第3話ーループー(3)
ある日の昼下がり。
母が、大学に来た。父の再婚相手の母だ。
仕事の忙しい父に代わって、僕の様子を見に来たらしい。
半袖の黒のブラウスと、薄茶色のボトムス。風に揺れる華奢なイヤリング。
白いレースの日傘を持つ手は、綺麗なネイルが光っている。
「少し、あそこで話しましょ。」
母は、大学近くのカフェに僕を誘った。
僕は一度も入った事は無いが、大学の生徒達の間ではなじみの店だ。
店のドアを開ける時、母の覚えのある香水の香りがほのかにした。
「涼しいわ~。本当に暑かったんだから。」
煩わしそうに母は言った。
夏の暑さのせいか僕のせいか…。どちらかは分からない。
だが、そのどちらもなのだろう。
特にこの人の場合は…。そう思った。
「うん…。忙しいのに、ごめん。」
そう言うしかなかった。
急に、前髪を引っ張る癖が止まらなくなる。
ウエイトレスが注文を聞きに来て、母はアイスコーヒーを頼んだ。
「あなたも同じのでいいわよね?」と母は僕の分を頼む。
閑散とした店内。
昼の時間帯を過ぎた事で、客足はすっかりいなくなっていた。
店に流れる音楽と、コーヒーを作る音。
コーヒーを待つ間、その音だけが存在していた。
父さんがいないと、こうゆう事はよくある。
「いつ見ても辛気臭い顔してるのね。」
沈黙は母の方から破った。コーヒーが到着してすぐだった。
「その顔、やめてよ。コーヒーが不味くなりそう。」
「うん…ごめん。」
「謝らないでってば!高いお金払って美大に行ってるんだから、もっと楽しそうな顔しなさいよ‼」
冷たく苦いコーヒーが、喉の奥の奥に入っていく。
母は、父がいない時に限ってこの手の事を言う。
母は氷をかき回すストローの手を速めた。
「あの人も甘やかしすぎなのよ…。」
相変わらずだ。この人は何も変わってない。
僕が傷ついている事。
ずっと、あの家から逃げたかった事。僕がコーヒーを苦手な事…。
この人は知らない。
いや、知りたいとも思っていないのかもしれない。
父さんなら違う…。こんな事は言わない。
きっと、学校は楽しいかとか、友達は出来たかとか…。
ご飯はしっかり食べてるか、とか。そんな話をするだろう。
結局、僕はアイスコーヒーを半分も飲めなかった。
久々だ。この居心地の悪さは。
それを、最近まで忘れていたかと思うと、つくづくおめでたい。
「ちょっと!聞いてるの?」
母が突然、大きな声を出した。
もう既に、母のコーヒーは底をついている。
「少しくらい連絡しなさいよ。あの人、心配してたみたいだから。いいわね!」
「あ…うん。そのうちするよ。」
僕は真っ黒なコーヒーを眺めながら、気のない返事をした。
入学してから半年以上がたったが、父に連絡をした事は無い。
昔に引き戻される。
無意識に、そんな感じがしたからかもしれない。
「本当…。可愛くない子…。」
母は、ため息をつくと側にあったレシートを取った。
三十分もない会話。そこに親子らしい言葉のやり取りは無かった。
「じゃあ、私は用があるから。」
「うん…。父さんに宜しく。」
母はそっけなくそう言った。先に店を出たのは母だった。
足早に席を立つ母を背に、僕もそう返す。
コーヒーに映る自分の顔。
その顔をストローでかき回しながら、ゆっくりと歪めた。
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