Night Encounter 1
暮れつつある街を、一人歩く。脳裏には、ナツメさんの微笑みが残り続けている。
相思相愛、何の文句もないのに――それでも、『幸せ』を語るナツメさんの表情が気になっていた。
「何で、泣きそう、なんて思ったんだろうな……」
とても綺麗な微笑みだったのに。
いや、だからこそ、だろうか。違和感を覚える発言は今までもあったのだ。
『気持ち悪かったなら、早くそう言ってくれればよかったのに!』
『ロック君を驚かせたかっただけで、素の私に価値なんてありませんし』
『ずっと知らなかっただけで、「私」は、こういう姿をしていたのかもしれません』
「……」
ナツメさんは不思議な人だ。だが、そんな言葉で片付けられない『何か』が――矛盾がある。
俺はエスパーではないから、他人の心は読み取れない。あれこれ考えても、結局は想像でしかない。それでも、『こうであろう』と思うナツメさんの内面と、実際の彼女の心理は大きく食い違っているように思えた。
そこに闇があるのなら、支えたいと思う。その気持ちは変わっていない。
だが、現実はいつだって厳しい。何せ俺は、左手の指輪、ウロボロスの真実を明かされただけで、頭がパンクしたくらいだ。ナツメさんの抱えているものを、受け止めきれるかどうか。
大好きで、大切な人のことだからこそ、楽観すべきではないのだ。四日後に告げられる真実がどんなものであれ、出来るだけ冷静に受け止めたい。その場で驚いたり、動揺したりしたら、傷付くのはナツメさんなのだから。
秘密を明かすのは、いつだって恐ろしいものだ。霊感の話をした時がそうだった。あの何倍もの覚悟を、ナツメさんは抱えているのかもしれないのだから――って、
「……あれ?」
色々と考えながら歩いていたところで、ふと違和感に気付いて足を止めた。
ここは、先の幽霊のいた場所だ。だが、『飛び出し注意!』の看板を通り過ぎたというのに、幽霊の女性がいなかった気がする。
周囲は既に暗くなりつつある。
何か、嫌な予感がする。
――パチン、と何かを閉じる音が響いた。
「――ッ!!」
不意に、背筋がぞわりと震え上がり、全身の毛が逆立つのを感じた。
背後に、何かいる。
気配はない。
それなのに、『何かがいる』というのが解ってしまう、重く冷たい圧迫感があった。
そして、
『――……てぇ……』
「ッ!!」
右耳のすぐ近くから、呻くような声が響いた瞬間、俺は弾かれたように逃げ出していた。
フォームも何もない、ただ足を前に出すだけの、必死な動きで逃げ回る。
明るい方へ、明るい方へ――そう思うのに、背後から迫ってくる圧力に耐え切れず、反射的に角を曲がり、曲がり、結果的に暗い方へ向かってしまっていた。
角を曲がる刹那、ちらりと視界に入った声の主は――異形だった。
長い髪を振り乱す三つの頭と、肉の固まりのような、巨大な胴体から生えた何本もの手足。それを蜘蛛のように使い、化物は地を張って迫ってきていた。
生理的嫌悪を覚える異形の姿に恐怖が増し、更に息が乱れるのを感じながら、俺は必死に走り続ける。
もはやどこを走っているのか解らず、どうすれば助かるのかも解らない。
『て――にぃ――』
響いてくる声は女のもの。けれどそれは、ノイズの混じったラジオ音声のように歪んでいて、時折男の声も混ざる。苦痛と怨嗟を混ぜ合わせたような、悲痛な響き。
声と気配が一際近付いた瞬間、俺は咄嗟に角を曲がって逃げようとして――失敗した。スピードの乗った体では曲がりきれず、体勢を崩して転んでしまったのだ。
「ぐッ!!」
反射的に両手が前に出て受身は取れたが、それでも派手に転んだ。だが痛みを感じる余裕もない。逃げなければ。その一身で体を起こし――
――化物と、目が合ってしまった。
虚ろな六つの瞳が、俺を見ていた。
「っ、」
息を飲む。悲鳴すら上げられず、動けなくなった。
月明かりすらない、真っ暗な世界の中、化物がゆらゆらと見下ろしてくる、
人間で作った蜘蛛のような化物。子供のねんど遊びのようで、なまじ人間のパーツが残っているから、根源的な恐怖と気持ち悪さに襲われる。
その三つの口が一斉に開き、
『げえええええええええ!!』
「!!」
青白い手が俺に迫り、首を掴まれる、と思った瞬間、目の前に藍色の光を放つ半透明の壁が生まれ、化物の腕が弾かれた。
「ッ?!」
『いいいいいいいいい!』
奇怪な叫びと共に振り下ろされた手が、再び弾かれる。けれど、さっきよりも光は弱くなっていた。……不味い気がする。だが化物は光に怯えているようで、三度目はなく、こちらを警戒するようにゆらゆらと動き回っている。
今の内に逃げなければ、と思うのに、腰が抜けてしまって立つことすら出来ない。それでも、這いずりながら何とか距離を取ろうとしたところで、不意に夜空が光り輝き――
レーザービームのような白い閃光が、化物を貫いた。
『――――!!』
悲鳴のような絶叫ごと、強烈な光が化物を飲み込んでいく。そして、
「赤城君、大丈夫?!」
「助けに来たよ!」
俺と化物の間に、空から黒いローブを纏った二つの影が降り立った。
一人はハコ。もう一人はOJ――が五歳ほど成長したような、俺と同年代に見える青年だった。
二人の向こう、光に貫かれた化物が崩れ落ちていく。見れば、その体を構成していたのは人間――いや違う、幽霊、だった。
その中の一体、半袖の女性がべちゃりと地面に落ち、よろよろと顔を上げて俺を見て、
『――逃げて、くれて、よかった……』
儚い声が確かに響いて、光と消えていった。
まさか……あの叫びは、俺に『にげて』と言っていたのか?
「は、ハコ……あの人は、どうなったんだ? あの化物は、なんだったんだ?」
震える声での問い掛けに、返ってきたのは感情を押し殺した声だった。
「……消したわ」
「消し、た? ……成仏したって訳じゃ、ないのか」
ハコが苦々しい顔を帽子で隠したのを見て、察する。それでも問わずにはいられなかった。
「どういう、ことなんだ」
「……幽霊っていうのは、人間の中にある魔力の残り香なのよ。魔力は酸素と同じように世界を循環してるから、人間は誰しも魔力を一定量蓄えてる。普通はそのまま死を迎えるけど、不慮の死の間際は――『死にたくない』とか『憎い』とか、一際強く感情が溢れた瞬間には、不完全な形で魔法が発動して、人の形を作ってしまうことがあるの。それが、幽霊の正体。見方を変えれば、幽霊は人型をした魔力の塊であるといえる。……乾電池、みたいなね」
「か、乾電池って……じゃあ、今のは……」
「切れかかった電池でも、数を集めれば動力になる。あれはそういうものよ。……普通なら、思い付いたって実行しない、道理に外れた外法だわ」
幽霊が消えた後――僅かに光の粒子が舞う中へOJが歩いていき、何かを拾い上げる。
蜘蛛の形をした人形、だった。
「……なんだ、それ」
俺には霊感がある。だが、お払いなどは出来なくて、ただただ横を通り過ぎるだけだった。
それでも、偶然ながらハコ達と知り合って、彼らに何かしてあげられるかも、と思った矢先に、これだ。
残り香だとしても、それが死者の悲しみや苦痛から生まれたものであるなら、道具として消費する権利など誰にもないだろう。弔うつもりなら未だしも、こんな、異形の化物にしてしまうなんて。
やり場のない苦痛に歯噛みする。
その時だった。
「――あっれぇ、壊されちゃったか。春咲の管理者は子供だって聞いてたけど、どうやら実力者だったらしいねぇ」
不意に響いてきたのは、軽薄そうな男の声だった。途端、ハコとOJが身構え――
路地の向こう、宵闇の中から、長身痩躯の男が現れた。
金髪の下の顔を、仮面で隠している。のっぺらぼうのような、顔の造形すらない仮面だ。左手をジャケットのポケットに突っ込み、右手に何か弄んでいる。
男はハコ達から距離を取って立ち止まると、ピエロのような大仰な一礼をしてみせた。
「こんばんは、土地の管理者。俺はアルファ。宣言通り、君のお姫様を頂きにきた」
「「……」」
「なんだい、だんまりかい? 面白くないなぁ。折角のオモチャも一発で壊しちゃうしさ。夜は楽しまなきゃ!」
「「…………」」
「無口だねぇ。攻撃してきなよ! 後ろの子がどうなっても知らないけどね!」
そうか、俺がいるからハコ達は動けないのだ――と思うと同時に、アルファが左手を引き抜き、何かを放り投げた。
その瞬間、ハコの周囲に複数の円が――キマイラを消し飛ばした時と同じものが浮かび上がり、レーザーのような光を放つ。光に焼かれて地面に落下したのは、ビー玉ほどの大きさをした物体だった。
そしてハコの迎撃と同時に、OJが動いていた。上空に向かって放たれた光とは対照的に、低い位置から駆け出し、アルファに肉薄して鋭い回し蹴りを放ったのだ。
「っと! 危ないなぁ!」
だが、OJの踵は虚空を貫いただけだった。アルファは不恰好な動きながらも蹴りを回避し、また何か投げ、それがハコの魔法によって消し飛ばされ――その間に、OJがハコの隣に戻ってくる。深追いはしないようだった。
淡々としたハコの声が響く。
「死ぬか黙るか、選びなさい」
「おお、怖い怖い! 実力差が大き過ぎて震えちゃうね! 土地の管理者の癖に、二対一とか卑怯だと思わないのかい?」
「「……」」
煽るように言うアルファに、しかしハコ達は応えない。それにアルファが大げさに肩を落とした。
「面白くないなぁ。少しは反応してくれなきゃ、せっかく仕込んだ甲斐がないじゃないか。ほらほら見ててよ、起動、っと!」
ボタンを押すような操作をした後、アルファが右手の何かを『パチン』と閉じる。
二つ折りの携帯電話。ガラケー。
混乱している頭の中で、何か繋がりかけた瞬間、ハコとOJが動いた。
ハコが竹箒に跨がるや否や、上空高く舞い上がり、地上に残ったOJの耳がピンと張り詰める。空からハコの声が響いた。
「――数は?!」
「えっと――二十三!」
「十秒!」
「了解!」
答えながら、OJが腕を横に振るい――ぶわっと、彼の周囲に光の粒子が舞い上がる。
と同時に、ハコが右手を夜空へと上げた。刹那、雲の一部が渦を巻くようにしながら消滅し、円を――魔法陣を生む。
アルファが興奮気味の声を上げた。
「おいおい、一体何をするつもりだい?」
「「――星落とし」」
ハコとOJの声が同時に届いた瞬間、魔法陣が白銀色に光り輝き――星が落ちた。
魔法陣から、ではない。分厚い雲の隙間を縫って、光がレーザービームのように地上を貫いたのだ。
乗用車を飲み込めそうなほどの、極大の光。
数は二十三――いや、四。
俺達の頭上もまた、昼のように明るくなったのだから!
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