八章

 古泉がこの世界に落ちてきたとき、ひんやりと湿った空気の上に、広がった布の真ん中の一点が沈み込むように現れた。出現した空間はけっこうな高さだったのだが、体が反射的に受け身を発動し背中から地面をごろりと転がった。機関での訓練の賜物たまものだった。そういう運動神経の持ち主が実にうらやましいね。


 服についた土を払うことも忘れ立ち上がって見回すと、そこは短い草の生い茂る開けた場所だった。空全体がどんよりと暗く小雨がしとしとと降っており、水滴の絨毯じゅうたんが地面をおおっていた。古泉の立っている半径五十メートルくらいの草地の、その周りには木が生い茂っている。林の向こう側が見えないかと見回してみるが隙間なくつるが絡み合って視界に立ちふさがっている。

 かたわらにぽつりと石が立っていた。なんの石だろうか、墓石はかいしか、街道の道標みちしるべみたいなものだろうか。あきらかに誰かがえ置いたのは見て取れるのだが、文字が彫られている様子はない。腕時計を確かめると気温は十五度。湿度は七十パーセント程度。実験の途中で時刻を確かめてから五分ほどしか経っていない。

 林の隙間に誰かが歩いたような小道が見えたのでたどってみることにした。獣道けものみちでないことを祈る。道は森の中をゆるやかに曲がって伸び、古泉の姿に驚いて飛んでいく鳥のさえずりが聞こえる。数分歩いたところで森が切れた。たけの短い草地が広がるゆるやかな丘の上だった。漂い流れていくもやがその向こうの景色をおおって隠すので全体が分からない。


 もやの切れ目に小さな池が見えた。農業用水かもしれない。そっちへ下っていくと最近掘られたらしき穴に出くわした。直径も深さも三十センチくらいだろうか、深くえぐれた地面の底になにか妙に見覚えのある形が刻まれているのに目を奪われた。しばらくそれを眺めていた古泉は、その凹面おうめんがハルヒの顔の形だと思い当たり、すこしばかりほほゆるむのを覚えた。周りを見回してみた。頭から地面に突っ込んだらしいハルヒがその辺にいるはずである。掘り上げられた穴の周りに靴の跡らしきものが散乱しており、根っこごとむしり取られた草が散らばっているところをみると、八つ当たりする相手がいなくて地団駄じだんだを踏んだことが分かる。

 ともあれ、自分がしたうボスがちゃんと生存しているらしい気配に安心した古泉は二人を探すことにした。どうやら今回は僕がメイン脇役の役回りのようですね、などとニヒルに笑っている。

「涼宮さーん、その辺にいますかー」

古泉はその辺り一帯に通る甲高い声で叫んだ。霧雨きりさめのせいで音が霧散むさんしてはいるが、どこからか返事が聞こえてこないかとしばらく耳をそばだてていると、さっき抜けてきた森の方からこっちよーと呼ぶ声が聞こえた。見上げるとゆるやかな坂のカーブの上にぽつりとある大きな岩に立っている。朝比奈さんも側にいて手を振っていた。存外あっさり見つかって古泉はスマイルを造りなおし、小さくため息を漏らした。


 かかとから足をつけてゆっくりと登ってゆくと大きな岩の陰に空洞があいており、ハルヒたちはそこで雨宿りをしているようだった。中に入ると地面が濡れていて、そこに座り込むわけにはいかなかったらしく二人ともヤンキー座りをしていた。

「お二人とも、ご無事でしたか」

「ええ、わたしは大丈夫。涼宮さんが……」頭から埋まっていたと言おうとして、その様子が脳裏にフラッシュバックしたらしくゴホンゴホンと咳払いをしてごまかす朝比奈さんであった。

「まったくもう、いったいここはどこなのかしら」

ハルヒは他人事のように穴の外を眺めた。着ているスーツが泥だらけになってしまい、奮発ふんぱつして買った舶来ブランドが台無しである。袖の金ボタンが取れかかっていたので古泉はポケットから裁縫キットを取り出した。

「用意がいいわね、ありがと」

「たまたまですよ。お怪我けがはありませんか」

「大丈夫よ」

今気づいたのか、乱れた髪から泥を払い落としている。いつものカチューシャはご健在けんざいなようだ。

「ところで、この森と草原という地形は見たような覚えがあるのですが、北海道でしょうか」

「北海道はもっと寒いわよ。三月だし」

「それもそうですね」もし今が三月ならですが、と思ったが口にはしなかった。

きりが深いってことはどこかの盆地じゃないかしらね」

「山らしきものは見えました?」

「うーん、見てないわ」

「気温からしてどこかの高原でしょうね」

「なんでそんなところに飛ばされちゃったのあたしたち」

「今のところ分かりませんが、実験と関係があることは確かだと思います」

「ワームホールに吸い込まれたのかしら」

「その辺はなんとも……長門さんとハカセくんに調査をしていただかないと分かりませんね」

「そうね。とにかく、この雨が上がったら会社に戻るわ」

俺かハカセくんに電話でもかけようとしたのか、ハルヒがポケットからスマホを取り出した。

「圏外ね。通じる?」

「僕のも圏外ですね」

このとき古泉は、すでにGPSの電波が拾えていないことに気がついていた。GPS衛星が存在しない場所、そもそもここは地球なのか。微量の戦慄せんりつが背筋を走りゾクッと体を震わせた。


 腕組みをして考えるハルヒとそれをにこやかに見守る古泉だったが、一方の朝比奈さんはというと右のこめかみを押さえて考えこむ仕草をしていた。

「どうなさいました、朝比奈さん」

「あ、いえ、なんでもないの」

そう言って朝比奈さんは古泉の肩越しに視線を移してみせた。真後ろにハルヒがいるので打ち明けるわけにはいかないようだ。もっとも、いつも相談役をになっている俺がいないので、ここにいる古泉に事情を打ち明けるべきかを迷ってはいるようだったが。


 それからはなにを話すでもなく、ただぼんやりと雨が止むのを待っていた。一時間ほど経ってからハルヒがスクと立ち上がり、

「移動しましょう。こんな携帯の電波も来てないような田舎で待っていてもキリがないわ」

ずっとヤンキー座りを続けて足がしびれていたのか、よろめいて古泉の肩にすがりついた。

「大丈夫ですか。そうですね。せめて標高の低いところに行きましょうか。朝比奈さん、いかがですか」

「ええ、そうしましょう」

事態はもっと深刻なのかもしれない。古泉にはそんな予感があった。それに、朝比奈さんとも情報共有の観点から話し合っておくべき事項がある。

 スマホの電源を切り、なるべく財布が濡れないようにとハンカチで包み、朝比奈さんは長い髪を後ろにまとめてから岩の影から出た。三人は降りしきる雨の中を歩き、道のない丘を下った。


 行けども行けども道のない道で、こう霧が深くては方角すらわからない。何度も森に行き当たり、ときおり雨粒が降ってきてそのカーテンの向こうに森らしき影が見え、けて進んだ。革靴で何度も水たまりに入りこんでしまい、足の裏がふやけているのが分かるくらいにずぶ濡れになった。多少は水を弾くはずのスーツも水を吸ってずっしり重く、大きな雑巾を着ているような感覚だ。朝比奈さんもハルヒも雨に濡れて髪のボリュームがぐっと減り、顔に張り付いたところからしずくが流れていた。

「ところで朝比奈さん」

ハルヒを先に歩かせ、ボソボソと話しかけた。

「はい」

「なにか心配事がおありのようですが、僕でよければ伺いますよ」

「ええっと、あのね、実はTPDDが機能していないの」

「というと、時間移動ができなくなったわけですか」

「ええ。それだけじゃなくて未来とも通話ができなくなっちゃって……」

「TPDDがどういう構造なのかはお尋ねしないことにして、そういう事態になるのは一般的にはどういうときですか?」

機関と未来人組織は普段は情報交換などはしないわけで、これは滅多めったにないチャンスである。古泉はここぞとばかりに質問を展開した。

「禁則事項……ええっと禁則事項、たとえば禁則事項とか、それで禁則事項が禁則事項だったりするの」

「すいません。禁則事項が多くてよく分かりませんでした」

「あら、あららら、ごめんなさい。禁則事項って本人の意志とは関係なく自動的に発動されるものだから」

「いいんです。機関の人間に対しては情報を漏らしてはいけない特別な制限があるのでしょう」

「ごめんね古泉くん。あなたとは面と向かって話す機会はあまりなかったけど。これはわたし個人の好き嫌いじゃないの」

「ええ。ご心配なさらなくとも分かってます。しかし……」

古泉は少し考える風な仕草をして、

「僕が知っていることをお聞かせする分には構わないですよね」

「ええ。うなずくくらいは」

「では。実はスマートフォンのGPSが電波を受信しません」

「そうなの? そういえば腕時計も同期できないみたい」

朝比奈さんは腕時計を確かめ、時刻が修正されないかどうか腕を振ってみている。

「時計が補正されるのは日本の電波が届く範囲だけなので、電波塔が存在しないか、もしくは外国にいるかのどちらかになりますね。今のところは推測ですが、ここは僕達のいた二十一世紀ではないでしょう」

「やっぱりあれかしら。わたしたちの実験の、」

「あれが引き起こしたタイムスリップのたぐいだと思います。ここが過去だとすれば、最初にGPS衛星が打ち上げられた一九七八年より前です。逆に未来だとするなら、人類が飛躍的に発展を遂げてGPS技術が必要なくなったか、あるいは科学そのものが維持できなくなったか、そういう時代ということになりますね」

「未来だったらTPDDが通じるはずなんだけど……」

朝比奈さんは自分のこめかみを指差した。

「未来人の通信方法ってピアツーピアみたいな関係なんですか?」

「ええっとそれって、」

「つまり、個人と個人が中継手段を介さずに直接会話できるんですか?」

「ええそのと禁則事項よ。だからどの禁則事項にいても禁則事項が禁則事項できるんです」

「なる……ほど」

「また禁則事項だった?」

「そうみたいです。ではこうしましょう。今我々は現実から遠く離れた、いわば超現実の中にいるのだと。たとえば六匹のネズミがいたとします。このネズミたちは同じ日に生まれ同じケージで育てられたものの、現状では同じ環境にあるとは言いがたい」

朝比奈さんはぽかんとした顔で、なんだそりゃという表情をした。古泉は得意げに続けて、

「六匹のネズミがそれぞれが小さな箱のなかに閉じ込められています。あるネズミが隣のネズミに呼びかけました。反応できますか?」

「え……」

いったい何の話をしてるんだお前はという感じなのだが、たまたま察しが良かったのかちゃんと空気が読めていたのか朝比奈さんは大きくうなずいて、

「あ、はいはい、ちゃんと反応します」

「じゃあその同じネズミが一番遠くに離れた箱にいるネズミを呼びました。反応しますか?」

「ええ、ちゃんと応答しますね」

「全員を一度に呼ぶと応えますか?」

「それは無理みたい。誰か、お母さんみたいなネズミさんに呼んでもらわないと」

「なるほど」

おいおい古泉、なにげに禁則事項を破らせて会話してるじゃないか。

「二人とも、なにボソボソ内緒話してんの」

ハルヒがニヤニヤ顔でこっちを見ている。

「い、いえ、そろそろお腹すいたなぁと話してたの」

「そ、そうなんです。夕飯のメニューを考えてたんですよ、お母さんのシチューが恋しいなと」

ってネズミ煮て食うんかい!

「なんか今キョンのツッコミが聞こえたけど気のせいよね」

「気のせいです」


 霧雨きりさめだったものが大粒の雨になり、三人はそれをけるために一旦森の中に入ることにした。さすがに長時間水に触れていると体力もそれなりに減る。森にたどり着くまでにはかなりの距離があったが、密集した針葉樹林を見つけ、雨をしのげるほどの木陰に着くとそのまま座り込んでしまった。土は濡れてはいたがぬかるんではいない。

 ハルヒはなにを思い立ったか一人で森の奥へと歩いていき、どこからか木の枝をかき集めてきた。細い枝を太い幹に当て、両手で回して火を起こそうとしている。残念ながら濡れた枝ではとても火は起こせまい。五分ほどグリグリやってあきらめたのか、

「古泉くん、ライターとか持ってない?」

「残念ながら持っていません」

「うーん。やっぱ映画みたいにはいかないもんね」

「あれはCGだという説もありますね」笑いながら、ふと古泉は思い当たり、「僕がやってみましょう」

古泉は濡れた木の枝を高く積み上げた。ふと脇を見ると、ハルヒがどうやって火を起こすのかとじっと凝視ぎょうししている。

「ええっと、」と古泉は困ったような表情を朝比奈さんに向けて、しばらく見つめた。朝比奈さんは、いったいなにを伝えたいのか、営業用機関スマイルでじっと見つめられてポッと顔を赤くした。ハルヒの視線をそらしてくれというアイコンタクトにやっと気がついたらしい朝比奈さんは、

「あ、はいはい。涼宮さんアレアレ! アレって人じゃないかしら!」森の奥のどこかあそこらへんという感じで大げさに指差してみせた。

「えっどこどこ」

朝比奈さんのアレアレ詐欺さぎにハルヒの視線がれた隙に、古泉はたきぎの前で両手を構え小さなファイアボールを起こした。まるで油を注いだかのように杉の葉が一気に燃え上がった。ハルヒがふり向き、

「もう火が付いたの? はっや!」

「僕はもう少したきぎを集めてきますね。木に燃え移らないように見ていてください」

「おっけー。みくるちゃん、さっきの人影ってどっちに向かったの?」

「えーっと、あっちかな、それともこっち、もしかしたら向こうだったかしら」

「まいいわ。き火をしてたら向こうから寄ってくるでしょ」


 古泉はたきぎを抱えて戻ってくると、

「雨をしのげる洞窟でもないかと少し歩いてみましたが、この森はかなり広いですね」

「ねえねえ、なにか食べられそうなもの落ちてなかった?」

ハルヒ、いくら腹が減ったからって拾い食いはいかんぞ。

「キノコくらいなら生えているのを見かけましたが、残念ながら食用キノコは知識がないものですから」

「木の実とかならともかくキノコはヤバいわね」

古泉がY字型の枝を地面に刺して濡れたスーツをかけると、ハルヒも真似をして上着をき火にかざした。三人とも火の当たる側から湯気が立ち上っている。

「涼宮さん、もしかしたらですが、今日はこのまま帰れない可能性も考えておいたほうがよさそうです」

「えっ、なんで?」

「ここがどこなのかまったく分かりませんし、もしかしたら外国なのかもしれません」

「そうよね……あたしもなんだかそんな気がしてたのよね」

ほんとかオイ。

「日も暮れかかってますし、夜になって動くことは返って危険です。最悪野宿することになるかもしれません」

「そうね。まずは食料の確保よね」

お前は食うことだけかい。

「食べるのは我慢できますが飲み水の確保は……朝比奈さんどうなさいました?」

ハルヒと古泉が朝比奈さんを見るとひざの上に腕を組んで顔を伏せている。心なしか震えているようにも見える。

「あ……大丈夫。なんでもないの、ちょっと寒気が」

「みくるちゃん顔が赤いわ、見せて」

「ほんとに大丈夫」

「熱があるわ」

「ずっと雨にあたっていたので風邪をひかれたのでは」

「きっとそうよ。とはいっても風邪薬もないし……」

「大丈夫、体温下がってただけだし。火にあたってたらすぐ治ると思うの」

「うーん……」

ハルヒは三秒だけ腕組みをして考え、

「ちょっと探検してくる。あんたたちはここにいて、すぐ戻るから」

言うが速いか、古泉が止める間もなく来た道を走って下っていった。

「まったく、涼宮さんのバイタリティときたら」

「……」

朝比奈さんは目を細めて無言のまま笑っていた。


 朝比奈さんの具合はよくなく、少し息も荒いようだ。き火にあたっているとはいっても着ているものはズブ濡れのまま、髪も濡れたままだ。古泉は風邪に効果のありそうな薬草や野菜を思い出そうとした。確か生姜しょうがや大根が効いたはずだ。白ネギを使う地方もあった。しかしそれを思い出してもどこでそんな野菜が手に入るのだと打ち消してしまった。自分たちは科学に依存するあまり自力で生き延びるというすべを手放しているのかもしれないと思った。

 朝比奈さんはすでに腰を下ろしておりスカートが泥にまみれていた。古泉は湯気の立っているスーツを朝比奈さんの肩にかけた。まだ濡れてはいたがないよりはマシかもしれない。

「ありがとう古泉くん」

朝比奈さんは小刻みに震えながら言った。


 ハルヒはなかなか戻ってこなかった。日はすでに暮れかかっているが、まさか迷子になったのではあるまいな。古泉はもう二つほどき火を起こし、朝比奈さんを真ん中に座らせた。

「古泉くん、その火を起こす魔法ってたしか……」

「ええ。本当は異空間のみで使えるはずなのですが、なぜかこの世界では使えたりするんです」

「やっぱり、通常空間ではないのね」

「最初から違和感がありました。おかげで火を起こすのには苦労しませんが」

苦笑しながら古泉は、戻ってこないハルヒが森のなかをさまよっていて、自分が探しに行かねばならなくなることを心配していた。


「みくるちゃん、朗報よ!」

ハルヒがようやく戻ってきた頃には、森の中はすっかり暗くなっていた。

「お戻りですか。なにか見つけましたか」

「家よ、人が住んでるわ」

「まったくの無人というわけではなかったんですね」

「あの家で雨宿りさせてもらいましょう。いいえ、なんとしてもあの家に避難ひなんするわ」

「僕はいいんですが、朝比奈さん動けますか」

「え……ええ」

朝比奈さんは朦朧もうろうとした様子で顔を上げた。こりゃ三十八度超えてるかもしれないな。

「さあみくるちゃん、がんばって歩きましょう。なんの、ほんの数キロの距離よ。小一時間もあればたどり着くわ」

病人に一時間歩かせるのか、そりゃ無茶だろ。とはいってもこのままここで野宿するとなると悪化しかねない。朝比奈さんは古泉とハルヒの肩につかまりながらゆっくり腰を上げた。

 一歩一歩、ふらふらと視線を彷徨さまよわせつつ朝比奈さんはときどきブツブツと独り言を唱えながらよろよろと歩いた。辺りはすでに暗くなっており、道なき道を歩いて行くのは困難に思われた。

「涼宮さん、方角は正しいですか」

「合ってるはずよ。ちゃんと地形を覚えてきたから」

日が暮れて気温も下がり、降ってくる雨も冷たい。朝比奈さんはいよいよ足取りも怪しくなってきて、ときどき石や生えている草につまずきながら足を引きずっている。そのうちに肩を貸している古泉から手を離し、

「涼宮さん、わたしもうダメ……二人で先に行って」

「ダメよみくるちゃん、こんなところでうずくまってたら肺炎になっちゃうわ」

「お願い、少し休ませて」

そのままそこに座り込んでしまった。

「しょうがないわね……」

ハルヒはまだかすかに見える景色を確かめるように周りを見回した。

「みくるちゃん、明かりよ! 明かりが見えたわ!」

「え……」

「あと一息だからね、ほら、がんばりましょう」

朝比奈さんは顔を上げてハルヒが指差す方向を見た。果たして本当に、ポツリと小さなあかりが見えた。ゆるゆると立ち上がり、もう一歩を踏み出した。

「そうそう、その調子よみくるちゃん。千里の道のりも一歩ずつ歩けばたどり着くんだから」

千里って、四千キロメートルも歩けとかあんまりはげましにもならんことを言うハルヒだったが、冷たい雨が降りしきっても、とっくに日没を過ぎていても、いつもと変わらない気迫に朝比奈さんも笑っている。


 ハルヒの言う数キロは千里並みの行程だったようで、古泉の時計では二時間ほど歩いた末にようやくあかりの元にたどり着いた。家の窓から淡い光が漏れている。

「ずいぶんと年季の入った造りの家ですね」

「あたし思うんだけど、これって石造りよね」

「そうですね。日本では小洒落た別荘とか趣味のいい店舗くらいしか見かけない建築です。もっとも、外側のみの化粧壁けしょうへきが多いですが」

「まあこの際、助けてくれるならどんな家でもいいわ」

ハルヒはオホンと咳払いをして、木のドアを叩いた。しばらく待ったが誰も出てこない。ハルヒはガンガンとドアを殴りつけた。

「たのもう! たのもう!」

槍を持ったちょんまげのおっさんが出てくるぞ。耳を澄ませているとカギをカチャカチャと開ける音がして、大きくきしませてからドアが開いた。影になっていて顔がよく分からないが、そのヘッドバンドはメイドさん?

「フ、フゥアユゥ」

「え……」

一瞬、その場の空気が停止した。ところが次の瞬間ハルヒの口から唐突に流れ出したのは、

「ウィガラローストオンザロードマダム、イフメイウィーハブユアヘルププリーズ、シィルックスイル」

朝比奈さんを指してみせた。突如英語が出てくるなんてお前はどこのバイリンガルだ、俺がこの場にいたらツッコミを入れたに違いない。

 家の人は朝比奈さんをジロジロ眺めてからドアを閉じて引っ込んでしまった。

「通じなかったのかしら。この家の人なんで英語話してんの? ウィリアムクラークの末裔まつえいなの?」

「さ、さあ、なぜでしょうね。英語にしてはだいぶなまりがあるような気がしますが」

「もういいわ。勝手に屋根の下を借りましょう」

ハルヒが朝比奈さんをうながして家の裏にある小屋っぽい建物に行こうとしたところ、ドアが開いてもうひとりのメイドさんが現れジロジロ眺め回した挙げ句、次に眉毛の濃いおじいさんが出てきてハルヒと古泉を交互に眺めて検分した。

「レディ、ユゥ、アウツロゥ?」

俺と同じことを言われてんな。

「ウィアナッ、アウトロー、サー」

ハルヒがブートキャンプの新兵みたいに気をつけをしてサーを付けると、アルプス山脈のふもとで孫と二人暮らしをしてそうなひげもじゃのじいさんはカミンと中に入れとあごで示した。難しい顔をしていたハルヒが途端とたんに満面の笑顔になり、

「あざーっす! ウィプリシエイトさー」

敬礼とかせんでいいから。


 家の中に入ってから古泉はまたも驚いて固まった。全員顔つきが日本人じゃない。最初に出てきたメイドさん二人もじいさんも、着ているもの、いている靴、家にある家具、食器棚に食器、椅子にテーブル、人もモノもすべてがアンティーク調である。

旦那様Sir」古泉が英語で話しかける。

「なんじゃね?」

「助けていただいてありがとうございます。素晴らしいお宅ですね」

古泉は素のアメリカ英語だがちゃんと通じているようだ。

「そんなこた後だ。そこの塩梅あんばいが悪そうなお嬢さんはメイドに着替えさせてもらうがいい。台所にお湯を沸かしておるでな。お若いの、あんたも着替えたがほうがいい。肺炎になっちまう」

「ありがとうございます」

ハルヒは朝比奈さんを着替えさせるためにメイドの後についていった。

「旦那様、僕たちは旅の途中で道に迷ってしまいましてこんな夜遅くにお邪魔したわけですが、ここはどの辺りになるのでしょうか」

「ここはグロースターのコッツウォルズだが、お前さんここがどこか知らんで来たのか」

「ええ、右も左もまったく分からない状態で」

グロースターといえばイギリスか、いったいなぜイギリスなのだろうか。古泉は首をかしげた。事故にしてもいきなり図ったようにこんな田舎にワープさせられるだろうか。あるいはほかに理由があったのだろうか、たとえばハルヒとか。


 じいさんのシャツを借りて、濡れた服を脱ぎ暖炉の前に並べて干した。革靴を逆さまにして立てかけておいたが、あれだけ水を吸った後ではたぶんもうダメだろうなとあきらめていた。

 じいさんは夜も遅いので腹ごしらえをしたら居間か客部屋で適当に寝てくれと言い残して二階に上がっていった。メイドさんがホットミルクを持ってきてくれた。丁寧にお礼を言って暖炉の前に座ってカップをすするとほっとため息をついた。どうやら明日の朝まではなんとかなりそうだ。

「そういえば、まだ名乗ってもいませんでした」

ふと思い出して顔を上げて独りごちた。メイドさんは部屋の隅に座ってじっとこっちを伺っている。あからさまに怪しいのできっと見張っているのだろうと思ったら、古泉がミルクを飲み終わるのを見計らって台所に案内してくれた。石でできたコンロみたいなストーブに大きな鍋がかかっていていい匂いが漂っている。木のテーブルにはハルヒが一人でむしゃむしゃと口の中にパンを押し込んでいた。古泉が来たのを見るとパンがのどに詰まったらしく胸をドンドンと叩きながら、あんたも食べなさいよというふうに手振りで示した。

 暖かいシチューとライ麦か大麦の入った硬いパンを食べながら、

「朝比奈さんの様子はいかがですか」

「だいぶ熱があるからホットミルク飲んで寝室で寝かせてもらってるわ」

「医者を呼んでもらったほうがよろしくないでしょうか」

「まあ、明日の朝まで様子を見ましょ。医者の往診で治療費まで出してもらうのは気が引けるから」

「ただの風邪だといいんですが……。それより、ここがどこか分かりました。イギリスのグロースターシャーです」

「んぐっ」

なんで、そんな、がいこくに、いんの、とハルヒは食べるほうが忙しいらしくシチューのおかわりまで要求している。

「それから、どうも二十一世紀ではないようです。さっきチラと見た小銭に年号が刻まれていたんですが、それがローマ数字で、中世のペニー硬貨でした」

「んぐぐっ」

日曜アニメ海鮮家族の主人公を凌駕りょうがするのどの詰め方でトントンと胸を叩き、耳なし猫型ロボットをさしおいてタイムトラベルをしてしまったことに気がついたハルヒは、

「あたしたち、タイムトラベラーになったのね!」

「あれはタイムトラベルというべきか……そういうことになりますね」

なにごとも前向きにしか考えないハルヒに古泉は喜んでいいのか、笑いつつ半分困った顔をしていた。


 もしここが未来なら、朝比奈さんの組織の手を借りて帰るという手段もあっただろう。だが科学水準もテクノロジーも錬金術レベルの中世ときたものだ。唯一の頼みの綱の朝比奈さんは自前のタイムマシンが機能していないと言っているし、人智じんちを超えたテクノロジーを持つ長門もどこへ行ったのか分からない。一般人ながらもいろいろと解決策を編み出せる俺は二十一世紀に置いてけぼりに(古泉はそう思っていたらしい)なってしまい、それがいちばんの問題だった。ハルヒの願望を実現する能力を引き出すためにはどうしても俺が必要だった。

 だがハルヒ風にポジティブに考えようとすれば、もしかしたらこれが会社はじまって以来の社員旅行、いや長期休暇として楽しめるのではないかなどと若干の期待含みの展望もできる。たいていの場合、ハルヒが騒動を起こすのは火付け役(俺のことだ)がいるからで、鍵となる人物がいなければミステリーのドアもバイオレンスのドアも開かない。そうなれば何も起こらず誰も困らず、いたって平穏無事に過ごせるに違いない。なんという好機だろうか。ここで一気にナンバーツーの座を狙ってみてもいいのではないだろうか、などと急に野心に燃える古泉である(燃えてません燃えてません)。


 ともあれまあ、今日のところはこの家の主の好意に甘えるとしよう。古泉は居間の暖炉の前に椅子を三つほど並べ、その上で横になった。

 たったひとりで荒野をさまよったりしたらそれこそ孤独感とプレッシャーにさいなまれるだろうが、ハルヒがいるというだけでなぜこうも安堵あんどを得られるのか、それが不思議でならなかった。ちらちらと燃える暖炉の炎を眺めつつ、うとうとしながらそんなことを考えている古泉は、ハルヒのそのカリスマ性が自分には手の届かない領域にあるように思え、またその揺るぎない自信がうらやましくも思えた。


 翌朝、椅子の上で目を覚ますとウールの織物おりものがかけてあった。暖炉のたきぎはほとんど燃え尽きて一筋の煙だけになっている。じいさんはもう起きていて家の外からたきぎを運んできた。窓の外に目をやると、曇ってはいるもののどうやら雨は上がっているらしい。

「旦那様、おはようございます」

「ああ。ちょっと火を付けさせてくれ」

「僕がやりましょう」

じいさんは肯定こうていも否定もせずひげをもぐもぐ動かしてから古泉にたきぎを渡した。枯れた杉の葉を今にも消えそうな炭火の上に置き、息を吹きかけるとポッと燃え上がる。その火を絶やさないように小枝の焚付たきつけを乗せた。パチパチと音を立てて燃え上がる焚付たきつけの上に、太い枝を重ねてゆく。

 古泉は後ろでじっと見ているじいさんに向かって、

「ご家族は何人くらいいらっしゃるのですか」

「わしだけじゃ。子供はおらん。メイドと使用人はおるがの」

「おひとり住まいにしては大きなご邸宅ですね。かなりの土地をお持ちのようにお見受けしましたが」

「かなりかどうかは分からんが、一ハイドくらいかの。わしらだけで暮らすには十分すぎる」

一ハイドというのは四十八ヘクタールくらいで、だいたい東京ドーム十個分、甲子園球場なら十二個分の広さだ。

「それはまた広いですね。牧場経営ですか?」

「ほとんど畑さね。だいぶ人に貸しておるがな」

じいさんが地主ということは近所にある家は小作農ということになるのか。そういえばこの家は石造りの二階建てで、隣に見える家より立派だ。


 古泉は革のサンダルを借りて、家の敷地内を回った。塀には囲まれていないが、家の前は馬車道、家の横には小川が流れており、そこが境界線になっていた。

 家の裏にある中庭は雨のせいで水が溜まっていて泥だらけだった。中庭を囲むように建てられている納屋と家畜小屋には、豚やニワトリやガチョウなどが飼われていて鳴き声が騒々しい。小屋の中を覗くと、ごつごつと骨ばった牛がもそもそとあごを左右に動かしながら干し草を食べ、その横ではメイドさんが乳をしぼっている。

「メイドさん、おはようござ……」

話しかけると白いヘッドドレスがこっちを向いて、

「あら古泉くん、早いわね」

「涼宮さんでしたか。何してらっしゃるんですか」

まあ見りゃ分かるんだが、なぜハルヒがメイド服を着ているのかと聞きたかったのだ。

「まあ見てみなさいよ。この牛おっぱいめちゃでかいのよ、古泉くんも触ってみる?」

「どれ……ほんとに大きいですね。それに温かいし」

古泉、いくら牛とはいえ相手はレディだ。少しは遠慮しろ。

 ここの住民に借りたのか、ハルヒは薄いベージュの古風なワンピースのスカートにエプロンをかけていた。メイド服といえばゴシック調の白黒フリルのスカートにヘッドバンドという先入観があるが、あれは貴族なんかが雇っているメイドさんで、いわばお屋敷の制服なのだ。

「ほんとにおっきいな……牛のくせにあたしよりでかいなんてなんか腹立ってきたわ……」

乳牛と張り合うなんて朝比奈さんでも無理だと思いますよ涼宮さん、と生暖かい眼差しをしながら古泉はココロの中で突っ込んだ(突っ込んでませんから)。


 ブツブツと牛と会話しているハルヒは放っておいて古泉が馬小屋に入ると、じいさんが馬を追い出して敷きわらを取り替えている。古泉はいざ手伝わんと立てかけてあったすきを取った。じいさんは、

「若いの、お前さんは客だから無理して付き合わんでもいい」

「いえいえ、一宿一飯の義理がございます。お手伝いさせていただきます」

一宿一飯てのが英語でどう表現するのか俺は知らんが、まあ言いたいことは伝わっているようだ。まあ好きにするがよかろう、とじいさんはもぐもぐつぶやいている。

 とはいっても、馬の世話なんてはじめてのことだし、さすがの超能力者もはじめは馬糞の匂いに顔をしかめ、鼻が匂いに慣れるまでには何度もむせた。考えてみれば馬はわらしか食ってないし、これがこのまま土に帰るわけで、別に生ごみが腐っているわけではなく、慣れてしまえばそれほどひどくはないものだと自分で自分を納得させざるを得ない古泉だった。まあ肥料だと思えばいいんだ。草食の馬の糞なんてまだマシなほうだぞ、俺なんか雑食の豚の糞にまみれてたんだからな。


 家のそばを流れる小川の水で顔を洗い汚れた足を洗った。じいさんと母屋おもやに戻ると牛乳の入った木のおけをかかえたハルヒが飛び出してきた。

「ハーイやかたのご主人、泊めていただき感謝感激雨あられ、おかげさまで昨日はぐっすり眠れたわ。このままここに住み着いちゃおうかと思っていた……ところよ……クンクン、古泉くん、なんか田舎の香水の匂いがするんだけど」

「匂いますか。少しばかり家畜の世話を手伝っていまして」

古泉は自分の服の匂いをいでみたがどうやら鼻が麻痺まひしてしまい自分では分からないらしい。田舎の香水ってシャネルオブカントリーとかオーガニックナチュラルパフュームとでも訳すのかは知らんが、古泉とハルヒがふつうにイングリッシュで会話しているのが忌々いまいましい。

 ハルヒは古泉の腕をとって自分の横に並ばせ、

「ご主人、折り入って相談があります」

「なんじゃね」

「あたしたち、旅の途中だったんですが道に迷ってしまって雨に降られてしまい、その挙句みくるちゃん、あ、あのグラマーなお姉ちゃんのことね、みくるちゃんが高熱を出してぶっ倒れてしまいました。治るまでここで面倒みていただけないでしょうか。つきましてはここで働かせてください」

ペコリと腰九十度でおじぎをした。急にまじめな顔をしてなにを言い出すかと思えば。古泉は日本語で耳打ちして、

「いいんですか涼宮さん、僕たちの時代……職場に戻らなくて」

ハルヒは腰九十度のまま、

「あたしもいろいろ考えたわ。これがドッキリなんかじゃなくて本当にタイムトラベルだったとしたら、どうやって戻るのか方法も分からないし、キョンも有希もいないわけだし、ここは一旦腰を落ち着けて状況を分析したほうがいいと思うのよね」

こういうときなにがなんでも元の時代に帰る、あんたは帰る方法を探しなさいと言い出すのがいつものハルヒなはずなのだが、そんな無茶振りをしないのは俺がいないからだろうか。

「それなら賛成です。こういう事態では生活の手段means of livelihoodを優先してしかるべきですね」

「ライブリフッドってなんだっけ」

「意訳すると糊口ここうをしのぐ、です」と日本語で解説した。そんな熟語俺も知らんわ。

「でしょでしょ。だからご主人、彼をこき使って農作業でもなんでもやらせてちょうだい」

お前はやんねーのかよ、と俺がいたらツッコミを入れるところだが。じいさんはハルヒたちが何の話をしているのか分からなかったらしく、ワンテンポほど遅れて、

「あんたたちは客人だから、好きなだけおればいい。家事を手伝いたいなら、まあ好きにするがよかろう」

控えめにそう言ってはいるが、ふさふさした眉毛の下では意外にも喜んでいる風だった。

「じゃ決まりね!」

腰九十度が一気に解除され、ハルヒにグイと腕をからませられた古泉は一筋の汗を垂らしつつ顔だけで笑っていた。いいのか古泉、人的資源として勝手に提供されてるぞ。


 家の窓から本物のメイドさんが朝飯が出来たと呼んで三人は部屋の中に入った。

「古泉くん、あたしたちは今日から下僕げぼくだから、ごはんは台所でメイドさんたちと食べましょう」

「そ、そうですね」

下僕げぼくって、そこまで卑屈ひくつにならなくてもいいのに、とは思いつつも、長いことハルヒの下僕げぼくをやっている身分の古泉は命令に従った。すでに居間のテーブルには朝飯の用意ができていた。メイドさんの後について台所に入ろうとすると、じいさんが飯だけは一緒にテーブルで食べなさいと言うのでハルヒと古泉は黙って椅子に座った。じいさんと、どこか別の時代からやってきた若い二人の静かな朝食だった。

 テーブルの上には大きな丸いパンと、さっきハルヒがしぼってきた牛の乳が置いてあるだけの、質素なメニューである。ハルヒはほかに追加のスープなんかが出てくるのかと期待して待っているようだが、メイドさんはそういう様子は見せず、じいさんは黙ってモソモソと食っている。古泉がパンを取って一口かじると湯気が出るほどの焼き立てで、思ったより味わいがあることに気づいた。ドイツパンのたぐいだろうか。温めたミルクには成分無調整な生乳らしいコクがあった。

「旦那様、お伺いしてよろしいでしょうか」

じいさんは無言でうなずいた。

「この村にはどれくらいの人が住んでますか」

じいさんは少し考え込んでから、

「数えたことはないが、だいたい二百人くらいではなかろうかのう」

「皆さん農業ですか」

「ああ。地主もおるしマナーハウスの管理人もおる。皆農家だ」

マナーハウスでは地主の代わりに農地の管理をやっている。執事がいて役所と裁判所を兼ねた農協みたいなものだ。

「職人さんはいらっしゃいますか」

「鍛冶屋くらいではなかろうか。この村には石工いしくも大工もおらんな。あんた職人になりたいのかの」

「いえ、特にそういうわけでは」

否定はしたものの、自分の技術でなにがしか役に立つものがあるかどうか、古泉はあんまり期待はできなさそうだなと考えていた。


 質素な朝飯を食ってから、ハルヒは馬小屋から馬を引っ張りだしていた。この馬はがっしりした体格をしていてひづめがでかく農耕馬らしい。ハルヒが無理やり手綱たづなを引いているがなかなか言うことを聞かず、ニワトリやガチョウなんかが小屋から飛び出してきて大騒ぎをしている。じいさんに向かって親指を立てて、

「グランパ! ちょっと馬を借りるわね」

くらも付けず、メイドスタイルのまま裸馬はだかうまにいきなり飛び乗るハルヒに、じいさんはいつもは眉毛にかくれている目をまん丸に見開いて驚きの表情をしていた。手伝うというからてっきりつくろい物とか台所の片付けをするのかと、たぶんそう思っていたに違いない。っていうか今おじいちゃんGrandpaって呼んだか。もしかしたらそっちのほうが驚愕だったのかもしれん。

 おい若いの、大丈夫なのかアレは、と指差して口をもごもごさせるじいさんに、古泉は困った顔で肩をすくめてみせるだけだった。彼女なら落馬しても死ぬことはないでしょう。


 古泉は朝比奈さんが寝ている二階の寝室のドアをノックし日本語で話しかけた。

「朝比奈さん、お加減はいかがですか」

本場のメイドさんにオートミールのおかゆみたいなものをスプーンで食べさせられていた。古泉はメイドさんに気を遣って英語で言い直した。

お加減はいかがですかAre you feeling any better?」

髪も乱れ気味の朝比奈さんは少し文法を思い出しながら、

「ありがとう古泉くん。お化粧が剥げててみっともないけどごめんね」

「いえいえ、いつもとお変わりなくおきれいですよ。とはいってもまだ顔が赤いようですね」

「まだ熱がひかないみたい」

「インフルエンザではなさそうですし、食欲がおありなら大丈夫でしょう」

「そうだといいんだけど」

メイドさんが皿を持って出て行ったのを見計らって、古泉は会話を日本語に戻した。

「朝比奈さん、今がいつごろか、そしてここがどこなのかわかりました。だいたい十二世紀のイギリス、グロースターシャーの農村です」

「どうして突然そんなところに来たのかしら……」

「僕にも分かりません。戻ってから長門さんに事故の原因を調べていただかないといけませんね」

「そうね。時間移動の実験は昔から事故が多いの」

「すると失踪しっそうした人がいるんですか」

「ええ。今回みたいに、唐突とうとつに別の時間平面に飛ばされて帰ってこれなくなったりとか、おばあさんになって帰ってきたりとか」

「浦島太郎並みに怖いですね。僕たちはその第一号というわけですか」

「そうね。歴史に残る最初の事故かもね。もし私達が元の時代に戻れたら、だけど」

朝比奈さんは痛む頭をおさえながら笑った。

「その件ですが、しばらくここに滞在することにしました」

「あら、涼宮さんはそれでもいいのかしら」

「はい。戻る方法が分かるまでは状況分析にてっしようという彼女の方針です」

「相変わらずポジティブなのね。ご主人はなんて?」

「代わりに僕がこの家で労働力を提供するということで話はまとまりそうです」

「そう。わたしのTPDDさえ直れば帰れるのに……」

「これは僕の予想なんですが、二十一世紀に残っている彼が未来人の組織か情報統合思念体に働きかけてくれるのではないかと。涼宮さんがらみのアクシデントを黙って見過ごすとは思えませんし」

いや、何の解決策もなく俺もこの時代に飛ばされてきたわけだがね。

「そうね。キョンくんって意外なところで動いてくれたりして、案外頼りになるものね」

デヘヘヘ、朝比奈さんにそう言っていただけるなら俺もうなんでもイテテ長門ほっぺたつねるな。

「いざとなったら涼宮さんを動かしましょう。念じてもらえれば嫌でも帰ることになります」

「そうだといいんだけど、涼宮さんが歴史を改変してしまわないかと心配で」

「そうですね、僕もそれを懸念していました。ロンドン国立博物館にオーパーツが現れるようなことは阻止しなければいけません」

朝比奈さんは歴史を思い出そうとするような仕草で、

「イギリスの田舎に現れたくらいなら、ほとんど影響はないとは思うんだけど……」

「なるべく、歴史の教科書に載るようなイベントには近づかないように、歴史的要人には関わらないように監視することにしましょう」

未来ではなんの協定も同盟もしていない組織の二人だが、今回は珍しく合意したようだった。


 ともかく朝比奈さんが健康を取り戻せばTPDDも直るかもしれない。聞くところによれば電子機器のたぐいではなさそうだし、それが生物学的なデバイスだとしたら風邪のせいなのかもしれないと古泉は考えた。

 じいさんの書斎のドアをノックして中に入った。机の上に積まれた書類の束を読みふけっている。後ろから差している窓からの明かりで羊皮紙の文字を追っていた。

「なんぞ用かな」

「なにかお手伝いさせてください」

じいさんは遠目に読んでいた羊皮紙を古泉に渡し、

「読めるかな」

「英語ではないようですね」

「フレンチじゃが」

「僕が知っているフランス語はだいぶ違いますが……名詞のつづりの変化以外は分かります」

「なら少し読んでもらえんか。わしの目はもう文字を読むのがきつくてな」

「かしこまりました」

それは畑の作物の売買契約書とか領主に収める税金の見積もりらしいのだが、使われている用語が限られているので古泉にとってはそれほど難しくはなかった。古泉がぼそぼそと読み上げ、言われたとおりに代筆し、じいさんがそれにサインをするという作業を晩飯に呼ばれるまでこなした。

「多少の学はあるようじゃな」

「フランス語を習っていたのはたまたまです」

「お前さん貴族の出かね? そのきれいな手は百姓ではなかろう」

「いいえ。封土ほうどもありません」

「なら、ここにおる間は管理を少し手伝ってくれんかの」

「よろこんで」

どこから来たのか、どこの家の者かとは聞かず、じいさんは言葉少なにそれ以上の質問はしなかった。


 知ってのとおりこの辺の晩飯は午後三時で、それに合わせたのかハルヒが馬のいななきとともに帰ってきた。

「グランパ、すっごいじゃないこの領地、国が作れるわ!」

だから農地だっつの。じいさんは馬の手綱たづなを取ると細い目をいっそう細くして軽くうなずいた。

「おかえりなさい涼宮さん。どうしたんですかその格好は」

ハルヒの着ていたドレスは泥だらけで髪にも土が乾いてこびりついていた。

「えへへ、馬が水たまりに入って転んじゃったのよ」

「大丈夫ですか」

また無茶な走らせ方をしたのだろう、と古泉は汗だくで興奮気味の馬を見ながら内心笑っていたが、どんな状況でもなにかしら楽しみを見つけ出すのがハルヒの取りである。

「領地の端から端までを走ってみたのよ。その辺の住人に聞きながらね」

後で聞いたことだが、メイド姿をした若い娘が馬で村を駆けまわっているという噂が村中に広まったらしい。

「これだけ土地があれば二十一世紀には不動産王ね」

また良からぬことを考えているようで、空は曇天どんてんなのに目んたまはキラキラ晴天である。っていうかお前の土地じゃないだろ、というのは俺のツッコミで、あなたはあと八百年も生きるおつもりですか、というツッコミは古泉だ。


「ねえねえグランパ、この辺でいちばん儲かる作物はなに?」

「そうさのう……金になるのはやっぱり小麦じゃろ」

「スイカとかメロンとかは?」

勘違いすんな、あれは南方の作物だ。

「メロンは……サラセンじゃないと無理じゃろ」

「なーんだ。案外平凡なのね。でもねグランパ、これからは付加価値のある作物の時代なのよ、分かる?」

「そうさのう……」

じいさんは話が通じてるのか通じてないのか、ハルヒはどこで聞きかじってきたのか農業政策をまくし立てている。そんなに興味があるなら低迷状態にある我が祖国の農業事情をなんとかしてもらいたいものだね。

 ペラペラと喋りながらかたまりのパンにかぶりつくわ音を立ててスープをすするわ、行儀作法もなってないありさまで、メイドさんに顔をしかめられたがハルヒはいっこうに気にする気配すらない。

「涼宮さん、」

唇に人差し指をあてる紳士スマイル古泉にたしなめられてテヘペロをみせた。じいさんはわんぱくな孫が突然出来たような感じでとくに気にしている様子はなかった。

 三時の晩飯の後、仕事の続きがあればやるし、なければ家で昼寝でもしているものだが、ハルヒはまた農耕馬を連れ出して方々を走り回っている。村人に会う度にじいさんの孫だと自称してまわり、ついには公認の孫という話で落ち着いた。息子も娘もいないのにどうやって孫だけが生まれてきたのかという謎については、村人は純朴らしく誰も突っ込まなかった。


 古泉は翌日からじいさんと馬車に乗って地所じしょを見て回ることにした。土地の広さを確認し、借り主の家を訪れ、しばらく古泉に管理を手伝ってもらうことになったのでよろしくと紹介された。小作農の家族はけして贅沢ぜいたくな暮らしぶりではなかったが、収穫の何割かを地代として収めるだけで、そこそこ食っていけるだけの生活はしているようだ。

 一軒ずつ顔見せをしていくうちに、気候の具合から今年の農作業の日程なんかをさりげなく教わった。スマイリー古泉の甘いマスクがおばちゃんたちには受けがよかったらしく、うちのダンナがいないときに遊びに来なさいよと冗談半分、目は本気でお誘いされる始末だ。ぜひ娘婿むすめむこにという物好きなお母さんもいたのだが根掘り葉掘りのインタビューで値踏みされた挙句、土地を持ってないんじゃだめだねと願い下げられてしまった。少し不動産に投資したほうがいいぞ古泉。


 季節は春。とまではいかない早春のみぎり、まだ寒い三月だがそろそろ畑の作業が始まるらしい。去年植えたオーツ麦の刈り取りをやった後、秋収穫の小麦の種まきがはじまるらしい。ここ一週間くらいはずっと種まき作業が続いている。

 デスクワークにてっする代理執事の古泉は、そういえば最近ハルヒを見かけないなと思い馬車で畑を回ってみると、村人に混じって畑を耕していた。湿った土の上をのそのそと牛が進み、ハーネスにすきを繋いで土に溝を掘っていき、その後ろに杖を持った村人が曲がらないように進路を修正している。

「こらキョン、仕事さぼってんじゃないわよ。キリキリ歩きなさい!」

どこかに俺がいるのかとキョロキョロと見回してみたがそれらしい人物はいない。ハルヒはすきの上に乗って牛の尻をペシペシと叩いている。

「働かないとバーベキューにしちゃうわよ、まったく牛のくせに動きはナマケモノなんだから」

「涼宮さん、精が出ますね」

古泉は俺の名前で呼ばれている牛が一仕事終えるまで待ってから話しかけた。

「おうよ! 刈り取って耕して種を蒔いて、農家は今がいちばんたいへんなの」

ついこないだまで社長イスにふんぞり返っていたやつがいつの間にか肉体労働者に変身しているが、牛も村人も同様にこき使い、現場監督並みに偉そうなのは相変わらずである。

「皆さんお疲れさまです」

村人は二十人ほどいた。小作農も自分の土地を持っている農夫も混じっている。古泉が手を振ると執事さん執事さんと敬称付きで呼ばれ、丁寧に帽子を取ってあいさつを返されている。新川さんを差し置いていつの間にか執事に収まっている古泉は照れた様子でお辞儀じぎをし、

「涼宮さん、僕も手伝いますよ」

「そう? んじゃーええっと」

ハルヒはすきの上から周りを見回したが、古泉にやれそうなことはたいしてなさそうだった。

「牛にやる気を注入してあげて」

注入ってなんだタウリン千ミリグラムでも投与しろってのかよ、と俺なら言ったに違いないが、腕まくりをして馬用のムチを握る執事フェイスの古泉はキリっと真面目な顔をしている。牛の前に立って深々とお辞儀じぎをし、

「さあ牛の皆さん、あと半分ですしっかりがんばってすきを引きましょう! がんばれば新鮮なマグサをたくさん食べられますよ、それファイト!」

神輿みこしの前を行く大ウチワを持った先導役のごとく大声で声援を送っている。古泉よ、お前は恥ずかしもなしにつくづく付き合いのいい男だな。

 この村の慣わしというか農作業のルールというか、縦に長い畑に横一列に牛を並べ一気にすきを引かせるという共同作業を村の住民でやっていて、こうすると耕すときになるべくUターンせずに片道作業だけで済むという塩梅あんばいである。ハルヒなんぞが女だてらにと思うかもしれんが畑にはおばちゃんたちも結構いて、イギリスの農家の女はたくましく家でも畑でもよく働く。畑に出れば男どもに混じって耕し、家に帰れば泣き叫ぶ子供に飯を食わせねばならんほど忙しい。

 古泉の犂引すきびきワッショイ音頭が効いたのかどうか牛共がウモーと甲高い鳴き声を上げて俄然がぜん足を早めた。この執事は牛の気持ちが分かるらしいと村人が笑っている。俺の経験則から言うと、牛ってやつは気まぐれで日によって態度が変わるし、仕事したくないでござる感が満々なときは、なだめたりすかしたり怒鳴ったりしないと動いてくれないものなのだが、古泉が一頭ずつなでてやると妙に甘えた声を出して、あなたのためにならやるわ! あだしぃがんばるッス! とすきの上に乗ったハルヒをふり落とさんばかりの勢いである。よく見れば全部雄だ。


 遠くから午後三時の鐘が聞こえてきて終業時間となった。メイドさんが大盛りのパンかごを差し入れてくれている。これは別に給料のうちには入っていないんだが、じいさんは雇いの小作農夫に毎日晩飯のパンを配っているらしい。そこで皆であぜ道に座り込んで、日本風に言えば三時のおやつを食べた。ハルヒが牛どもからすきを外してやると熱き思いを溜め込んでいたらしい牛は古泉を追いかけ、逃げ惑う様子を見てなにかのショーだと思ったらしい一同は盛んに拍手を送っている。お前まで笑ってんじゃないハルヒ。


 数日して、朝比奈さんはだいぶ元気になった。TPDDは相変わらず絶不調だったが、本場のメイドさんについて家事をこなしていた。若いほうのメイドさんと歳が同じくらいらしく話がはずんでいるようだ。

 村に広まったハルヒの噂を聞いて物珍しそうに見物にやってきた野郎どもが、朝比奈さんの姿を一目見るなり両目にハートを浮かばせ、村に一軒しかない酒場を指して、近所にいいパブがあるんっすよ飲みに行きませんかと何度もお誘いに来る。あんまり通い詰めるのでいい加減じいさんが怒ってフォークをふり回して追い払い、古泉がそれを止めに入るというほのぼのしたドラマが展開されていた。その様子を窓越しに見ながらメイドさん二名はドライに笑っている。あたしには何の誘いもないのかと、ハルヒはフンと鼻を鳴らし、野郎どもに愛想笑いをする朝比奈さんを横目で見ていたが、中学生くらいの村の女の子たちが古泉にダンスパーティをやるから来ないかと誘いに来たときにはフォークをふり回して、じいさんが止めに入るというシリアスなドラマが展開されていた。

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