六章

 市場の一角に古書屋が店を出していた。長いテーブルをいくつも並べ中古品らしい巻物や革表紙の本を山のように積み上げている。目の色を変えたユキリンは俺が呼び止めるのも構わず颯爽さっそうと物色しはじめた。やっぱり長門は長門なんだなと俺は苦笑しつつ荷車を停めた。

 並んでいる古本のほとんどはアラビアとかペルシア地方から来たものらしく、俺には読めなかった。俺たちの時代だと中東はまだ発展途上って感じだが、ここのペルシャとかエジプトとか学問のメッカだったんだよな。たまにラテン語のものがあって単語だけなら俺にも少しは読める。残念ながら日本語や漢字の巻物はなかったが。

「ユキ、なにかいい本あったか」

「わりと」

あやしげなケルト魔道書や数百年前から伝わるアラビア科学本を両腕に抱きかかえるようにして買い漁っている。値段はあってないようなもので、破れてたりちょっとばかし汚れていても店主の言い値で買っていた。なんだかコミケで買い漁る女子を彷彿ほうふつとさせなくもないが、やっぱ金のかけ方がちがうよな。


 ユキリンが精算を済ませているとき、なにげに目に留まった一冊の薄い本があった。薄いつっても薄い本じゃないぞ、確かに十六ページ程度の薄い本なんだが。羊皮紙の薄い本の表紙に見覚えのある記号が描かれてあったのだ。忘れもしない、俺が七夕の夜に肉体労働を強いられたハルヒの宇宙語だ。見本紙はないワンオフらしく帯で封がしてあった。これじゃなんの本かわかんねーじゃん。

「おっさん、これいくら?」

「五シリング」

ご、五シリングって豚二頭買える値段だぞヲイ。二頭ありゃ一家族が楽に冬を越せる肉だぞ。ぼったくりにもほどがある。

「ちょっと高すぎねえ? それに中身分からないだろ」

「さあな、そいつぁはるばるインドの山奥にある高貴な寺院のさる偉いお坊さんが数世紀に渡って書いたいわくつきの古書なんでな」

「だから何の本なんだよ」猿が書いたにしちゃべらぼーじゃねえか。

「えーっとな、どこか東の果ての女の子が憂鬱になって世界を再創造する本」

おっさんテキトーに考えただろそれ。

「これ、欲しい」

後ろでやり取りを聞いていたらしいユキリンの声がしておっさんに言った。

「お嬢ちゃんにはかなわねえなー、いつもまとめて在庫買ってもらってるしなあ。持ってけタダ!」

「ありがとう」

俺には豚をふっかけといてユキリンだとタダかよ。やってらんねえ。


 古巻物と本を荷車に乗せ、ユキリンを荷台の後ろに腰掛けさせてロバに引かせた。ふり返るともう本の虫になっている。

 おっさんから買い取った薄い本の帯を切って開いてみると、なんだか見たこともない文字と記号がつらつらと書かれている。挿絵には二つのラッパの細い口を合わせたような図が描かれていた。

「これなにが書いてあるか分かるか」

俺は挿絵を見せた。ユキリンは考える風に首をかしげ、薄い本の頭からページをめくっていたが、

「アラビア文字とアラビア数字で書かれている。でも意味は分からない。……空間、宇宙、時間と読める」

幾何学とか宇宙論とかそういうたぐいか。一ページ目に著者のサインらしいものが書いてあって、

「ユキ、ナガト」

「なんつった今!?」

「これを書いた数学者の名前がユキ・ナガト」

鍵だ、これが鍵なのだ。どこかにヒントを残してくれているとかすかな希望を胸に延々と探してきたが、これがそうだったのか。ありがとう長門。もう少し分かりやすい場所に置いといてくれたら助かったのだが。

「すまんがユキ、この中身を読んで理解してもらえないか。何日かかってもかまわん」

「分かった。アラビア語の辞書で翻訳してみる」


 ユキリンは自分が買ってきた古書を放り出して、ナガトという名の数学者が書いたという薄い本を熱心に翻訳していた。

 読んでいてふとなにかを思いついたらしく、おもむろに地下室に降りてゆき、俺も後をついていった。部屋の真ん中にある大きなテーブルを片付けていた。ユキリンがいつになく真剣な表情をしていたので俺も無言で手伝った。

 重たいテーブルを引きずって部屋の隅に追いやると、床に敷いてある石を剥がし始めた。石といっても石畳のような切り出したやつではなく、丸く平たい石を敷き詰めて床にしてあるのだが、その下からなにか大きな板のようなものが現れた。

「こ、これってもしかして」

「そう。ご禁制のペンタグラム」

ユキリンは口に指を当ててナイショよというゼスチャーをした。そういや魔術はご禁制だったよな。これ見つかると魔女の疑いで火炙ひあぶりで死刑になっちまうから隠してあったんだ。俺は藁箒わらぼうきでペンタグラムに積もった砂とホコリを払った。覆ってある石を全部剥がすと直径が二メートルくらいはある。

 それから薬品のストックを棚から取り出し、フラスコを出してきて火を灯した。どうやら今度は飲むための薬ではなくて本物の金を作る錬金術らしく、ありとあらゆる植物や動物、鉱物の欠片かけらなんかを投入して、モクモクと白い煙、黒い煙、カラフルに色が変わる虹色の煙が部屋いっぱいに立ち込めた。

 煙の中に絶世の美女が見えたりハリウッド特殊撮影の魑魅魍魎ちみもうりょうが見えたりしはじめ……はぁはぁ……ユキリン俺なんだか幻覚が見えてきたんですが。

「血、あなたの血を少し分けて」

ドラキュラ伯爵ですか、いいですともお好きなだけ飲んでください。首筋にかっぷりどうぞ、といくかと思ったが、ユキリンは、いい? いくわよ? そーれという感じで俺の指先に針をプスと刺して血が垂れ、俺は一気に正気に戻った。

「痛え! 出血だおい大量出血だぞユキ……なんだか目がかすんできた俺もうだめ死ぬ。後のことは頼むわ……」

「……」

ユキリンは困った感じに笑い俺の血をフラスコに一滴垂らした。するとその瞬間フラスコの中の液体が光りはじめ、白い煙の隙間から青白い光が見え隠れしている。ユキリンは俺の指先をなめめて、これで大丈夫という感じに微笑びしょうした。あ、ありがとよ。

「完成した。少し下がってて」

俺はペンタグラムからなるべく離れるようにして棚の影に隠れた。

 ユキリンは厚い皮の手袋でフラスコの口を掴み、ペンタグラムの前に立って呪文を唱え始めた。いつもより詠唱が早い。魔術の儀式を一人でやらせて大丈夫だろうか。

 呪文が終わると突然ペンタグラムに向かってフラスコを叩きつけた。甲高いガラスがつぶれる音とコントラバスをのこで引いたような地響きがした。ペンタグラムのまわりに描かれている記号が青白く光っている。

「大丈夫かユキ、成功したのか」

「手順どおりにやったはず。でも、なにも起きない」

「本当はこの後どうなるんだ?」

「なにかが開く……はず」

ユキリンは考え込んでいる。一応なにかの反応でペンタグラムが光ってるわけだから途中までは合ってるぽいな。

「いつもやってる錬金とは違うのか」

「薬の調合には、元素を混ぜ合わせる力に熱を使っている。こういった儀式ではペンタグラムで別の力を呼び寄せる」

ユキリンは薄い本を最初からめくり直して読みなおしていた。すると今までどこに挟んであったのか、ハラリと一枚の紙のようなものが落ち、俺が拾おうとするとユキリンが拾った。どうやらしおりのようだが、俺が知っているいつもの記号と違う。

「錬金の記号が書かれている。太陽と月と金星、それからペンタグラム」

太陽と月と金星を表す記号が微妙に傾いた図になっていて、星の形をしたペンタグラムがいちばん下に描かれている。ユキリンはしばらく考え込んでいたが、

「これは特定の時間を表している、と思う」

「裏にも何か書いてあるな」

「アラビア語で、扉を開けよ、と書いてある」

鍵を集めよ、じゃないのか。あのときとはだいぶ状況が違うが、なぜかこの鍵は俺が持っているような気がした。俺はふと思い立ち、

「扉だな、ちょっと待ってろ」

部屋のドアを開けて階段を駆け上がり店の外に出た。

「おいトニー、金槌かなづち借りるぞ」

谷口がなにごとだと叫ぶのも構わず俺はトニーんちの倉庫にある大きなスレッジハンマー、鍛冶屋が使うやつな、あれを持ちだして荷車の荷台と車輪をぶっ壊した。ドアだけになったところをえいやと持ち上げ、横にして店のドアをくぐり抜けて地下室に持ち込んだ。

「これだ、これが扉のはずだ」

ユキリンは荷車が元はドアだったとは思わなかったらしくこれはいったい何だろうかと首をかしげていた。俺がドアをペンタグラムの真ん中に置こうとすると、

「時間の指定がある。金星のある方向にドアを向けて」

なるほどな。

 そしてドアを置くと、ユキリンはしおりを持ってきてペタリと貼り付けた。その瞬間、ドアのふちから勢いよく空気が吸い込まれていくのが分かった。ドアの表面がパリパリと音を立てて白く凍り始めしもが張り付いた。俺は慌てて離れた。ドアがペンタグラムごとガタガタとれ始めた。

「いったい……何が起こってるんだ」

「わたしにも分からない」

ドアがガンガンとノックされるのが聞こえ、俺とユキリンはホラー映画を見たような表情で真っ青になった。二度目にドンドンとノックの音がしたとき、なんだか切羽詰せっぱつまっているような、よくトイレの前で俺が叩くような調子だったので皮の手袋をしてノブを回して押した。部屋の空気が一気に吸い込まれ、その向こうにあったものは……真っ暗闇、あのとき俺が見たなにもない宇宙空間がそこにあった。そしてドアの向こう側に長門有希がノブにしがみついている。

「長門か! おい大丈夫か!」

長門は吸いだされて流れる空気にあらがっていた。俺は長門の手首をつかみドアのこちら側に引き込んだ。間一髪かんいっぱつペンタグラムの上に倒れこんだ。長門は俺の腕の中で宇宙の深淵しんえんに向かって詠唱し、暗黒の入り口はゆっくりと消え、煙もペンタグラムの光も消えて部屋の一部を取り戻した。


 ユキリンはこれはいったい誰なのと恐怖に目を丸くしていた。俺は立ち上がって長門を助け起こし、そしてユキリンと長門有希を交互に見つめてパクパクと言葉にならない悲痛ななにかを訴えようとしていた。


 そうなのだ。こうなることは分かっていた。ユキリンと長門有希は別人で、俺はユキリンを残して未来へ帰らなければならない。俺は未来人、長門有希とは恋愛関係にあり、そして俺が所属するSOS団は未来に存在しているのだ。

 ドアと共に宇宙の深淵しんえんから降ってきて降り立ったこの場所で、ひもじい思いをしたり痛い思いをしたり、頭をったり祈ったり、その果てにようやく会えたのがこのユキリンだった。かたや、台風の進路を変えたり台風が通りすぎた後の掃除をしたり、異国に飛ばされたり、長門有希とは人生の長い時間を共に過ごしてきた、今の俺にとっては家族以上の存在だ。

 どちらかを選べ? 長門有希に決っているじゃないか。だがこんな悲しいパラドックスはおとぎ話にも聞いたことがない。浦島太郎や不思議の国のアリスは愛する誰かを残して戻ってきたりはしなかった。

 数カ月ぶりの感動の再会なのに俺は長門を抱きしめることもできず、オロオロと二人の長門を交互に見つめてなぜかポロポロと涙を流した。

 そんな俺の気持ちが伝わったのか長門は、

「……大丈夫。この子は、わたしの記憶を除いて再現された人格のサブセット」

それがどういう意味なのかは理解不能だったが、長門はユキリンに向かって、

「……融合して」

「あなたは誰?」

「……あなたが召喚しょうかんした数学者、長門有希」

「あ、あなたがユキ・ナガトさん? わたしの親類?」

「……そう、似たような存在」

長門が両手を出すとユキリンも両手を出し、二人は手を合わせた。

「……目を閉じて、一緒に唱えて」

「分かった」

長い長いラテン語でもアラビア語でも日本語でもない呪文を唱え始めた。やがて二人はひたいを重ね、まるで記憶を書き写すかのように唇が動いている。長門が目を開けるとユキリンはじっと口を閉じ、二人は白い光のまゆに包まれた。

 まゆの中で羽化するように白い光が少しずつ消えてゆくと、そこには長門有希だけが残った。長門はふつと目を閉じるとふらりとその場に倒れ、俺は慌てて腕を支えた。

「おい長門、大丈夫か、今救急車を」呼べるわけないのに動転してなに口走ってんだろね俺は。

 耳を寄せてみると息はあるようだが、どうしよう喜緑さんを呼ぶか、呼ぶってどうやってだ? だいぶ前に喜緑さんにもらった長門用の緊急用の薬のことを思い出して、ええいちくしょう、あれは上着と一緒に強盗に奪われたんだった。

「……」

「気がついたか長門」

長い沈黙の後にパチリと目を開け、ボソリとつぶやく。

「……なんという神シナリオ」

シナリオってなんだ? 長門は呆然と宙に視線をさまよわせ、

「……愛しあう人間が互いのアイデンテティを固定化出来ずジレンマにおちいり、それでも相手を傷つけまいと自律しようとするその懸命さ、その一途いちずさに感動した」

「よくは分からんが、相変わらず理屈っぽいところを見ると大丈夫そうだな」

「……量子情報の融合に資源を使い果たしたから、人格は後回し。今、記憶の整合を取っている」

「ユキリナはどうなったんだ、消えちまったのか」

「わたしはここにいる」

「え? じゃあ長門はどうなったんだ?」

「……わたしもここにいる」

このインターフェイスの中に二人分突っ込んだのか。二重人格かよ、ややこしい。

「あなたはサラセンの人?」

「……違う。わたしは極東アジアの日本人」

「それはどこ?」

「……ここから東方へ約五千九百マイル」

「それは遠い……歩いていけない。どんな文化なの?」

「……新しいものと古いものがうまく共存した好例。本は近年減る傾向にあるが漫画やアニメは多い。ユニーク」

「わたしも行ってみたい」

「……わたしと一緒に帰れば行ける」

それからブツブツと一人二役を演じる長門の独り言が続き、聞き耳をたてていると、どうやら俺がかっこつけて歌を歌ったとか彼は思ったよりウブだったとか、俺でも赤面しそうな女子生徒同士の色恋ネタになっていて、たぶん谷口が聞いたらユキはとうとうあっちの世界の住民になっちまったぞとなげきそうな勢いだった。


 その日の晩飯は長門が作ってくれた。鍋に向かって日本語ではじめチョロチョロを唱え、なんと出来上がったのは米のおかゆだった。

「白米だ! 長門! 白米だぜおい!」

もう半年ぶりくらいに食う白い米のあの独特の匂いに涙咽なみだむせぶ俺だった。

「白米ってなに?」

「……イネ科イネ属。ラテン名オリザ。麦のような穂ができるが花の先についているノギは長くない。彼の生まれ故郷では主食とされる」

「これはオートミールみたいなもの?」

「……水分の少ないインド米だからおかゆにしかならなかった」

今のは俺じゃなくてユキリナと長門の会話だが、いいんだよインド米だろうがタイ米だろうが米はアジア人の食材だ。麦とは違うのだよ麦とは。

「米ってのはだなあユキリナ、日本人のココロのふるさとなのさ。俺はこれを食ってはじめて一日が始まる」

ユキリンは軽くうなずいた。いや、今のは長門がうなずいたのか。

 さすがに未来から持ち込むわけにもいかんので、長門がどこからかもらってきたのは原種の米に近く、あんまり白くはないがスプーンですするとほんのりと甘いデンプンの味がした。ああ、ようやく生きた心地がする。こうなると梅干しとか漬物が欲しくなってくるが、それは贅沢ぜいたくというものか。俺は岩塩がんえんを砕いておかゆに混ぜながら噛みしめた。


 長門はスプーンですくっていきなり口に入れたものだから火傷したらしく、口をおさえて涙目になっている。今のはユキリンか。

「大丈夫かユキリナ、熱いから気をつけてな」

「うん」

「ところで長門、実験中になにがあったんだ? 部屋の中が真っ暗闇の宇宙みたいになってたが」

「……わたしは時間移動技術の実験中に突然召喚しょうかんされた。その後何が起きたのかは分からない。召喚しょうかんする時間の指定がずれていたと思われる」

微妙にややこしいが、俺とユキリンがここから長門を呼んだとき、長門はまだ実験の最中だった。つまり、本来なら実験後の長門を呼ばないといけなかったわけだ。事故が起こらないと俺はこの時代に来れない。そうなると長門を召喚しょうかんできなくなり因果関係が崩れることになる。いや待て、召喚しょうかんしたから事故が起こったんじゃあるまいか。とすると事故を起こした要因は俺とユキリンが作ったってことになるなのか。鶏が先かフライドチキンが先か、うーむなんか頭痛くなってきた。

「ユキリナはこの時代の人間なのか」

「そう……だけど?」

「……そう。この子はあなたが意図せず次元転移などした場合、エマージェンシーモードの分身として発生するようになっている。あなた自身にコードが書かれている」

よく分からんが、緊急用のサポートってことか。つまり長門自身が作ったってことだな。よかった。長門が言うには、一度ハルヒと共にこの世から消えてしまったときに予防策として仕込んでおいた、今回はそれが発動したのだそうだ。

 ユキリンは意味がわからないというふうに首をかしげていたが、長門はうなずいて、

「……あなたはわたし、わたしはあなた。心配しなくてもいい」

俺も長門とユキリンの仕草が微妙に違うのが少しだけ分かってきた。長門はじっと俺と見つめ、

「……心配かけてすまない、わたしの不手際。あらかじめ伝えておくべきだった」

「そんなことはないさ。こんな身内もいない時代で孤独に生きていけと言われるよりずっといい」

そうだよな。人間ってのは物理世界に生きて生活してるから、同じ格好をした中身の違う別人に遭遇そうぐうするとパニックになってしまうんだ。時間移動したり異世界に飛んだりするとそのジレンマに悩まされる。たぶん朝比奈さんも同じジレンマを抱えているのだろう。

「……そう。人間は、元来曖昧であるはずの個体の境界線を明確に区別し、量子化しようと試みる。同位体の存在によってその概念が大きく崩れてしまう」

「長門や情報統合思念体はそうじゃないのか」

「……情報統合思念体における個体とは、情報の結節点けっせつてんにすぎない。わたしや朝倉涼子、喜緑江美里のような個人が点とすると、点と点の間を多元的な情報の糸で埋めているようなもの」

宇宙論になると饒舌じょうぜつになる長門を見ていて、ああ、やっぱり俺の長門が戻ってきたんだとしみじみと感じた。

「俺には少し難しいわ」

「わたしは、人であるあなたの概念に準拠じゅんきょしたい。同時に、どの世界のあなたでも受け入れたいとも思っている」

つまり俺は、もっと寛容かんようにならなくてはならないのだろう。いろんな時代のいろんな世界にいる俺の中から、長門がどれを選んだとしてもそれは喜ばなくてはならない。いや、やっぱ少し寂しいか。

 それから長門は真顔になって、

「……でも、今ここにいるわたしは目の前にいるあなたが好き」

「わ、わたしも好き……」

ユキリンは目を合わせられない感じに少しだけうつむいてから言った。あ、ありがとう。お、俺も好きであります。二人から面と向かって告られて幸せなのか俺も赤面している。

 長門が言うには、俺という存在には特別な情報が書き込まれていて、この長門によるオリジナルの署名がされているらしい。どの時代どの世界に行っても迷子にならないようにという思念体の配慮はいりょだそうだ。


 その夜遅くまで長門と話しているうち、ゆらめくローソクの炎に眠気に誘われ、俺はおやすみを言って屋根裏部屋にもぐり込んだ。やっと念願の恋人様に会えたわけで、これでようやく安心して眠れる。

 明かりを消して麦ワラのベットにもぐり込み、薄っぺらい毛布を被りうとうとしていると部屋のドアがきしむ音がして開いた。獣脂じゅうしランプの光に照らし出された長門だった。いつもの白いネグリジェを着て、暖かくれるオレンジ色の光が長門の頬を照らしていた。どうもユキリンの表情ではない気がする。

「どうした、なにかあったのか?」

「……なんでもない」

長門はそうつぶやくとテーブルの上にランプをことりと置いて炎を消した。それから毛布をめくってもそもそと俺のベットにもぐり込んできた。あ、あのー長門さん、あなたはいったいなにをしておいでなのでしょうか。

「あ、あの、長門」

「……なに」

暗闇の中で隣にすり寄ってきた長門の柔らかい髪が俺の鼻先をくすぐって、すごくいい感じなんですが。なんだか急に心拍数が上昇してきたぞ。

「気持ちは嬉しいんだがこういうのは……その、ちょっと困ったことになるんだが」

「……問題ない」

長門の細い手が俺のうなじを探り当て、指先がちょんと後頭部に触れた。

「んが……」

それはなにか鎮静作用ちんせいさようのあるメディカル的なものだったのか、ドキドキがだんだんと静まり、やがて俺はそのままゆっくりと意識が遠のいてゆき、水底にゆるやかに沈んでいく木の葉のように深い眠りに落ちた。なるほど、若い健康な男子のことは分かってくれているらしい。

 長門の腕に包まれて俺は夢の中を泳いだ。はるか八百年の未来で二人が仲睦なかむつまじく暮らしていた。そこではなんだか長門が満面の笑みを見せていたような気もするのだが、どんな夢だったのかはおぼろげで思い出せない。雲よりも軽く雪よりも白い、暖かいかすみが広がる世界のどこか遠くで、長門のささやく声が聞こえた。


 ……わたしの……愛しい……人……。


 目が覚めると長門はすでに起きだしているようで俺の隣には温もりだけが残っていた。俺は妙にスッキリ爽快感に充たされた朝を迎え、誰も失うことはなく誰も消えたりはしなかったことに満足していた。

 一階に降りると長門がテーブルの上に朝飯の用意をしている。割烹着かっぽうぎではないが、洋風のエプロンドレスもなかなか似合う。いやまあ、ずっとユキリンが着てたものでなにも変わっていないのだが。

 食卓にはパンと目玉焼き、焼いた分厚いベーコンが皿の上に乗っていて、清く正しい西洋風日本の朝飯という感じだった。

「いい匂いだ。いただきまー、」

パンにかぶりつこうとしたら、スを言い終わらないうちに長門がおごそかに両手を組んで詠唱を始めた。


── 天にまします我らが情報統合思念体よ。願わくば進化の閉塞へいそく状態を脱せられんことを。我らを元の時間平面に戻したまへ。彼をお守りいただいたことに関し、穏健派おんけんはならびに急進派に謝意を表する。アーメン。

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