二章

 その日の夜七時ごろ、残業の疲れもまだ抜け切らない帰宅途中の電車の中で、

「……付き合って」

あのー長門さん、付き合うっていうか、俺たちここ七年ほど付き合ってなかったっけ? というボケは軽くスルーされて、

「……異時間同位体からの要請」

「ってことは過去の長門?」

俺の質問に長門はいつもより長めに考えるしぐさをして、

「過去であってつ未来、未来といえども過去……昨日見た未来……明日への回帰」

「そ、そうか。また頭痛がしそうなんでその辺にしといてくれ」

「……あと、古泉一樹も召集して」

古泉が必要ってことはなんだろ、カマドウマに乗ってロデオでもするのか。羽を落としたキリギリスのアスペクト比を小さくしたみたいな暴れる昆虫の背中で、上下しながらにこやかにテンガロンハットを振っている古泉をなんとなくだが妄想した。ってオイなんで全裸なんだよ古泉。


 夜も更けた午後九時、疲れた体のままの俺は同乗の長門と共に東中に向かい、近くの霊園の駐車場に車を停めた。人通りがないことを確かめてから東中の北側の門の横にあるフェンスを堂々と乗り越えて(俺が門を開けて長門には普通に入場していただいたが)、もはや慣れ親しんだグラウンドに侵入を果たした。ありがたいことに校舎は真っ暗で誰もいる様子はなかったが、俺としてはやることやってさっさと撤収てっしゅうしたい気分だった。

「どうもお疲れさまです、お二人さん」

 五分前に電話で呼び出したのに先に到着していたらしい古泉はなんだかワクワク感が満載で、またよからぬ期待に胸をときめかせてもいるようで、

今宵こよいはご招待にあずかりまして、この古泉、感謝感激の至りです」

自分を名前で呼ぶ始末だった。

「そうあんまり夢見る少年みたいな笑顔を見せるな。こっちがナーバスになる」

「一度皆で時間移動してみたかったんですよ」

お前がそこまで時間移動したいならいっそのこと朝比奈さんに賄賂わいろでも渡して連れて行ってもらったらどうだ。俺は別に止めはせん。

「立場上、そういうわけにはいきませんね。未来人組織とは敵対関係はないものの、協定はなく同盟はしていない、利害関係が必ずしも一致するわけではないので借りは作りたくありません」

そうかいそうかい。俺は朝比奈さんとデートできるだけでも十分な利益になると思うがね、あ、ごめん今のはただの妄言だ長門。

 というやり取りはどうでもよさげな長門は、

「……今回は、わたしたちは時間移動は行わない」

「そうなのですか。残念です」

「ここが指定の場所ってことはあれだよな、地上絵を描くんだろ?」

「……そう」

俺は懐中電灯を頼りに、例によって体育倉庫からゴロゴロとラインカートを引きずり、今回はありがたいことに肉体派の助っ人がいるので消石灰の粉(最近は石灰じゃなくて炭酸カルシウムが主成分の粉らしいのだが)十キロ入りを古泉に二袋担がせた。気合入れてスリーピースのスーツなんぞ着てくるから真っ白になってるじゃないか。ああ俺も背広のままか。

「このグラウンドはむかし地上絵騒ぎで新聞記事になったことがあるんですが、あれとなにか関係があるんですか?」

ギクリとするような質問をサラリと言ってのける古泉の発言に、俺と長門はピタリと足を止めた。いつか近い未来に知ることになるのだとしてもだな、お前にとっては禁則事項なのだ。

「……状況は似ているがあれとは異なる」

「まあ、あんまり詮索せんさくするな。なにも知らないほうがむやみに旋風に巻き込まれずに済むってこともある」

「そうおっしゃる割にはあなたが最もハリケーンに巻き込まれている第一人者のような気がしますが」

古泉は自分で言って眉を震わせながらクククと笑ってみせ、俺は眉間と耳をピクと動かした。んなこたぁお前に言われんでも分かっとるわ。


 「……はじめる」

グラウンドの中央に立った長門の号令一過、俺たちはGPSも距離計も測量棒もなく、ただただ長門が立っている場所からの相対位置で「……半径二十五メートルの円、さらに中心を通る直線を等分に分割した円を二つ」とか「……垂直二等分線を引いて外円との交点から内側の円二つに接する半径の円」とかいう指示をまじめに描こうとしていた。

「長門、俺そんなんわかんねーよ」と涙目になっていると、古泉が、

「分かりますよ。正五角形でしょう?」

LEDの白い光に照らされ前髪をサラリとかき上げながら、地面に指先で大きな円の内側に小さな円を二個、垂線と円が交わる点を中心にしてもう一つの円を描いてみせた。五つの点を結ぶと五角形になる。妙にイライラするが古泉よ、SOS団のパシリにてっするなんてお前は頭脳の使い道を間違ってるぞ。

 上着を脱いでいるのに汗だくになりつつも小一時間ばかりで現場監督のイメージする幾何学模様ができあがった。今回要求される精度はハルヒの比じゃないらしく十センチのズレも許されなかった。おかげで超ハイクオリティの線画が出来た気がする。なんならナスカ絵の作者とエキシビジョンマッチしてもいいぞ。

 最後に長門がラインカートを持ち、絵の周りをなんのガイドもなくぐるっと曲線で囲み、その外側にゴリゴリと記号めいたものを描いている。少し離れてみてみるとどうやらこの絵はまわりを二重の真円で囲まれているようだ。このグラウンドには百メートル走の直線コースが引かれているが、その長さから考えると直径五、六十メートルはあろうか。

 長門がつらつらと描く記号を見ていた古泉が、

「なるほど、結界ということですね」

何を見てそう言っているのか、俺の足元から遠くに視線を移動して眺めていると、

「長門さんが描いているのはたぶんラテン語です」

「なんて描いてあるんだ?」

「エッセ、ホモ、クイエスト……なんとか。聖書の一節でしょう」

なんでまたそんな西洋趣味の地上絵なんだ。


 「……少し、離れて」

出来上がった図の、たぶん円の下にあたる場所に三人が立ち並び、五メートルほどバックしてから長門が右手を上げた。

「……エセ、ホモクイエスト、ハルヒナ……シクイス……アウテム……ベストゥルマリエノス……」

ゴニョゴニョと長門の口元が動き、データベースサーバを召喚しょうかんするのとはまた違ったクラッシックな響きのする呪文を唱えた。地面から、俺達が描いた地上絵から白い光の柱がレーザー光のように立ち上がった。長門の指先が円を描くとレーザーの柱はゆっくりと右回りに回転を始めた。よくよく見ると柱の断面は星形になっている。

「これってもしかしてペンタグラムか」

「……そう」

古泉が結界だと言ったのはこのことか。

「古くはヨーロッパで、まだ錬金術と占星術が隆盛りゅうせいを極めていた頃に使われたものですね」

それくらい俺だって知ってるさ。悪魔召喚あくましょうかんとかやってたんだろ。

「それはファンタジー世界のほうですが。実際は占いや魔除け用に使われていたそうです。日本でも陰陽師おんみょうじが使っていました」

レーザーの淡い放射光に照らされた古泉の笑う顔が見えた。


 ゆっくりと回転する星形の柱がだんだんと速度を増してゆき、やがて一本の巨大なあやしく光る円柱に変わった。柱のまわりに冷気のようなもやが漂い、なにやらうごめくオーロラのような不気味な模様を描いている。その柱の天辺から青い煙のようなもやもやしたものがあふれ出てきたとき、

「来ます!」

古泉の表情が険しくなった。いったいなにが出てくるのか、変なものを召喚しょうかんしないでくれよと拝んでみたものの、ここまで来て中止するわけにもいくまい。

 どんよりと立ち込める青いスライムのような気体が、ペンタグラムの外側の円を境界線にして、少しずつ、コップの底に注がれるように下から溜まっていった。これが結界ってことは、この青いやつが外界に漏れ出さないようにってことなのだろうか。

 青いガスはモコモコとあちこちに凹凸を作りながら円柱の上まで充たされ、直径五十メートルはあったものが少しずつ細くなってゆき、だんだん何かの形に収まろうとしているように見えた。そこに手や足や、頭のようなものが出来、俺にはどうやら人型に見える。

「神人ですね」

大きなペンタグラムの真ん中に立っているのはまごうこともない神人。全体的には青く、部分的に白く光っている。生まれたばかりの新人という感じがしないでもない。ダジャレかよ。

「神人って現実世界で実体可能なのか」

「いえ、そのはずはありません。たぶんこの結界の中だけで実体化が許されているのでしょう」

「……これは、通常の過程を経て生まれた神人ではない。エネルギー媒体ばいたいとして利用している」

長門の言っている意味は俺には分からんかったが、古泉にも分からないようだった。

「長門さん、僕が呼ばれたということは、これを消滅させればよろしいのですか?」

「……」長門は少し考え込んでいた。「……少し、待って」

その神人はというと、三つの赤い点がじっと俺たちを見つめ、閉鎖空間でのバイオレンスショーのように暴れたりせず、こいつにとっては拘束具であるはずの結界をむしろ黙って受け入れているようにも見えた。

「いつもと様子が違いますね」

戦闘を予期して赤い玉になろうとしていたらしい古泉は、握りしめたこぶしをゆるく開いて言った。神人は頭を俺たちに向けたままゆっくりと四つん這いになり、なぎはらえ! ではなくてオエエェという感じで赤く開いた口からなにかを吐き出した。ボトリと二つのかたまりが地面に転がり、さらに二つは空中でくるりと回転して地面に着地した。さらに俺の目の前に大きなかたまりが地面をカチ割る勢いでドスンと落ちて来て砂ぼこりを上げ、グラウンドにそそり立った。それはドアだった。なんで建材が? 微妙に錆びついてて蝶番が壊れてるところを見ると、猫型ロボットのものではなさそうだが。

「これはこれは、皆様おそろいで」

回転着地を決めたのは古泉、の格好をした古泉だった。

「お前は誰だ? 未来から来たのか? なんで古泉コスプレなんだ?」

「いえ、僕は僕、古泉一樹本人です。この時間平面の僕です」

まるで朝比奈さんのセリフを横取りしたような古泉の口調はあまり似てはいなかったが。

「それになんだその王様みたいな衣装は、ドラゴンファンタジーかファイナルクエストか」

「どっちかというと指輪物語が近い気がしますが」

中世風のチュニックとマントに身を包んだ古泉は、なんだか妙に動物臭がするしコスプレにしてはリアル感がありすぎる。それから長門もなぜかポニテで、かわいい感じにはなってるんだが地味な色のアンティークなドレスを着ている。そういえばハルヒは、ハルヒがいったいどんな格好をしているのか興味津々なのだが、そういえばさっきからずっと声すら聞こえない。

「ハルヒはどこだ?」

「ハルヒならそこに転がってるだろ」

そう言い放ったのは俺だった。というか俺じゃなくて神人の赤く開いた口からゲロのように吐き出されて頭から地面に衝突したらしい俺(大)だった。頭を押さえてしかめ面をしている。俺(大)のコスプレは古泉のとはまったく違っていて、こっちのはもっとみすぼらしい身なりだった。

 転がってると指さされたほうを見ると、確かにハルヒが転がっていた。古泉がマネキンみたいに固まったハルヒの顔の砂を払った。天に向かってビシ指をしたまま何かを叫んでいるみたいだが、そのままの姿で凍っている。なんだこりゃ1/1スケールのプレミアムフィギュアか。しかも格好が西洋のお姫様というか女王様というかこれまた懐古かいこ趣味な。

「実は涼宮さんが、時間移動の直前になって自分は帰らないと言い出されまして、長門さんにお願いして凍らせていただいた次第です」

なるほどね、量子凍結とか言ったかな。

 俺の隣にいる今現在の古泉はなにやら感動をおさえきれない風で、

「どうもはじめまして古泉です。まさか時間の異なる自分に遭遇そうぐうするとはなんという好機でしょうか」

「どうも古泉です、いつも僕がお世話になっています、あ、お世話しているのは僕自身ですね。あはははは」

「ところであなたが僕を殺したら法的にはいったいどんな罪になるんでしょう大いに謎ですね。あはははは」

どうでもいいタイムトラベルジョークを言い合って嬉しいのか大仰おおぎょうに笑い合っている二人である。

「どうでもいいんだが、長門? っていうかそっちの長門、何があったんだ?」

「……それは禁則事項。知らないほうがいいこともある、あなたにとってはそれが不幸を招く」

うーむ。長門にしては若干饒舌じょうぜつになってるような気もするが、こいつまでが禁則事項を言い出すとは、これは銀河規模のとんでもない災厄に巻き込まれそうな気がする。

「ともあれだな、この神人をなんとかしないとまた新聞ネタになりかねん」俺はぼんやりと突っ立っている半透明の巨人を親指で指して言った。

「消滅させたほうがよろしいでしょうか」俺の古泉が言った。古泉(大)はそれを制し、

「いえ、ここは僕に任せてください」と言う。「皆さん少し下がってください」

古泉(大)はペンタグラムに見えない円柱の壁があるかのようにその円の境界線を手さぐりで探していた。腕を差し入れると結界の壁が抵抗するかのように光り、古泉はじわじわと腕から肩、頭から胴体と中に入り込んだ。

 ペンタグラムの中央、神人の足元に立ち止まると古泉は目を閉じ、何事かを念じ、羽織っているマントが膨らみはじめる。グラウンドには風もないのにバタバタとマントがはためいた。右のこぶしを握り、左膝ひだりひざをついて上から地面を叩きつけるかのような仕草をした。足元のペンタグラムが大きくれ、キッという感じに目を見開き、日頃は見せない八重歯をチラりと覗かせ、唇だけでニヒルな笑いを浮かべた。

 まばゆい光が古泉を包んだ。それは白から赤へと色を変え、球状へと形を変えた。赤い玉は一気に拡大し、上空へと吹き抜け、青い神人を包み、ペンタグラムの結界全体を包み込んだ。次の瞬間赤い光は消え去り青く光る神人が少しずつ収縮し始める。

 五十メートルは軽く超えていた神人が、青く光る柱になり、細くそして短くなり、光を発しながら少しずつ小さくなっていく。ゆっくりと地面に降りてくる青い玉の行方を目で追うと、やがて古泉の両手の中に収まった。

 古泉がその小さな白い光をハルヒの頭に乗せると、一瞬だけ輝いてそれは消えた。そして後にはなにも残らず、光の柱も、地上に描いたはずのペンタグラムも一緒に消えていた。

 初っ端から派手すぎんだろ。こういうかっこいいシーンは最後に取っとくもんだぞ古泉。

「お言葉ですが、今の僕はすでにクライマックスを終えて帰ってきたところなのですよ」

これからあなたが遭遇そうぐうする苦労が目に浮かびますよ、という感じにクククと笑った。うう……これが未来人の余裕か。

「ところで、いつもと違うな。今のは新しい技か」

「いえ、別段目新しいわけでもないのですが」古泉は笑って言う。

「今までのやり方だと一方的に切り刻んで消滅させてたろ」

「そうですね。最近僕は思うんですが、この神人は涼宮さんの分身のような存在なのではと。それをあっさりと消してしまうのは、なんだか涼宮さんの生きる力を否定しているようで忍びないのです」

おお、このエスパー戦隊は敵に対して慈悲を示したぞ。なんだか少したくましくなった気がする。隣で俺の古泉(小)も実に素晴らしいことですとうなずいている。


 「えーっとだな、お前たちがここにいるってことはこの時空には全員が重複ちょうふくしてしまってるってわけだから、俺たちが消えるなり移動するなりするまでどこかに身をひそめてたほうがいいと思うんだが、どうよそっちの長門?」

「……そう。わたしたちは少し戻る時間平面が早すぎた」

だよなー、タイムトラベルにはこういうハプニングがあるだろうなといつも思っていんだ。元の時間に戻るつったって数分間違えるとこういうことになるんだ。

「おい、俺、今何時だ」

腕時計をはめていない俺(大)が俺に向かって言った。

「九時半を回ったところだが」

「家にも帰れんしこんな格好じゃ会社にも行けん。すまないんだが長門、三人を泊めてもらえないか」

「……未来の情報が漏洩ろうえいする可能性がある。お勧めしない」

俺(大)はなにか言いたそうだったが、

「しょうがないな、いつものごとく鶴屋さんに頼もう。おい電話貸せ」

そういって俺(大)は俺のポケットからスマホをひったくって電話をかけた。なんだこいつ、俺ってこんなにマナーのないやつだったか。いくら自分とはいえ人にモノを頼む態度かこれが。これは俺の知ってる俺じゃない気がする。

「ありがたい、鶴屋さんが泊めてくれるとさ。返すぜ」スマホを投げてよこしたが、「おい車貸せ」今度はキーを取り上げやがった。鶴屋さんちならここから歩いていける距離だろうが。

「金よこせ」

財布から札を抜き取られ、自分からカツアゲされるとはなんという屈辱だ。ちょっと見ないうちになんだかギスギスしてるな。古泉はマッチョになってるし俺はドラクエ全シリーズ制覇しましたみたいな顔をしているし、こいつら時間移動の間にいったいなにがあったんだ。

「それからそのドア、会社まで運んどいてくれ」


 異時間同位体の要請とやらはどうやら自分たちが帰ってくるためのペンタグラムを用意しとけということだったらしく、用済みとなった現在の俺たちを残してさっさと消えやがった。去り際に長門(大)だけが手を振ってくれたが、右手で俺(大)の手を握ったまま離そうとしなかった。

 俺たちは空から降ってきた意味不明なドアを徒歩で持ち帰るというメッカ巡礼者並みの苦行を負わされ、とても北口までは歩いていける体力もないので長門マンションの物陰に置いてもらい、翌日ホームセンターで九十分無料の軽トラックを借りて職場に運ぶという意味分からん仕事をさせられるはめになった。このドア、よく見ると研究室のドアと同じものなのだが、俺がそれに気づくのは明日になってからだ。


 翌朝、就業開始と同時に電話が鳴って俺は受話器を取った。朝から実験と聞いて俺は書類仕事を後回しにして部屋を出ようとしていたところだ。

 受話器のスピーカーからガンガンがなりたてる声が聞こえて顔をしかめた。

『あーもしもしSOS団? 外務省からお客様が見えるから掃除しといて。特に開発部とか汚いから片付けといてよね。部長氏いないの? ってあんた誰よ、うちの会社に入り込んでなにしようっての!? もしかしたら今をときめく産業スパイね! おわーっキョンなにするやめふじこ!!』

プツン、つーっつーっ。叫ぶだけ叫んで切りやがった。ときめいてはいないですが。

「会社こねーでいったいなにをやっとるんだ。ハルヒのやつ、言ってる意味も分からんぞ」

と、受話器を戻しながらブツブツつぶやきつつ後ろをふり返った。

「あたし、ここに、いるじゃない」

ふり返ると、社長イスにあぐらをかいたハルヒが目をまん丸く見開いて不思議そうな顔をしている。

「え……、あれ?」

俺は受話器とハルヒを二度ほど見比べて、今のはいったい誰が得するドッキリだ、などと誰に突っ込むでもなく、同時にいつもの違和感が漂い始めているのを察知した。

 古泉と長門に向かって首をかしげてみるが、二人とも台風が通過したあとの台湾のポストのように首をかしげて返してきた。ということは今のハルヒの電話事案は超能力者や宇宙人の管轄かんかつ外ってことか。

 俺は朝比奈さんに手書きメモを渡した。

〈今の電話についてなにか知ってますか〉

〈いいえ何も知らないわ〉

〈禁則事項?〉

〈本当になにも〉

〈今回朝比奈さんが未来から出張してきた理由はなんですか〉

〈タイムマシン開発の過程で涼宮さんが雅、概、規、きていじこうから外れないように監視しに来たの〉

ああ、既定事項って漢字が書けなかったんですね。

〈この会社と朝比奈さんの組織ってなにか〉とまで書いて、

「こらみくるちゃんとキョンなに中学生みたいにコソコソ筆談してんのよ、ちょっと見せなさい」

うお抜かった。

 そこでまた電話が鳴り、今度は奪うようにしてハルヒ自ら受話器を取った。俺はハルヒの手からメモ紙を奪い取ってくしゃくしゃに丸めて飲み込んだ。うえぇ。

「お世話になっております、株式会社SOS団です」

 俺はここで電話を阻止するべきだったのだろう、と後になって述懐じゅっかいするかもしれないという直感的なものはあった。俺がいつぞやの七夕にタイムトラベルをして以来、時間のパラドックスについては何度も注意を受け、自分自身でも禁忌きんきを破ったことさえある。い、いや破ることになった、と未来形で言うべきか。つまり、さっきの電話がハルヒだとしたらそいつは時間的にねじれた存在で、そいつとここにいるハルヒが遭遇そうぐうでもしたら、その事故解決に奔走ほんそうさせられるのは当然俺達だ。

 ところが電話の相手は、

「あ、鶴ちゃん、こないだはありがとねぇ。え、外務省の? 外務省がうちみたいな零細に?」

この口調からすると相手はハルヒではなさそうだ。やれやれ、安堵あんどの溜息が漏れた。

「いいわ、ちょうど今日タイムマシンの実験をする予定だったから。んじゃ午後ね、待ってるわ」

電話を切って、今度はハルヒが怪訝けげんな顔をしていた。

「なんかね、鶴ちゃんが外務省のなんとかいう部署の人を連れて来るって。古泉くんに会いに。それだけしか言わなかったわ」

古泉ならむしろ警察庁とか防衛省筋だろう、というツッコミがなぜか脳裏に浮かんだ。うちの統合型業務支援AIの噂を聞きつけて海外展開の助成金を出そうとか、そういうめでたい話なら大歓迎なのだが。

「古泉、まさかとは思うがタイムマシンの営業をかけたりしてないよな」

「してませんしてません。タイムマシンの開発は極秘中の極秘という厳命げんめいですよね、社長」

「そ、そうよ。もちろん社内秘に決まってるじゃないの」

おいハルヒ、社外秘って言いたいんだよな。そのコメカミから垂らしてる冷や汗の三本の筋はいったいなんだ。絶対吹聴ふいちょうして回ってるだろ。

〈外務省ってもしかして未来人組織ですか〉

朝比奈さんは苦笑しつつ、

〈違うと思うわ。何人か調査員は紛れ込んでるかもしれないけど〉

 そういえば最初の電話のハルヒも外務省がどうとか言っていた。ゆるやかに、最初ははしはしが触れ合う程度だが、やがて確実に、なにかとなにかが衝突しはじめている予感がする。台風の始まりが小さな渦巻きであるように、どんなトラブルもまわりにあるいろんなものを巻き込んで少しずつ大きくなっていく。これは一波乱あるに違いない。こういうときの予感だけはなぜか当たる。当たって欲しいトトくじは一向に当たらず、悪い予感のときにかぎって髪の毛が何本かピピンと逆立ち、オウンゴールの高確率を知らせるのだ。

 不安になり長門の様子をうかがってみると、さしてアラートっぽい表情はしておらず、会話を聞いてないのかパソコンの画面に集中したまま黙々とキーボードを叩いている。視線を感じたのかチラと俺を見たが、つややかな口紅の色に見とれてしまい表情を読めなかった。なかなかいいですよその口紅、ハァ。


 俺達は実験室に入り、昨日の続きをやることになった。続きといっても今回のタイムマシンは、テーブルにモノを置けば十五分ごとに勝手にタイムトラベルしてくれるというもので、特に下準備がいるわけではないらしい。ハカセくんと長門がやっているのは主に測定で、転送中の量子状態とか分子構造なんかを調べているらしい。重力を使っているので途中で押しつぶされたりしては大変だからな。

 重力の変動にもっとも耐性がありそうな鉢植えのサボテンが、タイムトラベルにいどんだ生きた生命体の第一号だったが、五分後に現れたときひっくり返っていて台の上に土もろともぶちまけられたのを見たときには見学者全員が驚愕きょうがくした。いや、単に着地に失敗しただけだろ。


 小一時間ばかり続けて少し疲れたのか、ハカセくんはさっきからあくびを繰り返している。たぶん昨日ワクテカしすぎて眠れなかったのに違いない。どれ、俺もコーヒーでも飲むか、それより研究チームになにか差し入れでもしてやろうと椅子から立ち上がった。

「ハカセくん、俺はみんなにおやつを買ってくるが、ちょっとコンビニに付き合わないか」

「あ、はい。お付き合いします」

「みんなはリクエストなにかあるか?」

「ではお言葉に甘えて、僕はなんでもかまいません」

ほんとになんでもいいんだな? ちゃんと食べてもらうからなフヒヒ。皇帝ハバネロアイス……は売ってたかな。

「……抹茶アイス」おう、了解した。

「あ、リクエストしていいの? わたしはいちご大福がいいな」朝比奈さんらしい。

「あたし特上トンカツ弁当ね」

お前んちはおやつにトンカツが出るんかい。

「なんか実験見てたら無性にトンカツが食べたくなってきたのよね~」

お前は何を見ても食べたくなる性分だろうが。しょうがないハルヒを黙らせるにゃ胃をたすもので口をふさぐしかなさそうだ。まあ会社の福利厚生ふくりこうせい費から捻出するので俺はいっこうに構わんのだが。経理をやってるとこういうときにメリットがあるのは秘密だ。


 ハカセくんと連れ立って近所のコンビニに入り、雑誌コーナーでしばし立ち読みした後、みんなの注文通りのものとペットボトルのジュースと麦茶、ハカセくんはスナック菓子、俺は自動ドアの前にある経済新聞を抜き取って、店員に百円のアイスコーヒーを二つ頼み、レジでSOS団宛に領収をもらった。もちろんポイントは俺のもんである。奥にある冷たいビールにそそられそうになったが、まあ後にとっておこう。

「コーヒーでよかった?」

「ありがとうございます」

二人でイートインに座り、俺はコーヒーに浮かんだ氷をガリガリと噛みながら新聞を開いた。


「でも本当にタイムマシンを開発するなんて、映画とか小説の世界だけだと思っていたんですが」ハカセくんは思案げに言った。

「まあこの実験はうちの余興よきょうみたいなもんだ」

SOS団がこれまでやってきたことといえばすべてがそうなので、世間の常識からするとすでに感覚が麻痺まひしている俺である。

「あの涼宮姉さんなら、なんとなく成功しそうな気が、しませんか」

「う、うん。そうなのかもしれんし、そうでないのかもしれんし……」

ハルヒに夢と希望の未来を託しているキラキラ目のハカセくんには悪いが、最後はモゴモゴとごまかした。成功したこともあるし、しなかったこともあるし、朝比奈さんとしては今すぐ成功してくれるのは困るわけで、実験レベルでは成功、将来は実用化、というのが理想なようで、未来人組織もなんという無茶な注文をなさることか。古泉機関の平穏無事を望む気持ちが微量ながらも分かるわ。


 たしか長門は使用可能な時間移動の手法はおよそ二十九種類あると言っていた。これは最初からハルヒの願望で事が動いているわけで、長門および情報統合思念体はそれに乗っかる形で安全弁を用意し、なるべく悲惨な結果にならない範囲で一連の実験が続いている。もうそろそろお開きになってもいい頃だと思うんだが、どうなの主流派さん達。というか今では俺の記憶に残るようになっちまったんで、自業自得とはいえこっちの身が持たん。

 時間移動の回数は俺が覚えている限りでカウントしたとしても、両手と両足を軽く超えてるはずなのにハルヒはまだ飽き足らず、まああいつ自身の記憶にないから満足のしようがないというのがその理由だとしてもだ、何回かはまっとうな成功を収めたはずで、あいつは本当にタイムマシンが作りたいのか、時間移動に味をしめてただただ同じような事象を繰り返してるだけじゃないのか。

 分かるよなぁハルヒ、いいかげんやめにしようぜ、もうお開きに、手仕舞てじまってくれないか。はっきりやめちまえと言えないひらの取締役はまた疲れ混じりの黄色くかすんだため息を吐いた。あぁ、一万五千回もハルヒに付き合わされた長門のストレスが微量ながらも分かるわ。


 足取りも重くビルに戻りエレベータのボタンを押すが、待てど暮らせどやって来ない。なんだ、宅配便がでかい荷物の搬入はんにゅうでもやってんのだろうか。俺はわりと重い買い物袋をぶら下げてしかたなく非常階段へ向かった。そのときポケットの中のスマホが震えだした。

『もしもしキョンくん、早く戻ってきて! 長門さんが、長門さんが、』

「なにがあったんですか朝比奈さん、長門になにがあったんです!?」

俺は慌てて階段を駆け上がった。三階の防火扉に差し掛かったところで突然部屋から悲鳴が響いてきた。今の叫び声は確かに朝比奈さんだった。俺とハカセくんは顔を見合わせ、慌てて廊下を駆け抜けSOS団のドアを蹴破る勢いで開いた。そしてその奥の実験室のドアを開け、いや、開けようとしたのだ。スチール製のドアノブに手のひらが張り付きそうになって慌てて離し、買い物袋をその場に取り落とした。ドア全体に白くしもが付いている。

「ハカセくんちょっと下がってろ、ドアには触らないほうがいい」

「は、はい」

俺はこぶしでドアをドンドンと叩いた。

「おい何があったんだ! 朝比奈さん大丈夫ですか!」

上着の袖を伸ばしてドアノブを握り、思い切り回したがビクともしない。ドアを覆っていたしもがパリパリと音を立てて壁全体に広がってゆき、ドアと床の隙間から冷たい冷気が流れ出している。ミシミシと上着の袖が凍りついていくのが指先に感じられる。さっさと開けねえと俺自身が凍りついてしまう。ガンガンとドアを蹴りつけると上の隙間から氷の欠片がパラパラと落ちてきた。ノブが壊れたのか壁側のネジ穴が割れたのか、心持ちゆるんだように見えたので肩で一気に押し開けようとした。

「おい長門!、……」

体当たりでドアを開けた瞬間に勢い余ってつまずきそうになりドアノブを握りしめた。いや、つまずいたのではなかった。足元にはなにもなく、そこには暗闇があった。長門も、朝比奈さんも、古泉も、ハルヒもおらず、実験機材も、空間そのものがなくなっていた。俺はドアノブにぶらりとぶら下がったまま目を凝らした。漆黒の、すべての光を吸収する巨大な空間だけがあり、焦点を合わせられるものがなにもなく、ただ無限の広がりを持つ暗黒の宇宙が存在していた。まさか……これもハルヒか、ハルヒが本当に宇宙を作ってしまったのか。それにしちゃハルヒ自身がいねーし、これじゃ作ったんじゃなくて消しちまっただけじゃないか、などと心のなかで悪態をついた。凍りついて凍傷になりそうな右手にぐっと力を込め左手で反対側のノブを掴み体を持ち上げた。

「先輩大丈夫ですか、手を」

「大丈夫だ。危ないから、」

近づくなと言おうとしたのだが、その瞬間、突然ベキリと音がしてヒンジが外れ俺はドアもろとも宇宙の深淵しんえんに落ちた。ドアがあった空間にハカセくんが手を出しているのが浮かんで見え、それが急速に小さくなってポツリとした白い点になり、センパイと叫ぶ声がむなしく遠ざかっていくのを聞いた。

 無重力の吐きそうになる感覚に襲われながらも、脳裏には、俺が落下しているのはなぜだ、この空間に重力があるのはいったいなぜだろうか、昨日の長門、こんな恐ろしい空間に落ちるんだったら少しヒントをくれよ、古泉、これがお前の言っていたクライマックスってやつなのか、これからお前たちが出社するのか、俺が買ってきた差し入れはお前らが食っちまうのか、などという、かなりどうでもいい疑問がよぎっていた。

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