第十七章「使者」

17-1

 運びこまれた教会の寝台の上で、ヴェンシナは胎児のように身体を丸めていた。

 あまりの痛みに、半ば気を失うようにして眠りに落ち、次に目覚めた時、キーファーと共にランディの姿も既になかった。ようやく重責から開放された安堵感よりも、しばしの別れに際して、見送りどころか挨拶すらできなかった寂寥感が先に立ち、病身の心細さも相まって、ヴェンシナは人知れず落ち込んだ。

 広場で覚えたほどの激痛はなかったが、異状を訴え続ける胃の痛みを散らす為に、何度となく寝返りを打ち、嫌な悪寒に耐えているうちに、また彼はいつからともなく浅い眠りに落ちていた。



 しなやかな細い指が、ヴェンシナの乱れた栗色の髪をかき上げ、脂汗が噴き出した額を固く絞った布で優しく拭ってくれた。

 ――【生命の女神】フレイア……?

 完全な目覚めには至らない、夢ともうつつともつかない朦朧とした意識の中で、ヴェンシナは淡く輝く女神の幻を見た気がした。


 寝具の中に差し入れられた女神の手が、背中側からそっと患部を撫でる。労わるような温もりがじんわりと伝わり、ヴェンシナの心身は緩やかに解されて、小さく縮こまっているのをやめた。緑の指はヴェンシナの身動みじろぎに合わせて、彼の身体の上を滑るように移動し、今度は腹側から、ヴェンシナの胃の辺りに触れた。

 腹部に置かれた手のひらから広がってゆく、全身を包み込んでゆくような心地よい熱……。特別に熱く柔らかな感触を唇に感じて、ヴェンシナは僅かに口を開いた。注ぎ込まれる甘い息吹を受け止め飲み下すと、身体のすみずみにまで生気が満ちてゆく……。眩い恍惚感に酔いしれながら、ヴェンシナはゆっくりと覚醒した……。



*****



「……フレイア……」

 長い睫に縁取られた、緑と琥珀の色違いの瞳が、小さな洋灯ランプの灯りに頼る薄闇の中で、病床のヴェンシナを見守り神秘的に瞬いていた。フレイアシュテュアはヴェンシナの腹を右手で擦ってやりながら、寝台の端に掛けた左腕に顎を乗せて、ぺたりと床の上に座り込んでいた。

「気分はどう? ヴェン」

 そのままの姿勢で、フレイアシュテュアは囁くように問うた。

「ああ、うん……」

 ぼんやりとした状態でヴェンシナは、すぐ近くにあるフレイアシュテュアの白いおもに見とれた。こんなに間近で彼女を見たのは、いつ以来だろうと考えながら……。


「まだ、痛む?」

「……ううん……、ずいぶん、楽になった、気が――!!」

 答えながらヴェンシナは気がついた。胃の痛みも気分の悪さも、俄かには信じられないほどに和らいでいる。腹部にあてがわれたフレイアシュテュアの手を乱暴に掴んで、ヴェンシナは彼女の瞳を覗き込んだ。

「フレイア――! 君!」

 ヴェンシナの咎めるような眼差しに、フレイアシュテュアは寝台から身を離して、少しきまり悪そうに弱々しく微笑んだ。


 自分の腹から引き剥がしたフレイアシュテュアの手を強く握り締めて、ヴェンシナは小声で彼女を叱った。

「駄目じゃない、フレイア! 僕との約束を破ったね?」

「今日だけ……。他の人には知られてないわ、ヴェンだけよ……」

「嘘じゃないね?」

 念を押して確認するヴェンシナに、フレイアシュテュアはこくりと頷いて見せた。

「ええ」

「フレイア……」

 両手でフレイアシュテュアの手をおし抱くように包み込み、ヴェンシナは悲しむような表情で『妹』を見つめた。


「……ごめん、フレイア……、ありがとう……。だけどもう……、絶対に駄目だよ」

「わかったわ、もうしないから。だからヴェン、謝らないで……」

 フレイアシュテュアは寂しげにぽつりと答えた。伏し目がちの瞳が急速に潤み、瞬きをすると、大粒の涙がぽろりと零れ落ちた。

「ああ――、フレイア……!」

 ヴェンシナはおろおろとしながら身を起こし、フレイアシュテュアの金色の髪を撫でた。

「そんな、泣かないで……。いや、泣いたっていいんだけど……。どうして泣いてるの? 僕がきつく言ったから?」

「そうじゃ、ないわ、ヴェン……。ヴェンは何も、悪くないの……」

 ふるりと頭を振り、フレイアシュテュアは床にへたり込んだまま、涙を拭うこともなくぽろぽろと泣き続けた。ヴェンシナの謝罪は、それまで押し殺していた涙のきっかけをフレイアシュテュアに与えたのだ。


 最良の瞬間の後に、突然訪れたランディとの別離は、フレイアシュテュアの心を置き去りにして途方にくれさせていた。

 ランディが恋に一歩を踏み出したその時から、胸に秘めていた喪失の覚悟を、フレイアシュテュアは持ち合わせていなかった。目に見えぬ身分の壁に隔てられるようにして、村を去り行くランディに、フレイアシュテュアは何も言えなかった。最後に何かを――おそらくは別れの言葉を――述べようとしていたランディから逃れるようにして、フレイアシュテュアはヴェンシナの病床に付き添い、彼を振り返ることはしなかった。どうしても、できなかった。

 エルアンリのものになるしかないと諦めて、ただ見つめるだけの片恋をしていた間も、それはそれで充分に辛く苦しかったが、これほどまでに切なくはなかった。ランディはその言葉どおりに、エルアンリから彼女を守り教会に帰してくれた。代償に、フレイアシュテュアの心と唇を奪い去って――。


「……ランディが好きなの……?」

 フレイアシュテュアの涙の理由を、ヴェンシナは他に思いつかなかった。優しい『兄』の問いかけに、フレイアシュテュアは躊躇いながらも素直に頷いた。

 ランディとフレイアシュテュア、惹かれ合い、求め合う恋人たちを引き裂いているのは、本当は身分の差などではなく、自分の想いなのではないだろうか――? ヴェンシナは自問し思い悩みながら、フレイアシュテュアの濡れた頬を両手で挟みこむようにして拭った。

「……フレイア、あのね……、ランディは……。あの方は、本当は――」

 言いかけたヴェンシナの言葉に重なるようにして、ノックの音が響いた。


「……どうぞ」

 仕方なくヴェンシナが答えると、扉が開きラグジュリエが顔を覗かせた。

「ヴェン、起きてるのね?」

「うん、どうしたの? ラギィ?」

 フレイアシュテュアに伝えそびれた真実を飲み込んで、ヴェンシナは彼女から手を放し、ラグジュリエに尋ねた。

「ヴェンにお客様なの。お部屋に来てもらっていい?」

 ようやく泣くことができたらしい、フレイアシュテュアに気を遣いながら、ラグジュリエは戸口に立ったまま用向きを告げた。


「お客さん……? こんな遅くに誰?」

 ヴェンシナが眠っている間に、日はとっぷりと暮れて窓の外は夜の帳に覆われていた。農村の夜は早いものだ。通常であればもう、客人が訪れるような時間ではない。

「お昼にランディを迎えに来てた近衛騎士様。また王太子様のお遣いなんだって」

「キーファー?」

 思いの外迅速な連絡は、アレフキースの指示というよりも、ランディの誠意の表れなのかもしれない。ヴェンシナはもう一度フレイアシュテュアの髪を慰めるように撫でて、ラグジュリエに返事をした。


「キーファーが来てるんだったら、僕が居間に下りるよ、ラギィ」

「でも、ヴェン、大丈夫なの?」

 容態を案じてくれるラグジュリエに、ヴェンシナは軽く微笑んで見せた。

「うん、しばらく寝てたらずいぶん楽になったんだ。心配しないで。だけど身体を拭いて、着替えをしてから行きたいから、フレイアを頼んでいいかなあ?」

「わかったわ。ねえ、フレイア」

 ラグジュリエはフレイアシュテュアに近づいて彼女の傍にしゃがむと、抱えた自分の膝に頬を押し付けるような格好で、塞ぎこむフレイアシュテュアの顔を下から覗き込んだ。

「フレイアも顔を洗って、ちゃんとした方がいいわ、ね」

「……ええ……、ラギィ……」


 悲嘆にくれるフレイアシュテュアの姿に、ラグジュリエの小さな胸も痛んでいた。フレイアシュテュアの遅い初恋に、ヴェンシナが異議を申し立て、反対を続けていたその訳に、ラグジュリエもさすがに気付かざるを得なかった。

 自分を含む、シュレイサ村の村人たちが畏れるエルアンリを、さらには領伯ですらも、足下に平伏させてしまうランディ。ラグジュリエが気安く呼び捨てていた黒髪の青年は、いくら本人が『平民出の騎士』と言い張っていても、雲の上の存在のような名門貴族の若君であったらしい。

 ランディのいない教会は、妙に広く活気を失くしたように感じられた。共に過ごしたのは短い期間であったが、彼も既に教会の『家族』の一員であった。頼もしい『兄』をまた一人送り出したような気持ちで、ラグジュリエ自身も寂しかったのだ。

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