十六章

 歳が暮れていく。俺と長門は一旦ロンドンに戻って店の営業を再開した。風邪薬の在庫を増やしておかないと、冬になると注文が殺到するらしいのでな。長いこと留守にしていたので谷口が行き先ぐらい教えていけと怒っていた。ずっと荷車用のロバを借りっぱなしだったので若いロバを手に入れて返してやった。

 俺たちはクリスマスをずっとロンドンで過ごし、二人で静かにイブを祝って近所の聖堂のミサに出かけたりした。この頃はずっと雨が降り続いている。古泉からの手紙によると畑は水浸しで農作業は年明けまで休みらしい。芽を出した小麦が凍りつかなければいいのだがな。気温の割にはあまり雪は降らず、降っても解けて流れるか凍りつくかのどちらかだ。


 年が明けてもまだ雨が降り、庶民は家の暖炉の前で縮こまっていた。俺も暖炉の前にじっと固まって引きこもっている。長門は溜まっていた店の注文を消化するために様々な薬を調合していた。次に留守にしたらいつ帰ってこれるか分からないのでと余分に在庫をそろえている。

 二月に入って聖燭祭せいしょくさいが過ぎた頃に古泉から手紙が来た。気温が低いのでハルヒの作るエールの味が落ちているらしい。台所を暖めようとするが室温にむらがありすぎてちゃんと発酵してくれないらしい。まあ冬は酵母菌も休みだからな。気温が上がるまでパブ経営はしばらくお預けになったようだ。最後に、村で風邪が流行っているので風邪薬を見繕みつくろってくれないかと書いてあったのが本来の要件のようだ。

 長いこと放っておくと古泉と朝比奈さんだけじゃ手に負えなくなるかもしれんし、そろそろ村に戻る頃合いかと俺たちは晴れ間を見計らって街を出た。荷車に風邪薬の大瓶を載せ、長門は残った谷口に店番を任せることにし、在庫が切れたら手紙をよこすようにと言いつけている。谷口は城門まで見送りに来て名残惜なごりおしげに手を振っていた。


 夕方ごろ村にたどり着くと古泉と朝比奈さんが出迎えてくれた。

「そいや古泉、叙任じょにんの件はどうなったんだ」

途中で雨に降られ、俺と長門は薄い毛織布けおりぬのにくるまって暖炉の前に陣取っている。

「もうすこし気温が上がったら叙任式じょにんしきがとり行われるとのことです」

あれから古泉はちょくちょく城に出かけ、騎士の仕事の見習いのようなことをやっているらしい。要はこの家の農地の管理が拡大して領地の管理になったようなものだ。

 暖炉の前で小さく固まっているハルヒが聞き耳を立てているのは分かっているのだが、なにも言わず無反応をよそおっている。

 風邪薬を小瓶に分けてマナーハウスに持っていくと感謝感激でお礼を言われた。どうも貧しい農奴のうどを中心に風邪が流行っているらしく、子供と年寄りの栄養状態が気がかりだと朝比奈さんは言っていた。お布施ふせを渡そうとされたのだが、い、いやん俺はただの配達なんでそういうのはアルケミーの長門に言ってくださいね。


 三月に入り春蒔はるまきの秋小麦の準備が始まった。すっかり農作業が板についたハルヒがたすき掛けをして畑にすきを入れている。

「おいハルヒ、精が出るな。朝飯持ってきたぞ」

「あんたも手伝いなさい! 働かざる僧は食うべからず」

お坊さんにはお前みたいなやつが人としての道を踏み外さないよう指導してやるという神聖なる生業なりわいがあってだなあ。あ、はい手伝います。

 皆がパンを食ってエールを飲んでいるあいだ俺は牛の番をしていた。柵の向こう側にある休耕地には羊が群れていて草をんでいる。

「おいハルヒ、シロツメクサが咲いてるぞ。なんか懐かしいな」

「それあたしが植えたのよ」

「へー、よく種が手に入ったな」

「土を肥やすにはマメ科の植物がいいのよ。生物学で根粒菌こんりゅうきん習わなかったの?」

「コンリュウキン? なんだそりゃ」

ハルヒの解説によれば、植物が育つのに必要な窒素を作る菌が豆の根っこに住み着くらしい。畑ってやつは作物を植え続けると栄養素が減ってきてせてしまい、育ちが悪くなって、収穫も減る。それを補うために、土地を休ませている間にマメ科の植物を植え、羊を放して糞を肥料にするのだそうだ。ただし羊ってやつは根こそぎ食ってしまうので放す頭数を制限しないといかん、のだとか。なるほど。

 まあ俺もハルヒほどではないが自分の食べたいものくらいは自分で育ててみたい。その日の晩飯は特別に俺が作ることした。

「ハルヒ、今日の晩飯は俺が作るから、さっさと帰って来いよな」

「あんたが?」

まじで言ってんのほんとに食えんのという疑いの目つきをしている。

 長門が取り寄せてくれたインド米を数時間水に漬けておき、なるべく日本の白ご飯の風味に近い感じで炊き上げ、まあ日本人からしたら汁気のないおかゆみたいなものだが、甘みを出すためにブランデーを少し垂らし、少し焦げて香りがするくらいのものを鍋で作ってやった。

 ハルヒと朝比奈さん、そして古泉はスープ皿の上に盛られた白い物体が信じられないらしくスンスンと匂いをいだり指で触れて味見をしたりしている。それがどうやら本物だと分かると三人ともスプーンで一気にかきこんだ。皿はあれよあれよという間に空に。

 ハルヒはうつむいたまま左手を伸ばして俺のえりをぐいと引き寄せ、

「キョ……キョ……ン……もっと食わせろ、こここ、米……食わせろ」

なんかガクガク震えてるんだがそんなヤバいもん入れたか俺。朝比奈さんもスプーンを握りしめてなんだか殺気立っている。古泉、頭の悪い人みたいなスマイルはいいんだがよだれをきなさいね。

 鍋一杯のおかゆをほとんど三人だけで、味噌も醤油もなんの味付けもなし、涙の塩味だけでたいらげた。

「これぞ日本人のココロよのう」

「生き返った心持ちにおじゃる」

「君が代はぁ、七日子ななひこの粥ななかへり、祝う言葉にあえざらめやは~」

誰がワビサビで表現しろと言った古泉。ちなみに源俊頼みなもとのとしよりの和歌らしい。

「どうだハルヒ、うまかったか?」

俺が質問すると三人ともコクコクと首肯しゅこうしている。俺はニコニコ顔で、

「じゃあ栽培頼むわ」

袋いっぱいの米をハルヒに押し付けた。かゆにして食わせたのは実は種籾たねもみを精米したものである。

「あんた、こんなろくに太陽も出ない土地でちゃんと米が育つと思ってんの?」

「植物だしなんとかなるだろ」知らなかったけど、麦もイネ科らしいぞ。

「畑に植えたら陸稲おかぼでしょうが」

サラサラと細長い種籾たねもみを手に取り米の感触を味わいながら、これだから素人は、という風に俺を見る。腕を組んだりときどき右のこめかみを叩いたりしているところをみると、一応考えてみているようだが。陸稲おかぼというのは田んぼで水につけて育てる稲作ではなくて、麦のように乾いた土で育てた稲のことらしい。

陸稲おかぼねえ。連作できないし、土の質が合ってるかも分からない。やってみてもいいけど味は保証しないわよ」

「お前がさっき食ったのはたぶん陸稲おかぼとかいうやつだぞ」

「そうなの?」

ハルヒが長門に尋ねる視線を投げると長門はコクリとうなずいた。そろそろ日本にも稲作が伝わってる頃合いだと思うが、今が十二世紀のすえだとすると鎌倉時代くらいか。国交もなく存在すら知られていないのに国産米を取り寄せるわけにはいかんしな。

 四月に入って復活祭を過ぎると、稲作をはじめるにはちょうどいい頃合いらしくハルヒは畑に柵を作って米専用区画を用意した。水に漬けて発芽させたもみを麦と同じようにうねにそって植えていくだけである。

 まあ小麦以外を植えても金にならないのだが、無論マナーハウスではなんだかんだとメンバーがごねて、そこをハルヒが強引にゴリ押しし、今後は新規市場しじょうを狙って新しい品種にチャレンジせねば大陸の農村に負けてしまうわよと、こんなちっぽけな村の畑でフランスやスペインの小麦に勝てるのかあやしいもんだが、まあ村人のうち若い連中はハルヒに同調してじゃあやってみっかという流れになったらしい。城の執事を通して伯爵の耳にも入っていたはずだが、まあそのへんは必要以上にかどが立たぬようにと古泉に取りなしてもらっている。


「来週早々に叙任式じょにんしきがあります」

城から帰ってきた古泉が言った。

「去年の話ですっかり忘れてたが、伯爵はまだそのつもりなのか」

「もちろんです。現役を引退する騎士や戦地で亡くなられる方もいらっしゃいますから、欠員も出ますしね」

「なるほどな。叙任じょにんといえば映画で見たことがあるが、教会でやるんじゃないのか、ドイツ騎士団みたいな」

「いえ、僕から野外でやってほしいと願い出ました。城の中だと涼宮さんが参加してくれそうにないですから」

普通は城の中にある教会堂で、祭壇の前でやるらしい。城に足を踏み入れたくなさそうなハルヒに気を使って、皆が参観できるよう外でやったほうがいいだろうと頼み込んだのだそうだが。


 古泉は式の二日前に馬に乗って村を出た。必ずハルヒを連れて来てくれと、なぜか念を押された。しかしなあ、テコでもジャッキでも動かんぞあれは。

「部下に二股かけられるってのに、なんでそんなイベント見に行かないといけないのよ」

「うん、そうだよな。じゃあ留守番頼むわ」

「ア……」

もっと強引に説得されるとでも思っていたのか、ハルヒの口はアンタねぇと言いかけてそのまま止まっている。長門も朝比奈さんもエッという感じで固まっている。

「騎士といやあ、有事ゆうじのときには最優先で城に駆けつけて主君を守らなきゃならんしな。矢の一本でも身に受けりゃ外科手術もなく死ぬ。いつ戦争に駆り出されるかわからんし、現にフランスじゃ兵を集めてるとも聞いた。そんな危険と背中合わせの立場になるなんざぁ、とても見てられんわな」

「そ、そうなの!?」

ハルヒが小鼻をふくらませて泣きそうな表情で聞く。

「いや、無理しなくてもいい。これが古泉の見納みおさめになるとか、俺だって思いたくないしな」

「そんなの……」

俺はくるりと背中を見せ笑いをこらえつつ後ろ手にドアを閉めて家を出た。クックック、ありゃぜったい追いかけてくるって。テヘペロしながら馬車を出すとあれはやり過ぎだと長門と朝比奈さんに怒られた。


 式の前日の夕方に城に入った。朝比奈さんが後見人、俺と長門が立会いである。来る途中でときどき馬車の後ろをうかがってみたがハルヒの姿は見えなかった。まあ来たきゃ自分で来るだろ。

「ミス・アサヒナ、ミス・ナガティウス、それから修道士殿。ようこそ、再び会えて嬉しい」

「お久しぶりです。お招きありがとうございます、マイロード」

今回は自前の荷馬車に乗ってきたが、ちゃんと二人の手を取って降ろしている。

「古泉は今どこに?」

「コイズミ殿は教会堂にいるが、すでに始まっているので残念ながらお入りいただくことはできない」

「外でやるんじゃないんですか?」

「ただいま本人はみそぎをやっているところだ」

ミソギね。入るなとは言われたが、俺は城壁の内側に建っている礼拝堂の建物に忍び込んだ。話しておきたいこともあったしな。

 礼拝堂は塔からすこし離れた城壁に接していて、古い小さな石造りの建物だが屋根の上に鐘つき堂が飛び出ている分ハルヒたちの家よりはでかかった。

 音がしないように分厚い木の扉を開けて礼拝堂に入ると、香の匂いがツンとたちこめており、祭壇の前にひざまずく古泉の後ろ姿が見えた。その後ろで中学生くらいの司祭助手が見守っている。俺は入り口の聖水盤で手を洗い、中に入った。助手は今は入ってはいけないと身振りをしたが、俺が堂々と修道士スタイルの挨拶あいさつをするとどうしたものかと考えているようだった。

 祭壇にも壁にもいたるところにロウソクがともしてあり、部屋全体が淡いオレンジの光で充たされ、香炉から立ち上る薄紫色の煙がうっすらと漂っている。祭壇の壁の絵には、人生は冗談やでみたいなキリストさんがえべっさん顔をして信者に向かって笑いかけている。天井から垂らされた薄い布で祭壇と信徒席がへだてられていて、その内側に古泉の背中が見えた。俺は仕切りの中には入らず、薄い布の間仕切りのこちら側で終わるのを待った。

 古泉は裸足で、足元まで続く長い一枚布でできたシャツを着ていた。髪が濡れているところを見ると風呂に入った後のようだ。

 そのまま三十分ほどぼんやりと待っていた。隣には助手が立っていて、結局彼の判断では俺はここにいてもいいことになったようだ。

「おや、気が付きませんで」

古泉の声でふと我に返った。

「ああ、邪魔してすまんな。俺は立会人だ。続けてくれ」

古泉は助手に向かって、後のことは彼に頼みますから、と教会堂からお引き取り願った。少年助手はほっとため息をついて出て行った。

「俺に頼むっつっても儀式の手順とか知らんぞ」

「僕がここで祈っている間そこにいて、明日の朝まで付き合ってくれればいいだけです」

すげー退屈なのだがそれは。まあ滅多めったにあることじゃないんで付き合ってはやる。


 古泉はまた両手を組んで無言の祈祷きとうを始めた。たぶんロザリオかなんかを延々唱えているのだろう。

 俺もだんだん直立不動をしているのがだるくなってきて、背筋を伸ばしたり腕を伸ばしたり、一人で黙々とラジオ体操を第二までやったり、最近たるんできた腹筋をやったり、しまいにゃ体操座りで床に座り込んでしまった。

 小一時間ほどそのままの姿勢で眠気と戦っていると、古泉の様子がおかしいことに気がついた。祭壇の前には四角いクッションが敷かれているのだが、その上にひざを付き、体を真っ直ぐにして胸のところで両手を組んで頭を垂れていたはずが、だんだんと腕が垂れてだらりと体の両側に下がり、そのまま右側にゴロリと床に倒れた。ひざは曲がったままである。

 俺は慌てて仕切りの内側に入り、

「古泉、おい古泉どうした」

古泉の上体を起こしてみるが反応がない。目は見開いたまま無表情で、いつものゆるんだスマイルではなかった。こういうの、たしかトランス状態とか言ったっけ。長い時間祈ってると修道士でもかかることがある。

 俺は古泉の頭にクッションを敷いてやり、そのまま横たえた。古泉の目は天井の向こう、はるか宇宙のかなたを見つめている。

「あれ、なにが起こったんですか僕は」

それはこっちのセリフだ。五分ほど固まっていた古泉の表情が元に戻り起き上がった。

祈祷きとう中に寝てたぞ」

「そうだったんですか。気が付きませんでした」

トランス状態におちいった人間になにを見たのかと尋ねていはいけないらしい。それは神秘であり、本人と神との交流によるものだと聞いている。いや、俺的には無性に聞いてみたい好奇心にかられているのだが。

 古泉は起き上がって姿勢を正し、クッションの上でひざまずいてまた祈祷きとうを始めた。今度は十五分ほどするとまたゴロンと横になり、俺は軽くため息をついて頭の下にクッションを敷いてやった。

「……」

起き上がった古泉はなにか思案するような難しい表情をしている。またひざまずいてさっきと同じように祈祷きとうを始めたが、五分ほどしてころりと左に転がった。もう知らん、そのまま寝てろ。

 と思ったらほんとにそのままで、目が乾くんじゃないかと心配になるくらいに一度も瞬きをせず、俺は古泉の両足をそろえて体を上に向かせ、腰の下に敷いたクッションが抜けないので頭を持ち上げて膝枕ひざまくらをしてやった。

「僕たちはいったいなにをやってるんですか」

気がついた古泉が目をパチパチしながら言う。そりゃこっちが聞きたいわ。

 古泉はシャツを払い、軽くストレッチをしてからまた祈祷きとうを始めた。今度は転がらなかった。

「あの……先ほど、おぼろげながら夢のようなものを見ました」

古泉は祭壇に向かって手を組んだまま言った。

「ほうほう、それで」

それは神聖なる奥義おうぎだから自分の胸だけに閉まっておけ、とは言わなかった。

「そこは明るくもなく暗くもなく、いえ、明るさという概念すらない場所でした。見上げると天井から地平に向かって紫色のグラデーションがかかっていて、どこまでが地上でどこからが空なのかも曖昧あいまいな空間でした」

なんか俺がイメージしたのとは随分違うな。鳥の羽根を背負った朝比奈さんが出てくるかと思ったんだが。

「昼なのか夜なのか、そもそも時間というものが存在するのか。これがなにを現しているのかは……ただの夢ですから皆目かいもく検討もつきませんが」

「ああ。まあ聞いてるから話せ」

「その空間が突然収縮して小さな点になり、重力井戸に落ちていきました。次の瞬間僕は、たしか十六歳くらいの僕になっていて、真冬なのになぜか体操服一枚で、」

どっかで見たようなシーンだな。

「まったく記憶には無いことなんですが、涼宮さんがいました。やっぱり同じ体操服のジャージを着ていましたね。なぜか髪を後ろでまとめていて、いえ、ジャージではなくジャケットの制服だったような気もします」

思い出した。それはあっちの世界の話だな。お前の執拗しつような質問攻めに負けて一度だけ話したことはあるはずだが、そこまで詳しくは教えてなかったかもしれん。

「そこにいる長門はメガネをかけてなかったか」

古泉はくるりとふり返って、

「なぜそれを!?」

「いやまあ、なんとなくだな」

ハルヒの言っていた異世界人ってやつが実は俺だったなんて今さら明かすつもりはないが、向こうの世界のことは、俺自身いろいろと考えるところもある。

「同じ夢を三度見ました。僕は信心深いほうではありませんが、これはなにか超常現象的な、あるいは見えない誰かからの意思表示なのではと思ったくらいです」

ハルヒを神とあがめる機関の人間が信心深くないとか、言ってることが矛盾してるだろ。

 古泉はそれっきりなにも言わず、ひたすら祈祷きとうを続けていた。夜が明けるまでこれが続くらしい。


 夜中の二時くらいだったと思う。俺もいい加減まぶたが重くなってきて、眠気を解消するために燃え尽きたロウソクを新しいのと取り替えたり、火の消えた香炉に炭と乳香にゅうこうを足したりしていた。やることがなくなり俺は話を振った。

「これはもしもの話だがな」

シンと静まり返った礼拝堂で俺が唐突とうとつに口を開くと、冷たい壁に声が跳ね返った。古泉はピクと背中を動かしたがふり向かず、そのまま祈祷きとうを続けている。

「異世界というものがあって、そこではハルヒは何の力も持たない、長門は読書が好きなだけの女の子、朝比奈さんは未来から来ない、お前は超能力を持たない、とする。そこで暮らしたいと思うか」

「面白い思考実験ですね。その世界の僕は、涼宮さん的にはどういうキャラクタなんですか?」

「お前はその……ただの転校生だな」

「僕から超能力をうばったら、ただの人なのでは」

ただの人って自分で言うか。

「向こうのお前は団員その一みたいな扱いだったな」

なんか自分が見てきたような言い方をしてしまいハッと我に返る俺だった。古泉はそんな俺の内心を読んでいたに違いないが、しかしそれについてはなにも言わず、

「微妙なところですね。たしかにエヴァレットの多世界解釈では、」またSF作家みたいな理屈を展開しようとして、場にふさわしくないと考えたのか言いめ、「主観的にはそういう世界にもまた魅力を感じます」

「お前だったらどっちを、」

どっちを選ぶかと言いそうになって、そこで俺も言いめた。この質問だと俺の体験から導き出されたもので直接的すぎる気がした。そこで、

「どっちの世界のお前が、実のお前らしい生き方だと思う?」

と言い直した。

「そうですね。僕が現在のような立場になれたのは、確率の低さでいうと天文学的数値に近い。ならば、涼宮さんに呼ばれたというだけで、そしてそこにいることを許されているというだけで、その価値を享受きょうじゅするべきではありませんか?」

それは自分への問いかけなのか、それとも俺に同意を求めているのか。どっちにしても、与えられる以上のことは望まんというわけか。控えめだな。

「俺は享受きょうじゅうんぬんより相対して楽なほうを選ぶな。って、俺がいてるんだよ」

「この手の質問をするということは、あなた自身の中ではすでに答えは出ているのでしょうね。ええ、僕としても一度はなってみたい気もします」

「なににだ」

「世界崩壊を心配しなくても、涼宮さんのそばにいられる人生です」

中学一年でなぜか突然超能力を与えられたという古泉談を信用するなら、そろそろ八年になるか。いや今回のでプラス一年か。

「ハルヒになんの力もなかったとして、そいつらにはどういう未来があると思う?」

「どういう、とは?」

「そいつら五人は成人しても一緒に遊ぶようなことがあるだろうか、いやそもそも集まることはあるだろか」

「どうでしょうね。大人になればまた価値観も変わりますし、社会の別の組織に入れば離ればなれになるのではないでしょうか」

「そうか、普通はそうだよな」

古泉はたぶんエリート官僚かんりょうコースを歩み、ハルヒは持ち前のリーダーシップで独立独歩、長門はこつこつと地味な学者タイプ、朝比奈さんは子供にしたわれる教職ってところだろうか。皆それぞれに社会的な役割が落ち着くと、それを維持するために昔あった仲間との関係が薄くなっていく。いつまでも学生気分でいられるわけじゃない。普通はな。

「でもそうならずに済む方法が一つだけありますね」

「なんだその方法って」

「そのうちの誰かがペアになって結婚することです。そうすると家族ぐるみの付き合いができます」

誰と誰が、とは聞かなかった。男二人、女三人、考えられる組み合わせはたった六通り。えて質問するのは野暮というものだ。だがここはいて、

「体操服の古泉はどうだったんだ」

「夢のなかの僕は ──」

言いよどんで古泉は、口を閉ざした。あのとき俺には聞こえなかったセリフを、もしかしたら自身では知っていたのかもしれない。それきりなにも言わず、ただ祈祷きとうだけを続けていた。


 鳥のさえずりが部屋に小さくこだまし、白々と夜が明ける頃、古泉は目を開けて顔を上げた。隙間から差し込んだ朝日が祭壇に黄金色こがねいろの帯を落とし神々こうごうしいまでに輝いている。

「お願いします」

古泉が三歩下がり、ふり向いて言った。俺は黙ったまま仕切りの内側に入り祭壇の前に立った。腰から十字架を取ってかかげ、そしてひざをついた。


── 天軍の栄えある総帥そうすい、大天使聖ミカエルよ。イツキ・オブ・コイズミは御身おんみを守護者とあがたてまつる。願わくば聖戦に当たりて彼を助け、悪魔を退けたまえ。彼をして御身おんみにならいて、常に主に忠実ならしめ、その御旨みむねたっとび、かくて我ら共に天国において主の御栄みさかえあおぐに至らんことを。父と子と精霊の名において願いたてまつる。アーメン。


 ドアを開けて伯爵が入ってきた。俺がいるのを見ると、え、お前なんでここにいんの、助手はどこに行ったんだ、という顔をしたが古泉が自分が頼んだのです、とうなずいてみせた。

「コイズミ殿、修道士殿、今日はいい日だ」

「マイロード、僕は今日という日を一生忘れることはないでしょう」

「私もだ、優秀な部下を迎えることができて実に嬉しい。コイズミ殿は会場に行ってくれ。仲間の騎士が準備をしているはずだ」

「かしこまりました。では、向こうで」

古泉は俺に向かって一礼し礼拝堂を出て行った。

「修道士殿にはこれをお願いしたい」

そう言って一本の長剣を取り出した。今日のためにあつらえたらしい。ピカピカの新品だぞ。

「お願いって、どうするんですか」

「もちろん、これを祝福してもらいたい」

ああ、そういうことですか。これで誰かを介錯かいしゃくしろというのかとびっくりしたわ。

 俺は祭壇に長剣をささげてブツブツと祝福の祈祷きとうを唱えた。ハルヒのとき一度やったからいちいち説明せんでもいいだろう。


 俺は伯爵と連れ立って出た。礼拝堂の南側に日当たりのいい広場がある。なだらかな坂が客席になり、坂を下って平らになった場所に木と板でステージを設置していた。ステージと階段、そして花道には赤い絨毯じゅうたんが敷かれている。城の外壁には伯爵のものらしい紋章入りの垂れ幕が風にあおられており、それから俺たちが運動会のときにかついで走ったのぼり旗があちこちに立っている。そのうちいくつかは見慣れない紋章で、たぶん配下の騎士のものだろう。


 開始はたぶん十時くらいのはずだがすでに客席は賑わっていた。伯爵がロンドンから呼んだらしい楽団が客席の一角を仕切って鎮座し、バイオリンや腰から下げるドラム、長いラッパを鳴らしていた。リュートでイングランド民謡を爪弾いているやつもいる。俺も持ってくれば小遣こづかい稼ぎになったのになあ。

 昨日の夕方からなにも食っておらず空腹に耐えかねた俺は一度城に入り台所に入って、愚僧ぐそうになにか朝飯を恵んでおくんなさい、と托鉢僧たくはつそうよろしく十字を切った。台所のメイドさんたちにはブラザージョーンの顔は知られているらしく客室に通された。それというのも今回久々に若手イケメンの騎士様が叙任じょにんされるということで、城下の女性陣、いや領地中でゴシップ好き共の噂のネタになっているとのことだ。ハルヒの裁判沙汰さいばんざたもあったしな。

「キョンくん、おはよう」

「……おはよう」

「あどうも朝比奈さんおはようございます。長門もおはよう」

俺がひとり客室でボソボソとパンをかじっていると二人が入ってきた。俺は、あぁしまった、この二人は一応レディだったなと椅子から立ち上がって礼をした。

「いよいよね」

「そうですね。おかけになりませんか」

俺は控えのメイドさんにこちらのレディに麦芽ばくがジュースを、とお願いした。コーヒーとか紅茶とかはないんだよこの時代はまだ。

「キョンくん、古泉くんの鎧姿よろいすがた見た?」

「いえまだですが」

「ロードシップの騎士さんが全員鎧姿よろいすがたなの。かっこいいわよ。これがもう、映画に出てくる白銀の王子様が一ダースいるみたいなの」

朝比奈さんの目がウルウルしている。きっと脳裏には絢爛豪華けんらんごうかなベルサイユ宮殿の映像が浮かんでいるに違いない。てやんでい、こちとら清貧せいひんがモットーのフランシスコ修道会よ。

「ええ。ところであいつ、この頃おかしくないですか。この時代に来てずっと」

「おかしいって、どんな?」

「急になにかに目覚めたというか」

「どうかしら……。わたしは女だからよく分からないけど、男の人ってこういう風格あるものにあこがれるものじゃないかしら。戦国武将みたいなものに」

まあたしかにナイトコスプレがかっこいいというのは認めますが。い、いえそういうことを言いたいのではなくてですね、

「今までずっと事なかれ主義で通してきたあいつがですよ、通る通らないは別として自分の意見を正論として言うとか」

「そういうことあったかしら」

古泉の一人語りも含めて、確かに何度かそういうシーンに遭遇そうぐうした俺だったが、朝比奈さんの気には留まっていないようだ。

「ハルヒが歴史改変をしないようにとの監視役を自負していたはずなのに、この頃ではそっちのけで、いやむしろそれを助長しているみたいな感じがしませんか」

「そう……そうかもしれないわね」

山賊団の活動を思い出しているのだろうか、少し考え込んでいる。

「仮に古泉が戦場に駆り出されたとして、戦死でもしたら未来はどうなりますか」

「いえ、それはないと思うの。今回の時間移動技術の開発を始めた涼宮さんがそれを許すはずがないわ。意識的かどうかはともかく、すべては涼宮さんが是非を決めているわけだから」

朝比奈さんの言葉が急に固くなった。

「ええ、そうかもしれません。でも今の古泉を見てると、もしかしたら未来に帰るのをあきらめたんじゃないかと」

「それは、こういう事態だと仕方ないかもしれないわ。帰る方法がないんだったら」

唯一の時間移動の専門家のあなたがそんな弱気でどうなさいますか。なんだか今日の朝比奈さんは古泉に甘い気がするなあ。


 いや待て。たしか、朝比奈さんたち未来人組織はハルヒを神とは呼んでないと自ら言っていたはずだ。それによくよく考えると、今の状況で、唯一不利な状況にあるのは朝比奈さんたち未来人ではないか。突然俺たちがとんでもない時代にタイムスリップしたために、未来人組織が自ら有利になるための既定事項構築ができなくなっているはずなのだ。

 そもそもこういう指摘は古泉自身がするはずではなかったか。ハルヒをコントロールしたいがために、古泉は未来人組織の監視を、朝比奈さんは機関の行動を監視しているはずだった。超能力者と未来人が二人して本来の目的を見失ってしまうとは、こいつらはいったいどうなっちまったんだ。あるいは、二人ともハルヒをすでに無用と見ているのだろうか。


 朝比奈さんはちょっと会場の様子を見てくるわね、と言葉をにごして麦芽ジュースも飲まずに客室を出て行った。

「どう思う、長門?」

朝比奈さんが出て行った後のドアをながめながら長門に水を向けた。

「どう、とは」

「つまりだな。古泉が騎士叙任きしじょにんを了承した理由が、機関の活動趣旨かつどうしゅしから外れている、と気づいてないはずがない。朝比奈さんはなぜ知らぬふりをしてるんだ?」

長門は少し考えこんで、

「……この世界のことを、あなたは話した?」

「いや、なにも話してない。その必要はないと思ったんでな」

「……そう。それぞれ二つの組織から切り離された末端要員が、個別の目的を持ち始めているとする見方もできる。それによって涼宮ハルヒへの依存度が減った。でもこれは推測の域を出ない」

「たしかに俺とは違って、お前たち三人は政治的に大きなものを背負ってるからな。それがこの時代に来てそろそろ解放されてもいいと思い始めたってことか」

「……わたしは違う」

ああ、まあそうだけどな。だがな、長門にも、必ずしもパトロンの目的とは同じでない独自の願望があることを俺は知っているぞ?


 執事さんが呼びに来た。そろそろ時間だ。メイドさんにごちそうさまを言い、俺たちは立会に向かった。

 立会とはいっても別になにか保証人の書類に署名しょめいするとかそういうわけではなく、ただ客席で突っ立って見てればいいだけの話だ。今、俺と長門は礼拝堂を背にしてステージを見下ろしている。シートもベンチもない客席には領内から集まってきたらしい人で埋め尽くされ、俺は朝比奈さんを呼ぼうと思ったがステージのそばに居て声が届かなかった。赤い布が敷き詰められたステージの上には四隅に柱が立てられ、長いリボンが渡してあり、その上にはのぼり旗が風になびいている。

 伯爵がこれまたピカピカに磨き上げた鉄のよろいでおめかしをして、壇上にゆっくりと登ると客席から拍手がいた。思ったより人気あるらしい。まあイケメンだしな。

 それまで民謡をかなでていた楽団が静かになり、観客もそろそろはじまる気配を察してか黙った。静寂せいじゃくの中、楽団のラッパが鳴った。カラリと晴れた四月の空にファンファーレが高々たかだかと鳴り響く。マーチに合わせて、城へと続く道から古泉と騎士の一団が入ってくる。全員がよろいを着ていて重そうな鉄のカブトを被っている。だいたい二十人くらいか。

 騎士さん達はステージ前の花道で左右に十人ずつ並び、カブトのひさしを上げてつるぎを胸の前に構え、この時代でいう敬礼をした。

 ここで騎士団長らしい人がカブトを脱ぎ、客席に向かって挨拶あいさつをする。

「お集まりの皆さん、本日は晴天に恵まれ、我が領主、そして領民の皆さんにとって祝福された日であります。先祖から受け継いだ私達の領地を守る栄光ある騎士が、主の御名みなのもとに今日誕生いたします。彼は愛と慈しみをもって皆さんに仕え、正義をもって敵と戦うでしょう。私達騎士団は領主様と、そして領民であるあなたと、あなたのお子さんを、命に代えてお守りいたします」

それから再びカブトを被り、大声で叫ぶ。

従臣じゅうしんの誓いをする者、イツキ・オブ・コイズミ、いでよ!」

塔に続く道から朝日を受けた古泉がキラキラと輝かんばかりにして、真新しいよろいを着込みガシャガシャと音を立てながら歩いてきた。胸と肩パットは一枚のプレート、その下に鎖帷子くさりかたびら、鉄の腕カバー、腰には四枚のプレートで出来たスカート、足には膝当ひざあてとスネ当て、その下に革のブーツをいている。カブトは被っておらず、まだつるぎは持っていない。

 古泉はステージに続く赤い花道に足を踏み入れる前にひざをついて、顔の前で十字を切った。それからゆっくりと歩いて近づき騎士団の前で胸の前に右腕を付けて敬礼をした。騎士団も一斉に同じ仕草をした。

 古泉は一歩、一歩とゆるやかに階段を登り、ステージに立つ伯爵の前に片膝かたひざをつく。

「イツキ・オブ・コイズミ、ここにおります」

伯爵は腹の底に響く声で宣する。

「神に愛される者よ、勇気を持ち、正義をせ。民を愛し、そして悪を憎み、不正を許さない家の者であることを忘れるな」

「我が命に変えてでも、必ず民を守ります。神のご加護により」

次の瞬間、伯爵は右手にはめたグローブの甲で古泉の右のほほをペシとひっぱたいた。古泉は一瞬よろめいたが耐えた。観客がオオッとざわめいた。俺はいったいなにが起こったのだと目を見開いたが、そういうシキタリらしい。

 伯爵は俺が祝福した長剣を両手でかかげ、古泉に授ける。古泉は両手で受け取る。

「立ち上がれ息子よ! 真の騎士となり、敵の面前で勇気を示せ!」

古泉は立ち上がり、そして長剣を抜いて口づけをし、観客に向かって振ってみせた。伯爵が古泉の左手を握って腕を上げると観客が拍手喝采した。楽団が勇ましい曲をかなで道化師がステージの角から紙吹雪をいている。気がつけば俺と長門も夢中で拍手をしていた。副団長の腕章のときはどうでもよかったが、このときばかりは俺もうらやましいと思った。


 それからは騎士と兵士たちの余興よきょうが続いた。木剣もっけんを使った剣術、的に当たった矢の数を競うアーチェリー、障害物を飛び越える乗馬レース、軍馬に乗って槍で的を突く馬術などなど、伯爵が太っ腹の賞金を出して腕を競い合った。伯爵と腕相撲をして勝ったやつに娘との結婚を許すという即興試合そっきょうじあいもあったが、残念ながら伯爵に子供はいないので勝者はただの骨折り損になるというオチになった。

 会場のまわりにはエールをはじめ焼肉やサンドイッチなどの屋台も多く出ていて、それなりに商売繁盛しているようだった。長門はいつものごとく古本を売る店に釘付けになっている。

「ところで涼宮さんはどうなさいました」

ああ、すっかり忘れてた。すっかりヒーローとなった古泉、もとい、サー・コイズミは独身であるという個人情報が一気に広まり、今や領内の女性陣のあこがれの的である。この時代はイケメンアイドルにサインをねだるという習慣はないので、娘を連れたお母さんが一組ずつやってきて名前を告げ、どこどこ村に住んでいて、娘は何歳で、お父さんが自由農で、土地を数バーケード持っていて、うちの村にお越しの際は是非お立ち寄りくださいねオホホホと延々自己紹介をするのみである。サー・コイズミは冷や汗を垂らしながら、ただただうなずいて今後ともよろしくお願いしますと挨拶あいさつを続けていた。新米の騎士一人のために長蛇の列ができるほどだ。たしかに今日は古泉のためのイベントだったが、それにしちゃ婿候補むここうほくらいはしっかり選んだほうがよくはないか。

「それで、涼宮さんはどうなさったのですか」

ああ、すまん。お前の鎧姿よろいすがたがあんまり神々こうごうしいのでモノローグにひたりきってしまった。

「ハルヒはだいぶあおっておいたんで来てるはずなんだがな」

俺と古泉は観客の中にハルヒの姿を探した。あいつならまわりに群衆が千人いたって見つけ出せる。

あおると申しますと?」

「いや、古泉が戦場に出るんで見納みおさめだぞ、と」

またいつもの扇情せんじょうですか、と古泉はガシャと腕カバーの音をさせてこめかみに手をやった。お前のダジャレは分かりにくい。

「僕としましても今回だけは涼宮さんに見てもらいたかったのですが……」

まあどっかから見てるかもしれんだろ。城壁の上とか。俺と古泉はまわりを囲んでいる城壁の上と小さな窓に目を走らせたが、ここからでは分かるまい。まあ帰ったら聞いてみりゃいいさ。

 俺は朝飯を食ってない古泉のためにパンとベーコンとエールを買いに行った。買ったエールを一口味見してみてやたら薄いことに気が付き、

「おいオッサン、このエール水で薄めてんじゃねえのか」

「な、なに言ってんだい、ここいらじゃあた……オイラのエールは最高級品なんだから」

「オッサン、ほおかむりからカチューシャがはみ出してるぞ」

「えっ、まじ!?そんなはずはな、ねえだよ」

なんで付けひげまでしてコソコソせにゃならんのだお前は。その服はじいさんの遺品だろ。

「アーレー、どこへ連れて行こうというの修道士のダンナご無体むたいなことをなさるー」

ほとんど棒読みのハルヒを引っ張って古泉のところまで連れて行った。

「変装してらしたんですか、涼宮さんも人が悪い」

「だ、ダンナぁ、人違いで、あっしはしがないエール売りでございやす」なんで鼻声なんだよ。

「見てくれていたんですね。ありがとうございます。僕は今後とも、いえ、これまでもこれからも涼宮さんの忠臣ちゅうしんです」

「そ、そう。スズミヤってやつぁよっぽどのシアワセモンだぁね」

そんなやり取りをしていると後ろから伯爵が声をかけてきた。

「コイズミ殿、乗馬レースの乗り手が足りないんだが、参加してもらえないか」

「はい、マイロード。ええっとこちらがスズ、」

「伯爵のダンナぁ、あっしはただのエール売りで」

「おお、じゃあ私も一杯もらおうか」

伯爵も気付けよ。


 俺はステージ前にいる朝比奈さんを手招きで呼んだ。朝比奈さんはエッなにこのオッサンくさいハルヒは、これでも変装のつもりなの、と俺の表情とハルヒを交互に見比べて、どうやらいろいろと察したらしく黙っていることにしたようだ。

 伯爵と俺と長門と朝比奈さん、そしてオッサンくさいハルヒで、古泉に食わせるはずだったパンとベーコンをわしわしと無言で食い続けた。飯はうまいけど気まずい空気というのはこういうのをいうのだなあ。

「あーやめやめ!」

ハルヒはほおかむりとお粗末な付けひげをひっぺがし地面に叩きつけ、

「伯爵! 今回は古泉くんの自由意志を尊重したけどね、あたしが負けたわけじゃないんだからね」

いや、そのセリフを吐いてる時点でお前はすでに負けている。伯爵は眉毛を持ち上げて、いったい何の話をしているんだと俺の顔を見たが、あれは嫉妬しっとですと耳打ちすると察してくれたようで、

「ミス・スズミヤ、男には身を立てるためにさねばならんときがある。今のコイズミ殿はそのときだと思わんかね」

「そんな汗臭い理屈が女のあたしに通用するわけないでしょうが」

「私の勝手な想像だが、お見受けしたところ、コイズミ殿にはなにか鬱積うっせきしたような、足かせになっているものがある。それはもしかしたら人間関係なのかもしれない」

見かけによらずするどいな伯爵。まったくそのとおりだ。

「それがあたしだっての?」

「そうは言っておらん。ただ、天高く羽ばたける翼を持っているのに、それに気づかない鳥というのは、見ていてつらいものだ」

「ふーん、言うじゃないの。あんたが手なづけて羽ばたけるというのならやってみなさいよ。言っとくけど、古泉くんとはあたしのほうが付き合いが長いんだからね」

「もちろんそうだろう。彼のあなたへの献身度は私に対するものとは比較にならないほどのものだ。だが近すぎて本人の持ち前に気づいてやれないということもある。彼は自分の力を十二分に発揮はっきできていないのではないだろうか」

伯爵は意外と真を突いたところをはっきり言う人だな。まあ、なんだ、あいつの特殊な超能力でさえ、そのパワーが誰かに管理されているのは確かだ。

「まあいいわ。古泉くんに免じて少し武者修行をするのもいいかもね。ただし条件がひとつあるわ」

「なんだ? 私は大抵のことは応じる用意があるぞ」

おいおいまた戦うのかよ。

「今ここで、あたしたちを村から追い出した騎士と勝負させなさい。あんたが命令したんじゃなさそうってことは分かってたけどね、あいつだけはゆるさないわ」

「それはできない相談だ。部下がやったことは、私がやったことだ」

伯爵は厳しい表情で言う。部下の失態を全部自分でかぶるのか。なんと見上げた上司だ、全部部下におっ被せるどっかの誰かとは大違いだぞ。

「じゃあ勝手に果たし合いでもするけど、それでもいいの?」

「それはまあどうしてもと言うのであれば……しかし無理ではないだろうか。あいつはここにはおらんのでな」

「おらんって、まさか逃げ出したの?」

「いや、実は出征しゅっせいしてフランスに行っておる。なあミス・スズミヤ、あなたも家臣をお持ちの身分だ。部下にも向き不向きがあるのはご存知のはず。血気盛んで突っ走るやつもいるし、思慮深しりょぶかいいやつもいる。ああいうタイプは戦場では百騎に相当する能力を発揮はっきするが、別の場所ではそうでもない」

「ってことはあれね、左遷させんされちゃったの。いい気味よ」

ハルヒはバンバンと俺の頭を叩いて笑った。あんまり禿頭とくとうをおもちゃにすんな。聞けば、古泉を採用したのは、村の住民に顔の利く人物を間に立てて管理を任せたほうがうまくいくからなのだそうだ。

 伯爵は困った顔をして、少し寂しげな表情になり、

「まあ……アレのことはあんまり悪く言わんでくれ。私への忠誠心からやったことだ。ただ空回りすることはあったがな」

うちは真逆まぎゃくで、どっちかというと上司の方が毎秒五千回転の空回りをしてましてうらやましい限りです。左遷させんされた騎士さんごめんな、いつか骨は拾ってやるからな。あーどうでもいいがハルヒ、お前の屋台がタダで飲み放題になってるぞ。


 叙任式じょにんしきが終わってやれやれ一騒動クリアしたかという溜息ためいきとともに、村では農作業がはじまった。今回は長く滞在する予定なので俺も手伝った。ハルヒは農場経営に一言いちごんあるみたいだが俺も修道院で土に触ってきたのでな。俺は俺のやり方を通させてもらうぜ、などと意味もなく張り合っている。

 ハルヒは畑には出ず、家でなにかチクチクと裁縫をしていた。

「できたわ!」

朝飯を食っている最中に飛び込んできた。目の下に黒いクマができている。徹夜だったのかよ。

「なんだそりゃ」

「見てのとおりよ、SOS団のペナントよ」

「そりゃ分かるがパブの看板にでもするのか」

「違うわよ、我が家が輩出はいしゅつした騎士イツキ・オブ・コイズミの紋章よ」

ほー、こういうところはマメなのな。長さ一メートルくらいの盾形の布に丁寧に刺繍ししゅうで、もはやおなじみとなったSOS団のロゴが縫い付けてある。イギリスというのは刺繍ししゅうの国だ。伝説や国の歴史なんかも刺繍ししゅうとして保存されているものが多いと聞く。

「ああ。いつものサナダムシか」

「なによあんたも喜びなさいよこの完成を。一枚だけじゃないのよ」

ハルヒががっつりと派手な布のかたまりを持ってきて広げてみせた。決闘のときにかかげてあったのぼり旗と同じタイプ、槍に付ける横に長い二等辺三角形のペナント、十字軍の兵士なんかが着ている袖のない長めのチョッキ、最後にマントである。

 しょうがない、俺が祝福してやるかと十字架をかかげようとすると、いいわよそんなのご利益りやくなさそうだしとあっさり断られた。俺の突然降っていた信仰心をどうしてくれる。

「ありがとうございます、涼宮さん。素晴らしい出来栄えですね」

「でしょでしょ。みくるちゃんと有希にもお礼言っといてね、手伝ってもらったんだから」

「そうでしたか、お二人さんありがとうございます」

まあこれだけの刺繍ししゅうをやるのはいくらハルヒとはいえ一人では無理だろう。

「ちょっとこのマントを羽織ってみなさいよ。どうよこのれする姿」

古泉がマントを広げると、盾形の枠の内側にロゴがあり、その上には騎士を象徴するらしいカブトが描かれている。

「ライオンとか王冠はないのか?」

「ライオンは王族、王冠は貴族以上、あんたもちょっとは勉強しなさいよねえ。そんなんじゃいつまで経ってもこの時代になじめないわよ」

こないだまで古泉の叙任じょにんを大反対してたハルヒに、これだから素人はという顔をされてちょっとイラッとした。いやかなりイラっとしたぞ。

「これは何が書いてあるんですか」

ロゴの下にリボンのようなものが描かれていて、その中に文字が走っている。モットーとかな言ったなこれ。要は家訓だ。

「キシシ、ナイショよ」

「涼宮ハルヒを見よ、だろ。この程度のラテン語なら俺にも分かるわ」

ハルヒは俺の頭をぺしっと叩いて、

「なんで勝手にネタバレするのよ、あんたにはミステリーを解くというロマンが分かんないの」

こんなサナダムシロゴのどこにロマンがあるのか伺いたいものだねというドヤ顔をしていると、まったく無粋ぶすいねキョンくんは、という朝比奈さんと長門の視線が刺さって妙に心が痛かった。

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