三章

 ドスンという大きな地響きがして視界が開けた。目の前に大きな白い壁がある。俺は草むらに横たわっていた。起き上がってみるとそれはドアだった。さっき俺が必死でノブを握っていた実験室のドアだった。ドアが地面にめり込んで立っていた。いや立っているというより突き刺さっていたというほうが正しいか。俺と一緒に落ちてきたのだろうか。もしそうなら、もう何センチか横にずれていたら俺に直撃したかもしれんな、と考えつつ俺の頭があった位置とドアとの距離を指で測ろうとしたらひじに痛みが走った。そういえばやたらと体が痛い。上着のひじが破れている。ズボンは泥にまみれていた。

 ここはいったいどこだろうかと見回してみると、草むらではなく一面に広がる麦畑だった。こんもりと木々が茂る森があちこちにあり、その間に焦げ茶色の穂がれるなだらかな畑が続いている。カレンダーかなにかで見たことがあるような、どこかの丘陵地帯のようだ。もしかしたら北海道か九州あたりかもしれんな。

 立ち上がってズボンについた土を払い、畑の向こうに石の壁らしきものが見えたので麦をかき分けながらそっちに歩いていった。ふり返るとドアが麦の間にモノリスのようにそびえている。なんとなく前衛的なアートに見えなくもない。

 石の壁は高さが一メートル程度の、石を積み上げただけの低いものでどうやら土地の境界線のようだ。畑と草原の間に延々と伸びている。

「おーい、誰かいるか~」

叫んで耳を澄ませてみるが、風が地面を這う音しか聞こえない。静かすぎる。長門、ハルヒ、朝比奈さん、古泉とそれぞれ大声で名前を呼んでみてもこだますら返ってこない。どこか遠くで雷の音がした。見上げるとどうやら天気が崩れそうだ。俺は石垣に沿って歩いた。


 時間移動技術絡みでは何度も似たような境遇におちいり、俺もいいかげん学習してデジャヴから脱してもいい頃合いだろう。そうだ。問題はここがどこかではなく、いつか、なのだ。ここが日本かあるいは外国か、アジアかヨーロッパかアフリカか、二十一世紀か中世かそれともはるか未来か、いつの時代なのか分かるような容姿をした人間に出会わないかと期待して小一時間歩いたのだが、行けども行けども人っ子一人見当たらない。地図アプリはどうだろうかと思ってスマホを取り出すと案の定圏外で、そういえば前にも似たようなことがあったなと思い、俺は電源を切った。

 どうも周りの風景が日本のくすんだ色調とはちょっと違う気がする。針葉樹もちらほらと見えるが全体的に広葉樹が多く色が鮮やかだ。田んぼは一切なく、森には神社も鳥居もある様子はない。

 石垣が途切れたところでようやく道に出くわした。舗装ほそうはされていないが、わだちの跡があるということは車は走っていそうだ。そこから小一時間歩き続け、行けども行けども同じ風景で、たまに山が見えたり草の間から大きな岩肌が見えているような、たぶんカルストというのだと思うが羊が群れてるような丘が見えたり、鳥は飛んでたまに鹿の群れが走っていたりもする。しかし一向に人間に出会わない。


 大きな川に出くわして民家らしきものが見えた。どうやら民家にはアンテナもなく、電柱がないので当然だが電線もない。かといって煙突があるわけでもない。距離が短くなるにつれてそれは家ではなくただの小屋だということが分かった。屋根はわらぶき、柱はなく壁すべて石で出来ていた。覗いてみると中には乾いた麦ワラが積んであった。

 小屋があるということは人が住んでいるということだ。俺は道をさらに進み小川にかかる橋を渡って遠くに集落っぽいものがあるのを見つけた。ところが空模様が悪くなる一方でぽつぽつと雨粒が降りはじめている。雨脚は早くあっという間に大降りになってきやがった。俺は慌ててさっきの小屋のところに走った。近くにはほかに雨宿りできそうなところはなかったし、時間的にはそろそろ日も暮れかかっている感じだった。俺の腕時計は午後三時を回ったところだが役には立たないかもしれない。

 今日はここで野宿かもなーなどと思いつつ、そういえば随分歩きまわって腹も減ってきたしのども乾いた。さっきわりときれいな小川があったが、俺の胃はたぶん真水まみずには耐性がないので不用意に飲まないほうがいいだろう。俺は麦ワラのかたまりに寄りかかり、腕や首にチクチクと麦の穂を感じながら雨の音を聞きつつ、次第にうとうととしそのまま眠ってしまった。


 鳥のさえずりで目が覚めた。小屋の外に陽の光を反射した水たまりが見える。雨は上がっているようだ。肌寒さを感じて腕をさすった。どうやら朝までそのままの姿勢だったらしく腰が痛い。

「腹減った……寒い……」

なんだか動きたくなくてわらの中にうずくまっていると外で子供の声が聞こえた。小屋の外から二人の子供がじっとこっちを見ている。や、やあと引きつった笑いでにこやかに声をかけようとしたところ慌ててかけ出していった。逃げられたな。ボロみたいな洋服を着ていたが、しかしあの服装からはどこのものか分からない。そういえば今の子、髪の色が薄かったな。

 背伸びをしながら小屋を出ようとすると、さっきの子供が俺を指差してなにか叫んでいた。おい坊主、不審者を指すみたいに人を指すもんじゃありません、と教わらなかったのか。ところがその後ろから丸っこいデビルみたいなやつが槍をふりかざして飛び出してきた。よくよく見ると髪を無造作に結い上げた西洋風おばちゃんだった。槍っていうか地獄の番人が持ってる武器みたいな、フォークだなあれは。そのとがった先を俺に向けて一億玉砕竹ヤリ婦人部隊みたいな思いつめた形相で突き刺してくる。

「ま、待て、頼むからその危なっかしい武器をしまってくれ」

日本語で話しかけてみるが逆効果らしく、おばちゃんはオウトロ! オウトロ! と叫んでいる。オウトロ? もしかしてアウトローって言いたいのか、俺は不審者かい!

 転んだらそのまま坂道を転がっていきそうな丸っこいおばちゃんは色の濃いくすんだブロンドみたいな髪で、灰色の目をしていて、フォークの先で俺を追い払おうとしている。痩せっぽっちの子供たちはマミー!マミー!と声援を送り、俺は必死にそれをかわそうとした。お前たちがいくら腹減ってても俺は晩のおかずにはならんって、危ないからその武器を引っ込めてくれと必死に懇願こんがんしたがまったく通じない。

 もしかしたらこの小屋の持ち主かもと思い、俺は小屋を指差しながらソーリーソーリーと言いつつ後ずさるようにして、来た道を戻り始めた。おばちゃんはそれ以上は追いかけてこず、十メートルほど離れると落ち着いたようで子供たちもはやし立てるのをやめた。

 母は強しと昔から言うが母は凶暴だとは言わなかったぞ。俺は小川のあった方へとぼとぼと歩き、それでもチラチラとふり返りつつフォークを抱えた悪魔が追ってこないことを確かめた。二度目にふり返ると子連れデビル軍団はもういなかった。やれやれ。しかし西洋らしいことは分かった。着てるものからするとだいぶ昔のようだ。

 「ヘイ! オウトロ!」声がした方をふり返るとさっきのデビルおばさんが俺を追いかけてくる。ま、まだやる気なのアンタ。だから俺はアウトローじゃないっつーの。

 今度はフォークは持っていないがこぶしをふり回している。次ラウンドはベアナックルですか、どこまで闘志丸出しなんですか。おばちゃんは接近はせず、俺から少し離れてから立ち止まり俺に向かって石を投げた。なんか食えという仕草をしている。石にしては転がり方が軽いので拾ってみると手榴弾てりゅうだん、のようなパンだった。俺がパンとおばちゃんを見比べていると、さっさと行けという手振りをして家に戻っていった。あ、ありがとう。案外優しいとこもあるんだなこのデビル。

 地獄の番人の善意により朝飯にありついたわけだが、この朝飯はまるで石をかじっているかのごとくガチガチに乾いたパンで、口の中の唾液を全部吸収しちまって飲み下すのにえらい苦労した。小麦粉以外にもいろんな雑穀が混じっていてこれがまるで生米を噛んでいるかのようだった。

 あ、アウトローって言えばここ英語圏か。しかし困ったな、俺英会話ほとんどだめだぞ。高校の頃はディスイズアペン式で、大学に入っても、試しに外国人留学生に話しかけてみたんだがとても通じるようなレベルではなかった。今になって思う、ちゃんと勉強しときゃよかった。


 それはまあいいんだが、SOS団のメンツはほんとにこの時間平面のこの土地にいるんだろうか。以前長門だけが異世界に飛ばされたことがあったんだが、それを考えると俺だけが単独でドロップアウトした可能性もなくはない。長門には魔法があるし、朝比奈さんは自力で戻れるからいいとして、ハルヒや古泉はどうするんだろう。特別な力を持っているとはいえ、こんな身寄りもない時空で生きていけるんだろうか。ましてや一般人の俺はどうやってこの場を、この時空を切り抜けたらいいんだろうか。

 天気もいい、流れる風も穏やかで牧歌的なのどかな風景だが、それとは裏腹にこれからどうすればいいのかという不安が心の底を流れていく。俺はまた数時間歩いて自分が落ちてきた場所に戻った。なんとなくそこに手がかりがあるような気がしたのだが昨日と何も変わらず、はるかなる麦畑にドアがたたずんでいるだけだった。

「どうすっかなぁ」

俺はそこでしばらく立ち尽くし、なにを考えてもいいアイデアは浮かばず、なにを思いつくでもなく地面からドアを引き抜き、それを背負って麦を踏み踏み歩き出した。こんな重たいもんなににすんだと自分でも思ったのだが、これが唯一俺の住んでいた世界とのつながりだった。これだけが俺の正気を保ってくれそうな気がしたのだ。ドアよ、お前だけが頼りだ。

 まあ、これを誰かに売りつけるとか食べ物と交換してもらうとか、イカダにして海に浮かべて日本に帰るとか、そういう利用方法があるかもしれんという甘い考えもあったのだ。小川で浮かべてみようとしたら希望もろともあっさり沈んでしまったが。


 昨日に引き続き腰も傷んで、足も痛む。たいがい腕も疲れてきた俺はドアを背負ったまま、なぜか朝に出会ったデビルおばさんのいる集落に戻ってきてしまった。次はこのドアを盾にすればあんなフォークなんぞに余裕で勝てる気がしたのだ。

 村はまわりを壁で囲まれていて、麦畑の境界線のものと同じ石垣だった。またフォークの襲撃を受けるかと待ち構えていたのだが集落に入ってもおばちゃんは出てこなかった。石で出来たちょっと大きめの家に遭遇そうぐうし、その庭でなんだか動物の糞みたいなひどい匂いのする泥のかたまりみたいなのをせっせと運んでいるおっさんがいた。どうやらこのおっさんも西洋風で髪は天然ウェーブ、髭を生やした白人だった。

 俺は石垣にドアを立てかけ泥のかたまりを運ぶおっさんをじっと観察した。背負いかごにさっきの泥を詰めてどこかに運んでいる。その向こうから豚の鳴き声が聞こえてきた。泥だと思ったのは実は豚の糞の肥料のようだった。おっさんが俺に気がついてなにか言っているがまったく意味が分からない。またフォークで刺されるかと思ったら、言葉の末尾にジョウブ? ジョウブ? というのが聞き取れた。まあ風邪も引いてないし体力的には丈夫だが、もしかして仕事が欲しいかと聞いてるのか。俺は別に仕事が欲しいわけではなかったんだが朝飯が手榴弾みたいなパン一個だけだったし、この先の食料も確保しといたほうがいいだろうと思い、イエスプリーズと通じるか分からん発音で言ってみた。おっさんはどこの方言だこいつという顔をしてどうやら通じてないみたいだったが、俺は庭に入り、地面にドアを置いてこいつで肥料を運ぼうというふうに身振りした。

 おっさんはいいねとうなずき、フォークで豚のうんこをドアに載せ、おっさんが前で俺が後ろを持って家の裏の畑に運んで積み上げた。豚のうんこまみれになるとはよもや思いもしなかったであろうこの職場のドアが、なぜかここで役に立つことになった。


 上着を脱いでネクタイを外し、二、三時間ほど肥料運びを手伝っていい汗をかいた後、あらかたの肥料を運び終えるとおっさんがちょっと待ってろみたいな感じで家の中に入りなにかのかたまりを持ってきた。今度は大きめのパンと素焼きの花瓶みたいなピッチャだった。ピッチャには液体が入っていて匂いを嗅ぐとちょっと甘い香りがする。飲んでみると水で薄めたビールみたいな、焦げたパンみたいな、でもたしかに麦茶っぽい味がした。これはビールか? と聞いてみるとエイル、エイルと言った。なるほど地酒のエールか。

 俺がピッチャを持って行こうとすると、いいやここで飲めと言う。まあそうだわな。俺は豚のうんこにまみれた両手をズボンにこすりつけて払い、おばちゃんがくれたのよりは多少はマシなパンをかじり、妙に水っぽいエールで流し込んだ。ここの人たちは昼間っから酒飲んでんだろうか。

 俺も少し酔いがまわってきたところでなんだかおっさんと仲良くなったような気分になり、そのドア買い取らないか、今なら大サービスでノブが付いてきまっせと勧めてみた。おっさんはドアをコンコンと叩いて金属部分のフレームとかノブなんかを触っていたが、イラネ的に首を振った。アルミじゃ使い道なさそうだもんなぁ。

 庭を出るときおっさんが呼び止めてジョウブ、ジョウブと道なりの先の方を指差した。なにかを引っ掛けるような仕草をして、仕事が欲しけりゃ行ってみろ、みたいな感じだった。

 俺が豚のうんこにまみれたドアを背負いながらにっこり笑ってサンクスと言うと、おっさんはうなずいていた。どうやらこれだけは通じたようだ。


 気がつけば俺の一張羅いっちょうらのスーツはよれよれになっていて、すでに俺の鼻は嗅覚が麻痺まひしているのだろうが、きっとすごい匂いがしてるんだろうね。こんな格好で雇ってくれるやつはいるのかね。


 俺もしかしたらここで就職活動して当面はここで暮らさねばならんのか、などと甘いことを考えていると、村の住人はわりと閉鎖的でオウトロとかバカボンとか言って追い払われることしばしば、さっきのおっさんが例外的に優しかっただけらしい。後で知ったのだが、この時代のこの国は、勝手に村の部外者を家に泊めたり長期滞在させたりすると罰金になるんだそうだ。

 村の中心部、といっても十数軒かぎりの小さな村だが、人が住んでいるらしき家をみかけるとジョブ? ジョブ? と質問口調で手当たり次第に訪ねた。たいていは追い払われるか、親切な人は道の向こうだよと教えてくれた。

 道の向こう側、向こう側っと探していると村の中ではいちばん大きな二階建ての石造りの家があった。屋根はわらぶきではなくてひのきとか杉の皮でいてあった。住んでるのは農協の組合長とか庄屋並みに偉い人かもしれんな。

 家のドアを叩くべきか、そもそもノックするのは世界共通のマナーだったろうかなどと考えていると、地味な西洋風ドレスを着てエプロンをかけヘアバンドを被ったお姉さんが洗濯物を干していたので、キャン・アイ・ハブ・ジョウブ? ジョウブ、プリーズ? と聞いてみた。お姉さんは家の中に駆け込み、なんかドアを背負った変な奴がいる、と言ってるのではないかと妄想した。で、やっぱりおっさんが出てきた。おっさんはジロジロと俺を上から下まで眺め回した挙句、チャイナ? チャイナ? と聞いている。いや俺は日本人だから。ジパングよ、ジ・パ・ン・グ。どっちでもいいがなんでこんなところにいるのかと聞いてるのだと思うが、俺自身さっぱり分からんのだ。

 おっさんはなにかを引っ掛けるような仕草をしてワナジョウブ? と言った。この引っ掛ける仕草の意味が分からんが、罠が丈夫なのかにしか聞こえないけど、まあなにかの作業だろう、俺はイエスと答えた。それなら明日の朝来いということだった。この辺でいう朝ってのが何時頃なのか分からん。そこで俺は家の脇にドアを置いていいかと身振りで尋ね、立てかけたドアの下に座って、ここにいていいか? と尋ねた。つまり明日の朝までここで待ってもいいか、というニュアンスだったのだが、おっさんはそれを理解したらしくカマン、バカボンバカボンと言って家の裏に連れて行かれた。バカボンって俺はパパかい。

 家の裏には納屋がありアヒルとか豚なんかがうろうろしていて、山と積んだ麦ワラとか日本の時代劇に出てくる大八車みたいな荷車があった。使用人らしい爺さんが首のない鶏の羽をむしっている。ま、まさか俺に鶏を絞めろというんじゃあるまいな。血まみれになった爺さんの手を見て俺はゴクリと溜飲りゅういんを下げた。おっさんは大きな斧を持ってこっちだと指差した。やべー、ここに来て屠殺とさつのバイトかよ、と思っていたら大量のたきぎが積んであってこれをやれと言った。なんだ、薪割まきわりだったのか。ま、まあこれくらいならなんとかなる。

 ペッと手に唾を吐いてかっこうつけてみたものの、杉や檜ならまだいいんだが、樫の木みたいな年輪が細く詰まってる幹とかだとなかなか割れなくて、手のひらにいくつもマメを作るはめになった。


 運が良かったというべきか、やってみると言葉は通じなくても案外すんなりと仕事をもらえるってことは分かった。たぶんこの時代誰もが腹を減らしていて、今日の飯をどうするかというのが最優先事項なのだろう。給料は現物支給だが、それが分かっているから仕事の需要もある。

 割ったたきぎを、途中から手伝ってくれた爺さんと家の壁に高く積み上げ、ひと通り片付いたと自分の仕事の成果に満足しつつひたいぬぐったら、今度は横たわっている丸太を切れときた。でかいノコギリで、たぶん木こりが木を切り倒して幹を切っていくやつだと思うが刃渡り一メートルくらいある。両側に取っ手が付いているので二人で押したり引いたりするのだろう。爺さんが来いと手招きして丸太を運び、両側から押したり引いたりしつつたきぎの長さで切っていった。知っていると思うが西洋のノコギリの刃は押すときに切れる。俺が常に押す側で爺さんは実は楽をしていたのだと終わってから分かった。チッ。


 切ってまた薪割まきわりが終わる頃には、もういい加減腕の筋肉も悲鳴をあげていて、たった一日で少しは鍛えられたかなーなどと腕を曲げたり伸ばしたりして、むなしく上腕二頭筋じょうわんにとうきん前腕伸筋ぜんわんしんきんを膨らませてみたりした。ボディビルで鍛えられる筋肉と労働で使う筋肉は違うんだということを後になって知り、がっくりしたのだった。


 家の前に小川から引いた水路があったのでそこで顔と頭を洗い、お姉さんが素焼きのコップにエールを注いでくれたので、夕日に向かって腰に手を当てゴクゴクとのどうるおした。うーむ、相変わらず水っぽいが仕事が終わった後の酒はうまい。たぶんこの辺の人は真水まみずを飲まないんだろう。朝比奈さんの入れてくれたお茶が恋しい。

 雇い主のおっさんが、焼いたばかりのパンのかたまりとなにかジャガイモを煮たようなシチューみたいな料理が入った木製の皿を持ってきた。ありがたや、もう腹減って腹減ってぶっ倒れそうな俺はそのシチューの匂いに両手を合わせて拝んだ。おっさんはパンと皿を俺によこしたあと家の中に引っ込んだ。え、ここで立ったまま食えというのか。

 しょうがないので木を切るときに使った足場を二つ運んできて、その上にドアを乗っけてテーブルにした。背広を広げ、その上にパンと皿を置き、エールのおかわりをもらってコップを置いてみた。我ながらなかなかいい晩餐ばんさんではないか。俺はパンを半分ちぎって残りは背広のポケットに押し込んだ。明日の朝用に備蓄しておかなくてはな。

 あれだけの労働量に対してこのボリュームでは全然足りなくて、俺は備蓄のパンを食いたいと食欲が止まらなかったがなんとか我慢した。これは確実に痩せるな。最近少し腹がたるんでいるのでいい機会だ。


 ドアを家の壁に立てかけてその下に横になり、今夜の宿にすることにした。風情ふぜいよろしい虫の声が聞こえる。納屋の方からおっさんがやってきてこれを使えと干し草のかたまりをくれた。ありがとうおっさん。少しは寒さがしのげるだろう。なにより、冷たい地面に直接寝るよりはいい。


 翌朝はまだ鳥も鳴かないうちから目が覚めた。空は真っ暗なのに家の前に人が大勢集まっている。おばちゃんやらおっさんやら、爺さんに婆さんに子供もいる。朝来いって言われてたからこいつらも雇われ人なのか。俺は自前の屋根から顔を出しわらのベットからもそもそと這い出たが筋肉がいうことを聞かない。首は痛むし肩は痛む、腕は痛むし腰も痛む。全身が筋肉痛に襲われながら、ポケットからパンを取り出してかじった。あごの筋肉も痛む。

 集まっている人をよくよく見てみると、フードを被ったおっさんたちが大勢いる。粗い茶色っぽい厚手の布を着ているが、頭の天辺に髪の毛がなく、皆腰から十字架を下げていた。この人達はお坊さん? 会話の端々はしばしにブラザーブラザーという単語で呼び合っているのが聞こえた。なるほどこの人達は修道士か。

 遠くからカランカランと鐘が鳴る音が聞こえ、修道士の一人が長いテーブルを抱えて塀の前に置いた。そこに丸い椅子を置いて羽にインクを付け紙になにかを書き込んでいる。どうやらここで受付をするらしいな。雇われ人はひとりずつテーブルの前でジョンとかマリアとか言ってるので名前を付けているのだろう。

 労働者は何人かずつグループになってどこかへ消えていった。最後に俺だけが残り、テーブルについている修道士と目が合ってしまった。やべ、なんか気難しそうなおっさんの坊主だぞ。俺はおずおずと前に進み出ると、バカボン? ええ、赤塚不二夫じゃないほうのやつです。チャイナ? チャイナ? ノンノン、ジパングよジッパングッ。修道士の手元を見るとミミズがのたくったような文字でなにかを書きつづっているが、おぉ、これはアルファベットの筆記体ではないか。

 この修道士もなにかを引っ掛ける仕草をして、持ってるか? 持ってるか? みたいな質問をしてきたので両手を広げて何も持っていないゼスチャーをしてみせた。そうすると脇にいた少し若い修道士が三日月みたいな鎌を貸してくれた。なるほど、あれは鎌の仕草だったのか。

 鎌を渡されてなにか、たぶんどっかに行けと場所を言われたのだろうが、すまんなアウトローの俺にはとんと分からん。行けと手振りをされるのだが、どこへ? という感じでなんども問い直していると修道士はあきらめたのか、ちょっと待っとれという感じでテーブルを片付け、来いと言われて俺はいそいそとついていった。


 修道士に連れて行かれたのは麦畑だった。そろそろまわりが明るくなってきた頃で、だだっ広い畑で大勢の農夫が収穫作業をしている。

「ヘイ、ジパング、カム」

呼ばれて畑に入ると、何人かがザクザクと鎌を振って麦を刈っている後ろに付き、おっさん修道士は麦ワラの束から数本抜き取って手で撚り合わせ、ひもを作り、刈られた麦を束ねてみせた。二十一世紀みたいに刈り取り機でやれるわけないよな。俺は見よう見まねで麦を束ねてみた。きつく締めすぎてひもがぷっつり切れて何度もやり直した。そんな様子を見ていた修道士は、まあゆっくりやれや、みたいな感じで続けろという仕草をした。

 束ねた麦は穂を上にして立てておく。俺は誰とも会話せず農夫の群れに混じって黙々と麦の束を作り積み重ねていったが、麦ワラを撚り合わせて丈夫なひもを作るほうが存外難しかった。


 朝日が出て数時間したところでカランカランと鐘がなった。無意識的に腕時計を見たが午前五時になってて意味ねーなとつぶやいてまわりを見回すと、修道士たちが十字架をささげてブツブツとなにかを唱えている。なるほど、お祈りの時間か。農夫達は少し手を休めて腰をトントンと叩いていた。朝飯パン半切れだったんで腹減った……のども乾いた……。ところで昼飯はちゃんと食わせてくれるんだろうな。

 俺もそろそろ疲れてきたのか、終いにゃもう飯のことばかりが浮かんできて、長門のカレーがうまかったなーとか、スナック菓子を食い過ぎて残した晩のおかずを思い出してちゃんと食えばよかった後悔したりした。こっちに尻を向けて麦を刈っているおばちゃんの群れがボタ餅に見えてきた頃、カランカランとまた鐘が鳴った。俺は空を見上げ、どうやら太陽が一日のうちで最も高そうだなと気がついた。

「おぉ、正午だ」

俺は慌てて時計の針を十二時に合わせた。よーしよし、これで現地時間が分かるぞ。手製の日時計とかで南中時なんちゅうじを計る方法は知っているんだが、あれをやるには二日かかるのでな。

 修道士はまた十字架をささげてブツブツと祈りを始めた。近づいて聞いてみると魔法の呪文っぽい。農夫たちはやれやれという感じで鎌を麦の束に刺してその辺に座り込んで談笑を始めた。いよいよ昼飯かぁ長かったなと大きくため息をついて誰かが弁当を運んでくるものと思いきや、待てど暮らせど何も来ない。エプロン姿のお姉さんがコップになにかを注いで一人ずつ飲ませてまわっている。お姉さんは最後に俺をジロジロと眺めた挙句、素焼きのコップにジョボジョボとにごった水をくれた。匂いを嗅いでみたが本当に水のようだ。これ飲んで大丈夫だろうか。俺はもう半分ヤケクソな感じでぐいっと飲み干した。にごった井戸水か川の水っぽいんだが、せめてもの味付けにレモンが入っていた。


 農夫たちは昼飯を食わず、一服すらせず、たぶんタバコ自体ないんだと思うが、水を飲んだだけでまた作業を再開した。うーむ、こいつらよくスタミナ持つよな。まあこいつらに比べたら俺は束ねてるだけなんでだいぶ楽なのだが。

 俺は農夫の中に子供が混じっているのに気づき、おいボウズ、と日本語で話しかけて、刈る役と束ねる役を交代しろと身振りで示した。伝わったのか伝わらなかったのか、俺が自分の鎌で麦を刈り、束を渡すとやっと分かったようだった。おっさんやおばちゃんの間に混じって麦を刈り取り、たまに目が合うとなんだこいつはという顔をするので極上スマイルを返してやった。俺の隣にいたおばちゃんがどこから来たんだと質問してるようなので、ジパングジパングと連呼するが、どうやら知らないみたいなので、ずっと遠くを眺めるような視線で空の彼方を指差してやると、アハァみたいな感じで分かったような分からないようなうなずき方をした。後ろから修道士がお前ら遊んでんじゃねーぞみたいな怒鳴り方をしたので二人とも肩をすくめて顔を見合わせ、鎌を指してうっさい坊主だよなという感じでニヤリと笑いあった。んで、なにしに来たのかいアンタ。実はマイフレンドを探してましてね。そうかい、そりゃ見つかるといいね。たぶんそんな感じの会話だったと思う。

 朝飯もろくに食ってない俺はだいぶ貧血気味になりつつ、一株刈るごとにまだかーまだ終わらんのかーとまわりを見ていると、一面こげ茶色だった畑もだんだん刈り跡のほうが広がってきた。農夫の手の動きもだんだんとゆっくりになってゆき、監督が見てないと手を休めて座り込んだりしている。俺も固まってきた腰を叩きつつ飛んで行く鳥を眺めていると、すると遠くからさぼってんじゃねーみたいな叫び声がして、いったいどこから見てんだと俺がつぶやくと、どうやら皆同じ気持らしく笑っている。


 とうとう昼飯を食わないまま、日差しが少し和らいできたところで鐘が鳴った。思ったんだが、あれはたぶん教会の鐘だろう。日本のお寺の鐘みたいなもんだ。時計を見るとちょうど三時だった。修道士たちがまたもやお祈りをささげている。天にまします我らが父よ、こいつら労働者をタダ同然でお与えくださり感謝します。こいつらには飯をやらなくても私たちはたらふく食うことができて幸せです。アーメン。

 ようやく休憩の時間らしく農夫たちは麦の束を放って畑から出て行った。あー俺もうだめ。動けねえ。たぶん餓死してこのまま肥料になる。土の上に寝っ転がって流れていく雲と飛んで行く鳥を眺めた。あいつら、今頃どこでどうして何を食ってんだろうなー。

「ヘイ、ジパング! ジパング!」

遠くから修道士が呼んでいる。もうええわ、俺このまま寝る。

「イッツサパー!」

それだけは聞き取れたが、イッツサパーってなんだ? イッツ、サパーだな。サパー? えーっとブレックファースト、ランチ、サ……、

「は、はいっ! 生きてます! まだまだ動けます!」

なんたって二十三歳、若さの盛りっすよ、わははは。

 修道士は笑って、ついてこいみたいに親指をクイクイと動かしている。俺のひざはもうガクガクと笑っていて、日頃デスクワークしかしていない豆モヤシみたいな生活を悔いている。村のおばちゃんが全体的に丸っこいのは、備蓄した栄養に筋肉がプラスされてあの体型なのだ。現代人みたいに肉食って酒飲んでるプヨプヨのお腹とは質が違う。


 修道士に連れられて草を刈り取った放牧地みたいなところに行くと、おぉ、これが世にいう昼飯か。すでに大勢の農夫が集まっていて盛大にピクニックが始まっている。や、やった。やっと飯にありついた。俺は修道士の脇を走り抜けてテーブルに置いてあるベーコンみたいな干し肉にかじりついた。うますぎるっ。次に焼き鳥、焼き鳥? キジだかライチョウだか分からんがワシントン条約に抵触しそうなでかい焼き鳥を手づかみでバリバリと食った。この際だ、骨も消化してやる。

 修道士が落ち着いて食えという感じで素焼きのコップとパンのかたまりを持ってきた。それにこの時代に来てはじめての給料を小銭でくれた。たった一枚の小さなコインだったが、俺はサンクスサンクス、ゴッドブレスユーと涙を流しながらパンに噛みついた。パンは一人二個ずつだからな、と指を二本立てて教えてくれた。ありがとうブラザー!! 俺もう出家してもいいよ。


 ローストビーフ、スモークした豚肉のハム、羊かヤギの肉、なんの動物か分からん干し肉、そいつらをナイフで薄切りにしてヤギのチーズのかたまりを包み、パンに挟んでサンドイッチにして食った。もうチャンスは今しかない勢いで、食えるだけ食い飲めるだけ飲んだ。あー俺もうだめだ動けねえ。このままここで肥料になるわ。

 丸っこい小動物を飲み込んで動けなくなっているウワバミみたいに畑のあぜ道に寝っ転がっていると、昨日薪割まきわりのバイトで世話になったおっさんがやって来た。バカボン、ちょっと来い、と手招きしていた。

 俺は腹の中のモンを消化できたらまだ食おうと考えていたので、後ろ髪を引かれる気持ちで残っている肉に手を伸ばし、ベーコンのかたまりをくすねてポケットに忍ばせた。

 おっさんの家までついていくと、壁に立てかけてあったSOS団事務所のドアのところに修道士が待っていた。

「ジパング、」

そこから先は聞き取れなかったが、おっさんが庭にある荷車を指して、それからドアを指して、トレードしようぜ、みたいなゼスチャーをした。なるほど。俺は二度返事でオケィオケィとうなずいた。こんな重たいもん持ち歩くほうが面倒だ。すると修道士がドアを抱えてどこかへ持って行った。さらばドア、短い付き合いだったな、フォーエバー。


 俺は食べ残したモンを食べてくると言うとおっさんは笑って、なくならんうちに行けと言った。ピクニック会場には酔っ払ってそのまま寝てるおっさんたちがゴロゴロ転がっていて、ご婦人はわらの上に座って世間話に湧いている。子供たちは馬の蹄鉄ていてつを輪投げみたいにして遊んでいた。

 俺は背広を脱いでみんなが食べ残したものを、干したニシンとか味の付いてないビーフジャーキーみたいな干し肉とかパンの切れっ端とか、わりと保存が効きそうなやつをかき集めて包んだ。


 修道士にもらったコインは金属のかたまりを平たく伸ばして型押ししただけのような、日本の和同開珎わどうかいちんのほうがまだクオリティ高いぞとクレームを入れたくなるような出来のお金だった。真ん中に鼻が曲がった人の顔が彫ってあり、その周りにラテン語っぽい文字とローマ数字が刻んであったが俺には読めなかった。いつの時代か分からんが、かなり昔に来てる気がする。

 だがまあ、給料をもらえたということは今日の日当だよな。つまり今日の作業はもう終わりってことか。俺の腕時計は四時を回ったばかりだったが、農夫は転がって眠ったまま、修道士達もいなくなっている。農村の生活は朝が早いから午後はのんびりって感じか。

 麦畑にはまだ刈り取ってない穂が残ってるので、たぶんあれが終わるまでは雇ってもらえる気がする。それを考えたら大量に食べ物を抱え込んでも意味がないような気もするが、雨でも降ったら仕事にあぶれるだろうし、明日はどうなるか分からないのが今の俺の身の上だ。昔から、備えあればうれいなし、と言うだろ?


 翌朝まだ夜も明けきらぬ頃に、う~んもう食えないという正夢を見て目が覚めた。昨日はエールをたらふく飲んだ後ほろ酔いで畑に寝っ転がっていたら、夜が更けると急激に寒くなってガタガタ震えながら薪割まきわりのおっさんの家に置いてある荷車の下にもぐり込み、食料を包んだ背広を抱きしめたまま眠った。俺のほかにも雇われているアウトローがいるらしく、川べりとか昨日ピクニックをした放牧地で焚き火をしてるグループがいた。

 そろそろ農夫が集まってきていたが教会の鐘は鳴っていないらしく、修道士たちはまだ来ていなかった。俺は硬さも味も革のベルトみたいな干したニシンをかじって朝飯にした。

 鐘が鳴って時計を見ると六時だった。ここの教会は時間に正確だな。

 俺はまた受付に並んで待った。修道士は俺の顔を見ると、俺が名前を告げずともああお前かみたいな感じで紙に名前を付けていたが、どうもJAPONIAと書いているらしいのである。俺は日本代表選手か。

 昨日借りたままだった鎌を持って畑に行こうとすると、ノンノン、お前はこっちだ、と鎌を取り上げられ荷車をてがわれた。こ、この荷車、もしかしてSOS団のドアか。かなり硬いはずの樹脂製のドアに穴を開け、車軸を金具で固定して木製の車輪を二つ取り付けている。この村には器用なやつがいるもんだな、リサイクルにもほどがある。後で聞くと修道士の無茶な注文に鍛冶屋がブツブツ文句を垂れながら作ったのだそうだ。

 ディス、イーズ、ユアーズ、これはお前のだからこれを使えと噛んで含めるように言われた。え、これって、トレードじゃなかったの? まあ木製の荷車よりは超頑丈そうだが、工賃とかかかってんじゃないのか。俺は昨日もらった硬貨を車輪の代金だと差し出そうとしたら修道士はいらんいらんと手を振って断った。車輪もリサイクル品なのか。


 うちの会社の備品だったドアとはえんが切れないようで、俺は刈り取り作業から開放され、この荷車で麦の束を運ぶことになった。昨日までに刈り取られて畑に積まれた麦の束を荷車に積み、畑と小屋を何度も往復した。できるだけ積み荷を多くして往復する回数を減らそうと、修道士に頼んでロープを貸してもらい、山のように積み上げ荷台に縛り付けて運んだ。荷車ってやつはリヤカーとは違って押して運ぶほうが楽だった。

 この辺の麦畑はかなり広く鐘の音が聞こえないところまで広がっている。残りの麦が減るにつれ、刈り取り作業をしていた野郎どもは運ぶ担当に変わり、麦を刈っているのはおばちゃん達だけになった。

 村には一台だけ大きな荷馬車があり、若い修道士が荷台の前に座って手綱を引いていた。荷台には囲いを付けて山のように麦の束を積み上げ、大きさ的には四トントラックくらいだろうか、二頭の馬に引かせていた。俺も車が欲しいわ。俺はなんとか今日中に終わらせたいと必死になって荷車を押して歩いたのだが、一緒に荷車を引いていたやつらが適当に安めと言ってくれたので道のかたわらに荷車を止めて休んだ。


 荷車担当が集まって仕事をさぼっていると物珍しさに話しかけてくるやつもいた。そいつは中国人自体を知らないのかチャイナかとは聞かなかったが、お前は顔つきがこの辺のやつとは違うなサラセンかモスコーか、どっから来たんだと尋ねた。俺はどっちかというとチンギスハンの親類だろうと言うとそいつは驚いた顔をした。いや、チンギスハンを撃退したほうだったかな、というと驚愕の眼差しで俺を見た。

 俺はそいつに、アメリカン? イングリッシュ? カナディアン? えーとあとはオーストラリアとニュージーランドくらいかなと聞くと、いちおうイングランド人らしい。そいつは俺と同じバカボンだと言った。髪を肩まで伸ばし、汚れた服を着て何日も風呂に入ってない感じのスタイルだった。昨日の夜に牧草地で焚き火をしているグループを見かけたがそいつらの一人で、農村地帯を渡り歩いて食いつないでいるということだ。


 ポケットから薬草みたいなのを取り出して俺にくれ、奥歯で噛めという。試しに口に入れてみると超苦くて吐き出しそうになったが、噛んでいるうちになんだか筋肉の痛みがほぐれてきて急に視界がくっきり見えるようになった。やばいな、ドラッグの気配がするぞ。たぶん大麻かなにかだろう。

 家族はいるのか、家はあるのか、土地は持っているか、殿様は誰だ、その変な服はどこで手に入れた、なにか武器は持ってるか。よほど俺が気に入ったらしく根掘り葉掘り質問してくる。うちの殿様はなぁ、自分を女王様かなにかと勘違いしてる台風みたいな女だ。黄色いカチューシャをしてるんだが見たことないか。あと、魔法が使える彼女もいるんだが、仲間で見かけたやつはいないだろうか、などと俺も質問を返す。

 俺はポケットに忍ばせていた干し肉を半分ちぎってくれてやった。どこの言葉か分からないが、そいつはグラティアスグラティアスと言った。

 俺はもっと気をつけるべきだったのだろう。この辺の住民は皆シャイでよそ者に親しげに話しかけたりしない。だが、のうのうと平和な日本に生きている俺にはそんなことは分かるはずがあるまい、そうだろ?


 その日は隙を見てはサボり、修道士がいないと分かるやサボり、空になった荷台に寝っ転がって空を眺めながら干し肉をかじったりした。おかげで昨日消耗した体力の半分くらいの労働で済んだ。ありがたや。全力で刈り取りをやっていたおばちゃんたちにはなんだか申し訳なかった。

 午後三時の鐘が鳴る頃にはあらかたの麦は刈り取られていて、畑にはもうおばあちゃんと子供しかいなかった。俺もまだまだ働ける感じで、なんだもう終わりかよと余裕のよっちゃんをかましていた。なんなら残業してやってもいいぜとおばあちゃんたちにまじって刈り取り作業をしようとしたら修道士に止められた。あれはプアのための残り穂だ、と教えられた。なるほど、これが落ち穂拾いか。ところどころ畑に残った麦の穂とか地面に落ちている穂を拾えるのは社会福祉的意味があったのな。活力ある男子は拾ってはいかんらしい。


 昨日と同じ場所にピクニックの用意ができていた。これまた豪勢で今日は豚の丸焼きが出ていた。鉄の棒に串刺しになった豚をナイフで削りとって黙々と食った。俺はなるべく高カロリーで腹持ちがよさそうなものを選んで食べ、配給されたパンは保存用にポケットにしのばせた。水分はできるだけ取らず固形のものを腹が膨れ上がるまで食い続け、ズボンのベルトの穴を三つほどゆるめてひっくり返り、じっと消化されるのを待った。

 日が傾いてそろそろお開きの片付けがはじまると、俺はムクリと起き上がってテーブルに残っている干し肉とベーコンをありったけ確保し、茶色に汚れたワイシャツに包んで持ち帰りにした。そういや昨日の残りはどうしようか、薪割まきわりのおっさんのところにいる豚にでもやろう。これもリサイクルってやつだ。


 丸っこい修道士が今日の日当にコイン一枚をくれた。このコインの経済的価値がどれくらいのもんか分からんが、どこかでパンとエールを買うことくらいはできるだろう。修道士は、この辺の刈り取りは終わりだが道を行けばまだ雇ってくれる農地がある、と教えてくれた。いろいろ面倒を見てくれてありがとう。俺はいちおう薪割まきわりのおっさんにも礼を言い、庭にいる豚に昨日食った残りをやって別れを告げた。


 誰も見送る人はなかったが村を出てからも何度もふり返り、すがすがしい労働の汗を思い返しつつ崇高なる勤労の余韻よいんに浸っていた。帰ったらSOS団農場でもはじめるかなどとマジで考えながら俺は荷車を引き、修道士に言われたとおりの道なりに進んだ。この荷車さえあれば荷物運びのバイトができる。それで食い物に困ることはないだろう。まさかこの廃品まがいの建材に助けられるとは、持つべきは時間移動技術の事故で一緒に落っこちてきたドアだな。

 道はゆるやかな丘陵きゅうりょうにさしかかり麦畑と放牧地を抜けて森の中へと続いていた。さて、今後どうするかだが、今の季節が九月か十月だとして、このまま冬までバイトにありつける保証はない。たまたま俺は運よく収穫期に落ちてきたらしい。たしかイギリスは緯度的には北海道よりも北にあったはずだ。野宿なんかしてて凍死とか笑えん。南下して大陸に渡るのもいいかもしれんが、SOS団のメンツを探しださないことにはどうにもならない。なにか手がかりになるようなものは、ハルヒはともかく長門と古泉ならどこかにメッセージくらいは残すだろう。過去の経験から言えば、図書館とかグラウンドとか、もしかしたら学校なんかもあるかもしれん。だったらもっと大きな街に出ないとだめかもな。

 俺はマンチェスターだったかカンタベリーだったか、かすかに記憶に残っているロンドン以外の地名を思い出そうと頭頂部を叩いてみたがむなしくペンペンと乾いた音がするだけだった。ああ、古泉の博学と記憶力がうらやましい。とにかく食うことを優先しながらあいつらを探すことにしよう。根拠はないが、どうやら今回は長期戦になりそうだという予感めいたものがあった。


 茂みの中からガサゴソという音がした。日も暮れて森のなかはだいぶ暗くなっていた。俺は立ち止まって鹿かイノシシか、あるいは狐でもいるのかと様子をうかがった。とっ捕まえて焼いて食おうかと思ったがあいにくとナイフもライターもない。村にいる間にナイフだけでも買っとくんだったなと後悔した。

 茂みの中から出てきたのはヤバい薬草をくれたロンゲ野郎だった。にこやかに笑っている。俺の後ろで音がしたのでふり返ると仲間らしき野郎が二人出てきたが、後ろ手になにかを隠している。俺の空気を読む能力はよく当たる。笑ってはいるがこれは友好的な雰囲気じゃないぞ。俺はなるべくそいつらと距離を取ろうと、荷車が盾になるようにぐるりと回した。

 ロンゲ野郎はニヤニヤしながら俺になにかをよこせと言っている。金か、あんなはした金欲しさに三人で張っていたのかよ。ここで穏便おんびんに渡してしまうのもありだったのだが、なんとなく俺は肉体労働の爽快感から自信過剰になっていたというか、自分の労働で得たものを安々と渡す気にはなれなかったのだ。オイオイ冗談はよせよ、俺たち一緒にラリった仲間だろ? ロンゲ野郎はナイフをチラつかせている。

 俺はいきなり荷車をロンゲ野郎に放り、荷車はそいつの腹に当たって押し倒した。そのまま走って茂みに駆け込み逃げようとした。ところがなにをトチ狂ったのか俺は上り坂を走り続けた。樹の幹を右に左に避けて走ったつもりだったが、だんだん足の回転が鈍くなり追いかけてきた二人に後ろからタックルを受けてあっさり転んだ。それから蹴る蹴る棍棒こんぼうで殴るの応酬おうしゅうが続き、俺は頭を抱えてじっとしていた。起き上がったロンゲ野郎が追いついたらしく思い切り腹を蹴られ、三人にサンドバックにされていた。ときどき目の前が真っ白になり、よく漫画で目から星が出るシーンがあるがあれは本当にあるんだということを初めて知った。

 ボコッという音が響くのと世界が消えていくのとが同時だった。すまねえ長門、今回ばかりは負傷退場だ……。


 顔に冷たいものを感じて目が覚めた。目を開けようとしたがまぶたは半分ほどしか開かなかった。痛む首をゆっくりと回して上を見上げるとポタポタと水が降ってきている。朝らしい。あの後ずっと気絶していたようだ。反射的に身を守ろうとして動こうとしたがまず腕が上げられなかった。足も動かせず、呼吸をするたびに肋骨が痛む。

 俺はゆっくりと体を右に倒し、痛みが引くまで待ち、次に仰向あおむけになり、また待って、右に起こし、顔をしかめて待ち、うつ伏せになり、なんとか回転させて雨のしずくの当たらない樹の根元まで転がった。よくは見えないが体中が血だらけになっている。ほっぺたにヌルヌルするものが張り付いてるが、あいつら思い切り頭を殴りやがったな。

 寒いと思ったら上着を着ていない。シャツも着ていない。くっそ、追いぎかよ。ズボンは履いていたが革のベルトがなくなってる。時計は、時計、まだ腕に収まってた。あいつら腕時計の外し方が分からなかったらしい。手首のまわりが真っ赤になっている。動くよりじっとしているほうが楽なので、俺は腫れ上がった目を閉じたまま眠気が訪れるのを待った。

 そういえば尻のポケットの財布がない。最初からコイン二枚で手を打てばよかったのだ。慣れないことはするもんじゃない。やっと審査が通ったクレカが一枚と、えーとお札が五千円と千円札が二枚、小銭は七百円くらいだったか。俺は覚えている財布の中身を数えた。ああ、大事にとっておいた西宮市立図書館の貸し出しカードも持って行かれちまったな、すまん長門。

 体が冷えてきたのか尿意を催し、立ちションでもするかと思っても体が動かない。しばらく我慢していたのだがとうとうズボンの中に漏らしてしまった。自分の出した小便が流れて湯気が立っている、その暖かさが妙に気持ちよくて情けなくてニヤニヤしつつ泣けてきた。もうどうにでもしてくれ。


 次に目が覚めたときはだいぶ明るくなっていた。雨は相変わらず降り続いていてときどき雷が鳴っている。腹が減ったしのども渇いた。少しは動けるようになったかと思いゆっくりと上半身を起こしてみた。さらに深呼吸しつつ、近くに落ちていた樹の枝を支えにしてゆるゆると立ち上がった。頭がクラクラして目眩めまいがするがなんとか歩けそうだ。くっそ、あいつら俺の革靴まで持って行きやがった。靴下だけでどうしろってんだ。

 雨に濡れながら、杖をつきながら一歩ずつ、背中を丸めて俺は足を前に進めた。どうやら折れてはいないようだ。あちこちの傷口から血が垂れて痛むがいつまでもここで寝てるわけにもいかない。

 俺は荷車があったとおぼしき方向に下っていったがなかなか道にはたどり着かず、何度も顔を上げて見回してみるのだが方角すら分からない。もしかしてあいつら荷車も持って行ったのか。時計は十時ちょっと過ぎだった。村に戻ろうかとも思ったが道がないんじゃ戻りようもなく、いったん森を抜けようと思ってまっすぐに丘の頂上を目指した。

 一歩ずつ足を引きずりながら、ひたすらまっすぐに坂を登るとようやく道に出た。相変わらず深い森のなかだったが馬車のわだちの跡がある。雨で泥になった道の上を俺は杖を頼りにのそのそと歩いた。ズボンからひどい悪臭がする。いっそのこと脱いでしまえばいいのだがそうなるとパンツ一丁になってしまい、軽犯罪で俺のほうが逮捕されかねん。


 その日は一日中雨が降り続き、昨日までの晴れ間が嘘のようだった。村で麦の刈り入れを急いだのは天気が崩れる前に済ませたかったのかもしれない。薄暗い森の中を泥だらけになりながら、ほとんどカタツムリ並みの速度で歩いていると平地に出た。畑が見えないところをみると、どうやら村とは反対側に出てしまったらしい。丈の高い草が生えた草原で見晴らしは良く、遠くに石垣が見えた。その向こうに湖が見え、急にのどの渇きを覚えて俺はそっちに足を向けた。通りがかった誰かに助けてもらえないかと、ときどきふり返ってみたが家も人の気配もなかった。

 なかなかたどり着かず歩き続けて小一時間、俺はだんだんと体が熱っぽくなってきたことに気がついた。心なしか視界がぼやけて見える。水分補給にとにかく湖まで行かないとな。

 はぁはぁと荒い息をしながら湖にたどり着き、石がごろごろしている岸辺まで降り、腰まで浸かりながら水を飲んだ。真水まみずをガブ飲みしてはいかんのだが、昨日からまったく飲んでないので勢い余って飲んでしまった。

 俺はズボンとトランクスを脱いで水で洗った。風邪なのかそれとも全身の傷が化膿してるのか分からんが、朦朧もうろうとしながら顔を洗い、固まった血を洗い流した。熱っぽいはずなのになんだか寒気もする。

 濡れたままのズボンをまた履いて、上半身は裸のままガクガク震えながら石の上に座っていた。薄暗い雲から容赦なく雨が降り注いでくる。そのとき、湖の真ん中にポゥとオレンジ色に光る玉が浮かんだ。その球体はだんだんこっちに近づいてきて、俺は腫れたまぶたを手で引き上げて凝視ぎょうしした。古泉か、助けに来るの遅すぎだぞ、もっとマシな格好で現れ……と言おうとしたとき、その中から仙女のような衣装の女の人が現れた。やべー、とうとう幻覚まで見えるようになっちまったぜ俺。

 たわわな長い髪を揺らした、薄い羽衣をまとった精霊のような女性だった。って喜緑さん! あなたこんなところでなにやってんですか。

 喜緑さんっぽい精霊はなにも言わずに微笑ほほえみ、ゆっくりと左手の方角を指差した。俺がそっちの方角を見て視線を戻すとふっと消えた。ああ、そっちに行けってことなんですね。にしても長門が助けに来るとばかり思ってたのに、なぜに喜緑さんなのでしょうか。

 それが俺の妄想だったのか幻覚だったのかは分からんが、とりあえずなにかのしるしのような気がして俺はまた杖をつきながら歩き出した。


 穏健派おんけんはの精霊が指差した方向を心に刻み、荒い息をしながら俺は歩き続けた。腹減った。くっそ~あいつら、待ってろよカレーの具にしてラッキョウと一緒に食ってやるからな。

 森の脇に高い柵で囲まれた敷地があった。中には割と大きめの建物が建っていて、柵の周りは畑になっていた。屋根の上に十字架が飾られているようだが、ここは教会か。とにかく雨宿りくらいはさせてくれるだろうと門をドンドンと叩いた。叩いたつもりだったが弱々しい俺のこぶしでは音が出なかった。門の前に鐘が下がっているのに気が付きひもを引っ張るとカラカラと湿った音がした。俺はもう心底尽き果て、門の前に座り込んだ。

「ジパング?」

ドアの隙間から呼びかける声が聞こえたが、俺にはもう返事をする体力は残っていなかった。

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