8-4

【春女神の菫】フレイアシュテュアという名前は、誰が?」

 ランディの問いかけに、昔語りを終えたはエルフォンゾは、過去を振り返り懐かしむように答えた。

「わしがつけました。春に生まれた、フィオフィニアの娘ですからのう、他の名前は思いつきませなんだ」

 春女神フレイアは秋女神フィオの娘である。エルフォンゾは母親の名前から連想して、フィオフィニアの娘に、春女神を象徴する花の名を贈ったというわけだ。

「それで彼女は、女神の名でありながら、『魔女』などと呼ばれているのか」

 長い話を聞き終えて、ランディは歪んだしこりを覚えながらも一応は納得した。

「肉親や恋人を奪った憎い盗賊の子、誰かが姦淫の罪を犯して孕ませた子、もしくはシルヴィナに棲むという魔物の子――。真実がどこにあっても、村の者の目には、忌まわしい記憶に繋がる不憫な娘ですからのう」

 エルフォンゾはフレイアシュテュアの数奇な身の上と、村の大人たちの弱く貧しい心根の双方を憐れんでいた。


「なるほど、確かに、人の方が恐ろしいな」

「え?」

 ランディの呟きを、ヴェンシナが聞きとがめた。

「いや、フレイアシュテュアが言っていたのだ。シルヴィナの森が恐ろしくないのかと尋ねると、森よりも人の方がよほど怖いと。

 おそらく……これは私の推測だが、フィオフィニアが身篭った際に、身に覚えのある不届きな男は何人もいたのだろうな。男たち自身や何かを勘付いた家族たちが、あれは魔物の子供だとか盗賊の子だとか、他人に言い聞かせながら強固に思い込むようにしてきたのだろう」

「やれやれ、ランディは、村の者が一様に口をつぐんで、ひた隠しにしておこうとしている後ろ暗いことを、あっさりと口にしてしまわれるかの」

 エルフォンゾは老いた目をしばたかせた。村人たちが互いを猜疑し、庇い合いながら、当時から今までずっとできずにいた糾弾である。


「そのフィオフィニアという女性は? 今は?」

「フレイアを産んで二年の後に、流行り病で身罷りましてのう。儚いものです」

 今は亡きフィオフィニアを悼むように、老牧師は膝の上で両手の指を組み合わせた。

「最期まで、フィオの記憶が完全に戻ることはありませなんだが、フレイアのことはたいそう慈しんでおりました。他の言葉はほとんど話せなくなっていたのに、マ・ナセル、マ・ソミア、ナ・テウス――と、よく呪文のように唱えてあやしておりましたのう」

「マ・ナセル、マ・ソミア、ナ・テウス? それはまたずいぶんと古い言葉だな」

 ランディは首を傾げた。今のデレスではおそらく、異国の神話を題材にした、古典歌劇でしか聞くことのない古い言語である。心を病んだ農村の女が、そのような特殊な言葉を、いったいどこで覚えたというのだろうか?


「ほう、ランディは意味を解しなさるかの?」

 エルフォンゾは感心したように尋ねた。ランディは頷いた。

「まるっきりの直訳になってしまうのだが、『私のあなた、私の娘、あなたの子供』という意味だろう? そう言っていたというのなら、フィオフィニアはフレイアシュテュアの父親が誰か、わかっていたのではないのだろうか?」

「そう思いますがのう。フィオは何一つ、語ることなく逝きましたからのう」

 後年言葉の意味を知った時、エルフォンゾは目から鱗が落ちる思いでフィオフィニアを思い起こした。

 小さなフレイアシュテュアを胸に抱きながら、物言いたげな眼差しで、もどかしげに、愛おしげに、どこか遠い場所を静かに見つめていたフィオフィニア。失われたものを捜し求めるように、ふらりと村を抜け出しては、シルヴィナの森を彷徨い歩いていた。


「わかっていたんなら、明らかにしておくべきだったんです、フレイアの為に」

 感情を押し殺したような声で、ヴェンシナは訴えた。

「誰の子供でも、私生児には違いなかったかもしれないけれど、父親が誰かさえはっきりとしていれば、フレイアは今ほど酷い扱いを受けることはなかった筈です」

「魔女のように、か?」

 問いかけるランディの黒い双眸を生真面目な瞳で見据えて、ヴェンシナはきっぱりと言い切った。

「フレイアは、魔女なんかじゃありません、絶対に」

「……そうだな、ヴェン」

 ランディはその眼差しを真摯に受け止めた。

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