十六章
歳が暮れていく。俺と長門は一旦ロンドンに戻って店の営業を再開した。風邪薬の在庫を増やしておかないと、冬になると注文が殺到するらしいのでな。長いこと留守にしていたので谷口が行き先ぐらい教えていけと怒っていた。ずっと荷車用のロバを借りっぱなしだったので若いロバを手に入れて返してやった。
俺たちはクリスマスをずっとロンドンで過ごし、二人で静かにイブを祝って近所の聖堂のミサに出かけたりした。この頃はずっと雨が降り続いている。古泉からの手紙によると畑は水浸しで農作業は年明けまで休みらしい。芽を出した小麦が凍りつかなければいいのだがな。気温の割にはあまり雪は降らず、降っても解けて流れるか凍りつくかのどちらかだ。
年が明けてもまだ雨が降り、庶民は家の暖炉の前で縮こまっていた。俺も暖炉の前にじっと固まって引きこもっている。長門は溜まっていた店の注文を消化するために様々な薬を調合していた。次に留守にしたらいつ帰ってこれるか分からないのでと余分に在庫を
二月に入って
長いこと放っておくと古泉と朝比奈さんだけじゃ手に負えなくなるかもしれんし、そろそろ村に戻る頃合いかと俺たちは晴れ間を見計らって街を出た。荷車に風邪薬の大瓶を載せ、長門は残った谷口に店番を任せることにし、在庫が切れたら手紙をよこすようにと言いつけている。谷口は城門まで見送りに来て
夕方ごろ村にたどり着くと古泉と朝比奈さんが出迎えてくれた。
「そいや古泉、
途中で雨に降られ、俺と長門は薄い
「もうすこし気温が上がったら
あれから古泉はちょくちょく城に出かけ、騎士の仕事の見習いのようなことをやっているらしい。要はこの家の農地の管理が拡大して領地の管理になったようなものだ。
暖炉の前で小さく固まっているハルヒが聞き耳を立てているのは分かっているのだが、なにも言わず無反応を
風邪薬を小瓶に分けてマナーハウスに持っていくと感謝感激でお礼を言われた。どうも貧しい
三月に入り
「おいハルヒ、精が出るな。朝飯持ってきたぞ」
「あんたも手伝いなさい! 働かざる僧は食うべからず」
お坊さんにはお前みたいなやつが人としての道を踏み外さないよう指導してやるという神聖なる
皆がパンを食ってエールを飲んでいるあいだ俺は牛の番をしていた。柵の向こう側にある休耕地には羊が群れていて草を
「おいハルヒ、シロツメクサが咲いてるぞ。なんか懐かしいな」
「それあたしが植えたのよ」
「へー、よく種が手に入ったな」
「土を肥やすにはマメ科の植物がいいのよ。生物学で
「コンリュウキン? なんだそりゃ」
ハルヒの解説によれば、植物が育つのに必要な窒素を作る菌が豆の根っこに住み着くらしい。畑ってやつは作物を植え続けると栄養素が減ってきて
まあ俺もハルヒほどではないが自分の食べたいものくらいは自分で育ててみたい。その日の晩飯は特別に俺が作ることした。
「ハルヒ、今日の晩飯は俺が作るから、さっさと帰って来いよな」
「あんたが?」
まじで言ってんのほんとに食えんのという疑いの目つきをしている。
長門が取り寄せてくれたインド米を数時間水に漬けておき、なるべく日本の白ご飯の風味に近い感じで炊き上げ、まあ日本人からしたら汁気のないお
ハルヒと朝比奈さん、そして古泉はスープ皿の上に盛られた白い物体が信じられないらしくスンスンと匂いを
ハルヒは
「キョ……キョ……ン……もっと食わせろ、こここ、米……食わせろ」
なんかガクガク震えてるんだがそんなヤバいもん入れたか俺。朝比奈さんもスプーンを握りしめてなんだか殺気立っている。古泉、頭の悪い人みたいなスマイルはいいんだがよだれを
鍋一杯のお
「これぞ日本人のココロよのう」
「生き返った心持ちにおじゃる」
「君が代はぁ、
誰がワビサビで表現しろと言った古泉。ちなみに
「どうだハルヒ、うまかったか?」
俺が質問すると三人ともコクコクと
「じゃあ栽培頼むわ」
袋いっぱいの米をハルヒに押し付けた。
「あんた、こんなろくに太陽も出ない土地でちゃんと米が育つと思ってんの?」
「植物だしなんとかなるだろ」知らなかったけど、麦もイネ科らしいぞ。
「畑に植えたら
サラサラと細長い
「
「お前がさっき食ったのはたぶん
「そうなの?」
ハルヒが長門に尋ねる視線を投げると長門はコクリとうなずいた。そろそろ日本にも稲作が伝わってる頃合いだと思うが、今が十二世紀の
四月に入って復活祭を過ぎると、稲作をはじめるにはちょうどいい頃合いらしくハルヒは畑に柵を作って米専用区画を用意した。水に漬けて発芽させた
まあ小麦以外を植えても金にならないのだが、無論マナーハウスではなんだかんだとメンバーがごねて、そこをハルヒが強引にゴリ押しし、今後は新規
「来週早々に
城から帰ってきた古泉が言った。
「去年の話ですっかり忘れてたが、伯爵はまだそのつもりなのか」
「もちろんです。現役を引退する騎士や戦地で亡くなられる方もいらっしゃいますから、欠員も出ますしね」
「なるほどな。
「いえ、僕から野外でやってほしいと願い出ました。城の中だと涼宮さんが参加してくれそうにないですから」
普通は城の中にある教会堂で、祭壇の前でやるらしい。城に足を踏み入れたくなさそうなハルヒに気を使って、皆が参観できるよう外でやったほうがいいだろうと頼み込んだのだそうだが。
古泉は式の二日前に馬に乗って村を出た。必ずハルヒを連れて来てくれと、なぜか念を押された。しかしなあ、テコでもジャッキでも動かんぞあれは。
「部下に二股かけられるってのに、なんでそんなイベント見に行かないといけないのよ」
「うん、そうだよな。じゃあ留守番頼むわ」
「ア……」
もっと強引に説得されるとでも思っていたのか、ハルヒの口はアンタねぇと言いかけてそのまま止まっている。長門も朝比奈さんもエッという感じで固まっている。
「騎士といやあ、
「そ、そうなの!?」
ハルヒが小鼻を
「いや、無理しなくてもいい。これが古泉の
「そんなの……」
俺はくるりと背中を見せ笑いをこらえつつ後ろ手にドアを閉めて家を出た。クックック、ありゃぜったい追いかけてくるって。テヘペロしながら馬車を出すとあれはやり過ぎだと長門と朝比奈さんに怒られた。
式の前日の夕方に城に入った。朝比奈さんが後見人、俺と長門が立会いである。来る途中でときどき馬車の後ろをうかがってみたがハルヒの姿は見えなかった。まあ来たきゃ自分で来るだろ。
「ミス・アサヒナ、ミス・ナガティウス、それから修道士殿。ようこそ、再び会えて嬉しい」
「お久しぶりです。お招きありがとうございます、マイロード」
今回は自前の荷馬車に乗ってきたが、ちゃんと二人の手を取って降ろしている。
「古泉は今どこに?」
「コイズミ殿は教会堂にいるが、すでに始まっているので残念ながらお入りいただくことはできない」
「外でやるんじゃないんですか?」
「ただいま本人は
ミソギね。入るなとは言われたが、俺は城壁の内側に建っている礼拝堂の建物に忍び込んだ。話しておきたいこともあったしな。
礼拝堂は塔からすこし離れた城壁に接していて、古い小さな石造りの建物だが屋根の上に鐘つき堂が飛び出ている分ハルヒたちの家よりはでかかった。
音がしないように分厚い木の扉を開けて礼拝堂に入ると、香の匂いがツンとたちこめており、祭壇の前にひざまずく古泉の後ろ姿が見えた。その後ろで中学生くらいの司祭助手が見守っている。俺は入り口の聖水盤で手を洗い、中に入った。助手は今は入ってはいけないと身振りをしたが、俺が堂々と修道士スタイルの
祭壇にも壁にもいたるところにロウソクが
古泉は裸足で、足元まで続く長い一枚布でできたシャツを着ていた。髪が濡れているところを見ると風呂に入った後のようだ。
そのまま三十分ほどぼんやりと待っていた。隣には助手が立っていて、結局彼の判断では俺はここにいてもいいことになったようだ。
「おや、気が付きませんで」
古泉の声でふと我に返った。
「ああ、邪魔してすまんな。俺は立会人だ。続けてくれ」
古泉は助手に向かって、後のことは彼に頼みますから、と教会堂からお引き取り願った。少年助手はほっとため息をついて出て行った。
「俺に頼むっつっても儀式の手順とか知らんぞ」
「僕がここで祈っている間そこにいて、明日の朝まで付き合ってくれればいいだけです」
すげー退屈なのだがそれは。まあ
古泉はまた両手を組んで無言の
俺もだんだん直立不動をしているのがだるくなってきて、背筋を伸ばしたり腕を伸ばしたり、一人で黙々とラジオ体操を第二までやったり、最近たるんできた腹筋をやったり、しまいにゃ体操座りで床に座り込んでしまった。
小一時間ほどそのままの姿勢で眠気と戦っていると、古泉の様子がおかしいことに気がついた。祭壇の前には四角いクッションが敷かれているのだが、その上に
俺は慌てて仕切りの内側に入り、
「古泉、おい古泉どうした」
古泉の上体を起こしてみるが反応がない。目は見開いたまま無表情で、いつもの
俺は古泉の頭にクッションを敷いてやり、そのまま横たえた。古泉の目は天井の向こう、はるか宇宙のかなたを見つめている。
「あれ、なにが起こったんですか僕は」
それはこっちのセリフだ。五分ほど固まっていた古泉の表情が元に戻り起き上がった。
「
「そうだったんですか。気が付きませんでした」
トランス状態に
古泉は起き上がって姿勢を正し、クッションの上でひざまずいてまた
「……」
起き上がった古泉はなにか思案するような難しい表情をしている。またひざまずいてさっきと同じように
と思ったらほんとにそのままで、目が乾くんじゃないかと心配になるくらいに一度も瞬きをせず、俺は古泉の両足を
「僕たちはいったいなにをやってるんですか」
気がついた古泉が目をパチパチしながら言う。そりゃこっちが聞きたいわ。
古泉はシャツを払い、軽くストレッチをしてからまた
「あの……先ほど、おぼろげながら夢のようなものを見ました」
古泉は祭壇に向かって手を組んだまま言った。
「ほうほう、それで」
それは神聖なる
「そこは明るくもなく暗くもなく、いえ、明るさという概念すらない場所でした。見上げると天井から地平に向かって紫色のグラデーションがかかっていて、どこまでが地上でどこからが空なのかも
なんか俺がイメージしたのとは随分違うな。鳥の羽根を背負った朝比奈さんが出てくるかと思ったんだが。
「昼なのか夜なのか、そもそも時間というものが存在するのか。これがなにを現しているのかは……ただの夢ですから
「ああ。まあ聞いてるから話せ」
「その空間が突然収縮して小さな点になり、重力井戸に落ちていきました。次の瞬間僕は、たしか十六歳くらいの僕になっていて、真冬なのになぜか体操服一枚で、」
どっかで見たようなシーンだな。
「まったく記憶には無いことなんですが、涼宮さんがいました。やっぱり同じ体操服のジャージを着ていましたね。なぜか髪を後ろでまとめていて、いえ、ジャージではなくジャケットの制服だったような気もします」
思い出した。それはあっちの世界の話だな。お前の
「そこにいる長門はメガネをかけてなかったか」
古泉はくるりとふり返って、
「なぜそれを!?」
「いやまあ、なんとなくだな」
ハルヒの言っていた異世界人ってやつが実は俺だったなんて今さら明かすつもりはないが、向こうの世界のことは、俺自身いろいろと考えるところもある。
「同じ夢を三度見ました。僕は信心深いほうではありませんが、これはなにか超常現象的な、あるいは見えない誰かからの意思表示なのではと思ったくらいです」
ハルヒを神と
古泉はそれっきりなにも言わず、ひたすら
夜中の二時くらいだったと思う。俺もいい加減まぶたが重くなってきて、眠気を解消するために燃え尽きたロウソクを新しいのと取り替えたり、火の消えた香炉に炭と
「これはもしもの話だがな」
シンと静まり返った礼拝堂で俺が
「異世界というものがあって、そこではハルヒは何の力も持たない、長門は読書が好きなだけの女の子、朝比奈さんは未来から来ない、お前は超能力を持たない、とする。そこで暮らしたいと思うか」
「面白い思考実験ですね。その世界の僕は、涼宮さん的にはどういうキャラクタなんですか?」
「お前はその……ただの転校生だな」
「僕から超能力を
ただの人って自分で言うか。
「向こうのお前は団員その一みたいな扱いだったな」
なんか自分が見てきたような言い方をしてしまいハッと我に返る俺だった。古泉はそんな俺の内心を読んでいたに違いないが、しかしそれについてはなにも言わず、
「微妙なところですね。たしかにエヴァレットの多世界解釈では、」またSF作家みたいな理屈を展開しようとして、場にふさわしくないと考えたのか言い
「お前だったらどっちを、」
どっちを選ぶかと言いそうになって、そこで俺も言い
「どっちの世界のお前が、実のお前らしい生き方だと思う?」
と言い直した。
「そうですね。僕が現在のような立場になれたのは、確率の低さでいうと天文学的数値に近い。ならば、涼宮さんに呼ばれたというだけで、そしてそこにいることを許されているというだけで、その価値を
それは自分への問いかけなのか、それとも俺に同意を求めているのか。どっちにしても、与えられる以上のことは望まんというわけか。控えめだな。
「俺は
「この手の質問をするということは、あなた自身の中ではすでに答えは出ているのでしょうね。ええ、僕としても一度はなってみたい気もします」
「なににだ」
「世界崩壊を心配しなくても、涼宮さんのそばにいられる人生です」
中学一年でなぜか突然超能力を与えられたという古泉談を信用するなら、そろそろ八年になるか。いや今回のでプラス一年か。
「ハルヒになんの力もなかったとして、そいつらにはどういう未来があると思う?」
「どういう、とは?」
「そいつら五人は成人しても一緒に遊ぶようなことがあるだろうか、いやそもそも集まることはあるだろか」
「どうでしょうね。大人になればまた価値観も変わりますし、社会の別の組織に入れば離ればなれになるのではないでしょうか」
「そうか、普通はそうだよな」
古泉はたぶんエリート
「でもそうならずに済む方法が一つだけありますね」
「なんだその方法って」
「そのうちの誰かがペアになって結婚することです。そうすると家族ぐるみの付き合いができます」
誰と誰が、とは聞かなかった。男二人、女三人、考えられる組み合わせはたった六通り。
「体操服の古泉はどうだったんだ」
「夢のなかの僕は ──」
言いよどんで古泉は、口を閉ざした。あのとき俺には聞こえなかったセリフを、もしかしたら自身では知っていたのかもしれない。それきりなにも言わず、ただ
鳥のさえずりが部屋に小さくこだまし、白々と夜が明ける頃、古泉は目を開けて顔を上げた。隙間から差し込んだ朝日が祭壇に
「お願いします」
古泉が三歩下がり、ふり向いて言った。俺は黙ったまま仕切りの内側に入り祭壇の前に立った。腰から十字架を取って
── 天軍の栄えある
ドアを開けて伯爵が入ってきた。俺がいるのを見ると、え、お前なんでここにいんの、助手はどこに行ったんだ、という顔をしたが古泉が自分が頼んだのです、とうなずいてみせた。
「コイズミ殿、修道士殿、今日はいい日だ」
「マイロード、僕は今日という日を一生忘れることはないでしょう」
「私もだ、優秀な部下を迎えることができて実に嬉しい。コイズミ殿は会場に行ってくれ。仲間の騎士が準備をしているはずだ」
「かしこまりました。では、向こうで」
古泉は俺に向かって一礼し礼拝堂を出て行った。
「修道士殿にはこれをお願いしたい」
そう言って一本の長剣を取り出した。今日のためにあつらえたらしい。ピカピカの新品だぞ。
「お願いって、どうするんですか」
「もちろん、これを祝福してもらいたい」
ああ、そういうことですか。これで誰かを
俺は祭壇に長剣を
俺は伯爵と連れ立って出た。礼拝堂の南側に日当たりのいい広場がある。なだらかな坂が客席になり、坂を下って平らになった場所に木と板でステージを設置していた。ステージと階段、そして花道には赤い
開始はたぶん十時くらいのはずだがすでに客席は賑わっていた。伯爵がロンドンから呼んだらしい楽団が客席の一角を仕切って鎮座し、バイオリンや腰から下げるドラム、長いラッパを鳴らしていた。リュートでイングランド民謡を爪弾いているやつもいる。俺も持ってくれば
昨日の夕方からなにも食っておらず空腹に耐えかねた俺は一度城に入り台所に入って、
「キョンくん、おはよう」
「……おはよう」
「あどうも朝比奈さんおはようございます。長門もおはよう」
俺がひとり客室でボソボソとパンをかじっていると二人が入ってきた。俺は、あぁしまった、この二人は一応レディだったなと椅子から立ち上がって礼をした。
「いよいよね」
「そうですね。おかけになりませんか」
俺は控えのメイドさんにこちらのレディに
「キョンくん、古泉くんの
「いえまだですが」
「ロードシップの騎士さんが全員
朝比奈さんの目がウルウルしている。きっと脳裏には
「ええ。ところであいつ、この頃おかしくないですか。この時代に来てずっと」
「おかしいって、どんな?」
「急になにかに目覚めたというか」
「どうかしら……。わたしは女だからよく分からないけど、男の人ってこういう風格あるものに
まあたしかにナイトコスプレがかっこいいというのは認めますが。い、いえそういうことを言いたいのではなくてですね、
「今までずっと事なかれ主義で通してきたあいつがですよ、通る通らないは別として自分の意見を正論として言うとか」
「そういうことあったかしら」
古泉の一人語りも含めて、確かに何度かそういうシーンに
「ハルヒが歴史改変をしないようにとの監視役を自負していたはずなのに、この頃ではそっちのけで、いやむしろそれを助長しているみたいな感じがしませんか」
「そう……そうかもしれないわね」
山賊団の活動を思い出しているのだろうか、少し考え込んでいる。
「仮に古泉が戦場に駆り出されたとして、戦死でもしたら未来はどうなりますか」
「いえ、それはないと思うの。今回の時間移動技術の開発を始めた涼宮さんがそれを許すはずがないわ。意識的かどうかはともかく、すべては涼宮さんが是非を決めているわけだから」
朝比奈さんの言葉が急に固くなった。
「ええ、そうかもしれません。でも今の古泉を見てると、もしかしたら未来に帰るのを
「それは、こういう事態だと仕方ないかもしれないわ。帰る方法がないんだったら」
唯一の時間移動の専門家のあなたがそんな弱気でどうなさいますか。なんだか今日の朝比奈さんは古泉に甘い気がするなあ。
いや待て。たしか、朝比奈さんたち未来人組織はハルヒを神とは呼んでないと自ら言っていたはずだ。それによくよく考えると、今の状況で、唯一不利な状況にあるのは朝比奈さんたち未来人ではないか。突然俺たちがとんでもない時代にタイムスリップしたために、未来人組織が自ら有利になるための既定事項構築ができなくなっているはずなのだ。
そもそもこういう指摘は古泉自身がするはずではなかったか。ハルヒをコントロールしたいがために、古泉は未来人組織の監視を、朝比奈さんは機関の行動を監視しているはずだった。超能力者と未来人が二人して本来の目的を見失ってしまうとは、こいつらはいったいどうなっちまったんだ。あるいは、二人ともハルヒをすでに無用と見ているのだろうか。
朝比奈さんはちょっと会場の様子を見てくるわね、と言葉を
「どう思う、長門?」
朝比奈さんが出て行った後のドアを
「どう、とは」
「つまりだな。古泉が
長門は少し考えこんで、
「……この世界のことを、あなたは話した?」
「いや、なにも話してない。その必要はないと思ったんでな」
「……そう。それぞれ二つの組織から切り離された末端要員が、個別の目的を持ち始めているとする見方もできる。それによって涼宮ハルヒへの依存度が減った。でもこれは推測の域を出ない」
「たしかに俺とは違って、お前たち三人は政治的に大きなものを背負ってるからな。それがこの時代に来てそろそろ解放されてもいいと思い始めたってことか」
「……わたしは違う」
ああ、まあそうだけどな。だがな、長門にも、必ずしもパトロンの目的とは同じでない独自の願望があることを俺は知っているぞ?
執事さんが呼びに来た。そろそろ時間だ。メイドさんにごちそうさまを言い、俺たちは立会に向かった。
立会とはいっても別になにか保証人の書類に
伯爵がこれまたピカピカに磨き上げた鉄の
それまで民謡を
騎士さん達はステージ前の花道で左右に十人ずつ並び、カブトのひさしを上げて
ここで騎士団長らしい人がカブトを脱ぎ、客席に向かって
「お集まりの皆さん、本日は晴天に恵まれ、我が領主、そして領民の皆さんにとって祝福された日であります。先祖から受け継いだ私達の領地を守る栄光ある騎士が、主の
それから再びカブトを被り、大声で叫ぶ。
「
塔に続く道から朝日を受けた古泉がキラキラと輝かんばかりにして、真新しい
古泉はステージに続く赤い花道に足を踏み入れる前に
古泉は一歩、一歩とゆるやかに階段を登り、ステージに立つ伯爵の前に
「イツキ・オブ・コイズミ、ここにおります」
伯爵は腹の底に響く声で宣する。
「神に愛される者よ、勇気を持ち、正義を
「我が命に変えてでも、必ず民を守ります。神のご加護により」
次の瞬間、伯爵は右手にはめたグローブの甲で古泉の右の
伯爵は俺が祝福した長剣を両手で
「立ち上がれ息子よ! 真の騎士となり、敵の面前で勇気を示せ!」
古泉は立ち上がり、そして長剣を抜いて口づけをし、観客に向かって振ってみせた。伯爵が古泉の左手を握って腕を上げると観客が拍手喝采した。楽団が勇ましい曲を
それからは騎士と兵士たちの
会場のまわりにはエールをはじめ焼肉やサンドイッチなどの屋台も多く出ていて、それなりに商売繁盛しているようだった。長門はいつものごとく古本を売る店に釘付けになっている。
「ところで涼宮さんはどうなさいました」
ああ、すっかり忘れてた。すっかりヒーローとなった古泉、もとい、サー・コイズミは独身であるという個人情報が一気に広まり、今や領内の女性陣の
「それで、涼宮さんはどうなさったのですか」
ああ、すまん。お前の
「ハルヒはだいぶ
俺と古泉は観客の中にハルヒの姿を探した。あいつならまわりに群衆が千人いたって見つけ出せる。
「
「いや、古泉が戦場に出るんで
またいつもの
「僕としましても今回だけは涼宮さんに見てもらいたかったのですが……」
まあどっかから見てるかもしれんだろ。城壁の上とか。俺と古泉はまわりを囲んでいる城壁の上と小さな窓に目を走らせたが、ここからでは分かるまい。まあ帰ったら聞いてみりゃいいさ。
俺は朝飯を食ってない古泉のためにパンとベーコンとエールを買いに行った。買ったエールを一口味見してみてやたら薄いことに気が付き、
「おいオッサン、このエール水で薄めてんじゃねえのか」
「な、なに言ってんだい、ここいらじゃあた……オイラのエールは最高級品なんだから」
「オッサン、
「えっ、まじ!?そんなはずはな、ねえだよ」
なんで付け
「アーレー、どこへ連れて行こうというの修道士のダンナご
ほとんど棒読みのハルヒを引っ張って古泉のところまで連れて行った。
「変装してらしたんですか、涼宮さんも人が悪い」
「だ、ダンナぁ、人違いで、あっしはしがないエール売りでございやす」なんで鼻声なんだよ。
「見てくれていたんですね。ありがとうございます。僕は今後とも、いえ、これまでもこれからも涼宮さんの
「そ、そう。スズミヤってやつぁよっぽどのシアワセモンだぁね」
そんなやり取りをしていると後ろから伯爵が声をかけてきた。
「コイズミ殿、乗馬レースの乗り手が足りないんだが、参加してもらえないか」
「はい、マイロード。ええっとこちらがスズ、」
「伯爵のダンナぁ、あっしはただのエール売りで」
「おお、じゃあ私も一杯もらおうか」
伯爵も気付けよ。
俺はステージ前にいる朝比奈さんを手招きで呼んだ。朝比奈さんはエッなにこのオッサンくさいハルヒは、これでも変装のつもりなの、と俺の表情とハルヒを交互に見比べて、どうやらいろいろと察したらしく黙っていることにしたようだ。
伯爵と俺と長門と朝比奈さん、そしてオッサンくさいハルヒで、古泉に食わせるはずだったパンとベーコンをわしわしと無言で食い続けた。飯はうまいけど気まずい空気というのはこういうのをいうのだなあ。
「あーやめやめ!」
ハルヒは
「伯爵! 今回は古泉くんの自由意志を尊重したけどね、あたしが負けたわけじゃないんだからね」
いや、そのセリフを吐いてる時点でお前はすでに負けている。伯爵は眉毛を持ち上げて、いったい何の話をしているんだと俺の顔を見たが、あれは
「ミス・スズミヤ、男には身を立てるために
「そんな汗臭い理屈が女のあたしに通用するわけないでしょうが」
「私の勝手な想像だが、お見受けしたところ、コイズミ殿にはなにか
見かけによらず
「それがあたしだっての?」
「そうは言っておらん。ただ、天高く羽ばたける翼を持っているのに、それに気づかない鳥というのは、見ていてつらいものだ」
「ふーん、言うじゃないの。あんたが手なづけて羽ばたけるというのならやってみなさいよ。言っとくけど、古泉くんとはあたしのほうが付き合いが長いんだからね」
「もちろんそうだろう。彼のあなたへの献身度は私に対するものとは比較にならないほどのものだ。だが近すぎて本人の持ち前に気づいてやれないということもある。彼は自分の力を十二分に
伯爵は意外と真を突いたところをはっきり言う人だな。まあ、なんだ、あいつの特殊な超能力でさえ、そのパワーが誰かに管理されているのは確かだ。
「まあいいわ。古泉くんに免じて少し武者修行をするのもいいかもね。ただし条件がひとつあるわ」
「なんだ? 私は大抵のことは応じる用意があるぞ」
おいおいまた戦うのかよ。
「今ここで、あたしたちを村から追い出した騎士と勝負させなさい。あんたが命令したんじゃなさそうってことは分かってたけどね、あいつだけは
「それはできない相談だ。部下がやったことは、私がやったことだ」
伯爵は厳しい表情で言う。部下の失態を全部自分で
「じゃあ勝手に果たし合いでもするけど、それでもいいの?」
「それはまあどうしてもと言うのであれば……しかし無理ではないだろうか。あいつはここにはおらんのでな」
「おらんって、まさか逃げ出したの?」
「いや、実は
「ってことはあれね、
ハルヒはバンバンと俺の頭を叩いて笑った。あんまり
伯爵は困った顔をして、少し寂しげな表情になり、
「まあ……アレのことはあんまり悪く言わんでくれ。私への忠誠心からやったことだ。ただ空回りすることはあったがな」
うちは
ハルヒは畑には出ず、家でなにかチクチクと裁縫をしていた。
「できたわ!」
朝飯を食っている最中に飛び込んできた。目の下に黒いクマができている。徹夜だったのかよ。
「なんだそりゃ」
「見てのとおりよ、SOS団のペナントよ」
「そりゃ分かるがパブの看板にでもするのか」
「違うわよ、我が家が
ほー、こういうところはマメなのな。長さ一メートルくらいの盾形の布に丁寧に
「ああ。いつものサナダムシか」
「なによあんたも喜びなさいよこの完成を。一枚だけじゃないのよ」
ハルヒががっつりと派手な布のかたまりを持ってきて広げてみせた。決闘のときに
しょうがない、俺が祝福してやるかと十字架を
「ありがとうございます、涼宮さん。素晴らしい出来栄えですね」
「でしょでしょ。みくるちゃんと有希にもお礼言っといてね、手伝ってもらったんだから」
「そうでしたか、お二人さんありがとうございます」
まあこれだけの
「ちょっとこのマントを羽織ってみなさいよ。どうよこの
古泉がマントを広げると、盾形の枠の内側にロゴがあり、その上には騎士を象徴するらしいカブトが描かれている。
「ライオンとか王冠はないのか?」
「ライオンは王族、王冠は貴族以上、あんたもちょっとは勉強しなさいよねえ。そんなんじゃいつまで経ってもこの時代になじめないわよ」
こないだまで古泉の
「これは何が書いてあるんですか」
ロゴの下にリボンのようなものが描かれていて、その中に文字が走っている。モットーとかな言ったなこれ。要は家訓だ。
「キシシ、ナイショよ」
「涼宮ハルヒを見よ、だろ。この程度のラテン語なら俺にも分かるわ」
ハルヒは俺の頭をぺしっと叩いて、
「なんで勝手にネタバレするのよ、あんたにはミステリーを解くというロマンが分かんないの」
こんなサナダムシロゴのどこにロマンがあるのか伺いたいものだねというドヤ顔をしていると、まったく
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