
「な、なによ。あたしは外の様子を見に行こうかなーって、」
「だめです。お二人のプライバシーです」
珍しく古泉が
「ミス・アサヒナ。お久しぶりです」
「マイロード……」
ニワトリと
「晴れてよかった。そろそろ雨が降り始めるのではないかと思っていたのですよ」
天気などは気にする様子はなく、朝比奈さんはスカートの汚れが気になっているのかギャザーを寄せたり
「マ、マイロード、あ、あの、よろしかったら家の中でワインでもお出しします」
「いえ、よろしければ少しここでお話したいのだが」
「は、はい」
伯爵は朝比奈さんの腕に下がっていたカゴを受け取り、ニワトリに
なかなか本題に入らないので朝比奈さんがあのー、と口を開こうとすると、
「ミス・アサヒナ、あなたと出会ってからそろそろ一年になりますね。時の流れるのは早いものだ。最初は法廷だった。あのときのあなたは輝いていた。
「え、ええ。あのときはうちにいらした騎士さんと争ってるつもりで、その……」
「いえ、いいのですよ。あのときはどちらにも戦う理由と守るべきものがあった」
「あなたのことはまったく……存じあげなくて」
「そして二度目は決闘場だった」
あのときの素っ裸説教を思い出したらしく二人ともポッと顔を染めている。
「ごご、ごめんなさい。涼宮さんが死んだものとばかりに、つい我を忘れて」
「いえいえ。私の正義のためにお
「マイロード、まったく失礼なことを申し上げました」
朝比奈さんはもう真っ赤で両手で顔を
「それからアッコンの
そこで伯爵は朝比奈さんの前で
「
一枚の丸まった羊皮紙を
「マイロード、まさか……離婚なさったの?」
「教皇
「まさかわたしのためにですか?」
── そうです、ミス・アサヒナ。いえ、レディ・イザベル・オブ・アングレーム。私は目が覚めました。あなたと出会ってから天も地も、流れる雲も、この領地を照らし麦を育む太陽も、すべてが意味あるものに変わりました。それはあなたの足がしっかりとこの地を踏んでいると知っているからです。私にとっても、この領地とっても、あなたが必要です。あなたのいない人生は私の心の半分がないのと同じだ。妻となって共に人生を過ごし、共にこの領地を治め、一緒に領民を
とあるイギリスの片田舎、暖かな
なんとも
「マイレディ。ニワトリと、子豚と、そして神の
そこから先は聞こえなかった。
「あーもう、豚共がうるさい」
「お前のほうがうるさいわ。窓を独り占めしすぎだ」
小さな窓の面積を
「もーう、いいとこだったのにぃ」
ロマンスを子豚に邪魔されてハルヒはブーブーと鼻を鳴らしているが、
「ハルヒが望むような完璧さじゃなくても、これはこれでありなんじゃないかな」
長門と古泉に同意を求めてみると二人ともウンウンとうなずいている。長門が言っていたように、身も震えるような熱い言葉や
窓から朝比奈さんの様子をうかがうと、子豚をハムになりそうな勢いでギュウと抱きしめて、軽やかにダンスを踊っていた。
「ミス・スズミヤ、みなさん。お知らせしたいことがあります」
「ヒッヒッヒ、見てたわよ」
玄関から入ってきた伯爵は冷やかすような表情のハルヒと
「そ、そうでしたか。今しがたレディ・アサヒナと婚約いたしました。この度の皆様のご
「もうミクルちゃんと呼んであげなさいね」
英語でミクルちゃんってどう呼べばいいんだ。マイハニー・ミクルとかスウィーティ・ミクルとでもいうんだろか。
今後の日取りについてはまたいずれお知らせしたいとのことで、忙しい身の上の伯爵は馬に飛び乗り、従者古泉のことなど忘れてさっさと帰っていった。小さくなっていく
「みくるちゃん、おめでと」
俺達はニヤニヤをおさえつつ庭に並んで、子豚と結婚してしまいそうな朝比奈さんに声をかけた。俺達に気づくとエヘヘと照れ笑いをし、心ここにあらずというか、なんだか信じられない高価な宝を手にしたような、もうこのまま昇天しても
「あ、ありがとう。全部みんなのおかげです」
「いえいえ、朝比奈さんがすべてを
「いろいろ空回りしてふり回して地の果てまで連れ回したりしてごめんなさい。でももう一度同じことをやれと言われても無理だわ」
俺達も
朝比奈さんはぼんやりとそのまま家の中へ入って二階へ上がり、ハルヒが晩ごはんよと呼んでも降りてこなかった。嬉しさのあまり心臓発作でも起こしたんじゃないかと心配して寝室を覗いたが、よほど疲れたのか安心したのか、ハムを抱きしめ
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