16-2

「そういえば、足の具合はどうなのだ?」

 王太子の為に用意された客室に場所を移して、お茶の給仕を済ませた小間使いを下がらせてから、ランディはアレフキースに問いかけた。心配するというよりも、疑るような口調である。

「足? ああ、落馬が原因で捻挫した、ということにしていましたね。嘘ですよ」

 繊細な意匠のカップに手を伸ばしながら、アレフキースはいともあっさりと否定した。薫り高い湯気を上げる香草茶には見向きもせずに、ランディはカップを口に運ぶアレフキースを軽く睨んだ。

「やはりそうか」

「ええ。私がそんな、無様な姿を晒すわけがないでしょう」


 教会の食卓で、その話題が上った時のラグジュリエの感想を、ランディは忘れていなかった。

「教会の子供に、王太子は間抜けだと言われていたぞ」

「子供は正直ですからねえ」

 香草茶のカップを受け皿に戻して、特に気にかけた風もなくアレフキースは微笑んだ。その脇でフェルナントが、ふるふると肩を震わせている。

「笑うな! フェルナント!」

「も、申し訳ありません……!」

 ランディに咎められて、フェルナントは耐え切れずに哄笑した。内密の話があるということで人払いをしており、部屋の中にいるのは彼ら三人だけである。


「あまり大げさな病名にしてしまうと大事おおごとになりますし、かといって軽すぎる病では静養に行くまでもない。その点捻挫というのは融通が利きますので、実に都合の良い理由だったのですよ」

 フェルナントがどうにかこうにか笑いを収めるのを待って、アレフキースはランディに事情を語った。

「それはそうかもしれないが、フェルナントは笑いすぎだな」

「いや、失礼しましたな」

 機嫌を損ねるランディに、まだ少し笑いの余韻を引きずりながらフェルナントは頭を下げた。緩みかける表情筋をなんとか引き締めて、主君とその腹心の従兄の、対話の邪魔にならぬようにひっそりと気配を殺す。


「……それで、離宮ではゆっくりと休養できたのか?」

 冷めかけた香草茶を飲み下して、気を取り直したランディの問いかけに、アレフキースはとんでもないと首を横に振った。

「人に会う面倒も避けられることですし、少しは羽を伸ばせるかと期待していたのですけれどねえ……。蓋を開けてみればかなり多忙でしたよ」

「多忙? 何をしていた?」

「調べ物を色々」

 アレフキースは意味深長に答えた。ランディは厭わしげに目を細めた。

「……嫌な感じだな。一体何を調べていた?」

「大方の想像はおつきでしょう? おそらくはあなたのお考えのとおりです」

 含みのある答えを返してから、ランディの正面に向き直って、アレフキースは声を低めた。


「昨夜この邸は――、大変なことになっていましたよ」

「それはそうだろうな。王太子を急に迎えるとなれば、面識のない貴族の邸は混乱するだろう」

 至極もっともなことであるとランディは頷く。アレフキースは内心の苛立ちを示すように、指先でとんとんとテーブルを叩いた。

「違いますよ、この期に及んでとぼけないで下さい。エルアンリの従者の一人が、あなた方の決闘の約束を、シュレイサ村から知らせに戻ったからです。可哀想にブルージュ伯は蒼白になっていましたよ」

「あの頑丈そうなエルアンリの、どこに心配する要素がある?」

 さらにとぼけてみせるランディを、アレフキースはきつく睨み据えた。

「あなたがランドリューシュ・デュ・サリフォールなどと、お名乗りになったからに決まっているでしょう! シーラー候に至っては卒倒していましたからね。もしも彼の老い先が、縮むようなことになっていれば、それはあなたの責任です!」


 厳しく声を張るアレフキースをまじまじと見つめ、ランディは幾分ばつの悪い顔つきで首をすくめた。

「……怒っている、よなあ?」

「当たり前でしょう。私がそれほど温厚だとでも?」

「そんな筈は無いな。悪かった。このとおり詫びておこう」

「……まるで謝られている気がしませんね。本気で謝罪なさっておいでですか?」

 そう言いながらもアレフキースは、ランディが非を認めたことでひとまずは溜飲を下ろしたようである。気を鎮めるように肩で大きく息をついてから話題を転じた。


「レルギット領内で、先だって、盗賊事件があったことは既にご存知ですよね?」

「ああ。シュレイサ村にも、警備兵が派遣されて来たからな」

「もしもの場合を想定して、あなたには、休暇を切り上げて王宮にお戻り頂こうと思っていました。ですが、せっかくですから、とても楽しみになさっていた、ヴェンシナの姉の結婚式には出席させて差し上げようと……。私もまだまだ読みが甘い。情け心を出したばかりに、とんだ失敗をしてしまいました」

「失敗――か」

 ランディはほろ苦い思いで唇を曲げた。フレイアシュテュアを取り戻そうとして起こした騒ぎは、目の前の従弟に、酷く不愉快な気分を味わわせてしまったことだろう。


「しかし、事前にわかっていたのなら、何故誰も止めにこなかった? お前ばかりでなく、シーラー侯もブルージュ伯も、私とエルアンリの決闘を快く思っていなかったのだろう?」

「止めて欲しかったのですか?」

 ランディの疑問に、アレフキースは意地悪く問い返した。

「いや、エルアンリの奴は、きっちり締め上げておかないと気が済まなかったからな。おかげでずいぶんと気が晴れたぞ」

 エルアンリの立場を利用した横暴な振る舞いに、ランディは心の底から腹を立てていた。ブルージュ伯爵やアレフキースの介入で、望まずして権をかざすことになってしまったが、その前に剣の腕だけで、エルアンリを屈服せしめることができたおかげで、彼の矜持は保たれたといっていい。


「あなたがそうおっしゃられるだろうと思って、二人とも私が引き止めておきました。それに、近衛二番隊の騎士として、おまけにサリフォールの家名まで出されて、ランディの名で決闘を申し込まれたからには、やはり勝利で飾って頂きませんと割に合いませんからね。どのみち醜聞になるならば、美しいだけ心慰められるというものです」

「美しい醜聞か」

 結婚の宴での余興。白昼の決闘。休暇中の近衛騎士と、魔女と呼ばれる村娘の恋物語――。

 しかも主役の近衛騎士は、実は名門貴族の子息であるというおまけつきである。まるで戯曲のような華麗なる艶聞に、人々は間違いなく飛びつくだろう。


「絵的には問題がないでしょう? あなたがエルアンリと争ったのは、稀に見る美少女だそうですね。綺麗な淡い金髪に、緑と琥珀の色違いの瞳をした」

 長椅子の肘掛に頬杖をつきながら、アレフキースはもう一段深いところまで踏み込んだ。

「……フレイアシュテュアのことも調査済みか」

 予測はしていたものの、心の内の大切なものを覗き見られた気がして、ランディは不快感を覚えた。アレフキースは挑むように微笑した。

「ええ。いかにもあなたが、はまっておしまいになられそうな娘でしたもので」

「彼女のことをいつ知った?」

「ヴェンシナから報告を受けて。彼の姉が、離宮に手紙を届けてくれたことがあったでしょう?」

「そんな早くからか!? どれだけ心配性なんだあいつは!」

 アレフキースの答えに、ランディは少なからず驚いた。フレイアシュテュアとの出逢いが運命的なものであることを、ヴェンシナはランディ本人よりも先に察知して、やきもきと気を揉んでいたことになる。

「けれどその懸念は――、今は真実なのでしょう?」

 アレフキースの問いかけに、ランディは額に手をやりながら、やるせない吐息をつくようにして答えた。

「……ああ」


 どうやら考えていたよりも、ランディの恋の病は篤いらしい。困ったものだと思いながら、アレフキースは質問を重ねた。

「それで、もうお手は付けられているのですか?」

「まさか、清らかな関係だぞ」

 ランディはすぐさま否定した。胸に抱き締めて、触れるだけの口付けを一度奪っただけである。それくらいの思い出は、心の奥に秘めておいてもよいだろう。

「それはまた、慎重なことですねえ。まあ、エルアンリが成年に達するのを待っていたという娘を、あなたが既に手折ってしまっているとあれば、問題としなければならないところでしたが」

 アレフキースは辛辣に述べた。それも確かに、フレイアシュテュアに手を出しかねていた要因の一つだが、ランディには自分自身を律するもっと重要な理由があった。


「フレイアはヴェンが昔から、実の『妹』のように大切にしてきた娘だ。戯れに手をつけて、傷つけるようなことになれば、ヴェンに申し訳が立たないからな」

「ヴェンシナの存在が歯止めになっていましたか?」

 それでいながらこの事態かとアレフキースは言いたげである。従弟の皮肉には頓着せず、ランディは昨夜のヴェンシナの訴えを思い起こして自嘲した。

「『妹』には手を出すなと、始終顔に書かれていては気にせずにはおれまい。とどめにはっきりと言われてしまった。私では駄目だと。フレイアを不幸にすることでは、私もエルアンリと変わりはしないと」

「全くもってその通りではありますね。あなたが好き放題をなさる上に、可愛い『妹』が騒乱の種になっているとあっては、ヴェンシナは毎日気が気ではなかったでしょう」


 シュレイサ村で自宅待機をさせているヴェンシナの容態については、既にキーファーから報告が上がっている。アレフキースが餞別に贈った胃腸の強壮薬は、どうやら気休めにしかならなかったらしい。

「ここ数日、ヴェンの食欲が落ちているのには気付いていたが、まさか倒れるほどに身体を悪くしていたとはなあ」

「反省なさっておいでですか?」

「こればかりはな。もうこれ以上、ヴェンの胃に負担をかけるようなことはしない」

 冗談を通り越して、本当にヴェンシナの胃痛の原因になってしまったことについては、さすがに重く責任を感じているランディである。その表情を伺いながら、アレフキースは彼の真意を確認した。


「それでは、娘を王都に連れ帰るおつもりはないのですね?」

「ああ……」

 フレイアシュテュアの森の精霊のような可憐な姿を思い描いて、ランディは心の内でそっと抱き締めた。壊れやすい硝子細工を守るような思いで。

【春女神】フレイアの名にふさわしい、慎ましやかで、敬虔な娘だ。私の身勝手な想いだけで、日陰の身におとしめてしまいたくはない」

 たとえヴェンシナの反対がなくとも、フレイアシュテュアを愛おしむがゆえに、彼女の幸福を願うがゆえに、ランディは最初からフレイアシュテュアを諦めるつもりでいた。アレフキースは老婆心と思いながらも忠告した。


「エルアンリは、恥を知らぬ男のようです。痛い目を見た直後ですから、しばらくは大人しくしているでしょうが、ほとぼりが冷めたら、また同じ事を繰り返すかもしれませんよ」

 ランディは苦々しく頷いた。

「そのくらいは私にも予想がついている」

「対策はお考えですか?」

「ああ。傲慢な思い上がりにすぎないかもしれないが、最後に一つだけ、彼女にしてやりたいことがある」

「そうですか……」

 ランディの決意は既に固められていた。アレフキースはそれ以上の言葉をかけることができなかった。

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