8-4
その夜遅く――。
「ヴェン、ちょっと、いいかなあ」
真夜中近くに入浴を済ませ、ようやくほっと一息をついて、二階に戻ろうとしていたヴェンシナを、寝間着の上にショールを羽織ったラグジュリエが呼び止めて、台所の片隅に引っ張り込んだ。
「何、どうしたの?」
「うん、あのね、ちょっと相談があるの」
ラグジュリエはそう言いながら、冷たい水をコップに注ぎ、ヴェンシナに差し出した。
「あ、ありがとう」
コップを受け取り、ごくりと一口飲み下してから、ヴェンシナは促した。
「相談って何?」
「うん、ええとね……、ランディって、王都に恋人とか好きな人とかいるのかなあ?」
「え?」
予想もしていなかった質問をされて、ヴェンシナはコップを取り落としそうになった。
「ヴェンなら知ってるでしょ? どうなの? ねえ?」
「いや……多分、いないと思うけど……」
恋人がいるいない以前の問題として、ランディは気軽に恋愛ができる立場の人ではない。
十代の頃には、それなりに華やかな噂も多かったように思えるが、二十代を迎えた彼はめっきり慎重になっていて、ヴェンシナの知る限り、年上の未亡人と密かに大人の恋を愉しんでいた時期があったくらいで、大っぴらに恋人宣言をするような女性はいなかったはずだ。
「ランディってモテないの?」
「そんなことはないよ。憧れている女性は結構いると思うけど、なんていうか、ちょっと、近寄りがたいところのある方だからね」
「うーん、じゃあ、フレイアには難しいかなあ」
ラグジュリエは何やら思案するかたちで顎に手を当てた。
「フレイアって、どうして?」
恐る恐るヴェンシナは尋ねた。胸の奥で警鐘が鳴っている。ラグジュリエは果たして何を目論んでいるのだろうか?
ラグジュリエは、大きな目で上目遣いにヴェンシナを見つめて言った。
「ランディは、フレイアにとってもとってもお似合いに見えたんだもん。それにね、あたし、フレイアがあんな風に男の人に頼ったり、名前を呼んだりするのって初めて見たわ」
「そんなことないんじゃないかなあ? 僕らだっているんだし」
「わかってないわねえ、ヴェンったら。牧師様はフレイアの『お祖父ちゃん』だし、ヴェンやカリヴァーたちは『お兄ちゃん』でしょ。『男の人』っていうのはね、ただ守ってくれるだけの人じゃなくて、攫ってくれる人のことでもあるのよ」
「……ラギィ、君は一体どこでそんなことを覚えて来るんだろうね……」
思わぬ方面でラグジュリエは、ヴェンシナが考えていたよりも遥かに大人になってしまっているらしい。ヴェンシナの嘆息には頓着せず、ラグジュリエは真剣に話を続けた。
「昨日シャレルが言ってたでしょ? フレイアに恋人がいたら――って。二人がもし、恋人同士になって、ランディが王都へ連れて行ってくれたら、フレイアはきっと今より辛くなくなると思うの。フレイアはいつまでもこの村にいちゃ駄目なのよ」
ラグジュリエの気持ちは重々理解できる。しかしヴェンシナは、ランディとフレイアシュテュアそれぞれの中で、芽生えようとしている不確かな想いが確かなものに育つのを、煽ることはもちろん、見守ることすら考えていなかった。
「王都にも、フレイアみたいな目をした人はいないよ」
なのでラグジュリエの提案に、遠まわしに消極的に、ヴェンシナは反対を示した。
「だけどね、盗賊の娘だとか化け物だとか、村長さんの隠し子だとか、村の人たちみたいに最初っから変な目で見たりしないでしょ? フレイアは綺麗なの。王都から来たランディとか、あのお馬鹿なエルアンリ様みたいに、村の外の人から見たらとっても綺麗で魅力的なの。色違いの目だってね、魔女じゃなくって女神様みたいに思う人もいるはずよ」
「それは……そうかもしれないけど……」
簡単に言いくるめられてしまいそうになって、ヴェンシナは内心で焦りながら言葉を探した。
「何よ、ヴェンったら妬いてるの?」
あくまでも渋るヴェンシナに、ラグジュリエは意表をついた攻撃をしかけた。
「え?」
きょとんとするヴェンシナに、ラグジュリエはさらに言い募った。
「ランディをフレイアに取られちゃうのが嫌なんでしょ?」
「ちょっと待ってラギィ、君は何を言ってるの?」
うろたえるヴェンシナに、ラグジュリエはとどめを刺した。
「だってヴェンったら、せっかく久しぶりに帰って来てるのに、ずっとランディのことを心配してばっかりじゃない! ちゃんと別々のお部屋を用意してたのに、一緒の寝室がいいって言ったのもヴェンなんでしょ? いやらしいわ!」
「いっ、いやらしいって……、君は一体どういう誤解をしているの、ラギィッ!!」
何をどこまで理解して、ラグジュリエはこんな発言をしているのだろう? その内容と、ラグジュリエの――彼の小さな可愛い『妹』の台詞であるということ、二重の衝撃でヴェンシナの頭はくらくらとした。
「ふーんだ、知らないっ! ヴェンの馬鹿っ! お邪魔虫っ!」
ラグジュリエは思い切り顔を歪めて、いーっとしかめっ面をしてみせた。
「ヴェンがいくら反対したってね、フレイアはきっとランディのこと好きになっちゃうわ。ランディみたいな本物の騎士様に、あんな風に庇われたり、助けられたりしちゃったら、たいていの女の子はよろめいちゃうわよ。フレイアは普通の子とはちょっと違うけど、魔女だなんて呼ばれて、普段村の人たちから爪弾きにされてるぶん、きっと何倍も何十倍も嬉しかったと思うわ。
エルアンリ様に目を付けられて、尼僧院に行きたいなんて泣いてたけど、もっと幸せになれる道があるんだったら、あたしはフレイアを応援してあげたいの」
「フレイアは泣いてたの?」
シャレルにすがるようにして、泣きじゃくっていたフレイアシュテュアの姿を思い出して、ヴェンシナの心は痛んだ。
「うん、行儀作法の先生は陰険で厳しいし、サリエットは偉そうで意地悪だし、村長さんは小心者のくせに横暴だし、たまに来るエルアンリ様は乱暴でいやらしいし。おまけに大好きな土いじりもお散歩も、肌や髪が傷むから駄目だって禁止されて、ほとんど毎日お部屋に閉じ込められてたのよ。そんな目にあったら、あたしだって泣いちゃうわ」
「軟禁されていたのは今日だけじゃなかったんだ」
「そうよ、ずーっとよ。あたしもサリエットに頼み込んで、ようやく会わせてもらってたんだから。その度にサリエットが恩着せがましくって、もう悔しいったら!!」
ショールの合わせ目を両手で握り締めて、ラグジュリエは心底口惜しそうに言った。
ヴェンシナはためらいながら、一つの懸念を口に上らせた。
「こんなことをラギィに聞くのはどうかとも思うんだけど……。その……フレイアはエルアンリ様に……ええと、何て言えばいいのかなあ……」
「……フレイアの貞操のこと?」
ラグジュリエは敏感に察して端的に問うた。
「ああ、うん」
思わず赤面するヴェンシナである。本当に十三歳の少女に尋ねるようなことではない。聞いてしまってから既に後悔していた。そんな彼に、ラグジュリエは臆面もなく答えてくれた。
「今はまだ大丈夫みたいよ。サリエットが言うにはね、フレイアはまだ十七だから、エルアンリ様は領伯様の手前、フレイアが成人するのを待っているんだって。来年の春、十八になったらすぐに、フレイアは領伯様のお邸に連れられて行っちゃうわ。だからその前に恋人を作って、手に手をとって逃げてしまわないといけないの」
「だからって、どうしてその相手をランディに限定しようとするのかなあ?」
ヴェンシナが問題にするのはその一点である。ラグジュリエの言うように、それにヴェンシナ自身も危ぶんでいるように、フレイアシュテュアがランディに思いを寄せるようになったとしても、たとえランディがそれに応えたとしても、決して幸福な結末を迎える恋にはならないだろう。
「だって他にいないんだもん。村の男の人の中には、フレイアのことを物欲しげに見てる人だっているけど、みいんなエルアンリ様に逆らうのが怖いし、『魔女の恋人』だって言われるのも嫌だから、誰もフレイアに近づいたりしないわ」
「……だったら、僕が連れて帰るよ」
ヴェンシナは、自分が最良と思う代案を口にした。
「え?」
ラグジュリエの表情がふと強張る。ヴェンシナは生真面目な榛色の瞳を彼女に向けた。
「だから、休暇の終わりに王都に帰る時、僕がフレイアを連れて行けるように考えてみる」
「駄目!」
「どうして?」
頭ごなしに否定するラグジュリエに、ヴェンシナは鼻白んだ。
「だって、そうしたら、あたしが幸せになれないじゃない! ヴェンの馬鹿っ!!」
ヴェンシナに激しく詰め寄って、ラグジュリエはぱっと身を翻し、さんざん言いたいことを言い放したままでばたばたと台所から駆け出していった。
「それじゃあ僕はどうすればいいの……?」
一人残されたヴェンシナは、盛大なため息をついて天井を仰いだ。
自分一人で抱え込むには問題が大きすぎる。しかし、エルフォンゾ、シャレル、カリヴェルト、みなそれぞれに信を置ける大切な人たちだが、彼らにはどうしても相談できない理由があった。
「ああ、こんな時に、あの方がいて下さったらなあ……」
王宮で彼らを待つ、黒髪の王太子を思い起こして、ヴェンシナはもう一度ため息をついた。
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