『ロック』と『ナツメ』 2


 人気の多い、駅南側のロータリーまで来たところで、俺は壁にもたれながら足を止めた。

「ッ、はッ、は――」

 息が乱れ、横腹が痛み、心臓は壊れそうなほど脈打っている。だが、周囲が明るく、人の存在があることで、ここは安全だと感じられた。

 それでも、追われていないか、恐る恐る背後を確認すると――遠くから、走ってくる人影があった。

 ナツメさんだ。足を止めた俺を見て、何か叫んでいる。


「――ねがい、ロックくん、ま、って!」


 息苦しそうに、懇願するような声が響いてくる。

 その必死な姿に、心が揺らぐ――が、今の心理では、待てる訳がなかった。

 二度も死ぬような思いをしたのだ。それをナツメさんの笑顔で癒してもらっていたのに、そのナツメさんが、ナツメさんが、

「ッ!」

 それ以上考えたくなくて、俺は再び走り出していた。


 大通りではなく、住宅地の中や細い路地を進み、逃げる。

 ――逃げている。ナツメさんから。心から大好きだといえる、最愛の恋人から。


「ッ、ぐっ――!」

 何で、どうしてこんなことになっているんだ。

 走れば走るほど胸が痛み、涙で視界が歪む。

 それを強く、何度も拭いながら、走って、走って――息も絶え絶えになりながら、俺は喫茶店アクアリアへと飛び込んだ。


 幸いにも、店の扉は開いて――開店前の店内で食事をしているハコ達の姿を見た瞬間、俺の中の何かが途切れて、その場に崩れ落ちていた。


「あ、赤城君?!」「赤城君!」「赤城さん!」


 心配げな声が響くが、上手く呼吸出来なくて、返事すら返せない。そんな俺の前に、子供姿のOJがしゃがみ込み、俺の両肩に手を置いた。

 途端、肩に熱を感じて――すうっと、息苦しさや、全力疾走した疲れが抜けていく。

「――大丈夫? 何があったの?」

 ハコからの問い掛けに、俺は首を横に振り、

「……解らない、解らないんだ」


 ハコ達に支えられて立ち上がり、よろよろと椅子に腰掛ける。目を閉じると、必死な様子で追いかけてくるナツメさんの姿が蘇って、俺はかぶりを振った。

「何がどうなってるのか、解りたくない……。信じたく、ない……」

 店の入口を見るが、誰も入ってくる様子はない。諦めたのか、ただ入って来ないだけなのか――と思ったところで、何か音楽が響いていることに気付いた。

 暫くするとそれが止まり、また流れ始める。


「赤城君、スマホ鳴ってない?」

「え……あ、」

 OJから言われて、ようやくそれが自分のスマホの着信音だと気付いた。

 緩慢な動きで、ジーンズのポケットからスマホを取り出す。そこに表示されているのは、

「ナツメ、さん……」

 電話が掛かってきているが、出られない。


 数秒後に着信が切れ、履歴を確認すると、十件以上溜まっていた。どうやら途中から追いかけてくるのを止めて、電話に切り替えたらしい。

 それを呆然と見下ろしていたところで、ツイッターの通知が一つ。ダイレクトメッセージが届いたのが解った。


「……、……」


 もう何も見たくなくて、スマホの電源を落としてテーブルに置く。視界の端でハコ達が心配そうな顔をしているのが見えたが、今は何も説明出来そうに――

「――って、そうだ、アルファを見かけたんだ」

「なんですって?!」「なんだって?!」

「顔までは解らなかったけど、あの外見とガラケーは……」

「そういうのはいいから、場所! 場所!」

 ハコに急かされ、俺は慌てて答えた。

「え、駅の南口側の、マンションが並んでる方――」


 言い切るよりも早くハコとOJが立ち上がり、二階へと駆け上がっていく。

 呆然とそれを見送ったところで、クレアの声が聞こえた。


「だ、大丈夫ですか、赤城さん」

「な、なんとか……」

 一つ何か起きると、次から次へと連続して状況が変化する。この数日はそんな慌しさの連続で、何度繰り返しても慣れそうになかった。

「ハコ達は……?」

「二階から、箒で飛んで行ったのだと思います。日中であろうと、ハコ様とOJ様は自在に姿を隠せますから。――赤城さんも狙われているかもしれない、という話は伺っています。無事で何よりです」

「無事……なのかな。……今更だけど、ここに逃げてきてよかったんだろうか?」

「大丈夫です。お店にはハコ様の結界が張られていますから、悪意がある人は入ってこられません。……一体、何があったのです?」

「……まだ、解らないんだ」

 うなだれたところで、躊躇いがちの声が来た。

「……シンが言っています。解らないのではなく――解りたくないだけだろう、と」

「……」

「答えは、赤城さんの中にあるのだと思います。あとはそれを受け入れるか、否定するかだけ」

「……残酷だな」

「どんな事実であろうと、知ってしまえば、もう無知だった頃には戻れませんから」

 悲しげに、クレアが微笑む。


 クレアの秘密を知ったとはいえ、彼女を取り巻く欲望や、因縁までも知った訳ではない。

 叔父が自分を売ったかもしれない、と兄から聞かされる人生だ。残酷であろうとも、多くの決断を下してきたに違いない。

「待っていてください。今、お水をもらって来ます」

 クレアが席を立って、厨房へ。開店準備をしている店員から、水の入ったグラスを受け取って戻ってきた。


「どうぞ」

「ありがとう、クレア」

 受け取った冷たい水をぐっと飲み干して、深く息を吐く。冷たさが全身に広がって、少し混乱が落ち着いた。

 だがそれでも、さっきの出来事を説明するのは難しい――

 いや、違う、説明したくないのだ。


 シンの言うとおり、俺は事実を認めたくない。あれは夢か何かだったのだと、現実から目を逸らしたいくらいだ。だがそう思う時点で、それがただの逃避である、と全てを認めている自分もいて……辛くて、また涙が出そうになった。


「……。あの、赤城さん。一つお聞きしたいことがあるのです」

「俺に……?」

「はい。三日前、ドーナツショップでご一緒していた女性とは、親しいのですか?」

「――ッ、」


 重たい空気を払拭する為に、話題を変えてくれたのだろう。

 だがそれは、今の俺にとっては致命的だった。

 言葉はナイフのように、容赦なく胸を抉る。

 それでも、俺は必死に言葉を返した。


「……ああ。俺の、恋人、なんだ」


 恋人。嬉しくも誇らしい言葉なのに、今は搾り出すように口にしなければならなくて、胸が痛んだ。

「そうだったのですか。出来たら、一度お話をさせて頂きたくて。あの時は驚かれたでしょう?」

「驚いたよ。銀髪の女の子が店に入って来たと思ったら、突然泣き出したから……」

「え――? ま、待ってください。赤城さんには、私が銀髪に見えているのですか?」

「あ、ああ。銀髪で、紅い瞳で……え?」

 何を言っているのだろう? ただでさえ混乱し、苦痛に喘いでいる状況なのに、更なる謎を増やさないで欲しい。

 だが、対するクレアもまた、困惑しているようだった。


「私は、国にいる頃から、常に外見変化の魔法を纏っているのです。どこにいても、その土地の人間に見えるように。ですから今は、黒髪の日本人に見えているはずなのですが……」

「俺には外国人に見えてる、けど……」

「……。赤城さんは……何者なのですか?」

「ただの、学生……」


 俺の答えに、クレアが難しい顔で考え込み――改めて、俺を見つめた。


「……シンは、私以外の人間に興味を示しません。ですが三日前、赤城さんの恋人を見て天啓のようなものを感じ、涙を流しました。そしてその翌日、赤城さんを認識し、前世からの因縁のようなものを感じ、激しい嫌悪を覚えました。私に近付くなと、普段の口調で宣言したほどに」

「普段の?」

「はい。シンは私の為に、外では『クレア』として行動するのです。両親やハコ様達を除けば、ああして他者に『シン』として接したのは初めてです。シンにとって、赤城さんはそれだけ特別で――彼に言わせれば、異質な存在なのだそうです。

 ですが、私からすると、シンと赤城さんはどこか似ています。まるで兄弟のような相似を感じるのです。でもだからこそ、お二人はお互いを嫌うのかもしれません。言わば、同属嫌悪のようなもの、でしょうか……」

 同属嫌悪――ああ、確かにそうかもしれない。


 シンと対面した時、まるでもう一人の自分が目の前に現れたかのような、酷く嫌な感じがしたのだ。あの日の帰り道に、母も『イオンと似た感じがした』と言っていたくらいだから、疑いようがない。


 俺とシンは、似ているのだ。


「シンと赤城さんには、『何か』があるのかもしれません。そして、赤城さんの恋人とも。私の魔法が通じていないのも、そこに理由があるのだと思います」

「……、……」

「魔法を使えば、魂に影響を与えられます。ですが、前世の記憶は残らないものであり、例え来世で人間に生まれ変われたとしても、縁のある相手と同じ国、同じ地域に転生する可能性は限りなく低いでしょう。それでも、いくつもの偶然が重なって、今があるのだとすれば――それは、運命です」

「運命……」


 呆然と呟く俺に頷き、クレアが胸元に手をやり――その奥にいる相手を想うように、目を伏せた。

「私はシンを愛しています。彼と共に生き、彼と共に死ぬ。それが私の幸せです。でも――知りたいのです。記憶喪失の彼が、どうして私の中に宿ったのか。彼に何があったのか。その先に待ち受けるものが不幸だとしても、私達は乗り越えてみせます」

「……強いな、二人は」

「信じていますから」

 クレアが微笑む。


 ――嗚呼、その言葉で、俺はようやく決心が付いた。


 どれだけナツメさんを疑っても、俺は彼女を悪人だと思いたくない。

 好きだから。

 大切だから。

 信じているから。


「……俺も、信じようと思う。今も震えるくらい怖いけど、それでも」

「大丈夫です。赤城さんには、その指輪があります」

「あ……」


 言われて、ようやく思い出す。

 左手の指輪。

 ウロボロス。


 紅い瞳が、俺を見ていた。




 

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