始業時刻の迫った朝の昇降口は、最も生徒の往来が集中する時と場所であり、教室へと向かうたくさんの生徒たちの姿や、あちこちでなされる話し声が、目にも耳にも賑わいをもたらしてくる。

 靴を脱ぎ、足場のすのこに足を踏み出すと、ガタという音がした。脚の具合が悪くなっているのだろう。

 上履きに履き替えようとしていると、隣でアキラが、驚いたような小さい声を漏らした。意外なものを見たような顔をしているアキラに、どうしたのかと訊ねると、

「ないんだ……いや、あると言った方がいいのかな」

「はぁ?」

 靴箱を見つめたまま返してくる、要領を得ない答えにたまらなくなったわたしは、アキラを手でどかし、わたしとは一つ挟んで右隣にあるアキラの靴箱の中を覗いてみた。

「あら、上履きがないじゃない。ん? 何かしらこの紙……」

 アキラの靴箱には、本来あるはずの上履きが入っていなかった。その代わりに、本来あるはずのない謎の紙切れが一枚置かれていた。

 アキラの言葉の意味はわかったが、状況の意味は依然としてわからない。

 わたしは、問題の紙切れを靴箱から取り出してみた。

 それは文字通り問題だった。

 英語の問題用紙であろうか。元々はA3サイズで、それが半分に切られたもののようだ。そのため現在はA4サイズとなった用紙には、英単語や英文の書かれた問題が印刷されている。左上に慌てて書かれたような『①』という鉛筆の書き跡がある以外には、ペン類による書き込みはされておらず、靴箱に置かれた際に付着したと思われる少しの汚れを除けば、新品のように折れ目もしわもない。

 そういえば、英語の問題が刷られた側が裏になって置かれていたなと思い出し、紙を裏返してみる。するとその真っ白な部分には、次のような一文が横書きで印刷されていた。


  『羽左の上履きはこの私が盗んだ』


「はあぁ?」

 この不可思議な紙切れによると、どうやらわたしの上履きが何者かに盗まれたらしい。

 わたしは無意識に、半年間使用してきた、正真正銘自らの所有物である上履きを履いた足を、ドンと踏みつけていたようで、足場のすのこがガタンと大きな音を立てた。

「うわっ、びっくりしたぁ」

 ぴょんと飛び上がったアキラが心臓のあたりを押さえているので、

「びっくりしているのはこっちよ!」

 と、自分の立てた音とアキラののんきな様子に、妙に腹立たしくなったわたしは、つい声を荒らげてしまった。

 ハッと周りを見ると、登校してきた生徒たちが、胸や耳を押さえながら、奇異なものを見るような目でこちらを見つめている。時すでに遅しとは知りながらも、慌ててオホホ、と口元に手を当てて取り繕う。

「そ、それより、これを見なさいよ」

 くるりとアキラに向き直り、いまや忌々しいことこの上ない存在となった紙切れを差し出す。

「ムッ! これは」

 受け取った紙切れを両手に持ち、まじまじと観察している。

「何か心当たりでもあるの?」

「いや、そうじゃないんだけど。標的を間違えているのがおもしろ……んんっ、興味深いと思って」

「犯人が聞いていたら、後ろから殴られるわよ……ん、ということは、本当ならわたしの上履きが盗まれていたかもしれないってことじゃない。誰よ、その不届き者は!」

「し、知らないよ……」

 なぜかアキラの頭がグワングワンと揺れている。いつのまにか、わたしの手がアキラの両肩を掴んでいるが、このこととはおそらく関係ないだろう。

「この品行方正なわたしに誰かが悪意を持っているなんて、許せない! ねえ、あんた、犯人を捜すのを手伝いなさい!」

「え、そんなの面倒くさグワングワン」

 なぜかアキラが呻きながら揺れている。いつのまにか、わたしの手がアキラの首を掴んでいるが、このこととは絶対関係ないだろう。

「手伝いなさい、ね?」

「ぐ……は、はいぃ……」

「よし。となれば、今日は一日捜査よ! 楽しくなってきたわ」

 周りの痛々しい視線を無視し、両手を握って気合を入れていると、

「と、とりあえず、スリッパを……」

 身体をフラフラさせながら、アキラは生徒用のスリッパが置かれている靴箱を探しに行った。

 予鈴が鳴りはじめたので、さて教室に行くか、と廊下を歩きだすと、後ろから緑のスリッパを履いたアキラが、パスッパスッという気の抜ける足音とともに追いかけてきた。

 わたしは、そんなアキラの姿に、緑のカメのイメージを重ね、微笑ましい心地がした。


     *


「パーちゃん、本当に誰かに恨まれているということはないの?」

「だーかーら、わたしに限ってそんなことあるわけないわ。――あと、その名前で呼ばないでって言っているでしょ!」

 四階にある一年一組の教室への道すがら、さっそく〈事件〉の検討を始めたわたしとアキラである。

 ちなみに、『パーちゃん』というのは、わたしの下の名前のユカリを意味する、英語のパープルが縮まってできた、小さい頃からのあだ名である。アキラが幼稚園時代に発案したもので、小学校を卒業するまではわたしもその呼び名を気に入っていた。やがて中学生となり、誰もが経験する類いの恥ずかしさを覚えはじめたわたしは、アキラに〈パーちゃん禁止令〉をあたえるも、つい口が滑ってしまうアキラによって、恥辱の三年間を送ることとなった。以来、アキラの口からその名前が出てくることには耐えられず、無駄とはわかっていてもこうして窘めてしまうのだ。

 話を戻すと、捜査のとっかかりとして、犯人に心当たりのある人物がいるか、ということから始まったのだった。

「でも、ユカリちゃんに少しでも悪意を持っていないと、あんなことしないと思うなぁ。まさか、ぼくの方が標的だった、なんてことも考えにくいし」

「そうよ! あんたを恨んでいる人が、あんたを困らせようと上履きを盗んでいったのよ。あの紙切れ――ううん、何かいい呼び方はないかしら? 犯行予告状……は違うわね。もう犯行は済んでいるわけだし。それなら犯行完了状? ダメ、これもしっくりこないわ。『盗んだよ』っていう報告だから……報告書!」

「事務的だねぇ」

「じゃあもう……報告状、報告状にしましょう! それで犯人は、あの報告状に名前を書き間違えちゃったのよ」

「ぼくの名前と間違えて打ったとは思えないんだけどなぁ。『羽左』って、ただでさえ変換しにくい名前なんだし」

「む、それは確かに……。なら、こういうのはどうかしら? 犯人が、わたしとあんたの名前を取り違えていた可能性」

「犯人がぼくの名前を羽左だと思っていた、ってこと? それは話がこんがらがっているよ、ユカリちゃん。そういう犯人なら、盗むはずないでしょ?」

「そ、そうよね……もちろん、そんなことはわかっていたわよ」

 それぞれの靴箱には、持ち主がわかるようにネームプレートが扉にはめられている。したがって、犯人がターゲットの名前をAだと思っているなら、上履きを盗むはずである。

「ま、現時点では結論を出すことはできないね」

 推理の階段をひとまず上りきったところで、わたしたちは一年生の教室が並ぶ四階に到着した。

 廊下へ曲がると、前方から、人目を引く一人の女子生徒がこちらに向かってくるところだった。

 人目を引くというのは、彼女が、あわや床まで届くかというくらいに裾を伸ばしたスカートを穿いているからだ。

 彼女の名前は、香月こうづきミオ。髪こそ染めてはいないが、見た目は完全に不良のそれであり、実際、彼女は、中学時代、かなり荒れた生徒だった。

 後方にあるトイレへ行くのだろう。すれ違いざまに、わたしは香月の後ろ姿を、正確に言えば、紺色が一寸のむらなく隅々まで広がっている特徴的なスカートの揺れを見つめながら、もしかすると、香月がアキラの上履きを盗んだ犯人ではないか、という思いにとらわれた。

「ユカリちゃん、中学の時、香月さんと一悶着あったよね」

 そう、そのことを思い出していたのだ。

 香月とわたしたちは、同じ公立中学に通っていた。

 わたしは、アキラや他のいろんな人から『パーちゃん』と呼ばれる学校生活を送っていたわけだが、それでも人並みに楽しく貴重な時間を過ごしていた。

 中学最後の夏休みのある日、当時の友達数人と、電車を使って買い物へでかけた。その帰り道、友達と別れて一人になった後、一軒のコンビニの前を通った。コンビニの前ではよくあることだが、雑誌コーナーの窓のあたりで、素行の悪そうな男女が集団でたむろしていることの多いコンビニだった。だがその時は、そのような光景は見られず、たった一人、どう見ても未成年としか思われない女の子が、物憂げにタバコをふかしていた。それが、香月だった。

 今と変わらず正義感の強かったわたしは、ずかずかと彼女のもとへ歩み寄り、タバコを持っていた方の手首を掴み、ありきたりな注意の言葉を吐きながら、指からタバコを抜き取り、足で踏んづけた。香月は、突然のことにしばらくは目を丸くしていたが、何か苛ついたような声を発したかと思うと、こちらに殴りかかってきた。わたしは、素晴らしい運動神経に、素晴らしい頭脳を持っていたので、しゃがんで拳をかわすと、空振った彼女の腕と自分の腕を絡め、アームロックをきめた。「痛えよ! 痛えよ……」と呻くので、ものの数秒で解放してやると、彼女は長いスカートを翻し、どこかへ駆けていった。走りだす瞬間、彼女の目には、涙が添えられていたように見えた。その涙が、痛みによるものだったのか、それとも他の原因によるものだったのか、わたしにはわからなかった。

 夏休み明けに見かけた香月は、なぜか金色に染めていた髪を黒に戻していた。つるんでいた不良仲間と縁を切ったという噂が流れてきたりもした。その代わりに、わたしは、学校で彼女と顔を合わせる度に睨みつけられるようになった。

「香月さん、たぶん、わたしのこと嫌っているものねぇ」

 今も、通り過ぎざまに睨まれたし。

「ユカリちゃん……さっき自分で言っていたこと覚えている?」

「う、恨まれてはいないわよ、きっと……。嫌いだけど、好き、みたいな?」

「はぁ……まあその調子で容疑者の見当をつけていってくれたら助かるよ」

「だから、わたしは悪い人間じゃないっての!」

 と叫んだタイミングで本鈴が鳴った。

 わたしとアキラは、教室までの残り数メートルを急いで駆けた。


     *


 結果から言うと、報告状と盗まれた上履きの矛盾は、あっけなく解消された。

 担任の鷲塚わしづか先生が、朝のホームルームを終えて教室を出ていくと、一人の男子生徒がわたしの机の前までやって来た。

「よう、羽左。今日は何の日か知ってるか?」

「おはよう、加持かじくん。今日は曇りのち雨らしいわよ」

「そうじゃなくて、今日は二月十四日だろ」

「そっか、バレンタイン。といっても、わたしには関係ないし」

「お前……女子としてそれはどうなんだ? まあそれはいいや。ところが関係あるんだよ、羽左とバレンタインには」

「どういうことよ」

「昨日から、葉山はやまと賭けをしててさ。お前がバレンタインチョコを貰うかどうかで」

 『女子として~』の部分に対して疑問を発したのだが、わたしは寛容なので、スルーしておくことにした。

「人を勝手に賭けの対象にしないでちょうだい。というか、わたしは女の子なんですけど」

「そんなことはわかってるよ。でもさ、葉山のやつが、『羽左は女子から本命チョコを貰うタイプの女子だ』つって聞かないんだよ。俺が『漫画の読みすぎだ』って言ったら、賭けをする流れになっちまって」

 心底くだらない、というため息が出る。こちらはもっと深刻な問題に悩まされているというのに。

「ふーん。よくわからないけど、わたしは何も貰っていないわ」

「今朝、靴箱に何も入ってなかったんだな?」

「そうよ」

「よしっ、賭けは俺の勝ちだ! へへ、だぜ」

「計画通り?」

 不思議に思って訊ねると、加持は小声になって、

「葉山には内緒にしてほしいんだけどさ。実は、イカサマをしたんだよ」

 加持がおこなったイカサマとは、次のようなことだったらしい。

 昨夜、スマホで語らっていた加持と葉山は、先に述べたような経緯で賭けをすることになった。加持が提案した勝負の内容は、『羽左が、二月十四日の朝、自分の靴箱からチョコを発見するかどうか』。まだるっこしい言い回しを使用しているのは、そこにイカサマのつけ入る隙をあたえるためだという。禁止事項として、『チョコを自作自演してはいけない』、『協力者にチョコを入れさせてはいけない』の二点を設定することに両者が同意し、賭けが成立となった。

 翌朝、イカサマのために、開門時間である七時半に登校してきた加持がおこなったこととは、わたしとアキラの靴箱にはめられているネームプレートを入れ替えることだった。加持は、アキラがクラスメイトの中で最もチョコを貰えなさそうな人間であると見定め、本来わたしがその持ち主である靴箱を、アキラの靴箱に偽装し、わたしの靴箱にチョコが入れられる可能性を低くしたのだ。他の女子の靴箱と入れ替えることも考慮したそうだが、女子には友チョコという文化があるため、その危険を回避したという。我が校では、女子の間で、送り主の名を伏せて朝に友チョコを靴箱に入れておき、後でその答え合わせをするという遊びが毎年おこなわれている。そのため、他の女子のネームプレートがはめられたわたしの靴箱だと、『チョコ』が入れられるおそれがあったのだ。よって、加持は、男子の中からチョコを貰わなさそうな生徒を選ぶ必要があった、というわけだ。

 イカサマ行為を終えた後、加持は、学校の最寄り駅まで戻り、葉山が改札から出てくるところを確認すると、同じ電車から降りてきた風を装って声をかけ、一緒に登校してきた。怪しまれないよう葉山とずっと行動をともにしている間に、頼んでおいた協力者が、わたしたちが登校してくる直前に、ネームプレートを元通りにした。

 以上が、後処理までを含めたイカサマの全容である。

「なんだ、そんなことだったのね……」

「む、そんなとはなんだ、そんなとは。智略に満ちた、と言ってくれ」

 教室の扉が開く音が聞こえたので、そちらへ頭を向けると、見事に騙された形となった葉山が、隣のクラスからやって来たところだった。

 わたしと加持の顔を見つけ、足早に近づいてくるやいなや、

「加持、結果は?」

「ああ、もう出てるぜ。本人に訊いてみな」

「羽左さん、靴箱にチョコが入っていたかい?」

 わたしの机に手をつき、ぐっと顔を近づけてきた葉山から視線をずらすと、加持がウインクをしていた。ハアッとため息を吐き、

「いいえ、わたしの靴箱には何も入っていなかったわ」

「本当かい?」

「ええ。ついでに、わたしが加持くんと協力関係にあるということも、誓ってないわ」

「くっ、そうか……」

 ルールに抵触していない以上、賭けは加持の勝ちとするべきだろう。それに、なかなかうまいことを思いつくものだという賞賛の気持ちも少なからずあった。また実際、わたしの靴箱に偽装されていたアキラの靴箱に、入っていなかったのだ。どちらにしろ、結果は変わらない。

「さあ、清女せいじょの女の子を紹介してもらおうか」

「しかたない……彼女に頼んでみるよ」

 去っていく二人の後ろ姿を呆れながら見つめていると、入れ替わりにアキラが机のそばに立っていた。

「ちょっと気づいたことがあるんだけど」

「鹿目くん、こっちも進展があったわよ」

「へぇ、何?」

「報告状の矛盾が解けたのよ!」

 わたしは、さきほどの加持と葉山の件について説明をした。加持がイカサマの手段にアキラを選んだ理由の部分で、彼は「アハハ……」と苦笑いしていた。

「なるほど、そんなことが。つまり、開門時刻の七時半から、ぼくたちが登校してくる少し前の八時二十分頃までの間、お互いのネームプレートが入れ替わっていた。犯人が、上履きを盗み、報告状を置いていったのはその間のことで、ぼくの靴箱をユカリちゃんの靴箱と勘違いしてしまった、と」

「そうよ。これで、しぼーすいてーじこく? が明らかになったわけね」

「死亡推定時刻、ね。というか、誰も死んでいないけど」

「まあいいじゃない。それで、そっちも何か進展があったんでしょ? はやく教えなさい」

「うん。でも、もう授業が始まっちゃうよ」

「あら、ほんとね。じゃあ、次の休み時間に教えてちょうだい」

 了解、と言い、アキラが自分の席へと戻っていく。

 そういえば、アキラに犯人捜しを手伝うように命じた時はあんなに面倒くさがっていたのに、今は、積極的というか、協力的な様子だ。こちらとしてはありがたいのだが、少しだけ妙に思える。

 席に着いたアキラの方を見ると、真剣な表情で、一時限目の古典の教科書やノートを取り出していた。

 あれ、わたし、古文の予習はしていたかしら?

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