四章


His ribs are broken. He's dying, isn't he.

He'd be fine. I saw a prophecy this morning.

What kind of the prophecy. If may I, brother.

The Holy ghost told me that he depens on my future.

What do you mean...

I do not know, just be told.

I hope you're right...


「俺は……死んだのか……」

「 ── 」

人影にまぶたを押さえられそのまま眠った。


 目が覚めると俺は毛布をかぶっていた。体中に布を巻かれているようだ。全身が熱っぽく咳が出て横腹に焼け火箸を刺したような痛みが走り顔をしかめた。痛え、やっぱ折れてたのか。首を右に傾けて半分しか開かないズキズキと痛むまぶたを開けて、ようやくそこが部屋の中だと分かった。ぼんやりとしたロウソクの光の向こうに誰かが椅子に座っているのが見える。

「よ……よう」かすれたような声しか出なかったが、そいつは気がついた。

俺に向かってなにか喋ったが、どうやら動くなと言っている。あのときの修道士だった。

「うぇあぁあ」

俺は別に唸っているわけではなくて、ここはどこだと言おうとして英会話が思い出せないだけだ。

「うぇーあー」また繰り返した。俺の顔はそうとうひどいことになっているらしく、修道士は心配するなと頷きながら、半ば同情するように毛布をかけてくれた。

「うぇーあー」あごが痛くて口が開かない。

修道士は俺がなにを言おうとしているのかを少し考え、

「リレジス、ハイス」

やっと通じたが、ハウス? 家は分かる。そのなんとかってのはなんだ。

「チャーチ?」

「ノン、リレジスハイス」

教会ではないらしい。ああそうか、この人は修道士だから修道院か。俺はブツブツとリレジスハウス、リレジスハウスと繰り返した。受験生時代の英単語はそうやって覚えたんだ。


Hey, brother Sans. You've got a visitor. Is this your son?

Yo Casanova! I didn't know you had a son.

Idiots, I never had a son, even wife!


話し声に目が覚めた。仲間の修道士がやって来て三人で英語版の漫才っぽい会話をしていた。どっかで聞いたような気もしなくもない懐かしいセリフをニュアンスだけは理解した。

 修道士その二は湯気の立つ皿を持ってきていた。俺は枕でなんとか上体だけを起こし木のスプーンで熱いおかゆを食わされた。う、うまい。思わずがっついたら修道士はゆっくり食えと言った。体を動かしてみると胴体も腕も頭も包帯でぐるぐる巻きにされているようだった。肋骨を取り巻いている布には硬い板が入っている。

「ありがとう、えーと、サンキューサー」

「ノンノン」

自分は主の下僕にすぎないのでサーと呼ぶなと言った。名前はサンズというらしい。

「ソー、ユーファイトウィズダディ?」

親父と喧嘩けんかでもしたんか、と聞いてるらしいのだが、ここまでボコボコにする親はいませんわな。実は強盗にいましてね。それは災難だったなあ。

 この時期になると仕事を求めて領地の外から人が集まって来て、それを狙ってくる不逞ふていやからも多く修道院でも頭を痛めているところらしい。まああれだけの傷で生きていただけでもありがたいと思わなくてはな。

 「ゼン、ユー、ランニングアウェイ、ボーイ」

それで、あんちゃん、家出か? いえ違います。どっちかというと家に帰りたいほうなのですが。実は人を探してましてね。財布があれば写真を見せられたのだろうがあいにくと手元になかった。それよりこの時代で写真なんか見せたら歴史がひっくり返るかもしれん。

 探してるのは彼女か? え、ええまあ。美人か? はい、とびきりの美人です。

 もう一人の若い修道士がたしなめて、おっさん修道士は歯の抜けた口を大きく開けてガハハハと笑った。主にお仕えする身だからな、色恋ネタは厳禁なのよ。探すのはゆっくりでもできる、なんにせよ傷をやすこった、ミカーサスカーサ、と修道士サンズはふっとロウソクを消して出て行った。屋根があることがこんなにもありがたいことだとは、改めて感謝しつつ俺は毛布をかぶってまた眠った。


 毎日オートミールのおかゆを食い、薬草の入ったお茶みたいなやつを飲まされ少しずつだが体調は回復していった。肋骨にヒビが入ってるから絶対安静にしてろと言われたがトイレだけは自分で行かせてくれと徹底的に主張した。しかし抵抗むなしくフタ付きのオマルをてがわれただけだった。

 修道士サンズは朝早くから、たぶん夜が明ける前の三時か四時ごろに病室の様子を見に来て、昼間は農作業に出ているようだった。


 夕方の鐘が鳴ってサンズがやってきた。

「ユー、ルック、ファイン」

おかげさまでだいぶ元気です。ところで、と、修道服の袂から俺の腕時計を取り出した。これはいったいなんだ? と世界の神秘を明かせというように俺に聞いた。

「いやーまいったな、これはなんというか」

腕にはめてみると、かなり汚れてはいたがちゃんと動いているようだ。しかしこの時代にこの技術を明かしたりしたら宇宙人とか未来人が過去にやって来ていたなんて記録が残ってしまいかねん。俺はモゴモゴとごまかそうとしたがブラザーサンズはじっと答えを待っていた。

「えーとだな、イッツ、ウォッチ、オブ、ザ、タイム」

「オーゥ、ジーザス!! ホーリーミラクル!!」

そんな練習してきたみたいに驚かなくても。数字と針を見てりゃだいたい分かりそうなもんじゃん。ところがブラザーサンズは突然ひざをついて十字を切り、拝まんばかりにして両手を握り合わせ俺の腕時計を見つめている。まわりにいた修道士たちがいったいなにごとかと集まってきて、サンズがイッツア、レリック!! と再度拝むと世紀の奇跡級のすごいことが起こってる感じにみんなも十字を切って俺を拝み始めた。

「そんなに珍しければ寄贈きぞうしますよ」

「リアリィ!?」

なんでそこだけ日本語が通じるんでしょうか。

 それから俺の腕時計は聖遺物レリックとして修道院の礼拝堂にたてまつられることになったらしい。チクチクと針が動く様子を修道士たちが恍惚こうこつとした表情でいつまでも見守っていた。その後俺にはミスターレリックとかいうあだ名が付いたらしいのだが、似たような名前の手品師が未来にいたな。


 動いても肋骨が痛まなくなり自分の足でトイレに立てるようになって、自分で立ちションできることの幸せをしみじみと実感した。トイレは板に穴が開いているだけで、要は建物から張り出した部屋から川に流す天然の水洗トイレだった。この川の水を下流で飲んだ気がするのだが。

 俺は杖を借りて、ミイラコスプレをしたまま修道院の中を歩きまわった。看護担当の若い修道士はじっとしてなさいと何度も言ったのだが、リハビリには少し歩いたほうがいいんだと主張して外に出てみた。どれくらい寝てたのだろうか、たぶんまだ二週間程度だと思うのだが空気はだいぶ冷たくなってきていて秋深しといったところだ。雨は上がっていて空は晴れていたが、敷地内の地面は濡れたままで泥だらけだった。


 敷地はけっこう広く、小学校のグラウンドくらいはあるだろう。建物の壁はすべて石造りで、河原の丸っこい石とノミで切りだされた四角い石が組み合わされていた。真ん中にいちばん大きな聖堂があり、うちの雑居ビルくらいの面積の二階建てであちこちに小さな出窓がある。一か所だけ三階の塔になっているところがあり、そこには時を告げる鐘が下がっていて、朝早くから鳴らされるので寝ているところを何度も起こされたものだ。

 敷地は石垣で囲まれていた。家畜小屋から出てきた豚やアヒルや鶏なんかがうろうろしていて、年寄りがエサをやり、若い修道士が追い回している。あれがときどきは晩のおかずになるらしい。今は麦の収穫が終わったばかりなのであちこちに麦ワラが散らばっていて、納屋では脱穀だっこくをしているようだ。


「ゴッドサベリー、ミスターレリック」

「ブラザーサンズ、おはよう」

そろそろ病人っぽい生活も終わりにしないとなと思っていた頃、修道士サンズに呼び止められた。体の具合はどうだと聞く。おかげさまでこのとおり、腕をぐるぐると回してみせた。そうか、それはなによりだ。ところで折り入って話がある。なんでしょうか。

 この修道院では傷ついた者や貧しい病人を喜んで受け入れる。だが一定の決まりがあってな、滞在できるのは三十九日と決まっているのだ。治療にそれ以上の期間が必要な場合は、教会が運営する治療院に移ってもらうことになっている。ミスターレリックが来てそろそろ三十日になるので、この先どうするか考えておいてくれ。ということらしい。まだ二週間くらいかと思ってたら丸々一月になるらしい。助けてもらった上に治療までしてもらってタダ飯を食い続けるわけにもいかんしな。


── ここで働くことは無理だろうか

── あかんことはないけど、雇えるんは村んモンだけと決まっとるさかいなあ。そやけど……

── そやけど?

── 修道士見習いになるんやったら話はまた別っちゅうかな。誰かのおでっさんになるんやったらええ

── 修道士になれってことですか

── 見習いは見習いやから、無理に修道士にならんでもええ。たまーに貴族のボンボンを預からさしてもろてるし、キリストさんの徳と学問を教えて、うちはうちでコネができるちゅうメリットもある

── なるほど。そういうものか


 ただし、とブラザーサンズは言い、自分の頭をペンペンと叩いた。おでっさんになるには頭をらないといかんらしい。カッパみたいになった俺の頭を見てゲラゲラと笑いこけるハルヒを想像した。長門も机をバンバン叩いて笑ってくれるだろうか。それはそれで見てみたい気もする。

 オーケー。俺、修道士になるよ。どうせあいつらを探すのもしばらくかかるだろうし、これから冬になるんだとしたら動きまわらないほうが安全だろう。

 サンズは分かった、とうなずいて、院長には話をつけとくと言ってくれた。


 翌朝まだ俺がまどろみの中にいて、そろそろ目覚ましが鳴ってもよさそうなのに一向に鳴らないのは今日が多分日曜日で、妹も二度寝しているかすでに遊びに出かけているかだろう、などと妄想半分、半覚醒はんかくせい状態でいる頃にブラザーサンズがやってきた。ミスターレリック、準備はいいか? と聞かれた。いったい何の準備なのかもう少し説明してもらってもよかったのだが、学生時代に一般会話のレベルまで勉強していなかった自分の語学力が恨まれる。


 お付きの若い修道士から一枚布の白いシーツみたいな服を着せられた。人間ドックなんかで着せられるアレな。それからゴワゴワした紙みたいなやつを渡された。紙にしては腰がありすぎるし引っ張っても破れないし、どっちかというと動物の皮っぽい。そういや紙ってまだ発明されてなさそうだな。

 それにはつらつらとローマ字が書かれていて、アルファベットなのはわかるが知ってる単語が全然ない。英語のような英語じゃないような、だいたい主語がIとかHeとかTheで始まっておらず、とても俺に読める代物しろものではなかった。サンズには暗記して覚えろと言われたので発音を教えてもらいながらペンとインクでカタカナをふり直した。どうやらローマ字を日本語的にそのまま読めばいいらしい。

 何かの書類らしいことは分かるのだが、まさか修道院ご謹製のご利益ツボを買わされるとかバチカン発行全三十巻の百科事典を月賦げっぷで買わされるとかいった勧誘の契約書だったら困るわけで、

「ブラザーサンズ、ワットイズディス? ワット?」

ゴワゴワ紙を指してこれはいったいなんの書類だと聞くと、見習いになるための儀式をやるんでそのセリフが書いてあるのだ、ということらしい。儀式って、今から修道士になるからみんなよろしくねーとあいさつするだけでいいのかと思っていたのだが。とても暗記しきれないのでカンニング用に手と腕にカタカナで書き写しておいた。分からなかったらプロンプターよろしくこっそり教えてもらえばいい。


 薄っぺらい肌着を着たまま病室を出てサンズと連れ立って聖堂まで歩いた。どうやら儀式っぽい作法はすでに始まっているらしく、回廊を歩くときは隣の修道士と歩調を合わせて歩く、のだそうだ。聖堂の入口に立ってここで待てと言われた。聖堂に入ったらセリフ以外は口にするな、指示があるまでなにもするな、と。

 高い天井の聖堂の中はアーチの先がとがったようなコーンヘッズ型になっていた。プンと香をく煙が充満している。壁には何本ものロウソクと油のランプが灯っていて部屋はぼんやりとオレンジ色で充たされている。入り口から祭壇に続く道に赤い絨毯じゅうたんが敷いてあるが、俺が知ってる教会にあるような長いベンチはなかった。

 奥から賛美歌が響いてくる。コーラスの声が硬い壁に反響し空間の大きさを感じさせた。参加メンバーの中にはまだ声変わりしていない見習いもいるようでソプラノが聞こえる。中を覗くと、祭壇を挟んで両側の壁には修道士が三十人ほど並んで立っていた。その上の壁には肖像画がかかっていて、たぶん偉い司教とか歴代の修道士なのだろう。

 祭壇の前に司祭の帽子を被り白い法衣を着た、たぶん修道院のいちばん偉い院長だと思うが、おじいさんが立っている。そこへ粗い布の修道服の上に白い布を着たサンズが真ん中の赤いシートの上を歩いていく。司祭の前で立ち止まり、祭壇に向かって深くおじぎをした。


 サンズが司祭に向かって言う。

「レベレンデ、パードレ。アデストアディエヌム、エクイデム、サークラリス、ポストランス……」

「イントロドゥカートレ」


── 我が父、院長。聖体拝領せいたいはいりょうを望み門戸を叩く者がおります

── よろしい。通しなさい


ここで俺登場。入り口から入ってきてサンズと共に赤い絨毯じゅうたんの上を歩き、祭壇の前に立つ。そこで一礼し、俺はひざをつく。頭を上げたときチラと祭壇を見ると、木の板にはめ込まれた俺の腕時計が神々こうごうしく飾られていて、金細工や宝石でデコレーションされていた。どう見てもデコレーションのほうに金がかかってそうだが、ちょっと見ないうちに豪華になったな。


── わが子よ、なにを望む

── 神の慈悲と修道会への入会を望みます

── 主があなたをお認めになるように。“あなたに新しいおきてを与える。私があなたを愛したようにあなたも他人を愛しなさい。”と主は言われる


俺は丸椅子に座り、院長は銀製のピッチャーに入った水をじょぼじょぼと俺の足にかけて洗い、布でき取る。おおぃ、院長が俺の足にキスをしたぞ。すまねえ、ちゃんと洗っとけばよかったわ。


続いて俺は立ち上がり、院長が俺に修道服を着せながら音階をつけて祈りを唱える。


── 主のすべての所業があなたの古い人格をぬぐい去るように。主があなたに、神の正義と真理とによって形作られた新しい人格を着せてくださるように


修道士の服はワンピースになっていて、背中のところが開くようになっていた。頭から被るように着て背中で靴のようにひもを締める。そして荒縄でベルトのように腰をくくる。次に修道服の上からフードの付いたチュニックを着せられた。そういやこれ、よくファンタジー系RPGに出てくるキャラのコスプレだよな。なんだか急に信仰心が湧いてきたぞ。


 俺はひざをついて祭壇に向かって十字を切る。見上げると、マリア像が俺に向かってやさしく微笑ほほえんでいた。一生とは言いませんが、少なくともこの時代にいる間くらいはあなたに尽くしましょう。インスタント修道士コスプレですいません。……いいのよキョンくん、あなたの気持ちだけで、わたしたちは決して結ばれない運命なのだから……、と言っているのだろうとマリア様に朝比奈さんボイスを被せて妄想している俺である。イテテ長門そう怒るなって。


 院長は続けて、


── ミスターレリックはこれから、ブラザー、ええっと、


はて、まだ名前を決めてなかったな、みたいな顔をして、


── 今後はブラザー、ジョーンスミスと呼ばれるであろう


ま、マジっすか、まーたその名前っすか。洗礼名っていうか、ほとんど戒名かいみょうな気がするんですがね。


── 主よ、私たちは請願せいがんいたします。あなたの僕ジョーンスミスはこの世の嵐と悪魔の誘惑からあなたの元へと避難してまいりました。さまよえる子羊はあなたに見出され、彼はこの世から助け出されました。彼はさらに成長し、あなたからのむくいによって幸福を得られるでしょう


── 我らが主、キリストの聖名のもとに


そして院長と俺は抱擁ほうようし、俺は祭壇に向かっておじぎをする。


 修道士サンズが水とカミソリを持ってきた。俺は院長の前でひざをついた。院長は長い長い呪文を唱え、たぶん髪をることの意味を滔々とうとうと述べているんだと思うが、それからカミソリを水に浸して、俺の頭に十字を切って頭の天辺の髪の毛を少しずつ切り取った。一束切るごとに詠唱し、十字を描くように少しずつ切る。最後にカミソリで毛の根元をる。なんだか頭の天辺が寒くなってきた。頭を触ってみると直径十センチくらいの円形脱毛症みたいになっていて少しヒリヒリする。全部はらず、年を追うごとに少しずつっていくものらしい。


 最後に院長が、主の聖名のもとに、と唱え、全員で祈りを唱えながら退場する。俺とサンズも後をついて聖堂を出た。


「メイザロード、ビーウィズユー」

主とともにあらんことを。ジェダイの弟子になったような気分で聖堂を出て、ブラザーサンズと両方のほっぺたにキスを交わした。っていうかそこ、腐ってる女子、喜んでんじゃないぞ? これは聖職者の神聖なる挨拶あいさつ挨拶あいさつ。ほかの修道士も一人ずつ抱擁ほうようし、祝福のお言葉を頂いた。それより頭がヒリヒリするのが気になってったところを何度もなでた。ハルヒが見たら大爆笑するに違いない。


 ずっと病室に寝泊まりしていた俺は、修道士が寝泊まりしている長屋みたいな宿舎しゅくしゃに広さ四畳半ほどの個室をもらった。小さな明かり取りの窓にベットがひとつ、小さな机と木でできた丸椅子があり、東側の壁に小さな十字架が貼り付けてあった。壁は厚いらしく隣の部屋の衣擦きぬずれすら聞こえない。

 陶器でできた洗面器と水の入ったピッチャーが置いてあり、祈りの前には手を洗うようにと言われた。

「キープクリーン、ブラザージョーン」

「イエス、マスター」

衣服の乱れは心の乱れだ、みたいな学生の頃によく聞かされたような説教をされた。ノミとかシラミとか、皮膚病も多いから衛生には気をつけろということらしい。


 修道士の勉強はジェダイ制度に似ていて一人の師匠が一人の弟子を手取り足取り教えるわけで、つまりサンズが俺の師匠ということになる。見習いは俺以外にもいて、だいたい十四歳くらいからはじめるのがふつうらしい。なかには貴族の次男坊とか富豪ふごう農民の息子なんかもいて、二十代半ばの年長組は俺だけだった。こういう見習い共はだいたい勉強のために来ているやつが多く、必ずしも修道士として一生を過ごすわけではないらしい。全寮制の中高一貫教育みたいなもんだ。勉強を教えてもらって人としての礼儀作法や道徳をしつけてもらい、将来は代官になったり執事になったりすることもある。そのかわり親が数年分の生活費に相当する額を寄付をすることになっている。


 庶民の識字率が低いので修道士は公式文書の代筆を依頼されることが多く、読み書きソロバンができたほうがいいということだった。俺はまずアーベーセーから中学一年生の基礎英語みたいな個人授業を受けた。サンズがラツンラツンと言うのでいったいなんだろうかとしばし考えた挙句、俺が苦労してカナを振っていたアレはどうやらラテン語だったことに気づいた。

 この時代のソロバンとやらは木の板に溝を掘って丸い石を並べるタイプで、原理的には俺が知ってるソロバンと同じらしい。俺はいちおう経済修士の出だし、計算くらい暗算でやれますよと言うと、そりゃすごい、じゃあ修道院の帳簿を手伝ってくれ言われて巻物を広げてみるとこれが完全なローマ数字で、しかもイギリスのお金は十二進法ときている。えーっと十二ペンスが一シリングで、二十シリングが一ポンドで、小銭の種類が四分の一ペニーから四分の三シリングまでてんでバラバラ、八分の六シリングっていくらだよ的な、なんで鋳造ちゅうぞうの時代によって価値が違うんだよ、などなど、俺は中世経済学者のツッコミを入れながらアラビア数字とローマ数字の暗算をやるはめになった。


 修道士コスプレに身を包んだ即席三分でクリスチャンな俺だが、さっそく聖堂での礼拝に参加した。俺が頭をられたときのように、祭壇に院長がいて、両側の壁に修道士たちが並んで歌ったり唱えたりする。

 賛美歌はうろ覚えの歌謡曲みたいにフンフンと口パクの歌ってるふりでなんとかごまかしたが、聖書の一部に節と音階をつけて唱和するやつは巻物を借りて一行ずつ追いながら唱えた。参列している修道士のほとんどは暗唱していた。


 病人だった間はずっとベットの上で聖堂から聞こえてくる賛美歌を聞いていた。たしか一日七回か八回歌っていた気がするのだが、平日には三時間ごとに礼拝があるのらしい。数えてみると、午前三時に叩き起こされ朗読付きの礼拝、六時に祈りと賛美歌絶唱大会、九時に同じことをやり、十時にやっと朝飯、正午ごろに同じ祈りと賛美歌、午後三時に同じもの、そこで晩飯を食うが、延々と修道会のルールについて朗読を聞かされる。日が暮れる頃に少し長い祈りの詠唱が入ったやつをやり、寝る前に今日一日の反省を込めた祈りをしてマリア様の賛美歌を歌う。一日中礼拝をしているようだが、礼拝と礼拝の合間に農作業や飯の用意なんかもある。

 最初は覚えることが多くてわりと忙しい毎日だったが慣れてしまうとなんということもなく、あー、もしかしたらハルヒなんぞに関わるのをやめてここで一生を終わるのも悪くないなーとか魔が差してしまうこともしばしばである。


 修道院には古株の経理担当がいて俺はその手伝いをすることになったのだが、毎日デスクワークが必要なわけではなく月末とか市場に品物を出すときなんかにヘルプで駆り出されるだけである。

 それ以外の日々は修道院にいる動物とたわむれて遊んでいた。豚にエサをやり水を飲ませ、糞を鋤でかき集めて荷車に乗せて肥料置き場に運ぶ。徹底して節制する厨房からはほとんど残飯が出ないので、刈り取られた麦畑や森に豚を連れて行って草やドングリなんかを食わせた。たまにキノコなんかを掘り出して食っているようだが、どうやらこの辺では知られていないトリュフっぽい高級食材らしいのである。

 鶏やアヒルにはよく慕われて心底され、晩飯にもなり俺は心も腹も満たされた。鶏やアヒルを裁くのはさすがに慣れていないので熟練の精肉担当がやってくれた。


 長かった寒い冬も過ぎ、雪解け水に泥だらけになりながら畑に種を蒔いた。日も暖かくなった三月頃には子豚がたくさん生まれた。その中でも俺によくなついていた三匹にそれぞれ名前をつけ、ハルヒ、ミクル、イツキと呼んだ。ハルヒは気性が荒く、あたしより胸でかいなんて腹立つわ的に母親に噛み付いてよく怒られていた。ミクルはあらゆるサイズ的に成長が早いのだがどっちかというと内気で、わたし誰ともお付き合いできないんです、少なくとも豚さんとは……、な感じでほかの子豚からは一線を画している。かたやイツキはというと、お察しの通り子豚です、そう呼んだほうがいいでしょう。おっぱいですか? あなたから先にどうぞ、ええ僕は適度にダイエットを実行中ですから、みたいなあからさまにやせ我慢するタイプだった。

 その子豚たちがまるまる太って大きく成長し、遊び相手に鼻で突進されるのも体力的にそろそろきついなと考えていたところ、サンズがそろそろ市場に出すと言う。子豚たちは荷馬車に乗せられ自分たちが売られてハムやベーコンになる運命であることを知らずにブヒブヒと鼻を鳴らして喜んでいた。俺はなにも知らない無垢むくな子豚たちのために神のご加護の祈りをささげてやり、古いユダヤ民謡を歌ってやった。ある晴れた日のこと~ハルヒが売られていくよー達者でなあ。

 俺が胸に手を当てて子豚たちに別れの歌を歌っているとその辺にいた修道士たちが妙に聞き入っていて、なぜか涙ぐんでいるやつもいる。もちろん日本語なので意味は分からないだろうが、サンズがフンフンと鼻歌でメロディを真似して口ずさんでいた。なにを思ったのか宿舎しゅくしゃに入っていき、ギターを持って出てきた。いや、ギターとはサイズ的に違うな。マンドリンとかウクレレとか、あれに近い気がする。

 サンズはポロロンと弦を鳴らしてみせた。これはリュートと言うんだ、と教えてくれた。ファンタジーゲーに出てくる吟遊詩人が使うやつかな。ギターよりは湿っぽいノスタルジックというか、少し音色が寂しい。

 サンズはさっき俺が歌ったドナドナの節を爪弾いて、それに合わせて俺にもう一度歌えと言った。サンズもノリがいいな。子豚たちはもう荷馬車で運ばれてていなくなっていたが、余韻よいん冷めやらぬ修道士たちのアンコールでジョンとサンズの弾き語りライブとなった。ほかにも旅立ちの日とかあおげばとうとしとか、感涙と鳥肌を誘いそうな別れの歌を歌ってやった。


 ギターすら弾けない俺にサンズはリュートを覚えろと言い、弦の押さえ方を一つずつ習った。習ってもそのうち忘れるだろうし、未来に帰って使い道もないだろうと思いつつコードを覚えた。しかしこの時代で生きていくんだったら、習えることはすべて習っておいたほうがいいし、芸は身を助けるというかいつかきっと役に立つ。学校で習ったことが実社会でなんの役にも立たないなんて卑下ひげしてる奴は、俺に言わせればだな、使い道を考えないお前が悪いんだよ的なことを思えるくらいにまでがっついて覚えた。


 琵琶法師びわほうしをオリコンから追い落とす勢いでリュートをポロポロと弾きつつドナドナを歌っているとなぜか北高時代のことが思い出されて、部室のカーテンを揺らす風に髪をなびかせながらかすかにほほえむ長門や、カーテンを引きちぎる勢いのハルヒや、カーテンの影からこっそりこっちを伺う朝比奈さんや、そこにカーテンを巻きつけて縛った古泉を入れてやってもいいくらいに俺はノスタルジーに浸っていた。

 俺がこの世の無常をしみじみと感じつつ弦を弾いていると、ロウソクの光しかない厨房でブラザーサンズはワインをあおりながら、ブラザージョーン、女のことを考えているんだろう、と聞いた。ええ、実は昔のことを思い出していました。


── 修道士ってほんとに結婚しないんですか?

── 教会法でそういうルールになってはおるがな、わしらは聖人じゃないし迷いもするさ。修道院に来てから四十年になるが、それでも十年に一度は恋に落ちるよ。人を好きになるのは人間の弱さじゃあない。誰しも自分が帰る場所を求めるものだよ。


 自分が帰る場所、か。今思えばこの会話がネタふりだったのかもしれない。もちろん俺はこのままこの時空で一生を終えるつもりはない。だがこのゆったりとした生活のペースにすっかり慣れてしまい、早々そうそう急ぐこともないだろうと、やらねばならん課題をなるべく後回しに後回しにゆるく構えていた。かつて異世界に長門を待たせていたことがあったが、あのときのことを思い出して、もしかしたらこの時空でもどこかで俺のことをひたすら待ってるのかもしれんなあ、などと遠くに思いをせた。

 俺にはここがどこなのか、いつなのかさえ分からない異郷いきょうの土地だが、どこかの海に出れば港があって船が出ているだろう。そこから船を乗り継いでいけばインドか中国あたりまでは行けるはずだ。

 そこから先どうなるかは分からんが、運悪く俺がこの時間平面で一生を終えることになるのだとしてもだな、せめて自分の国へ帰る努力をしてみるべきじゃないか?

「そうだな。故郷へ帰ろう。日本へな」


 それから数日後のこと、こないだの湖でニジマスを釣っていると湖面を漂うもやの中にオレンジ色の玉が現れた。喜緑さんが今度は修道院とは逆の方角を指差して、ニッコリ微笑ほほえんでふつと消えた。日本はどっちですかと聞こうと思ったのだが、もしかしてそっちに行けってことなのだろうか。

 サンズにその話をすると腕組みをしてしばらく考え込み、それはなブラザージョーン、たぶんご神託しんたくだよ、と言った。


── あの湖にはニムエという名の女の精霊がんでいるという伝説があってな、実はブラザージョーンがここに来る前にわしも見たのだよ。ジパングを助けてやってくれ、とな

── そうだったんですか。俺が見たのは知り合いの姿だったんですが

── あの精霊は見る人によって姿が変わるという話だ

── ブラザーは誰に見えたんです?

── 四十年前に生き別れた妹だった

── 妹さんがいたんですか

── ああ。わしは稼業が嫌で実家を飛び出したのよ。一度だけ妹の結婚式に帰ったが親類一同からアウトロー呼ばわりされてな。それっきりよ。まあ修道士の生活とあんまり変わらんのだがな。ガハハハ

── 帰りたくなったりしないんですか

── たまに思い出すこともあるが、この歳になりゃ、むしろ今はここが実家さ。なんだブラザー、帰りたくなったのか

── ええまあ。実は長らく待たせてる人がいましてね

── そうか。じゃあ会えるうちに帰ったほうがいい。わしのようにどうしようもなくなる前にな


 それからブラザーサンズは院長には話しておいてやる、と言った。俺は旅支度をはじめ、ほとんどなにもないが身の回りのものを処分した。荷車だけは持って行ったほうがいいような気がして引き取ることにした。


── ブラザージョーンスミス、元気でな

── いろいろありがとうございます、ファーザー院長。修道院に長寿と繁栄を


院長はながらく修道院で時を刻んだ俺の腕時計を持ってきて、俺の腕にはめた。


── ファーザー、それは寄贈きぞうしたものだからここに置いといてください

── いやいや、このような高貴な聖遺物せいいぶつをわしらが預かるのは恐れ多いことじゃ。ブラザーが自分の国に帰るなら持って帰ったほうが主も喜ぶじゃろうて

── はあ。そういうもんでしょうか

── 達者でな。神のご加護を


俺が見習いになったときと同じように院長と抱擁ほうようした。世話になったみんなともお別れの挨拶あいさつをした。あまり惜別せきべつの感情を表さない静かな送別だった。最後にブラザーサンズは修道士が護身用に使う長い杖と、革のサンダルと、そしてこっそり一本のナイフをくれた。もらってばかりでいいんだろうか。このお礼はいつか必ず。

 修道士全員に見送られつつ荷車を押しながら俺は門を出た。長いようで短い隠遁いんとん生活だった。


 雨にも負けず風にも負けず、吹雪にも負けない丈夫な心はすでに習得していて、たまには怒るけど長門や朝比奈さんの前ではけして怒鳴ったりせず、いつも静かにニヤついている俺が、ほんのひとかけのパンをかじって口をうるおす程度のワインを飲み、まだ肌寒い季節の風が吹く中をどこへという宛もなく旅に出た。さういうものにはあんまりなりたくはなかったのだが。

 食欲旺盛おうせいな子供たちになにを食わせようかと気に病んでいる北国の農夫の表情をしつつギシギシと荷車を押し、ときおり立ち止まってたたずんではため息をつき、また押し続けるを繰り返した。というかサンズにもらった杖がまったく役に立っていないのはこの重たい荷車のせいなのだが。いっそのこと捨ててしまおうかと何度も思いつつも、雨が降れば屋根代わりにし、晴れれば荷台の上で青天井を見上げながらベットにしていると、妙に親近感が湧いてくるのはたぶん、昔の人曰いわく、旅は道連れ世は情けというやつなのだろう。強盗に襲われたときいっときでも俺の身代わりとなってくれた義理もあってか、結局道端に投棄とうきすることはできなかった。


 精霊に出会った湖を背に歩いていくと修道院からの一本道を抜け草地が広がっていた。ところどころに大きな石が転がっていて羊か牛と見間違える。雲がゆっくり流れ空は晴れ渡っていて、湿った冷たい風が吹き抜け耳のそばをでていった。道の上にはかろうじて分かる馬車のわだちの跡が見えるが、最近降った雨のせいで地面がぬかるんでいて荷車が思うように進まない。

 道は延々と草地の間をうように走っていて、ごろごろと荷車を押しつつ喜緑さんの教えてくれた方へと足を進め、そろそろ日が暮れかかったので俺は川べりにビバークすることにした。サンズにもらった火打ち石と火打ち金で枯れ草に火をつけき火を起こし、それから東を向いてひざをつきパンとワインをささげ独りミサをやった。パンはパサパサに乾いていて今にもパン粉と化してしまいそうでボロボロと崩れた。今、最後のかけらが俺の口に放り込まれてその一生を終えた。

 あー、ハルヒたちは今頃うまいもん食ってんだろうなぁ。俺は寝転んでその辺に生えているヨモギに似たハーブの芽をんで噛んだ。

 この世界に来てからの冬はカレーもおでんも食えなかった。修道士たちが少ない食材を日本の精進料理しょうじんりょうりみたいに工夫してメニューにしようと努力しているのは分かるんだが、なんせこの国では香辛料が投機的に高値だったりしてピリリと辛いものが食べられない。バターと小麦粉を存分に使ったジャガイモのシチューばかりを食わされながら、俺は長門んちで食ったカレーの味を懐かしんでいた。

 高校時代に朝比奈さんと食わされた産業用缶カレーも進化して、自前で調合するオリジナルカレーへと変貌へんぼうを遂げた。化学者ばりに乳鉢でごりごりとターメリックやクミンをすりつぶす長門の背中が今になって思えば実に楽しそうで、空腹だけが取り柄の俺はうまいを連発しながらニンニクの効いたカレーをガツガツとたいらげた。もっと味わって食えばよかったな。


 どうも腹が減ると昔のことばかり思い出す。そういえば長門と出会ってからそろそろ七年になるか。その間にも天地がひっくり返るような世界の終末すれすれを幾度も経験し、未来や過去や異世界に飛び、この銀河を三十倍速で回すような展開があったことなどを考えると実時間は七年どころじゃ済むまい。長門とは悠久ゆうきゅうの時を共に過ごし、アメーバからホモサピエンス並みに進化してもよさげな俺たちの関係なのだが、ハルヒには、あんたは彼女持ちのくせに軽薄すぎるわ、アラビューも言わないなんてね、だいたいロマンってもんがないのよ、などと散々言われたものだ。これが俺たちのクールな付き合い方なのだよフフン、と鼻を鳴らしてみせたものの、クールすぎて三十六・五度の体温からは若干寒い間柄あいだがらだったかもしれない。

 ああ、そういえば異世界で長門が作ってくれた図書カードもなくしちまったな。すまねえ。期限は切れていたがずっと財布に入れて持ち歩いていたのに。


 暗闇に丸い月が山の稜線りょうせんから離れて低くかかり、煌々こうこうと冷たい世界を照らしていた。白い月を背景に、少し寂しそうな表情をした長門の、ゆっくりとこちらをふり返る姿がぼんやりとにじんで見えた。こんなことならもっと長門のために尽くしてやるんだった。

 なんてこった、俺は……長門に会いたかった。


 恋いしたう人が夢に現れてくれないのが寂しい、とかなんとかいうのは古い和歌だったか、長門は夢にも現れてくれなかった。俺は湿ったため息をついて目を覚ました。すでに朝日は登っていて、俺は川の水で顔を洗い、腹の足しにならないかと水辺に生えているカラシナっぽいやつをむしゃむしゃと食ってみたが、消化促進するやつらしくかえって腹が減った。パンは昨日のやつが最後だったので今朝は朝飯抜きになりそうだ。歩きながらでもなにか食えるものを探さないとな。

 見渡すかぎりの風景には羊に似た形の岩とこんもりと茂る森くらいしかなく、食べ物を恵んでもらえそうな民家は一軒もない。どうやらかなりの田舎にいるらしく人っ子一人影すらも見かけなかった。

 修道院で食えそうな野草を教えてもらっていたので道端に生えている草をときどきんでは食い、まずくて吐き出すことしばし、運が良かったのか群生する野苺のいちごを見つけた。俺はまだ酸っぱい赤いつぶつぶを両腕でかき集めるようにしてむさぼり食った。たまに辛苦からにがい味がするのは実の中に蟻が入ってるからだろうけど構わずに食った。これ食い過ぎると腹壊すんだけどな。

 タンパク質のあるものが食いたい、もうイナゴとかトカゲでもいい。日本じゃイナゴは佃煮で食うしトカゲも干してお茶にするくらいだ。せめて醤油で味付けしたものが食いたい。帰ったら銀シャリを梅干しだけで腹いっぱい食いたい。漬物でお茶漬けをかきこみたい。もう毎日たくあんでもいい、なんか口の中がだんだん和食っぽくなってきた俺だがホームシックが味覚にまで現れるとは、体が日本を欲してるってことだな。


 せめて魚でも捕れればいいんだが、メダカが泳ぐような細い小川では食えそうなやつはいなかった。これを伝っていけば池にでもたどり着くかもしれないと思い、道を外れて水の流れに沿って歩いた。湖にでもたどりついたらカニでもエビでもいい、とっ捕まえて焼いて食おう。修道院を出た途端に空きっ腹をかかえてうろうろするとは、この分だといつになったら目的地にたどり着けるのやら。

 小川はだんだん太くなっていって池に注いでいた。注ぎ口の水面を見ていると波紋が立つので、魚が羽虫を食っているのが分かる。俺は木の枝を二メートルくらい切り、ナイフで削って先を尖らせてもりを作ってみた。果たしてこんなんで魚が突けるのか分からんが、川に入って腰まで水に浸かり魚の影を追いかけた。無人島に流れ着いたトムハンクスよろしくもりを投げてみるがいっこうに当たらず、あれはどう見てもCGなのだということに今更ながらに気がついた。

 大きな岩の下にウナギがいたのでひっつかんで引っ張りだそうとしたらエサと間違われたらしく指先に噛みつかれ、俺は足を滑らせて水の中にひっくり返った。あー痛え冷てえ腹減った。そういやウナギってやつは細長いカゴにエサを入れておびき寄せて捕るんだったな。せめて糸と釣り針でもあればいいんだが。


 俺は歯型の付いた血のにじむ指先をなめめながら、ずぶ濡れになった修道服を脱いで木の枝に干した。どうすんだこれ、夜までに乾かねーだろ。

 しょうがない、き火で乾かそう。焚付たきつけにしようと木の枝をナイフで削っていると柄がすべって手を離れ池の中に飛んでいってしまった。嘘だろオイ、この先の旅の命運を握っている唯一の刃物だぞ。この池はけっこう深いようで、もし足を取られると溺死しかねんのだが、果たして池の中に飛び込んで水底からナイフを回収するべきか、それともこのまま放置して土左衛門と化すリスクを回避するべきか思案していると、水の中からブクブクと泡が立ちはじめた。もしかしたらナイフが自力で浮かんでくるのかと待っていると、水面から新品のナイフが現れ、それを握るなにやら人の形をした白い光が水面に立った。俺は胸の前で十字を切った。おぉ、イッツミラクル。

「お前が落としたのはKA-BARの海兵隊コンバットナイフか、それともSOGソグのシールポップか」

尊大なる女神様よろしく両手にキラリと光るナイフをかかげ、涅槃ねはんのように薄目を開けて現れたのは髪の長い精霊だった。か、関わらんほうがよさそうだな。俺忙しいんで、ほなさいなら。

「待ちなさい? ひさびさの登場なんだからちゃんと脚本どおりにやってね。さもないと、」

さもないとナイフでぷすっといくわよ、という感じの冷たいスマイルが俺を見つめた。

「えっと、女神様、俺が落としたのは相模さがみ鎌倉の正宗です」

と答えると、ナイフを持った精霊は若干ボリュームのある眉毛をピクピクと動かし、

「そんな国宝モノ、わたしが持ってると本気で思ってるのかしら」

まじまじと俺の目を見つめ、突然ギャハハハ笑いをかました。失敬なやつだな。

「実はキョンくん……プッ……キョンくんの頭が情報爆発してて面白いことになってるって……プーッ……噂になっててね、どんなのかしらと見に来てみたら(ここでまた大爆笑)。るんだったら、その鬱陶うっとうしいモミアゲでしょうに(さらに爆笑)」と笑い転げ、突っ伏して水面をバンバンと叩いている。うっさいわ。お前に人のモミアゲをとやかくいわれる筋合いはないわ。

「ハァハァ、息するの忘れちゃったわ」

「なんの用だ朝倉」

それよりお前はベータ版なのかそれとも本チャンなのか。

「朝倉って誰のことかなぁ、ヴィヴィアンって呼んでくれないかしら」

台湾出身の女優なら知ってるがもっとおしとやかだぞ。朝倉はまだ笑い足りないらしく肩とほっぺたをプルプルと震わせながら、

「お腹すいてるでしょ、助けに来たのよ」

「おでんの出前でもしてくれたのか」

後ろに鍋でも隠してるのかと思って視線を移してみるがなにもない。朝倉は急に真面目な顔つきになり、

「ブラザージョーン、あなたにはまだ覚悟が足りないわ」

「なんの覚悟だよ。これでもけっこうな苦労を重ねて鍛えてきたんだぞ」っていうか洗礼名で呼ばれるのはスルーか俺。

「あなたに足りないのは、なんとしても生き延びて長門さんに会うという死闘感よ」

死闘って、まあ一度死にそうにはなったが。

「朝倉は長門がどこにいるのか知っているのか。っていうか、喜緑さんにしろお前にしろこの世界にいること自体おかしくないか」

朝倉はチッチッチと小指を立てて、

「わたしはあなたが作り出した妄想にすぎないの。だからここで会ったことはナイショよ」

「やたら自己主張の激しい妄想だなオイ」

「そのかわりね、」と今度は人差し指を立てて呪文を唱え、草むらの中から一羽のニワトリが飛び出してきた。朝倉は一寸のゆらぎもなくスマイルを崩さず、居合いあい抜きでスパっとナイフで宙を切るとニワトリの頭と胴体が泣き別れになってしまった。頭のほうはいったいなにが起こったんだと目をまん丸く見開いてコケコケ鳴いてるし、胴体の方は、なん……だとゴフッ、という感じに二三歩よろめいてパタリと倒れた。

 朝倉はニワトリの首から血を絞り出し、羽をむしり、ナイフでざっくりと腹を割いて内蔵を取り出し、腕と足を切り離して分割した。

「肉を食べるということはこういうことよ」

絵的にはかなり過激なシーンで、飛び散る血に染まりフヒヒ笑いをする天使の朝倉はホラー映画ならいい絵になっていただろう。どうでもいいけど有希ちゃんファンが幻滅げんめつするぞ。

 朝倉がニワトリのモツをナイフの背で持ち上げて池の中に投げ込むと、いったいここはアマゾンかウナギの養殖場かという勢いの魚達が襲いかかって食い尽くした。も、もぐらなくてよかった……。

「これが生きるために命あるものを殺して食べるということよ。まったく現代人ときたら、スーパーの精肉コーナーに並んでるパックしか知らないんだから」

「だよなー、お前ヘビとか食ってそうだもんな」俺は皮肉ったつもりだったのだが、

「あら、ヘビって意外とおいしいのよ。精力もついて昼も夜もギンギンなんだから。試してみたい?」

禁欲生活をしてる修道士見習いになんつーこと言うんだお前は。


 俺がき火を起し、朝倉が串に刺したチキンを火にかけた。腹が鳴って待ちきれない。朝倉ならいちいち焼いたりしなくても呪文一発でローストチキンなんか作れそうなのだが、そのへんは妙に律儀なところがあるらしく、フィールドで食べるんだったらフィールドのおきてに従いなさいねと言った。俺は食えればなんでもいいんだけどな。

 じゅるじゅると肉汁が垂れる様子にのどを鳴らし、遠火で一時間ほど焼いて、もう我慢できん、生でもいいという感じでかぶりつくとこんがりとローストされたチキンのジューシーな味わいが舌の上に広がり、はぁぁこれぞ幸せ、な俺だった。

「まったくキョンくんは……ヒヨッコなんだから……はぐはぐ、うん、これおいしいわ。やっぱりライチョウは天然モノに限るわね」

ニワトリちゃうんかい!


 フィールドのおきてというわりにはなぜか適度にスパイスが効いていたキジ科のローストを黙々と食い、

「キョンくん、そろそろ覚悟を決めなさいね?」

と何度も説教をされた。覚悟って、ハルヒという姉御あねごと付き合ううちにそれなりに覚悟を繰り返し人生を極めてきた気もするのだが。

「お前に言われなくても分かってるさ。長門のことだろ」

「なんだ、分かってるんじゃない」

ひさびさに会った日本語が通じる相手が、かつて刺された氷の微笑びしょうを持つ優等生だったとはなんたる皮肉か。


 目が覚めるとすでに朝倉はいなかった。水の上を歩くだけでは飽き足りなかったのか、池の水をビールに変えるというキリストさんを冒涜ぼうとくしかねん奇跡を行い、図らずも朝倉と酒盛りをしたはずだったが、俺が食ったはずの鳥肉の骨は一切残っておらず、相変わらず空腹なのはアレレもしかして夢だったのかと首をかしげた。酔って俺の頭をペンペンとなでる朝倉の品のない笑い声が確かに記憶にあるんだが。

 ナイフを落としたところまでは現実らしく手元にない。夢かマコトかピラニア並みにむさぼり食う魚群を見た今ではもう水にもぐって探し出すのはあきらめていた。しょうがない、また野苺のいちごでも探して食うか。

 妙に二日酔いっぽい頭痛のする俺は荷車の車輪の下に置いていた石を足で動かし、川をさかのぼって元の道に戻ることにした。サンズにもらった杖を持ち上げようとしたとき、どういうわけかずっしりと重いことに気がついた。鉛でも入っているのかと思って振ってみると杖の上のほうからすっぽりと抜けて抜身ぬきみの刀が飛び出した。

「って、俺は座頭一ざとういちかよ!」

時代劇で見るような刀よりは細身だが、長さにして一メートル二十センチくらいだろうか。杖がさやになっていて刀身を差し込むと寸分たがわずピタリと収まった。こんな重たい鉄のかたまりをどうしろってんだ、と思ったがリクエストしたのは俺なわけで、まあいい、いざとなったらこれを売って飯に換えよう。


 河原に沿って道無き道をガタガタと車輪を上下させながら戻り、元の道に出た。たぶん喜緑さんが言ってたのは道なりに進めという意味だと理解していたのでそのまま進んだ。朝日が出た方角からするとたぶん東に向かっているんだと思う。

 続く道はゆるい丘の上に伸びていて、ちょうど頂上に差し掛かったときはるか地の果てに塔らしきものが立っているのが見えた。つまりそこに城かとりでがあるってことだ。よし、やっと目的地が決まった。あそこにハルヒたちがいるかもしれん。


 丘を下ると森に入った。荷車を押しつつ森に入って数メートルしたところでなにか違和感のようなものを感じた。誰かに見られている。これが俺の野生の勘なのか、それとも腹が減ってイライラしているだけなのか、二十一世紀ではずっと農耕民族だった感覚が狩猟しゅりょう民族のそれに変わっちまったようだ。後ろをふり返るとボロをまとった野郎が三人現れた。今度は長いつるぎを構えている。おいおいまたかよ。その中の一人には確実に見覚えがあった。

「この野郎、またお前らか!」

つい日本語で怒鳴りつけたが、確かに一度俺が襲われたやつらだった。


 俺はもうこのときばかりは頭に血が昇り、仕込み刀をスラリと抜いてさやを投げ捨てた。お前らのせいでどんだけ苦労したと思ってんだ、肋骨にヒビ入ったし頭ったし豚のうんこにまみれたり朝の三時から延々お祈りさせられたり散々だったんだからな!

 刀を野球のバットのように構えた。もちろん剣道のたしなみなんか一切ない。知らんぞ、どうなっても知らんぞお前らフヒヒ。日本の時代劇にはミネ打ちなんて一滴の血も出ない都合のいい技があるがなあ、あいにくと俺はそんな技は持ち合わせていないんだよ。

 冷たく光を放つ刀の突然の登場にひるんだか、つるぎを持っている奴をほかの二人がせかして先にやれとうながしている。俺は刀の柄を握りしめたままつるぎを持った奴に突進した。そうだ、俺は生きて長門に会いたい。どうしても会って言わなきゃならん。ひと言、好きだI love youとな。

 渾身こんしんの一撃をそいつにふりかぶった。目は閉じなかった。妖刀朝倉の正宗が西洋のつるぎに真っ向からぶち当たり、バキンと何かが折れる鈍い音がした。一瞬の後、どっちの武器が折れたのかと双方が双方を見比べた。折れたのはつるぎの方だった。刀のほうは、俺の正宗は刃こぼれすらせず、硬く透明な光を反射している。さすがだ朝倉、本物をありがとよ。刀の背に軽くキスをしてよくよく見てみると刀匠とうしょうの部分にマサムネとカタカナで銘が入っていて、「って漢字で書けよ!」とマジツッコミを入れる俺だった。

 つるぎが真っ二つに折れたのを見るや全員が一目散に逃げ出した。俺はいちばん金を持ってそうなリーダーっぽいやつを追いかけた。よほど慌てたのか靴のサイズが合っていないのか、足を滑らせて右の靴がスッポリと抜けて派手に転びやがった。

 刀を構えた俺が目の前に迫ってくるのを見るや、ワナワナと震えだしプリーズプリーズを繰り返した。俺は荒んだ目でそいつをにらみ、刀の切っ先を奴の首筋に触れて、

「知ってるか、アウトローを何人殺しても罪には問われないってな」

などとカタコトの英語ですごんでみた。こういうシチェーションではちゃんと伝わるらしく、そいつは祈るように手を組んでサープリーズプリーズと涙ながらに懇願こんがんした。懐から財布を取り出し、どうやら俺から奪ったらしい財布だが、俺に向かってささげ手で差し出した。それから残った左の靴を脱いでかかげた。

 俺が財布を取って中身を確かめている隙にそいつは逃げ出し、裸足のまま走って森の中へと消えた。財布にはちゃんと図書カードが残っていた。

「やったぜ長門、俺は勝ったんだ……取り戻したんだ」

狼のような雄叫びを上げて刀を天に向かってかかげた。まったく修道士らしからぬ野生の俺だった。

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