叶うのなら、また来年

きづき

叶うのなら、また来年

 彼氏ができて、大切な友人を失った。

 結婚して、大好きな恋人を失った。



「外、涼しいよ」

 煙草を吸いにベランダへ出たはずの夫が早々に戻ってきた。何かと思えば、外の風が涼しくて気持ち良いという驚きと喜びの一報。

 例年にない暑さが、連日テレビを騒がせている。クーラーの効いた場所から一歩でも出た瞬間、むわっと全身を飲み込む熱気にうんざりする日々。実際、今日も夕方の買い物に出た時は酷い暑さだった。灼熱の太陽とアスファルトに挟まれた空間は酸素も薄い気がして、体力も気力も一気に削がれてしまった。

 だから、思いがけない涼しさに嬉しくなってしまったのだろう。気持ちはわかる。けど、そんな勢いで戻ってこなくても。バンッと扉を開け顔を覗かせた様は小学生のようで、頬が緩んだ。

「昼間は、暑かったのにね」

「ね。窓を開けても暑くなかったから、びっくりした」

 夫は普段、電子タバコを吸っている。「疲れたから、ちょっと煙草吸ってこようかな」なんて珍しい台詞を吐きながらスマホを掴んだ姿に不倫の二文字が頭をかすめたのは、ほんのついさっきの出来事だ。本気で疑ったわけじゃない。自分でも鼻で笑い飛ばした、ぱっと思い浮かんだだけの妄想。けれど今となってはその馬鹿げた迷妄さえも笑いの種となって、私の口角を持ち上げる。

 げんきんなものだ。比例して機嫌も上を向き、再びベランダへ向かった夫の後を私は自然と付いていった。

「本当だ、涼しいね」

「でしょう?」

「昨日の夜は、まだ熱帯夜って感じだったのにね」

 ともすると大きくなってしまいそうな声を、わざとらしいくらいに落として喋った。狭いマンションのベランダで、近所迷惑にならないよう。この少しだけいつもと違う夜が、特別な場所になるよう。

 夫の言った通り、心なしかひんやりとした風が剥き出しの腕を撫でる。どこかで雨でも降っているのか、しっとりとした空気を吸い込めば、確かな質量を持って肺を満たした。地球の欠片を飲み込んだみたいだな、と思う。水、陽光、星明り、植物、虫、動物、汗、はしゃぐ声。夏の風は息づくものたちの気配を孕んでいる。

 カチッ。音がして、あっという間に地球は消えた。煙草特有の匂い。どちらかと言えば不快なその煙は、けれど私の視線を絡め取っていく。

 夫は手すりに凭れかかり、ぼうっと宙を眺めていた。深緑のカーテンを背景にした窓は、この星たちを映しているのだろうか。青みがかった長い二本の指が、白く細い棒を支える。そこに薄い唇が軽く触れると、先端の朱が喜ぶように輝いた。

 さすがに煙草には嫉妬しませんよ、と心の中で呟いて段差に腰を下ろす。

「どっか、行きたいとこある?」

 私のところまでしか届かない静かな声が降ってきて、顔を上げる。目が合ったので、小首をかしげて見せた。

「ん?」

「夏休み」

「あー、夏休みね」

 夏休み、と言っても社会人のそれはたった数日だ。お盆休みというものがなく今日も仕事だった夫に合わせて、月末に二人で休みを取った。

「行きたいところねー、いっぱいありますよ」

「例えば?」

「沖縄」

「混みそうだな」

「たっちゃんは?」

「インド」

「暑そうだねぇ。現実的なところだと?」

「避暑地」

 ざっくりな回答に笑ってしまう。少なくともインドは候補に入らないねと指摘すれば、「沖縄もな」と返された。

「今からじゃ、予約も取れないだろうしね」

「人気どころは難しいだろうな」

「別に、ザ・観光地じゃなくてもいいよ。……美味しいものが食べられれば」

 気負わなくていい、という気遣いに付け足した本音は威力が大きかったようで、ぶはっと吹き出す音が響いた。

「夏バテかなぁ、食欲なぁい~って言ってたじゃん」

「そんな気持ち悪い声は出してません」

 似せる気のないモノマネを本人に披露するふざけた男を、私も大げさに睨みつける。軽く足を踏みつければ、すかさず踏み返される。指相撲のように足を踏み合いながら、何が面白いのか判然としないまま二人で忍び笑いを漏らした。

 夜。二人の間を抜ける風。月光と街灯に照らされた顔。ひそひそ声。とりとめもない会話。ふざけたやり取り。くしゃっと細くなる目元。ぽうっと明滅する煙草の火。

 ふと、ここがどこだか分からなくなる。目の前の人物に、夫じゃない姿が重なる。

 ここは、居酒屋の横路地に伸びる階段だ。二十代前半の自分が飽きることなく繰り返した、あの夜。バカ騒ぎが続く飲み会から抜け出す友人に気づき、彼の後を追った。階段に腰かけ気だるげな空気をまといながら煙草を吸う横顔へ、また逃げてる~と声をかけた。邪険にされないと分かっていたから。

 一緒にいると楽で、頭を空っぽにして喋れる友人。お互い相手もそうだと知っていたから、話しても話さなくても良かった。大勢の前だと盛り上げ役の彼に「あれ? そんなに無口でした? 寡黙キャラ似合わねーわー」と嘯けば、「そっちこそ、口悪くないっすか? 猫かぶり」と煙を吹きかけられた。愚痴や恋愛相談を軽口と同じ調子でこぼして流し合う。二人で遊びに行くことはないけれど、二人でいるとあっという間に時が過ぎる。そういう、友人。

 あるいは、家の近くにある公園の喫煙所。駄々っ子になりそうな自分を幾度も抑えた、あの夜。楽しいデートを終わらせたくなくて、どちらからともなく公園に足を向けた。どうでもいい話題が名残惜しさの上を跳ねる。「こっちおいで」と手を引かれた先は風上で、それでも顔を背けて煙を吐く恋人の横顔に胸がときめいた。

 意識的なのか無意識なのか、帰り際の彼はいつにも増して優しくなる。自分だけに向けられる気遣いは恋人の特権で、喜びと甘い優越感は次に会うまでの拠り所となった。にやけていると、取られたまま繋がっていた手の親指を唐突に押さえ込まれ始まるカウント。十まで一気に数え、「はい、負け~」と子どものように勝ち誇るから、「ずるい! 反則!」と抗議の声をあげて両手を使いやり返した。こちらの気持ちを慮り、寄り添ってくれる。喜怒哀楽を受け止めた上で、最後には笑顔をくれる。そういう、恋人。

「実家にも顔出さないとな」

 ぐっと現実に引き戻された。

 過去から今へ。

「そうだね。だいぶご無沙汰してしまったし」

 そこはマンションのベランダで、会話の相手は私の夫だ。結婚して数年経つが、幸せにしますというプロポーズの言葉を守り続けてくれている、最愛の人。

 ねえ、と心の中で話しかける。

 付き合ってる彼女の話をする時のあなたが、大好きだったよ。照れ臭そうにしながらも、ちゃっかり惚気てくるいつものパターン。飲み会でいじってくるお決まりのやり取り。雑な会話や、不機嫌を隠そうともせず八つ当たりし合った小さな諍いも、全部が楽しかった。

 デートの待ち合わせ場所で私を見つけた時のあなたが、大好きだったよ。会えない時間を埋めるようにぎゅうぎゅうと手を握り合って、キスの度にドキドキして。可愛い、好きだよ、と重ねられる甘い声。慈しむように細められた瞳。全部が愛しかった。

 ――どちらのあなたにも、もう二度と会えない。大切な友人と付き合うことになって、大好きな恋人と結婚した。それはあまりにも順調で、幸福で。けれど、それでも。失くしたものの大きさに時々ひどく胸が痛む。懐かしくて、愛しくて、無性に会いたくて。決して戻らない彼らを想うと、泣いてしまいそうになる。ねえ、本当に大好きだったんだよ。

「ついでに、向こうの方でどこか足伸ばしてみる? 墓参りはもう済ませてるだろうから、実家には軽く挨拶だけしてさ」

 そう言いながら、夫は携帯灰皿に短くなった煙草を入れた。

 小さ火が消える。

 煙だけが、細くたなびく。

「そっか。お盆なんだね」


 彼らの亡霊は、もう見えない。 

 

 


 

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叶うのなら、また来年 きづき @kiduki

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