●十一ペエジ

 旦那様が血を吸った後、気を失った御坊ちゃまを寝室に運び込む。目が覚めなかったら……と不安でつきっきりで過ごした。

 御坊ちゃまは丸一日寝て眼を覚ました。起き抜けのぼんやりとしたさまは、まだ妖婉さの残滓を残していて、その美しさに魅了されつつも恐ろしかった。


「美佐……」

「はい」

「父上が言ってたこと。わかったよ。確かに……これは危険だね。身体は貧血でくらくらするのに、気持ちはまた吸われたいと強く求める」

「御坊ちゃま」


 私が慌ててしがみついたら、御坊ちゃまはくすりと笑った。


「すまない。美佐を不安にさせて。わかっている。これで僕が取り憑かれたら……父上がどれほど苦しむか。……だから、僕も欲望に勝たないといけない」


 御坊ちゃまは私の手を握って「僕を支えてくれないか?」と囁いた。私は小さく頷いた。




 それからしばらく。旦那様は自室に引きこもり、誰とも会おうとはしなかった。

 御坊ちゃまもできるだけいつも通りに過ごそうと努力なさっていた。


 私の書いた日誌を、御坊ちゃまはお守りのように何度も見返す。


「僕の血を吸って、あの人は泣いていたんだね」


 飢えた獣が久しぶりに餌にありついたのに、悲しんでいた。それが御坊ちゃまの理性を保ったのだろう。

 それでも時折、我慢できずに衝動的に旦那様の部屋の前に訪れて、力任せに扉を殴りつけた。


「父上、また僕の血を吸ってください!」

「御坊ちゃま、お辞めください」


 慌てて私は御坊ちゃまの身体にしがみつき、扉から引きはがす。止めなければ手から血を流す程に、扉を殴り続けてしまうから。

 他の使用人が言うより、私の言葉の方がまだ理性が効くようだった。


 発作的な御坊ちゃまの行動を止めて、日常に引き戻す。

 そんな事を繰り返し、御坊ちゃまが自分から部屋の前に行かなくなった頃、旦那様がやっと部屋からでてきた。


 他の使用人達は旦那様の変わりぶりに驚いた。自分の主人が吸血鬼だと知っていても、いきなり十歳は若返って見えたのだから。

 それにあの寂し気な空気がすっかり消えて、お人が変わられたように微笑まれた。旦那様は御坊ちゃまと私だけを呼んで庭へ向かった。




 太陽の日差しが嫌いだと言っていた旦那様が、晴れた日の光を浴びて、眼を細める。


「不思議なものだな。世界というのは……これほど五月蝿いものだっただろうか」


 ぽつりと呟く声に私と御坊ちゃまは眼を合わせた。

 誰も何も言っていない。ただ……風が吹き、遠くで鳥の声が聞こえ、かすかに街の騒音が聞こえる。そう……私の耳には感じるのだが、無音の世界で長く生きていた旦那様には五月蝿かったらしい。


「父上。耳が聞こえるのですね」

「ああ……お前のおかげで十年は寿命が延びたよ。耳も聞こえるし、目もはっきり見える。体中に力があふれている」


 旦那様と世界を隔てた膜は、綺麗に消え去ったかのように、生き生きと笑った。


「もう私は大丈夫だ。だから……悠之介。欧羅巴に留学に行きなさい」

「え……?」

「行きたかったのだろう?」

「……はい」

「今は我慢が効いても、また私に吸われたくなるかもしれない。私もひさしぶりに血を味わったから、また吸いたくてたまらない。それなら今は遠くに離れたほうが都合もよいだろう」


 行きたかったはずの留学を勧められているのに、御坊ちゃまは浮かない顔をしている。

 まるで永遠の別れのようにせつなさを滲ませ、親に捨てられた子供のように、惨めに縮こまって眼を落とす。


「留学をしてしっかり学んだら……帰ってきて私に教えておくれ。お前の見聞きしたことを」


 旦那様の言葉に、御坊ちゃまは弾かれたように顔をあげた。


「父上もお元気で……僕が帰って来るまで、死にたいなどと思わないでくださいね」

「私は自分で決めた戒めを破って、また血を吸ってしまった。そう簡単には死ねなくなった」


 旦那様の寂し気な微笑みに、後悔の色が滲んで見えた。御坊ちゃまの血を吸ったことが不本意だったのだろう。

 

「すみません……僕の我儘で、吸いたくもない血を吸わせ、死にたいのに無理矢理生かして……」

「お前が気に病むことはない。お前を買わなければ、何にも囚われず、私は自由に死ねたのだ。自分の招いた種だから仕方がない」


 寂し気な空気が消え、柔らかく眼を細め、御坊ちゃまを見つめる。


「自分では父親のなりそこないだと思っていたが……。悠之介が父だと慕ってくれるなら、私が拾った責任をとって、行く末を見届けなければならないのだろう」


 そこで旦那様はくすりと微笑んで、御坊ちゃまの首筋を指先で指し示した。


「また……お前の血が吸いたい。だからまだ死にたくないと思える」


 太陽の下に似合わぬ程に、ぞくりとした色気を滴らせた囁きに、私も御坊ちゃまも怯えた。冗談のつもりだったのだろうか? 旦那様は声をあげて笑った。

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