第2話 隔絶された理想
目を覚ます。目覚めの瞬間というのは、常に億劫で憂鬱なものだ。毎日訪れるそれは、生きることの困難さと面倒くささを想起させる。母親の子宮から生まれ落ち、目を開けた瞬間に手術室のライトを見た瞬間の赤子の絶望など、計り知れぬものだろう。人は、赤子の頃の記憶をほとんど覚えていないものだが、それは実のところ幸運なのかもしれない。
室内の様子は、何らいつもと変わるところが無い。その事実は味気なく思える。ただ一つ、ベッドの傍らでフワフワと浮かび、にたにたと嗤っている血まみれのソレだけが異様だ。
「起きたか。君の理想ができあがったぞ。」
ソレは簡潔に事実を述べる。その言葉に従い、俺は自身の手や、足や、それらから受け取る感覚、それに脳裏に浮かぶあれこれなど、自身を様々な秤の上に置いて、ソレの言う「理想」を試そうとする。しかし、特に変わったところはない。無骨ながら細い手も、お世辞にも筋肉質とは言えない足も、ニコチンとカフェインで腐敗した脳も、今まで通りに「ここ」にある。
「…何が理想だ?何も変化などないように思えるが。やはりお前はただの悪戯好きの悪霊にでも過ぎなかったか。期待した俺が阿呆だった。全く、何もかも馬鹿げている。」
俺の言葉を聞くと、ソレは腹を抱えるようにして大笑いを始めた。きゃはははという、無邪気のようで黄色く五月蝿い嗤い声が部屋中に響き渡る。ぴきぴきと天井の木材が軋み、出窓に備え付けられたカーテンがばたばたと揺らぐ。室内に暴風が吹き荒れるかのように、嗤い声が空間を駆け回る。それは血腥い風となり、俺の鼻孔を刺激した。
「此の瞬間こそ僕の最も愉快なときだ。どこの誰が君が理想の君になると言ったんだい?僕は、『君に理想をあげよう』と言ったに過ぎないよ。ほら、早くその寝起きで鈍った脳漿と身体を動かして、居間へと降りてご覧よ。もう理想の『君』は起きているはずだよ。」
「何を、馬鹿らしいことを…。」
俺は馬鹿らしく思いながらも、ソレの導きに従って階段を降りていく。一段、一段と踏み降りる度に、タールが足に絡み付いたかのような重苦しい違和感を覚える。不安と好奇心と、その好奇心に対する侮蔑とは、往々にして人の足取りを重くさせるには充分すぎる理由である。
階段をゆっくりと降りきり、そろりと差し降ろした右足の下で、きしりとフローリングの廊下が音をたてる。その音に、身体が無意識にびくりと痙攣した。何か、よからぬ予感がした。音を出してはいけない、と遠くに肉食獣の気配を察知した草食獣がひっそりと岩陰で息をひそめるかのように、危機回避を自身の無意識が指示している。
「ほおら。気をつけねばならないよ。君。音を出しては、気づかれてしまうだろう。種明かしにも破綻にもまだ気が早い。」
ふわりと宙を舞いながら俺の後ろをついてきたソレが、耳元で囁く。酷く不快な、まるで猫が絞め殺されたときに発する断末魔のようなザリザリとした声だ。
「気づかれるだと?この家には貴様と俺しかおらぬだろう。」
汗が、額から滴っていることに此の時初めて気がついた。粘度の高いそれは、爽快なものとはほど遠い。汗は、額からこめかみ、頬をゆっくりと伝って、薄い無精髭に絡みつき、やがて床へと落ちていく。
「馬鹿を言うのはよしなよ。君は察しがいい。揃いも揃って阿呆な人間にしてはね。もう気がついているはずだ。ご覧よ、君の視線の先にある居間の扉の向こうを。人の気配というのは、消し切れないものさ。それが、特に何をするでなくとも、『存在する』というだけでもね。いやはや、人とは自然の中ではまさに弱者だね。脆弱で臆病で、しかも身の隠し方さえ知らないのだから、滑稽でたまらない。」
ぎりぎりと音をたてるように、強ばった首筋の筋肉が、視線をあげることを拒んでいる。本能とは、生物において最も有能なものであるに違いない。こと、それが意味の分からない恐怖に対するものであれば、尚更に。続く発汗と、くらくらと揺らぐ視界を、少しずつ正面へと引き上げていく。
身体の意に反して引き上げた視線の先には、居間へ続く扉がある。扉はガラス張りになっていて、格子状の木材で装飾されている。木材の格子が映し出すステンドグラスのような影の先、ふらふらと揺れ動くものが確かにある。
「………。あれは、人か。」
声帯が震えている。しかし、耳に届いた自分自身の声は、酷く冷徹に澄んでいる。冬の諏訪湖、その美しい湖面を思い起こさせる声音に、自身の感情を読み解く術は見当たらない。
「ああ、人だよ。ついでに言ってしまえば、『君』だね。」
格子状の影の先、居間から台所へと動く人影。その横顔を見て、俺は発作的に嘔吐した。吐瀉物が足下に広がる。酸鼻とは、巧みな比喩表現だ。それは表面上の嗅覚も、内面の悲惨さまでもたった二文字で描写する。
吐瀉物から、視線を正面へと戻す。視界が蜃気楼のように揺れ動く。記憶が、先ほどの横顔を何度も何度も何度も何度も反芻する。鏡面に映る自身の顔を想起する。想像の中の横顔が、視界と共に歪む。
ただ一つ、俺は理解している。ああ、不幸にも間違いようもない。
扉の向こう、歩き去った『アレ』は、俺だ。
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