二十章

 つくづく思う、ここに古泉がいてくれたら、この状況を分かりやすく解説してくれただろうに。


 俺が落ちてきたこの世界は、ある存在が夢見ている恋のようなものなのではないかと。俺たちが、あるいはこの世界そのものがその存在にとっての恋の舞台にすぎないのではないか、とな。

 今からたった一年前に、王子様としてあるべき完全な理想像があらかじめ用意されて現れ、すべてがそこから始まったのではない、と否定できる証拠などどこにもない。自らの意志で世界を否定したり肯定こうていしたりできる存在──俺たちはそういう存在を、恋する乙女、と定義している。


 時空の歪みを創りだして宇宙人未来人超能力者をかき集め、見つかりもしないこの世の不思議探索にり出し、決して栄冠には輝けない野球大会の優勝を争い、事件は現場でも起こってるんじゃない密室殺人を解決し、カンヌもアカデミーもアカンデミーにもノミネートされないSFコメディミステリー映画はいまだに完結せず、そして世界を崩壊の危機におとしいれようとした、その存在を、ここに来てようやくトルネードを落ち着かせることができた八年目の正直。

 これまで関わってくれた、銀河を統括とうかつする見えない何かのすごい存在、東京ドーム並みのエネルギーの泡の中でしか活躍できない超能力者バブル組織、猪木並みのアゴで人を動かすことにかけては超一流の時間移動管理局官僚かんりょうの皆様には、この場をお借りして多大な感謝を申し上げる次第だ。しかし、しかしだ、ストーリーも終焉しゅうえんにさしかかりハッピーエンディングへの期待に観客が盛り上がってきた頃、今までずっと味方だと思っていたその未来人が、今やサナギの背中がペキペキと音を立てて割れ、中からが羽化するかのように羽を広げ、巨大なハルヒ化をげようとしているのである。


 ハルヒ一人でも持て余している俺なのに、同じ願望を持った人間が新たに登場したら、できれば場末の脇役として一生を終えたい願望の俺はいったいどうすればいいのだ。つくづく思う、ここに古泉がいてくれたら、と。


 こんな頭痛がする夜明け前からガシャガシャと倉庫が騒がしい。

「こら! みんな起きなさい! 今朝は五時起きって言ったでしょうが」

「涼宮さん、皆さん、おはようございます」

まだニワトリも鳴いてないのに目ぱっちりの朝比奈さんがすでにトサカのお手入れを終えて待ち構えていた。目ん玉ぱっちりっていうか、あなた全然寝てないですよね。

「……」

「……」

俺と長門は終始無言のままボサボサの髪をして眠い目をこすりながら、ったくなんなんだこいつらは遠足気分かよと、いやが上にも頭に響く金属音にイライラしている。

 ハルヒは先週、城まで出かけて行って中古の兵士装備を買い取ってきたらしい。サイズ合うのかよと思ったのだがブリトン人はだいたい小柄なのでな。まあほとんど農民だし。

 スチールのよろいはさすがに蒸し暑くて着てる間にオーバーヒートしてぶっ倒れてしまうと分かったらしく、肩パット付き鎖帷子くさりかたびらの上にスチールの胸当てと背当てを付け、スパッツをき腰には革のスカートを巻いている。前に決闘したときこういうのを着てたよな。革のすね当てもだ。

「おーいハルヒ、何度も言ったが前線には行かせないからな。俺たちは兵士じゃないし、よそんちの宗教戦争には関わるべきじゃない」

「分かってるわよ。これはコスプレよコスプレ、歴史を知るにはまず形からって言うでしょ」

言わないです。あとコスプレで勉強になるんだったら歴史の先生は苦労しないです。

 ブンブンふり回しているつるぎ刃毀はこぼれしててかなり古いが、盾とセットで本物らしい。

「ハルヒ、そのつるぎ……なにかの気配を感じるぞ」

「気配ってなによ」

ギクッと目を見張るハルヒ。

「きっと戦場で人の血を吸ってるぞ。たたられるぞお前」

「な、なにを言い出すのよ。べ、別にそんなものどこにでもある話なんだからね」

否定しつつも恐怖に震えている、こういうのツンガクっていうんだろうか。

「あれは……そう、俺がまだ小学校に上る前のことだ。田舎の古い言い伝えでな、戦国時代に死んだとかいう落ち武者が夜になると家の窓ガラスに映るんだ。そしてツルツルの頭をペンペン叩きながら、一本、二本、と抜けた髪をうらめしい顔をしながら数えて、」

「キャー、キョンくんやめて!」

朝比奈さんが目をつぶって両耳をおおっている。ハルヒは歯をカタカタ言わせながらつるぎさやに収め、

「キョ、キョンシー、出かける前にこれおはらいしといて」

「おはらいって、俺祝福の祈祷文きとうぶんしか知らんぞ」

「いいから今すぐやんなさい! たたるわよ、ほらあんたの後ろに!」

クックック、小学生か。しょうがないんで井戸水を数滴ふりかけながらブツブツとラテン語を唱えてやった。それからハルヒはつるぎに酒と玉串たまぐしをお供えして柏手かしわでを打ち、迷わず成仏してちょうだいと祈っていた。神棚に成仏はないだろ。


 家の前から馬の鳴き声が聞こえ、どうやら旅の同行者が到着したらしい気配がする。

「おっはーミクル、いーいところに住んでるんだねぇ。あたしもこういう豪華な住まいにあやかりたいにょろ」

「おはようございますシスタークレイン。準備万端じゅんびばんたんですね」

「ようようブラザージョーン、朝から疲れた顔してるねっ。若いんだからもっとシャキっとシャキっと」

「えへへ。えーとうちの二人とは初顔合わせでしたっけ、こっちはあるじで、ハルヒ・オブ・スズミヤです。例の山賊団のボスです。こっちはユキリナ・ド・ナガティウスです。ロンドンでアルケミストをやってます。ハルヒと長門、こちらはシスタークレイン、ドルイド修道院の院長だ」

「……お初。よろしく」

「これはこれはお初にお目にかかれて光栄にょろ。山賊殿に錬金術師殿に修道士殿かい、いろんな人材が目白押めじろおしだねえ。これに騎士と魔法使いでもいれば完璧じゃないかね」

ハルヒはシスタークレインの全身白装束しろしょうぞくを上から下まで二往復ながめて俺に耳打ちした。

「え、ちょっとキョン……、なんで……鶴屋さんがいるのよ……」

「いや鶴屋さんに似てるけど鶴屋さんじゃないから、話がややこしくなるから間違えんなよ」

「でもそっくりさんにしちゃ似すぎじゃないの、どんなクローンよ」

ボソボソと日本語でしゃべっているのがシスタークレインに聞こえたらしく、

「ブラザージョーンも言ってたけど、ツルヤって誰だい、あたしの知ってる人かい?」

「いやぁ、なんでもないですよぉ。すごくよく似た他人の空似そらにの人が実家にいるってだけでして。ほらちゃんと挨拶あいさつしろ」

「え、えーっと、シスタークレインだっけ、よろしくね。村の子供達のことではお世話になりました」

「いいっていいって、困ったときはお互い様さぁ」


 レディ達がテーブルで軽い朝飯を食べながらご歓談中かんだんちゅうに、俺は当面必要な荷物をシスタークレインの四輪馬車に運びこんだ。なんせエルサレムまでは道のりで五千キロ近くあるという話で、しかもアルプス超えをした場合の距離である。当然舗装ほそうされた道なんかないわけで、道中どうちゅうは追いぎやら強盗やらが出るというし、いざというときに助けてもらえるよう教会や修道院のあるキリスト教国をたどったほうがよさそうだ。となるとフランスを陸路で南下してマルセイユあたりで船に乗ってイタリア半島を岸伝いにたどっていくルートしかない。なんとかキプロスあたりまでは無事にたどり着きたいものだが。


 俺が御者席で手綱たづなを引いて座席に女三人が座った。今から重装騎兵になりきっているハルヒは一人だけ軍馬にまたがっていて、まあ見掛け倒しだがいい護衛にはなるだろう。好きにさせといてやるか。

 家の管理はメイドさんと雇いの農夫に頼んでおいた。もう一度この我が家の敷居しきいをまたげるのだろうかと物思いにふけっている様子の朝比奈さんは、最後に庭に咲いている花に水をやってから馬車に乗った。


 イギリスとはいっても夏はやっぱり夏で、乗客三人は強い日差しに目を細めている。長門に日傘を買ってやればよかったのだが、イギリスに日傘なるものが登場するのはもう少し後の時代らしい。朝比奈さんはドルイド修道士コスプレをしていて、というかマニアックすぎてたぶんこれがコスプレだと分かる人はほとんどいないと思うが、ケルト風白魔道士しろまどうしドレスの、えりにつながったフードを目深まぶかに被っている。

 俺の修道服にもフードがあるっちゃあるんだが、夏冬兼用、かぶると暑いし脱ぐと日焼けするし、ゴワゴワの麻であんまり肌触りはよくないときている。しかも今回は目的地が戦地なわけで、衛生兵のマークでも入れといたほうがいいだろうと思って白地に赤で赤十字を描いたポンチョみたいなやつを着ておいた。ハルヒがそれを見てクックックとこらえきれない笑い声をらしているが、俺のどこが変なのだ。

「ところで、朝比奈さん、どういうルートで行くんですか」

「え……そういうのはてっきりキョンくんの担当だとばっかり……」

朝比奈さん、自分はあれこれ決めるだけで後のことは他人任せってのはですね、あなた本当にハルヒに似てきてますよ。などと言うとまたプチプチとなにかが切れるかもしれないので黙っていたが、ニコニコ必殺スマイルの朝比奈さんを見てると何も言えなくなる俺である。

 ため息をついた長門が道の先を指差して、

「……ロンドンを経由して」

「おう、了解」

テムズ川から舟で下れば、下流でフランス行きの貨物船にでも乗せてもらえるだろう。ハルヒは太っとい眉毛を描いて気難しい騎士の顔をしながら後ろからついてきているが、顔まで騎士コスプレしなくてもいいぞ。


 途中宿場町で一泊し、ロンドンの城塞には翌日の昼頃に着いた。長門が指差す方向に馬車を進めていくと、なつかしのドラッグストア・ユキリンが見えた。一旦店に寄ると言う。

「な、ナガティウス錬金商会って、有希って開業してたの。すっごいじゃん」

「……気がついたら店主になっていた」

いや、それはそれで怖いです。

 皆を馬車から降ろして、馬からハーネスをいていると隣の建物から巨体が飛び出てきた。

「ユキ! ユキリン戻ってきたのか! まじかうおぉぉ」

泣いてるのか喜んでいるのか叫んでいるのか眼と鼻から水をほとばしらせながらマッチョ谷口が出てきた。ハルヒが眉を寄せ親指でクイクイと谷口の方を指し、

「ちょっとキョン……なんなのこいつ。なんで谷口がいんのよ」

「こいつはトニーといってだな、谷口の遠い親類みたいなもんなんだよ」

「へー、谷口って先祖イタリア人だったんだ……それでああいうキャラなのね」

何を納得しているのか妙に納得しているハルヒである。

「おい修道士、なんかぶっそうなもん下げてるやつがいるが、従軍でもすんのか」

「いやまあ、ちょっとエルサレムまでな」

「なん……だと。頼む! 俺も連れて行ってくれ」

「だってお前、家の仕事はどうすんだ」

「家の仕事なんざどうだっていい。俺だって戦場に行って一旗上げてえんだよ」

ああ、そういえば騎士見習いの就職先を口利くちききしてくれとか言われてたが、すっかり忘れてたな。

「しかしなあ、素人のお前が行っても足手まといになるだけだぞ」

「ユキのそばにいてえんだ」

そこまで言われちゃなあ、と俺は長門の返事をうかがった。

「……トニー」

どういう意味のトニーなのかよく分からなかったが、否定ではなさそうだ。男には家でじっとしていられない年頃ってやつがある。まあ無駄に筋肉ありそうだし力仕事ならやれるだろ。

「しょうがない、連れて行ってやる。四十秒で支度しろ」

「イェッサー」

ドタドタと家の階段を上がって行く音がしたと思うとまたドタドタと降りてきて、

「おい修道士、俺に命令すんな」

「分かったからさっさとしろ」

「イェッサー」

それから谷口の母ちゃんらしき女性と喧嘩けんかする声が聞こえて、ペッチンとなにかがひっぱたかれる音が聞こえ、ドタドタと階段を降りてきた。

「おう修道士、準備完了したぜ」

顔に真っ赤な手形をつけて出てきた谷口は、テカテカの新品フルメタル重装歩兵じゅうそうほへいの装備である。そんな装備で大丈夫か。夏のエルサレムの気温知ってんのか。

「着込みすぎだ、そんな格好じゃ船には乗れんだろ」

「や、やっぱそうかな。んじゃカブトは置いていくぜ」

ローマのコロセウムにでも出るつもりだったのか。

「なるべく軽い装備で、その長剣も、槍もダメだ。腰にあるやつだけにしとけ。必要になったら現地調達でもしろ」

っていうかなんでそんなバカ高いフル装備がお前んちにあんだよ。

「そうそう。この日のためにあつらえてみたんだが、どうよこのペナント」

谷口がパラリと開いてみせた刺繍ししゅう入りの旗はどこかの紋章のようだったが、

「どこの一族だ?」

「うちのに決まってんだろ。我がグッチ家の由緒ゆいしょ正しいヘラルドよ」

真ん中にナイトが立っていて右手にスーツケースと左手にカバンを下げている。なんか今すぐ家出しますみたいなデザインになってるが。

「なにが由緒ゆいしょだよ、それお前が勝手に作ったんだろ」

「やっぱバレてたか。でもいいじゃねえか、俺が出征しゅっせいする記念によ」

ところが、この紋章が代々伝わりどこぞのブランドのロゴになっているのを知るのは俺が未来に帰ってからのことである。

 似たような格好をしたハルヒが谷口の武器装備を逐一ちくいち品定めし、

「ちょっとトニーとやら、なんであんたの装備あたしのより立派なのよ」

「なんだあ、お前女だったのか。ふふっ、こう見えても俺様は革細工かわざいく職人だぜ。組合にはいろいろコネがあんだよ。プッなんだお前のボロっちいよろいは、中古か? 槍で一突きだぜ」

ムカついたハルヒがつるぎを抜こうとしたのでドウドウとおさえつつ、

「ハルヒ、軍馬は置いていくぞ」

「ええぇ、馬がいないとあたしただの歩兵じゃん」

だから前線には行かせねえつってんのに、お前戦う気満々かよ。

「馬を船に乗せると貨物になるから旅費がかさむんだよ。現地で借りるとか調達すりゃいいだろ」

「あそっか、そうよね。あるじを失った軍馬がうろうろしてるわよね。あったまいいわキョン」

いやお前、だから戦わないでねって、お願いだから。


「長門、こっちは準備オーケーだ」

「……了解した」

谷口を連れて行くとあっては店の面倒を見てくれるやつがいないので、当分の間閉めることにした。馬と馬車はここに置いていくそうだが、谷口の母ちゃんにでも頼んでおけばいいか。

 テムズ川の渡し船にでも乗るのかと思いきや、長門は店の地下室へのドアを指差した。

「……ここから地中海沿岸へショートカットする」

「え、もしかしてあのドア?」

「そう。でも一方通行のみ、帰りは徒歩の旅になる。それでもいい?」

「ああ、正直今回は旅費が足りなくてな。片道だけでもだいぶ助かるよ」

長門を未来から召喚しょうかんしてからずっと忘れていた、元は荷車、いや元はうちの実験室のドアだった建材を猫型ロボットのドコデモなんとか代わりに使おうってことらしい。なるほどな。全員を呼んで地下室への階段を降りるよううながした。

「え、ちょっと有希、こんな魔法使いの部屋みたいなところでなにすんの? あっ、分かった人体実験ね」

ああ、お前をマッチョな強化兵に改造するんだよ。

 床下にあるはずのペンタグラムは敷石におおわれていて見えなかった。長門は部屋の真ん中にドアを立て、ゆっくりとふり返り朝比奈さんを見つめた。

「……ここまで来て警告するのは、いささか無粋ぶすいかもしれない」

どっかで聞いたようなセリフだな。

「……でも、今ならまだ引き返せる」

朝比奈さんはギュっとこぶしを握り、

「いまさらです。とっくに覚悟はできています」

長門はうなずいてドアから一歩下がり、両手を合わせて詠唱を始めた。あらら、いいのかハルヒに聞かせちまっても。最近なんだか長門も半分ヤケクソっぽいんだが。

「……オンキリキリ……バサラウンハッタ……トビマス! トビマス!」

全員じっと固まったまま二十秒くらい待ったがなにも起こらない。

「有希? 今の、なんのおまじない?」

「……」

長門の液体ヘリウムみたいな目が俺を見つめた。長門がドアノブを指さしている。え、俺に開けろってこと? ゆっくりとドアを開くとそこは暗闇だった。だが前回のような虚無空間きょむくうかんではなくちゃんとした石の床があった。俺が最初に入り様子を確かめ、長門が手招きして全員を中へと導いた。長門が後ろ手でカチャリと閉めるとそこにはドアはもうなかった。

「キョン、今のなんだったの」

ハルヒが耳元でささやく。

「あれはだな、今流行はやりの錬金術の一種だ」

「へー。錬金術にドコデモなんとかとかあったんだ」

部屋が暗くてハルヒの表情が見えず、疑っているのか真に受けているのかよく分からないが、俺にとっちゃそんなこたぁもうどうでもよくなってきている。谷口が持ってきていたランプを部屋の中にかざすとどうやら食料倉庫のようだ。

「どこなのここ、」

ハルヒが誰に尋ねるでもなくつぶやいた途端とたん、地響きがした。いや、頭上でなにかが爆発し建物全体に響いた。石造りの部屋の奥にある重たい木のドアを押し開け、大きな石の階段を登って行くとそこに広がっていたものは。


 雲ひとつなくこれ以上ないという晴れ渡った青い空、そしてそこに飛びかう矢の雨、火矢の雨、投石器から放たれる砲弾、飛んでくる石、炸裂さくれつする可燃性の油が入った砲弾、壁に当たって燃え広がる油、走り回る兵士。壊れた石垣と日干しレンガがそこら中に散乱しており、弾が命中したらしい建物のあちこちにギザギザの穴が開いている。聞こえてくる兵士たちの雄叫び、指揮官の怒鳴り声、負傷者を運ぶ衛生兵、水の入ったおけを持って走り回る兵士。どこかで火薬が爆発する地響きが耳をつんざいた。

「やっちゃったなあ、長門。やっちゃったよー」

「……すまない。座標が二ミリ秒ずれた」

「ここはどの辺なんだ?」

「……アッコンの城塞都市。エルサレムから北に百六十キロメートル」

やっちゃったなあ、いきなり戦場だものなあ。てっきり地中海の青い島、恋も芽生えるバカンスのキプロスに出るとばかり期待してたものなあ。いやー、今回の時間移動技術は物理座標がシビアだとは聞いていたが、たった二ミリ秒? ずれただけでこんなことになるとはなあ。

「おーいみんな、予定変更だ。とりあえずこの町から脱出するぞ」

聞こえなかったのか俺の声がかき消されたのか誰も返事をせず、朝比奈さんは真っ青になって固まっている。ハルヒと鶴屋さんはなんだかサマーバーゲンとクリスマスセールがいっぺんにやってきたみたいなお祭り気分でキャーキャー喜んでるし、谷口はカタカタ震えながら股間をおさえている。

 なにかどこの国か分からない言葉で叫んでいる兵士がつるぎをふり回して俺達に向かってきた。翻訳ナノマシンが機能してないところをみるとたぶんアラビア語ですよね。俺は持ってきた仕込杖しこみづえを抜こうとしたが長門に止められた。

「……なるべく戦闘はけて」

ああ、そうだったな。俺たちはキリスト教にもイスラム教にもなんのうらみもない。ハルヒがキラキラ目ん玉でつるぎを抜こうとしたので後ろから取り押さえた。

「こういうときこそあたしにお任せにょろー」

鶴屋さんがもじゃもじゃ枝の杖を仰々ぎょうぎょうしくふり上げ、砂の地面を叩いた。たちまち炎のカーテンが三メートルくらい立ちのぼり、ムスリム兵はキャーキャー叫びながら逃げていった。ハルヒが目をまん丸にして、シスター今のナニ今のいったいナニどうやってやんのソレを繰り返している。


 なるべく身を守ることにてっすることにして、とりあえずこいつらを町の外まで連れ出さないとな。ていうか城塞都市でこのありさまってことは包囲されてんじゃないのか。どうやったら逃げ出せるんだ。

 破裂した砲弾が飛んで来るのをなるべくけつつ、ケホケホと咳をしながら建物の影にかくれた。

「長門、この街の構造を教えてくれ」

「……分かった」

長門は砂の地面に指先で地図を描いた。城塞都市ってやつは城壁の中がそっくり一つの街になっていて、そのまわりを分厚い壁が囲っている。町の西側は海、南側も海、東側も下半分は海、ということはもともと港町だったものを要塞化し、今は北側の陸地から包囲されてるってことだな。砲火が聞こえてきているのがたぶん北だ。

「とりあえず南にある港を目指そう。そこまで行けば小舟の一つくらい確保できるだろ」

「……分かった」

気のせいかもしれんが、楽しそうだな。

「……そんなことはない。全然、まったく、皆無」

いやま、そんなに否定せんでも、俺も少しワクワクしてるわけだが。

「よーしみんな聞け、俺達は一旦港に出て船でこの町を脱出する。もしはぐれたら南に向え」

ういーっす、とようやく皆の声が聞けて俺はホッとした。港を出たところでキプロスまで小舟でいでいくのはたぶん距離的に無理だし、東の陸地は皆イスラム圏なのでどうしようもないことは考えないことにした。

「おいハルヒ、約束しろ。生き延びるためならつるぎを抜いても構わんが、最低限身を守るだけだ。攻撃してくる奴以外は相手にすんな」

「分かってるわよ。あたしは遊びに来たんじゃないんだからね」

いや、日頃の行いが全て遊びで成り立ってるみたいなお前が言うのがいちばん信用ならんのだ。俺が懸念してるのは、いくらこういう状況とはいえハルヒが人をあやめたりしたらトラウマになっちまったりしないかということだよ。谷口は……まあ問題無いだろ。つるぎさやを握ってカタカタ震えているだけだしな。

「シスタークイレインはミス・アサヒナのことをお願いします。なにかあったらすたこらさっさと逃げるか隠れるかしてください」

「ガッテン、おまかせあれ」

「長門は安全なルートを先導してくれ。二番手にトニー、三番手がハルヒ、朝比奈さんとシスタークレイン、俺が殿しんがりを行く」

「……了解した」

「ちょーっと待ちなさい、こういうときは当然あたしが先頭でしょ」

「お前ここの地形知ってんのか」

「し、知らないけど」

「んじゃ二番手がハルヒでいいか?」

「それで手を打つわ」

ただ人より前を行きたいだけじゃないのか、二番と三番にどれだけの違いがあるんだ。

「長門、この町には地下水路みたいなものはあるか」

「……あるにはある」

長門はシスター二人に目をやってどうしたものかと俺を見た。ああ、水路って下水溝か。うーん、こういう状況でもさすがに朝比奈さんを汚水まみれにさせるわけにはいかんな。

「屋根の上は?」

「……ところどころに使えそうなルートがある」

「最短距離よりは安全なほうで頼む」

「……了解」


 よし、移動する。


 長門がいきなり民家のドアを足で蹴り開けた。もう容赦ようしゃなしだな。俺は早く入れとハルヒ、谷口、シスター二人の順に中に押し込んだ。誰も見ていないことを確かめて俺も中に入る。住民らしい爺さんと婆さんにスンマヘンスンマヘンと頭を下げ、二階建ての民家の屋上に駆け上がる。

「よし、全員飛べ」

隣の家との隙間を確かめて屋根に飛び移らせた。屋根瓦やねがわらに滑りそうになりながら尾根を伝って五人が歩いて行く。どっか遠くから兵士が監視してたらあやしまれること確実な、というか格好からしてあやしい集団だが。下の方で兵士がウロウロしているところを迂回うかいし、四階建てくらいの塔のへりを伝ってその隣の屋根に飛び降りた。

 朝比奈さんもこの時代に来てから随分と身軽になったとみえて、着地のとき片手片膝かたひざをつく姿がアサシンクリードバリに決まっている。足元のかわらが割れているのは気にしない。


 砲弾の音が響いてくる北の方角に目をらすと、舞い上がる土ぼこりの中に巨大なクレーンみたいな重機がいくつも立っているのが見えた。テコの原理で砲弾を豪快に放り投げるアレだ。

「すげーな、あれって射程が千メートルはあるって噂の、東ローマ帝国謹製トレブシェット回回砲ホイホイパオだろ。完成度たけーなおい」


 後ろから誰かの叫び声がした。さっき伝ってきた塔はモスクの鐘つき堂だったらしい。頭に布を巻いたおっさんが見張っていた。

「キョンまずいわ、見つかった」

「一度下に降りよう」

「……了解」

家の窓から忍び込み、これまたおびえた住民にエライスンマヘンと頭を下げながら六人がぞろぞろと走り抜けていく。玄関から狭い路地に出て走りだす。どっちの方角に向かっているのか頭のなかの地図が混乱したが、たぶん長門は分かっているので大丈夫だろう。

 五十メートルほど行ったところでまた建物の中に入り、今度は三階建てで屋上がなかった。ベランダから登って屋根に出た。ふり返るとさっきの塔にはもう人はいなかった。しばらくは見つからずに済むだろう。

 俺達が歩いてきた屋根のかわらがけっこうな数で割れているのに気付いたんだが、まあ建材屋の需要が増えてこの町にも微弱びじゃくながらの経済効果があるに違いない。


 砲弾の音がしている方角と反対の、南らしき方角をチラとながめてみたがまだまだ先は遠い感じだ。長門の先導するルートでは、兵士が集まっている東の壁をけ、どうやら一旦西に迂回うかいしてから港へ向かうらしい。


 俺たちは高い石造りの建物の壁をよじ登った。階段を使いたかったのだが家の入口が道に面しており、裏の壁面を直接登ることにした。

 壁は下の方だけ石造りで、途中から日干し煉瓦れんがに変わった。わりとデコボコがあり、隙間に足をかけながら少しずつ登った。のように壁に張り付いた朝比奈さんと鶴屋さんの白い衣装がパタパタとはためいて、遠くの窓から顔を出した住民がなんやろなーという顔でこっちを見た。二人はとっさに洗濯物のフリをしてやりすごし、全員無事に屋上までたどり着いた。やっと屋上に出てそこから見えたものは、

「ちょっと! キョン! あれ!」

真夏の太陽の下、城壁の西に広がる真っ青な地中海、そこに大挙たいきょして押し寄せる帆船の数、水平線まで続く大船団である。帆布ほぬのに大きく描かれた赤い十字の印は、まぎれもない十字軍艦隊だった。艦隊っていうか戦艦じゃなくて輸送船団だけどな。

「キョンくん、あれってイングランド軍なの? ロード・スマイトがいるの?」

「多分そうだと思います」

「味方よ! 援軍よ! 伯爵があたしたちを助けに来たのよ」

「おいちょっと待て、あれは別に俺たちを助けに来たわけじゃ」

言うが早いかハルヒは駆け出していった。聞いちゃいねえ。屋根から滑り降りたと思ったら隣の屋根に飛び移り、どこから持ってきたのか長いロープを渡してまた隣の建物に移り、最後にはこの町最西端さいせいたんの城壁にたどりついた。

「げっ、気でも狂ったのかあいつ、なんてマネを」

城壁の上のハルヒがこっちに向かってニヤニヤ顔を見せ、こんなこともあろうかと用意してたのよフヒヒ的に一枚の大きな布を取り出した。パタパタと風にはためく大きな旗は我がSOS団の紋章、そして今ではグロースターの騎士、サー・コイズミの紋章、ECCE HOMO QUI EST HARUHINAである。意訳すると、ハルヒはここにいる、だ。

 そのとき、俺の耳は確かに聞いた。海から風にのって聞こえてくる大きな歓声を。イングランド軍の兵士があげる雷のような雄叫びを。ハルヒが必死で旗を振っている。一隻の船がこちらへとかじを切った。ここから上陸するつもりか、どうやってだ。

 ハルヒの声を聞きつけて敵の兵士が集まってきた。弓兵きゅうへいもいる。

「おい長門、緊急事態だ」

このままでは俺達も見つかってしまう。俺は数秒だけ考えた。こいつらだけ先に向かわせるか、あるいはハルヒを回収してから一緒に港に向かうか。

「いや待て、第三の方法がある」

「……その意味とは」

「ここで待ってイングランド軍と合流する。敵に取り囲まれる危険もあるが、おそらく港にもイングランド軍が押し寄せて戦闘になるだろう。ここは動かず待っていたほうがいい」

「……分かった。わたしもそれにける」

長門がける、ときたか。

「シスター、イングランド軍が侵入してくるまで、ミス・ユキリナとどこかの建物に隠れていてください」

「あいあいさー。ブラザージョーンはどうするんだい?」

「俺はちょっとアレを回収に」

城壁の上で狂ったように旗を振っているハルヒを親指で示した。

 俺は朝比奈さんに十字架を手渡し、イングランドの兵士が来たらこれを見せるようにと言った。そして長門の肩をポンと叩いて、

「あとは頼むぞ。白旗が上がったらそこで落ち合おう」

「……了解した。無理はしないで」

大丈夫だ、今までけっこう痛い目にあってきたんだ。ちょっとやそっとじゃ俺は死なんよ。

 兵士たちが集まってきてそろそろ城壁がやばい。寄ってくる敵に向かってハルヒがゆらりとつるぎを抜いた。俺は仕込杖しこみづえを握りしめて宙に飛んだ。


 建物から地上に降り、俺は一目散いちもくさんに城壁を目指した。あんな高い壁どうやって登れってんだと一瞬ためらったが、兵士どもが走っていく先に階段があった。俺もそれにまぎれて登っていたんだが、途中で兵士が俺の顔と服を凝視ぎょうしして武器をふりかざしてくる。なんなんだお前ら、俺はイングランド人の顔じゃないだろ。どっちかつーと日焼けしてお前らアラビアンに近い顔だろ。

 向かってくるムスリム兵を城壁から蹴落とし、杖で叩きのめし、かき分けていくとようやくハルヒが立っているところにたどりついた。

「おいハルヒ! 勝手なことすんなつってんだろが!」

「やかましいわ! あたしに説教すんな!」

俺もこいつの行動にはたいがい腹が立っているが今はそれどころじゃない。ハルヒの瞳孔どうこうが開いちまって完全にっちまってる。逆らわないほうがよさそうだ。

 ハルヒは大声でなにごとか叫びながらつるぎをふり回し、盾をかざし天才的な早業で敵の剣筋けんすじけている。敵兵も恐れおののいて近寄れない感じで、なんか俺がいなくても一人で戦える雰囲気じゃね。

 俺はときどき遠くから放物線を描いて飛んで来る矢に気をつけながら、ハルヒが足元に放置している旗を取り上げた。兵士から長い槍を取り上げてひもで結び、

「おーいハルヒ、そいつらは俺が相手するから、これ振っとけ」

ハルヒは話しかけたら殺すぞみたいなすごい形相ぎょうそうで俺をにらみ、それから黙って旗を受け取り、壁のへりに立って野球場の応援団旗よろしくふり回した。これで遠くからも見えるだろう。壁から外を見下ろしてみるとハルヒが垂らしたらしいロープが海面まで降りている。見れば、壁の下から沖へ五十メートルくらいは浅瀬になっているが、なるほど、ここから登って来いってわけか。

 俺は城壁に立って、ときどき登ってくる兵士を小突き、ハルヒに矢が当たらないようにと盾になった。まあ下から射る矢なんてそうそう当たるもんじゃないんで余裕だ。向かってくる船の様子に気を取られていると、大きな旗をかかげた兵士がまぎれ込んでいてハルヒのほうへと走ってきた。

「邪魔すんなテメェ!!」

ハルヒが怒鳴り声を上げてそいつのケツを蹴っ飛ばし、そいつが持っていた旗ごと海に放り込んだ。おぼれるほどは深くないのが幸いだったが、ありゃー痛かったろう。


 上陸船が三隻ほど岸壁がんぺきに近づいてきた。イングランド兵がロープをたぐり寄せる間、俺は壁の上を往復して弓兵きゅうへいを排除しなければならなかった。

「いやあ驚きましたよ。ドイツ騎士団の格好をしたのが、まさかあなただったとは」

ロープを伝って最初に登ってきたのは古泉である。ひさびさのご対面なのになんだか二人とも照れくさいのか、こういうときどんな顔をすればいいのか分からないの、的な表情で、

「ドイツ騎士団って修道士なのか」

「ええ。騎士修道会といいますね。いわゆるパラディンな方々です。白地に赤の十字が目印です」

古泉が俺の胸の十字を指して言う。ハルヒが笑っていたのはこれだったんかい。先に教えろよ、かっこうの標的じゃないか。

「こっちもどうにもならん緊急事態が重なってな、気がついたらここに来ちまった。おーいハルヒ、その旗もう振んなくていいぞ」

古泉の姿を目にしたハルヒはようやく落ち着きを取り戻して旗を降ろし、肩がった様子で首をコキコキと鳴らしている。

「おう、サー・コイズミ、お勤めご苦労。戦況はどうなの」

などと気取ってイングランド風の敬礼をした。こぶしを握って胸に当てるやつな。

「実は我がリチャード陛下がここに来てからずっと膠着こうちゃく状態でして、北からはフィリップ二世が攻めていたんですがなかなかに守りが強固で」

「そんなに強い城塞だったのかここは」

「ええ、ここはムスリムにとって守りの要衝ようしょうなのです。さすがに万全の備えをしていただけあって陥落かんらくは不可能かとも思われました。ところがものの五分前のことです、見張りから城壁にコイズミの紋章が上がっているとの報告があり、船上で、あれはいったい誰が振っているんだと騒ぎになりました。一本のロープが要塞に風穴かざあなを開けたわけですよ。さすがは涼宮さんですね、勲章ものです」

よく見ると、顔を赤くしてそっぽを向いているハルヒの腕章が今日は団長に戻っている。

「おいハルヒ、なんで団長なんだ?」

「SOS騎士団団長に決まってんじゃないの」

などとツンとすました顔で言う。


 古泉はゆっくり話している暇はなさそうで、ロープを伝って登ってきた兵士を五十人ほど集め、港に船団の上陸地点を確保するのでと言い残して去っていった。兵士たちがいちいち俺に敬礼していくので、うむ神のご加護を、と偉そうな顔でうなずき返しているのを、ハルヒがニヤニヤしながら見ていた。

「おーいハルヒ、俺は長門たちを迎えに行ってくる。そろそろ撤収てっしゅうするぞ」

「ええー、まだまだこれからなのにぃ」

何度言ったら分かる、どっちの国にも関係ないお前に人殺しをさせるわけにはいかんのだ。


 港の守りは背後を突かれてあっけなく開放され、船団の兵士が突入し、それから小一時間しないうちにアッコンの町は白旗を上げた。


 長門と落ち合う約束だったが白旗らしきものはなかなか見当たらず、まあお役所みたいなところにいけば町の代表者との講和条約みたいな話し合いがあるだろうと、大きなモスクを訪ね歩いてみた。

 町の北側の壁に接している大きなアラビア建築があり、塔のてっぺんに白い旗がなびいていた。どうやらそこが司令官のいる城らしいな。

 北の門が大きく開かれていて、馬に乗った十字軍の兵士が威勢いせいよく旗をふりながら入ってくる。疲れてはいるが戦いに勝利した喜びにあふれた顔だ。行列の後ろから二頭立ての大きな箱馬車のようなものがゴロゴロと入ってきて、それを見たハルヒの顔がキラキラと輝きだし、

「ちょっとキョン、あれって東ローマ帝国の全方位戦車砲バリスタ・クアドリロティスじゃん。完成度たけーなおい!」

なんでそんな超レアな武器知ってんだ。


 城門を入って行くと、イギリスフランスドイツ連合軍みたいな騎士さんたちが、それぞれ所属する領主の旗をかかげてずらりと並んでいる。たぶん領主の到着を待っているのだろう。なんか見たような顔がいるなと思ったら、おい谷口、お前どさくさにまぎれてなに自分の旗立ててんだ。


 ひときわ大きなモスクに負傷兵が次々とかつぎ込まれており、修道士や住民が手当に奮闘ふんとうしているようだ。俺は近くに立っている兵士に、アルケミーと修道女のイギリス人を見かけなかったかと尋ねてみるが、英語は分からんと肩をすくめられただけだった。担架をかついでいる修道士を呼び止めてラテン語で尋ねると、そういえば診療所の奥で見かけたような気がすると言っていた。


 中に入るとそこかしこに包帯を巻いた負傷兵が寝転んでいて、血なまぐさい匂いに汗の匂い、誰かがらしたのか小便の匂いが交じり合って鼻をついた。戦いの後ってこんな感じなんだなあと、俺は複雑な気持ちでながめていた。いったいこいつらの何人が無事に故郷の土を踏めるんだろうか。

 部屋の奥に行くと、そこで甲斐甲斐かいがいしく働く朝比奈さんと鶴屋さんの姿があった。

「おーい、長門、無事か~」

俺が呼びかけると乳鉢で薬を練っていた手を止めて顔を上げた。俺を見るとなんとも言い知れぬ複雑な表情をして乳鉢を取り落とした。それを見ていた鶴屋さんが、

「ほらほら、こういうときは思い切って胸に飛び込むにょろ」

背中をドンと押された長門がつんのめって飛んできた。いや、いくら長門が軽いからって足が地面から離れてジャンプするほどの飛翔ひしょうはしないと思うのだが、長門は両手を広げて俺の首の抱きついた。

「いよっご両人」

鶴屋さんがはやし立てると、その辺に寝ている包帯だらけのミイラどもがピーピーと指笛ゆびこを鳴らして拍手をしている。はいはい見せモンじゃない、お前らちゃんと寝てなさいね。

「心配かけたな」

「……」

長門は何も言わなかった。あの……長門さん、俺いちおう修道士だから、女性には触っちゃいかんことになってるから。しかし、ま、いっか。こういうときくらいは。


 それから翌朝までずっと治療に駆けずり回り、俺は長門の助手をやりながら手当の方法を教えてもらった。その気になれば蘇生そせいすらできるはずの長門は、いったいどこまで治療すべきか、目の前で息を引き取っていく兵士を見ながらジレンマにおちいっているようだった。

「少し疲れてるみたいだが、大丈夫か長門」

「……問題ない。わたしはすでに過ぎた歴史を追従ついしょうしているだけ。この時代の医療技術を超える治療はしない」

それが自分で作ったルールにしろ、情報統合思念体の規定にしろ、助けられるものを助けられないってのはストレスになるだろう。長門の表情が少し硬くなっているが、エラーが出てるのかもしれんな。

 俺は長門の背中をさすって、

「まあ適当なところで休め。理屈では納得してるかもしれんが、今目の前で起きてるわけだし、お前もこいつらも生身なわけで、さすがに情報量が多すぎるだろ」

「……そう」

今まで農村で優雅な暮らしをしてきたというギャップもあるしな。


 ところで朝比奈さんはというと、こんなに大量の負傷兵を見たのははじめてだったようで、かなりのストレスを感じているようだ。ときどき目眩めまいと貧血の症状を発しながら鶴屋さんの背中に持たれていた。

「大丈夫ですか朝比奈さん」

「ありがとう、大丈夫よ。わたし……考えが甘かったわ。戦場の兵隊さんがこんなに血まみれになるなんて思ってなかった。平和に暮らしてる未来じゃ考えられないもの」

ええまあ、俺も少し吐き気をもよおしつつやっていますが。


 患者や看護師さんの雑談に混じってコツコツと硬いブーツの音が聞こえ、俺はその人物と目が合った。硬い表情でこっちに歩いてくる。

 俺は目だけで朝比奈さんに伝え、くるりとふり向いた朝比奈さんは包帯を取り落として椅子から立ち上がった。黙ってここまで押しかけちまったんだ、ありゃーたぶん怒られるぞ。

「そちらはミス・アサヒナではありませんか」

「マ、マイロード、」

朝比奈さんがマイロードと言うのを聞いて、周りで座っていた兵士がこぞって立ち上がろうとした。伯爵は気にせずそのままでいろと手で制して、

「コイズミ殿からあなたがいらっしゃっていると聞いて愕然がくぜんとしました。なぜこんな危険な場所へいらしたんですか」

「ごごご、ごめんなさいっ、修道院の方と一緒に兵士さんの怪我けがの治療に来たんです」

朝比奈さんは目を合わせず、下を向いたままひたすらに謝っている。まさか戦場のど真ん中で再会することになろうとは両人とも予想していなかったに違いない。

「こら伯爵、みくるちゃんがいなかったらこんな簡単にはちなかったわよ」

「ミス・スズミヤ、お手柄は伺っている。よろいがよくお似合いだ、男に生まれればよかったのにな」

今のは伯爵なりの皮肉だったらしく、後ろに仕えていた騎士さんたちがドッと笑った。

「うっさいわ! ジャンヌムググを知らんのかあんたは」

ジャンヌダルクは十五世紀の人だからな。未来の情報漏洩じょうほうろうえいは厳禁だぞ。

「ミス・アサヒナに折り入ってお聞きしたいことがあるのだが」

「ええ、なんでしょうかマイロード」

「できれば二人きりで」

それを聞いた途端とたん、眉をひそめていたハルヒの顔がキタワァァに早変わりした。とうとうね! とうとうこの瞬間が来たのね! 朝比奈さんの表情にも一気に希望の色が広がってきた。

「えっと、はい。ではどちらで」

「修道士殿、ご同席願えるかな?」

「え? 俺もですか? いいですよ」

二人きりというのになぜ俺が。ハルヒがどうしてもついてきたそうにしていたが、プライベートな話らしいし、俺が後で詳しく報告してやるから、なにか食うものもらってきてやるからというとあきらめたようだった。


 モスクの上階の個室に案内され、朝比奈さんと伯爵は小さな丸テーブルを挟んで座った。俺は部屋の隅で立ったまま控えていた。

「ミス・アサヒナ、出発前にあなたがおっしゃったとおり、メッシーナの戦いでは見事勝利を収めました」

「わたしも念じておりました。主のお導きに違いありません」

あんまり信心深そうもない未来人朝比奈さんは、俺が渡した十字架を胸の前でかかげてみせた。

「それからあなたの勧めによって出港を三日伸ばしました。最初は信じられませんでしたが、あなたのおっしゃった通り天気がくずれはじめ、先に出た船は難破したようです」

「主のご加護により助かったのですね、よかった」

朝比奈さんが修道女スマイルよろしくマリア様風に微笑ほほえんでいるのを見て、伯爵はしばし無言で、どうも意図が伝わっていないらしいと感じたらしく単刀直入に言った。

「ミス・アサヒナ。こんなことをブラザーの前で申し上げるのは罰当ばちあたりかもしれませんが、神がいちいち願いを叶えてくださるほどの徳を、私が持ちあわせていないことは確かです。これまで様々な戦場を経験していますが、予言通りに勝利できることはありえません」

「あの……つまり」

「なぜ天候が悪化すると分かったのですか。あなたは一体何者なのですか」

「えっと、つまりですね」

ここですべてをカミングアウトして、未来から来たから知ってるんですよ、とはさすがに言えまい。朝比奈さんの目は水族館のいわしの群れのようにキョロキョロと泳ぎまくり、俺に視線を投げて助け舟を求めてみるが、俺はただ肩をすくめるだけだった。これはあなたがはじめたことですから、あなたがおやんなさいね。

 朝比奈さんは突然天井を見上げて、

「星です、星のめぐりがそうなっていたの」

「なるほど、そうでしたか」

なーにを納得したんだあんたは。

「実はわたしは修道女ではありません。星に運命を読み解く女です」

「ミス・アサヒナが占星術師だったとは、存じませんでした。疑ったりしてすまない」

おいおい嘘で嘘を塗り固めちまったぞこの人は。大丈夫か、虚構きょこうが雪だるま式にふくれ上がって引くに引けなくなってんじゃないだろうか。

「マイロード、星の動きからわたしが読んだことを申し上げてもよろしいでしょうか」

「まだ先があると?」

え、なんだかヤバくね? まだ未来の情報を漏洩ろうえいするつもりなんですか朝比奈さん。どこまで禁則を破るつもりなんですか。

「アッコンが陥落かんらくした後、ある問題が起こります」

「問題と申しますと」

「遠征前からリチャード陛下はサラハディーンと交渉されていたと思います」

サハラディーンってのはこの時代にイスラムを統一した王様だ。

「そこまでご存知だったとは。確かに、たびたび交渉していらっしゃいました」

「リチャード陛下は今回捕虜にしたアッコンの兵士と住民を人質として、身代金を要求なさるおつもりだと思います」

「たぶんそうなさるでしょう」

「それを逆手に取られ、人質を養うのに必要な兵糧ひょうろうと資金が尽きるまで交渉を引き延ばされてしまいます」

「なんと!」

「それに気がついたリチャード陛下は人質全員の首をおねになられるでしょう」

「本気ですか。人質は三千人近くいるのですぞ」

「はい、本当です。陛下はそのために汚名をかぶることになります」

俺は少し不思議だった。時間移動技術者とはいえ、なぜここまで十字軍の歴史に詳しいのだろう。いや実際詳しすぎる気がするのだが。

「それがあなたの読みですか、ミス・アサヒナ」

「残念ながら、そうです」

伯爵は大きくため息をついた。そして腕組みをし、部屋の中をコツコツと歩き始めた。

「ミス・アサヒナ、これはまだ秘密なのですが、この後、陛下はヤッフォの港を攻めます」

「その前に、アルスーフで大きな戦いがあるでしょう。今から約二ヶ月ほど先のことです。そこでは作戦が必要になります」

「作戦と申しますと、どんな」

「リチャード陛下は二つの騎士修道会をお持ちだと存じますが、サラハディーンは騎兵を出してその片方に陽動を試みます。陛下はこの陽動には乗らないように命令されると思います。十分に引きつけた後、陛下の本隊とともに反撃なさり、さらにもうひとつの修道会が続いて攻撃なさいます。それで敵の軍勢はくずれるでしょう」

「驚いた……あなたの星の読みでそこまで分かるとは」

星がそこまで教えてくれるのなら俺も未来を占ってもらいたいものだが、伯爵はちっとも疑っていないらしく目を丸くしている。


「あの、マイロード、少し僭越せんえつなことを申し上げてもよろしいでしょうか」

「もちろんですとも」

「十字軍の遠征は簡単には終わらないのです。これから二十年に渡って繰り返される戦争です」

「に、二十年もですか」

「その間に国は疲弊ひへいし、領民は重税にあえぐことになります。国力が弱まると近隣の領主がそれを狙い、土地をうばい合うことにもつながります」

「つまり、戦勝はあきらめろと」

「いえ、適度な勝利で満足し領民を喜ばせるのも、領主のあるべき姿ではないかと思います」

「確かに。おっしゃるとおり」

「それもあってかもしれませんが、今回の勝利を手にしたレオポルト閣下とフィリップ二世陛下は戦線から離脱されるでしょう」

レオポルトはオーストリアの貴族で、フィリップはフランスの王様な。

「なんと薄情な。となると、リチャード陛下単独になりますな。苦戦はやむを得まい……」

伯爵は腕組みをしたままじっと考え込み、ときどきブツブツと独り言をつぶやいてから、

「失礼、ミス・アサヒナ。お時間取らせてすまなかった。今後の勝敗を左右するような貴重なお話でした。ありがとう」

「あなたのお役に立てるならいつでも、マイロード」

伯爵は朝比奈さんの右手を取り口づけをした。朝比奈さんは頬を染め、ようやく務めを果たしたような、思いつめていたものから解放されたような、なにかを達成したような満足した表情だった。

「修道士殿、立会に感謝する」

「え、立会人だったんですか俺」

「私がご婦人と二人きりになるのははばかられたのでな」

なるほど、騎士道にはそういう慣わしがあるんですか。


 朝比奈さんの満足そうな顔を見ながら、俺は部屋を出た。

「こんなことして大丈夫なんですか?」

「なにかしら?」

「とぼけないでください。未来の情報をかなり教えていましたよね」

「ええ。でもこの通りに事が運べば、わたしが教えようが教えまいがたいして違わないと思うの」

無茶、ってうか強引だ、強引すぎる理屈だそれは。歴史の当事者かそうでないかの違いは俺にも分かりますよ。なんだか俺も甘く見られるようになったなあ。

「これでもしイングランドが負けたりしたらどうするんです」

「苦戦するかもしれないけど、負けたりはしないわ」

「確信があるんですか?」

「キョンくん、既定事項というのは簡単には切ったり曲げたりはできないものなの。いくつもの点でつながった長い線みたいなもので、誰かが意図的にじ曲げても、元に戻す力が働いて結局は同じ点にたどり着くことになるのよ」

関係あるようでなさそうな、話をそらされている。追求されると都合が悪いことがあるんだろうか。

「そうなんですか。じゃあ修正ってどうやってやるんですか」

「歴史の修正は、三つとか四つの点を同時に動かして、そこで固定してしまう強力な押しピンみたいな点が必要になるの」

「なるほど。じゃあたった今、朝比奈さんが五寸釘で点を追加したわけですか」

それは別に質問を投げたわけではなく、さも考え深げに納得してみせたのだが、朝比奈さんは真顔のまま眉毛をピクリと動かしただけでなにも答えなかった。

 このときの朝比奈さんの予言がきっかけとなってか、政治を占うためにホロスコープがイギリス王室に持ち込まれるのは、もう少し先の話である。


 ハルヒと長門がいる治療院に戻る前に、なにか食うものを持って帰らないといけないことを思い出した。だが戦時閉店で食料品店とかやってねえし、コンビニもファーストフード店もねえしと思っているところに都合良く古泉を見かけた。

「おい古泉、長門とシスタークレインに食べ物を持って行きたいんだが、都合つかないか」

「おまかせを、数分お待ちください」

古泉の部下らしい兵士たちが、うちのボスに食料調達をさせるとはいったい何者なのだという顔をしている。俺はふんぞり返って、お前らどこの出身だ、家族はいるのか、母ちゃんを大事にしろよ、などと偉そうな口をいてると、どうやら古泉のアニキかなにかだと思ったらしく、俺にサーを付けて答えるようになった。兵士ってのは、初対面では自分のボスより偉いかどうかをいつも測っているもんだ。それを知ってか朝比奈さんがクスクスと笑っている。

「あいにくパンと干し肉しかありませんでしたが、外で炊き出しをやっています。ところで、みなさんはいつまでここにご滞在ですか」

滞在ってお前、俺達は観光に来たわけじゃないんだぞ。

「負傷兵の治療が終わるまではいるつもりだが、なるべく早めに離脱したいな」

「それがいいでしょう。遠征はまだ序盤ですからね」

「お前もあんまり無理はするなよ」

「ええ、僕はいつも適度なところでセーブしています」


 古泉から乾燥したパンと干し肉のかたまりを受け取り長門と鶴屋さんに持っていった。部屋に入るなりハルヒがかぶりつきそうな勢いで食いついてきたのでうばい返して三等分にした。ハルヒはこんなんじゃ全然たりないわとごねて、長門がハルヒに半分分けてやっている姿が涙ぐましかった。帰ったら腹いっぱい食わせてやるからな。

「んでんでんで、どうだったのみくるちゃんと伯爵は」

「どうって、なにもなかったぞ。お前がそのお花畑脳みそで考えてるようなことは一切」

「お花、畑で、悪かったわね。キョンまた毛ぇ抜いたろか」

やめてー髪の毛はやめてゅぇぇ。

 朝比奈さんが苦笑しつつ、

「期待した話じゃなかったわ」

「何の話してたのよ」

「この先激しい戦闘になるから、早めに帰りなさいって。マイロードも早く帰ってきてね、って」

「このこのぉ、にっくいわねぇ互いの安否を気遣きづかう戦場の貴公子と乙女の燃え上がる恋」

もう燃えて灰になってしまえばいいのに。恋とか、情熱とか。


 なるべく早く帰るとは言ったが治療院の人手が足りず、さらにムスリムが撤退てったいすることになったモスクの建物を修道院に模様替えすることになったのでそれに駆りだされたりし、結局一ヶ月くらいはこの町に滞在することになった。そのころまでに町の経済も復旧して、食料に困ることもなくなり、よその町に避難ひなんしていた住民も戻ってきた。アッコンってところは、今が戦時でなければここで一夏を過ごしてもいいくらいのちょうどいい観光地なのだがなあ。


 負傷兵のうち歩けるようになった者は輸送船でフランスを経由して送り返すことになり、治療院のベットにもだいぶ空きが出るようになった。本国からの補充の兵士も続々とつめかけている。朝比奈さんが言っていた通り、レオポルトとフィリップはそそくさと自国へ帰っていった。噂ではサラハディーンとの交渉がこじれているらしい。史実では近いうちに人質の首をねることになるらしいのだが、その前に撤収てっしゅうしたほうがよさそうだ。レディにはあんまり血なまぐさいシーンは見せたくない。


 修道会のツテでどうやら帰りの輸送船にまぎれ込めそうなので、俺は全員に帰り支度をさせることにした。

「おーいみんな、撤収てっしゅうするぞ。明日の船で帰ることにした」

「ええー、まだ楽しみたいのにぃ」

お前は戦場を闘技場かなんかと思ってるんじゃあるまいな。ハルヒはここ一ヶ月ほどの間、俺たちの時代でいうところのイスラエル沿岸を馬で駆け巡り、反重力装置付き絨毯じゅうたんとかホログラム映像で太ったオッサンが現れるオイルランプだとか、音声センサー付き自動ドアみたいな世紀の珍品を探し回っていた。アラブの商人と取り引きできないかと通訳に長門を連れてまわっていたが、そんなもんが出てきたりしたら西洋史どころか中東史までもがひっくり返りかねんわけで、ヤバい願望を持つハルヒが世紀のヤバいもんを引き寄せてしまい、長門自らで阻止そししてくれていた。


 なるべく荷物は持たないようにして、ゾロゾロと五人で港まで歩いて行くと波止場で伯爵と古泉が待っていた。

「修道士殿、道中どうちゅうご無事で。ミス・アサヒナのことをよろしく頼む」

「ありがとうございます。帰ったらまた城にお伺いします」

「ミス・アサヒナ、今回はあなたに助けられたと言っても過言ではない。ご助言に深く感謝する」

「あなたのお帰りを首を長くしてお待ちしておりますわ、マイロード」

「いいわねぇ、港で別れを惜しむ二人。絵になるわぁ」

「す、涼宮さんだめですよからかっては。ロードシップが困ってらっしゃるじゃないですか」

ハルヒはちょっと一枚写真を撮らせろと、まだバッテリーが切れていないらしいスマホを取り出してパシャリとやった。今のはいったいなんだったのだろうと伯爵が首をかしげていたが、

「伯爵、あんたもさっさと帰って来なさいよね。みくるちゃんがどうなっても知らないわよ」

「ミス・スズミヤ。どうなっても、とは?」

「なんかさぁ、長官がみくるちゃんを見初めたらしくて、ちょっかい出してくるのよねぇ。やれ花だ、やれ贈り物だって、ウザいったらないわ」

いえ嘘です。そんなちょっかいは一度もないですから。ところがこのハッタリが意外にも効果あったようで、伯爵の眉毛がピクピクと動いたのを俺は見逃さなかった。


 輸送船はこの時代特有の、二枚の帆が貼ってあるだけの小さな帆船で、帰りの客は帰還兵きかんへいがほとんどだった。伯爵と古泉は波止場に立ったままいつまでも手を振っていた。ハルヒは負けじとSOS団の旗をふり続けた。

 天気もよく風も穏やかで、長門に天気予報を聞いたところ一週間ばかりは安定していると言っていた。ところが陸を離れた途端とたんにハルヒはゲロの嵐にまみれ、青い顔をして半眼状態で舷側げんそくに寄りかかっている。まあいつもそれくらいおしとやかだったらこっちもありがたいんだがな。


 俺達がたどったルートは、キプロスで水と食料を積み込み、イタリアのつま先メッシーナに立ち寄り、ナポリ、ジェノバと海岸線を伝ってマルセイユで船を降りた。孤島なんかには行かない行かない。

 マルセイユに着いたはいいがそろそろ資金が底をつき始めている。

「おーいハルヒ、緊急事態だ」

「へー」

「言い直そう。あんまり緊急ぽくない事態だ」

「そうなの。よきにはからえ」

戦線を経験した今では、どんなことにも危機感を持たなくなってしまった俺達だが、金が無いとなると飯が食えないし、雨風をしのぐこともできない。

「正直、金が足りねえんだよ」

「しょうがないわね。山賊職で働きましょう」

こいつに相談した俺がバカだった。山賊って正式な職業なのか?

「長門の錬金術って、金を作ったりできないよな」

「いいこと思いついたわ!」

「……核融合すれば可能」

「ねえねえ、たった今いいこと思いついたわ!」

「さすがに核融合して金貨を作るのはルール違反かもなあ。シスタークレインはなにか稼ぎになりそうな特技ありますか」

「こらキョン聞いてんの? あたしに素ン晴らしいアイデアが!」

「あたしかい? やるとしたら魔法使った大道芸くらいかねえ」

「大道芸ですか。それもいいですね、俺食べるのに困ってたときリュートで流しやってたんすよ」

「みんなで旅芸人の一座をやったらいいと思わない?」

「へー、じゃああたしがどっかで楽器でも仕入れてこようかね」

「こらアタシの話を聞けぃ!!みんなで芝居をやるわよ」

まあ結局同じ結論にたどり着いたわけだが。


 ハルヒによるプロデュース兼ディレクション、長門、朝比奈さんが主演、鶴屋さんが古泉イツキの代役、俺が脇役兼音楽その他もろもろ担当で、朝比奈ミクルの冒険in中世をやることに半ば強制的に決まっちまった。ってフランス語でやんの?

 長門にフランス語で脚本を書いてもらい、それを棒読みで覚えるキャスト一同、もとい、俺とハルヒである。舞台稽古では、口蓋破裂音こうがいはれつおんのイントネーションが悪いとか歯茎摩擦音しけいまさつおんの抜けが悪いとか、朝比奈さんにやたらビシビシとしごかれた。

「あなたの思うとおりにはシシ、シルブプレ~、わたしがマドモワゼール!」

「み、み、ミクルコマンタレブー!!」

目からビームを撃たれたりしたらおちおち挨拶あいさつもできないという複雑で難解なフランス語だが、長門ナノテクノロジーによる脳内翻訳をアップグレードしてもらってやっとフランス語が聞けるようになりメルシーボクだぜ。


 ハルヒがどこからかパクってきた幌馬車ほろばしゃに全員を乗せ、マルセイユから北に向かって進み、金のまわりが良さそうな町や村に入るといちばん人通りが多そうな場所に陣取って舞台を設置し、その上で歌ったり踊ったり飛んだり跳ねたりを繰り返した。中世の人間ってのはよっぽど暇を持て余しているのか、これが思いのほか盛況でおひねりはいつも大入りだった。フランスでは国中でミクルコマンタレブーが挨拶語あいさつごと化し、朝比奈さんもまさかこの歳になってこの恥ずかしい舞台を演じることになるとは思いもしなかっただろう。


 だいたい二週間くらいの行程のはずだったのだが、公演のリクエストが引く手あまたで、あっちの町に寄りこっちの村に寄りしていたところ北フランスの港町にたどり着くまで一ヶ月ほどかかってしまった。

 船でイギリスの南にあるドーバーという港町に着いたとき、俺はもう何十年ぶりに生まれ故郷に帰ってきた帰還兵きかんへいの気分で、岸に着くなりイギリスの地面を抱きしめてキスをするありさまだった。あんたは新大陸を初めて踏んだイタリア人かとハルヒに突っ込まれたが、ああ、なんか配役が一人たりねーと思ってたら谷口を置いてきちまった。まあ自力で帰ってくるだろ。

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