十一章

 一週間後に出廷せよと命令はされたもののいったい何時からはじまるのか、建物の風格だけは立派な領主裁判所には召使くらいしかおらず、肝心の判事も告訴人も来ていなかった。古泉と朝比奈さんはじっと門の前で待ち、ハルヒはブーツの底がすり減るほど地面を踏み鳴らしている。聞くところによれば開廷はだいたい午後一くらいで、それがイギリス時間らしい。

 心配する村人は、なるべく領主様を怒らせないでくれと異口同音いくどうおんに言った。村人に言わせると、とくに長老たちは、ここの伯爵様はそれほど悪い施政者いせいしゃではないとのことだ。税金と賦役ふえきがきついのは確かだが、それはどの領主でも同じことで、伯爵は子供や老人などに対してはまめに面倒を見ていると言っている。ハルヒにすれば、そんなものはアメとムチの政策と言うのよ! 生ぬるい! 断固戦うわ! 鼻息も荒く叫んでいる。こいつは権力と名の付くものを見ると肩を怒らせて楯突くのがかっこいいと思っている節があるからな。


「静粛に。それでは領主対ハルヒ・オブ・スズミヤの裁判をり行う」

裁判ホールは薄暗く、昼間でもロウソクが灯されていた。外側は石造りだが、法廷の各部屋の仕切りは板張り、ひとつの部屋の面積は学校の教室くらいの大きさである。真ん中に判事席、両側に原告と被告が立ったまま並んでいて、机も椅子もない。判事席は壁を背にして一段高いところにあり、白いカツラを被った裁判長が皆を見下ろしている。判事席を祭壇に見立てれば、造りは修道院の聖堂にそっくりだ。

 朝比奈さんがまわりを見回して、

「古泉くん、陪審員ばいしんいんとかいないのかしら」

「ええ。今回は陪審制ばいしんせいはありません」

「後ろのほうにあるのは傍聴席ぼうちょうせき?」

「そのはずなんですが、誰もいないようですね」

「これでは密室裁判だわ……」

朝比奈さんは不安げな顔でボソリとつぶやいた。


 今まで優雅に飯を食ってましたという感じの判事が仰々ぎょうぎょうしく巻物を開き、

「告訴人、告訴内容を述べよ」

「裁判長異議あり!!」

しょっぱなからハルヒの怒鳴り声が響いた。古泉は抗弁の内容に集中していてブツブツとメモを取っていたのだが突然心臓を射抜かれたかのようにビクリとした。

「被告人、まだなにもはじまっておらんよ」渋面じゅうめんの裁判長である。

「いいえ裁判長、原告は領主ではありません。そこにいる告訴人は土地を没収しに来た兵士本人で、領主の名をかたっている疑いがあります。あたしが訴えられているのは領主その人であり、本人の出廷でなければ認めません」

やれやれ、日本の武道で先手必勝、切っ先を制するとは言うが、こうも最初から全力を出していてはスタミナが切れて足元すくわれるぞ。

「しかし、領主様は今ご不在らしいのでな。今回はこの騎士殿が代理ということに……」

この裁判長ちらちらと告訴人の表情を伺っていて歯切れが悪い。あきらかに原告と個人的な知り合いだな。古泉もやむなく口を出した。

「裁判長、告訴人は没収された土地の持ち主と歴史的に敵対関係のある人間です。領主様の公正なご判断を要求します」

「ならば……そちらの、領主様の執事殿ならよろしいかな」

「執事ねぇ……」

ハルヒは原告の列に並んでいるご老体を上から下まで眺めた。これならくみしやすいと思ったのか、

「いいわ。認めます」

「では告訴人代理は城の執事殿にお願いする。続けて」

ここで執事対執事の争いになったわけだ。騎士様は自らで追求をできないのが悔しそうだったが、原告の執事は予期せず大役を任されオホンオホンとなんども咳払いをしてから告訴状を読み始めた。


── 判事様、並びにお集まりの皆様。領主様を代表するこの執事めは、そこにおりますハルヒ・オブ・スズミヤを訴えます。スズミヤは我らが領主様の土地である森に無断で踏み入り、斧やノコギリを用いて勝手に伐採ばっさいし切り開いたのであります。しかもスズミヤは自分一人に罪が着せられるのを恐れたため、村人を扇動せんどうし不法な森林伐採ばっさいに加担させたのであります。土地を分け与えるという密約のもと、村の農奴のうどのほとんどがこれに賛同し、木を切り刻み土を掘り返し、木材として売りさばくなどを行い、領主様の所有権を侵害いたしました。その土地は畑として不法に利用され小麦が植えられております。またスズミヤをはじめとした村人は領主様の森に生きる鹿やイノシシを狩り、丸焼きにして食べました。


── ハルヒ・オブ・スズミヤの行為は違法であり、理性に反した行為で、国の平和を守り維持する領主様と判事様の平穏を乱したつぐないとして、土地の没収、五ポンドの損害金と五ポンドの罰則金を求めるものです。


十ポンドは二百シリング、二千四百ペンスである。一ペニーを三千円とすると、なんと七百二十万円である。まあ土地を強奪したわけだから相当なもんか。

「さいばんちょ! 異議あムググ、ぷはっ、丸焼きになんてしてムググ!」

突っ込みどころそこかよ。

「涼宮さん、ここは僕に任せてください」

「どうしてよ、ところどころに冤罪えんざいがあるじゃない」

「いいえ、全部が冤罪えんざいです。罪状をひとつでも認めると有罪になるんです」

「そうなの?」

「この頃の裁判は完全潔白か完全有罪かを決めるものなんです」

「それこそ異議ありだわ」

「あと、陳述ちんじゅつで異議を唱える習慣はありません」

「え、だってさっき告訴人交代を認めさせたじゃない」

「あれは領主様が出廷されていないための特別措置です。こちらには延期を申し立てる権利がありました」

「異議ありを叫べない裁判なんて……ただの茶番じゃないの」

ハルヒはイライラとこめかみを押さえ、いいわ、あんたがやんなさいという感じに判事席を指差した。


「被告人、今の訴えを認めるかね、抗弁するかね」

「被告は抗弁いたします」

「では答弁をはじめなさい」


── 不法と平和を乱す行為から臣民を守っておられる領主様、ならびに裁判長閣下の平穏を乱したとされる件について、また要求されている土地の没収、五ポンドの損害金と五ポンドの罰則金、そのすべてについて、ここにおりますハルヒ・オブ・スズミヤは抗弁いたします。

 彼女は領主様の土地に不法に入り込んだことはありません。斧やノコギリを使って不法に樹木を伐採ばっさいをしたことはなく、村人を扇動せんどうしたこともありません。告訴人が述べるような、木を切り刻み土を掘り返し、木材を売りさばいた事実は一切ありません。森にいる鹿や猪などの動物を捕まえたり、また食べたりはしていません。小麦が植えられている畑はもともと土地保有農のものであり、訴えられるようなことはなにひとつしておりません。


── ハルヒ・オブ・スズミヤという人物は、この法廷が、神の前に善行を行う正しい人間である、と認定するにふさわしい人格の持ち主であります。被告は雪冤せつえんを持って無実を証明する準備があります。


 嘘もここまで念入りになると段々と本当かもしれない、あれはすべて夢だったのではないかと思われてくるのだが、古泉の抗弁はに入り細を穿うがち、閻魔様えんまさまも舌を巻くほどの陳述ちんじゅつであった。実はこれは決められた抗弁用の文言もんごんであり、いちいち告訴内容を繰り返していたのは一つずつ否定しなければならないという決まりがあるからだ。

「被告は雪冤せつえんを申し出た。当裁判所はこれを受け入れることにする。では手袋を」

古泉がポケットから皮の手袋を取り出し、じってから廷吏ていりに渡すと、廷吏ていりが判事に手渡した。

「なんなのあの手袋?」

「しきたりの一つらしいです。被告が出廷を保証するものを、とりあえず手に持っているもので担保たんぽする、という意味です。手袋は財産なんです」

「なるほどぅ」

なるほどぅ、じゃないよほんとに分かってんのか。えーとやっぱり本皮じゃないとだめなんですかね。


「では判決を言い渡す」

「エエェもうなの? まだ証人の尋問もしてないのにちょっと早すぎムググ」

「涼宮さん落ち着いてください。これが手順なんです」

古泉がハルヒの耳元でささやいた。

「手順って、これじゃ生徒会の、じゃなくて裁判長の一存じゃないの!」

「いえ、これで終わるわけではありません。これから無実の証明に入るんですよ」


「あー静粛に、よろしいかな。被告の否認により以下を決定する。被告はこの場で保証人を二名立てること。次の開廷に六つの手を携えて宣誓すること。宣誓が成功すれば被告の勝訴となり無事解放され元通りになる。失敗すれば訴状の通り損害金と罰金を支払うこと。損害金の保証として裁判が決するまで土地の差し押さえを認める。なにか質問は?」

「裁判長」

「イケメン執事殿」

「これでは被告が一方的に訴えられているだけです。原告側にも信憑性しんぴょうせいの証明を求めます」

「却下する。領主様のこれまでの行政が証明である」

「ぐぬぬ……」

裁判によっては原告側にも証人が必要になることもあるらしいのだが、今回は原告の社会的地位が高いので、それだけ信用度も高い。残念ながらそれが被告にとって最初から不利になっている。

 とはいってもまあ、これですべてが決まったわけじゃない。一応この開廷では、かなり無理があるにしても古泉なりに対等な立場に持っていくよう主張をしたわけだし。


「被告、出廷保証人の用意はあるかな」

「用意できております裁判長、今しばらくお待ちいただけますか。手順を説明しておきたいので」

「よかろう。なるべく早めにな」

被告側はここで円陣を組んだ。

「出廷保証人ってなにかしら?」朝比奈さんが尋ねた。

「簡単にいえば、涼宮さんがトンズラしたときに代わりに罰金を払う人です」

「あたしはトンズラなんかしないわよ」

ハルヒが口をとがらせている。いっそ逃げ出してくれたほうがこれ以上悪化せずに済むんじゃないだろうか。

「では僕と朝比奈さんで保証人になりましょう」

「いいのかしら、わたしは身元を保証するものはなにもないけど」

「よろしいかと。あなたのその美貌びぼうとちょっとしたウインクさえあれば」

神聖なる司法の場でなにを口走っとるんだ古泉。

「裁判長、被告側の出廷保証人はミス・ミクル・オブ・アサヒナ、およびイツキ・オブ・コイズミの両名です」

「よろしい。原告はこの二人を認めるかね?」

「裁判長、この保証人には支払い能力が、」

そこですかさず朝比奈さんが人差し指を口に当て、聖母マリア様とギリシャ神話のアテネ様、それからケルト神話のアリアンロッド女神にゲルマン神話のヴァルキリー様、さらにバビロニアのイシュタル様、ええい大和はイザナミノミコトまでもが勢揃せいぞろいで乗り移ったかのような極上スマイルで、右目をパチリと閉じてみせた。まるで……まるで見るものすべてを有罪にしてしまいそうな笑顔だった。

「どうするかね原告?」

「な、なんでもありません。認めます」

いやはや、いつの時代にあっても色気は偉大だ。朝比奈さんの唇の両端が一瞬だけ四十五度くらい上を向いたのはたぶん、フッこの原告とやら見た目は偉そうだけどたいしたことないわチョロいぜ、みたいな感じでした、と古泉はそのときの率直な感想を言っている。(言ってません言ってません)

「ではミス・アサヒナ。ホーリーバイブルに手を置いて、次の質問に答えるように」

「はい」

廷吏ていりが黒くて分厚い本を持ってきて朝比奈さんの前にささげ持った。

「ミス・アサヒナ、あなたは天に誓い、また聖なる書物に誓って本件の被告、ハルヒ・オブ・スズミヤが判決を受けるまで出廷させることを保証するか」

「は、はい」

「ミス・アサヒナ、あなたはハルヒ・オブ・スズミヤが有罪となった場合、本人が損害金と罰金を払えなかった場合に支払いを保証するか」

「はい」

「よろしい。これからもたいへんだと思うが、がんばるのだよ」

「ありがとうございます、判事様」

お前はなにをはげましてるんだ裁判長。

 古泉の出廷保証の宣誓も同じ内容だったので省略。……もういいだろ一度聞けば。

「保証が行われたので先ほどの手袋は被告に返却する。はい、受け取って。それでは双方とも二週間後に出廷するように。本日はこれにて閉廷」

ダンッ。


「六つの手ってなんのこと? 千手観音せんじゅかんのんでも連れて来いってのかしら」

「いえ……」

六つの手というのは被告本人の無実を証明してくれる仲間を五人連れて来いという意味だ、と古泉は苦笑しつつ答えた。次の法廷ではまずハルヒが罪状を否定し、次に五人が、ハルヒの言ってることは正しいと神にかけて宣誓する。これを雪冤せつえん宣誓というのだが、神聖なる言葉で行わなければならず、途中で言葉を間違えたり、一人でも宣誓を辞退したりすると無罪の証明に失敗したと見なされ、問答無用で有罪になる。

「なにそれ、たった五人が異口同音いくどうおんに無罪を主張すればいいわけ?」

「平たく言えばそうです」

「なんでまた。簡単に偽証ぎしょうできるじゃないの」

「この時代はキリスト教の信仰が良心を支配していまして、嘘をつけば神罰が下り不幸に見舞われるか、または地獄にちると考えられているのです。つまり裁判は神様が介入してるはずなので、嘘ついて平気で生きていられるはずがないという恐怖がこの裁判の形を作っています。今回は五人ですが、重大犯罪になると十一人、殺人になると三十六人を要求され難易度が高められています」

「まあそれだけの人数を集めるだけでも大変だわね。じゃあ金をやって偽証ぎしょうしてもらえばいいんじゃないの」

「ええ、金で証人を雇うのは禁じられていましたが、事実上は権力者や有力者が罪をまぬがれることになりますよね。そのせいもあって後年では陪審制ばいしんせいになりました」

「自分が有罪になるかもしれないのに神もへったくれもないわよ。昔の人はいいこと言ったわ、地獄の沙汰さたも金次第よ」

バチ当たりなことわざを平気でのたまうハルヒであるが、二十一世紀の原告と弁護側が論戦をするのは、人が人をいかにして裁くかという問題を、長い歴史を経てようやく辿たどり着いた妥当な解決策なのである。分かったかハルヒ。


「ところで、雪冤証人せつえんしょうにんは出廷保証人と兼任できるのかしら」

朝比奈さんが聞いた。

「いえ、僕と朝比奈さんは被告と主従関係にあると見られているので、残念ながら除外されますね。雪冤証人せつえんしょうにんにはいろいろ制限があって、農奴のうどはだめで、被告の子供、外国人、前科者などもだめです。資格があるかどうか原告側にチェックされます」

「それは面倒ね」

「なので最初から多めに連れて行ったほうが安全ですね」

ハルヒは腕組みをして、

「困ったわねえ。知り合いはほとんど農奴のうどだし、マナーハウスの面々は領主に逆らいたくない腰砕こしくだけだし」

「旦那様の知り合いに僕達の活動に興味を抱いているお金持ちの方がいらっしゃるのですが」

「じゃあソレでいいわ」

グランパの知り合いでしかも金持ちをソレ呼ばわりかよ。

「涼宮さん、わたしのファン……興味があるという男性がいて、地主の息子さんなんだけど、もしかしたらお願いできるかも」

なぬ、それは聞きてならんです。誰ですか俺を差し置いてそんな度胸のある野郎はイテテ長門尻つねるなって。

「じゃあソレで」

まあソレはソレ呼ばわりでいい。


 村へ戻ると、古泉は雪冤証人せつえんしょうにんになってくれないかとほうぼうを尋ねて回った。証人として選ばれるのはある程度社会的信用のある人物に依頼するのが慣わしらしい。信用のある人が被告の信用を保証するのがこの裁判のミソであり、共同雪冤証人きょうどうせつえんしょうにんとか雪冤補助者せつえんほじょしゃとか呼ばれることもある。

 マナーハウスの付き合いで裕福ゆうふくな地主が引き受けてくれることもあり、また朝比奈さんにホの字の野郎が恩を売りたくて引き受けたりもしてくれたようだ。ところが、最初は十人くらい確保できていた候補者が一人減り二人減りといなくなってしまった。子供の具合が、とか、ばあさんの持病がとか、しゃくがどうとかで断られる始末なのだが、どうもよくよく聞いてみると先だっての騎士のオッサンが裁判の件で村の有力者の家々を訪ね歩いているらしいのである。誰が雪冤証人せつえんしょうにんになるか調べてまわっているとのことだ。

「結局ギリギリ五人しか集まりませんでした。それでもいつ撤回されるか分からないので何度も説得に行っています。当日まで目が離せません」

「やり口がきったないわよ! 権力を乱用しての圧力ね」

「まあ予想はしていましたが、なんせ森林伐採ばっさい嫌疑けんぎをふりかざされるとどうしても手を引かざるを得ないでしょう」

「判決を力でじ曲げようだなんて、裁判で正義を問う意味が分かってないんじゃないの。あたしが神なら問答無用で死刑にしてやるわ」

正義はどこに行ったんだよオイ。


 判事様から二週間後にまた来いと言われていちおう味方についてくれる証人はそろったのだが、世界を大いに盛り上げるジプシー団のほうはというと、家を追われた農民がまだまだ増えてきて合流するようになった。問題は裁判の決着がつくまでどうやって生き延びるか、である。仕事を失っただけならまだしも住む家を失い、別の地主に雇ってもらうこともできない。ではそれまで雇われていた土地の持ち主はどうしているかというと、突然働き手がいなくなってこれまた困っているらしく、マナーハウスの幹事が、この度の出来事にはお見舞い申し上げる、ついては収穫だけでも手を貸してもらえないかと古泉に打診に来た。

「だが断る! 一切の作業を断固としてボイコットするわ」

「しかしですね……僕達が苦労して植えた麦が全部だめになってしまいますが」

「知ったこっちゃないわよ。領主が家来を使って刈り取ればいいのよ。農業もやったことがない兵士にかまが使えるのならね」

ハルヒはケッという感じで、どうも兵隊さんになにかうらみでもあるかのようだ。言っとくがだいたいの兵士は農家の出身だぞ。

「どうしてもというのなら日当一人あたり一シリングよこしなさい。それ未満は認めないわ」

「それは少しふっかけすぎというか……」

「失業保険も年金も健康保険もなしで、この先どうなるか分からないのなら一シリングで当然でしょ」

い、いやまあそうなんだがな。日本の行き届いた福祉行政と比べるのはかなり無理があるというか。

 古泉は痛む胃をおさえながらマナーハウスにそのむねを伝えると、全員に一シリングはどう考えても出せない、そんな現金は手元にないので領主に問い合わせてみるということだった。ちなみに俺がもらっていた日当一ペニーがだいたい三千円とすると、一シリングはその十二倍の三万六千円程度である。


「ミスター・コイズミ」

「はい、旦那様」

「これで皆の食料を買いなさい」

じいさんは装飾品のたぐいがぎっしり詰った袋を古泉に持たせた。中には金貨と銀貨、代々伝わる指輪、宝石のはまったブローチなどが入っている。古泉にはその袋にじいさんの生涯しょうがいすべてが詰まっているような気がしてずっしりと重く感じた。

「ほんとによろしいんですか」

「ああ。皆が食えることが先決じゃからの」

「旦那様の蓄財すべてが入っているようにお見受けしますが」

「いいんじゃよ。墓まで持っていくわけにもいくまい」

じいさんには、このことは誰にも、ハルヒにも言うなと堅く口止めされた。今はハルヒの暴君的リーダーシップに皆まとまってはいるが、腹を空かした集団は何をしでかすか分からない。分裂して別のリーダーが立ったりしたらいよいよ収集がつかなくなる。革命騒ぎが起こる前に、早急に皆が食っていく手段を確保する必要があった。


 古泉は多少は自給できないかと森の奥に畑を作ることを提案した。もともとみんな農家だから、金で買うより土から取れるほうが気持ち的にも安心である。木を切り倒して野菜を作ることにした。それから鹿とイノシシを狩ることも始めた。さすがに馬で追いかける狩りの技術はなかったので、ケモノ道に細い綱を張って罠を仕掛けた。裁判では告訴状に鹿とイノシシを勝手に捕まえて食ったといわれなき罪を着せられたハルヒだったが、訴えられてはじめて罪を犯すなど、どうにも順序が逆な事態である。


 二回目の開廷の前日、古泉は予定している証人の家を一軒ずつまわって、どうか誰かになにか言われても気が変わることがないように、こちらが勝てば旦那様とミス・スズミヤの心からの好意が得られますから、と、お礼をさし上げるというと法に触れるのでそれなりの謝礼を匂わせる程度で約束を取り付けた。一人だけ朝比奈さんとデートしたいというとんでもない取り引きを持ちかけてくる野郎がいたが、まあパブで一度飲む程度ならよろしいのではないでしょうかなどとほのめかしておいた。後が怖そうだ。

 家に帰ると朝比奈さんがドアの前で待っていた。

「おかえりなさい古泉くん」

さっきの会話がもう漏れたのかと一瞬だけギクリとする古泉である。

「どうも朝比奈さん、天気がくずれそうですね」

「ええ。証人の方には会えた?」

「はい、なんとか確約を取り付けました。ええと、事後承諾じごしょうだくでまことに申し訳ないのですが朝比奈さんには、」

「なにかしら?」

「一人だけ朝比奈さんとお酒を飲みたいとおっしゃる御仁ごじんがいまして」

「あら、いいですよ」

「そ、そうですか。それはよかった」

よくないっ。ぜったいよぐないっ。

「それくらいのことならお安いご用よ」

朝比奈さんも少しくらい渋るとかしてくださいよ。笑っている朝比奈さんだったが、笑顔に少しだけ不安の影があることに、そのときの古泉は気が付かなった。


 翌朝ハルヒは鳥のさえずりが聞こえ出す前から起きだしていて、というよりぜんぜん寝てないだろそのギンギンの目ん玉は。

「今日こそ決着を付けてやるわ。待ってなさい悪代官、主も悪よのうどころじゃ済ませないからね」

代官じゃなくてお殿様そのものなのだが。

「古泉くん、みくるちゃん見なかった?」

「いえ、見ていません。一緒に寝てらしたのでは?」

「起きたらもういなかったのよね。トイレかと思ったんだけど戻ってこないし」

古泉が馬を数えてみると一頭いない。それから荷馬車もなくなっている。

「馬車でどこかに出かけられたのかもしれません。昨日証人のことを話していたので会いにゆかれたのでしょうか」

朝比奈さんが馬をあやつれるとは初耳だ。

「まあ出発までには戻ってくるでしょ」


 朝比奈さんは朝飯の時間になっても戻ってこなかった。皆に聞いてまわったのだが誰も見ていないという。

「どこ行っちゃったのかしらね」

「先に行ってましょう。場所は分かっているので向こうで落ち合えるでしょう」

ジプシー全員に盛大なる激励げきれいを受けて一行は法廷に向かった。じいさんと古泉、それからハルヒ、馬車を持っている応援団の行列である。馬は奪い返した軍馬しか残ってないがそれしか足がないので構っていられない。素人には軍馬と農耕馬の違いは分からないし、まあいいだろうとそのまま裁判所のうまやに乗り付けた。

 裁判所には珍しく人が集まっていて、どうやら領地内でハルヒの訴訟が噂になっているらしいのである。領主対領民なんてそうそう拝める裁判ではない。うち以外の近隣の村からも傍聴人がやってきているようだ。建物の前の広場には屋台も出ていた。


「静粛に。それでは領主対ハルヒ・オブ・スズミヤ、二回目の法廷を開きます」

こないだの判事が今回はすこしパリっとしたカツラを被って出てきた。この日のために新調したのか。

「涼宮さん一大事です」

「どうしたの!?」

「証人が一人来ていません」

「もうなんでなの? 電車が止まったのかしら」

寝てないのは分かるが何を口走っとるんだハルヒ。

「村人の話では朝に出発して、とっくに着いているはずだと言うのですが……」

「さてはあいつらの仕業しわざね!」

ハルヒは対面にいる原告団をにらみつけた。オッサン騎士様は素知らぬ顔でスースーとスカスカの口笛を吹いている。

「裁判長! 被告は裁判の延期を申し立てます」

「なぜじゃな、被告はすでに出廷しとるじゃろう」判事は目を丸くして言った。

「証人予定だった村人が非道にも原告側に拉致らちされました。みくるちゃんも拉致らちされたに違いないわ」

「被告、その申し立ては実に重大であるからして、なにか証拠があるのかの」

「このアホ面がなによりの証拠よ!」

ハルヒが指差し、アホ面と呼ばれた騎士の顔色が赤くなった。腰にしたつるぎを抜こうとして仲間の原告が慌てておさえた。

「ミス・スズミヤ、口をつつしみたまえ。法廷で殺傷沙汰さっしょうざたは困るよ。代理の証人を立てられなければ被告の敗訴となるが、それでもよいかの」

ハルヒはぐぬぬと唸り声を上げて傍聴席ぼうちょうせきにいるマナーハウスの管理人の腕を引っ張ってきた。いつぞやの土地強奪未遂事件の被害者、荘園差配人さはいにんベイリフである。

「なな、なんでボクが証人なんかに。ボクは事件のこと何も知らないよ」

「いいのよ何も知らなくても。セリフは廷吏ていりが教えてくれるから」

「そんなぁ、領主様に怒られるよ」

「いいからやんなさい。やんないとあることないこと言いふらすわよ」

完全に脅迫である。

「証人はそろったようじゃな。でははじめるとしようか。あー、静粛に。傍聴席ぼうちょうせき、静かに」

ハルヒと古泉、それから五人の証人が並んで立っている。

「原告、これら五人の雪冤証人せつえんしょうにんに異議はないか」

「えー、」騎士様と執事がジロジロと眺め回し話し合った挙句、「とくに問題ありません」

「よろしい。では最初の雪冤せつえん、被告は一歩前に」

廷吏ていりがまたもや分厚い黒い本を持ってきてハルヒの前にささげ持った。

「ハルヒ・オブ・スズミヤ、廷吏ていりの言うセリフに追従ついしょうしなさい」

「分かったわ」


── わたくし、ハルヒ・オブ・スズミヤは、神の平和、この国を治める王の平和、また領主の平和においてここに誓い、訴えられている罪のすべてを否定する。わたくしは領主の所有する森に立ち入る罪は犯していない。わたくしは領主が所有する森林資源を伐採ばっさいしておらず、それを自分のものとしてはいない。わたくしは領主の森林資源を売却してはいない。わたくしは領主が所有する森の動物を捕獲ほかくしていない。また食していない。


── わたくし、ハルヒ・オブ・スズミヤは、原告から要求されている土地、損害金、罰則金に該当する罪は一切犯していない。神の名にかけてここに誓う。


原告側は当然失敗を望んでいたようにチッという感じでハルヒを見たが、ハルヒのなめめとんのかオッサンという眼力と形相ぎょうそうを見てガクガクとひるみ目をそらした。


「よろしい。では共同雪冤証人きょうどうせつえんしょうにん、一人目、前に出なさい」

地主の息子で朝比奈さんにホの字の野郎が前に出た。キョロキョロと朝比奈さんの姿を追っているようだが。古泉はこっそり耳打ちして、

「朝比奈さんと一緒ではなかったんですか」

「い、いえ、僕には同伴出廷なんていう大それたマネは……」

息子は顔を赤く染めて否定した。案外ウブなのな。それより朝比奈さんが本当に行方不明である。


── わたくし、ジョン・オブ・スミスソンは神の平和、また国王の平和、そして領主の平和においてここに証明する。ミス・スズミヤは、わたくしたち宣誓補助者の知識と信頼を尽くし、確かに正しい宣誓を行った。それゆえに、神と聖遺物せいいぶつが彼女と宣誓補助者に加護をたまわるように。


この息子、なんか知ってる名前にすごくよく似てるんだが親戚かなにかか。

「よろしい。では共同雪冤証人きょうどうせつえんしょうにんの二人目、前に出なさい」


 宣誓中に神罰が下って突然息絶えるようなことはなく、名前だけ差し替えて全員同じセリフを神の名において滔々とうとうと述べ四人目までが無事終了した。天国の神様はきっと留守に違いない。

「では最後の一人、前に出なさい。ホーリーバイブルに手を置きなさい」

五人目の荘園差配人さはいにんが最初のひと言を発しようとすると、原告のオッサンがオホンと咳払いをした。荘園管理人さはいにんがそっちを見るとつるぎさやでカチャカチャと音を発てている。

「裁判長、原告がおどしをかけています! やめさせて!」

「あー、見てなかった。原告、静粛に、物音は控えるように」

原告のオッサンはうなずいて黙ったが、証人をビビらせるには十分だった。

「さ、裁判長、僕は宣誓を辞退します」

傍聴席ぼうちょうせきが騒然となった。これはまさかの逆転裁判、最後の最後になって証人が裏切ることになるとは。安っちい法廷ドラマのていをなしてきたぞ。

「今さらなにいってんのよ! ちゃんと最後までやんなさい」ガクガクと首をめている。

「被告は静粛に、これ、手を離しなさい。証人、ここで辞退すると罰金だがそれでもよろしいかな」

「か、構いません。後で痛い目にうより今お金払ったほうがましです」

原告側の血色が俄然がぜんよくなった。ガッツポーズで、よし、これは勝つる。

「被告、証人がこう申しておるのだが」

「あたしは認めないわ! こらアンタ、吐け! 証言しなさい!」

「被告、あきらめなさい。証人が辞退すれば雪冤せつえんは失敗である。よってこの裁判は被告の敗訴に決、」

裁判長が木槌をふり下ろそうとした瞬間、

「お待ちください!!」

木の扉を蹴破る勢いで入ってきたのは、朝比奈みくる、その人である。

「あなたは確か、ミス……」

「ミクル・オブ・アサヒナ、被告の出廷保証人のひとりです」

「残念ながらミス・アサヒナ、あなたは雪冤宣誓せつえんせんせいはできないのじゃが」

「いえ、証言ではありません判事様。この裁判に関する重要なお知らせがあります。発言してもよろしいでしょうか」

「重要な知らせとはいったい……」

朝比奈さんの後ろから見慣れない紳士が入ってきた。高貴なお方が着るマントを羽織っている。あれは一体誰だ、と原告、被告、それから傍聴席ぼうちょうせきの全員がヒソヒソと尋ねあっている。

「あなたは確か……」

裁判長には見覚えがあるらしく立ち上がって会釈えしゃくをし、

「何事かは分かりませんが、そちらの方に免じて許可しましょう。ミス・アサヒナ、前へ」

「ありがとうございます。判事様、まず一本の短剣をお手にとってご覧ください」

朝比奈さんが細長い木箱を廷吏ていりに渡し、廷吏ていりが裁判長に渡した。あれは確か以前にハルヒが拾得物横領しゅうとくぶつおうりょうしたブツでは。

「ミス・アサヒナ、えらく古びた短剣じゃが、これがなにか」

「その手元の部分に刻まれている紋章は古いプランタジネット家のものです」

「はあ……確かに王家のものじゃな」

裁判長はロウソクの光にすがめて短剣の装飾をあらためた。

「その短剣は森の中でわたしが偶然見つけたものです。それから、こちらにいらっしゃる方は長官の執事様です。彼は長官から判事様宛ての書簡を言付ことづかっています」

「ああ、やはり執事殿で。ではそれを受け取りましょう」

突然前置きもなしに現れた長官の執事殿とやらは、ふところから取り出した手紙を廷吏ていりに渡した。裁判長はロウソクの封を折り広げて読んでいる。いったい何事なのかと皆口々につぶやき憶測が飛び交う。やがて顔を上げて木槌をドンドンと叩いた。

「静粛に願います。長官からの手紙を読み上げます」


── オックスフォードシャー、西部地方長官より、グロースターシャー領主裁判所、裁判長閣下へ。ごあいさつ申し上げる。現在係争中の森林、つまり王直轄領おうちょっかつりょうと伯領の境界線にもなっている森であるが、かの土地はかつて先代王の所有であった不動産である。ドゥームズデイブック並びに王家資産記録の写しを執事に持参させるゆえ、よろしくご査収の上、再考のほど願いたい。


読み終わった裁判長はこれは困ったという感じに唸って頭をおさえた。そして朝比奈さんのするどいひと言が法廷内に響き渡った。

「皆さん、もしミス・スズミヤが有罪になれば、領主様以下、判事様、そしてこの法廷にいる全員が王様の権利を侵害したことになります!」

史上初めて見る朝比奈さんのビシ指である。


 傍聴席ぼうちょうせきは大騒ぎである。原告すらもガクガクと互いの肩を掴みこりゃーえらいこってすぜと揺すぶり合っている。そんな中で一人だけポカンと突っ立ってたハルヒが、

「ねえねえ古泉くん、いったいなにが起こってんの?」

「僕達が伐採ばっさいしていた森は、実は領主様のものではなかったという事実がたった今判明したようです」

古泉は土砂降りの曇天どんてんに突然晴れ間が射したかのように喜々として答えた。

「なん……だと。ということはよ!? これは九回裏くしくも三対〇、二死満塁ツーダンフルベースからの逆転裁判がドンデン返し裁判になるってことよね!」

お前の例えは分かりにくい。

「仕切り直しでゼロに戻る可能性はあります」

「長官って領主裁判に口出しできるほど偉い人なの?」

「立場的には王様の代理権限がありますので、領主と対等に権利主張できます。もともと長官職は王様が金と権力を持った貴族を牽制けんせいするために作った地位だと言われていますから」

「すっごいじゃん、土壇場どたんばで正義の味方がさっそうと現れるとは思ってもみなかったわ! 三段抜きでも大歓迎よ」

「この手紙を取り付けた朝比奈さんの功績も大きいと思いますよ」

「そうよね! この功績によりみくるちゃんにはSOS団顧問弁護士の称号を贈るべきよね」

あんまり嬉しくないと思うぞその称号は。と、その朝比奈さんはというと、ふり上げた腕のビシ指をいつ降ろしていいものかタイミングを迷っているようだった。その表情からは、やっぱり慣れないことはするもんじゃないわ、という迷いが見てとれる。


 裁判長は、判事席の向こうに書記とほかの判事を呼んでなにやらヒソヒソと円陣を組んで協議している。まさに【審議中】である。

「こりゃあ大きなおおごつになっとぅ」

「ほんなごったい。こげんごと長官が横槍ばぁ入れてくるたぁ、ほれ、職権乱用じゃなかね」

「いんやむしろ管轄外の越権行為えっけんこういばい」

「領主様もおらんが、どげんしたらよかね」

「どげもこげも、オレにも分からんっちぇ」

という会話は古泉の勝手な妄想である。(違いますから)


 十五分くらいひたいを寄せあって検討した挙句、ようやく妥協点が見えたようで裁判長が顔を上げこっちを向いた。

「あーオホン、静粛に……静粛に!」

はからずもやっかいな問題が持ち上がったので少しイライラ気味である。木槌でガンガンと殴りつけた。

「本法廷は、訴状内容に若干の問題ありとの判断に至りました。長官殿から寄せられたドゥームズデイブックの写し、それから王家資産記録の写しに書かれている物件と、今回争点となっている森林が一致するか調査の上、追って沙汰さたするものと決定しました」

ハルヒは傍聴席ぼうちょうせきに向かって数種類のガッツポーズをかまし、おっしゃあを何度も叫んだ。そのカズみたいなやつは下品だからやめなさい。

 傍聴していた村人とジプシーの一団は盛んに拍手喝采し指笛を鳴らしている。もう司法機関どころか無法地帯かもしれん。本日はこれにて閉廷、と大声で叫んでいる裁判長の声もむなしく、村人とジプシー団は、ハルヒと朝比奈さんをワショーイ胴上げして裁判所から躍り出た。

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