第4話ー錯覚ー(3)


先生には、電話で帰ることを伝えた。

電話先で「車で送るのに。」という先生をよそに、地下鉄へと急いだ。

それくらい、長くあの場にいるのは耐えられなかった。


僕は、醜い…。顔も、心根も。

どうして、光さんの栄誉を素直に喜べないのだろう…。

電車の音が妙にうるさく、地下鉄の電車はこんなだったかと考える。

それはまだ、あの会場の騒々しさが残っているようで、僕の頭を一杯にした。


電車を降りた僕は、大学に戻っていた。

一人家に帰る気分でもなかった。

大学に着いた時、行先は決まっていた。あのアトリエに行きたかった。

何故か、あそこしか浮かばなかった。教室からの最短ルートで、主のいないアトリエに入る。

これで、二回目の不法侵入となる。


アトリエは、案の定散らかっていた。

二週間ほど来ていないだけで、こんなになってしまうのか。と思いつつも、窓際の椅子に座る。

ここだけはいつも空いている。

窓を開け、一時間ほどそこにいた。

座っている内に、それくらいの時間が経っていた。


でも、心の中の騒音は消えたようだ。

今は蝉の鳴き声と、風に揺れる木々の音しかしていない。

帰ろう…。

やっと帰る気になった。窓に入る風も涼しくなり、日差しも落ち着いている。

窓を閉めようと、外の方に目をやった時…。

誰かが、こちらに向かって歩いて来るのが見えた。

植草先生かもしれない。

でも、それにしては妙に服装がしっかりとしている。

もしかして…。


光さんだ。


まだ、個展は終わっていないはずなのに…。

まさか、あの会場から僕を追いかけて来たのか?僕は、予想以上に混乱した。

今、あの人にだけは会いたくない。

確か、前にもこんな事があった。


人影が大きくなる前に、窓を閉めた。

窓の下で出来るだけ小さくうずくまる。

思考が停止して、いい案が思いつかなかった。

もう、光さんが引き返してくれることを祈るしかない。


でも、そうはならなかった。

「わあ‼」

凄い音で窓が開き、僕は驚いて後ろにのけぞる。

やはり、僕の祈りは届かなかったらしい。


「やあ‼」光さんは窓の外から身を乗り出した。

相変わらず、勝手に入って来ている僕を責める様子はない。

「光さん…個展はいいんですか?」と恐々聞くと、光さんは「うん、ずっといてもしょうがないから。」とあっけらかんとした。


光さんは、そのままアトリエの中に入って来た。

僕をモデルにまた描いていいかと問う。

僕はそこに倒れたまま、曖昧な返事をすると立ち上がった。

光さんは早速、スケッチブックを開いている。


「なんか、久しぶりだね。こうゆうの。」

「ですね…。」

無意識に笑顔が強張る。

久々の緊張からか、顔を合わせるのが何となく気まずい。

僕は椅子に座り、目を反らした。


「何で先に帰っちゃったの?」

ドキっとした。


心臓が脈打つのが分かる。

けれど、この狭い空間に逃げ場はない。

「あ…いや…。」


おどおどしていると、光さんはそっけなく遮った。

「言いたくないならいいや。」


「え…いや…。」


光さんが急に冷たくなったように感じる。

怒っているのか…。僕は焦った。


「ここに寄りたくなって…!」


「え?あぁ…秋君もそう思ってたんだ。でも先生、心配してたよ。」

「あ、ですよね。すいません。」

「うん、学校で会ったら言っときな。」

良かった。怒ってはいなかったようだ。


光さんは微笑むと、「そう言えばさ…。」と話を変えた。

「あの時、なんて言おうとしてたの?」


「え…?」

「ほら、あの時。絵を見てた時…。」

あぁ…。あの時か。


「絵に…寂しさを感じて…。」

「ふぅん。」光さんは、描きながら相槌で流した。

何かを考えている風にも見えた。


「光さんは、どうして僕なんかを描きたいんですか?」


「え…?」


今度は僕から質問を変えた。

ずっと、聞きたかったことだった。


でも、光さんはすぐには答えてくれなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る