三章
ドスンという大きな地響きがして視界が開けた。目の前に大きな白い壁がある。俺は草むらに横たわっていた。起き上がってみるとそれはドアだった。さっき俺が必死でノブを握っていた実験室のドアだった。ドアが地面にめり込んで立っていた。いや立っているというより突き刺さっていたというほうが正しいか。俺と一緒に落ちてきたのだろうか。もしそうなら、もう何センチか横にずれていたら俺に直撃したかもしれんな、と考えつつ俺の頭があった位置とドアとの距離を指で測ろうとしたら
ここはいったいどこだろうかと見回してみると、草むらではなく一面に広がる麦畑だった。こんもりと木々が茂る森があちこちにあり、その間に焦げ茶色の穂が
立ち上がってズボンについた土を払い、畑の向こうに石の壁らしきものが見えたので麦をかき分けながらそっちに歩いていった。ふり返るとドアが麦の間にモノリスのようにそびえている。なんとなく前衛的なアートに見えなくもない。
石の壁は高さが一メートル程度の、石を積み上げただけの低いものでどうやら土地の境界線のようだ。畑と草原の間に延々と伸びている。
「おーい、誰かいるか~」
叫んで耳を澄ませてみるが、風が地面を這う音しか聞こえない。静かすぎる。長門、ハルヒ、朝比奈さん、古泉とそれぞれ大声で名前を呼んでみてもこだますら返ってこない。どこか遠くで雷の音がした。見上げるとどうやら天気が崩れそうだ。俺は石垣に沿って歩いた。
時間移動技術絡みでは何度も似たような境遇に
どうも周りの風景が日本のくすんだ色調とはちょっと違う気がする。針葉樹もちらほらと見えるが全体的に広葉樹が多く色が鮮やかだ。田んぼは一切なく、森には神社も鳥居もある様子はない。
石垣が途切れたところでようやく道に出くわした。
大きな川に出くわして民家らしきものが見えた。どうやら民家にはアンテナもなく、電柱がないので当然だが電線もない。かといって煙突があるわけでもない。距離が短くなるにつれてそれは家ではなくただの小屋だということが分かった。屋根は
小屋があるということは人が住んでいるということだ。俺は道をさらに進み小川にかかる橋を渡って遠くに集落っぽいものがあるのを見つけた。ところが空模様が悪くなる一方でぽつぽつと雨粒が降りはじめている。雨脚は早くあっという間に大降りになってきやがった。俺は慌ててさっきの小屋のところに走った。近くにはほかに雨宿りできそうなところはなかったし、時間的にはそろそろ日も暮れかかっている感じだった。俺の腕時計は午後三時を回ったところだが役には立たないかもしれない。
今日はここで野宿かもなーなどと思いつつ、そういえば随分歩きまわって腹も減ってきたし
鳥のさえずりで目が覚めた。小屋の外に陽の光を反射した水たまりが見える。雨は上がっているようだ。肌寒さを感じて腕をさすった。どうやら朝までそのままの姿勢だったらしく腰が痛い。
「腹減った……寒い……」
なんだか動きたくなくて
背伸びをしながら小屋を出ようとすると、さっきの子供が俺を指差してなにか叫んでいた。おい坊主、不審者を指すみたいに人を指すもんじゃありません、と教わらなかったのか。ところがその後ろから丸っこいデビルみたいなやつが槍をふりかざして飛び出してきた。よくよく見ると髪を無造作に結い上げた西洋風おばちゃんだった。槍っていうか地獄の番人が持ってる武器みたいな、フォークだなあれは。その
「ま、待て、頼むからその危なっかしい武器をしまってくれ」
日本語で話しかけてみるが逆効果らしく、おばちゃんはオウトロ! オウトロ! と叫んでいる。オウトロ? もしかしてアウトローって言いたいのか、俺は不審者かい!
転んだらそのまま坂道を転がっていきそうな丸っこいおばちゃんは色の濃いくすんだブロンドみたいな髪で、灰色の目をしていて、フォークの先で俺を追い払おうとしている。痩せっぽっちの子供たちはマミー!マミー!と声援を送り、俺は必死にそれをかわそうとした。お前たちがいくら腹減ってても俺は晩のおかずにはならんって、危ないからその武器を引っ込めてくれと必死に
もしかしたらこの小屋の持ち主かもと思い、俺は小屋を指差しながらソーリーソーリーと言いつつ後ずさるようにして、来た道を戻り始めた。おばちゃんはそれ以上は追いかけてこず、十メートルほど離れると落ち着いたようで子供たちも
母は強しと昔から言うが母は凶暴だとは言わなかったぞ。俺は小川のあった方へとぼとぼと歩き、それでもチラチラとふり返りつつフォークを抱えた悪魔が追ってこないことを確かめた。二度目にふり返ると子連れデビル軍団はもういなかった。やれやれ。しかし西洋らしいことは分かった。着てるものからするとだいぶ昔のようだ。
「ヘイ! オウトロ!」声がした方をふり返るとさっきのデビルおばさんが俺を追いかけてくる。ま、まだやる気なのアンタ。だから俺はアウトローじゃないっつーの。
今度はフォークは持っていないが
地獄の番人の善意により朝飯にありついたわけだが、この朝飯はまるで石をかじっているかのごとくガチガチに乾いたパンで、口の中の唾液を全部吸収しちまって飲み下すのにえらい苦労した。小麦粉以外にもいろんな雑穀が混じっていてこれがまるで生米を噛んでいるかのようだった。
あ、アウトローって言えばここ英語圏か。しかし困ったな、俺英会話ほとんどだめだぞ。高校の頃はディスイズアペン式で、大学に入っても、試しに外国人留学生に話しかけてみたんだがとても通じるようなレベルではなかった。今になって思う、ちゃんと勉強しときゃよかった。
それはまあいいんだが、SOS団のメンツはほんとにこの時間平面のこの土地にいるんだろうか。以前長門だけが異世界に飛ばされたことがあったんだが、それを考えると俺だけが単独でドロップアウトした可能性もなくはない。長門には魔法があるし、朝比奈さんは自力で戻れるからいいとして、ハルヒや古泉はどうするんだろう。特別な力を持っているとはいえ、こんな身寄りもない時空で生きていけるんだろうか。ましてや一般人の俺はどうやってこの場を、この時空を切り抜けたらいいんだろうか。
天気もいい、流れる風も穏やかで牧歌的なのどかな風景だが、それとは裏腹にこれからどうすればいいのかという不安が心の底を流れていく。俺はまた数時間歩いて自分が落ちてきた場所に戻った。なんとなくそこに手がかりがあるような気がしたのだが昨日と何も変わらず、はるかなる麦畑にドアが
「どうすっかなぁ」
俺はそこでしばらく立ち尽くし、なにを考えてもいいアイデアは浮かばず、なにを思いつくでもなく地面からドアを引き抜き、それを背負って麦を踏み踏み歩き出した。こんな重たいもんなににすんだと自分でも思ったのだが、これが唯一俺の住んでいた世界とのつながりだった。これだけが俺の正気を保ってくれそうな気がしたのだ。ドアよ、お前だけが頼りだ。
まあ、これを誰かに売りつけるとか食べ物と交換してもらうとか、イカダにして海に浮かべて日本に帰るとか、そういう利用方法があるかもしれんという甘い考えもあったのだ。小川で浮かべてみようとしたら希望もろともあっさり沈んでしまったが。
昨日に引き続き腰も傷んで、足も痛む。たいがい腕も疲れてきた俺はドアを背負ったまま、なぜか朝に出会ったデビルおばさんのいる集落に戻ってきてしまった。次はこのドアを盾にすればあんなフォークなんぞに余裕で勝てる気がしたのだ。
村はまわりを壁で囲まれていて、麦畑の境界線のものと同じ石垣だった。またフォークの襲撃を受けるかと待ち構えていたのだが集落に入ってもおばちゃんは出てこなかった。石で出来たちょっと大きめの家に
俺は石垣にドアを立てかけ泥のかたまりを運ぶおっさんをじっと観察した。背負い
おっさんはいいねとうなずき、フォークで豚のうんこをドアに載せ、おっさんが前で俺が後ろを持って家の裏の畑に運んで積み上げた。豚のうんこまみれになるとはよもや思いもしなかったであろうこの職場のドアが、なぜかここで役に立つことになった。
上着を脱いでネクタイを外し、二、三時間ほど肥料運びを手伝っていい汗をかいた後、あらかたの肥料を運び終えるとおっさんがちょっと待ってろみたいな感じで家の中に入りなにかのかたまりを持ってきた。今度は大きめのパンと素焼きの花瓶みたいなピッチャだった。ピッチャには液体が入っていて匂いを嗅ぐとちょっと甘い香りがする。飲んでみると水で薄めたビールみたいな、焦げたパンみたいな、でもたしかに麦茶っぽい味がした。これはビールか? と聞いてみるとエイル、エイルと言った。なるほど地酒のエールか。
俺がピッチャを持って行こうとすると、いいやここで飲めと言う。まあそうだわな。俺は豚のうんこにまみれた両手をズボンにこすりつけて払い、おばちゃんがくれたのよりは多少はマシなパンをかじり、妙に水っぽいエールで流し込んだ。ここの人たちは昼間っから酒飲んでんだろうか。
俺も少し酔いがまわってきたところでなんだかおっさんと仲良くなったような気分になり、そのドア買い取らないか、今なら大サービスでノブが付いてきまっせと勧めてみた。おっさんはドアをコンコンと叩いて金属部分のフレームとかノブなんかを触っていたが、イラネ的に首を振った。アルミじゃ使い道なさそうだもんなぁ。
庭を出るときおっさんが呼び止めてジョウブ、ジョウブと道なりの先の方を指差した。なにかを引っ掛けるような仕草をして、仕事が欲しけりゃ行ってみろ、みたいな感じだった。
俺が豚のうんこにまみれたドアを背負いながらにっこり笑ってサンクスと言うと、おっさんはうなずいていた。どうやらこれだけは通じたようだ。
気がつけば俺の
俺もしかしたらここで就職活動して当面はここで暮らさねばならんのか、などと甘いことを考えていると、村の住人はわりと閉鎖的でオウトロとかバカボンとか言って追い払われることしばしば、さっきのおっさんが例外的に優しかっただけらしい。後で知ったのだが、この時代のこの国は、勝手に村の部外者を家に泊めたり長期滞在させたりすると罰金になるんだそうだ。
村の中心部、といっても十数軒かぎりの小さな村だが、人が住んでいるらしき家をみかけるとジョブ? ジョブ? と質問口調で手当たり次第に訪ねた。たいていは追い払われるか、親切な人は道の向こうだよと教えてくれた。
道の向こう側、向こう側っと探していると村の中ではいちばん大きな二階建ての石造りの家があった。屋根は
家のドアを叩くべきか、そもそもノックするのは世界共通のマナーだったろうかなどと考えていると、地味な西洋風ドレスを着てエプロンをかけヘアバンドを被ったお姉さんが洗濯物を干していたので、キャン・アイ・ハブ・ジョウブ? ジョウブ、プリーズ? と聞いてみた。お姉さんは家の中に駆け込み、なんかドアを背負った変な奴がいる、と言ってるのではないかと妄想した。で、やっぱりおっさんが出てきた。おっさんはジロジロと俺を上から下まで眺め回した挙句、チャイナ? チャイナ? と聞いている。いや俺は日本人だから。ジパングよ、ジ・パ・ン・グ。どっちでもいいがなんでこんなところにいるのかと聞いてるのだと思うが、俺自身さっぱり分からんのだ。
おっさんはなにかを引っ掛けるような仕草をしてワナジョウブ? と言った。この引っ掛ける仕草の意味が分からんが、罠が丈夫なのかにしか聞こえないけど、まあなにかの作業だろう、俺はイエスと答えた。それなら明日の朝来いということだった。この辺でいう朝ってのが何時頃なのか分からん。そこで俺は家の脇にドアを置いていいかと身振りで尋ね、立てかけたドアの下に座って、ここにいていいか? と尋ねた。つまり明日の朝までここで待ってもいいか、というニュアンスだったのだが、おっさんはそれを理解したらしくカマン、バカボンバカボンと言って家の裏に連れて行かれた。バカボンって俺はパパかい。
家の裏には納屋がありアヒルとか豚なんかがうろうろしていて、山と積んだ麦ワラとか日本の時代劇に出てくる大八車みたいな荷車があった。使用人らしい爺さんが首のない鶏の羽をむしっている。ま、まさか俺に鶏を絞めろというんじゃあるまいな。血まみれになった爺さんの手を見て俺はゴクリと
ペッと手に唾を吐いてかっこうつけてみたものの、杉や檜ならまだいいんだが、樫の木みたいな年輪が細く詰まってる幹とかだとなかなか割れなくて、手のひらにいくつもマメを作るはめになった。
運が良かったというべきか、やってみると言葉は通じなくても案外すんなりと仕事をもらえるってことは分かった。たぶんこの時代誰もが腹を減らしていて、今日の飯をどうするかというのが最優先事項なのだろう。給料は現物支給だが、それが分かっているから仕事の需要もある。
割った
切ってまた
家の前に小川から引いた水路があったのでそこで顔と頭を洗い、お姉さんが素焼きのコップにエールを注いでくれたので、夕日に向かって腰に手を当てゴクゴクと
雇い主のおっさんが、焼いたばかりのパンのかたまりとなにかジャガイモを煮たようなシチューみたいな料理が入った木製の皿を持ってきた。ありがたや、もう腹減って腹減ってぶっ倒れそうな俺はそのシチューの匂いに両手を合わせて拝んだ。おっさんはパンと皿を俺によこしたあと家の中に引っ込んだ。え、ここで立ったまま食えというのか。
しょうがないので木を切るときに使った足場を二つ運んできて、その上にドアを乗っけてテーブルにした。背広を広げ、その上にパンと皿を置き、エールのおかわりをもらってコップを置いてみた。我ながらなかなかいい
あれだけの労働量に対してこのボリュームでは全然足りなくて、俺は備蓄のパンを食いたいと食欲が止まらなかったがなんとか我慢した。これは確実に痩せるな。最近少し腹がたるんでいるのでいい機会だ。
ドアを家の壁に立てかけてその下に横になり、今夜の宿にすることにした。
翌朝はまだ鳥も鳴かないうちから目が覚めた。空は真っ暗なのに家の前に人が大勢集まっている。おばちゃんやらおっさんやら、爺さんに婆さんに子供もいる。朝来いって言われてたからこいつらも雇われ人なのか。俺は自前の屋根から顔を出し
集まっている人をよくよく見てみると、フードを被ったおっさんたちが大勢いる。粗い茶色っぽい厚手の布を着ているが、頭の天辺に髪の毛がなく、皆腰から十字架を下げていた。この人達はお坊さん? 会話の
遠くからカランカランと鐘が鳴る音が聞こえ、修道士の一人が長いテーブルを抱えて塀の前に置いた。そこに丸い椅子を置いて羽にインクを付け紙になにかを書き込んでいる。どうやらここで受付をするらしいな。雇われ人はひとりずつテーブルの前でジョンとかマリアとか言ってるので名前を付けているのだろう。
労働者は何人かずつグループになってどこかへ消えていった。最後に俺だけが残り、テーブルについている修道士と目が合ってしまった。やべ、なんか気難しそうなおっさんの坊主だぞ。俺はおずおずと前に進み出ると、バカボン? ええ、赤塚不二夫じゃないほうのやつです。チャイナ? チャイナ? ノンノン、ジパングよジッパングッ。修道士の手元を見るとミミズがのたくったような文字でなにかを書き
この修道士もなにかを引っ掛ける仕草をして、持ってるか? 持ってるか? みたいな質問をしてきたので両手を広げて何も持っていないゼスチャーをしてみせた。そうすると脇にいた少し若い修道士が三日月みたいな鎌を貸してくれた。なるほど、あれは鎌の仕草だったのか。
鎌を渡されてなにか、たぶんどっかに行けと場所を言われたのだろうが、すまんなアウトローの俺にはとんと分からん。行けと手振りをされるのだが、どこへ? という感じでなんども問い直していると修道士は
修道士に連れて行かれたのは麦畑だった。そろそろまわりが明るくなってきた頃で、だだっ広い畑で大勢の農夫が収穫作業をしている。
「ヘイ、ジパング、カム」
呼ばれて畑に入ると、何人かがザクザクと鎌を振って麦を刈っている後ろに付き、おっさん修道士は麦ワラの束から数本抜き取って手で撚り合わせ、
束ねた麦は穂を上にして立てておく。俺は誰とも会話せず農夫の群れに混じって黙々と麦の束を作り積み重ねていったが、麦ワラを撚り合わせて丈夫な
朝日が出て数時間したところでカランカランと鐘がなった。無意識的に腕時計を見たが午前五時になってて意味ねーなとつぶやいてまわりを見回すと、修道士たちが十字架を
俺もそろそろ疲れてきたのか、終いにゃもう飯のことばかりが浮かんできて、長門のカレーがうまかったなーとか、スナック菓子を食い過ぎて残した晩のおかずを思い出してちゃんと食えばよかった後悔したりした。こっちに尻を向けて麦を刈っているおばちゃんの群れがボタ餅に見えてきた頃、カランカランとまた鐘が鳴った。俺は空を見上げ、どうやら太陽が一日のうちで最も高そうだなと気がついた。
「おぉ、正午だ」
俺は慌てて時計の針を十二時に合わせた。よーしよし、これで現地時間が分かるぞ。手製の日時計とかで
修道士はまた十字架を
農夫たちは昼飯を食わず、一服すらせず、たぶんタバコ自体ないんだと思うが、水を飲んだだけでまた作業を再開した。うーむ、こいつらよくスタミナ持つよな。まあこいつらに比べたら俺は束ねてるだけなんでだいぶ楽なのだが。
俺は農夫の中に子供が混じっているのに気づき、おいボウズ、と日本語で話しかけて、刈る役と束ねる役を交代しろと身振りで示した。伝わったのか伝わらなかったのか、俺が自分の鎌で麦を刈り、束を渡すとやっと分かったようだった。おっさんやおばちゃんの間に混じって麦を刈り取り、たまに目が合うとなんだこいつはという顔をするので極上スマイルを返してやった。俺の隣にいたおばちゃんがどこから来たんだと質問してるようなので、ジパングジパングと連呼するが、どうやら知らないみたいなので、ずっと遠くを眺めるような視線で空の彼方を指差してやると、アハァみたいな感じで分かったような分からないようなうなずき方をした。後ろから修道士がお前ら遊んでんじゃねーぞみたいな怒鳴り方をしたので二人とも肩をすくめて顔を見合わせ、鎌を指してうっさい坊主だよなという感じでニヤリと笑いあった。んで、なにしに来たのかいアンタ。実はマイフレンドを探してましてね。そうかい、そりゃ見つかるといいね。たぶんそんな感じの会話だったと思う。
朝飯もろくに食ってない俺はだいぶ貧血気味になりつつ、一株刈るごとにまだかーまだ終わらんのかーとまわりを見ていると、一面こげ茶色だった畑もだんだん刈り跡のほうが広がってきた。農夫の手の動きもだんだんとゆっくりになってゆき、監督が見てないと手を休めて座り込んだりしている。俺も固まってきた腰を叩きつつ飛んで行く鳥を眺めていると、すると遠くからさぼってんじゃねーみたいな叫び声がして、いったいどこから見てんだと俺がつぶやくと、どうやら皆同じ気持らしく笑っている。
とうとう昼飯を食わないまま、日差しが少し和らいできたところで鐘が鳴った。思ったんだが、あれはたぶん教会の鐘だろう。日本のお寺の鐘みたいなもんだ。時計を見るとちょうど三時だった。修道士たちがまたもやお祈りを
ようやく休憩の時間らしく農夫たちは麦の束を放って畑から出て行った。あー俺もうだめ。動けねえ。たぶん餓死してこのまま肥料になる。土の上に寝っ転がって流れていく雲と飛んで行く鳥を眺めた。あいつら、今頃どこでどうして何を食ってんだろうなー。
「ヘイ、ジパング! ジパング!」
遠くから修道士が呼んでいる。もうええわ、俺このまま寝る。
「イッツサパー!」
それだけは聞き取れたが、イッツサパーってなんだ? イッツ、サパーだな。サパー? えーっとブレックファースト、ランチ、サ……、
「は、はいっ! 生きてます! まだまだ動けます!」
なんたって二十三歳、若さの盛りっすよ、わははは。
修道士は笑って、ついてこいみたいに親指をクイクイと動かしている。俺の
修道士に連れられて草を刈り取った放牧地みたいなところに行くと、おぉ、これが世にいう昼飯か。すでに大勢の農夫が集まっていて盛大にピクニックが始まっている。や、やった。やっと飯にありついた。俺は修道士の脇を走り抜けてテーブルに置いてあるベーコンみたいな干し肉にかじりついた。うますぎるっ。次に焼き鳥、焼き鳥? キジだかライチョウだか分からんがワシントン条約に抵触しそうなでかい焼き鳥を手づかみでバリバリと食った。この際だ、骨も消化してやる。
修道士が落ち着いて食えという感じで素焼きのコップとパンのかたまりを持ってきた。それにこの時代に来てはじめての給料を小銭でくれた。たった一枚の小さなコインだったが、俺はサンクスサンクス、ゴッドブレスユーと涙を流しながらパンに噛みついた。パンは一人二個ずつだからな、と指を二本立てて教えてくれた。ありがとうブラザー!! 俺もう出家してもいいよ。
ローストビーフ、スモークした豚肉のハム、羊かヤギの肉、なんの動物か分からん干し肉、そいつらをナイフで薄切りにしてヤギのチーズのかたまりを包み、パンに挟んでサンドイッチにして食った。もうチャンスは今しかない勢いで、食えるだけ食い飲めるだけ飲んだ。あー俺もうだめだ動けねえ。このままここで肥料になるわ。
丸っこい小動物を飲み込んで動けなくなっているウワバミみたいに畑のあぜ道に寝っ転がっていると、昨日
俺は腹の中のモンを消化できたらまだ食おうと考えていたので、後ろ髪を引かれる気持ちで残っている肉に手を伸ばし、ベーコンのかたまりをくすねてポケットに忍ばせた。
おっさんの家までついていくと、壁に立てかけてあったSOS団事務所のドアのところに修道士が待っていた。
「ジパング、」
そこから先は聞き取れなかったが、おっさんが庭にある荷車を指して、それからドアを指して、トレードしようぜ、みたいなゼスチャーをした。なるほど。俺は二度返事でオケィオケィとうなずいた。こんな重たいもん持ち歩くほうが面倒だ。すると修道士がドアを抱えてどこかへ持って行った。さらばドア、短い付き合いだったな、フォーエバー。
俺は食べ残したモンを食べてくると言うとおっさんは笑って、なくならんうちに行けと言った。ピクニック会場には酔っ払ってそのまま寝てるおっさんたちがゴロゴロ転がっていて、ご婦人は
俺は背広を脱いでみんなが食べ残したものを、干したニシンとか味の付いてないビーフジャーキーみたいな干し肉とかパンの切れっ端とか、わりと保存が効きそうなやつをかき集めて包んだ。
修道士にもらったコインは金属のかたまりを平たく伸ばして型押ししただけのような、日本の
だがまあ、給料をもらえたということは今日の日当だよな。つまり今日の作業はもう終わりってことか。俺の腕時計は四時を回ったばかりだったが、農夫は転がって眠ったまま、修道士達もいなくなっている。農村の生活は朝が早いから午後はのんびりって感じか。
麦畑にはまだ刈り取ってない穂が残ってるので、たぶんあれが終わるまでは雇ってもらえる気がする。それを考えたら大量に食べ物を抱え込んでも意味がないような気もするが、雨でも降ったら仕事にあぶれるだろうし、明日はどうなるか分からないのが今の俺の身の上だ。昔から、備えあれば
翌朝まだ夜も明けきらぬ頃に、う~んもう食えないという正夢を見て目が覚めた。昨日はエールをたらふく飲んだ後ほろ酔いで畑に寝っ転がっていたら、夜が更けると急激に寒くなってガタガタ震えながら
そろそろ農夫が集まってきていたが教会の鐘は鳴っていないらしく、修道士たちはまだ来ていなかった。俺は硬さも味も革のベルトみたいな干したニシンをかじって朝飯にした。
鐘が鳴って時計を見ると六時だった。ここの教会は時間に正確だな。
俺はまた受付に並んで待った。修道士は俺の顔を見ると、俺が名前を告げずともああお前かみたいな感じで紙に名前を付けていたが、どうもJAPONIAと書いているらしいのである。俺は日本代表選手か。
昨日借りたままだった鎌を持って畑に行こうとすると、ノンノン、お前はこっちだ、と鎌を取り上げられ荷車を
ディス、イーズ、ユアーズ、これはお前のだからこれを使えと噛んで含めるように言われた。え、これって、トレードじゃなかったの? まあ木製の荷車よりは超頑丈そうだが、工賃とかかかってんじゃないのか。俺は昨日もらった硬貨を車輪の代金だと差し出そうとしたら修道士はいらんいらんと手を振って断った。車輪もリサイクル品なのか。
うちの会社の備品だったドアとは
この辺の麦畑はかなり広く鐘の音が聞こえないところまで広がっている。残りの麦が減るにつれ、刈り取り作業をしていた野郎どもは運ぶ担当に変わり、麦を刈っているのはおばちゃん達だけになった。
村には一台だけ大きな荷馬車があり、若い修道士が荷台の前に座って手綱を引いていた。荷台には囲いを付けて山のように麦の束を積み上げ、大きさ的には四トントラックくらいだろうか、二頭の馬に引かせていた。俺も車が欲しいわ。俺はなんとか今日中に終わらせたいと必死になって荷車を押して歩いたのだが、一緒に荷車を引いていたやつらが適当に安めと言ってくれたので道の
荷車担当が集まって仕事をさぼっていると物珍しさに話しかけてくるやつもいた。そいつは中国人自体を知らないのかチャイナかとは聞かなかったが、お前は顔つきがこの辺のやつとは違うなサラセンかモスコーか、どっから来たんだと尋ねた。俺はどっちかというとチンギスハンの親類だろうと言うとそいつは驚いた顔をした。いや、チンギスハンを撃退したほうだったかな、というと驚愕の眼差しで俺を見た。
俺はそいつに、アメリカン? イングリッシュ? カナディアン? えーとあとはオーストラリアとニュージーランドくらいかなと聞くと、いちおうイングランド人らしい。そいつは俺と同じバカボンだと言った。髪を肩まで伸ばし、汚れた服を着て何日も風呂に入ってない感じのスタイルだった。昨日の夜に牧草地で焚き火をしているグループを見かけたがそいつらの一人で、農村地帯を渡り歩いて食いつないでいるということだ。
ポケットから薬草みたいなのを取り出して俺にくれ、奥歯で噛めという。試しに口に入れてみると超苦くて吐き出しそうになったが、噛んでいるうちになんだか筋肉の痛みがほぐれてきて急に視界がくっきり見えるようになった。やばいな、ドラッグの気配がするぞ。たぶん大麻かなにかだろう。
家族はいるのか、家はあるのか、土地は持っているか、殿様は誰だ、その変な服はどこで手に入れた、なにか武器は持ってるか。よほど俺が気に入ったらしく根掘り葉掘り質問してくる。うちの殿様はなぁ、自分を女王様かなにかと勘違いしてる台風みたいな女だ。黄色いカチューシャをしてるんだが見たことないか。あと、魔法が使える彼女もいるんだが、仲間で見かけたやつはいないだろうか、などと俺も質問を返す。
俺はポケットに忍ばせていた干し肉を半分ちぎってくれてやった。どこの言葉か分からないが、そいつはグラティアスグラティアスと言った。
俺はもっと気をつけるべきだったのだろう。この辺の住民は皆シャイでよそ者に親しげに話しかけたりしない。だが、のうのうと平和な日本に生きている俺にはそんなことは分かるはずがあるまい、そうだろ?
その日は隙を見てはサボり、修道士がいないと分かるやサボり、空になった荷台に寝っ転がって空を眺めながら干し肉をかじったりした。おかげで昨日消耗した体力の半分くらいの労働で済んだ。ありがたや。全力で刈り取りをやっていたおばちゃんたちにはなんだか申し訳なかった。
午後三時の鐘が鳴る頃にはあらかたの麦は刈り取られていて、畑にはもうおばあちゃんと子供しかいなかった。俺もまだまだ働ける感じで、なんだもう終わりかよと余裕のよっちゃんをかましていた。なんなら残業してやってもいいぜとおばあちゃんたちにまじって刈り取り作業をしようとしたら修道士に止められた。あれはプアのための残り穂だ、と教えられた。なるほど、これが落ち穂拾いか。ところどころ畑に残った麦の穂とか地面に落ちている穂を拾えるのは社会福祉的意味があったのな。活力ある男子は拾ってはいかんらしい。
昨日と同じ場所にピクニックの用意ができていた。これまた豪勢で今日は豚の丸焼きが出ていた。鉄の棒に串刺しになった豚をナイフで削りとって黙々と食った。俺はなるべく高カロリーで腹持ちがよさそうなものを選んで食べ、配給されたパンは保存用にポケットにしのばせた。水分はできるだけ取らず固形のものを腹が膨れ上がるまで食い続け、ズボンのベルトの穴を三つほど
日が傾いてそろそろお開きの片付けがはじまると、俺はムクリと起き上がってテーブルに残っている干し肉とベーコンをありったけ確保し、茶色に汚れたワイシャツに包んで持ち帰りにした。そういや昨日の残りはどうしようか、
丸っこい修道士が今日の日当にコイン一枚をくれた。このコインの経済的価値がどれくらいのもんか分からんが、どこかでパンとエールを買うことくらいはできるだろう。修道士は、この辺の刈り取りは終わりだが道を行けばまだ雇ってくれる農地がある、と教えてくれた。いろいろ面倒を見てくれてありがとう。俺はいちおう
誰も見送る人はなかったが村を出てからも何度もふり返り、すがすがしい労働の汗を思い返しつつ崇高なる勤労の
道は
俺はマンチェスターだったかカンタベリーだったか、かすかに記憶に残っているロンドン以外の地名を思い出そうと頭頂部を叩いてみたが
茂みの中からガサゴソという音がした。日も暮れて森のなかはだいぶ暗くなっていた。俺は立ち止まって鹿かイノシシか、あるいは狐でもいるのかと様子をうかがった。とっ捕まえて焼いて食おうかと思ったがあいにくとナイフもライターもない。村にいる間にナイフだけでも買っとくんだったなと後悔した。
茂みの中から出てきたのはヤバい薬草をくれたロンゲ野郎だった。にこやかに笑っている。俺の後ろで音がしたのでふり返ると仲間らしき野郎が二人出てきたが、後ろ手になにかを隠している。俺の空気を読む能力はよく当たる。笑ってはいるがこれは友好的な雰囲気じゃないぞ。俺はなるべくそいつらと距離を取ろうと、荷車が盾になるようにぐるりと回した。
ロンゲ野郎はニヤニヤしながら俺になにかをよこせと言っている。金か、あんなはした金欲しさに三人で張っていたのかよ。ここで
俺はいきなり荷車をロンゲ野郎に放り、荷車はそいつの腹に当たって押し倒した。そのまま走って茂みに駆け込み逃げようとした。ところがなにをトチ狂ったのか俺は上り坂を走り続けた。樹の幹を右に左に避けて走ったつもりだったが、だんだん足の回転が鈍くなり追いかけてきた二人に後ろからタックルを受けてあっさり転んだ。それから蹴る蹴る
ボコッという音が響くのと世界が消えていくのとが同時だった。すまねえ長門、今回ばかりは負傷退場だ……。
顔に冷たいものを感じて目が覚めた。目を開けようとしたが
俺はゆっくりと体を右に倒し、痛みが引くまで待ち、次に
寒いと思ったら上着を着ていない。シャツも着ていない。くっそ、追い
そういえば尻のポケットの財布がない。最初からコイン二枚で手を打てばよかったのだ。慣れないことはするもんじゃない。やっと審査が通ったクレカが一枚と、えーとお札が五千円と千円札が二枚、小銭は七百円くらいだったか。俺は覚えている財布の中身を数えた。ああ、大事にとっておいた西宮市立図書館の貸し出しカードも持って行かれちまったな、すまん長門。
体が冷えてきたのか尿意を催し、立ちションでもするかと思っても体が動かない。しばらく我慢していたのだがとうとうズボンの中に漏らしてしまった。自分の出した小便が流れて湯気が立っている、その暖かさが妙に気持ちよくて情けなくてニヤニヤしつつ泣けてきた。もうどうにでもしてくれ。
次に目が覚めたときはだいぶ明るくなっていた。雨は相変わらず降り続いていてときどき雷が鳴っている。腹が減ったし
雨に濡れながら、杖をつきながら一歩ずつ、背中を丸めて俺は足を前に進めた。どうやら折れてはいないようだ。あちこちの傷口から血が垂れて痛むがいつまでもここで寝てるわけにもいかない。
俺は荷車があったと
一歩ずつ足を引きずりながら、ひたすらまっすぐに坂を登るとようやく道に出た。相変わらず深い森のなかだったが馬車の
その日は一日中雨が降り続き、昨日までの晴れ間が嘘のようだった。村で麦の刈り入れを急いだのは天気が崩れる前に済ませたかったのかもしれない。薄暗い森の中を泥だらけになりながら、ほとんどカタツムリ並みの速度で歩いていると平地に出た。畑が見えないところをみると、どうやら村とは反対側に出てしまったらしい。丈の高い草が生えた草原で見晴らしは良く、遠くに石垣が見えた。その向こうに湖が見え、急に
なかなかたどり着かず歩き続けて小一時間、俺はだんだんと体が熱っぽくなってきたことに気がついた。心なしか視界がぼやけて見える。水分補給にとにかく湖まで行かないとな。
はぁはぁと荒い息をしながら湖にたどり着き、石がごろごろしている岸辺まで降り、腰まで浸かりながら水を飲んだ。
俺はズボンとトランクスを脱いで水で洗った。風邪なのかそれとも全身の傷が化膿してるのか分からんが、
濡れたままのズボンをまた履いて、上半身は裸のままガクガク震えながら石の上に座っていた。薄暗い雲から容赦なく雨が降り注いでくる。そのとき、湖の真ん中にポゥとオレンジ色に光る玉が浮かんだ。その球体はだんだんこっちに近づいてきて、俺は腫れた
たわわな長い髪を揺らした、薄い羽衣をまとった精霊のような女性だった。って喜緑さん! あなたこんなところでなにやってんですか。
喜緑さんっぽい精霊はなにも言わずに
それが俺の妄想だったのか幻覚だったのかは分からんが、とりあえずなにかの
森の脇に高い柵で囲まれた敷地があった。中には割と大きめの建物が建っていて、柵の周りは畑になっていた。屋根の上に十字架が飾られているようだが、ここは教会か。とにかく雨宿りくらいはさせてくれるだろうと門をドンドンと叩いた。叩いたつもりだったが弱々しい俺の
「ジパング?」
ドアの隙間から呼びかける声が聞こえたが、俺にはもう返事をする体力は残っていなかった。
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