第6話ー障害ー(3)


「あいつの病気…最近になって、かなり進行しちまっててなぁ…。」


「え…?」

「あいつは、光は…お前には言いたくなかったんだろうがな。もう、描けないかも知れないんだ…。」


―え…?―


「若い分、進行も早いらしくてな。もう、随分と日常生活にも支障が出てる…。

一緒にいて気づかなかったか…?」

僕は慌ててかぶりを振る。全然、気づかなかった。

光さんはいつだって、そんな素振りを見せた事はない。


「そうか…。」

先生は目を伏せた。見つめた少し先に、陽が沈んで影が落ちる。

「あいつも普段は器用に見せてて、意外と大切になっちまうと、不器用なんだなぁ。」


「え…?」


先生の口元が、フッと緩む。

物思いにふけっている様が、憂いているように見える。

先生は、そのまま流しの淵に腰かけ、煙草に火をつけた。


「あいつは、お前に背負わせたくなかったんだ。自分といる事で、不自由になってしまう事を恐れてる…。」


「そんなこと…‼」

最後まで、言えなかった。

いざ、一考してみると簡単に口にしていいものか、悩む。

先生が窓を開け、煙草の煙を外に逃がす。


「馬鹿だよなぁ、本当…。」

いつの間にか、涙は止まっていた。


「…そう、ですね…。」


それどころか、もう悲しくはない。今、僕にあるのは別の感情だ。

それはこの先…。光さんといる時…。

生活の上で、不自由に思う事はあるかも知れない。

それでも、僕が光さんを見捨てる事は絶対にない。


―光さん自身を不自由だとは思わない。―


けれど、光さんは僕が離れていくとでも思っていたのだろうか…。

それとも、そうした方が僕の為だとでも…?

そう思うと、何だか悲しみよりも、憤りさえ湧いてきている。


「あいつを責めないでやってくれ…。」


「え…?」

先生は、窓の外から僕に視線を移した。反らす事のない瞳が、心を見透かされているようである。

夕闇が、先生を包んでいた。

外はすっかり暗い。


「じゃあ、帰るか…。」

一服が終わり、先生は窓を閉めた。

僕も、鞄を開け、携帯の時計を見る。時刻は、七時半を過ぎていた。

「もう、こんな暗いしな。あんまり生徒を長居させると、俺が怒られるんだ。」

ワハハと談笑し、先生は灰皿に溜まった灰を捨てた。

促されるまま、僕は教室を出る。


夕闇の中。

家に帰る途中…。街頭のない道すがら、光さんを想った。

いつ、見えなくなるか…。それは、彼自身にも分からないのだ。

遺伝性が強く、治る見込みのない病。

そんな宿命だ。

彼にとって、近い内に全ての視力が失われる時が来てもおかしくはない。


明日、明後日…。あるいは、あの絵が完成する前か…。

その後かもしれない。

そうなれば、あのアトリエに散乱している本や、資料。それら全ての物は、彼の行く手を阻む大きな障害となるだろう…。


それだけではない。

今まで当たり前だった何もかもが、妨げとなる。

今、僕が歩いているこの道だって、すぐそばには車道がある。

それに、健常な歩行者が必ずしも前を向いて歩いているとも限らない。たった今、すれ違った人も携帯を見ながら、歩いていた。


もし、ああいう人と白杖を持った人がぶつかりでもしたら…。


世の中のどこにでもバリアフリーがある訳では無い。駅の中だって…。

大学の階段だって…。

目の見える僕が、考えられるだけでもこんなにあるのだ。


だけど、それが〝普通〟になる。

光を失った上での、当たり前になる。


それでも彼は、その闇と一生向き合っていかなければならない。


そして…その時、僕は…。

隣でどれ程の無力さを知ればよいのだろう…。


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