十四章

 ハルヒが法廷から出るともう映画俳優並みのセレブ扱いで、それというのも農民に課せられる税金と賦役ふえきがきつくて、領地は違ってもほとんどが領主にうらみを持っているためらしい。というか為政者いせいしゃうらまれるのはいつの世も同じである。


 森に帰ってくる際に二人の騎士が護衛でついてきた。長官が決闘までうちの客室に泊まっていけと言ってくれたのだが、ハルヒはいろいろ準備もあるから森の住まいに帰ると言って聞かなかった。

 馬に乗ってついてきた護衛の騎士は森の中に恐る恐る入り込み、木々の間を飛び交う鳥やリスやムササビなんかにビクビクしていた。明るい開けた場所に出て山賊団の集落があるのを見ると少しホッとしたようだった。住民は捕まえに来たのかと警戒し、あんまり歓迎ムードではなかった。騎士たちも山賊の噂を聞いていたらしく、住民とはあんまりお近づきになりたくない感じで遠巻きにして槍の柄を握ってじっと立っている。

 子供が近づいてワインかなにかの入った素焼きのコップを差し出すと顔を見合わせ、ありがとうを言って飲み干した。とたんにバッタリ転んで眠ってしまった。長門グッジョブ。まあ聞かれたくない話もあったんでな。


「なあ、考えなおしたほうがいいんじゃないか」

「なにをよ」

「いくら棒でしばきあうとはいえ、痛いと思うぞ。怪我けがするかもしれんぞ」

「じゃああんたが土地と財産を取り戻してくれるっての?」

「い、いやそれは無理だが。ここでお前が領主を叩きのめして歴史が変わっちまうとか、あるいはお前の身になにかあって未来に帰れなくなるとかだな、そういうのを心配してるわけよ俺は」

「アレの横暴を許せるのあんたは。殿様だかなんだか知らないけどねぇ、庶民から財産を奪っといてタダで済むと思ってんの? 無理が通れば道理が引っ込むってのを、伯爵だかハクション大魔王だかに教えてやるわよ、歴史が証明するとおりにね!」

「それはいいんだがなぁ」

俺には悪い予感がしてならなかったのだ。ハルヒにはなにかうらみめいたものがあって、たぶんじいさんの死因が、直接的にではないにしろ村から追い出されたことにあるわけで、それから子供たちのことになるともうハルヒは理性すら失ってる感じもあるし。

 古泉が目だけで、お願いですからそのへんでやめといてください、と言っている。言われんでも分かっとるわい。俺が反対するとまた神人が暴れだすとか言うんだろ。人間同士で決闘するのと神人が暴れるのとどっちが無害だ。


 嵐の前なのかそれともすでに終わった祭りの後なのか、静かなる土曜日の朝がやってきた。曇っているが風はない。居眠りをしていた護衛二人はすっくと立ち上がり、闘士殿、お時間です、とハルヒを呼びに来た。うむ、くるしうない、とは俺の返答だ。

 山賊団はいつものように声援とともにハルヒを送り出したかったようだが、小屋から出てきたハルヒの表情を見てシンと静かになった。ピリピリと高電圧がかかった空気が漂い、半径一メートルがイオン化し無闇に近寄ると感電しそうである。ハルヒは黙ったまま、俺たちから話しかけられてもひと言も発せず馬に乗った。


 決闘の会場はウエストミンスター宮殿から北東のテムズ川沿いにある。ここが会場になっている理由は刑務所が近いかららしい。今回のような民事訴訟以外に刑事事件の決闘も多いと聞く。

 建物はなく、だだっ広い敷地には真新しい砂利と砂が敷き詰められ踏み固められていた。王様の縦長い旗が会場を取り巻くように立てられており、これが公式に認められた戦いだということを改めて思い知らされた。

 真ん中にボクシングのリングみたいな囲いがある。聞いたところ、長さは一辺が十八メートルの正方形で、まわりを二重の柵で囲ったものということだ。リングの東側には、まわりを布でおおった屋根付きのステージが設けてあり、判事や長官、法律関係の大臣、王様の使いなどの来賓らいひんがそこで立ち会うことになっている。まだ誰も来ていないようだ。

 立会席の後ろには闘士控え用のテントが二つ張られている。南側のテントに人影が見えるが、たぶんあれが被告の控室ひかえしつなのだろう。俺たちはその北側のテントに、ハルヒが先に入り、介添人かいぞえにんとして俺たち四人が入り、後に続いていた護衛二人がテントの前で陣取った。


 ハルヒは木のベンチに座り、ナイフでざっくりと髪を切り落としはじめた。

「涼宮さん……あの、わたしが」

朝比奈さんがハルヒの手からナイフを受け取り、ささやかな断髪式の手伝いをした。決闘に出る前には髪を切り落とすしきたりがあるらしい。戦国時代に戦場でマゲを解くあれみたいなもんかもな。その様子がまるでみそぎをしているようで、確かにこれから神聖なる戦いに出るわけだが、ハルヒの長い髪なんてめったに拝めるもんじゃないし、古泉は実にもったいないとなげいていた。

「あんたたち、一房ずつあげるわ」

ハルヒが髪のいちばん長いところを束ねて朝比奈さんに渡した。

「なににすんだそんなもん。カツラでも作れってのか」

このシチュエーションは前にもあったような気がしなくもないが。

「遺髪よ遺髪。あたしがここで果てたらあんたたちだけで未来に帰りなさい」

なにをぶっそうなことを言っとる。お前がいないSOS団なんて……静かでよさそうだな。俺の心を読んだのかハルヒがペシッと頭をはたいた。


 ハルヒが着替えるというので俺たちは追い出され、朝比奈さんの呼ぶ声でまた中に戻った。半袖のシャツに革のチュニック、腰から太ももにかけて皮のよろい、長いブーツである。たくましくなった筋肉質のハルヒの腕が見える。頭と手と首の部分にはなにもなく、無論カチューシャも禁止である。武器は古泉が言っていたバトンのみで、上から三十センチくらいのところに羊の角が取り付けてある、一・五メートルくらいの木の棒である。盾は腕に取り付けられる長方形の木製の板だ。

「ほんとに木の棒だよな」

ブンブンと振ってみたが思いのほか軽い。角が当たると痛そうだが。

「角の部分が鉄で出来ているものがウォーハンマーです。鉄のウォーハンマーは鎖帷子くさりかたびらでもメタルのよろいでも貫通するほどの威力いりょくがありますが、これなら木刀よりも安全ですね」

これで怪我けがをするなら相当運動神経が鈍いか、消耗戦でお互いに体力が尽きたときくらいかだろう。

「消耗戦といえば、試合はいつまで続けるんだ? 死ぬまでやりゃせんだろ」

「だいたい六時か七時頃でしょうか」

「六時って、朝十時からやったとしてもタイトルマッチが二十ラウンドやれるぞオイ」

「法律では夕方の一番星が出るまでになっていますね。この場合は原告側に立証責任があるので、もし被告が最後まで防衛できた場合はこちらの負けになります」

「こっちから喧嘩けんかを売って体力で証明すると言ったわけだから、当然そうだよな」

「ええ。原告にもリスクはあります」

ハルヒがドンドンと足を踏み鳴らした。ふり返ると、皿のような目が黙れと言っている。いつもなら、あんたたち口数が多いわよとか、うるさいなどとののしられるのだが、黙っていられるとかえって怖い。

 ハルヒはどこで入手したのか赤い腕章をシャツの袖に縫い付けていた。大文字で FORTISSIMUS と刺繍ししゅうしてある。ありゃなんだと古泉に指差してみると、ラテン語の闘士ですと答えた。あの腕章はまあ、ハルヒがここぞというときいつも身につけていた縁起担えんぎかつぎみたいなもんだな。


 待てど暮らせど誰も来ないので護衛に聞いたところ、自分たちは決闘に立ち会ったことがないのでよく知らんのだが、だいたい昼くらいからじゃなかろうかなどと呑気のんきなことを言っている。

 九時の鐘が鳴り、朝飯を食わずに出てきた俺たちはもう空腹の限界に達しそうだったので、馬でひとっ走り市場いちばまで行ってパンにベーコンを挟んだものと薄いエールを五人分買ってきた。ハルヒは黙ったまま、そんな下賤げせんなもの食えぬわと手の甲で払った。

「おいハルヒ、長丁場ながちょうばになるかもしれんのに途中でスタミナ切れてしまうぞ」

「涼宮さん、せめて水分は取ったほうが……」

なにも聞かない、なにも言わない。口を利かないとか願掛けでもしてるのかこいつは。ハルヒが食わないので半分に切って護衛に渡し差し入れた。もうすぐ交代要員が来るらしい。公務員並みにご苦労だなまったく。


 俺と古泉はテントを出たり入ったりして、立会席のメンバーがいつ来るかと待ち構えていたのだが、近所の大聖堂で昼の鐘が鳴る頃にようやく観客らしき人の群れがぞろぞろと入ってきた。隣の被告側のテントからもイライラが伝わってくる。これがイギリス時間か。護衛の二人は、んじゃーあっしらこれで帰りますんでと妙に親しげに挨拶あいさつをして帰っていった。新しく来た二人はバッキンガム衛兵みたいな難しい顔をしてじっと気をつけをしている。朝比奈さんが今日はよろしくおねがいしますね、と、スカートの端をチマっとにぎって会釈えしゃくをすると、マイレディこちらこそお仕えできて光栄です、などと鼻の下を伸ばしている。やれやれ、分かりやすい騎士道だ。


 そろそろ出揃でそろってきた感がある観客席の前で、エールや食べ物を売っている行商がいる。こないだの裁判にいたブックメーカーも来ていた。聞いてみると八対二で伯爵が優勢だそうだ。俺も今回は持ってくるのを忘れなかったリュートを鳴らし、ひさびさに歌ってみたりして小銭を稼いだ。歌って踊れる修道士で有名になってた俺が、実はハルヒの部下だったというのが噂になっているようである。


 立会席に長官が到着した。疑われるのでさすがにテントに顔出しはしないか。そろそろ始まるらしい雰囲気を感じたので俺は流しをやめてテントに戻った。見ればハルヒはベンチの上でぐーすかと眠っている。こいつがかもし出す今にも切れそうな緊張感に息が詰まりそうになってテントを出たのに、いったい何なのだこいつは。

 外でぷっぷくぷーとラッパが鳴り響き、ハルヒがガバと飛び起きた。ベトナム戦争に行っていた父親が尻の中に腕時計を隠していた事実をたった今知らされたような顔をして飛び上がり、全身が汗びっしょりである。朝比奈さんが布で汗をぬぐったが、顔の汚れが取れた部分に地肌が見えてまだら模様になった。

 ハルヒはわけの分からない唸り声を上げて飛び出していきテントのロープに引っかかって転んだ。土に顔の形を深々と刻んでから起き上がると、今思い出したらしいバトンと盾をひっつかみ、またもや雄叫びを上げて走っていった。古泉が慌てて後を追い、残る三人もやれやれという感じで後を追った。


 立会席には判事、長官、たぶん法律関係の大臣、王様の代理、その後ろには来賓らいひんの貴族たちが座っていた。どうやら王様は戦争が忙しくて欠席らしい。

「これより、オホン、これより、ハルヒ・オブ・スズミヤ、対、グロースター伯爵の決闘裁判をり行う。両者、決闘場へ」

ここではじめてリングの中に入ることが許されるのだが、ハルヒはまるで盛った闘牛みたいにフガフガと荒い息をしながら古泉に手綱たづなを引かれていた。古泉が手綱たづなを放すと、リングの南東にある柱を背にして立った。ボクサーでもないのに盛んにジャブをくり出してみせている。一方、北西の柱の前に立った伯爵はというと、値段も品質も格段に違うらしい紋章入りのよろい、これまたクルーカット並みに短くした髪で凛々りりしい顔立ちになっている。観客席にいるご婦人方のキャーキャー叫ぶ声の原因はこれらしい。そういえば伯爵ってまだ独身だとか聞いた。

「伯爵って意外と小柄なんだな」

「ええ、僕ももっとごつい体格の人かと思っていました。こうやって見ると身長は僕たちとあまり変わりませんね」

裁判所で見たときは底上げブーツをいて分厚い肩パッドが入っていたにちがいない。


「被告から宣誓を述べなさい」

伯爵は一歩前に出てハルヒの腕章をまじまじと眺め、ローマ字のつづりを読んでプッと笑った。ハルヒのムカついた顔に向かって、どうだすごいだろうという感じに胸の紋章を指でなぞってみせた。子供の喧嘩けんかかよ。

 伯爵が観客席に向かってバトンと盾を大きくかかげてみせると観客が歓声を上げた。この人はエンターテインメントというものを知っているようだ。

「国王陛下、裁判長閣下、また立会いの諸侯しょこう閣下、そしてお集まりの皆さん。お聞きください。私は神の正義をおとしめる食べもの、また飲み物、魔力を高めるようないかなる食べ物、飲み物を食べておらず、また飲んでもいない。ゆえに神と聖遺物せいいぶつよ、私に正義を与えたまえ」

そこでバトンをブンと振ってはるか地平の彼方にまで届きそうな遠吠とおぼえをした。するとまた観客席がいた。

「次に原告、宣誓を」

ハルヒはチアリーダーのバトンのように回してみせ、天高く放り投げ、くるりと回って落ちてきたところをタイミングよくキャッチしてみせた。客は大道芸かなにかだと思ったのか盛んに拍手をしている。そういう試合じゃないのだが。

「って王様来てないじゃん! 裁判長、それから偉そうにしてる来賓らいひんの貴族たち、観客席のみんな! あたしの言うことを聞きなさい。あたしは……朝から何も食べてないわ」

ハルヒの腹がぐうぅと鳴り、笑いが起こった。神聖なる決闘なのにここでウケ狙わなくても。

「ゆえに神様、あたしを勝たせてご飯食べさせなさい!」

「たしかになにも召し上がってないご様子で」

裁判長が突っ込むとまた笑いが起こった。あんたも神聖なる決闘を笑いのネタにしないでください。


 それから裁判長は突然キリキリとした顔になり巻物を広げた。

「では、国王罰令ばつれいを宣言する。国王陛下と裁判所の名において、この宣言の後、何人なんぴとも、たとえなにが起こっても、なにを見たとしても、軽率に動いたり言葉を発したりしてはならない。これに反する行為をした者は何人なんぴとたりとも、即刻退場、逮捕抑留よくりゅうされる。国王陛下の裁定があるまで一年と一日の間そこに拘留こうりゅうされるであろう」

観客席も立会席もシンと静まり返った。ここでひと言でも喋ったら逮捕だぞ、禁固一年だぞと宣言されたのである。

「次に、ルールを説明する。許されている武器はバトンのみである。防具は木の盾、革のよろい、革のすね当て、ブーツである。呪文や護符のたぐいは一切禁止である。もし闘士の一方が、隠した武器や許されないものを持ち込んだことが判明し、敵方が反則を申し立てた場合、闘士は直ちに引き離され判決が下される」

一瞬だけざわっとなったが判事がにらむととたんに静かになった。

「長門、そういうわけだから魔法はお預けでな」俺は長門に耳打ちした。

「……分かった」

長門にしてみれば物理法則に縛られた人間同士のバトルなんて素人素足もいいところだろうけど、わりと真剣な表情でうなずいた。


「もし闘士の一方が、待った、もしくは参ったと叫んだ場合、あるいは自ら左足のブーツを脱いだ場合、闘士は直ちに引き離され判決が下される。さらに開始後に決闘を中止できるのは、介添人かいぞえにんによる降伏、和解の申し立てのみである」

闘士二人がゴクリとツバを飲み込む音が聞こえた。俺たち介添人かいぞえにんは裁判長の席の下に集められ、それから護衛していた四人の騎士がそれぞれリングのコーナーの外側に立った。セコンドもドクターも、そしてレフリーもいない。


「では、神の正義のもとに、」

決闘、はじめ ──、言うが早いかハルヒがラッシュをかけた。

「テイヤーッ!!」お得意の先手必勝か。高々たかだかとジャンプしたハルヒは大きく腕を伸ばし、自分の身長くらいはあるバトンを大きくふりかぶった。

「甘い!」

伯爵の言うとおり、確かに甘かった。どんなバトル漫画でも空中では不利だと言われているのを知らないのか。盾を構える伯爵と眼と眼が合った。予想通り伯爵のバトンで払い除けられ、ハルヒは空振りしたまま地面を転がっていった。盾が腕から外れ、柵まで転がっていって止まり、脇腹をおさえて立ち上がったが、ゼイゼイと荒い息をしている。あちゃー、今のでヒットポイント五パーセントくらい減ったぞ。

「敵方の動きにまったく無駄が無いですね」

軟弱なんじゃく世襲せしゅう貴族かと思ったがそうでもないな」

「この領主様はなんちゃってエリートではないようです。十四歳から武術をたしなみ騎士見習いからはじめた叩き上げだそうで」

息も乱れてないし汗もかいてない。部活に仮入部しただけのやつとは年季が違うのだよ、年季が。


 伯爵自身もどうやらハルヒが素人だと分かったらしく、構えた盾の上から目だけを出して自分からは攻めてこない。たしかに、この試合は敵を疲れさせればそれでいいのだ。

「攻める気もなさそうだぞ」

「ここでいきなり叩きのめしたりすると観客からブーイングが出るからでしょう」

「ハルヒみたいな素人が相手と来た日にゃ、簡単にもてあそばれそうだな」

「騎士道というのは、たとえ非道なる相手でもフェアプレイで、かつ華麗かれいに勝たなくてはなりませんからね」


 ハルヒは盾を拾い上げ前に進んだ。バトンの長さまで間合いを詰めている。右に左に動く伯爵に合わせて軸足を動かしている。伯爵は一歩も引いていない。突然ハルヒが盾を投げ、バトンで地面をいて下手したてからふり上げた。伯爵は飛んでくる盾をってけたが、バトンの角を腕に引っ掛けられてよろめいた。なるほど、角は棒に対して直角に取り付けてある。ステッキの手元のようにカギ状になっているのである。

 よろけたところをハルヒは右からブンとふり回して脇腹を狙い撃ちしたが、かすりもしなかった。剣術をやっていればこれくらいはけられそうだ。

「さあさあ、どうしたのよ、かかってきなさいよ」

攻撃は最大の防御とでも考えたのか、盾を捨てて左手が空いたハルヒはバトンを脇に挟んでクイクイと手招きする。だが伯爵はあおりには乗ってこない。この戦いは消耗したほうが負けるのだからな。

 次の瞬間ハルヒがダッシュした。と思ったらバトンを地面に突いて自分は回転ジャンプ、棒高跳びのようにジャンプした。修道士が棒術でやっているのを見たことがある。ジャンプしたところを上から打ち下ろした。伯爵はハルヒの足の蹴りに気を取られてけられない。バッコン! 見事に肩に当たった。しかしこの程度のスピードではたいしたダメージは与えられなかった。伯爵は一瞬顔をしかめたが、バトンでハルヒの腹を突き柵に向けて投げ飛ばした。

 柵は頑丈がんじょうに出来ているらしく簡単には壊れない。ハルヒは横木と横木の間に頭を突っ込んでウンウン唸っている。伯爵が歩いていってハルヒの尻をバトンでペンと叩くと笑いが起こった。おい笑い声を立てちゃいかん、って裁判長あんたが笑っててどうするんですか。

 伯爵はハルヒの背中を引っ張って柵から引き抜いてやると、

「そろそろ降参したらどうだ」

「なわけ、ないで、しょ!」

フェイクだった。柵を支えにして、かかとで胸を蹴りつけ伯爵は後ろにすっ飛ばされて転んだ。近寄ってくるのを待っていたらしい。どうも伯爵は見た目より体重が軽いらしいな。

 ハルヒは転んだ伯爵の上から打ち下ろし、伯爵は盾を持ち上げて受け止め、左足でハルヒの向こうずねを蹴った。うーん、弁慶べんけいにクリティカルヒットか。これは痛い。革のブーツをいているとはいえこれは痛い。左足のダメージはいかほどか、果たしてリカバリできるのか、ぐぬぬと唸り声を上げ足を引きずって後ずさるハルヒである。


 伯爵は起き上がってバトンをふりブンブンと空を切った。まったく息の乱れも見せていない。ハルヒはバトンの握り方を変えた。両手で刀のように握っている。握ったまま体の後ろに構えた。あれ、あいつ剣道とかやってたっけ。相手に間合いを測らせないために竹刀を後ろに回す、どこで知ったんだそんな技。

 伯爵はハルヒのバトンの届く範囲が分からないようで、どうもハルヒの後ろが気になるらしくチラチラと見ている。奇策のように見えるが、ハルヒのこの構え方だと真っ向から面を食らいやすく、相手が振るより先に動かなければならない。ハルヒは腰を落とし、じりじりと半歩ずつ近づいた。

 刹那せつな、伯爵のバトンが動いた。一瞬だけ盾が開く。ハルヒはバトンがふり下ろされる一歩手前で脇に入り込む。ハルヒのバトンが伯爵のバトンをなぎ払い、見事に小手を取った。

 伯爵はバトンを取り落とした。打たれた腕がしびれているらしく数歩下がって盾でかばっている。

「拾いなさいよ」

そうそう。そういうセリフは場が盛り上がる。ところが伯爵は目の前にあるバトンを拾わない。拾っているところを狙い撃ちされるのを警戒しているようだ。

「拾いなさいよ! 不意打ちはしないわよ」

「なるほど、シーボレーの心得はあるのか」と言いながらバトンを拾った。

シーボレーってなんだ車か、と古泉に耳打ちすると、騎士道のことですと言った。なるほどね。まあ、俺ら武士道の国ですから。


 バトンを拾い上げると伯爵の目の色が変わった。最初からずっと、この小娘がという余裕を見せていたのがなんだか急に殺気立っている。バトンについた土をイライラとふり払った。それを見てハルヒは唇の端を曲げてニヤリと笑う。

 伯爵が突進した。盾ごと体当たりでもかまそうというのか。ハルヒがふり回すバトンの威力いりょくなど大したことはない。スピードならたぶん伯爵のほうが上だろう。伯爵はバトンを真っ直ぐに突いてきた。ハルヒは下がるふりをしてコーナーの柱に足をかけ、くるりと後転ジャンプし伯爵の真上を飛び、背中に着地した。着地したところに伯爵が足払いをかける。ハルヒはバトンを地面に挿して体を浮かせ、かわした。足払いに腰を深く落とした伯爵に対し、ハルヒは至近距離からバトンを繰り出しのどを突いた。いや、突いてみせたがのどには触れなかった。寸止めである。

「あいつ、なんで寸止めなんかやってんだ?」

「……」

古泉は黙ったまま何も言わなかった。


 ハルヒは右手でバトンの真ん中を持ち、左手で手前の端を握った。バトンの全長を使って大きく振っていたのをやめたようだ。伯爵の打ち込みを払い、突きを払い、力任せの打ちに対しては距離をとってけた。その間に自分からの攻撃は短い突きのみを繰り返し、胸や喉元のどもとなどを、それほどダメージはないにしても何発も打っている。一発だけ喉仏のどぼとけに突きが入ったときには伯爵は慌てて離れ、強烈な吐き気を催したようだった。あれは男子の弱点のひとつでもあるな。

「たぶん涼宮さんは相手を怒らせたかったのではないでしょうか」

黙ったまま試合を観察していた古泉がつぶやいた。突くべき隙をえて突かなかったハルヒに対し、伯爵はなにをやっているんだという表情をしていた。たぶん寸止めという習慣がないのだろう。そのときから動きが揺らぎ、ムダが出てきたのは伯爵のほうだった。敵に余裕を見せられると心が乱れるものらしい。


 そこからは突いたり叩いたり、けたり離れたりが続きポイント的にはハルヒのほうが優勢だった。だがスタミナとヒットポイントから言えば、表情には見せなくともハルヒのほうが不利なのは明らかだ。


なんじ太刀筋たちすじ、見切ったりぃ!」

などと叫んでいるわりには、よけきれず直撃を受けているハルヒである。上からふり下ろされるバトンを紙一重でかわしてみせようとして顔面にまともに食らっている。あたしは顔が盾なのよ! とでも負け惜しみを言いたげで、赤く腫れ上がった顔が歌舞伎の隈取くまどりみたいになっちまっていた。

 その何発かが続いた、とある瞬間にハルヒはバトンで敵の打ち込みを受け止めた。バトンを握っている右手でそのまま敵のバトンをつかんだ。握ったまま後ろに引き敵の体勢をくずし、伯爵は前のめりに倒れかかった。ハルヒは下から敵の首と右肩の間にバトンを差し込み、クイと持ち上げて体をひっくり返した。あれはテコの原理か。

まとい落としからの差し込みですね。肩口かたぐちは意外と弱いんです」

古泉は自分の右の頸動脈けいどうみゃくのあたりを示した。たしかに、今のはたいした力もかけずに仰向あおむけにひっくり返したように見えたな。

 仰向あおむけに倒れた伯爵の真上から、ひたいを角で押さえつけ両腕をブーツで踏んだ。動けない。もがいているがまったく動けない。押さえられた腕に握っているバトンでバタバタとハルヒの足を狙うが、この体勢ではほとんどダメージがない。


「裁判長、一旦休憩を申し立てます」

なんだ古泉、今いいところだぞ。

「被告側、休憩するかね」

裁判長が被告の介添人かいぞえにんに問いかけると二度返事で了承した。コーナーにいた騎士四人が即座に柵を乗り越えて二人を引き離し外に引っ張りだした。

「な、なんでいきなりめるのよ!」

ハルヒは両腕を掴まれてテントまで連れてこられた。俺は滅多めったなことではハルヒの味方をすることはないのだが、

「そうだぞ古泉。いい流れだったじゃん」

「いいえ、このタイミングでなければ被告側は休憩を認めなかったでしょう」

見るとベンチに座り込んだハルヒはハァハァと肩を落として息を継いでいる。さすがにスタミナ切れか。

「お腹すいた! あたしのサンドイッチは?」

お前さっきいらねえつってたじゃん。これを見越していたのかどうか、朝比奈さんが包んだ布から丸いパンのかたまりを取り出した。

「涼宮さん、これ、取っておきましたよ」

「ありがとみくるちゃん! あんたにはSOS団食料隊長の称号を進呈するわ! はぐはぐ」

今ならどんな称号でも大安売りなハルヒは胸をドンドンと叩き始め、血が足りねえみたいなしぐさをした。俺は慌てて観客席にいるエール売りのところまで走った。ちゃんと噛んで食え。っていうか試合中にエールとか飲んでいいのか?

 観客席も立会席もこれまでの試合内容についてあれやこれやと歓談している。国王罰令ばつれいは一旦解除らしい。ブックメーカーの比率は六対四まで下がっていた。俺もいちおう買っとこう。えーと、馬連うまれんの伯爵-ハルヒ、五ペンスで。

「おいエール買ってきたぞ」

「おう! ありがてえ」

パンだけじゃ足りんだろうと魚の干物を渡したら頭から飲み込み、俺が食おうと思っていたったひよこ豆の袋も奪い取って、大口を開けて放り込みボリボリと食い始めた。

「おいハルヒ、伯爵はまだぜんぜん疲れてなさそうだぞ。ここは持久戦でいけ」

「黙れキョン。素人の指図などいらんわ」

普段から人の言うことは一切聞かない奴が、ただでさえ気が立っている状況で指図するなど俺も愚かだった。

「そうか、そうだよな。まあラストゴングの瞬間まで自分の足で立って、勝ってリングを降りてこい。そのときはみんなで祝福してやる」

「そうよ、それよ!」

口から魚の尾びれをペッと吐き出し、ゲンコツで自分の頭をゴンゴンと殴った。ベアナックルはパンチドランカーになっちまうぞ。

「あんたちょっと、あたしに祝福をしなさい」

「お前んち仏教だろうが」

「郷に入りてはいわしの頭からと言うでしょ。いいから、はやくやんなさい」

「だって俺聖水とか持ってねーし」

ハルヒは俺のえりをひっつかんでグイと寄せ、

「さっさとやれっつてんでしょうが!!」

すいませんキリストさん、正直これ黙りません。聖職を……持て余す。

「じゃあやってやるから、地面にひざを付いて両手を組め」

「あいよ」

あいよって。

 俺は目を閉じたハルヒのひたいの上で小さく十字を切り、


── 天にまします我らが父よ。願わくば聖名みなたっとばれんことを、御国みくにの来たらんことを。ハルヒ・オブ・スズミヤは聖名みなを信ずる者としてここにあり、主よ、彼女は望む、されどさらに安らぎをもて望ましたまへ。主よ、彼女は愛す、されどさらに熱く愛せしたまへ。彼女はそのみなもととして主を拝みたてまつる。願わくば叡智えいちをもって導き、あわれみをもってなぐさめ、全能もて守りたまへ。主の御名みなのもとに戦いし彼女に、主の欲したまう正義により勝利を与えたまへ。


── 父と子と聖霊の聖名みなによりて、アーメン。


「アーメン」

後ろにいた三人も唱和した。

「ぬおっしゃあああ!」

神聖さとは程遠い野蛮な雄叫びを上げてテントから出ていった。お祈りが効いたらしく今度は転ばなかった。


 裁判長の休憩終わりの宣言で第二ラウンドの開始である。気が付かなかったが第一ラウンドでは小一時間が経っていたらしい。

 ハルヒの左腕には前ラウンドの序盤で投げた盾が戻ってきていた。盾の上からバトンを槍のように構え、眼光は鋭く、さっきより血色も良くなっているようだ。整備完了、ハイオク満タンである。

 開始直後から二人とも盾を構え間合いを詰めている。ハルヒがバトンを振ると伯爵は盾で受ける。伯爵が突くとハルヒがいなす。どこから攻めるか、どっちが先に攻めるかを探っているようだ。右に左に回りながら相手の脇を狙おうとしているが、どちらも隙を見せない。


 伯爵が体を横向きにして突進してきた。正面を小さくしようというのだろうか。ハルヒは伯爵の背に回る。伯爵が右に回転し素早く横にバトンを振る。ハルヒが盾で受ける。直後に伯爵の突きが来た。

 ハルヒがクロスカウンターで顔を突こうとした。ところが伯爵はするりとけハルヒのバトンを掴んだ。ニヤリとする伯爵。掴んだバトンを引いてハルヒが前のめりになる。さっきハルヒが使った手だ。焦る表情のハルヒ。ところがハルヒは自分のバトンを放した。同時に、ハルヒの右足が外側から伯爵の右ふくらはぎをとらえた。そのまま伯爵の胸を押して前に出る。伯爵がってバランスをくずす。

綺麗きれい大外刈おおそとがりです」

古泉が軽くため息を漏らした。伯爵が大きく転倒し地面を滑った。大外刈おおそとがりって柔道の技だな。バトンを二本持つとその分動きが鈍くなるわけだ。それに人ってやつは足元にモノが落ちるとそっちに視線が行ってしまう習性があるが、そこに一瞬の隙ができた。


 慌てて起き上がった伯爵が肩で息をしている。今の転び方はかなりこたえたようだ。バトンを拾ったハルヒはじっと構えたまま待っている。伯爵はハルヒが攻めてこないことを見て取ると、バトンを握り直し盾をガンガンと叩いた。盾を構え、その上から槍のようにバトンを突き出し、つまりどちらも最初の状態に戻り、試合はふり出しに戻った。ハルヒがふり上げ、上から狙うと伯爵が下から突こうとする。読めているから盾で止めるし、止められるのが分かっているから渾身こんしんの力は使っていない。

 ハルヒは三歩下がり、背中を曲げてかがんだ姿勢からバトンの根元を持ち、切れたゼンマイがはじけるように立ち上がって体を跳ね伸ばした。

「こ、こうね……このくらいかしら」

ブツブツつぶやいているが、なんだ、今ごろ練習か。最大射程でも測ってんのか。


 ハルヒがふり、伯爵が盾で受け、その隙に突きを入れるコンボが続いた。ハルヒは盾を使っていない。盾のベルトに左腕を通したまま、両手でバトンを握っている。

 見ているとハルヒが妙なバトンの握り方をしていることに気がついた。雑巾の逆絞ぎゃくしぼりというか、手の甲を、ふり下ろす側に、つまり相手に向けている。普通は刀を握るように腕を伸ばし、手の甲は右と左に向いているはずだが、ハルヒの握りは腕をゆるく曲げた薪割まきわりみたいになっちまってるぞ。

「なにやってるんだあいつ」

「あれはつまり……」

古泉は試合を見逃したくなさそうにチラチラとハルヒのほうを伺っている。

「ちょっと、僕の腕を握って自分のほうに引いてみてください」

俺は普通に、竹刀を握るようにして握って引いてみた。神人と戦っている古泉の腕の力は思ったより強くビクともしない。というか超能力使ってんだろお前。古泉は苦笑しつつ、

「使っていません。では手のひらを僕に向けて握ってみてください。引いてください」

引っ張られた肩から古泉が動いた。顔が近い。

「こういうことです」

なにがこういうことなのか、古泉はそれ以上の説明はしてくれなかった。顔が近くなっただけだぞオイ。

「あのー、長門先生? 教えてください」

長門は一応会話を聞いていたらしく、スッと人差し指で、俺の手の甲の中指からひじひじから肩、そして肩甲骨を通って背中の真ん中をなでた。

「……つまり、背筋はいきんの力が加わっている」

えーとだな、手のひら側から腕の内側までの筋肉はそこで止まっているが、手の甲の筋は中指から肩甲骨けんこうこつまでつながり、肩甲骨けんこうこつから先は僧帽筋そうぼうきんやら大円筋だいえんきんがつながっている、ということですか。あの握り方は背中の筋肉で打ち出してるからなのか。あの切れたゼンマイはそういうことなのか。

 苦笑している古泉の解説が正しかったらしく会心のハルヒの声が響いた。

「もらった!」

伯爵が一瞬早く頭をかばって盾を被ったところにハルヒの渾身こんしんの一撃が当たった。ところがバトンの角が盾を貫通してしまい破片が飛び散った。引っ張ったが角が抜けない。渾身こんしんを込めて引いたが、込めすぎた。伯爵はその一瞬を逃さない。するどい突きがハルヒの顔を直撃した。


 ひたいを突かれた勢いでバトンが抜け、ハルヒは後ろにゴロンと転がって起き上がった。眉間が切れて血が出てるぞ。七転び八起きというか、七転八倒というか、どうやら俺のお祈りが切れてきたようでよく転ぶようになった。


 ハルヒが上を見上げた。俺達も見上げた。気が付くと小雨が降ってきている。冷たい風に厚い雲が流れて動いている。大降りになる前に片を付けたいところだが。後ろにいる裁判長に雨が降ってきたけどどうすんの、と身振りしてみせたのだが顔を横に振るだけだった。問答無用で続行らしい。


 手から盾がぶら下がっている。腕に固定していた革のベルトが今の後転で切れたらしい。ハルヒはこんなもん邪魔だわとつぶやいて盾を投げ捨てた。

「転ばぬ神にたたりなし!」

ハルヒが微妙に入り混じった意味不明なことわざを叫んでいる。

「そういうことですか」

今の雄叫びの何を理解したんだお前。

「なにが分かったんだ」

「涼宮さんと伯爵のファイティングスタイルの違いです」

「ほう。お教え願おうじゃないか」

「伯爵は戦場に慣れた人、いわば実戦から来た戦いなので基本が転ばないようにしています。転んだら死を意味しますからね。涼宮さんは転んでも素早くリカバリできる、むしろ転んだ直後の動作を前提にした戦い方をしています」

「受け身のことだな」

「そのとおりです。どのように打たれるかは自分には決められませんが、どう転ぶかは自分で決められる。そしてそれは敵には予測できない」

「なるほどね」

果たしてそれが勝利をもたらすのかといえば、古泉にも分からないようだったが。

「ひとつだけ分かることと言えば……ここは戦場ではない、ということでしょうか」

なんとなくだが、言ってる意味が分かった。ミリタリーゲームなんかでリアル戦場のセオリーをほざくやつがいるが、実際はゲームはゲーム世界の理論でルールが作られている。キャラがすり抜けたりするし、当たるはずのない弾が当たったりもする。今、試合では試合の、この十八×十八メートルの世界のルールに従って進行している。ここでは現実の戦場の常識は通用しない、ということである。ただしハルヒのプレイスタイルが通常よりも体力を消耗させるのは確かだが。


 伯爵は突然、バトンを地面に刺して立てた。分厚い雨雲を背景にしてなにかの魔除けのようにそこに立っている。胸の前に盾だけを構え腰を落としてにじり寄った。盾の内側に両手を隠している。なんだありゃ、武器はもはやいらないってことなのか。

 ハルヒが右下から突きを繰り出した。伯爵が盾で受け止める。左から打ち込む、また受け止める。上から打ち下ろす、と見せて、右に一歩進み胸を突く。伯爵はまた受け止めた。受け止めからの、ハルヒの射程内に入り込み、盾からこぶしが突き出た。ハルヒの顔に腕が届いた。鼻にカウンターが入った。勢いハルヒは後ろに飛ばされ転がった。素早く立ち上がるとバトンを握り直す。

「射程を捨ててスピードを取ったか」

「自分が打たれるリスクが高いですが、バトンの打撃力が低いことを考えると当然の作戦かもしれません」

伯爵は今のカウンターは手応えがあった、という顔をしていた。ハルヒがにらみ返している。にらみ返す顔に赤い筋が垂れてきた。手の甲で顔をこすると鼻から血が流れている。今の一撃をまともに食らったらしい。

 たしかにバトンを振るには握り直したり、ひじを引いたり、腕を反らしたりの前動作まえどうさが入る。突く動作ではそれほどでもないが、振ると敵にあらかじめ動きを読まれてしまう。しかしこぶしの場合は、とくに盾に隠れている場合はなんの情報をも与えずに撃てる。たぶんコンマ五秒以下で敵にこぶしを繰り出せるだろう。気づいた瞬間にはもう当たっている。

 ハルヒはドロドロと両方の鼻の穴から赤い滝を垂らしていた。顔をしかめて何度もぎゅっと目をつむりゴシゴシと目をこすっているが、なんだあいつ泣いてるのか。濡れた髪から垂れた雨水が、泥と血で汚れた顔に透明な筋を作っている。

 伯爵は我が意を得たりという感じの満足した表情だ。自分のバトンを地面から引き抜き、正面で構え直した。そしてまた試合はふり出しに戻った。


 よほど頭に来たのかハルヒはヤケクソにバトンをふり回した。右から頭を狙い、伯爵が姿勢を下げる。ハルヒは左足をすくおうと内股を狙う。ジャンプしてけた伯爵はバトンを伸ばして顔に突きを入れる。ける間もなく右にふり向いたハルヒのほほをかすめた。ハルヒが敵のバトンを握る。が、読まれていたのか引っ張れない。

 伯爵がバトンを引き一歩下がったところにハルヒはスライディング正座で滑り込んだ。なんだ!? ハルヒは自分のバトンを足の下に敷いている。ほらほら打ってきなさいよ、と俺には見えた。反射的に動いたのか誘いに乗ったのか、伯爵がバックスイングからハルヒの頭に打ち下ろす。ハルヒの体の切れたゼンマイが弾け正座からのすくい上げでバトンを払った。

 大きく砕ける音がした。伯爵のバトンが高く宙を跳び、二人が目で追う。伯爵がバトンを追うのとハルヒのブーツが背中に蹴りを入れるのが同時だった。

 伯爵が前のめりに突っ伏した。向き直って慌てて立ち上がろうとする伯爵の左腕をブーツで踏みつける。落ちてきたバトンは三歩先の砂の上で垂直に突き刺さった。伯爵の右手が、届かない。唯一の武器をなくしてしまった伯爵はまわりを見回した。盾は、盾はコーナーの外に落ちている。お手上げだった。起き上がろうと地面についた左手に角を引っ掛けられ、また転んだ。起き上がるすべもなく、防ぐすべもなく、仰向あおむけに転んだまま地面を蹴って後ずさる。ハルヒがそれを追う。ハルヒが容赦なく打ち下ろしたバトンが右の側頭部に当たる。耳から血が流れるのも構わず後ずさっている。

 地面に刺さっていた伯爵のバトンが倒れた。


 ハルヒはバトンを振って風切り音を立て、うつむいたままなにごとかをつぶやいていた。

「……さえ、あんたさえいなきゃ……あんたさえいなきゃねえ!……この十年……どれだけ……」

凍りついたような形相ぎょうそうでギッと目を見開いたハルヒの顔が伯爵に向いた。目が完全にっている。

「おい古泉、やばくないか」

「……」

古泉はハルヒを凝視ぎょうしした。なにかが取りいたのか、うらみと憎悪でまわりが見えなくなっているのか、そのとき俺の脳裏を走ったのは、ハルヒは伯爵を殺したいんじゃないだろうかという戦慄せんりつだった。

 柵を背に追い詰められた伯爵は右手を上げた。

「ま、待て。降参だ」

「今さら遅い!」

ハルヒがバトンをふり上げると伯爵が左のブーツに手をやった。次の瞬間キラリと光るものが空を切りハルヒは飛び退いた。俺は凝視ぎょうしした。伯爵の左手に握られているのは短剣だった。

「おい古泉、隠し武器だぞ!」

「裁判長!」

裁判長が椅子から立ち上がった。立会席の全員が立ち上がった。観客が息を呑んだ。俺たちは柵を掴んだ。

「血迷ったわね……いいこと教えてあげるわ。あたしはこの決闘の結末を知ってんのよ……。十二世紀の終わり、イングランドのとある地方で決闘試合が行われた。武器を失って負けそうになったほうがブーツに隠していたナイフを取り出し、相手を刺し殺そうとした。ところが彼は突き刺され、深手ふかでが心臓に達し彼の邪悪な魂を駆逐くちくした。彼は騎士道を冒涜ぼうとくし宣誓を破ったからである……。それがあんたよ」

「何の話をしてるんだお前は」

「ここであんたを殺しても罪にならないってことよ!!」

ハルヒは自分のバトンの角を叩き割り、バトンの端を握ってスラリと引き抜いた。そこに現れたのは……見まごうこともない冷たく輝くはがねの、

「おい、ありゃ俺の仕込杖しこみづえだぞ、真剣のマサムネだぞ!!」

座頭一ざとういちですかあなたは!」

古泉、そのツッコミはすでに俺がやった。などと突っ込んでいる場合ではない。あの刀はつるぎをも打ち砕いてしまう代物しろものだ。ハルヒは抜身ぬきみの刀を逆手に構え、大きく腕をふり上げて叫んだ。

「Hasta la vista!!」

古泉が中止を叫ぶのと、裁判長が取り押さえろと叫ぶのと、雷鳴のとどろきと、そして、朝比奈さんの絶叫が同時だった。

「涼宮さんやめて! その人はジョンスミスなのよ!!」


 すべての雨粒が空中に静止した。轟音ごうおんとともに地面がれた。世界が浮かび上がる。白くくっきりと、そして明確に。

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