第二部 涼宮ハルヒの伝承

七章

 それからの俺たちは、なんということはなしに二人だけのつつましやかな、努めて静かな毎日を過ごした。毎日乳鉢を練って薬を作り、市場いちばが催されれば店を出し、秘薬を求めて大陸を旅し、ドラッグストアの経営にいそしんだ。

 いや、けして当の目的を忘れていたわけではないのだ。どこでどうしてるかは知らんが、ハルヒのことだから台風並みの事象を引き起こしているはずで、大衆の耳目じもくを集めるような歴史的イベントを起こしていればおのずから俺の耳にも入ってくるだろう、と。正直、ほっといてもどっかで生きているはずで簡単に死ぬこたぁないだろうと達観たっかんした俺の悟りだった。

「今頃どうしてんだろなあ、まったく」

たまに大火事が起こったとか強盗団が捕まったとかロンドン庶民をさわがすような事件が起こると、俺達のボスのことを思い出して、ため息混じりにこういう独り言がついて出るのだが、

「心配ごと?」

「い、いやー俺は心配なんて、ぜーんぜん。あんなもん、自力で生きていけるしな」

「誰のこと?」

「……彼が懸念けねんしているのは、わたしたちの上司」

職場の上司というか、あれはもはや社長を超えた存在で、どう説明すればいいのか、まったく名状しがたいキャラクタというか。

「実はなあユキ、俺と長門が出会ったきっかけになったやつがいて、こいつがとんでもないエネルギーの持ち主でな。まあそのうち会えると思うが」

「そう。会ってみたい」

「あ、あんまり急いで会わなくてもいいと思うぞユキ。疲れるだけだし、なあ長門」

長門は本心を述べたものかどうか考える風に、

「……なるべくなら先送りしてもいい。むしろこの生活が続いてもいい」

いかんなー、モラトリアム症候群が長門にも感染うつっちまった。このまったりとした時代は、俺でなくてもふわふわな人生になってしまうストレスフリーの生活空間なのだ。


 長門が未来から召喚しょうかんされてから、気がつけば半年が経っていた、冬も近づいたある日のことである。店に紳士風の野郎がやってきた。堂々たる白馬に乗って羽のついたいきな帽子をかぶり、よろいこそ着てないが重そうな長いつるぎを下げ、盾を背負った従者を二人も連れていた。馬の目つきが怖いところを見ると軍馬らしい。

「ブラザー、ミストレスはいらっしゃるか」

「はい、奥におりますです、サー」

俺のことをブラザーと呼ぶのは酒場の客に違いないが、どうもたたずまいが貴族っぽい感じがしたので俺がサーを付けて挨拶あいさつすると、相手もうむという感じでうなずいている。俺完全に長門の下僕げぼく扱いだな。下僕げぼくなんだけど。

 馬から降りて従者に預け店の中に入った。庶民相手の薬ばかり売っているのかと思っていたが、たまにはこういう高貴なお得意さんもいるんだな。長門はひざを曲げてスカートをちまっと持ち上げる挨拶あいさつをした。

「いらっしゃいませ、今日もお天気がよろしいですね旦那様。……要件を聞こう」

ユキリンからいきなりヒットマンみたいな長門語になったので俺が慌てて、エヘヘ今日もいい品がそろってまっせ旦那、とみ手り手をしながらごまかした。


 聞けば、この御仁ごじんは隣の領地に住む騎士らしいが、兵士の間で水虫が流行っていて困っているので薬を所望しょもうしたい、のだそうだ。兵隊さんも大変だ。水虫はなあ、二十一世紀になっても未だに撲滅ぼくめつできない難病なのだよ。あいにくと今は在庫がないので調合できたら届けるという約束を取り付けて帰っていった。

 長門によると水虫の薬の製法は存外簡単で、竹を蒸し焼きにして煙を蒸留して作る液体をバルサミコ酢と調合すればいい、ということだ。それにミントなんかのハーブを足して香りをつけるとはい出来上がり。これが実に好評でこの地方一帯の紳士諸君、特に今の騎士さんみたいな長いブーツをいて仕事をする人たちには大人気なのだそうだ。イギリスってのは冬に向かって雨が多くなるので、濡れたブーツは水虫菌の巣窟そうくつになるのだろう。


 注文された薬が完成し、俺と長門はロバに荷車を引かせて配達することにした。ブラザーと呼ばれていたので俺はいちおう修道服を着たほうがいいような気がして修道士コスプレで出かけた。ロバが歩くスピードだと城までは丸一日かかり、俺たちは商人扱いなので途中の橋で通行料を払い、街を取り巻く城門をくぐってから宿で一泊した。街の中心にも城壁があり、その内側にある城を中心にした、わりと大きな町だった。翌朝、城の門に立っている番兵に取り次いでもらって、城の執事に小瓶の入ったカゴを渡し、代金が入った袋を受け取った。城の中にはかなりの数の兵隊が入り乱れていてまるで戦いの前の騒々しさだった。


 街の城壁を出て、来た道を元に戻っていった。この道は森を抜ける道が長く、気をつけないとと思っていたら案の定出やがった。槍を持った二人組が道の真中をふさいでいる。後ろにも短剣を持った奴が二人出てきた。

「旦那ぁ、もしかしてこの先の城の客かね?」

「そうだと言ったらどうする」

「すまねえが財布置いていってくんな」

「なんだ強盗か? だったら覚悟しろよ、俺はただの修道士じゃねえぜ」

「旦那、お連れのご婦人もいなさるのに黙って金を置いていかないと怪我けがを、」

俺はロバを止め、荷台から杖を取り出し座席の上に立って刀を抜いた。まあ今日は長門もいることだし手加減してやるがな。

 俺は朝倉のマネをしてスパっという感じで槍の穂先を切り落とした。

「さあ、最初はどいつだ?」

これがはがねの武器であることが分かると二人組はカタカタと震えだし、

「お、おねげえします、ほんの少しでいいんで金を置いていっておくんなさい。エモノを逃したらボスにどやされるんでさ」

「なんだお前らボスがいるのか。だったらアジトに連れて行け」

仕込み杖を持った旅のご隠居バリに、俺はちょいとらしめてやろうかという気になっていた。後ろにいた二人はさっさと逃げてしまったらしくいなくなっている。今回の俺がいつもより強気なのは、たぶんバックに強力な助っ人がいるからに違いない。長門のほうをふり返るといつもより目がうるんでるように見えるのだが気のせいか。

「……かっこいい……ダーリン」

「今なんか言った?」

「……なにも」

 山賊二人を前にオラオラさっさと歩けみたいにして俺たちは森の奥へと進んだ。ところどころで木の上に見張り台があるようだ。脇道へれ細い清流を渡ってギリギリ荷車が通れるくらいのケモノ道みたいなところを通って、木の生えていない開けた場所に出た。そこにはわらで作った三角形の小屋みたいなものがぽつぽつと点在していて、あれはなんというか日本のはるか昔の懐かしい風景に似てなくもないが、って竪穴式住居かよ。

 どうやらここの山賊は家族が大勢いるらしく、和気あいあいとき火を囲んだり、どこかで赤ん坊の鳴き声が聞こえ、子供の喧嘩けんかの声が聞こえたりしていた。俺たちが入ってくるのを見ると、お坊さんがいったいなにしに来たんやろという目で見ている。


 「あ、姉御あねご……めんぼくねえ、実は、」

山賊二人が恐る恐る小屋の中に入ると、なんだかいつも聞いていた頭痛の種である主の声が聞こえてきた。

「早かったわね。あんたたちちゃんとエモノは確保してきたんでしょうねえ」

どこを探してもいねえと思ったらまさかこんな森の奥で山賊をやっていたとはなあ。俺はこめかみに手を当てて頭痛に悩む仕草をした。長門も真似をして眉間に手のひらを当てている。

「おいハルヒ! いねえと思ったらこんなところで山賊かよ!」

小屋に向かって大声で呼びかけると、中でなにかの液体をき出す音がして、

「キョンなの!?なんであんたがこんなとこにいんのよ!」

そのセリフ、幼なじみが中世で山賊をしていることがバレて照れ隠しする感じで頼む。顔だけひょっこりとのぞかせたハルヒはもう日焼けしてるのか単に汚れてるだけなのか分からんほどの真っ黒だった。

「なんだそのマダラ模様に日焼けした顔は。ガングロサクソンかお前は」

首だけひょっこり出した三人は俺の頭を見るなり固まって、慌てて口をおさえて小屋の中に引っ込み、バンバンと地面を叩く音が聞こえてくる。失敬なやつらだ。

 ハルヒが再びヒョコと顔を出し、

「な……なんなのその格好、ザビエルにでも弟子入りしたのア、アンタ」

笑ってはいかん笑ったら負けよとでも念じているのかほっぺたをプルプルと震わせている。

「これは生きていくためのコスプレというか、まあいろいろとあってだな。いちおう修道士見習いだ」

俺は偉そうに信心深そうに目を閉じて十字架をかかげてみせた。ハルヒの頭の上から古泉の顔が再び飛び出して、

「これは面白いプレイをなさっていますね。聖体拝領せいたいはいりょうができるんですか」

聖体拝領せいたいはいりょうは司祭の資格がある人しかやれんのだが、まあ手順は知ってる。いやプレイじゃないし、一応宣誓した本物だし。ハルヒと古泉は表情筋を押さえつけるのに必死で、そこに笑い顔を押し殺す恐ろしい形相ぎょうそうをした朝比奈さんの顔も飛び出して、耐えきれなくなったのかいきなり三人とも引っ込んだ。SOS団オールスターの再会を喜ぶどころか大爆笑する三人だった。あーイライラする、さっさと話を進めようぜ。

「それより古泉、お前がついていながらなにやっとるんだ」

ようやく落ち着いた古泉がまあまあという感じで出てきて、

「話せば長い物語になります。我々は好きで山賊団を組織しているわけではなく、民衆の権利のためにやむなくやっているんですよ。ここにきょを構えたのは涙あり苦労ありの紆余曲折うよきょくせつの末なのです」

まあ朝比奈さんが無事に生きていてくれていたのでそれは良しとするが。

 小屋から飛び出してきたハルヒの格好は緑色のヘアキャップにチュニック、緑の長袖を着ている。

「なんだその格好は、ゼルダコスプレか」

「テヤーッ回転り!!ってゼルダはお姫様の名前でしょうが」

シャキンとつるぎを抜いてみせるノリは分かるんだが、大回転りをやって頭のまわりにピヨピヨが漂っているらしく足元がふらついている。

「はあ、キョン見て笑ったら体力消耗したわ。朝から何も食べてないのよね……ひもじい……」

そういえば三人とも随分細くなっちまったな。朝比奈さんも若干スレンダー度が増している気がする。ちゃんと皆に飯食わせてんのかとハルヒに聞こうとしたところ、さっきの二人組がやって来て、

「ボス、箱馬車が来ました。兵士の警護付きです」

「やっと現れたようね。積年のうらみを晴らしてやるわ」

「まさか兵隊と戦うつもりか、飯なら俺達が食わせてやるって」強盗はヤバいからやめろと俺が止めようとすると古泉が、

「さっきも申し上げましたが、これは正義の戦いなのです。我々は空腹に耐えてでも戦わなければならないんです」

「そのとおりよキョン。これはあたしたちのジハードなんだから。腹は空腹なれど志高こころざしたかし、これは百年戦争を凌駕りょうがするご飯の序章にすぎないの。あたしたちは人民の人民による人民のためのご飯を確保しなければならないのよ」

よほど腹が減ってると見えてもう飯という単語しか頭にないらしい。

 ハルヒは俺の荷車の上に飛び乗り、その辺にいる人民とやらに向かってつるぎをかざした。

「おまえらーっ肉が食いたいカーッ」

「オーッ!!」

「酒が飲みたいカーッ」

「オーッ!!」

「絞首刑は怖くないカーッ」

「オ……」

たった一人朝比奈さんだけがグーを天に突き上げてオーと極上スマイルで叫んでいた。大丈夫ですか、市中引き回しの上に縛り首になったりしないでくださいね。


 どうやら俺と長門もすでに仲間としてカウントされているらしく、約半年ぶりのSOS団再結成は名称改め山賊団となった。

「さあっ山賊の時間よ!!」


 それからハルヒを先頭にして、馬に乗る者、槍を構える者、矢をつがえる者が隊を組んで出ていった。子供とお年寄りを残して全員が出払ってしまい、俺と長門だけがぽつりと森の中に取り残されていた。俺はいちおう聖職者の格好をしてるわけだし、いくらなんでも修道士が強盗をやるわけにはいかんわけで、ここで傍観ぼうかんしつつあいつらの帰りを待っていてもいいのだが、長門はじっと俺を見つめてハルヒについて行きたそうにしている。しょうがない見に行ってやるか。

「いいけどな、あくまで監視だぞ」

「……分かった」

とは言ったものの俺も久々のハルヒの暴走にワクワク感がおさえきれない。いや、いかんいかん。ストッパー役の俺がこんなんでどうする。長門、後始末が大変だからあんまり目を輝かせんな。

「……事後の始末も、それはそれで楽しい」

だめだこりゃ。


 山賊団は三つに別れる。エモノに恐怖心を与えて追い立てる役、エモノを分断させる役、包囲網から逃げ出さないように待ち構える役だ。パオーパオーみたいな、お前は武田信玄かとツッコミを入れてほしそうなラッパの音があちこちから聞こえ、どうやらエモノの馬をおびえさせる算段らしい。森の中から馬のいななきが聞こえたかと思うと突然暴走をはじめ、それを皆が追いかけている。

 行く手の林道には大木が道をふさいでおり、ふさいでるというか“ただいま工事中、迂回路うかいろはこちらですよ”のサインのように、木の枝と草でカモフラージュして馬が脇道にれるようにしてある。つるで編んだ網を護衛の兵士に投げて足止めし、メインターゲットの箱馬車を引き離す。そうなるともう袋のネズミだ。包囲網を少しずつ狭めてゆき箱馬車を取り囲む。

 御者の兵士がオロオロしている間に馬に飛び乗りハーネスの金具を外して馬ごと走り去る。これはいい馬が手に入った。もちろん兵士も少しは抵抗を見せるが槍と弓矢を構えた山賊に取り囲まれるとあっさりと降参した。

 全面降伏した兵士たちの運命は見るも哀れで、武器よろい、服もズボンも身ぐるみ剥がされ素っ裸になった。ハルヒは勝者の偉そうな態度で、

「武士の情けよ、パンツだけは残しといてあげるわ」

「おいハルヒ、この時代はパンツいてないらしいぞ」

そういえば女性陣のキャーキャーという黄色い叫び声が聞こえる。股間をおさえて逃げまどう兵士たちを女性陣が追い掛け回している。朝比奈さんあなたみたいな貞淑ていしゅくなレディまでがなにやってんですか。

「おいハルヒ、まさかと思うが兵士を天ぷらにして食ったりするなよ」

「セミじゃあるまいし分かってるわよ」

「あとな、人質は騎士だけにしとけ。騎士は養育と装備に大金かかってるから身代金も高い」

「へー、よく知ってんじゃん」

どう見ても犯罪教唆はんざいきょうさなのだが、なんでそんなことを知ってるんでしょうかね俺。


 兵士たちは自分たちの給料を運んでいたらしく箱馬車の荷物は金の入った袋だけだった。度重なる強盗のせいで宝石とか武器なんかは運んでいなかったらしい。

「おい金貨だぞ、クラウンだぞ」

俺は修道士らしからぬ守銭奴しゅせんどとなり、ほぅら神様からのお恵みだよ的な満面の笑みで、バラ色の背景を背負いながら金貨を鷲掴わしづかみにしてばらいた。山賊団が我先にと争ってそれを拾っている。おーい老人福祉と子供手当てが先だぞ。

 ちなみにこの時代のクラウンってのは一枚が五シリング(六十ペンス)、当時の生活水準からいうと日本円でだいたい十八万円だ。俺の日当が一ペニー、三千円程度だったことを考えると一つかみでもあれば遊んで暮らせる金である。

 その日はまだ陽も高いのにもかかわらず山賊団の酒盛りパーティとなり、荷台一杯のパンを買い、樽でエールを買い込み、豚の丸焼きの香ばしい匂いが森中に広がって皆がゴクリとツバを飲み込む音がコーラスのように聞こえた。大金を取られた領主様も地元の商店街に経済効果があったと思えばお喜びになるに違いない。

 人質に取られた兵士たちも今では綱を解かれてなぜか皆と一緒に酒を飲んで笑っている。いいのかおっさん、帰ったらしぼられるぞ。長門、そう嬉しそうにムシャムシャ食わんと少しは良心が痛む感じで食ってくれ。いや胃が痛む感じじゃなくて。

 ハルヒはエールのさかずきかかげ、

「諸君、今日の働きは実に見事だったわ。これを足がかりにして一気に本陣に切り込むわよ。明日の領地は我らのもの、我がSOS山賊団に栄光あれ!」

俺達がアウッ! アウッ! アウッ! とこぶしかかげると、ハルヒは、んぐっ! んぐっ! んぐっ! とのどを動かしてエールを一気に飲み干した。ああ、心配しなくてもこのエールってやつはアルコール度は低い。水で薄めてあるしな。


 酔っ払ったハルヒと山賊たちが輪になって踊り始めたので、俺はそれを眺めながらき火のそばに座ってチビチビと妙に水っぽいエールを飲んでいた。疲れた顔の古泉が向かいに座り、話し出すタイミングを計るようにチラチラと俺の方を見ているので俺が口火を切ってやった。

「ところで、なんで山賊なんかはじめちまったんだ古泉」

「話せば長いですよ」

「聞こうじゃないか」

「ワンクールくらいかかりますよ」

「一期でも二期でもかまわんさ」

酒も入ったことだし、古泉お得意の長々とした講談もいいさかなだ。

「そうですね、時間移動技術の事故からお話したほうがいいでしょう。事の発端は八百年後、そのとき何かが起こった ── 」

ま、またそれか。俺は長門に手招きしてかたわらに呼んだ。こういう話を聞くのは好きに違いない。


 三人がこの時代に落ちてきたのは、実時間にして俺より半年ほど後のことらしい。ここからは古泉の一人語りである。


 まったく、TFEIというものは怖い存在だ、と古泉は思った。まさか本当にタイムマシンを完成させてしまうとは。古泉の機関は一応インテリジェンスを標榜ひょうぼうしてはいるものの、物理学や量子論に特化しているわけではなく、時間移動にからんだ学術理論を知っている程度にすぎない。未来人組織とはなんら取引がないため情報提供すらしてもらえず、時間移動技術は、機関ではそのほとんどが謎として扱われているのである。


 タイムマシンの実験は二日目を迎えていた。長門が作ったタイムマシンは一風変わっていて、古泉が知っているSFに出てくるようなものとは違っていた。二つのブラックホールとゼンマイが動力の時計という、いたってシンプルな構造だった。部屋の照明以外はまったく電力を使っていない。経理担当の俺としては財政を圧迫せず一安心である。


(あー、古泉、もうちょっと端折はしょってもらっていいか。絵になりそうな部分だけで)


 そういえば古泉も空腹を感じていた。当日の朝に食パンの買い置きがないことに気づきプリンしか食べられなかったのが要因だとしたらとんだ買い物ミスにちがいない。冷蔵庫にあったチョコレートケーキを食べてもよかったのだが胃が持たれそうなので実行を断念したのだ。ハルヒがトンカツ弁当を頼むと言い出したときには、ついつい、それでは僕もと手を挙げて言いそうになった。しかし皆の前でトンカツ弁当が食いたいなどと公言しなくてよかった、と感じた。それでも、事の発端から早半年が経ち、トンカツという語彙ごいから想起される映像が記憶からかすんでしまうほどに、あのジューシーな味覚とクリスピーな舌触りは思い出そうとしても今となっては一枚のセピアな写真となってち果てていく。今生こんじょうの別れになるやもしれず古泉は名残を惜しんだ。時空の果てに去っていくあの匂いを、今しも消えていこうとする肉汁を、僕はいったい、生きて再びトンカツを口にすることができるのだろうかと。


(分かったから。トンカツに対する熱き思いのたけはもういいから)


 いつものパシリである俺が自ら食料調達を買って出るとは、やはり経理担当というものはいいものだ。いくら福利厚生費ふくりこうせいひを使おうが帳簿上はどうにでもなる(ってなにを言わせんだよ業務上横領ぎょうむじょうおうりょうみたいになってんじゃん)。


 俺がハカセくんを連れて実験室を出た後、長門は大きなアナログ時計を操作していた。見るかぎりこのタイムマシンには操作盤らしきものはなさそうだと古泉は思ったりもしたのだが、測定機器にはわりと高度なものが持ち込まれている。加速度センサーという名前で偽装してある重力子センサー、時間移動後の分子構造の乱れを観察できるX線顕微鏡、そのほか地磁気を相殺そうさいできる磁力線測定器、ニュートリノ検出器などなど。大きさはそれぞれブリーフケース一個分程度である。俺には秘密だが、機関配下の流通を駆使くしして入手したものだった(そうだったんかー)。


「あ~早くタイムマシン完成しないもんかしらねえ」

ハルヒはパイプ椅子にふんぞり返っている。なにを言い出すんだ、頼むからあんまり願望めいた無茶振りはしないでくれと長門以下三名がハルヒにとがめるような視線を向けた。まったく、困ったものです。


 それまでコツコツと回っていた銀河時計がふつと止まった。測定器の数値を読んでいた長門は手を止め、数秒間考えるような仕草をし、立ち上がって時計の動力機構のほうへ歩いていこうとした。

「有希……それいったい何?」

ハルヒが凝視ぎょうしする長門の足元に、丸い輪のような光が映っている。古泉が朝比奈さんに向かって、これはなにか特別な呪文でしょうかと耳打ちしたが、長門自身も首をかしげていた。

「……これは、わたしではない」

丸い輪の内側に、紫色の光を放つ奇妙な文字らしいものが踊り始めた。その文字をじっと読んでいた長門が突然叫んだ。

「全員、退避」

古泉は反射的に後ずさった。長門の足元を回っていたサークル文字はやがて垂直に立ち上がり、長門の体全体を包む円筒に形を変えた。紫色だった円筒の色が少しずつ白く、さらに光を増してゆき部屋全体がフラッシュをいたようなまばゆい光に包まれた。

 長門をおおっていた光の円筒は徐々に細くなってゆき、ボリュームを下げるように光量も小さくなっていった。円筒が一本の蛍光灯のようになり、さらに細くなり、飛散するように消えていった。最初から最後まで何の音もせず、古泉が聞いたのは、問題ない、とささやくような長門の声だけだった。


 忽然こつぜんと消えた長門を目の前にしてハルヒはパイプ椅子をひっくり返して立ち上がり、長門が立っていた足元の床を触ってはこすり、隠された落とし戸を探すかのようにカーペットの断片をめくっている。異常事態を察した古泉はスマホを取り出しマイクをおおうようにして機関に電話をかけた。

 朝比奈さんが慌てて壁にかけてある外線電話を取った。電話の相手は俺である。

「もしもしキョンくん、早く戻ってきて! 長門さんが……」

『なにがあったんですか朝比奈さん、長門になにがあったんです!?』

朝比奈さんは手から電話を取り落とした。止まっていた銀河時計がゆっくりと、まるで誰かが動かしているかのようにゆっくりと、逆に回り始めたのだ。

 時計は大きな音を立ててガクガクと振動を始め、部屋の中にあるものを揺らし始めた。

「お二人とも、部屋の外に出ましょう」

古泉が言うのも耳に入らず、ハルヒは呆然と逆回転する時計を眺めていた。これはなにか超常現象的な世界をひっくり返す一大事に違いない、というハルヒのいつもの習性で、恐怖に歯をカタカタと鳴らしながら同時に目をキラキラさせるという芸当をやってのけている。

 銀河の星たちは少しずつ回る速度を上げていった。古泉がハルヒの腕を掴んだ。朝比奈さんは床に落ちた受話器を取り上げようとした。次の瞬間、部屋全体のパズルのピースがバラバラに分解するかのような雪崩なだれが起きた。銀河時計のパーツ、ステンレス製の柵、測定機器、パイプ椅子、折りたたみの長机、床に貼られている正方形のカーペットの断片が一気にくずれ落ちてゆく。朝比奈さんが恐怖の叫び声を上げた。

 古泉は見た。落下していく足元のはるかかなた、漆黒の空間に宇宙の深淵しんえんがあった。

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