二十一章

 イギリス南部の港町ドーバーからロンドンまで馬車を雇い、長門の店で一泊した。地下室のなんとかドアは何事もなかったかのように同じ場所に鎮座ちんざしており、ここを出たときの様子のままだった。谷口のおっかさんには、あいつは立派な兵士として手柄を立てるまでは帰ってこないって言っていましたと伝えておいたが、存外満足そうな様子だった。

 そこから鶴屋さんの馬車でグロースターまで進み、イギリスの土を踏んでから五日後、この家を出てから三ヶ月のすえにやっと帰ってきた。鶴屋さんを除く女三人は完全にグロッキーで精神的にもボロ雑巾ぞうきんみたいになっちまったらしく、家に着くなり速攻で寝室のベットに倒れこんだ。俺も気分的には倒れこみたかったのだが、鶴屋さんを無事送り届けるために馬車の後ろに馬を一頭引いて修道院まで往復した。

「ほんじゃー、気をつけてね」

「いろいろありがとうございました。いつでも遊びにいらしてください」

「おうっす、ミクルのこと、よろしく頼むよっ」

この人ほんとにそっくりさんなんだろうか。未来に連れて帰ったりしたらいったいどうなるんだろう。


 帰ってきて早々だが、痛む全身を引きずり引きずり小麦の収穫である。ほんとは一週間ぐらいは寝ていたかったんだがな。

 ハルヒの農業改革のせいで、同じ区画に植えている農民たちは俺達が帰ってくるのをずっと待っていた。ややイライラ気味だったが、雇い人の昼飯代を全額うちが払うという約束でなだめることができた。三ヶ月間溜まっていたメイドさんの給料もあわせて、また出費がかさむ。


 季節は十月に入り、ようやく一息入れることができたある日の朝、家の前を馬車が通りがかり、ハルヒがドタ足で玄関を駆け込んできた。

「涼宮さん、朗報よ!」

すまん、ハルヒじゃなくて朝比奈さんだった。最近よく見まちがえるんだわ。

「なになにみくるちゃん」

「ロードシップがご帰還なさったって」

「へー、思ったより早かったじゃないの」

「ただし、ご自分はまだフランスで待機していることになっているから、ご内密に、ですって」

王様に内緒でバックレてきたのか。

「で、古泉くんは?」

「えーっと、古泉くんは……何も書いてないわ」

「ここにいますよ」

玄関口によりかかり、帽子を斜めに被って貴公子風にかっこつけている古泉がニヒルに笑っていた。ちょっと見ないうちにやたら日焼けして腕とか筋肉質になっていて、なんか一回りほどたくましくなったぞオイ。

「古泉くん、無事だったのね。おかえりなさい」

「皆様、長らくのご無沙汰ぶさたです。古泉一樹ただいま戻りました。とはいってもいつまた出陣命令が出るか分かりませんが」

「ってことは、あと残ってるのはうちの王様の軍だけってことか」

「そういうことになります」

がんばってんなぁ、外交と戦争にはけてたらしいからな。内政はだめだったらしいが。

「戦況はどうなんだ?」

「僕達が戦ったのはヤッフォの港の陥落かんらくまでです。アルスーフの戦いではリチャード陛下とサラハディーン陛下の見えない駆け引きがあり、双方とも実に見事な作戦展開でした」

アルスーフとヤッフォは港町アッコンから百二十キロくらい南、俺達の時代でいうところのテルアビブにある。

 朝比奈さんが言っていたとおりになったな。チラと朝比奈さんを見ると目をそらしている。

「ご苦労だったな。しばらくは休暇なのか」

「三日ほどお暇を頂きました。そうそう、今週末に皆さんをディナーに招待するよう言付ことづかりました」

それを聞いてハルヒはグッとこぶしを握りしめ、

「いよいよ決戦ね。みくるちゃん、あたしたちも本陣に切り込むわよ」

「ほ、本陣って、いったいなにをすればいいの」

「決まってんじゃないの、ジュッテームよ、ラブミーテンダーよ、テォアーモよ、アンタスッキャネンよ」

最後のだけ微妙に局地的だぞ。

 最初のやつだけで意味を把握はあくしたらしい朝比奈さんは急に動悸どうきが激しくなってきたようで、胸に手を当ててハァハァと息をついている。大丈夫ですか、持病のセンキですか。

「ちょっとお水いただけるかしら」

「しょうがないわねぇ、そんなんじゃ手を握られただけで鼻血吹いてしまうわよ」

告白シーンで突然鼻血が出たりしたら、子孫七代に渡るまで語り継がれる黒歴史になることは間違いない。

 ハルヒは何を思ったか玄関を出て倉庫に入り、ゴソゴソとなにかを引っ張り出してきて、

「いいみくるちゃん? 告白のシーンで粗相そそうをしたりしたら今までの苦労が全て水の泡だわ。人生で最も大切な瞬間のために十分な予行演習をするわよ」

「ななな、なにをなさるんですか」

ハルヒが小脇に抱えてきたのは騎士のフルフェイスのカブトである。やおらそれを被って、

「アダジボ、ハグザグダドオボッデ、ジュージダザイ」

翻訳ナノマシンがエラー起こしてますがオンドゥル語ですか。

「え? アダージョ、なに?」

フロントのフタをぱかと開けて、

「だから、あたしを、伯爵だと思ってチューしなさいって言ってんの」

「おいハルヒ、そりゃギャグか、ギャグで言ってんのか」

「何いってんの真剣だわよ。練習もなしにぶっつけ本番でうまくいくとか思ってんの?むかーし一度だけキスしたことあるけどね、あンときのは最悪だったわ。唇はカサカサ、歯は磨いてないし、顔を寄せすぎて前歯同士でガッツンガッツンぶつかるしね!」

む、ムグググ。それを思い出させるな悶絶もんぜつ死する。

「で、でも涼宮さん、いくらなんでもファーストキスが鉄カブトだなんて……」

ファーストキスつったか今、その歳でファースキスつったぞ今。あ、サーセンしたグーで殴らないでください。

「しょーがないわね。やっぱりアレが必要のようね」

ハルヒは羊皮紙に昭和アニメの主人公みたいな絵を描いてペタとカブトに貼り付けた。

「いや、あの、あんまり似てないような……」

贅沢ぜいたく言わないの! どんなイケメンだって十年もしたらくずれてくるんだから。心眼しんがんを持って伯爵の顔を妄想しなさい」

「は、はい。じゃあ、ミクル行きまーす」

今からモビルスーツにでも搭乗するんですかあなたはゲフンゲフン。さっきから笑いをこらえきれないで咳払いを繰り返している古泉と長門と俺である。

 朝比奈さんは通常の三倍ほど目をかっと見開いたままハルヒの両肩に手を置き、紙に描かれたヘタクソな伯爵の顔の、どうやら唇らしきあたりに自分の口を押し付けた。

「あー、だめだめ、まず愛してますからはじめるの」

「そ、そう。じゃあもう一度。わたしの伯爵様……愛してます、ちゅ」

「いまいちねえ。フランス語のほうがかわいいわ」

「ジュ、ジュッテーム、ドゥトゥモンクール、ちゅ」

「そうそう。んで、二度目は首をかしげて、唇が斜めに交わるように」

朝比奈さんは尋ね事をするときの長門の首の角度で、

「こ、この角度かしら」

「そうね。そこで伯爵の手が背中に回ったら自分の手をゆるめて、少し倒れ気味に体を預けてもいいわ」

「ジュヌプ、パヴィーヴル、ソントヮ。んー、ちゅ」

朝比奈さんの口のまわりがインクで真っ黒になっている。もうだめだ、そこで我慢できずに三人とも一気に吹き出した。バンバンとテーブルを叩いている。

「こらぁ、まじめにやってのになんで笑うのよ。部屋から追い出すわよ」

「ス、スマン。あんまり深刻すぎて緊張の糸が切れちまって」

「こっちは暑苦しいカブト被ってやってんだから」

それ別にカブトいらんだろ。


 黒ひげ危機一髪バージョンになった真顔の朝比奈さんを、それから数日間は拝むことができ、笑いをこらえるという実に苦しい日々を過ごした。

 土曜日の夕方、レディス三人はめいいっぱいドレスアップして笑い方が急に小指立ててのオホホに変身した。古泉はいつもの正装を着て自分の軍馬にまたがって先を行き、俺はいつもの修道服で、チャーターした四輪馬車タクシーに乗り込んだ。城の前で出迎えた伯爵とその部下は皆一様に日焼けして、たくましさが少しアップしている。こないだ朝比奈さんとハルヒに告白した若い騎士さん二人は、なんでもありません気にしてませんというようにすました顔をしているが、ほっぺたが少しだけ紅く染まっている。


 伯爵はレディ共が馬車から降りるときひとりずつ手を取って挨拶あいさつをしている。

「ミス・アサヒナ、ようこそ。お待ちしておりました」

「おかえりなさいませ、マイロード。ご無事でなによりです」

「あなたの貴重なアドバイスにより早めに帰国しました。いちおう兵を休めるという名目で」

「あなたにもしものことがあったらと……わたしはもう……ヒクッ」

いかん、朝比奈さんがもうから沸騰ふっとうしそうな勢いだぞ。

「ようよう、こんなところでラブシーンかよ姉ちゃん。せつけてくれるじゃん」

ガラ悪いぞハルヒ。

「ミス・スズミヤ、それから皆様、ミス・アサヒナをお守り頂いて感謝する」

い、いやー守ったっていうかふり回されたっていうかですね。


 執事に案内されていつもの大広間に通された。途中で出会う騎士さんたちが俺に向かって敬礼している。い、いやんそんな照れるじゃないですか。

 いちおう凱旋がいせんパーティということで、騎士さんを始め領地の偉い人たちが十数名招かれていて皆でテーブルについた。

「修道士殿、祝祷しゅくとうの祈りをお願いしてもよろしいかな」

こういう席では教会の司祭様とか偉い人がやる慣わしなのだが、どうやらそこに来ている聖職者は俺一人のようだった。ようがす、やりますよ。俺はひさびさに唱える天にましますアレを英語でやった。ラテン語でやる決まりなのだが自分でも意味が分からんのに現地語でいいじゃん。ねえ。


 息ができないほどたらふく食い、飲んでディナー終了になり、テーブルを片付けている。これからやるのはだいたいトランプとかチェスとか、ご婦人方が歌を披露ひろうしたりするものだが。

「ちょっと、みんな集まりなさい」

ハルヒが手招きしている。

「なんだよ」

「ここでグッと盛り上げるために一発芝居を打つわよ」

「なんの芝居だ」

「だから芝居っていってんでしょ」

「だからなんの」

「あたしたちの演目は朝比奈ミクルの冒険in中世に決まってんでしょが」

ま、またやんのアレ。終わったんじゃなかったの。まあまだセリフは覚えてるが。古泉がグッと顔を寄せて、

「何の話ですか?」

「あー、えーっとだな。お前はいなかったんであれだが、俺たちマルセイユからの道中どうちゅうずっと旅芸人をやっててだな」

「ミクルコマンタレヴですか」

「なんで知ってんだよ」

「僕も帰ってくる道中どうちゅうずっとその噂を聞いてきたんですよ」

「しかし今日はキャストのシスタークレインが、」

と、なんと用意のいいことか長門が慌てず騒がず脚本を取り出した。古泉がペラと開いて上から黙読し、

「なるほど、これなら簡単です。覚えました。僕が僕の役をやりましょう」

「さっすが古泉くん、宝塚ジェンヌも真っ青ね!」

いっそのことベルバラでも上演すりゃいいのに。


 ハルヒは暖炉を背にして俺たちを並ばせ、

「あー、お集まりの皆さん。ほろ酔い気分になったことですし、腹ごなしに軽くお芝居をご覧に入れたいと存じますがいかがでしょうか」

なんかまた面白いことがはじまるのかと拍手が指笛ゆびこが鳴った。伯爵が今日はそんな予定だったっけ、と目を丸くして古泉に尋ねる視線を向けたが、肩をすくめてみせるだけだった。

「ちょっと伯爵、あんたのマント貸してちょうだい」

「え、マント? あ、はい。どうぞ」

貴族しかよそおってはいけないという高貴なマントをパラリと肩にまとい、オープニングの口上を述べた。

「この世の不思議を求めて流浪するエンターテインメント一座、SOS騎士団、ここに参上たてまつる!」


 大道具なし、小道具なし、効果音もなしで、音源は急遽きゅうきょ借りてきたリュート一個のみ。ほとんど朗読劇みたいな流れだった。今日は英語が母国語の人が多いから英語でやれと突然決まったにもかかわらず、俺以外はひとりとして噛まずにセリフを述べた。伯爵は椅子を持ってきていちばん前に陣取り熱心に見入っている。いったいこの物語のミソはいったい何なんだ、というのがミステリー的効果を生んでいるのか、観客の気持ちが引っ張りこまれているのが伝わってくる。


「わたしはもうお金だけが頼りなのです。地獄の沙汰さたも金次第です」


 朝比奈さんが微妙にアドリブの入ったエンドのセリフを仰々しく述べ、拍手喝采、スタンディングオベーションとなった。五回くらい礼をしながら俺は、やれやれ、これで本当に終わりにしてくれと神に祈っているところだ。


 いやーいい汗かきましたねと古泉が笑顔を見せつつステージを去ろうとしても、拍手がなかなか鳴り止まず、困った古泉がどなたか歌でもご披露ひろうなさいませんかと客に呼びかけたところ、

「ええっ、あっ、はい、はい! わたしです!」

叫ぶ声があった。って朝比奈さん? あなたまだやり足りないんですか。だったら俺はもう疲れたんで、ピンでお願いしますよ。

 朝比奈さんは右の耳をおさえるような格好をして皆の前に立ち、

「すいません。いったいどうお伝えすればいいのか、これが人生の初舞台なのです」

いえいえ、いいんですよ。朝比奈さんがこういう大胆なことをなさるお方ではないと知っていますから、きっとよほどのことなのでしょう。多少トチっても噛み噛みでも、皆温かい目で見守ってくれるに違いありません。


「わたしたちはみんな生きてます、食べてます、飲んでいます。だからここにいます。わたしは今までにないくらいにきしています」

えっと、これは詩の独唱かなにかだろうか。朝比奈さんは両手を胸の前に組んで天をあおぐようにして言った。ええ、俺もそう思います。この時代に来てからの朝比奈さんは、なんというかこう自由奔放じゆうほんぽうに生きてらっしゃるというか、奔放すぎてまわりを巻き込むハリケーンみたいになっていますが。


「ところが、事態は少しややこしいのです。わたしの人生において、これほどつらくて苦しくて、そして嬉しくて楽しくて、このようなジレンマが今まであったでしょうか」

そうなんですか。具体的にはどんな。


「わたしにも分かりませんでした。人はそれと気が付かないうちに恋をしているものです。昔の偉い人は言いました、人はその後ろ姿を見るだけだ、と」

奥が深いお言葉ですね。よく酒の席で格言めいたことをサラリと言ってのける人が言いそうなセリフみたいです。


「ええ、よく言われます。でも酒に酔うのとこれがどう違うというのでしょうか。あーたね、人が人を好きになっちゃいかんとでもおっしゃんすか」

ああ、それも泥酔したおっさんがよく言うセリフですねー。俺もこんなかっこしてますけど、聖職者は恋愛などしちゃいかんのですよ、破門されます。


「確かに、これは罪です。人を好きになるという原罪なのです。人間が神から与えられた試練なのです。あなたたちにそのご経験がおありになって?」

あなたたち、と言われて客は互いに顔を見合わせた。高齢のメイドさんが執事さんに向かって、あなたどう? ワシはもう五十年も前に引退しとるわい。そうかと思えば若いやつが、オレまだ未経験だしぃ恋の試練とかマジありえないんすけどぉ的な顔をしている。


「では、ここで質問です。悲劇のロマンスで有名なロミオとジュリエットですが、二人が出会ったときジュリエットはいったい何歳だったでしょうか」

えーっと、たしか十三歳ですよね。


「ブー、残念。正解は十三歳でした」

だから十三歳って俺言ったじゃないですか。


「恋に年齢は関係ないのです。昔の人は言いました、彼と一緒ならどんな死にも耐えられるが、彼と一緒でなければ生きていても死んでいるのと同じだ、と。ならば神が与えたもうたこの試練、甘んじて受けようではありませんか」

いやー俺としては安定志向で、いくら神様がくださるものでも、マゾめいたものは遠慮しておきたいのですが。


「いつの時代でも、どの国でもいいではありませんか。わたしたちは自由に生き、自由に恋をし、誰かとともに同じ時間を過ごせばいいのです。わたしはここで一生を終えてもいはありません」

え、ここで暮らすつもりなんですか朝比奈さん。いやー奇遇だな、俺もなんですよね。あなたにもモラトリアムのぬるま湯人生のありがたさが分かっていただけましたか。修道士には税金もないし、黙っててもほどこしを受けられるし、法律ルールはいろいろとゆるいし。


「恋にはルールなど不要です。わたしは今までいろんなルールに従ってきましたけど、それは誰かの都合で作られた、権力者の道具に過ぎません。幸せになれないのなら、そんなものは捨ててしまっても結構」

たしかに、お互いに好きならそれでいいじゃないですかねえ。歳の差があれば愛なんて、というやつですよ。


「わたしは自分の運命に、いえ、人類の運命にあらがってみせます。この力は宇宙のすべてを、愛するひとりの人に凝縮ぎょうしゅくし、同時にその人を神にまで拡張するものです。そして世界は……」

 朝比奈さんは最後にタメを入れて、ゆっくりと右手を握りしめるしぐさをしてみせた。最後の一瞬に唇の右端を持ち上げ、眉毛を上げてみせる。見るものすべてにサブイボを出させる笑顔だった。


 俺は朝比奈さんの恋愛論を交えたポエム独唱を生まれて初めて鑑賞かんしょうし、こういう感性の一面もあるのだなあとやたらに感心して拍手を贈った。

 今までなにかが憑依ひょういしていたかのように、朝比奈さんはハッと我に返り、慌ててペコリと頭を下げて観客の前から姿を消した。客一同、大喝采だいかっさい雨あられスタンディングオベーションである。おひねりまで飛んできて慌ててハルヒが拾って回っている。さっき演じた芝居がかすんで見えるほどだ。伯爵が呆然としたまま、部屋から出て行く朝比奈さんの姿を目で追っている。

 古泉も口をぽかんと開けたままパチパチと手を叩いているが、長門だけはじっと動かず朝比奈さんが消えた方向を見つめていた。


 これが後世に語り継がれている〈朝比奈みくるの一人芝居事件〉である。


「……懸念事項につき招集しょうしゅうを要請する」

招集しょうしゅうって誰と誰だ?」

「……あなた、古泉一樹の二名」

それって古泉一人呼べばいいだけじゃん。

 長門がいつになく深刻な顔をしている。こういうのは天変地異が起こるレベルの前触れを感知したときくらいだ。


「どうなさったんですか」

朝比奈さんの独演覚めやらぬ客が歌にきょうじたりケルト楽器を演奏したりしているところを、こっそりと部屋から抜けだして隣の部屋に古泉を呼んだ。

「……先ほどの朝比奈みくるの独演の最中に時空のひずみを検知した」

「時空震のようなものですか」

「……そこまでのエネルギーではなかった。小規模で人為的なもの」

「なるほど。それが朝比奈さんの能力と関係があるわけですね」

「……そう。未来と通信していた痕跡こんせきがある」

な、なん……だと。さっきの耳に手を当てるしぐさはそれだったのか。朝比奈さんのTPDDってぶっ壊れたままじゃなかったのか。未来から誰かが迎えに来るまでどうにもならないんじゃなかったのか。

「どんな通信内容だったんだ?」

「……通信に該当する部分を傍受ぼうじゅした。わたしが音声をして再生する」

それって朝比奈さんの声を声帯模写するってこと? なにげに器用だな。


『みくるさん? あー、朝比奈みくるさん、聞こえたら返事をしてちょうだい』

「ええっ、あっ、はい、はい! わたしです!」

『ああ、やっとつながったのね。今までなにをしていたの』

「すいません。いったいどうお伝えすればいいのか、これが人生の初舞台なのです」

『とにかく無事なんですね。健康状態はどうなの?』

「わたしたちはみんな生きてます、食べてます、飲んでいます。だからここにいます。わたしは今までにないくらいにきしています」

『それはなによりだわ。ところで帰ってこれそうなのかしら』

「ところが、事態は少しややこしいのです。わたしの人生において、これほどつらくて苦しくて、そして嬉しくて楽しくて、このようなジレンマが今まであったでしょうか」

『何を言っているのかさっぱり分からないのだけど』

「わたしにも分かりませんでした。人はそれと気が付かないうちに恋をしているものです。昔の偉い人は言いました、人はその後ろ姿を見るだけだ、と」

『みくるさん、もしかして酔ってるのかしら? 時間移動先での恋愛は禁止だとあれほど』

「ええ、よく言われます。でも酒に酔うのとこれがどう違うというのでしょうか。あーたね、人が人を好きになっちゃいかんとでもおっしゃんすか」

『あなた始末書モノよ。帰ってきたら局長室にびに来なさい』

「確かに、これは罪です。人を好きになるという原罪なのです。人間が神から与えられた試練なのです。あなたたちにそのご経験がおありになって?」

『失敬ですね、わたしにだって恋愛の経験くらいありますよ。あなたみたいな小娘にはまだ早いかもしれませんけどね』

「では、ここで質問です。悲劇のロマンスで有名なロミオとジュリエットですが、二人が出会ったときジュリエットはいったい何歳だったでしょうか」

『えっと、十八歳くらいかしら』

「ブー、残念。正解は十三歳でした」

『じゅ、十三って犯罪じゃないの』

「恋に年齢は関係ないのです。昔の人は言いました、彼と一緒ならどんな死にも耐えられるが、彼と一緒でなければ生きていても死んでいるのと同じだ、と。ならば神が与えたもうたこの試練、甘んじて受けようではありませんか」

『あの、みくるさん、格言とかどうでもいいんだけど。とにかく迎えに行くから今どこに、どの時代にいるのか教えてちょうだい』

「いつの時代でも、どの国でもいいではありませんか。わたしたちは自由に生き、自由に恋をし、誰かとともに同じ時間を過ごせばいいのですから。わたしはここで一生を終えてもいはありません」

『ちょっとあなた、何を言い出すの! 時間移動管理法第十四条を言ってみなさい!』

「恋にはルールなど不要です。わたしは今までいろんなルールに従ってきましたけど、それは誰かの都合で作られた、権力者の道具に過ぎません。幸せになれないのなら、そんなものは捨ててしまっても結構」

『みくるさん、分かってるの? これは堂々たる謀反むほんですよ、重罪ですよ』

「わたしは自分の運命に、いえ、人類の運命にあらがってみせます。この力は、宇宙のすべてを愛する一人の人に凝縮ぎょうしゅくし、同時にその人を神にまで拡張するものです。そして世界は……」


なーんだ、やっぱ十三歳で合ってたんじゃん。などとボケてる場合ではない。

「会話がちぐはぐで支離滅裂しりめつれつだが、察するに、朝比奈さんが独断専行してる?」

「……そう。未来人組織に対する明確な叛乱はんらん

「この通信の相手ってどんな人物なんだ」

「……年齢推定四十歳、女性、官僚かんりょう特有の言葉づかい、やや神経質、独身」

どーみても朝比奈さん(特大)です。四十歳独身の朝比奈さんなんてただの人じゃないですか。あ失敬、今のは妄言もうげんだ。

「ってことは、TPDDが治ってることを今まで俺たちに隠してたのか」

「……意図的に隠していたわけではないと思う。ただ、一時的に通信機能が回復した、と推測される」

古泉は何かを思い出そうとするように、

「長門さん、もしかして以前にも同じことがありませんでしたか」

「……これがはじめてではない。知るかぎりでは今回が二度目」

「え、俺ぜんぜん知らなかったぞ。いったいいつだ」

「……最初は自宅にて、騎士から求婚されたとき」

あー、あのときか。朝比奈さんが振って、ハルヒが二日酔いで相手に噛み付いたときだ。


── わたしは、通信そのものには気が付かなかった。後になって検証してみると、いくつかの情況証拠がそれを示していた。


 二人の騎士さんの恋路こいじがあえなくついえて涙にむせびながら帰っていった翌日、朝比奈さんは居間に誰もいないのを見計らい、羊皮紙とペンを取って熱心になにごとかを書きつけていた。右の耳に手を当て、ブツブツと独り言をつぶやいている。

「……なにをしているの」

長門が音もなく玄関から入ってきて突然話しかけると、朝比奈さんはビクッと飛び上がって羊皮紙を後ろ手に隠した。

「な、長門さん? なんでもありません」

「…………」

ジトッと見つめる漆黒の双眸そうぼう。いつもなら朝比奈さんのほうから勝手に折れて釈明したり謝罪したりするのだが、今回だけは違った。

「ええっと、領主様に手紙を書いていただけなの」

「……伯爵への手紙はさっき涼宮ハルヒに託したはず」

あら、そうでしたね。テヘヘと照れ隠しに笑ったりはしなかった。

「あなたには関係ないことです。ただのプライベートなメモ書きです」

「……関係なくはない。その内容が露呈ろていすると人類史が崩壊しかねない」

な、なんだってー。いったいなにが仕込んであるんだその羊皮紙には。

「おっしゃるとおり、わたしがメモしていたのは未来から得た、十二世紀末から十三世紀初頭の詳細なイギリス史です。だったら何だというのかしら」

「その情報を利権獲得に利用しようとしていることに問題がある」

「因果計算はただの道具に過ぎないわ。あなたが所属する組織だって、自らの利益のためにその魔法を使っていないかしら?」

おお、おおおお、朝比奈さんが啖呵たんかを切ったぞ。ここに来て未来人バーサス宇宙人の因縁いんねんの対決か。

「……それは認める。でも、あなたがやろうとしていることに対して、その道具は効果が大きすぎる。目標そのものを破壊してしまう可能性があることを、あなた自身も分かっているはず」

朝比奈さんは握りしめた羊皮紙に目を落とし、

「そうかもしれませんね……。どうしても阻止そしするの?」

長門は少しだけ考え、

「……阻止そしは、しない。わたしには……その資格がない」

長門は少しうつむいてその言葉をつぶやいた。

 それをじっと見ていた朝比奈さんは、ただ黙って羊皮紙をロウソクの炎にかざした。朝比奈さんの手の上で勢い良く燃え上がり、羊毛が燃える匂いが部屋中に立ち込めた。

「これでいいかしら」

「……問題ない」

朝比奈さんは居間から出て行ったが、あの情報を記憶から消し去ったわけではなかった。前にあったとおりウェストミンスター宮殿にまで出張でばって、伯爵に未来の情報を伝えに行ったのである。


「ああ、思い出したぞ。あのとき朝比奈さんがプロポーズに返事をしたときのセリフがなんだか映画のセリフっぽくて違和感があったんだよな。どうやって断ればいいか未来に相談してたんだろう」

「……その可能性が高い」

話を聞いていた古泉が考え深げに、

「長門さん、その求婚されたときのタイミングと、先ほどの独演に共通する要素はなんでしょうか」

「……ここからは、わたしの推測にすぎないことを断っておく。求婚されて肯定こうていした場合、伯爵との恋愛の可能性がなくなってしまう。その地点。また、独演の直前に朝比奈ミクルの冒険in中世が演じられ、上演の内容が部分的に史実と一致した、その地点」

「なるほど。既定事項、いや擬似的なというべきか、あるいは、」

「俺にもわかるように説明してくれ」

古泉は、キョンくんにも困ったもんだなあ的な笑いを浮かべ、

「つまりはこういうことです。朝比奈さんがなにもしない状態が既定の路線だと考えてください。朝比奈さんがアクションを起こし、それがバタフライエフェクトとなって歴史に少なからぬ影響を与える。ところが既定事項には元に戻そうという自力更生力じりきこうせいりょくがある。ロードシップと朝比奈さんの恋路こいじは明らかに既定の流れではなく、騎士さんに求婚されることで邪魔が入り元に戻ろうとした。そこで路線が元の流れに交わってしまった瞬間、延長線上にある本来の未来と交わり、一時的に通信機能が回復した、ということです。ですよね長門さん」

「……そう。元に戻す力に涼宮ハルヒが介在していた。しかし意図してのことかどうかは不明」

「えーとつまりだ、朝比奈さんが一人で、しかもTPDDなしで歴史改変しようとしてて、力不足だったがゆえに元に戻る力が働いて、路線がたわんだり波打ったりしてるうちに、元のラインと交わった瞬間に通信が成功した、ハルヒがそのきっかけを作った、ってことでいいのか」

「……そう。あなたにしては分かりやすい説明」

ま、またそれか。

「その、朝比奈ミクルの冒険in中世が部分的に史実と一致してるっていうのは、長門が意図的に書いたのか」

「……そう。涼宮ハルヒがあの脚本を演じることで、歴史改変をある程度封じることができた。おそらく、公演の前後には、未来との通信が回復する瞬間が何度かあったはず」

なんと、ハルヒの力を使って歴史改変を阻止そしするとは、俺達が遊んでる間に超高度なせめぎ合いがあったんだな。


 それから長門はさらに驚愕きょうがく的事実を明かした。

「……現在の朝比奈みくるには禁則がかかっていない」

「え、エエエェ? マジっすか、長門さんマジでですか」

この驚愕きょうがくは古泉だから間違えんようにな。

「初耳だぞ長門。俺達今までずっとだまされてたのか」

「……そう。彼女にとってこれは絶対に明かしてはならないことだった」

「長門さん、そもそも禁則ってどういう原理なんですか」

「それそれ俺も知りたいわ」

長門いわく、朝比奈さんが禁則事項を吐いているときには、言語野の一部がフィルタリングされていて、単語が通過する場合に強制的に置き換えられるようになっているのだという。人の言語はもともと記憶野に格納されているさまざまな情報から生まれてくるもので、記憶自体を操作することはできない。ただし言語野は一つの経路を通じて声帯や舌筋ぜっきんを操作しているので、特定の言葉だけ発音を阻止そしできる、とのことだ。

「……これらはメンタリズムが進化したもの」

「メンタリズムってなんだ?」

古泉に向かって用語解説しろという視線を投げてみる。

「メンタリズムとは、心理学の一分野で、人が無意識のうちに行っている仕草や行動を観察して、その裏にある事実を読み取るものを言いますね。で、合っていますか長門さん」

「……正しい。言語における禁則は、自律神経や反射神経などの人間が意識して行えない所作しょさを突いている。催眠術の効果が近い」

「なんとなく原理は分かった。どうやって解除したんだ、それ?」


── 解除自体は簡単だった。あなたが不在のとき、朝比奈みくるが涼宮ハルヒをき付けた。


 俺達がエルサレム従軍する少し前のことだ。

「涼宮さん、ちょっとお願いがあるの」

「なになに、ついに告白する気になった?」

ハルヒは陰謀が潜んでいるとはつゆ知らず、アホみたいにニヤニヤを満載しているだけである。

「そ、それもいいと思うのだけど。もう少し手紙のやり取りをしてから……ね」

赤くなった顔をエプロンでおおい、妙にシナを作って見せている朝比奈さんである。

「も~みくるちゃんったらカワイイわねえ。あんまり控えめだと取られちゃうわよ。で、頼みってなに」

「ちょっと手紙を読んでもらえないかしら」

「んー? 中世フランス語は読めないわよあたし」

「フランス語ではなくてラテン語でラブレターを書いてみたの」

今度はラテン語ですかい。

「え、えと、たべせくれー、たうむー、ぷろひびーとー? なんて書いてあるの?」

「一日も早くあなたに会いたいです、いつお帰りになりますか……とか」

俺には分かるぞ。会いたいなどという単語はどこにもない、嘘っぱちである。

「んー、あたしには分かんないわ。キョンが帰ってきたら読んでもらいなさい」

「キョンくんではダメなの! 涼宮さんじゃないと!」

「ど、どうしたのみくるちゃん目が血走ってるけど」

「あ、いえなんでもないの。ちょっと寝不足で」

朝比奈さんはおかしいわね、というふうに首をかしげた。やがてハッとひらめいたように、

「分かったわ、ちょっと待ってて」

庭に駆け出していき、ほうきを引っ張り出してきてやおら地面に線を引き始めた。それってもしかしてハルヒの地上絵か? と長門に尋ねると、……違う。朝比奈みくるが描いたのはペンタグラムだった、らしい。なんと、魔道士にクラスチェンジする気だったのか。朝比奈さんは乾いた土の上にインスタントの五芒星ごぼうせいを描き、ハルヒを呼んだ。

「涼宮さん、ちょっと庭に来て。ここでさっきの手紙を読んでもらえないかしら」

「え、ここで読むの?」

「そうそう。真ん中に立ってみて」

「みくるちゃん、これってペンタグ、」

「さっさと読め!」

「は、ハイ」


 ET TABESCERE TUUM PROHIBITIO LINGUAE...

 われなんじの舌に掛けられし束縛そくばくを解かん


ちょうどこの瞬間に長門が家に帰ってきた。家の付近になにやらエネルギーの変動を感じていたらしい。ハルヒが読み終えた途端とたん、地面から黒雲立ち上り地響きが起こり雷鳴が鳴り響いた。敷地全体がガタガタとれ石壁からポロポロと砂がくずれ落ちた。長門が庭に入ると、そこにはほほゆがませ上目遣うわめづかいにニヤリと笑う朝比奈さんがこっちを見ていた。

「二二九二年三月九日! 二二九二年三月九日! 満二十五歳! どうよ!」

宇宙人など恐るるに足らんわ、これだよこれ、わたしが欲しかったのはこれなのだよヌォッホッホッホ、と天にもいどむ勝利の高笑いが、長門ですらも髪の毛が逆立つほどの恐怖をもって響き渡ったのである。


「……正直、サブイボ出た」

いやサブイボとか今どき関西人でも言わんって。

「っていうか、生年月日とか年齢がふつーに発声できるようになっただけだよな」

「……それもそう」

そんな魔王のタマ取ったとか皇帝を籠絡ろうらくして国をひっくり返したんならまだしもやね、実年齢が言えるようになっただけで、ってアレ、俺も自分の名前が言えねえムググ。

「古泉、お前が手紙の中で警告してたアレって、もしかしてコレのことか」

「えーっと、なんでしたっけソレ」

「いやだから出征しゅっせい前にお前が書いてよこした、朝比奈さんに気をつけろウンタラカンタラ阻止そししろってやつ」

機密保持のために燃やしちまったので詳しい文面は思い出せないが。

「ああ、あれはですね、朝比奈さんが歴史を改変しようとしているのではないかと疑いを持ったからです。あのときにはまだ確証はありませんでしたが」

「その状況証拠は?」

「覚えていますか、決闘裁判のときのことを。あのとき朝比奈さんは涼宮さんの動きを阻止そししましたが、正しい歴史ではジャン・ド・スマイト伯爵はあのとき死亡するはずだったんです。少なくとも、騎士道を冒涜ぼうとくしたという正当な理由で」

「ああ、それは朝比奈さんにもチラと聞いたな。お前もその場にいて聞いたろ」

「ええ。その伯爵の命を朝比奈さんが救い、城に招かれお近づきになった。その後、涼宮さんが彼を籠絡ろうらくするために朝比奈さんをき付けた。ここまでは偶然です。ところが舞踏会での感触を得てからは急展開で、朝比奈さんは、まるで我が手中に収めんばかりの攻勢をり出している。朝比奈さんは気づいたはずです、涼宮さんを動かせばなにごともかなうと」

「それは陰謀論いんぼうろん的というか、少し古泉のかんぐり過ぎじゃないか」

俺が特に根拠もない理由で擁護ようごしようとすると、長門は、

「……古泉一樹に一理ある」

と、うなずいた。

「……朝比奈みくるの行動を観察していると、感情に二面性が見て取れる」

「ほう、具体的に言うと?」

「……一方では因果律いんがりつの計算を利用することで勝利を得ようとする意思、他方では倫理規定りんりきていに反するという理性による抑止よくし。これら相反するものが同時に存在している。つまり、自分の良心に抵触しないギリギリの、つ自分のプライドを保ったまま、打算と理性の駆け引きによる行動が、現在の彼女に現れている」

なんか難しい話になってきたな。つまりだ、時間移動技術者としてのスキルを使うことで恋のダービーに勝とうとしている計算高い朝比奈さんと、時間移動技術者としての倫理規定りんりきていを守ろうとする朝比奈さんの二人が戦っている、ということか。


 朝比奈さんがハルヒ化しているとはたしかに俺も思ったがなあ、内面の常識とエキセントリックさがバトルを繰り広げるところまでは考えていなかったぞ。

「いくら人を好きになったからって、朝比奈さんがそんなアンフェアなことをするかねえ」

まあ、こういう希望的観測を俺が言うから朝比奈さんには甘いって揶揄やゆされるんだよな。

「僕が思うに、愛されたいというのは、もともとフェアな感情からではないと思いますよ」

「……古泉一樹が正しい。にもかかわらず公平でいたいと願う理由は、第一に良心の呵責かしゃくで、第二に恋愛の対象である相手にフェアであると思われたいという願望。結果的には相手に愛されたい気持ちがそれら二つに勝ち、通俗的な用語を使用すると、あらがえない恋のパワーがすべてを押し流してしまう」

「そしてそのパワーが宇宙をも動かす、と朝比奈さんはみずから言っていますね」

こええー。乙女の恋ってこええー。とても俺なんかの手に負える代物しろものじゃないわ。


 古泉が話の続きをしたがっているので、

「で、さっきの情況証拠の続きは?」

「ええ、状況証拠は今や物的証拠になりました。史実では、リチャード陛下の十字軍遠征はエルサレムに達するまで後数年は続くはずでしたが、ヤッフォを手に入れるとそこで進軍を止められました。僕達が予定より早く帰ってこれたのはそのおかげです」

俺が知っている十字軍の歴史もたしかそうだった覚えがある。

「ああ、ひとつ立ち入ったことを聞いていいか。アッコンの人質はどうなったんだ」

「そこまでは史実通りです。全員処刑です。陛下もそのように発表されています」

「現場にいたのか」

「ええ、その場にいました」

「なんかすまんな、嫌なことを思い出させたか……」

「表向きは」

「表向きは?」

「史実では二千七百名を処刑したことになっていますが、僕の見たところでは、実際は兵士は武装解除の上、市民と共に追放となりました」

「歴史と違うじゃないか」

「これは秘密中の秘密ですが、ロード・スマイトが陛下に具申ぐしんなさったそうです。二千七百の汚名を着るのはどう考えても重すぎる、と。敵には数字だけ伝えておけばそれで目的は達するはずだ、と」

「まさか朝比奈さんが」

「そのまさかです。アッコンだけではなく、あっけなく陥落かんらくしたヤッフォの人質も全員追放なさっただけです。今回の筋書きはなぜかロード・スマイトの主導で行われ、その影に朝比奈さんがいたことは間違いないでしょう」


 倫理りんりとかプライドうんぬんのレベルじゃない、堂々たる歴史介入じゃないか。俺は情報漏洩じょうほうろうえいの現場にいた。この時代のムスリムの人たちにとってはいい結果になったのかもしれんが、そこで死ぬ運命にあった人たちが生き延びてその後の子孫が生まれているとなると、すでに俺達の知っている中東の歴史とはだいぶかけ離れたものになっているのかもしれん。いや中東だけじゃない、この戦闘で死ぬはずだったイングランドの兵士と、その末裔まつえいもだ。


 俺は長門と古泉のどっちに話しかけるでもなく、そのときの状況を思い出しながら、

「俺はその場にいた……朝比奈さんが今後戦況がどうなるかを教えていた」

「ええっ、なぜ止めなかったんですか」

俺は半ばしかめっ面で、

「俺に朝比奈さんを止められると思うのか」

「まあ……無理でしょうね。しかし意見を述べるくらいしてもよかったのでは」

「うまく丸め込まれたのかもしれん。だが俺にはそんな大それた歴史改変をしているようには見えなかったんだ。朝比奈さんが教えていたのは史実通りで、本人もそう言っていた。それを教えて同じ行動をなぞったとしてもなにも変わらない、と言ってた」

「しかし現に歴史が変わってしまっていますよ」

長門は静かにうなづいた。

「……必要最低限、派手な改ざんはせず、TPDDを利用せずとも可能な範囲で、あなたを抱き込み、涼宮ハルヒの能力を利用し、なおかつ自分の周囲の状態を維持している。そして、わたしも抱き込まれたうちの一人」

「その目的はなんだ?」


   “All for the getting a man Jean d'Smight.”

   ジャン・ド・スマイトを手に入れるため、

     すべての事象がそこへと繋がっている。


「あんたたち、そんなところでなにヒソヒソやってんの」

別になにかやましいところがあるわけではなかったが、背後からの声に三人ともビクッと飛び上がった。

「い、いやあ、いい芝居だったなあ」

「そ、そうですね。実に見事な演技でした」

「……カンヌ祭にノミネートされてもいいレベル」

いや、それは言い過ぎだから。

「ちゃんとみくるちゃんを見張ってなきゃダメじゃないの。伯爵とどっかにしけ込んだりしたらどうすんのよ」

見張るもなにも朝比奈さんはずっと俺達の監視対象だったわけだが。

 ハルヒはついて来いと親指でクイクイと示した。唇に指を当て黙れと目で命じられ、ストーカーまがいのあやしげな隠密行動に追従ついじゅうさせられた。なんだ、ドッキリでもやんのか。

 ところどころロウソクで照らされているだけの薄暗い石壁の廊下をたどり、螺旋らせん階段を登り、最上階まで来た。妙にワクワクをおさえきれない俺たちだったが、よそ様の家を勝手にウロウロしてていいのだろうか。

「いたわよ」

ハルヒが窓の外を指差した。朝比奈さんの背中が見える。そこは広いテラスになっていて客室の掃き出し窓から出られる場所だ。俺たちは客室に忍び込み、カーテンの内側に隠れて様子をうかがった。外はすでに日は落ちて、群青ぐんじょう色の夕闇が広がっていた。


 朝比奈さんはい上げた髪をハラリといてテラスのへりに寄りかかった。涼しい秋の風が吹いてウェーブのかかった長い髪を揺らす。ときどき小さなため息が聞こえる。

 不意に、どこからかポロンポロロンとリュートの音が聞こえてきた。

「ここにいらしたんですか、ミス・アサヒナ」

よーしよし、とハルヒはつぶやいた。みくるちゃん、あせっちゃだめよ。タイミングは完璧でなければねThe timing must be flawless

「あら、マイロード。勝手に入り込んでごめんなさい。酔いを覚ますのにちょうどいい風が吹いていまして」

「いえいえ、ここはあなたの家も同様です」

ミカーサ・スカーサは残念ながらスペイン語だからな。

「月がとても綺麗きれいですね」

空にはまるで誰かがはかったかのようなまん丸い月がぽっかりと浮かんでいる。

 伯爵は返事をする代わりにリュートをポロロンとかき鳴らし、どこか北の方の、ケルト民謡を歌って聞かせた。長門によれば、故郷を懐かしむ旅人の歌らしい。

「美しい、寂しい曲ですね」

「あまりうまくはないですが」

「素晴らしい歌声ですよ、マイロード。お酒の酔いが冷めたと思ったら、今度はあなたの美声に酔いました」

「いえいえ」伯爵は照れ笑いし、「この辺がまだローマ帝国の領土だった頃に、本国から派遣されていた兵士がこの歌を聞いて望郷の涙を流したんだそうです」

「ローマの兵隊さんがここまでいらしてたんですか」

「ローマ人がいたり、デーン人がいたり、ときにはバイキングがいたり、ブリテン人がいたり、そして私のようなノルマン人の兵士がいたり。時代とともにこの国も変わりました」

「そうですか。この月も風景も、城も変わらないのに、そこにいる人だけが消えていくなんて、寂しいです」

「時代の趨勢すうせいですね。私もいつかは消えていく運命なのでしょうが、今夜だけは、あなたのおかげで生きていられます。あなたには大きな借りができました」

「いいえマイロード、わたしは知っていることをお伝えしただけですわ」

「その情報が人を生かし、国を救いました。イングランドとリチャード陛下はあなたに勲章を授けるべきです」

「まあ……」

朝比奈さんが染まったほほに手を当てている。非の打ち所がない絶好の雰囲気ねえ。盛り上げ方が最高よ、みくるちゃんハァハァ。鼻息が荒いぞハルヒ。

「ミス・アサヒナ、少しのどが渇きませんか。ワインをお持ちしましょう」

あらら、伯爵がご退場か。誰かにとっ捕まってこのまま戻ってこなかったりしたら悲しすぎるな。

「あの、マイロード……」

朝比奈さんが今しも消えてゆかんとする伯爵の背中に向かって呼びかける。

「なんでしょう」

「もう少し……ここで一緒に月を見ていていただけませんか」

「ええ、いいですとも」

クーッ、もうっ最高ね! みくるちゃんったらツボを押さえてるわ。


 伯爵が朝比奈さんから一歩離れたところに立った。二人ともテラスのへりに手を置いたまま、風が吹くのに身を任せている。客室のカーテンが風に舞って大きくれる。

 朝比奈さんが白い月を見上げる。

「わたしの故郷には、月にはうさぎが住んでいるという言い伝えがあるんですよ」

「ほう、それは面白い。なにか特別ないわれでも?」

「むかし、月のお姫様が地上でお生まれになり、そのあまりの美しさに結婚の申し込みが引く手数多あまただったのだとか。ほうぼうの貴公子や王子様が見初めたけれど、結局は月に帰ってしまう、というお話でした。子供の頃によく聞かされました」

伯爵はなんとも答えず、リュートをいじりながらすこしばかり間を持たせ、うつむいたまま、

「もしうかがってよろしければ、ミス・アサヒナ。あなたも、いつかは月にお帰りになられるんですか?」

朝比奈さんの心の何処どこかでギクリという音がしたに違いない。伯爵はもしかしたら、朝比奈さんがこの世界の人間ではないことを、うすうす感づいているのではないだろうか。

 朝比奈さんはじっと月を見上げたまま何も答えない。

「そう、ここよ、このタイミングだわ、みくるちゃん。これをのがしちゃダメよ」

「おいハルヒ、少し静かにしろ。聞こえるぞ」

「なによ、あんたも喜びなさいよこの感動を。今まで苦労して芝居を打ったあたしの投資と努力と根回しがやっと実る瞬間なのよ」

「ね、根回しってねぇお前」

純愛の二人がすげー陰謀のすえにくっついたみたいじゃん。

「いいのよ、無事にくっつけばなんでもありなの。あんたたちだって、全部あたしがプロデュースしなきゃ、キョンなんか今頃は肉欲に走って変な女に引っかかってたわよ」

「え、あれ全部芝居だったってのか」

「あったりまえでしょ。偶然だけであんなにうまくいくと思ってんの? あんときはキョンがだらしなかったから、あたしが敵を演じてやったわけよ。そしたら見事に燃え上がっちゃってプークスクス」

な、なんだってー!!今明かされる長門有希の憂鬱秘話か、まさかそんな裏舞台があったとは。っていうか今になってそれを暴露ばくろするかよ。ハルヒは長門に抱きついて柔らかいほっぺたにスリスリしながら、

「ねーえ有希。あんたも感謝しなさい、恋のプロデュースにかけてはあたしは天才なんだから」

「……ありがたや」

「だったら俺に言えばよかったじゃん、演じてやったのに」

「チッチッチ、敵をあざむくなら、まず味方からよ」

あー、前にも突っ込んだと思うが、味方しかあざむいてないだろ。


 ということはだ、今回の筋書きは朝比奈さん一人の独断専行というより、ハルヒが描いて朝比奈さんが乗ったというべきなのか。ハルヒが朝比奈さんを使って歴史改変したということになるのか。果たしてどっちなんだ。

「……高度に利害が一致した関係では、主従関係は曖昧あいまいになる」

なるほどな。真ん中をとって共犯という言葉がいちばん的確かもしれん。しかしだ、俺達はここでステージの袖に隠れて、ただじっと手をこまねいて見ているだけでいいのだろうか。


 朝比奈さんはうつむいて足元に視線を下ろし、それから顔を上げ伯爵を見つめた。

「マイロード、あなたは地球上で最も凛々りりしいお方です。獅子ししのごとく勇気を持ち、つるぎを振るうお姿は戦神スレイプニル、その智謀ちぼうけるはメーティスを凌駕りょうがし、民が聞き惚れる歌声はアポロンの美声、そしてアメンラーのように領民を照らす光をお持ちです。あなたはかつてないほどの理想の男性。地上に女という存在が生まれてこのかた、皆ずっとあなたのようなお方を求めてまいりました。あなたのためなら、わたしはいましばらくこの地に留まりたいと思います」

伯爵は笑顔のまま聞いていたが、少し顔に赤みがさしてきて、冷や汗を垂らしながら、

「それはめすぎです、マイレディ」

朝比奈さんが真顔で伯爵の目を見つめるので、伯爵もまっすぐに見つめ返した。

「マイロード、ジャン・ド・スマイト伯爵。わたしは、心の底からあなたを愛しています。全宇宙の誰よりも、そして歴史上存在した男性の誰よりも、あなたを、おしたい申し上げます。月世界の生活も、家族も、わたしの持てるものすべてを捨てて、この一生をおささげしてもいはありません。わたしの心は未来永劫、あなたのものですMy hart always will be yours eternity


 俺たちは今、イギリスの歴史が大きく改変される瞬間を目の当たりにしている。ここで伯爵がイエスと言えば、朝比奈さんはレディ・ミクル・ド・スマイトとなり、イギリス史には存在しないはずの伯爵夫人が誕生することになる。

 おい長門、いいのかこのままで。古泉、お前が阻止そししろと言ったのはまさにこの瞬間じゃないのか。長門は月の光に照らしだされた二人の影を恍惚こうこつとして見つめ、ピンク色の魔法にかかったかのように動かない。古泉はまるで時が止まったかのように薄く笑ったスマイルのまま硬直し、なにも反応しない。正気なのは俺だけか。ここで俺が勇気を出してめるべきじゃないのか。

 だが今さらなにもできないだろう。最初からそういう予感はしていた。


 伯爵の手が朝比奈さんの左肩に伸びた。床に伸びたふたつの影が寄りった。ハルヒが不敵ふてきな笑みを浮かべてつぶやいた。完璧だわFlawless……。


「ミス・アサヒナ」

「はい」

「言っておくべきだった。私にはすでに妻がいる」

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