理想と殺戮

鹽夜亮

第1話 理想の提供者

 常に、我々には我々なりの理想がある。そうだろう?



 紅くグロテスクな口腔とは対照的に、規則的に並んだ歯がにたにたと嗤っている。ソレは、何と形容すればよいか、理解のしがたい外見をしている。ソレは、目を持たない。鼻も持たない。あるのは、空虚と妙な生物感の生々しさを湛えた口だけである。

 ソレは、にたにたと歪めた唇を、歪にも器用に動かす。

「ねえ君。理想の自分になれるとしたら、それを望むかい?もちろん、それは今すぐにできるものだとして。」

 ソレは、私に語りかけている。ソレの口腔から漏れる、血腥さが鼻孔を刺激する。

「巫山戯ているのか?」

 私はソレに、馬鹿げた返答を行う。私の唇も、皮肉に歪んでいることだろう。わかりきった会話というのは、時に官能的であるほどに有意義な児戯となる。

「巫山戯ているのは君の方だね。全てわかっているのに、こうして僕に馬鹿げた質問を投げかけて、快感を得ながら無駄な時間を引き延ばしているのさ。まるで味のないガムを噛み続ける、趣味の悪い暇人のようなものだ。」

 ソレの口はよく動く。ソレの顔と呼べるであろうものの全体を巻き込んで、縦横無尽に形を変えながら、声帯のあるともないとも知れない空虚の中から、人の理解できる言葉を発する。

「ああ、そうだ。たしかに俺は暇人かもしれない。だが、お前ほど馬鹿らしい存在でもないだろう。口だけしかもたぬ、奇形の化け物め。お前が天海から舞い降りた使者にでも見えると思うのか?そうだとしたら俺は、たしかに馬鹿者だろう。だが、どこぞの泥水にでも住んでいそうな得体のしれない奇形に、何の敬畏を持てというのだ。」

「…だから、この問答が無駄で馬鹿げていると言っているのさ。僕の欲しい返答ははいかいいえ、その二つに一つだ。」

 ソレは、赤色をしている。体中から血を滴らせているかのように、血腥い。ソレは、どこか経血の中に産み落とされた赤子を連想させる。

「わかった。ならば答えよう。理想の自分になれるとしたらなりたいかどうか?だと?当たり前の話だ。答えは、是だ。俺はそれを望む。」

 ソレが顔中に口を大きく広げ、げらげらと嗤う。声は鳴り止むこともない。不快にまとわりつく夏の湿度のように、どろどろと空間を這い回るソレの嗤い声は、不愉快極まりない。

 「そうだ。それでこそ人間さ。君にはすぐに理想をあげよう。しばし眠りたまえよ。人間は睡眠に食事に、性行為、それらが大好きだろう。今できるのはその中の二つだけで、何より暇を潰すのに効果的なのは睡眠さ。そもそも、この世など起きている価値すらないのだから。」

 ソレが赤子のように小さい手を俺の前にかざす。生きたまま腹を捌かれた川魚の臓物の匂いがする。あるいは人間の子宮を捏ねくり回して引きずり出したような、生々しさと艶かしさを持った香りが鼻孔を支配する。

 睡眠は、すぐにやってきた。

 それは確かに、生きるよりも楽しく、死ぬよりも容易であろう。

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