第三部 朝比奈みくるの策謀
十五章
雨が線となって降り続いている。会場は静まり返り、立会人は全員立ち上がったまま固まっている。裁判長、四人の騎士、そして俺を含む
「神様……いったい何が起こったというので……」
沈黙を破ったのは裁判長だった。吐く息を白くしながらオロオロと顔の前で十字を切っている。顔面蒼白になった護衛の一人が、
「これは神罰です!」
「
「いえ判事様……しかし伯爵がブーツからナイフを抜いたのを見ました」
長い衣をまとった裁判長のカツラが濡れる。俺たちの服もたいがいにびしょ濡れになっている。
リングにあった闘士の姿は二人とも消えていた。リングの端、南側の柵が黒焦げになっており、その手前に綿のような白い粉が二つ固まっている。それぞれ粉の山から煙が立ち上っていた。その脇には装飾の入った短剣と細身の刀が転がっている。この粉はいったい何なのか、いったい何が起こったのか、ハルヒが刀をふり上げた次の瞬間なにが起こったのか、誰にも分からなかった。
「ナイフは……確かにわしも見た。そこに転がっておる短剣じゃな」
「しかし原告もなにか武器のようなものを持っていたではないですか」
被告が抗議した。裁判長は
「その細長いやつじゃな」
裁判長が指さした刀の脇に
古泉が口をはさんだ。
「裁判長閣下、僕は被告側の闘士がナイフを抜く前に、降参を叫んだのを聞きました」
その点はいかがですか、と護衛の騎士四人に振った。四人のうち三人が伯爵の声を聞いたと証言し、四人とも伯爵が手を挙げる仕草を見たと言っている。
「三人が降伏の声を聞いたということなら、被告の敗訴になるが。そっちはどうじゃな」
「しかし裁判長、」と被告が困惑した様子で「本人がいないのであれば勝ちも負けもないのでは」
「それが問題じゃ。二人ともどうなってしまったのか……」
さて、これをどう収集をつけるかだが。
長門が俺の袖をツンツンと引いて耳打ちした。
「……二人の構成情報を再構築する。
「
長門はうなずいた。プッ、涼宮ハルヒの
俺は古泉に耳打ちした。
「おい、ちょっと事後処理するから関係者を連れ出して協議しといてくれ」
「分かりました」
「絶対に引くなよ」
「もちろんです」
引くなよとは、これから行われる裁判の判決をという意味である。とはいっても本人たちがいないんじゃ、別の意味で
「裁判長、今回の件について被告側と協議の上、議事録に残したいのですが」
「なら立会席に戻ろう。ここでは濡れていかん」
観客席には口々に神の救いを唱える者、両手を組んで
古泉が裁判長以下、被告側の
「長門、ほかになにか必要な物は?」
「あの長門さん、わたしも手伝います」
「……そう。タライと水が必要」
「タライの大きさは?」
「二メートル程度」
二メートルの
えーと
俺は近所のお屋敷のドアを叩いて、おばちゃんが出てきたので、子供が生まれそうなので
亀の
リングに長門と朝比奈さんの姿はなく、テントを覗いてみるとそこで待っていた。
「おう、手に入れてきたぜ」
見ると、地面にペンタグラムのようなものを描いている。最近よく出てくるなそれ。
「……
俺は
雨の中の観客は、お前らはいったい何をやってるんだとブーイングしている。そりゃまあ大金がかかってるわけだし、勝敗が決まらないと配当がもらえない。いったいなにが起こったのか当局が何も教えてくれないので国王
「長門、二人分の灰を混ぜちまったが大丈夫か」
「……それは大問題」
ガーン。
「もしかして俺のせいで
長門はいつもはあまり見せない渋い顔をして、
「……構成分子すべてに符号化が必要。すこし、時間がかかる」
なんだか分からんが、たぶん分子を一個ずつハルヒ用と伯爵用に
ペンタグラムの上に
「……タンパク質の基礎部位が必要」
「それって何だ?」
「……あなたの体組織サンプルを分けて」
「おいおいちょっと待て」
それじゃ俺の体がハルヒの体の一部になっちまうのか。いくらなんでもそれは
「……それなら全員で」
ぜ、全員って、四分の一が俺か。長門は試験管を差し出し、鶴屋さん並みの八重歯をキラリと見せて俺に血をよこせと迫ってきた。い、いやん。針でプツと指先を指しポタポタと落ちる血を試験管に垂らした。イテテ……赤い血だ……俺死ぬ。
苦笑する朝比奈さんの指先から数滴の血液を採取し、長門がテントを出て戻ってきたところを見ると手には
試験管ごとポシャンと
「……オンキリキリ、バサラウンハッタ……ソワカ……アビラウンケン……ソワカ……」
それから五分ほどブツブツとどこかで聞いたことあるような呪文が続いた。
「……召し上がれ」
いや食うわけにはいかんだろ。
三人で並んでじっと待っていると、シュワシュワと泡立つような、なにかが醸造されているような音がし始めた。きっと
「
「いやー、俺としてはこのまま海に
「あら、それなら山のてっぺんに埋めるというのはどうかしら?」
「……埋葬するなら、桜の木の根元に」
三人であはははーと乾いた笑い声を上げた。バッタバッタと
「おい笑ってる場合じゃない、中で
「ええっ!?」
朝比奈さんが慌てて
テントの前で雨に降られながら待っていると自分がなんだかスケベオヤジみたいな気がしたので、俺は立会席で行われていると
「どうやら裁判の無効という流れになりそうです」
「なんでだよ。原告は降伏したじゃないか」
「そうなのですが、それ以前に涼宮さんの刀が多数決で武器認定されまして、ポイント欠点しました」
「それでフィフティフィフティじゃ割に合わんだろ」
「向こうが先に短剣を抜いたということで、裁判費用と罰金は向こうが持ちます。それが取引ラインでした」
「土地と家は?」
「旦那様の土地を含めて、没収となったすべての土地が返却されます。ただし今年の収穫の利益分は引き渡されません」
収穫分から裁判費用を差し引けばプラマイゼロか。これじゃどっちが勝ったのか分からんな。
「いや待て。伯爵は今長門が
「それは……フェアではないような気がします」
同じことを考えていたらしい古泉の、笑い混じりの困った顔だった。まあ、俺も修道士らしからぬことを言ってしまったがな。ハルヒはたぶん納得するまい。またなにか、しでかさなきゃいいのだが。
テントに戻る途中で、これは悪いニュースと良いニュースどっちから聞きたいかの典型だな、などと考えていると、朝比奈さんの怒鳴り声が聞こえた。あの、朝比奈さんの怒鳴り声って……見る者すべてをマゾに
「マイロード、あなたは神に対して正義を宣誓されたお方です。なぜあのようなことをなさったのですか」
「マイレディ、面目ありません。魔が差したとしか」
「わたしの国にこのような言葉があります。
「
「恐怖心に負けたというのなら、騎士見習いからやり直すとよろしいのです」
「はあ、まったくおっしゃるとおり。弁解のしようもありませぬ」
「あなたが正義を
「その通りです。今回の失態については深く
「まったくです。恥を知りなさい!」
これが後世に伝えられている、〈朝比奈みくるの恥を知りなさい事件・その
「あどうも、はじめましてマイロード」
「修道士殿か。この度はその……正直、すまんかった」
佐々木健介のモノマネにしちゃ
長門がハルヒの
「こらキョン入ってくんな、あたし着替えられないじゃないの。伯爵、あんたも出てけ!」
ハルヒもドライというか。プライドもなにもなくしたスッポンポンの伯爵様があまりにも哀れで、俺は自分の修道服の上着を貸してやった。いえ、ズボンはだめです。
伯爵がテントに戻ると
「こらキョン、古泉くんもちょっと来なさい」
「へーい」
いやまあ、呼ばれることもその理由も分かってるけどな。
「説明しなさい」
「と申しますと?」
すっとぼける古泉である。
「もう少しで決着がつくとこだったのに、いったい何があったのかをよ。なんであたしが素っ裸で風呂に入ってたのかをよ」
いやまあ、人が風呂に入るときはたいてい、イテテ耳引っぱんなよ。
「あれはその……なんと申しますか、被告がナイフを隠し持っていたために神罰が下おりまして、」
「古泉くん、あんたいつからクリスチャンになったの!?」
ごまかしきれないでほかに適当なこじつけがないものかと困った顔をする古泉である。
「古泉、もういい。隠し立てしないでそのまま話してやれ」
「よろしいんですか? つまりですね、涼宮さんが武器をふり上げた瞬間に運悪く落雷したのですよ」
「それだけ?」
「ええ。あたり一面が白く光って一瞬なにが起こったのか分かりませんでしたが、二人とも数万アンペアの
「ってことはあたしは一度死んだわけ?」
「そういうことになります。
古泉がこうも馬鹿正直にすべてのネタをあっさり明かしちまったからか、あるいは図らずも臨死体験の往復切符を行使して戻ってきてしまったからか、ハルヒは信じられないといった顔で呆然としている。ベンチに座り込んでがっくりと肩を落とし、人生のなにもかもが終わったような疲れた目をして、
「おっつぁん……あたしは灰になっちまったよ……真っ白な灰に」
はいそのネタは俺が先にやった。
雨の中動員された観客も、たぶんこのまま放置しておくと暴徒になりかねんので俺はハルヒをリングに連れて行った。すると裁判長がイッツミラクル! を叫び、正装に戻った伯爵がこれまたリングに顔を出すとダブルミラクル! 裁判長がただいまの決闘、ドロー、を宣言すると観客は感極まったのか、なんだか分からん主を
判決を聞いてごねにごねるハルヒを、散々苦労して説得する俺だった。古泉が冷や汗を垂らしているが、こりゃー今夜あたりまた青い奴が出るな。
「なんであたしが負けてんのよ!」
「いや、だから負けてないって。土地と家は戻ってくる」
「じゃあ
「雇い主のところに戻ることになるだろうな」
「あいつらのために戦ってきたのに、これじゃ裁判所が
ハルヒは眉間に手をやった。最近俺の仕草に似てきたぞお前。あそうだ、俺の
「失礼、先ほどのレディはいらっしゃるか」
テントの外で声がした。
「はい、あら、伯爵様?」
「この度のことをお
「こらぁ伯爵! なにナンパしてンググ空気読めンググ」
「ええ。是非とも。全員で伺ってよろしいでしょうか」
「みくるちゃンググ! ングググ!」
イケメンを見ると見境なくなる朝比奈さんもドライですね。
森に戻ると皆が雨の中でじっと待っていた。ハルヒの顔色をうかがっている。試合中は
「みんな……喜びなさい! 家に帰れるわよ!」
なんだ、その気難しい顔はフェイクかよ。皆がおっしゃあと歓声を上げた。まあ控えめに言ってもハルヒが来る前の状態に元に戻ったんだ。喜ぶべきだろう。
ハルヒはポケットからスマホを取り出して森の様子を撮っていた。短いジプシー生活だったが、いい思い出になるだろう。
「っておい! なんでスマホなんか持ってんだお前」
「なんでって、これあたしんじゃないの。なんか文句あるわけ?」
い、いや、中世になんでそれが存在するのかというそこはかとない疑問なわけだが。
「バッテリー節約して使ってるに決まってんじゃない」
お前のスマホってそんなにバッテリー持つんか? たしか半年くらい前に落ちてきたって言ってなかったか。俺のやつはええっと……あそうだ、農民に偽装した強盗に襲われて持っていかれたままだ。
「ちまちま電源切ってるからに決まってんでしょ。カメラ以外のアプリ全部削除、無線系カット、省電力モード必須。あんたも頭使いなさいよね。あーもう、あんたのせいでムダに
なるほど、そんなに持つのかバッテリー。日本の電池技術は中世でも最高だな。いや突っ込みどころが違うぞ俺、その情報を未来に持って帰ってもいいのだろうか。
ハルヒはしばらくのあいだ暮らしていた森を見回し、アウトロー生活ともおさらばか、みたいな顔でため息をついた。みんなが荷物をまとめる様子を見て朝比奈さんも
「よかったわね、涼宮さん」
「うん……」
ハルヒは森の奥が気になるようで自然とそっちに足が向いた。俺たちも後に続いた。薄暗くなった林の中にある小さな盛土。
「ごめんねグランパ」
ハルヒはぐすぐすと鼻をすすった。
「こんなんじゃ寂しいから墓石でも立ててやろう」
俺が後ろから声をかけてもハルヒは返事をせず、顔を見せないようにグスグスとしゃくりあげ、どうやら鼻が詰まっているらしく口でハァハァ息をしている。朝比奈さんと古泉が俺を見た。な、なんだよ。俺はなにもせんぞ。こういうときは古泉だろう。俺と長門と朝比奈さんの視線が古泉に向いた。え、僕がやるんですか? あったりまえだろ。しかし僕では役が勝ちすぎて……はうあ! はぐ!
俺と朝比奈さんが古泉の背中をドンと押すと、古泉はハルヒの肩に手をかけ、オドオドしながら軽く抱きしめた。うんうん、これもまた絵になる、と三人はうなずいた。ハルヒ、古泉で鼻をかむな。
林に
ハルヒの家、というか居候させてもらっていたという爺さんの家は思ったよりも大きかった。俺と長門が訪れるのは今回が初めてだ。家の扉や窓を
朝比奈さんが早速メイド服に着替えて台所に入り、遅い晩飯の支度をしてくれている。そういや三時の飯食ってなかったな。ところが台所はひどいありさまで、野菜のほとんどが影も形もないくらいに腐って干からびているし、ジャガイモは芽が出て伸びきったところで枯れ、タマネギは茶皮だけ残して中で液体と化しひどい臭いを出している。カビの生えた小麦を裏の畑に捨て、納屋の貯蔵庫から新しい小麦を出してきた。それを
ハルヒはとても飯を食う気分ではないらしく、一人だけ部屋に引きこもってベットに
翌朝ハルヒはマナーハウスに出かけ、去年の夏に土地を没収されて以来の農作業の負担金について交渉に行った。畑の所有者全員に作業の分担金と
ある日領主から使いの人がやってきて手紙を置いていった。ハルヒは開こうともせず、テーブルに
「見たくないし触りたくもない」
「でも、涼宮さん宛ての私信ですよ」
「いいから読んで」
古泉はうやうやしく封を折って広げ、
「先日の一件についてお
「行くわけないでしょ」
「おいハルヒ、子供じゃないんだからそういうことは本人に面と向かって言えよ」
子供じゃないんだからというセリフにカチンと来たらしく、
「あんたが行けばいいじゃないの! っていうか行きたい人は勝手に行きなさい。あたしは死んでも行かないからね」
噛み付いてきやがった。そのままダダダッと足を踏み鳴らして家から出ていった。
俺は古泉から羊皮紙の切れっ
── グロースター伯よりミス・ハルヒ・オブ・スズミヤへ、先日の決闘の件について、お
『その人はジョンスミスなのよ』
あのときの声が今でも耳に残っている。ハルヒのトドメの一撃を
「この手紙によると伯爵はロード・ジャン・ド・スマイトが正式名らしいんですが、朝比奈さんはこれ知ってたんですか」
伯爵はノルマン人の家系なのでこういう名前になるらしい。
「ええ」
朝比奈さんは浮かない顔をしていた。俺が長門に目だけで尋ねると軽く
「朝比奈さん、こういう重要な情報は早めに教えておいていただいたほうが」
とくにハルヒ
「ええ分かっています。それが禁則事項だったの」
「禁則事項って、ここは中世のイギリスですよ」
「あの、キョンくん、今だから言うけど、
朝比奈さんの顔つきが厳しい。そういえばハルヒも妙なことを
古泉が三人の顔を見比べながら割って入る。
「あの、お二人さん。いったい何の話をしているんですか?」
「あー、えーっとだな。これはお前は知らないほうがいいことだ」
「それは
しょうがない。まあ古泉もこの流れに巻き込まれているわけだし、教えないとゴネそうだしな。
「今回俺たちがこの時代にタイムスリップしてきた理由がだな、単なる事故じゃなさそうだってことだ。もしかしたらハルヒが起こしたのかもしれんというか。いや、その可能性が高くなった」
「どのような理由で涼宮さんが?」
「えーと、これにはいろいろと複雑な事情があって、ハルヒは伯爵を追いかけてこの時代に来たらしい」
「なるほど。それで中世の貴族と涼宮さんがどういう関わりがあるんですか?」
「まあ、ただの人違いだ」
「人、違い、ですか。ふーむ」
それのどこらへんが複雑な事情なのだと言いたげな古泉は、首をかしげ九十度ひねりそうなところまで考え込んでいた。名前が同じことは分かるが、八百年も
「……今回の涼宮ハルヒの行動は、ジャン・ド・スマイト
「ということは既定の歴史をなぞってるってことか。それにしちゃあ、やけに伯爵にツンツンじゃないか。ツンが
ヤンデレならともかくだな。
「今回の涼宮さんには、なにか
翌週、この時代にしては豪華な箱馬車が迎えに来た。ハルヒはさっさと畑仕事に出かけ見送りすらしなかった。朝比奈さんは最後まで迷っていたが、伯爵を公然と叱りつけた手前もあってか、行ったほうがいいわよねとハルヒ様にお伺いを立てる気味に言い、やっぱり先方が礼儀を尽くしているからにはこっちもそれなりの応えをするべきだろうと四人で聞こえよがしに話し合った結果、ハルヒを残して城に行こうということになった。ハルヒもひさびさにメイドさんたちとエールを作って楽しんでるようだし、俺たちもたまにはボスのいないところで羽を伸ばしたいし、まあいっかみたいな放任主義だった。
軽快に鳴り響く馬の
そういえばこないだいた兵隊が一人もいない。見回してみたが
俺たちは礼儀を欠かない程度の正装に近い格好で、朝比奈さんと長門は長めの白いドレス、古泉はシャツの上にチュニック、
城壁の内側にもうひとつ城壁があり、さらにその中に四角い、チェスのルークみたいな形の塔が建っていた。
「要塞みたいだな」
「ええ、
中庭には石畳が敷かれていた。城壁の門の上から衛兵が見下ろしていて、朝比奈さんがにこやかに手を振ると慌てて胸に手を当てて儀礼の姿勢をしていた。分かりやすい。
御者が門前で、ハルヒ・オブ・スズミヤご一行到着と衛兵に告げると鉄格子のシャッターが持ち上げられた。塔は石造りの四階建て箱型マンションのようで、ここが領主の住んでいる
馬車が中に入ると塔の重そうな木のドアが開いて人が出てきた。衛兵と、こないだ裁判に来ていた執事、それから領主の伯爵だった。
「領主自らのお出迎えですよ。
まじすっか。それなのに招待された本人が来ていないってどんな礼儀知らずだ。伯爵はパリッとした貴族コスプレに身を包み、こないだの気難しい顔はどこへやら、ニコニコと営業スマイルである。
御者が馬車のドアを開けるとまず朝比奈さんが降りた。伯爵が突然前に出て朝比奈さんの右手を取り、足がステップから離れて地面に着くのを確かめてから手を放した。おぉー、これが紳士のたしなみというものかー、などと
「ようこそ我が城へ」
伯爵は朝比奈さんの右手を取って口づけをした。オォー、これが紳士の……。朝比奈さんはまさかリアルで手にキスをされるとは思っていなかったようで、目を丸くしている。なぜかその後一週間右手を洗わなかったそうだが。
「ところでミス・スズミヤがいらっしゃらないようだが……」
古泉が前に出て
「マイロード、この度はお招きに預かりありがとうございます。ミス・スズミヤはこのところ風邪具合が悪く、閣下に風邪を
「そうですか。去る日の雨でお体を害されたのでなければよろしいのですが」
去る日とは悪天候に見舞われた決闘当日のことである。ハルヒのことなら心配しなくても、雷が落ちても死なないと思います、ええ。
「では、ええと、マイレディ。まだお名前も伺っておりませんでした」
「申し遅れました。ミクル・オブ・アサヒナと申します。こちらはお友達のミス・ユキ・オブ・ナガト、」
「……」
長門がコソコソと朝比奈さんの耳元でささやくと、
「ごめんなさい、お友達のミス・ユキリナ・ド・ナガティウスでした」
「存じておりますミス・ナガティウス、部下がよくお世話になっているとのことで」
伯爵はようこそとうなずいた。長門はすでに面識があるらしい。
「それから執事のイツキ・オブ・コイズミ、そっちはええっとキョ、」
朝比奈さんはえーっとという感じに俺の顔を見て、どうやら本名を明かしていいものかどうか迷っているらしく、伯爵が後を継いで、
「修道士殿、ブラザー・ジョーンですね。先日は服をありがとう」
いえまだ見習いの身分でして、とはいっても誓いを立てて半年は経ってるから修道士に昇格してもいい頃合いなのではありますが。っていうかマイロード、あなたもその名で俺を呼ぶんですか。
伯爵は執事に案内させるのでと言い、自分は別の部屋に入った。執事は暖炉のある客室を案内してくれ、俺たちはテーブルに着き椅子に座ってワインを勧められた。部屋の中は、床は木の板、石造りの壁にところどころ紋章入りの大きなタペストリーのような布が貼ってある。肖像画っぽいものが何枚か飾られていて、そのうちの一枚は伯爵本人らしい。窓には厚手のカーテンがかかっていた。
ディナーの用意ができたので、と執事が呼びに来て俺たちは大きな暖炉のある広間に通された。長いテーブルの
ふつうは招待した家の
執事がワインを注ぎ、メイドさん
「マイロード、このお城はえらく年季が入っていますよね。いつごろ建てたんです?」
「私が生まれた年にはもうあったらしい。残っている古文によればローマ帝国の時代に小さな塔が建てられたとあるが、その後ヘンリー二世陛下が増築して今のような形になったのだと聞いている」
「歴史のある建物ですね」
「まあ、殺風景な要塞だがな」
そこで会話は途切れた。古泉、今度はお前がなんかネタを振れ、と目配せしてみるが目を細めて困った笑いを見せるだけだった。
「こんなときに何だが、この度のことはお
いつ切り出そうかと迷っていたらしい伯爵が、持っていたナイフをパタリと置いて
「もったいないお言葉です、マイロード。僕たちも話し合って解決する機会を持つべきだったと思っています」
「私はてっきり長官の
「今回の件は、どちらかといえばミス・スズミヤの自発的な行動からはじまったものでした。長官に相談したのは
「長官はなにか特別な野心でもあるのか、たまに嫌がらせめいたことを演じるのだ。ミス・スズミヤも火中の栗を拾うと言おうか、また思い切ったことをしたものだ」
長官の
「ごめんなさいマイロード、あのときはわたし、必死で、涼宮さんが負けたら居場所がなくなってしまうんじゃないかと思ったんです」
「いやいや、農民が土地の権利を守るのは当然のこと。こちらも村の慣例に従うべきだった」
なんかお互いに謝ってばかりで暗い雰囲気なので、ここは多少空気が読めなくてもいいやと思った俺が話の方向を変えた。
「あの森は結局どっちの所有なんです?」
伯爵は軽いため息をついて、
「あれはだな……もう何年も前に王宮と
なるほどね、埋まっていたはずのものを俺たちがわざわざ掘り返しちまったってわけか。
メニューがだいたい
「コイズミ殿は執事職にしては身軽そうにお見受けするのだが、なにか武芸のたしなみがおありなのではないかな」
「武芸というほどではございませんが、護身術程度なら訓練を受けております」
「ほう、護身術というと?」
「ええっと、」と古泉は口ごもる。機関で訓練を受けているのだとすれば、柔道とか空手のたぐいだろう。
「僕のつたない理解では説明するのが難しいのですが、相手の力の方向をいなして投げる技、と申しますか」
古泉は右の手で左の手の甲をペンと叩いて返すしぐさをしてみせた。
「それはおもしろいな。コイズミ殿の
「ええ。おそらく固有の武術だと思います」
「興味がある。ちょっと見せてもらえないだろうか」
「いえ、とてもお見せするほどのものでは……」
古泉は頭を
「古泉、
「え……そうですか、では」
古泉は俺の手首をむんずと掴み、部屋の真ん中に引っ張りだし、
「ちょっと僕に襲いかかってみてください」
「いいのか?」
「本気でお願いします」
俺も一応修道院で多少の
俺は柔道のように両腕を構え、古泉の
気が付くと朝比奈さんの顔が目の前にあった。
「キョンくん、大丈夫?」
「あ……、大丈夫です。なにが起こったんです?」
「修道士殿、
伯爵が笑いながら拍手をしている。古泉が俺の顔を覗き込み、申し訳なさそうに
「すいません、受け身をするように言うのを忘れていました」
イテテ、お前ぜったいわざとだろ。その満面スマイルはいつか俺を投げてやろうと思っていたことがかなった達成感だろ。ズキズキする後頭部のあたりを長門がなでてくれて少し痛みが
「コイズミ殿、ほとんど相手に触れずに倒せるとは実に面白い武術だな」
「故郷ではアイキドーと呼ばれています」
合気道だったのかよ! そりゃー
「どうだろう、コイズミ殿」伯爵はワインのおかわりを勧め、「私のためにその腕を貸してもらえないだろうか」
「マイロード、それはつまり、あなたにお仕えしろとおっしゃるのですか?」
「うちには騎士が足りない。貴殿のような部下が欲しいと思っていたところなのだ」
おいおい伯爵からのスカウトだぞ、農家の執事から一気にナイトにプロモートだぞ。
「しかし、僕には戦線の経験がありません」
「いやいや、戦場で戦うだけが騎士ではない。村と領主の間に入って治めるのも騎士の仕事だ」
古泉は少し考え、それからいつもの作り笑顔をして、
「お誘いありがとうございます。恐れながらマイロード、僕の主人はミス・スズミヤですから、たぶん二人の主人に仕えるのは難しいかと存じます」
伯爵はちょっと首を
「それについては前から不思議に思っていたのだが、ミス・スズミヤと皆様はどういうご関係でいらっしゃるのか。コイズミ殿は彼女の騎士なのか?」
「いえ、
あーあやだねぇ、ここで副団長の階級をひけらかすかね。どうせ俺はヒラの団員だよ。
「なるほどな。金で雇われたと言われるなら、
「ありがとうございます。僕は彼女の古くからの友人でもありますから……残念ながらそばを離れることはできないでしょう」
離れたくても離れられない、まあ腐れ
伯爵は、まあ今すぐというわけでもないから考えてみてくれ、と古泉のスカウトを
執事がワインとチーズを載せたトレイを持ってきて、そのとき伯爵になにかを耳打ちした。伯爵は椅子から立ち上がり、
「皆様、しばしの間、席を外すことをお許し願いたい。部下たちが戻ってきたようだ」
ドアの前で深々と頭を下げて出て行った。そういえば窓の外からカチャカチャと金属の
「何の音かしら?」
椅子から立ち上がった朝比奈さんが窓を開け、俺たちが階下を覗き込んでみると大勢の兵隊が集まっている。なんだなんだ、クーデターか。よく見ると兵隊はどれも傷だらけで、割れた盾を背負っているやつや
「いったいなにがあったんだ」
「忘れていましたが、この時代はずっと戦争をしていたのでしたね」
「戦争って、今のイングランド王ってもともとはフランス人だろ」
「ええ。万世一系の
「身内でやってる戦争か。そりゃ領民はいい迷惑だな」
「領民は地元の領主を
ドアが開いて伯爵が戻ってきた。
「戻りました。
「マイロード、兵隊さんたちは大丈夫なのですか」朝比奈さんが尋ねた。
「ミス・アサヒナ、ご心配ありがとう。負傷している者もいるが何度も戦場を経験しているので大丈夫だ」
「あの、看護が必要ならわたしもお手伝いしたいと思います」
「いえいえ、客人に血の匂いがするような仕事をお願いするわけには。今のところ看護も足りていると思う」
「そうですか……」
それでも朝比奈さんはまだ心配そうに窓の下を見ていた。俺は
「もしかして俺がこないだ見たのは
「こないだというのが二週間ほど前のことなら、おそらくそうだと思う」
あらまー、なんという誤解だ。
「ええと、マイロード、実に申し上げにくいんですが、俺たちとんでもない誤解をしていたようで。特にハルヒが」
「というと?」
「あのとき見た兵隊は俺たちを襲うために集めたんじゃないかと思って、
俺が頭を下げると伯爵はあはははと乾いた笑い声を上げ、
「そういうことか。いやはや。この兵どもは四十日ずつ交代で国王にお貸ししている中隊でな、今回は大陸に派兵していた」
なーるほど。そういうことか。
「それを知らずにハルヒをそそのかしたのは俺なわけでして、申し訳ありませんでした」
「いやいや、謝ることはない。戦争がすぐそこに迫っていることは、領民にはなるべく知られんほうがいい。無用な心配をさせたくないのだ」
領民というのは日々の飯以外のことは頭にないからな。領地の外から軍隊に攻撃され、領地の中からは領民に突き上げられ、この領主様は気の休まる暇もあるまい。
「マイロード、あなたもご
「ときどきは参る。様子を見に行かないとうちの兵も士気が
故郷に帰ってきてみれば
「わたしたちの知らないところでご心労を重ねておいでなのですね」
「まあ、領土を守るというのは……そういうことだ……」
伯爵が誰に言うともなくうつむいてボソリと
夕方六時の鐘が鳴り、俺たちは
「修道士殿、これをお返ししたい」
「はい?」
伯爵の手には折りたたまれた修道服があった。丁寧に洗濯してくれたらしく、受け取るとなんだかいい匂いがした。
「今度来るときはぜひミス・スズミヤも一緒に」
「え、ええ。まあハルヒの熱が冷めたらですね。色んな意味で。マイロード」
城壁を出ると、
「あの、僕は考えたんですが」
「なんだ」
「
「
古泉は話を聞いてなかったのかよという顔で、
「
「って本気で貴族になるつもりか」
いえ、騎士は貴族ではありません、と真顔で説明した。ナイトはいわば優秀な兵士に与えられる称号で、日本に例えると親方様に土地と名前をもらった武将みたいなものだ、ということらしい。本当の殿様である貴族は、代々続いている王様の親類で、公爵や伯爵くらいしかいない。その下位の男爵という爵位も、もともとは王様に直接お仕えする家来に土地と名前が与えられた称号にすぎない、らしい。
それはいいんだが。
「お前ハルヒの部下だから受けられないって言ってたじゃないか」
「ええ。でもよく考えてみれば僕たち全員にとってそれはメリットになるのではと」
「お前が採用されるのは別にかまわんが、俺たちに何のメリットがある」
「この中世の世界ではコネクションで事が動いていきます。人と人とをつないでいるのは金や
「
そこで古泉はニヒルな笑いを浮かべて俺に問いかける。
「僕がそれにチャレンジしてみる価値があるとは思われませんか」
古泉よ、お前も変わったな。自分がなにを言っているのか分かっているのだとすればだ、なるべく長いものに巻かれようとする古泉が、自分から
ハルヒになるべく
その古泉がだ。今なんと言った。ハルヒと常識世界との間を取り持つことがチャレンジだと? フン、やってみるがいいさ、できるものならばな。肩の荷が少しでも楽になる俺としちゃあ願ったりかなったりだ。だいたい良かれと思って動いてみればなにかしらのトラブルに巻き込まれるというのがハルヒ
「あの、わたしは応援しますよ。古泉くんが騎士になるなんて、とても似合ってるし、かっこいいと思うの」
朝比奈さん、あなたは、あなたは少し論点がちがう気がします。
「……騎士の職務は営業職に準じるものがある。古泉一樹には適している」
長門ぉ長門おぉぉ、超理性的なお前までがなにをいうとるんだ、という顔をすると、長門は俺の耳元でボソリと一言だけつぶやく。
「……涼宮ハルヒの、白馬の騎士」
「よし古泉、やってみろ」
「こいずみ! ごいずびぃぃとうとう裏切ったのね! あたしのシモベえぇぇ!」
鼻水を垂らしながら泣き叫ぶハルヒの開口一句である。ネクタイがないので締め上げようがないが、器用にも
「おち……落ち着いて話を……涼宮さぁんぁん、」
「あにを聞けっていうのよ、グシッ」
古泉のシャツで鼻をチンとかんでから、やおらエールをぐいとあおりコップをテーブルにドンと置いた。
「僕は
「クッションなんていらないわよ。あいつの寝床に針のむしろでも敷いてやりたいところよ」
「もう同じ訴状内容で裁判はできませんから、次に争うことになったら投獄されます」
「だったら
「無茶言わないでください……」
あー、西洋史を忘れたやつのために言っとくが、バスチーユ
ハルヒは腕組みをして、
「あたしの部下でいるのが嫌なんだったらそう言いなさい。今すぐ取締役解任してあげるから。それからどこへなりと、あんたの
「嫌ということではないのです。むしろ涼宮さんを思えばこそ、」
「あたしは一言も頼んでいない。それのどこがあたしのためなの」
「いえ、僕も反対されてまで騎士になりたいわけではありませんが……」
珍しく古泉が追いつめられてるな。
「涼宮さん、わたしは身内からお
朝比奈さんがとりなそうとしているが、要は古泉を通して権力が手に入るわよ、どうかしらフフッ、と言っているのである。ところがハルヒは権力など眼中にはないらしく、
「みくるちゃん、あんた忘れたの? グランパはあいつのせいで死んだのよ」
「涼宮さん……それは言いすぎだと思うの」
朝比奈さんは困った子ねえ、な感じにハルヒを見つめた。
俺は当時ハルヒのそばにはおらず伝え聞いただけなのでよくは知らんのだが、気になったので長門に耳打ちした。
「実際のところどうだったんだ? じいさんが死んだ原因はスマイト伯爵のせいか」
「……彼は実年齢で八十歳を超えていた。死因はもともと
「なるほどな……。この時代の平均寿命を考えると
長門はうなずいた。納得しないだろうからハルヒには黙っといたが。
しょうがない、俺がフォローしてやるか。泥船でも助け舟だ。
「おいハルヒ、俺だって今はキリストさんにお仕えしてる身分だ。お前が二股は許さんというのなら今すぐ取締役を降りるぞ。修道会に破門されたら生きていけん」
「それは……困る」
「だったら二足のわらじくらい認めてやればいいじゃないか」
「むぅ……」
キョンのくせになんという
「しょうがないわね。好きなようにしなさい古泉くん、ただし、」
「ただし何ですか?」
「キョン、あんたの頭を刈らせなさいいぃ」
「ハルお前カミソリ危ないうわなにするやめふじこぉぉ!!」
「キョンのくせにあたしに意見しようなんて百年早いのよ、神罰よ神罰!」
ハルヒに命令するという超気分のいい展開になったなどと思ったら、せっかく生えそろった俺の髪の毛がまたフランシスコザビエル級になるという罰を食らい、それでまた皆から頭を
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます