『開幕』


 二、三歳頃まで、子供には母の胎内の記憶があり、まれに前世の記憶をも有しているという。

 そうした記憶は成長と共に失われ、完全に消えていく。前世の有無にかかわらず、人は胎児の頃の記憶を失うのだ。

 だが、あらゆる物事には例外が存在する。……まさか、自分がその例外になるとは思わなかったが。

 

 目覚めた時、俺は暗い場所にいた。

 定期的に響いてくる音、暖かな世界。

 夢もなく、まどろみ続けている感覚。

 しかし、永遠に続くと思われた幸福は、唐突に終わりを告げ、全身を押し潰すかのような圧を受けた。

 世界の終焉。

 絶望の始まり。

 長い長い圧迫の後に、俺は楽園から放り出され――

「おぎゃあ」

 ――肺が膨らみ、喉から出たのは、赤ん坊の泣き声。

 俺は、自分が生まれたての赤子であると知った。


 だが、俺には明確な自我があった。そして自分に記憶がないと解った。

 思い出せるのは、自分が男であり、若者と呼ばれる年齢であったことだけ。頭には、当時の体の感覚が色濃く残っていた。

 しかし、今の体は生まれたての赤ん坊だ。

 視界は極端に狭く、歩くどころか、言葉も喋れず、糞尿を垂れ流すことしか出来ない。首も据わらず、自分の力で寝返りすら打てないのだ。なまじ成長した人間としての感覚が頭に残っているから、不自由が枷になる。


 生きた牢獄。

 地獄のような日々。

 しかも、周囲から響いてくる言葉は異国のものであり、俺の理解出来る単語は一つもなかった。

 終わることのない悪夢。

 発狂しそうなほどの絶望。


 俺という異物に、母であるフローリア・フォールブレイスだけは気付いていたようで、彼女はいつも辛そうな顔でこちらを見ていた。それが俺の絶望を更に深めたのは言うまでもない。

 存在するだけで他者に迷惑をかけているのだ。いっそ死んでしまいたかった。

 だが、出来なかった。出来る訳がなかった。

 地獄のような苦しみを味わいながらも、同時に俺は、すやすやと寝息を立てるクレアの存在を感じ取っていたのだから。


 目覚めた時から、クレアの存在はそばにあった。

 彼女こそ、生まれたばかりの赤ん坊だったのだ。

 当時、肉体の主導権は俺にあったが、空腹や不快などを示すのは常にクレアだった。

 この小さな命を消さない為にも、俺は必死で日々を耐えた。


 首が据わり、寝返りを打てるようになり、這いずって回れるようになって……

 どうにか掴まり歩きが出来るようになった頃、少しずつクレアの意識が前に出るようになった。クレアが、自身の意思で体の主導権を得るようになったのだ。

 今までも、体を自由に動かせた訳ではなかったのだ。それに関して思うことはなかったし、このまま消えてしまえれば一番楽だと思った。消滅を唯一の救いとして考えなければ、日々をやり過ごせなかったのだ。


 したくて発狂出来る人間はいない。

 人間の精神は無駄に強いのだと、俺は学んでいた。


 絶望と苦痛の日々。だが過ぎてみれば、赤ん坊の成長は早い。

 クレアはすくすくと育ち、その頃にはフローリアの笑顔も増えるようになっていた。

 やはり、俺は存在しない方がいい。そう思っていたのだが――

 赤ん坊は、赤ん坊だった。

 クレアは、俺が思うよりもずっと脆弱で、そのくせ好奇心旺盛だったのだ。

 なんでも口に入れたがる。

 尖ったものに触れたがる。

 椅子に座れば暴れ、食器をオモチャに遊び出す。

 放っておいたら大きな怪我をしそうで、ついつい手を出していた。

 クレアの意識の底に沈んでいれば、そのまま消滅出来たかもしれないのに、俺にはそれが出来なかったのだ。


 日々が過ぎ、二歳を過ぎた頃、クレアから声をかけられた。

 俺はクレアと一緒に言葉を覚えていたから、それが従兄達を呼ぶ時の単語だと解った。母フローリアが彼らを指し示し、こう呼ぶのよ、と言っていた言葉だ。

 つまるところ、『お兄ちゃん』である。

 だがそれは、外ではなく、内側に向けるものだった。

 クレアは、ずっと俺の存在に気付いていたのだ。


 クレアの好奇心は止まらなかった。彼女は、俺の存在を前提に成長していた。

 だが、周囲から見れば、実在しない兄と会話しているようにしか見えない。

 娘の奇行を心配した両親は、クレアを病院へと連れて行き……しかし医者は、心配はないだろう、と告げた。

 イマジナリーフレンド。この年代の子供にはよくあるもので、自然と消えるものですよ、と。

 実際に、クレアは人前で俺への言及をしなくなった。賢い子だったのだ。周りが不安がると気付いて、それを止めるほどに。


 だが、俺は消えなかった。

 成長していく彼女の中に残り続けた。


 俺は、クレアに教育を施さなければならなくなった。俺の存在を無視し、出来るなら消し去れと。俺を殺せるのは、クレアしかいないのだから。

 だが、クレアはそれを否定し――あろうことか、俺に名前をつけた。

『シン』。母が読んでくれた絵本に出てきた、月の神の名前だった。


 季節は巡る。

 クレアは、美しく成長していく。


 この十六年、様々な出来事があった。楽しかった思い出は多いが、親戚連中からの心ない言葉など、忘れ去りたい記憶も沢山ある。

 クレアとの生活も順風満帆だったとはいえず、何度も衝突し、ケンカをしてきた。

 フォールブレイス家は魔女の家系で、クレアも魔法を習っていたが、魔女の常識に照らし合わせてみても、俺とのケンカはあまりにも異質だったようだ。

 それが偶然母に見付かってしまい、俺が消えていない、という事実が露見し……最終的に、医者ではなく魔女に診せようという話になり、俺達はハコとOJに出逢うのである。

 

 ハコ達との出逢いにより、クレアは自身の体の特異性と、日本という土地を知った。

 と同時に、俺の思考する言語が日本語だと解った。

 十六年経って、流暢に国の言葉が喋れるようになっているのに、俺の母国語は日本語のままだったのだ。

 日本に『何か』があるのは確実だった。『何か』が起こる予感がした。

 ただ、その頃には、アルファの悪名が魔女界隈に知れ渡っており、遠く日本にまで旅行するなど、両親が認めてくれる訳がなかった。


 だが――クレアは求めた。


 全てをつまびらかにすることが、愛ではないのは解っている。しかし、俺とクレアとの間に、隠し事は存在出来ない。彼女にとってはそれが当たり前だから、知りたい、と思う気持ちを止められなかったのだろう。

 何度となく衝突し、ケンカをしても――クレアが俺を拒絶したことは、一度もなかった。

 俺が思う以上に、彼女は俺を愛してくれていたのだ。


 旅行の許可をもらう為、クレアはハコと連絡を取り、何度も両親を説得した。

 最初は否定的だった両親も、俺の正体が気になっていたのは事実であるようで、数ヶ月もの説得の後に、旅行の許可が下りたのだった。


 そして――旅立ちの日。

 空港まで送ってくれた母が、言ったのだ。

「無事に帰ってきてね――二人とも」

 その瞬間の衝撃を、言葉にするのは難しい。

 ずっと、忌避されていると思っていた。クレアの体の特異性が解った後も――いや、解ったからこそ、俺を疎ましく思っているだろうと。

 だから動揺して、俺は思わず意識を前に出してしまって……

 微笑む母に、抱き締められた。

「クレアを護ってあげてね、お兄ちゃん」

 嗚呼――嗚呼。

 俺は母の腕の中で、初めて嗚咽を――産声を上げたのだ。




 俺は今も、自分が何者なのか思い出せないまま、クレアの中に同居し続けている。

 だが、もはや過去は関係がない。俺はシンとして生き、愛するクレアを護ると決めた。

 日本にあるであろう『何か』すら、もはや気にならなくなっていた。

 期待もしていなかった。むしろ、何もなければいいと思っていた。

 だが、あったのだ。


 天啓は降り注ぎ、

 激しい嫌悪を覚え、

 数多の偶然が一つに纏まり、

 結びついて円を成し、

 運命として顕現する。


 過去はここにあった。

 十六年かけて、今現在へと追い付いたのだ。


 俺が『シン』に成った理由を、理解した。




 赤城・イオンの魂が結晶化していく。

 アルファがそれに手を伸ばそうとした瞬間、俺はクレアの体を借り受け、叫んだ。


「目を覚ませ――ウロボロス!」


 

 かくして、円環を司る蛇は具現化する。

 地面に伏した赤城・イオン――かつての俺の指先から。


 しかし、空中に浮かび上がったウロボロスの体は円ではなく、八の字に捻れていた。

 幾重にもかけられた防御魔法が、結果的にウロボロスを歪めてしまったのだ。

 だが、今はそれでいい。


 主人を護る為、ウロボロスが口を開けて循環を綻ばせ、魂の結晶を飲み込んだ。

 そしてぐるりと体を捻り、八の字を解消すると、再び己の尾を食み――


「――十六年。ここに円環は完成した」


「ちょっと、そんなの聞いてないんだけど?!」

「貴様に語る言葉などない」

 アルファの眼前で、ぐるりとウロボロスが回転し、白銀色の体を巨大化させ、瞬く間に大蛇へと至る。それに何かを察したか、慌てた様子でアルファが逃げ出そうとする――が、失敗に終わった。

 その足に、地面から生え出した鎖と蔦が幾重にも絡みついたのだ。

 右足には白銀色の鎖、左足には藍色の蔦――ハコとナツメさんの拘束魔法だ。

「逃がす訳ないでしょ!」「貴方だけは、絶対に!」

「愛されてるねぇ!」

 二重の拘束は容易く破れるものではない。

 焦った様子ながらも、アルファは笑みを崩さず、懐から何か取り出そうとし――

「――使わせないよ」

 OJが痛烈な回し蹴りを叩き込み、アルファの体がくの字に折れる。

 その手から零れ落ちたマジックアイテムを、ハコの魔法が消し飛ばした。


 だが、それすらもブラフだったのだろう。ハコの放った光に重ねるように、アルファの眼前に灰黒色に輝く魔法陣が現れ、闇色の炎が火炎放射のようにOJに襲い掛かる――

 が、ウロボロスがその瞳を開いた瞬間、動画を逆再生するように、炎が魔法陣へと戻り、魔法陣そのものが砕け散った。

「なっ?!」

 何があっても笑みを崩さなかったアルファが、驚愕に顔を染める。あらゆる手を使う彼でさえ、これは想像が出来なかったのだろう。


 これこそが、ウロボロスの絶対防御。『攻撃を受けて負傷する』、という因果を否定し、攻撃そのものをなかったことにする事象改変。

 過去も未来も内包する円環に、不可能はない。


 俺はウロボロスへと命じる。

 店の外へ、新たな一歩を踏み出しながら。


「――輪廻を喰らえ、ウロボロス」


 威嚇と共にアルファへ飛びかかったウロボロスが、その腕と胴を締め上げ――再び尾を食むことで、円環を完成させた。

 途端、円環の内側に光が溢れ――アルファが驚愕に目を見開き、声にならない声を上げた。そして動画を倍速で再生するように、一気に年老いていく。

 目が落ち窪み、皮膚が垂れ、白く染まった髪が抜け落ちる――

 直後、一転して若返り、また年老い、若返り、年老いる。

 止まらない。

 終わらない。


「貴様が奪った魂――人生の分だけ、輪廻と転生の苦痛を味わえ」


 視線を外す。見届ける価値もない。

 地面に伏したままだった赤城・イオンが、目を覚ますのが見えた。




 

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