●十二ペエジ

 それからあっという間に留学の準備が始まった。

 せわしない時の中で、今まで足りなかった分を取り戻すかのように、二人はとても仲が良い親子の日々を過ごした。

 旦那様の枯れて静かな佇まいは変わらなくても、その表情に穏やかな微笑みが加わる。御坊ちゃまも朗らかな笑顔を浮かべ、私を揶揄う冗談を言った。

 もう御坊ちゃまの瞳に憂いの色はない。


 そして……ついに御坊ちゃまが旅立つ日、私と旦那様は玄関で立ち止まって見送る事にした。旦那様が家の外は五月蝿過ぎて、出たくないと言うのだ。


「父上。行って参ります」


 旦那様は優しく頷いて……そして御坊ちゃまの頭を撫でた。まるで子供をあやすような仕草がくすぐったいかのように、御坊ちゃまは照れた笑みを浮かべた。


「美佐」


 御坊ちゃまに名前を呼ばれ、その真剣な眼差しに戸惑う。差し出されたのは一冊の冊子。


「お前に頼みがある。父上と美佐の日々を、これに書き記してくれないか。僕も自分の日々を冊子に書き綴る。帰ってきたら互いに交換しよう」


 その約束の意味が、じわじわと私にも理解できて、急に体温があがってきた。御坊ちゃまも緊張をしていたのかもしれない。なかなかその言葉の続きを言えずに、何度も、何度も躊躇って。

 ……そしてやっと一言、もどかしいほどに想いを混めて。


「僕を待っててほしい」


 私の胸の鼓動が早鐘のように打ち始める。返事をしなければ……と焦るのだが、上手く言葉を口にできなくて、小さく頷いた。


「美佐。お前は女中を辞めなさい」


 それまで黙って見守っていた旦那様が、突然そんな事を言いだした。私達の関係に反対なのかと怯えたが、くすりと笑う。


「美佐は悠之介の婚約者として、我が家に居候する。そういう事でよいのか? 悠之介」


 その言葉に御坊ちゃまは頬を染めて黙って頷いた。気恥ずかしくて御坊ちゃまの顔を見られず、私も思わず眼をそらす。


「若い娘さんを待たせるんだ。そういう事はきちっと決めておかないといけない」


 旦那様の言葉は、息子を諭す、立派な父親だった。




 こうして、約束を胸に、御坊ちゃま……いえ、悠之介様は旅立たれました。


 悠之介様の婚約者として、お義父様との内緒話を一つ語ろう。


「美佐。これは日誌に書かないでほしい」


 人差し指をたてて、二人だけの秘密だ……と神妙に語り始める。


「実をいうと、悠之介と初めて会った時、とても美味しそうに見えたのだ」


 お義父様が悩まし気に眉をひそめた。


「子供として扱いたいという想いと、喰らいたいという欲。その二つが私の中で渦巻いて苦しかった」


 旦那様の身体は、吸血鬼と人間双方の血が混じり合い、どちらにもなりきれない。吸血鬼の本能と人間の挟持。その2つが身の内で戦い続ける宿命なのだと悲し気に語る。


「十年、我慢してきたのに、結局……悠之介の血を吸ってしまった。そして想像以上に……甘露のように美味びみだった」


 舌なめずりをしそうな程に、うっとりと微笑むお義父様にぞくりとする。


「今側にいたら、また血を吸いたい欲求に抗えず、さりとて吸えば後悔する。その板挟みだ。だから悠之介がいなくなって、正直ほっとした」


 微笑みに艶を含ませ、さらに言葉を付け足す。


「美佐。お前の血もとても美味しい。それに……私が愛した彼女の名前も『美佐』というのだよ」


 まるで口説き文句のような一言は、墓場まで一人で抱えていこうと心に決めた。




 改めて、悠之介様との約束の為に新しい日誌を書き綴る。

 悠之介様の婚約者になった私を、お義父様は実の娘のように扱ってくださった。


「美佐。悠之介は好きにしろと言ったら怒ったが、親というのは子供の生き方に、あれこれ口出しするものなのか?」

「子供の将来が幸せになって欲しいと願うから、年長者の経験を元に、色々と助言をするのです」

「長く生きているからといって、適切な助言ができるとは限らないだろう」


 まるで理解できないという感じで首を傾げる。お義父様は普通の人よりずっと長く生きてきたはずなのに、親の気持ちがまだ理解できないようだ。

 子供に何をしたら喜ばれるのかと真面目に質問され、一つ一つ答えていく。

 きっと……悠之介様が帰られた時には、驚くほどに父親らしいことをなさるのだろう。


 お義父様と私は、今日も食事をともにする。

 悠之介様が美味しいと言っていたビーフシチューは、頬が落ちそうなほどに美味しくて。それなのにお義父様は、いまだに美味しさがわからないらしい。

 それよりも……やはり甘い物のほうがお好きなようだ。


「……美佐」


 甘い声で私の名を呼ぶ。

 私は乞われて、指先に針を突き刺した。指に小さな穴があいて、珠のような血がぽたりぽたりと滴り落ちる。真っ白なバタークリームのケーキの上に、赤いソースが美しく映えた。

 慣れた手つきで素早く止血して席に戻る。お義父様は口笛を吹きそうな程ご機嫌に、赤いソースのかかったバターケーキを口にした。


 悠之介様が帰られるまで……私が吸血紳士の誘惑に、打ち勝たなければいけない。


 ──私も吸われてみたい……と思った事は『日誌には』書かないでおこうと思う。



 桐之院家の日誌 〆

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桐之院家の日誌 斉凛 @RinItuki

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